僕は帰りに大滝詠一のアルバムを買った。 / 藤本オレンジ

追手門学院大学文芸同好会

第1話

 今日は盆のくせにビングクロスビーのホワイトクリスマスがかかっている。こうやって流れているレコードが分かるのも、ここが忘れられなくて、色んな洋楽を片っ端から聞き漁ったからだ。

 店のマスターはウッド調のカウンターに座る客にブレンドを出し、真鍮製の丸いドアノブをナプキンで磨いた。

 ウインナーコーヒーとバナナジュースが並んだテーブルは二人掛けで、僕の目の前には誰も座っていない。

 僕はウインナーコーヒーの生クリームにスプーンを入れる。甘い油の混じったコーヒーが白い陶器を伝い、カップは判を押したようにテーブルに茶色い輪っかを作る。

 深く柔らかいソファから身を起こし、口で迎えに行くように僕は啜る。汗でべたついていた口元が一気に爽やかになり、香ばしい煎った匂いが漂う。それから大きく息を吐いた。

 注文したバナナジュースをどうしようかと、刺さった赤のストローを眺めていると、イーグルスのホテルカリフォルニアがかかり始めた。ここはホテルでもカリフォルニアでもない、駅前の小さなレコード喫茶だけれど。

 そういえば彼女と初めてここに来たときもこれが流れていた気がする。僕は彼女の一挙手一投足を思い出していた。

「結局、勉強しなかったね。」

 彼女はガムシロップを積んでは崩し、また積んでは崩しを繰り返しながら、僕に笑いかけた。その日、受験勉強決起集会と銘打った二人は、日頃の行き詰った鬱憤を慰めあうように話しつくした。

 このとき、僕たちはレコードがかかっていたなんて気がつかないほど、ノートも開けず夢中で喋っていた。今になっては話の内容などあまり思い出せないが、彼女のケタケタとした笑い声がやけに耳に残っている。

 彼女はいつもズッズッとバナナジュースを吸って、ストローの飲み口をぺしゃんこになるまで噛むのが癖だった。

 ある日、僕が昨日読んだジャンプの話をしていると、例のごとくストローを奥歯で嚙みながら。

「あー。彼氏欲しいぃ。君みたいなつまらなーい話をするんじゃなくて、フリとサゲのばっちり決まった話するようなね。ヘヘッ。」

 とそう言って。いじわるな笑顔を見せた。僕は喉を引き絞り、顔を横に曲げて談志のモノマネをしたけれど。彼女はなにそれ、と何もなかったようにグラスの氷をつつく。居心地悪く僕は不貞腐れると、彼女はまた笑ってストローを噛んだ。僕はそうするとなにも出来ず、積みあがったガムシロップを倒してテーブルに散乱させた。僕は彼女に笑顔でのぞき込まれると、なんだか手持ち無沙汰な気分になった。

 僕と彼女はだいたい二、三週間に一度ここに集まって、なにもしない決起集会を開いた。どちらから誘うというわけでもなく、下校のときに一緒になると、流れでこの店に入った。こういうルールにしようと決めたわけではなかったけれど、この関係がなんだか大人な感じがして僕は好きだった。

 そうしてそれからだ。僕たちがめっきり会わなくなったのは。全国的に猛威をふるった流行り病は、JRしか通っていないこの田舎にも影響を与えた。

 自然と、僕たちを含め学校のみんなは周りの同調圧力を感じて、外に出ないようになった。勿論、店にも行かなくなってカレンダーの数字だけが進んでいく日々を過ごした。

 勉強の尻に火が付き、制服がセーターに切り替わるころ。僕は深夜ラジオを聞きながら日本史の問題を解いていた。ラジカセの目盛りがピクピクと触れている。

「鶴光でおまなんていうラジオがあったんですけどね。それが本当にどうしようもない。もーあほばっかり。」

「ブーブーブー。」

「聞くやつも聞くやつだ。」

「ブーブーブー。」

「それでは曲。」

「ブーブーブー。ブーブーブー。」

「なんだよ。気になるなぁ。」

 僕は誘惑に負けて、ブーブーブー。震えるスマホを手に取った。何度も着信していたのは彼女からだった。喫茶店に行く関係だけだった彼女から、それもこんな時間に電話がかかって来るなんて初めてで、不思議に思いながら僕は電話に出た。

