負けるな
今日は、ある種
大きな分かれ道にぶつかる日だ。
朝起きた時、震えは既に止まっていて
残るは覚悟を決めるだけだった。
大丈夫。
何度言い聞かせた言葉だろう。
歩「…ふぅ。」
息をひとつ細く長く吐くと
酸素が足りなくてなって
肺がきりきりと痛んだ。
手先にまでは血が勢いよく回っていないのか
穏やかな暖色というよりも
血の気の引いた不健康そうな色味。
鞄の中や家の中では
肉を焼いた後特有の臭さが
充満しているように思えた。
言い換えれば家の匂い、
主婦の匂いとも言えるか。
家から1歩踏み出す直前、
部屋の中を見渡した。
しんと静まり返る部屋。
1人暮らし、ワンルーム。
温める必要のない床。
随分と空虚で白い部屋だった。
ネックレスは鞄の中に
丁寧に詰めておいたのだ。
家に置いて行ってもよかっただろうが
近くで守ってくれるような気がして
手元に残しておくことにした。
鞄の中で微かに青が漏れる。
歩「……。」
心の中で喝を入れる。
よし。
行くしかない。
そう思うと同時に
玄関から踏み出し外の世界へと
飛び込んでゆく。
今日は、花奏のお見舞いに行く。
1人では心もとなかったので
全ての事情を知っている美月に
同行してもらうことにした。
全てを知っているといえば
もう1人…嶋原も居るが、
流石に一緒にお見舞いに行こうなんて
間違っても言い出せなかった。
1人だと不安だったのには
勿論理由がある。
私だけだとそもそも会話にならないし
気絶するほどのたうち回って
終わってしまうということもあるが、
今回はそれ以上の理由があった。
今日は、ハンバーグを持っていくのだ。
保冷鞄の中に確と入っている。
病院側は始め、
現状まともに飲食が出来ていないので
危険であると指摘されたが、
何度も頭を下げると根負けしたのか
条件付きならいいことにしようと
言ってくれたのだ。
条件とはいえど、
思っていた通りだったといえばその通りか、
まずは1、2口程度に留めておくこと、
形状は液体ほどにまでミキサー等を使い
どろどろにするか、
大層緩く作ってくるか選べとのこと、
万が一花奏の身に異常が有れば
いち早く対応するが、
今回の行動はリスクが伴うと
理解しておくこと。
形状はどろどろのほうが
口にしやすいはしやすいだろうが、
せっかくなので形は残しておきたいと思い
出来るだけ柔らかくなるよう工夫はした。
ただ、病院側から指摘が入れば
潰されるなりなんなりされてしまうだろう。
それでもきっと挑戦しないよりはマシだ。
危険と判断すれば病院側が止める。
そこには絶対とも言える信頼感があった。
歩「…。」
風が頬にあたる。
なんだかひりひりする気がした。
思えば12月で、
冬と呼ばれる季節になっていた。
花奏は、花奏は今も
外を見ていないだろう。
どこを見ているのか分からない虚な目で
永久に11日と12日を見ているのだろう。
歩「……。」
私だって。
私だって、その1人だから。
改札を通る、
電車に乗る、
椅子に座る。
その全ての動作が
今後に影響するような錯覚によって
隅へ隅へと追いやられている。
そんな違和感と不快感。
やり直せないことへの恐怖。
歩「……大丈夫…。」
電車内だというにも関わらず、
隣には誰も座っていないことを確認し
ひと言だけ雨を降らせた。
***
美月「早かったのね。」
歩「…まぁ。」
美月「酷い顔。」
歩「そんなに?」
美月「えぇ。ぱっと見て誰もが暗いと思うくらいには。」
美月は今日は部活を休んでまで
私の申し出を受け入れてくれた。
美月から、みんなにも声をかけたら
どうかと聞かれたが、
人が多いからと言って
どうにかなるものでもないと思い
早急に断った。
後から流行り病のせいで
多くても2人までしか入れなかったと
思い出すのだった。
昼下がり。
太陽は段々と高いところへ進んでゆく。
遠くに行ったように感じたが、
陽の恩恵を受けているためか
