退院

「お大事にどうぞ。」


父さん「ありがとうございました。」


花奏「……。」


お世話になった看護師さん達に一礼して

病院を後にした。

父さんはいつも以上に言葉少なく

私の隣を歩いている。


ほろ、と雨だろうか。

露が頭に降ってきた。

どうやら朝と昼の寒暖差で出来た

朝露のようなものらしく、

木の下を歩いていたのかと漸く気づいた。


何もない日だった。

空はぼんやり晴れていて、

きっと今日はいい日だと陽も訴えている。


父さん「…。」


花奏「…。」


駐車場に着くと

父さんは車の扉を開けてくれた。

それに甘え後部座席へと腰をかける。

私が座ったのを視認した後優しく扉を閉め、

何やらトランク内を物色した後

運転席へと向かったのだった。


と、すす。

座るタイミングで薄く伸びた布の擦れる音。

かこんと硬いものがぶつかったような

響きがしていた。


父さん「これ飲むかい?」


花奏「……。」


父さんの手には緑色の

ラベルが貼られたペットボトルが2つ。

お茶かと思ったがよくよく見てみれば

抹茶の飲み物らしい。


花奏「…うん。」


あんまり手を伸ばすことが

出来ないことを悟ってか

父さんはぐんと体を伸ばし

私の隣の座席へ置いてくれた。


飲むとは言ったものの喉は乾いてないな。

そう思って意味もなく外を眺めていた。

同じ身長くらいの男性2人が

病院内へと歩いていく姿が見える。


父さん「蓋、開けたほうがよかったな。すまん。」


花奏「……すぐ飲まないから大丈夫。」


父さん「…そうか。」


再度伸ばしかけた左腕は

そそくさとハンドルへ戻っていった。


父さん「…出発するぞ。」


ぶうん、と車が唸り出した。

久しぶりに外をまじまじと眺める。

変わらないもんだな、とは思った。

それだけだった。





***





車が小さな段差で揺れるたびに

ぴりっと傷へ電流が走った。

車が揺れるたび隣の抹茶は跳ねて、

ついにはごとりと床へ落ちてしまってた。

父さんは軽く謝りながら

信号待ちの時に拾おうとしていたが

家に帰ってからでいいと伝えると

素直に「わかった」と言って応じていた。


1時間は流石に経っていないだろう頃、

私は家に着いていた。

移動中は眠ろうとしても

傷が痛むせいで眠れず、

くるくると移り変わる外をなぞっただけ。


父さん「父さん、ちょっと買い物してくるから先入ってて。」


花奏「…うん。」


私の返事は全てワンテンポ遅く、

父さんもそれを見兼ねているのか

気長に待ってくれていた。

はい、と家の鍵が手渡される。

見慣れたはずの鍵の形は

今では異形に映った。


地に足を下ろす。

さっきも病院から出る時に

勿論足はついていたが、

また異国の地に踏み入れるかのような感覚。

自分の家が不気味に見えたのは2回目だった。


父さん「じゃあ、すぐ帰ってくるから。」


花奏「……いってらっしゃい。」


父さん「ああ、いってきます。」


特徴のないシルバーの車は

私が少し離れたのを確認した後

エンジン音を立てて走り去っていった。


木造の平家であるこの家。

久々に中に入ると

なんだかカビ臭い気がした。

こんなんだったっけ。

低い机。

古い箪笥。

錆びた蛇口。

私がいない間に随分と

時が経ってしまったかのような錯覚を覚える。


ゆっくりと自分の布団に腰を据える。

なんとか歩くことはできるが、

とてつもなくゆっくりだ。

そして左手でものを掴むにはまだ痛んだ。


脱ぎ捨てたはずの制服は丁寧に