「もしもし。」

「どうしよう。かかっちゃった。」

「ヘヘッ。そっちからかけて来たんじゃん。どうしたの、こんな時間に。」

 僕は勉強から解放された快感と、彼女と久しぶりに喋るのがなんだか嬉しくて、部屋の端から端に歩きながら電話した。邪魔なラジオは電源を切り、アンテナを特殊警棒のように縮ませしまい込んだ。

「違うの。」

「なにがぁー?」

 向こうの電話はなんだか電波が悪く、砂袋をコンクリートで引きずったようにザラザラとこもって聞こえる。僕はもどかしくなって、電話しながらスクワットをした。全身が動きたくてうずうずしていた。

「電話違くて。うっ。かかっちゃったのぉ。うっ。うぐっ。」

 彼女は息遣いが荒く、泣いていた。ズルズルと鼻をすすっていた。電波が悪いのでは全くなかった。僕は血の気が引くという感覚を初めて味わった。僕は一切の動きを止めて、力なく尻を床についた。周りの人間が実際に感染するなんて思ってもいなかった。

 その夜、電話を切ったあと、僕は朝まで寝られなかった。布団の中で必死に彼女の憎らしい笑顔を思い出したけれど、上手くいかなかった。カーテンから薄明りが差し込む部屋はやけに静かで、彼女の嗚咽を含んだ泣き声が耳のすぐそこにこびりつき、ガンガンとリフレインした。

 卒業、入学、そして夏が来た。大学生になった僕は、一人暮らしをするアパートから実家に帰る前にこの店に寄った。隣の居酒屋が暗くガランとし、居抜きの貸物件として看板が立っていた。

 客が一人帰ると、マスターがまた真鍮のドアノブをアルコールで磨いた。

 あの日からこの店に帰って来るまであっという間で目まぐるしかったけれど、心の奥底に錦鯉の入れ墨を入れたみたいに彼女のことを思わないときはひと時もなかった。

 店の天井にぶら下がる大きなファン。水が丸いポッドで沸騰する音。窓枠で育てられた小さなアロエ。大滝詠一の鮮やかなジャケットのアルバム。

 これら全てが、彼女が居なくなって気が付いたこの店にあるものだ。

 そして僕が高校生のときに気が付かなかった、彼女を思う気持ちも確かに、明瞭にそこに息づいていた。

 後ろの方で鳴るブツブツとしたドーナツ盤を針でひっかく音が、彼女がゼエゼエと息苦しく電話してきた音と重なって胸が締め付けられる気分になった。

 僕は大学で習ったタバコをソフトケースから取り出すときに、生クリームで指がべたついていたせいで、二本同時に引き抜いてしまった。

 こんな僕を見て彼女は。

「大学デビューでニコチンの軽いタバコ吸うなんて、ずいぶん型にはまった型の破り方をするんですねぇ。へへへっ。」

 と、おどけて嫌味なことを言うのだろう。そう考えて二本のうち一本を軽くふかして、バナナジュースの横にある灰皿に垂直に自立させた。白く細い煙が、赤いストローに纏わりついてからふんわりと消えた。

 彼女を思う気持ちを強く感じるほど、もういないことに対する息苦しさに泣きだしそうになる。

 目の前のバナナジュースは、氷が溶けてグラスの中に層を作る。外側には水滴がびっしり張り付き、綺麗なままの丸いストローが物足りなく思う。

 外はこの世のものとは思えないほど陽炎が立ち込める。彼女は、ゆらゆらとした風景に背中だけをみせてどこかへ行ってしまった。

 僕はこれを追いかけてはいけないと思った。

 これを受け止めて生きなければいけないと思った。

 レコードは同じところをひっかいているように見えて、全く違う音色を奏でる。僕は傍から見れば、ウインナーコーヒーすら上手に飲めない大学生だけど、彼女のおかげで違う音色を出せるようになった気がする。

 そう。だから僕は生きなければいけない。回って、回り続けて、音を奏でなければいけない。例え遅くても、音が飛んでも、回ってさえいれば。どんなに不格好でも動き続けてさえいれば。彼女が与えてくれた音楽は鳴りやまないのだから。

 そして僕は真っ白なマスクを耳にかけて、席を立った。




あとがき


 自分でも歯の浮くような文章を書いているなと、思いながら書いていました。元々ハードボイルドな文章を書くのが好きなので、上手く書けているかわかりません。ただ、楽しんで読んでいただけていれば、とっても嬉しいです。次回もよろしくお願いします。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕は帰りに大滝詠一のアルバムを買った。 / 藤本オレンジ 追手門学院大学文芸同好会 @Bungei0000

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る