矛盾しているが近くにも感じた。
歩「…そりゃそうもなるでしょ。」
美月「そうね。」
歩「…。」
美月「そんな顔したまま花奏に会ったら、それこそ浮かばれないじゃない。少しだけでいいの、笑ってたらいいと思うわ。」
歩「…無理。」
美月「マスク社会なんだし目元細めてればいいのよ。」
歩「美月ってそんな適当言う人だっけ?」
美月「心外ね。型から入れば気持ちだっていつか追いついてくるわ。」
歩「…出来たらやる。」
美月「…そうね、無理せずが1番ね。」
美月は何かを悟ったのか
それとも諦めたのか、
視線を逸らしコンクリートを見つめ
静かにそう呟いていた。
押し付けがましいことをしてしまったと
後悔でもしているような態度。
きっと本意は違うだろうが、
今の私にはそう見えた。
病院前で集合していて、
時間もいい頃合いになっていた。
それを見計らって受付をし、
行き慣れた病室の前へと行く前に
看護師に連れられ別室の方へ。
そこで食事について
危険なことや注意事項など
口早に聞かされた。
この後の仕事が詰まっているのだろう。
何かあればナースコールを
迷わずすぐに押せ。
それについては耳にタコができるほど
念を押された。
美月も一緒に聞いていたのだが、
看護師に
「分かった?」「いい?」
と確認される度頷いて返事をしていた。
それに反して私は返事もせず
床を見つめたまま、
不安のあまり手を握りしめ
話を聞いているようで
耳からはすり抜けて行った。
何かあればナースコールを。
それだけは何度も言ってくれたおかげで
嫌と言うほどに理解した。
ハンバーグの形状等も確認してもらい、
プレートも用意してもらった。
ハンバーグは若干硬めとのことで
軽くは潰されたが、
看護師の配慮もあり
思っていたよりは形が残っていて。
そして気を利かせてくれたのか
若干温めてくれたそうだ。
箸とスプーン、フォークなどは
病院側のを借りることにした。
何から何までしてもらって
感謝の気持ちしかない。
看護師さんが食事を
運んでもよかったんだが、
美月が自ら名乗り出て
自分たちで持っていくことになった。
医者も看護師も仕事で手一杯で
ずっと付き添うような形は取られなかった。
寧ろ監視されるような真似は苦手なので
ありがたいと思ってしまう。
美月はそれに関しては何も言わずに
静かにプレートを持ち運んでいた。
か、かた。こ。
靴の裏の音ってこんなだったっけと
今だからこそどうでもいい事が浮かぶ。
静まれ、静まれと思うほど
激動にも似た感情が渦を巻く。
変だ。
ここ最近、私は変だった。
緊張なんてした覚えはほぼないし
不安になる事だって少なかった。
唯一、それを体験したのは
今隣にいる美月に初めて
いじめられた時。
だが、今となっては和解して。
不安や緊張というよりは
常にそれを怒りに変えてきた。
それで生きて来たのだ。
こんな行き場のない感情は初めてだった。
美月「歩。」
歩「…っ。」
美月「…どうする?」
美月がそう聞く意味は分かっている。
目の前には花奏のいる病室の扉。
いつもここまで来て1度は立ち止まり、
入るかどうかを考える場所。
今日ばかりはここで
何分も過ごすわけにはいかない。
今日ばかりは。
今日ばかりは、この扉が異常なほど
大きく見えてしまった。
美月「…大丈夫なんてまやかしの言葉は言うつもりないわ。」
歩「…その方がありがたいよ。」
美月「でも無理はしないで。」
歩「少しくらいさせて。」
美月「歩まで折れたら…正直手に負えないわよ。」
歩「分かってる。」
美月は冷たく突き放すように
口にしているが、
その裏には私と同じく
不安なだけと言うことは目に見えていた。
美月も花奏がタイムリープしていたという
事情を知っている。
だからこそ、今からしようとしていることは
もしかしたら大きな
地雷であるかもしれないことも
重々承知していた。
お互いことの重さが
分かっているからこそ
