第1章(1)

 平成元年。父が他界した。突然だった。毎日、当たり前のように職場へ向かい、当たり前のように帰宅をして、食事を取り、風呂に入り、寝床についていた父が、突然いなくなった。


 その日はいつものように家族で夕食を済ませ、父、兄と弟、私、母と順番に風呂に入り、こどもたちはいつもより早く寝室へ入った。


「おやすみなさい」


 毎日繰り返されていた何気ない挨拶。でもあの日以降、父が起きてくることはなかった。

 病を抱えていたのか、正直わからない。病院には通っていなかったし、体力も人並みだった。職場での様子は見たことはなかったけれど、母の話を聞く分には、病欠をしたり、体調不良で早退することはなかったようだ。


 妻と未成年の子供3人を残し、父は逝ってしまった。

 父ともっと話がしたかったとか、異変に気づいてあげられればとか、思わないと言えば嘘になる。しかしそれ以前に実感が湧かないのだ。生まれてからずっと一緒だった父が突然いなくなった。心の準備もなにもなく。ただただ信じられない、という気持ちでいっぱいだ。


 葬儀を終え、自宅に帰ってきた家族に私はこう言うしかなかった。


「みんなで仲良くやっていこうね」


 母を支えていくには私たち子供はまだまだ幼くて、無力すぎる。夫が突然逝ってしまったという現実を受け入れていないのか、気丈に振る舞っているだけなのか、母は一度たちとも私たち兄弟に涙を見せることはなかった。



「母さんのお友達がいるんだけど、会ってみない?」

 母がそう言ったのは、父が亡くなってから半年経ったころだった。

 友達って…新しい恋人?父が亡くなってこんなにすぐに?それとも本当に友達?

 子供が親のことを勘繰るのは気分が悪い。気になることを質問するだけで、悪いことをしている気分になる。子供は親を無条件で信じているものだ。言われた言葉を素直に受け取れないだけで関係に亀裂が走ったような気持ちになってしまう。

「うん、わかった。」

 聞きたいことは山ほどあったが、何一つ聞くことはできず、母の提案を受け入れた。

 その数日後、「ツネさん」と呼ばれる男性が、私たち家族の前に現れた。


 「ツネさん」は背が高くて、ガタイがよかった。身長が150センチほどしかない私は急に目の前に現れた彼を首が痛くなるくらいの角度で見上げた。我が家の人間は男も女もみんな小柄だ。慣れない目線に、自然と緊張してしまう。

「こんにち…」

「お〜!お前が愛子か〜!母さんとはなあ、仲良くさしてもらってんだぁ!よろしくなぁ。」

 弾けるような笑顔と、私の声に覆い被さるように発された大きな声に、私は圧倒された。すぐにわかった。この人は絶対に悪い人じゃない。田舎の狭いコミュニティで育ち、人と深く関わってきたからこそ培われてきた他人を見る目。私の直感がそう言っていた。

 母といつからの付き合いなのかはわからない。もしかしたら父が生きていたころから親しくしていた人だったのかも。そんな昨日までの勘繰る気持ちは一瞬で消えていて、ツネさんへの興味が湧いてきていた。

 お昼の時間だったので、みんなで食事をとることになった。初対面だというのに一緒に食卓を囲むというハードルの高いことを簡単に実現してしまうのが田舎の良いところであり、怖いところでもある。母の手料理がテーブルに並べられた。ツネさんは「あんまりお腹は減ってないから」とおかずをつまんでいた。


 それからツネさんは、1週間のうち3〜4日ほどは我が家に顔を出すようになった。時には私たち家族と外食をしたり、車で海に行ったりもした。兄や弟もツネさんに懐いていた。私は、2番目のお父さんができたような感覚になった。

 けれど、ツネさんのことは何も知らない。どこに住んでいるのか、仕事はなにをしているのか、家族はいるのか。聞いてみれば教えてくれるかもしれないのに、なぜか聞けなかった。母に聞いてみると、「ツネさんは隣町に住んでるんだよ。」「仕事は建設関係の現場監督をやっているらしいよ。」と教えてくれた。母には身の上話をしているのか。友達なんだし、当たり前か。わたしたち家族のことはどこまで知っているのだろう。父が亡くなったばかりのことは知っているのだろうか。聞きたくても聞けなくて、微妙な距離感のまま時間が過ぎていった。

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