第3話 連れていくな





 『幻想生物大百科』をぱらぱら捲り、ドラゴンのページを開く。

 この本はここ警察組織のものではない。ナギの私物だ。そもそも公的な機関であるこの場所には、古いだけで貴重ではないとされる本は保管されない。残念ながら、旧時代特有の本であるこれもまたそういった評価を受けるものだった。


「お疲れ様です、ナギ」


 穏やかで響きのいい声に、ナギは顔をあげる。


「ラードルフさん。お疲れ様です」


 ナギが座る机の前に、ラードルフがいた。

 今は普段大抵そうであるように、彼は人間の姿だった。三十代に差し掛かろうかというくらいの渋い見た目の男性は、がっちりとした体躯にバーガンディー色のシャツと黒いズボンを身に付けていた。


「ドーナツ、いかがですか?」


 ダンディな見た目のラードルフは、ドーナツが入っているらしい箱を持ち上げてみせた。


「いただきます!」


 手をあげて喜ぶと、ラードルフは微笑んで部屋に備え付けられているミニキッチンに引っ込んだ。

 ナギが現在いるのは図書室ではなく、警察組織の現場員に割れ当てられた部屋の一つだった。

 室内には机が五つ、ソファーセットが一つとシンプルな内装だ。

 現在はナギが使用している机の上だけが若干散らかっていた。紙が数枚とペン。昨日の報告書を作成しているところだったが、どうにもやる気が出ないのでお気に入りの本を眺めていたところだった。