この慎重な足取りで冷たく言い放つのだ。
美月「私がドアを開けて簡易机出すから。はい、これ。歩が持って行きなさい。」
美月は一方的に告げ
私にプレートを押し付けた。
離す時、丁寧に何度も忠告されてから
美月の手が離れた。
刹那、腕に倍の重力が
かかったのではと思うほど重みを感じた。
きっと勘違いなのだろう。
ただ、視覚が働いている以上
事の重要さを確かめずにはいられなかった。
美月「じゃ、開けるわよ。」
歩「ん、お願い。」
物おじする事なく静かに扉を開け放つ。
すると、見慣れた部屋が
お出迎えしてくれた。
何度か通ったこの病室は
前とほぼ変わりがなく白いままの風景で。
唯一変わっていることといえば、
ベッドの近くの棚に置かれていた
花の種類が変わっていて
妙に生き生きとしていることだろうか。
そして。
歩「…っ!」
花奏「…。」
花奏は珍しく座っていた。
ただ、足をベッドの外に
出しているわけではなく、
あくまでベッドのリクライニングを
利用している様子だった。
その目は相変わらず真っ暗で。
まるで段ボール箱の中のような
一切光の届かない場所で
1人延々と彷徨い続けていた。
病室に入ったはいいものの
名前を呼ぶことも出来ず突っ立っていると、
美月は扉を閉めて
花奏のベッドの元に
簡易テーブルを用意してくれた。
その手際は凄まじく良く、
気づけば既に終わっていた。
それほど私がぼうっとしていただけだと
言われればそうかもしれないが。
美月がせっせと動いて用意している間、
花奏は瞬きはするものの
視線を動かすことはなかった。
じっと下を見つめている。
自分の手だろうか、
その辺りに視線の先を当て
動くことはなかった。
美月と私がいることに
気づいているかすら怪しい。
さっき温めてもらったからだろう、
手元からはハンバーグのいい匂いが漂い
病室内をゆったりと満たしていく。
美月「はい、準備できたわ。」
歩「…っ。」
美月「配膳してあげて。」
歩「…。」
美月がこちらを射るような目つきで
絞り出すような声で言うものだから、
私は頷きをひとつ手向けた。
声を出すとそれに反応して
花奏に悪影響があるかもしれない。
目は塞げても耳は完全に塞げないのだから。
そう思ったら声を上げることすら
億劫になっていた。
存在を否定されるような事態に
陥ることが怖くなっていたのかもしれない。
1歩、また1歩と
花奏のいるベッドへ近づく。
靴裏の音が耳にこびりついて離れない。
こんなに音って大きかったっけ。
静かに、出来るだけ静かに。
そう思うほど心臓は音を立て、
足音も底知れず大きくなっているような。
歩「…。」
何も言わずにただ
形の崩れたいつもの匂いがする
ハンバーグの乗ったプレートを置いた。
米はないしサラダやスープだって
何ひとつないけれど。
それでも。
…何か、花奏の為になれば。
花奏の傷を癒せれば。
テーブルの上にしっかりと
置いたのを確認して
美月のいた場所まで後退りをする。
自然と歯を食いしばり、
手は痛い程に握り拳を作り力を込めていた。
美月「…ありがとう。」
歩「…。」
返事を忘れ花奏を見やる。
花奏は興味がないのか
一貫して微動だにしなかった。
まるで植物。
まるで人形。
生きている人間とは
お世辞にも思えなかった。
その痛々しい姿から
目を背けるように
ぎゅっと目を瞑る。
耳は完全に塞げなくても
目は塞げるのだから。
何度も花奏の苦しむ姿を、
ベッドに髪の毛を散らしながら
シーツをくしゃくしゃにして
暴れ回る花奏の姿を見て来た。
歩「…っ。」
花奏。
外はもう12月になったよ。
11月はとうに終わって、
12月だって半分は終わった。
もう、縛られなくていいんだよ。
縛っていた11月は過ぎたよ。
花奏を縛っているのは、
残るは自分だけなんだよ。
罪悪感如きに負けるな。
負けるな、花奏。
誰も責めちゃいない。
寧ろ受け入れてくれる。
それは夏明けに知ったでしょう?
