第2話 世

 振り返ると、玄関のドアだけが宙に浮いていた。その先に家はない。正面には石畳の道がずっと向こうまで続いている。その先に木製の大きな家が鎮座しているのが分かった。周囲には細長い木々が無数に立ち、それ以上先の様子は分からない。先ほどまで朝色に染まっていた空は、いつの間にか完全に闇と化していた。右斜め上方に月が浮かんでいる。綺麗な満月だった。


「何かしら?」


 彼女は相も変わらず独り言を呟いたが、それが明らかな独り言として機能するのは、初めてだった。ここには、おそらく自分のような者は一人もいない。何の根拠もない漠然とした思いつきだったが、そう思わざるをえなかった。


 圧倒的な空気感。


 冷たい風。


 正面にある家の煙突から、密度の小さい煙が空に向かって上っているのが見えた。煙はそのまま吸い込まれるように消え、繰り返し下から上へと上っていく。その煙に誘われるように、彼女は足を一歩先へと動かした。そのまま石畳の上を歩き始める。道の左右は土の地面だった。所々から植物が顔を覗かせている。虫や動物の類は見当たらないが、辺りを囲む森の中から時折何かの鳴き声が聞こえてきた。


 道の先に佇む家に近づくにつれて、その大きさが身をもって分かるようになった。目測だが、彼女が住む家の三倍近くはありそうだ。上方向に窓が三つ並んでいたから、そのように推測した。


 木造のドア。


 「open」と書かれたプレートがかかっている。


 何か用事があるわけでもないのに、彼女はドアの横にあるベルを一度引いた。


 ベルの音が室内から聞こえてくる。


 遅れて、足音。


 生き物の気配に基づいた、多少の緊張。


 緊張しているときの癖で、彼女は自然とつま先立ちをしてしまう。


 だから、勢い良くドアが開かれたとき、その向こう側へ倒れ込んでしまいそうになった。


 倒れそうになった彼女の身体を、何者かがそっと支えた。包まれるような優しさを覚える。けれど、どことなくごつごつとした硬質な感触。顔を上げると、皺に埋もれた小さな瞳が二つ浮かんでいた。瞳は黄色味を帯びているが、きちんと生気が感じられる。魔物のそれではなさそうだった。


「いらっしゃい」浮かぶ瞳が少し笑った。「よく来たね」


 ドアの向こうに立っていた老婆から身を離し、彼女はなんとなくお辞儀をする。挨拶をしたつもりだった。ただ、まだ緊張で声が出ない。


「ここに来る者は、なかなかいないからね。知らせを受けたとき驚いたよ」


「あの……」彼女はようやく声が出るようになって、呟いた。


「話は中でしようかね」老婆が告げる。「さあ、お上がりなさい」


 そう言うや否や、老婆はそそくさと室内に戻っていく。どうしようかと数秒間勘案したが、仕方なく、彼女も室内に身を滑らせた。


 背後でドアが閉まる。


 部屋は一つの広大な空間で形成されていた。上階へと続く階段が奥にある以外、部屋らしいものは見当たらない。右手に簡易なカウンターがあって、その向こうがキッチンになっているみたいだった。老婆はそこに立って、片手にポットを持っている。調理用の厚手の手袋を嵌めていた。ポットの中身をカップに移すと、それを木製のトレイに載せてこちらに来る。


「さあ、お座りなさい」そう言って、老婆は部屋の中心に向かって歩く。そちらには大きなテーブルがあった。それも木でできている。家の組成をそのまま受け継いだように、部屋にあるものも、ほとんど木でできているみたいだった。


 どうしようかと迷ったが、もはや迷うべき必要すら見当たらなくて、彼女は言われた通りにテーブルの席についた。大きすぎる椅子に腰を下ろす。彼女が座るのを確認すると、老婆も彼女の対面に座った。


「よく来たね」最初に言ったのと同じ台詞を言って、老婆は飲み物が入ったカップを彼女に差し出した。「遠かっただろう」


「いえ、特には……」彼女は答える。


「まあ、お前さんの体感としては、そうだろうね」老婆は言った。「こちらとあちらでは、時間の流れ方が違うからね。本当は、ここに来るまで、それなりの時間が経過しているのさ」


「それなりって、どのくらい?」彼女は尋ねる。


「そうだね……。まあ、せいぜい三日といったところかな」


「三日……」


「不満だったかい?」


「いえ、もっと過ぎているのか、と」


 老婆から受け取ったコップに口を付けて、彼女は液体を口に含む。


 不思議な味がした。


 少しだけ苦くて、それから、ちょっと辛いような気もする。

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