「どうぞ」

「ありがとうございます」


 ラードルフがドーナツを二つ盛り付けた皿と、紅茶をナギの前に置いてくれた。ラードルフはそのまま隣の彼の机に向かうかと思われたが、その目がナギの本を見つける。


「おや、懐かしい」


 ふふ、とラードルフは笑みを溢した。


「ナギと出会った頃に、色々と聞かれたことがありましたね」

「その節はありがとうございました」


 ラードルフは、人の姿と狼の姿を切り替えることができる人狼だ。

 人狼もまた、かつては人間の想像上の存在でしかなく、『幻想生物大百科』にページがある。


 ラードルフに出会った当初は、人狼もドーナツを食べるんだなぁと、思ったものだ。

 だがしかし人狼は人と狼の面を併せ持つわけで、人はドーナツを食べるのでよく考えると全く不思議ではない。

 それに、本は本。人間が旧時代に書いたもので、本に書かれていることと実際が異なっていることはよくあった。


「かつては同じ世界にいなかった、とは不思議ですね。私とナギが、こうして共にお茶を飲むこともかつてでは可能性が欠片もなかったと思うと、とても」


 そう、かつては人間にとってはラードルフのような存在は想像上の存在でしかなかった。そんな時代があった。百年も経たない昔のその時代を旧時代と人は言う。


 ここは、世界の中心の首都エレオロン。昔は人間の世界の首都だった。

 百年も経たない昔、『この世界』は人間だけしかいなかった。

 しかし何十年も前、いくつもの世界がひとつに合わさり、様々な存在が共存するようになったとされている。

 その存在の中には、かつては人間からは架空生物ファンタジーとされていた存在も含まれていた。

 獣人、吸血鬼、エルフ、人魚、ドワーフ、鬼……。まだまだ身を隠している存在もいるとされ、年々新たな植物や生物が登録される。


 昨日の浮島も、エルフの存在する世界から来たものだ。


 そして学生であるナギがバイト先として働いているのは、警察組織デラカント。

 様々な種族が起こす事件に対処するために人間が中心となって、他の種族に協力を仰いで作った組織だ。

 現場で事件に対応する人員は、いくつかの班に振り分けられて日々治安維持に勤めていて、その班の一つがツカサがリーダーを勤め、ラードルフが所属する『C班』だ。


 現在C班は構成員の数名が別件に駆り出され、絶賛人手不足だった。

 とはいえツカサとラードルフだけで大抵の事件は事足りると思うのに、人手が必要になったりするとツカサはナギを図書室から引っ張り出す。

 意図は分かっているが……。


「僕からすれば、ツカサさんたちが特殊なんだよなぁ」


 たとえ、人間のごく一部にしかない特殊な力を持っていたとしても。


「俺が何だって?」


 どこからともなく現れたツカサが、ナギの呟きを若干聞き齧ったらしい。


「お疲れ様です、ツカサ」

「おー、お疲れ」


 挨拶とともにラードルフが差し出した箱からドーナツを一つ取り、齧りながらツカサはナギに向き直る。


「なんだよ、まだ昨日のことで文句垂れてるのか?」

「確かに昨日のことに文句はありますけど」


 たった今文句は言っていなかった。

 ナギはツカサから顔を背ける。昨日絶交を宣言したばかりだ。


「結局ドラゴンいたんだろ?」

「いましたけど」


 確かにいた。確かにツカサにはドラゴンで釣られたが、最初ツカサが示していた生物はそうではなかったし、危険も聞いていなかった。


「ツカサさんが騙したことに変わりはないです」


 抗議には、珍しくもすぐに屁理屈やら理不尽な返事は返って来なかった。

 ドーナツを食べているのか何なのか。少しして、机に腰かける気配がした。


「おまえが図書室に籠ってるからだろ」


 騙したのを認めたな?と思って、すかさず抗議しようとそちらを向くと、茶の目と目が合った。


「ナギ、そろそろ腹決めろよ。時間ないぞ」


 その目は、ナギが思わず口をつぐむ真剣さを帯びていた。


「どのみちおまえが持つ『能力』はその性質上現場向きだ。戦闘員じゃなくても、おまえが大好きな未知の生物の調査員ならその能力も望まれるはずだ。『俺たち』は進路『ここ』だって決まりきってんだから、その範囲で行きたい方向行けるように戦略練っとけ。能力も使える幅広くしとけ」

「能力使うのが嫌だって言ってるじゃないですか」

「なら、アサツキのジジイと進路相談だな」


 無情な言葉に、ナギはじとりとツカサを見つめる。


「ツカサさん、最近僕のこと現場に引っ張り出す頻度高いの、じいさんに言われてるんですか」

「ノーコメント」


 その返事は肯定しているようなものだ。ツカサは、こういうとき違うなら違うと言う。


「くっそ」


 勢いよく机に突っ伏すと、ごん、と額を打った。


「口わりぃなあ」

「ツカサさんに言われたくないです」


 側で、ラードルフがそわそわ、おろおろしていることが分かった。

 せっかくラードルフにドーナツをもらったのに、台無しだ。

 さっさと報告書を仕上げて、図書室に引っ込もう。ナギはそう決意して、ドーナツにかぶりつきながら、ペンをとった。


「それ、昨日の報告書か?」

「そうです」

「そういえば、ジュリアンがドラゴンに関してなんか言ってたな……」


 ドラゴン、と聞いて思わず顔をあげかけた、その矢先。ジジ、という機械音を耳がとらえた。


《緊急事態発生 緊急事態発生》


 抑揚のないに、ドーナツを咥えたまま、ナギは天井を見上げた。ツカサもラードルフも動きを止め、耳を澄ませている。


《侵入者あり 侵入者あり》


《建物内にいる戦闘員はB棟に向かってください》


 続いた内容に、ナギは真っ黒な目を見開く。

 侵入者? ここに?


