16
「晴、ねえさんは?」
尋ねたが、晴は目をぱちぱちさせて黙っている。
「知らないのか?」
「うん……」
おれはもう一度辺りを見回した。ねえさんが晴を置いていなくなることは考えにくい。ちょっとトイレに行くとか、喉が渇いたから水を飲みにいくとか、そういうことすらねえさんはしないはずだ。少なくともおれが眠っている間は、ずっと晴のそばにいるだろう。ねえさんに「そういうこと」は必要ないはずだ。
「晴、お前いつから起きてた?」
「さっき」
「誰かと話してなかったか?」
「うん……あのね、そとにきてたから」
「何が?」
「山からくるの」
その言葉を聞いた途端、全身の毛がざわっと逆立つような気配がした。もうここが見つかっている。追いつかれた、と思うと生きた心地がしなかった。
「晴!」おれは思わず大きな声を出した。「そんな奴と話すな! 静かにしてなきゃ駄目だろ!」
「だって……」
晴はぎゅっと眉をひそめて泣きそうな顔をした。こんな顔をされることは滅多にない。冷静さを失っていたことに気づいたおれは「ごめん」と言って晴の頭をなでながら、必死で落ち着こうと空いた手を握り締めた。
「とにかくさ、こんな時間に外から来るのは絶対悪いやつだから」
「うん」と、晴はうなずいた。
「そういう奴と会ったり話したりしちゃ駄目なんだよ。いい?」
「うん」
晴はもう一度うなずくと、おれに抱きついてきた。厚手のパジャマを着た晴の体はちゃんと暖かくて、生きている人間の手触りがした。
でも、ねえさんはどこに行ったんだろう。
おれたちは五分ほどねえさんを待った。晴はおれの膝を枕に眠ってしまい、おれはそのときようやく(さっき外にいたやつと何を話してたのか聞けばよかった)と思ったが、揺り動かすと「うー!」っと不機嫌そうな声をあげて手をはねのけられてしまい、一旦諦めることにした。こうなると晴は話すどころではない。
ねえさんは一向に姿を現さない。こんな長時間、おれにも晴にも何も言わずにいなくなるなんて、あれから一度もなかったことなのに。
おれは少し迷って、結局阿久津さんに電話をした。心配だったが、とにかく阿久津さんに聞くよりほかにできることがない。おれがここを離れてねえさんを探しにいくわけにはいかなかった。
『もしもし?』
阿久津さんはすぐに電話に出てくれた。その声を聞いた瞬間、おれの脳裏をケージと動物の骨が、そしてトイレの中から覗いていた誰かの目がよぎった。
(本当に阿久津さんを信用して大丈夫なんだろうか)
おれが言葉に詰まっているうちに、阿久津さんは『何かあった? すぐに行くね』と言って電話を切った。少しすると上階から引き戸を閉める音がして、階段を下りる音がそれに続いた。
座敷に顔を出した阿久津さんは、まだ普段着のままだった。晴が眠っているのに気を遣ったのだろう、「どうしたの?」と小声で尋ねながら座敷に入ってきた。
「あの、阿久津さん……」
そこまで言って、おれはまた言葉に詰まった。本当に大丈夫か? この人にねえさんのことを尋ねたりしていいのか?
(マジで何やってんだよ、ねえさん……)
ここからはあらゆる決断をおれが一人でしなければならないのだと思うと、今更のように胸の中に重りを落とされたような気分になった。
「あの……聖くん、大丈夫?」
阿久津さんが心配そうな顔をしながら、おれたちの横に膝をつき、顔を覗き込んできた。
「阿久津さん」
おれは思い切って聞いてみることにした。わかるはずだ。阿久津さんならきっとわかってくれる。阿久津さんは「自分には大したことはできない」とか「力が足りない」とか言うけれど、それでも本物の霊能者ではあるはずだ。今までだって阿久津さんは、ねえさんの分までコップを持ってきてくれたじゃないか。わかるはずだ。
「あの――姉を知りませんか? 今までずっと一緒にいて……」
「お姉さん?」阿久津さんが怪訝そうな顔をした。「お姉さんが一緒にいたの?」
途端に、体中から力が抜けていくような気持ちになった。阿久津さんにねえさんのことを聞いても、おそらく無意味だということがわかったからだった。
ねえさんは――文坂空美は、一年以上前に死んでいる。
おれたちと一緒にいたのは幽霊なのだ。そんなことは阿久津さんにもわかっていると思っていたのに、そうではなかった。
阿久津さんは霊能者のはずなのに。
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