みんな、花奏のことを待ってる。
花奏。
あんたの知らないうちに私、
花奏って名前で呼ぶようになったの。
散々言われ続けたお願い、
漸く素直に受け入れたよ。
受け入れたんだよ。
ねぇ。
花奏ー
その時。
耳に布の擦れる音が届いた。
歩「…!」
はっとして目を開けると
あまりの白さにくらっとした。
明るさに慣れるにつれ
段々と白箱の中身が見え出す。
花奏は静かに上体を起こして
これでもかと言うほど目を見開き、
テーブルの上に配膳されたハンバーグを
凝視していた。
何も言わず、呼吸も乱さず。
腕にはまだ点滴の線が
繋がれっぱなしになっている。
花奏「…。」
何も喋ることも、
暴れることもなく。
それはとてつもなく異様に映った。
ずっと、ずっと見続けている。
時間が止まってしまったのかと
勘違いをしてしまうほどに。
ふと美月を見ると、
同じように何かを感じていたのか
こちらをちらと見てくれた。
それでもすぐに花奏へと
視線を戻していて。
倣って私も花奏を見守る。
鞄の肩紐を握った。
弱く握るつもりが意図に反して
くしゅりと音が鳴るほど強くなってしまう。
鞄の中には青く光るネックレスがある。
守ってくれている。
そんな気がした。
暫くの間見つめた後
何を思ったのか手を布団から取り出し、
線の繋がったままの手で箸を手に取る。
その手はさっきまでの私以上に
震えている事がここからでも分かった。
からから。
お箸とプレートが、箸同士が
事故を起こして音を立てる。
それを無視して花奏は
ハンバーグの乗ったプレートへ
手を伸ばしたのだ。
ひと欠片。
ほんの少しだけを箸で崩し、
そんなのでは胃の1割も
満たさないだろうという量を取る。
そして、ゆっくりだが口に運んでくれた。
この1ヶ月まともに何も
口にしなかった花奏が、食べてくれたのだ。
進展したんだ。
そう思わずにはいられなかった。
嬉しさのあまりここで
泣き出してしまいたいほど。
花奏「……んむ…。」
静かな病室、外からは
工事をしているのか機械音。
そして病院特有のアナウンスや
扉前を通る人の微かな声。
閑静な一室。
微々な咀嚼音まで聞こえてくるような。
花奏「んむ…………はむ……。」
ただのやや崩されたハンバーグを
一口、また一口と
小鳥喰いだが食べ進めていく。
花奏「……ぁむっ…ん、む…っ。」
ふと、初めて一緒に夕飯を食べたことが
今体験しているように思い出された。
あの時は私、花奏のことを
邪険に扱ってたんだよね。
さっさと帰れって、
邪魔って、煩いっていなして。
でも花奏は食い下がってさ。
結局その日は私の家に
泊まることになったの。
あの日は花奏がコンビニで買ってきた
ハンバーグだったよね。
花奏「……ん、む………ぐずっ……っ。」
鼻を啜る音と、
なんとも言えない花奏の声が聞こえた。
そのお泊まりをした日以来、
定期的に一緒に夕飯を食べる
不思議な仲になっていった。
全て花奏からの誘いであって
私には拒否権すらなかったんだけど、
それでも本気で嫌と言わず
なんだかんだ流されて共に夕飯を食べた。
2回目以降は自炊しようってなって。
その何回目かの時
ハンバーグを作ったのを覚えてる。
私の家の味付けがいいっていうものだから
態々親に調味料の分量を聞いて
メモしたのは未だ記憶に新しい。
花奏「…はん………ぅうっ…ずっ…んむっ…。」
あの時は。
あの場所では。
あの日々は。
何月のことを思い出しても
どこのことを思い出しても、