「行くぞ」


 残ったドーナツを丸のみし、ツカサが雑にラードルフの首に腕を回し、もう片方の腕がナギをつかまえた。


「え、僕もかよ」


 ナギの戸惑いなど当然無視され、一度の瞬きのあとには、廊下に立っていた。

 どこの廊下も似たようなものなので、廊下の見た目や形からどこだと場所は割り出せないが、B棟に繋がる廊下だろう。

 しかし何だか、ギャーギャーと聞きなれない鳴き声が聞こえる。


「あっちか。ナギ、ドーナツのんきに食ってんな、行くぞ」

「問答無用で連れてきたのツカサさんじゃないですか。ドーナツ置く暇くらいくださいよ」

「ナギ、喉につまらせないように」


 毎度のことながら、ツカサとの思いやりの欠片もないやり取りのあとでは、ラードルフの優しさが染みる。

 こんな風に食べたくなかった。ドーナツを急いで口に詰め込み、咀嚼しながらナギもあとを追う。その手が空いたと見たか、前を行くツカサからハンドガンが投げて寄越された。

 はぁ、と無意識にため息が出る。

 やっぱりこういう日常は嫌だ。殺し、殺される危険に晒され、血が流れる。

 どうして世界は混ざってしまったのだろう。どうして異種族同士仲良くできないのだろう。


 そんなナギの思考を裂くような粉砕音が生じた。間髪入れず、発砲音が響く。


「これ、昨日のよく分からねえ鳥だな」


 窓ガラスをぶち破り、昨日見たドラゴンのような鳥のような生物が侵入してきた音だったらしい。

 それらは、敵がいると今ので察知し、次々とこちらにやって来る。まるで弾丸のようだ。

 『鳥』そのものはツカサが撃ち落とし、ラードルフが手で凪払うが、砕け、飛び散るガラスが凶器となって肌を裂く。


「っつ」


 ナギも例外ではなく、頬を切られ声を漏らすと、ツカサが銃を持っていない方の手をナギの前に出した。


「大丈夫です。庇うくらいなら、そもそも連れて来ないでください」


 頬を拭い言えば、ツカサが口の端を吊り上げて「減らず口が」と笑う。


「……そういえば、B棟って、発見された一部の生物の研究施設のはずですよね」

「研究施設?」

「と言っても、『観察』の目的で動物園みたいになってるだけです……でも、中には」


 危険な生物も含まれるから、脱走していなければいいんですけど。

 窓ガラスが散らばり、散々な有り様の通路を見て言おうとした言葉は喉の奥に引っ込んだ。

 物理的に。


「ぶっ」


 ナギは、突然立ち止まったツカサの背に──正確にはツカサが背に装備しているライフル銃で顔を強かに打った。


「なんですか、急、に……げほっ」


 不満の声は途切れた。喉に熱風が入り込んだからだ。


 シュルルルル


 独特の、息を吐くような、吸うような音がした。


「おいおい、あれ何だ、ナギ」


 ナギは恐る恐る、ツカサの横から顔を出した。

 その廊下の先は、地獄だった。


 否、地獄で煮えたぎっているようなマグマがB棟の入り口から流れ出していた。そのマグマの上をずるずると移動している生き物がいた。

 蛇のような、トカゲのような。どちらにしても、それにしては大人の人間ほどの大きさがあり大きく、炎を纏っていた。


「また鱗生物かよ。お仲間か?」

「いや、あれはサラマンダー、ですね」


 火山などの燃え盛る炎の中に住むと言われる、これもまたかつての架空生物ファンタジー

 予想は当たった。捕獲された生物が逃げ出している。他にも逃げ出しているか、それともこのサラマンダーが纏う炎に殺されたかは分からないが……。


「ちょ、ツカサさん、殺すつもりですか!?」


 迷いなくハンドガンを前方に向けたツカサに気がつき、ナギは慌てる。


「それ以外にどうする」

「捕獲ですよ!」

「どうやって。触った瞬間火傷じゃ済まねえぞ」

「それはそうですけど、待つとか。──殺すなんて、あのサラマンダーは僕たちを攻撃してないじゃないですか」


 『鳥』と違って、サラマンダーは移動しているだけ。ただ、その移動にマグマと炎が伴う。

 ツカサは訴えを聞き、じっとナギをしばらく見ていたが、


「……仕方ねえな」


 呟き、上着の内側に手を入れ、取り出した銃を再びサラマンダーに向けた。


「変わってないんですけど!?」

「変わってるっての。麻酔弾だ」


 生け捕りにすればいいんだろと、引き金が引かれる。一度の発砲音と、それから。

 サラマンダーは、微動だにしなかった。


「……まさか溶けたのか?」

「……かもしれないですね」

「いえ、届いてはいます。ただ、鱗を貫けなかったようです」


 ツカサとナギは揃ってラードルフを見た。人狼の男は、目を狼のそれにしてサラマンダーを注視していた。

 ラードルフが言うならそうなのだろう。ナギは、『幻想生物大百科』のサラマンダーについての記述の一文を思い出した。


「サラマンダーの皮膚は炎を纏っている状態だと鉄より固いって本当なんですねぇ」

「はあ? っくそ、腹立つ。事前に分かってりゃこんな装備で来なかったぜ」


 自らの銃弾が標的に当たったのに倒れなかったことにプライドを傷つけられたらしい。ツカサが苛立たしげに舌打ちし、発砲してしまわない浅さで引き金をガチャガチャした。


「しっかし、じゃあどうするかな」


 『鳥』たちは、サラマンダーを避けているのか何なのか心なしか遠巻きに飛んでいる。


「このまま放って『鳥』共を処理しにいくわけにも──」


 ツカサの視線がナギを掠め、嫌な予感がした。けれど、ツカサがナギに視線を定め、何か言う前に、


「なにか、来ます」


 なにかって?

 ラードルフの視線を追った先、右手の窓の外を見た瞬間、何かが落下した。

 それはもう勢いよく、何が落ちたのか目では追えなかった。気がついたときには凄まじい衝撃音と、振動に襲われていて、視界では土煙と血が舞った。

 すかさずツカサがハンドガンを構え、ラードルフが身構え、ナギもつられてハンドガンをそちらに向けた。

 新手か。あんなに重量感のある音と振動では、『鳥』ではなさそうだ。B棟に他にいる生物と言えば……ナギがさらった記憶とはどれもこれも合わなかった。

 土煙が晴れ、亀裂の入った地面と、その周りに無惨にも散る『鳥』たち。その光景の真ん中に、一際大きな『鳥』の首根っこを掴んでいる男が立っていた。

 男の黒髪が微風で揺れ、鮮やかな赤い目がこちらを見た。





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