第3話 界
老婆は暫くの間黙っていた。黙って彼女を子細に観察している。彼女と同じように、老婆もまた眼鏡をかけていたが、その向こう側で黄色い瞳が微かに揺れていた。
「えっと、貴女は?」耐えきれなくなって、彼女は老婆に質問した。
「何をお尋ねかな?」老婆が応じる。
「貴女の名前は?」
「名前?」老婆は小さく笑った。「もう、忘れてしまったよ。誰も尋ねてこないからね……」
「今、私が尋ねました」
彼女がそう言うと、老婆は顔を斜めにしてこちらを見る。それから、テーブルに置いてあるカップを手に取ると、それを自分の口もとまで近づけた。しかし、液体を口に含むことはしない。飲むつもりで持ったわけではなさそうだ。
老婆はカップを空中でひっくり返す。すると、液体が宙に浮いたまま静止した。飛沫がそのままの形で遊泳している。カップをテーブルに戻すと、老婆は片方の人差し指を立てて、それをその場で一回転させた。
液体がこちらに向かって飛んでくる。
けれど、大した速度ではない。
飛んでくる液体に合わせて、彼女は口を開いた。老婆に操作されて口が勝手に動いたのではない。液体が口に入ると、先ほどと同じ味が口の中に広がった。
「私は魔術師だよ」老婆が言った。「もう、大分廃れてしまったけどね」
「魔術師?」彼女は首を傾げる。「廃れてしまった、というのは?」
「魔術師の存在も、あるいは、私自身の存在も」
「どうして、魔術師?」彼女は質問した。「自分で選んでそうしたの?」
「生まれつきそういうなりだったんだよ」
「どうして?」
彼女がそう尋ねると、老婆は一度目を大きく開き、それから口も同じように大きく開いて、笑った。頭に形成された団子状の髪は、それでもしっかりと固定されたままだった。
「どうしてもこうしてもないんだ」老婆は言った。「そうと決められていたから、それに従ったまでだよ。世の中には、自分で決められることと、そうでないことがあるからね。自分で決められることも、本当はそうでないことの一部でしかないさ。自分で決めて生まれてきたわけじゃないからね」
「私は、ウルスと言います」彼女は自己紹介した。
「そうかい」老婆は頷く。「それで? お前はどうしてここにやって来たのか、分かるかい?」
「いいえ」
「本当は分かっているんじゃないのかい?」
「うーん」そこでウルスは眼鏡を外し、それをテーブルの上に置いた。それが、彼女の考えるときの癖だった。「退屈していたからかしら」
「退屈していたのかい?」
「うーん……」
「退屈していたというのなら、ここで楽しいことをすればいい。ま、本当に退屈していたのならの話だけどね」
「本を読むのも、歌を歌うのも好きだから、別に、退屈していたというわけではなさそう」
「おや、そうかい。では、どうしてここへ来ることになったんだろうね」
「ここに来たかったから?」
ウルスがそう答えると、老婆はまた顔を斜めにして彼女を見た。単に見るというよりは、睨みつけるような感じだ。彼女を吟味しているのかもしれない。
「その答えは、お前にとって納得のいくものなのかい?」老婆が尋ねる。
「たぶん」ウルスは頷いた。「いいえ、間違いないわ」
「そうかい……」老婆も頷く。「それなら、その通りなんだろうね」
「でも、どうしてここへ来たかったのかしら?」
「魔術を習いたかったんだろう?」
「そうかしら?」
老婆は一度立ち上がり、キッチンがある方へ向かっていく。そこで何やらがさごそとやって戻ってきた。見ると、手に硝子製の小さな陶器を持っている。アルコールランプのようだ。しかし、厳密にはそれはアルコールランプではなかった。中にアルコールが入っていないからだ。老婆はそれをテーブルに置くと、掌を返してウルスに合図を送った。
「何?」ウルスは首を傾げる。
「まずは、これに火を点けるところからだね」
ウルスはランプに手を伸ばす。手の中でそれを転がして、色々な角度から観察してみた。
「燃料がないから、点かないわ」
「燃料はお前の魂だよ」老婆は告げる。「さて、どんな色に燃えるのかね。お前の色を見せておくれよ」
老婆の言葉を聞いて、ウルスは戸惑う。魂というのが何を指しているのかも、どのように火を点けたら良いのかも分からない。
分からない……。
分からないなら、どうすれば良いのか?
その問いに対する答えは、簡単だった。
分かろうとすれば良い。
ただ、それだけのこと。
導火線に被せられたキャップを外し、本体をテーブルに置いて手を伸ばす。五本の指から薬指を選んで立て、導火線に近づける。
目を閉じて、思いを巡らす。
自分が今まで求めていたものは、何だろう?
理屈?
科学?
いや、違う。
理屈でも、科学でもない。
それは、きっと、現象そのもの。
火が灯る、という現象。
薬指の先に温かな感覚が起こる。
目を開ける。
緑色の炎が指の先で煌めいているのが見えた。
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