多くに花奏の陰がある。
いつの間にかこんなに沢山の時間を
一緒に過ごしていたんだ。
花奏「…ひぐっ………っ…んむっ……。」
花奏は瞳から大粒の涙を流しながら
只管に口にハンバーグを運んでいた。
目が溢れるんじゃないかと
思うほどの大粒の涙だった。
花奏「はむっ………ずっ……んんぅっ…うぅ…。」
花奏が泣いているところを
実際に目にしたのは
夏休み明けに花奏の過去を知った日以来。
あの夏の足音が遠ざかる日も
今になっても未だに
何の力にもなれなかったけれど、
これでも出来るだけ
花奏の隣にはいるようにして来たつもり。
当初は離れたくて
仕方のない存在だったのに。
変だな。
どうにも隣にいて欲しい存在へ
私が知らないうちに変わってた。
花奏「…っ…うぅっ…ぐずっ………ひぐっ…っ。」
花奏と、一緒にいたい。
一緒にいたい。
そう思った時には
体は勝手に動いていて、
ぽん、と頭に手を添えた。
優しく、出来る限り優しく触れた。
歩「………頑張ったね。」
ハンバーグの乗っていたはずのプレートは
既に空になり、箸は元に位置に戻されていて。
それでも尚大粒の涙を
ぼろぼろと際限なく流し続ける花奏を
これ以上放っておくことなんて出来なかった。
美月は特に何も言うことはなく、
ただただ静かに見守ってくれていて。
花奏「…ぁ…ぅ………うぅ…っ…。」
罪悪感で雁字搦めにされ
その場で動けなくなってしまった花奏を
放っておくなんて出来なかった。
涙を袖で拭うことなく
そのままにしているものだから、
膝まで被さる布団に
幾つもの染みが出来てはすっと消えている。
それを繰り返している。
歩「花奏。」
初めて本人に面と向かって
名前を呼ぶ事が出来た。
それはどうにも擽ったくて
仕方のないものだった。
花奏はタイムリープをして
私を助けてくれた。
命を救ってくれた。
その感謝だって伝えられてないままだ。
今なら。
今なら、もしかしたら。
歩「…私のこと、助けてくれてありがとう。」
花奏「ぅ…あ、ぅ………ぇ…ぇっ…?」
歩「私が死なないようにずっと頑張り続けてくれてたんでしょ?だからその…」
言い終える前に気づいてしまった。
否、気づかない方がおかしい。
変わった。
違う。
違うのだ。
全くもって全てが違う。
花奏の纏っていた雰囲気が、
全て解かれたように思われたあの雰囲気が
がらっと一変したのを肌で感じた。
びりっと痛むほど、
その変容の仕方には寒気がして止まない。
ぼろぼろと涙を流していたはずが
嘘のように止まり
目をさっき以上に見開いたまま、
今度は私を凝視していた。
押し殺していた声も止み、
信じられないという表情で私を責めるように。
久しぶりに目があった。
虚ではないように見えるけれど、
まだあの日々に囚われている。
そんな色。
花奏「……ぁ……ぇっ…な、んで………?」
歩「…!」
花奏の声を、話し声は
いつからか聞けなくなってしまって。
最後にまともに話してから
1ヶ月は経っていた。
久々に聞く私に向けられた花奏の声は
糸よりもか細く、
簡単に事切れてしまいそうなほど
儚い形だった。
歩「嶋原から教えてもらったの。タイムリープをして、ずっと助けようとしてたって。」
花奏「ゃ……い゛…ちが、違…違っ…!」
歩「…っ!」
花奏が勢いよく布団を蹴った影響で
簡易テーブルががたんと揺れる。
それを気にする間も無く
花奏は脇腹を抑えて
否定の言葉を紡いでいた。
駄目、だった…?
