Abyss

葉舞妖風

Abyss

 目を覚ますとそこは無音で物寂しい無何有の海の底だった。

 寝覚めを襲ったその事実に驚く間もなく、私は反射的に酸素を求めて必死で藻掻いた。けれど不思議と息苦しさは感じなかった。私は不審に思ったが、足元に自分のみすぼらしい体が横たわっているのが視界に入るとそれが徒労であることを悟った。

 死んだんだ、私。

 船の上で現実を突きつけられたときに死の覚悟はしていたが、こんな無残な自分の死にざまを見せられるのは勘弁してほしかった。

 フランスの片田舎で生まれ、口減らしのために故郷を追われた私は港町で水夫として雇われた。仕事が貰えるならと勧誘に二つ返事で了承したのだが、船旅の過酷さを目の当たりにした私は自らの選択をすぐに後悔した。他の水夫が何食わぬ顔でいる中で一人だけ船酔いに苦しめられ、食事は毎日塩気のないパンと豆のスープばかり。まともな寝床も与えられず、そのへんの甲板の上で寝転がる始末。それだけならまだしも、傷口がグロテスクに膿んでしまった水夫が、切除しなければもっとひどくなってしまうという船医者の判断から鉈で腕を切り落とされた。赤痢が蔓延して死人が出ると、不要な積荷だと言って死体を船の縁から海に投げ捨てた。

 私はあの絶海の中を進む地獄で生き残れなかったのだ。なんで死んでしまったのかはもうどうでもよかった。知りたくもない。ただ赤痢で死んだ水夫と同じように私の死体が海に投げ込まれて、それがこうして海の底に辿り着いた。その事実だけで十分だった。

 黄昏ていた私は光の届かない暗い空をふと見上げた。するとそこには満天の星空が広がっていて思わず息をのんだ。船の上にいたときは眺める余裕なんてなかったのだ。そういえば航海士さんが北極星っていうのを教えてくれたっけ。せっかくだから探してみようかなと思い目を凝らすと、星だと思っていたものが実は雪であることに私は気が付いた。見上げただけでは気づかなかったが、ゆっくりと優雅に舞い落ちている。こんな深海にも雪は降るだなんて世界にはまだまだ知らない不思議なことがあるんだなと私は思った。

 深海の雪が私の死体に積もりゆくのを眺めて孤独を紛らわしていた私の耳に甲高い、けれどどこか人懐っこい美しい歌声が飛び込んできた。ぎょっとした私が歌声の方に声を向けると悠々と泳いでいるクジラの姿があった。

 クジラさん、クジラさん。私にもその歌を教えて。

 寂しかったからなのだろうか。まだ自分の知らないことを知りたいと思ったのだろうか。私はそう叫ぶと一目散に駆け出した。

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Abyss 葉舞妖風 @Elfun0547

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