18

「勝手に出て行かないってわかってるよ」

 阿久津さんはおれの顔を見てニッと笑った。「聖くんは、晴ちゃんを置いてどこかに行ったりできないもんね」

 そう言っておれの手を離し、膝の上で大人しく眠っている晴の頭を撫でた。

 何と言い返していいかわからなかった。阿久津さんはすいっと立ち上がると「おやすみ」と言って襖を開けた。開けてすぐのところでまたしゃがみ込み、盛り塩が乗っていた皿を取ってまた立ち上がる。もうおれに隠すつもりがないのか、ぐずぐずに崩れて黒ずんだ塩の山がよく見えた。襖が閉まる直前、おれはようやく口を開いて、

「阿久津さん、ねえさんがどこに行ったかわからないですか?」

 と声をかけた。阿久津さんが振り返った。

「わかるわけないじゃん。ごめんね」

 今度こそ襖は完全に閉まった。

 檻の中にいるような気分だった。もちろん、おれたちをこの部屋に閉じ込めているのはただの襖で、鍵がついているわけでも鋼鉄でできているわけでも何でもない。その気になればこの部屋も、この家も簡単に出て行けるということはわかっていた。でも、する気になれなかった。

 もしここを出たとして、晴を連れてどこに行けばいい? 近くのホテルか? それとも車で夜通し走り続ける? 無理だ。

 どうせまたすぐ追いつかれるに決まっている。阿久津さんではない、山から追ってきたものに。

 晴が寝返りをうって、おれの膝の上からごろんと落ちた。まだすやすやと眠っている。ねえさんがいなくなったことを、晴はどう思っているのだろう?

(なんとも思っていなかったらどうしよう)

 ふとそう考えて、心がざわざわした。おれは兄のことを思い出していた。ねえさんが亡くなったときも、兄はいつもと変わらず穏やかに笑っていた。

(お母さんはねぇ、とうとうお山に怒られちゃった。しかたないねぇ)

 泣いている晴にそう言い聞かせている兄の傍らに、ねえさんの幽霊が立っているのをおれは見た。ねえさんは何も言わなかったけれど、ものすごく怒っていた。おれにはねえさんの気持ちがよくわかった。

 それからねえさんはずっとおれたちと一緒にいたのだ。もしも本当にいなくなってしまったのだとしたら、いよいよまずいことが起こっているのに違いなかった。


 夜が明けた。

 幸いあの後は何かが窓の外にやってくるということもなく、晴が目覚めて不審なことを言い出したりもしなかった。空が白み始めると急に力が抜けてしまい、おれは晴の隣に横になってそのまま眠ってしまった。

 目が覚めたのは朝の九時過ぎだった。まだ全然睡眠が足りていないが、とっくに着替えを終えて身支度を済ませたらしい晴に起こされてしまったので起きるほかない。居間のテーブルにラップをかけた朝食が用意されていた。

「きっちゃんおきないから、さきにたべちゃった」

「阿久津さんは?」

「あくつちゃん、でかけたよ」

 外出しているらしい。平日だから出勤したのかなと思いきや、三和土には仕事用らしきパンプスが置き去りになっていた。それにあの後、おれたちをほったらかして仕事に行くようには思えなかった。

 ねえさんはやっぱりどこにもいない。何度か声をかけたが、姿も見えなければ声が聞こえることもなかった。

「おかあさん、いなくなっちゃったね」

 晴がつぶやいた。「おかあさん、おばけだったもんね」

 ねえさんがいなくなって、晴はひどく荒れるかもしれない。そしたらどうやって慰めればいいんだろう――そう心配していたけれど、晴は思った以上に落ち着いていた。何とも思っていないのではなく、晴なりに、もうねえさんは死んだ人なのだということを理解しているらしい。そのことがおれには、ひどく痛々しく思えた。

「きょうは本、よまない日でいい?」

 晴がそう聞いてきたので、おれは「いいよ」と答えた。読みたくないのだろう。晴の音読を聞くのは、ずっとねえさんの役目だった。

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