嫌な予感が頭を真っ黒に塗りつぶし出す。
刹那、予感は当たったのか
ひゅう、ひゅうと
細い息が不気味な手を伸ばして。
花奏「ひゅ…ひゅっ、はっ、あぁっ゛……は、はぅううっゔぅ…!」
歩「…何で」
美月「歩、ナースコール押して!」
花奏「いっ…い゛ぁあぁっ゛、はっ…はぁあぁ゛ぅっ…!」
歩「……花奏…。」
必死に痛いところを押さえつけて
体操座りのようにしながらより蹲る姿。
私より背は相当高いのに、
私より小さく縮みこむその姿。
どれだけ自分を責めてしまったら
そんなに、そんなにまで苦しむの?
美月は駆け寄り簡易テーブルを
直ちにずらしてくれるも
その所作はほぼ視界に入ってこない。
ベッドの上で何度も蹴るものだから
布団がほぼ落ちてしまっている。
長い長い髪が綺麗に広がっていて。
きっとこのまま今まで通りに
対処したって何も変わらず
この凝り固まった感情は
溶かすことなんて出来ないだろう。
花奏。
ねぇ、花奏。
花奏「はぁ゛…あぁぁあっ…あぁ゛……ぃ、だい、はゔぅっ…!」
美月「ナースコー」
歩「…待って。」
美月「はっ…?」
歩「まだ呼ばないで。」
ベッドの上で暴れ続ける花奏へ手を伸ばす。
それだけじゃ届かないから
片膝をベッドへと乗せ、
花奏の頭や背中を抱えるように
力一杯抱きしめた。
暖かい。
人間の体温だった。
間違いない。
花奏の体温だった。
私を引き剥がそうとしているのか、
抱きしめる私の腕をぐっと
爪を立てて掴んだ。
遠慮なしに強く掴むものだから、
今頃腕は爪痕だらけだろう。
それでもいい。
それでもいいから、今は花奏を
放したらいけないと思った。
花奏「ゔぁあぁっ、あぁあぁ゛っ…あぅゔっ…!」
歩「花奏、聞いて。」
花奏「ぃ゛ぁ…いや、い゛いいぃっ、あぁゔぁあぁ
っ…!」
歩「お願い。花奏。」
花奏「はっ…はぁっ゛…かひゅ…はっ…あぁぁっ…。」
歩「花奏っ…。」
花奏「ゃ………ぁ゛、いづっ…だぃ゛、いゃ゛、ぃ…っ!」
歩「………っ…。」
いつまで過去の私を見てるの。
ねぇ。
私、花奏のお陰で今ここにいるのに。
生きてるのに。
あんたはいつまで死んだ私を、
もう存在しない私を見てるの。
いつになったら
私がここにいるって気づいてくれるの。
歩「……かな、でっ…。」
私はここに居るよ。
花奏の隣に居るよ?
今、息をして
しっかり自分の心臓で生きてるよ?
花奏。
花奏は私のこと、助けたんだよ。
自分を認めてあげてよ。
ここにいる私の事を認めてよ。
呻き声を上げ続ける花奏の耳に
心臓を当てるようにして
更に強く抱きしめた。
花奏「はゔぅゔっ…あぁぁあぁっ゛、ひゅ…ふぅっ…!」
歩「花奏、聞こえる?」
花奏「がっ……はっあぁぁっ、あ゛ぁあ゛っ!」
歩「聞いて。心臓の音、ちゃんとしてるから。」
花奏「ぁあぁっ゛…ゃ、ぁ゛…や、だ……ぃ゛」
歩「お願い。聞いて。」
花奏「ぁ゛…ゔうぅぅぁ゛…ゃあぁ、ぃ゛っ…」
歩「私、生きてるよ。」
ひと言ひと言が、
ここにいる花奏に届きますように。
花奏「ぃだ、ぃ゛…いづっ…は、はっ…んぁい゛、て…ぇ゛っ…」
歩「花奏のお陰で、今、私生きてるの。」
届いて。
届いて、お願い。
歩「生きてるんだよ、花奏っ…。」
花奏「はゔっ…ぇぅ、ぇ…ゔっ…」
緊張か、不安か、
また別の何かか。
血液を勢いよく回しているのか、
自分でもどくどくと
人体の音がしているのを感じる。
運動した後のように
汗が服の裏側に染みていた。
少しばかり花奏の髪を
くしゃっと歪めるほどに必死で。