ハンガーにかかっていて、

びしょ濡れで見るも

無惨な状態だったはずの学生鞄は

ぱりぱりに乾いていて雨特有の跡があった。

結局今、外は限りなく晴れ。


花奏「……。」


じっとしていたいのに

足がうずうずしてしまって

発作のように鞄から教科書や筆箱、

事件の前日のままで重量のあるお弁当箱を

床に散乱させた。

よくこんなたくさんのものを持って

登下校してたな、って思う。

よく肩潰れなかったな。

凄いな、と漠然と感じた。


それから触り心地の悪い

ぱりぱりに乾いた鞄を家の裏手の

小さな小さな庭にひっくり返して置いた。

この季節、この気温ということもあり

羽虫は少なかったが

地面には蟻が数匹いるように見える。

雑草の種子だったのかまでは

見当がつかなかった。


それから再度部屋に戻っては

えんじ色のシミすらついていない

私用の鞄を手に取った。

中には、図書館の机の上に広げていたはずの

もうひとつの筆箱やノート、

定期券などが入っていた。

何故か化学の問題を解いている途中の

ただのコピー用紙までもが入っている。


花奏「……これ………私の…違うのに…。」


例の難題は途中で終わっている。

15分で片付くどころか

約2週間経っても解決してなかった。


ふと、自分の左手を見てみる。

まだ包帯が巻かれていた。

これからは自分で包帯の巻き直しとか

しないといけないらしい。


どうしようかな。

何をしよう。


家に帰ってきたはいいものの

することもしなきゃいけないことも

したいことすら無くなっていた。

寝転がりたいのも山々だが

なんだか引っ掛かりを感じて

憚られてしまう。


スマホを見る気にもなれなくて

電源はいつからか切れたまま。


頭の奥ではオルゴールが鳴っている気がした。

どこで聞いたのか不明だが

ぴー、ぽー、と2音のみ繰り返している。

特有の電子音は記憶に棲みついて

どうやらゆっくりと眠っているようで。


花奏「…。」


家は、どうやら息絶えてしまったみたいだった。

切なさを覚え、縋るように

お母さんの前へと身を寄せる。


笑ったまま動かずに10年ほど経ったが、

今も尚笑い続けているお母さんの姿があった。

泣き崩れる父さんの姿を今も覚えていた。

それはどうも美月と重なってしまう。


花奏「………ただい、ま。」


手を合わすこともせずに

徐に話しかけた。

近くに見える花は隅が枯れ始めて

渋く茶色が顔を出す。

座布団も敷かずに畳の上で

座っていたからかな。

足を見るとうじうじした柄が私を見ていた。


花奏「………………うん…。」


意味もなく返事をしてみる。

こんなにも言葉が浮かばないことってあるんだ。

いつもなら最近あったこととか

話していたと思うんだけどな。

あまりに困ってしまって居心地が悪く、

ついには耐えきれなくて

キッチンへと足を伸ばした。


シンクには溜まった洗い物。

それからカップラーメンの抜け殻。

冷凍食品のゴミ袋。


父さんはここ2週間碌な生活を

していなかったことが窺えた。

ただ、ゴミは指定日に出していたのか

大きな袋は見当たらない。


水。

飲もうと思ってコップを持つ。

日陰に佇んでいたからか

これはまた随分と冷えている。

おまけに水道水も冷たくて、

胃や頭を冷やすには十分すぎた。


ふと、転げた抹茶を思い出す。

そのまま放置していたのを忘れて

なんなく家に入ってしまった。

何故だろう。

湊の喜び跳ねる姿が浮かんだ。


花奏「……。」


あぁ。

何しよう。

勉強?