ふわっと、花奏の匂いがした気がするが、
病院のものと混ざってしまって
どうにも微々ながらずれている。
美月は何も言わずに、
ただ何かあればすぐに
コールを押せる位置で
こちらを見つめるだけ。
生きてるよ。
安心して。
生きてるの。
花奏のお陰だよ。
それを伝え続けた。
すると、ゆっくりとだが
呻き声の濃度は低くなっていき、
やがて荒く息をするだけとなっていた。
ふー、ふぅー。
威嚇している獣のように獰猛な息遣い。
比較すれば落ち着いたとはいえ、
どんなきっかけがあって
また気絶してしまうか分からない。
奇跡なんだ。
私を前にして今、
意識を失っていない事が奇跡だった。
花奏「…はぁ゛、はっ…ひゅぅうぅっ…。」
歩「…。」
花奏「…ふー…ひゅっ、はぅ、うぅ…。」
歩「花奏。」
爪を立てていた手は
私の腕から外れることはなかったが、
力は幾分も弱めてくれていた。
それで十分だった。
それだけで嬉しいと思うのは
もはや病気だろうか?
歩「…1人で抱えなくていい。」
花奏「はっ…はゔっ…ぅ……っ。」
歩「思ってること、考えてること感じてること、全部私に言っていいんだよ。」
全部でも、
たとえひと言でも。
それでもいい。
いいの。
少しだけでも花奏の背負うものを、
重い重い抱えきれないものを
下ろしてあげたい。
少しだけでも。
歩「……いいよ。」
花奏「ふぅー…はぅ、ぁ、ぅ…っ!」
歩「…。」
花奏は首をぶんぶんと強く横に振った。
拒絶。
否定。
そればかり。
最近、花奏から手向けられるのは
いつだって超えられないと
絶望してしまうほどの壁ばかり。
それでも、寄り添っていないと
花奏は今度こそ本当に
消えてしまいそうだった。
歩「否定しないであげてほしい。自分を許してあげてよ。」
花奏「ぁ、うゔぅっ…ふー…。」
それでも否定を続けるの。
爪の食い入っていた部分が
漸くひりひりと痛み出した。
傷が痛むってきっと
こういうことなのかもしれない。
歩「誰も花奏のこと、責めてない。」
…。
…。
歩「自分を大切にしてあげてよ。」
…。
…あぁ。
歩「花奏…っ…。」
…。
ただの、エゴだ。
歩「じゃなきゃ…私が辛い……よ…。」
花奏「…っ!」
エゴだ。
私が嫌だから。
だから、なんて道理として
なっていないのかもしれない。
嫌だ。
嫌だよ。
このままずっと花奏と話せないとか
顔すら合わせられないとか。
そんなの絶対嫌だ。
花奏は何を思ったのか、
ふと威嚇することも辞めて
静かになってしまった。
眠ったのかと思うほど。
花奏「…ぅ……。」
ぎゅっ、と。
今度は爪を立てずに私の腕を掴んだ。
両手でしっかりと離さないように。
苦しみをそうすることで
逃しているように。
血でも滲んでいるのか
腕がぴりぴりと仄かに痛んでいる。
花奏「ぁ……ぁぅ…う…。」
歩「落ち着いてからでいいよ。」
花奏「ぃ…っ……す、ぃ…っ…。」
歩「……。」
花奏「ぃた……ぃ…ぃ。」
歩「…。」
何かを伝えようとしてくれているのは
それとなく分かるけれど、
息も絶え絶えで上手く
受け取る事が出来なくて。
それからはうぅ、と力無く
微々ながらに唸るだけの時間が続いた。
ゆるりと腕を掴む力も
緩くなっていたけど、
突如意を決したのか
ぎゅっと強く指に力を込めた。
歩「…?花奏…?」
花奏「…し、ぃ…。」
歩「…。」
花奏「し……ぃ、にた…ぃ……っ…。」
歩「……っ。」
花奏「……しに……た…っ…ぃ…。」
腕がちぎれるのではと思うほど
力の入った手。
私よりも幾分も大きな手。
絞るような掠れた声。
ここまで悲痛な声があろうか。
擦り切れて、すぐ消えてゆく。
どんな糸よりも細い声。
手癖なのか、
頭を1度ふわりと撫でた。
ごめんね。
私、いい人じゃないから。
歩「…っ…今まで言わないでって言われた言葉だってあったかもしれない。それも今は忘れて。忘れて、どんなことでもいいから……。」
体温が癖になる。
信じられなかった。
信じたくなかった。
誰かに、この言葉は言うな、と
抑制されていて、
その結果死にたいとしか
言えなかったと思いたかった。
死にたいという言葉が
自由な言葉だと思いたくなかった。
花奏「…………ご、め……な、さ………ぃ…。」
歩「……!」
花奏「……ごめ……ん…なさいっ………ご、めんっ……なっ…さぃぃ………っ…。」
歩「……っ。」
花奏「ごめんなさいぃっ……ぃ…っ…。」
歩「…うん。いいよ。許すよ。」
罪悪感が全ての根源なら、
罪だと思ってやまないなら。
それなら、花奏が罪だと思っているものを
許すこと以外何が出来ようか。
歩「…ありがとう。」
花奏「……っ。」
歩「ありがとう、花奏。」
ありがとう。
今まで面と向かっては
あまり言ってこなかった大切な言葉。
歩「助けてくれてありがとう。」
おかげで私、
今不自由なくここにいる。
歩「花奏のおかげだよ。」
花奏「違う、ちがっ…私、なん……か、いも…こ、こ……ろし…て………っ。」
歩「花奏のせいじゃないよ。」
花奏「ゃ…ちがっ…」
歩「花奏はどうでもいいことまで背負いがちなんだから。」
不意に笑みが溢れた。
何故だろう。
花奏はいつもそう。
いっつも。
何故だろう。
理由も分からず目の前が霞んだ。
瞳にまつ毛でも入ったのか、
目頭がじんと痛む。
歩「私本人がいいよって、許すよって言ってるんだからそれでいいんだよ。」
花奏「…っ……で、も」
歩「花奏のせいじゃない。だから大丈夫。」
花奏「…ぁ…うぁ…っ。」
人間は体だけ生きててもしょうがなくて、
人間は心が生きてこそ救われる。
だから、今度は私が。
花奏「ぐずっ…ううぅぅうぁっ……っ。」
歩「……大丈夫だよ。」
花奏「ひぐっ……あぁぅっ………んぐっ…。」
歩「ずっと1人で頑張っててくれたんだよね。」
花奏「…っ…うああぁっ………うあぁあ…。」
歩「気づくのが遅くなってごめんね。」
花奏「ひぐっ…んぐっ…ああぁあぁっ、あうぁうあぁっ…!」
歩「ありがとう、花奏。」
花奏「…ああぁあぅ…あぁぁぁぁっ…ぅぐっ…。」
歩「…ありがとう。」
噛み締めるようにひと言、
泣きじゃくる花奏へと投げかけた。
数分後、私の腕を再度強く掴み直して
ひとつ、小さくだが頷いてくれた。
ありがとうを受け取ってくれたのだ。
そう解釈せざるを得なかった。
ありがとうを受け入れると言うことは
私を助けてくれたこと、
その道中何回も私の死を経験したことを
受け入れるということ。
今いる私を受け入れるということ。
それは花奏にとって
大きな壁だったと思う。
乗り越えたんだ。
罪悪感如きに負けずに。
凄いよ。
凄い、花奏。
漸く心の鎖は解かれて、
白い部屋に風が吹いた気がした。
鼻を啜る音が他からもする。
美月だろうか。
私も私で目からつうっと
何かが伝っていった気がした。
やっと、何気ない11日と12日が
終わりを迎えたのだった。
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