…気分じゃないな。

何かをしていないと

溺れてしまうとさえ感じている。

何かをしてないと、それこそ崩れてしまう。

逃れるように何かを探している。

けど、見当たらない。

何かが見つけられない。

そのもどかしさに反吐が出かかった。


食卓でもある低い机に

先輩からもらったストラップを置いた。

呼吸しづらそうに見えたから

透明な袋から取り出して寝かせる。

黒焦げた部分はもう動かない。

青い部分だってもう動かない。

青いイルカだったはずのストラップ。

今見るとさらに焦げてしまったように見える。


「花奏。」


そう、誰かが呼んでくれた気がした。

誰だろう。

結局歩は今でも尚意地を張って

花奏とは呼んでくれないのだ。


小津町。


そう、呼ぶんだ。

爪を見る。

伸びていた。


思えばこの家は何もないことがわかった。

よくこんな家で暮らしていたなと思う。

自分の家が不気味に見えたのは2回目だった。

1回目は、父方のおばあちゃんが亡くなって

以後この家に引っ越して来た時。

以前住んでいたところから、

田舎から逃げてそのまま住み着いた時のこと。

幽霊が住んでるとよく思ったものだ。

今では私たち家族が住んでいる。


再度自室に足を向け、

布団に座った後自分の枕を抱えた。


変な匂い。


鼻がそこそこにいい私は

この違和感に気づけていた。

取り巻く違和感には

気づけずにいた。

私自身のおかしさには

気づけなかった。


花奏「………。」


大きく1つ、深呼吸をする。

からからに乾いた空気は

喉を刺激して痰を絡んで吐き出される。

ぎゅっと両手で枕を抱えた。





°°°°°





花奏「…。」


歩「…何してんの?」


花奏「匂い嗅いでる。」


歩「…なるほど。」


花奏「ちょっと臭い。」


歩「ぷ…あはは。なにそれ。」


花奏「本当本当。」


歩「あんたって結構鼻効くよね。」


花奏「多分、そこそこ。そんな遠い距離まで嗅ぎ付けれるってわけじゃないけど。」


歩「ふうん。」



---



歩「…小津町の家の匂いだね。」


花奏「そう?」


歩「そ。他の人ん家の匂い。」





°°°°°




…。

…。


少しの間息を止めた後、

思い立ったように歩き出し

靴を履いて外へ出た。





***





外は何にも変わらなかった。

寧ろ家の中だけが変わっていたまである。

家から出たはいいものの

何をするかやはり戸惑い、

結局は玄関前で扉を背に

体育座りをしているだけだった。


今までどうやって過ごしてたんだっけ。

病院内では死んだように過ごしていた。

何にもできないし

最初のうちは考え事をしていたけど

考えるのだって疲れてしまった。

何も考えたくなくなった。

その後数日は眠ること以外することがなく、

眠っては図書館にいる夢を見た。

いつしか、眠ることも億劫になっていたっけ。


目を閉じるといつでも彼女の

悲痛な悲痛な叫び声が鳴り響く。

頭の中での私はいつも図書館にいて、

血濡れた床の上に立っているんだ。


「…花奏?」


花奏「…?」


上から降る声に反応して

閉じていた目を開ける。

思っていたよりも日は落ちかかっていて

目先にはシルバーの車が見えた。


父さん「鍵、開かなかったかい?」


花奏「…ううん、開いた。」


父さん「そうか。お寿司買って来たんだ。食べよう。」


花奏「…うん。」


父さん「寒いだろうから家に入って待っててくれ。」


花奏「分かった。」


ぐう、とだれた音が鳴る。

腹の虫は私以上に元気だった。


それから父さんは車を車庫に入れ

じきに家へと戻ってきた。

久しぶりに食べる塩分多めの食事は

欲を潤すと共に口の中を渇かした。

しょっぱいというのはなんとなくわかるが、

新鮮そうな見た目にも関わらず

味がしなかった。

山葵だって辛さが抜けてしまったのか

全然びりっとこない。

なんなら歩いた時の方が

手やら腰やらにびりっとくる。

美味しくないお寿司だな、って思っちゃった。





***





夜はあっという間に両手を広げ、

私有地だと主張してきた。

父さんはそれに託けてか否か

お風呂に入らずすぐに寝てしまった。

「すまんな、今日はもう寝る」と

私にひと言残して。

それから、「花奏も早く寝るように」

…なんて言っていた覚えがある。


花奏「…。」


上の空で聞いてなかった。

私は食事が終わってから未だ

1歩どころか一動もせず

食卓の前に座ったままだった。

こち、こちと古臭い時計の音がする。

電気はつけっぱなし。

消すにも気力がいるものだ。


花奏「…。」


背にはお母さんが見守ってくれていた。

夜らしい。

カーテンは父さんが閉めてくれてたのか

光は外へと漏れていない様子。


わんわん、と吠え盛る犬の声が耳を掠める。

夜だ。


家の前をトラックが通ったのか

窓ガラスが一斉に輪唱し

また一斉に黙って行った。


夜だった。

紛れもなく、今日の夜だった。

もうすぐで明日だ。

待ち望んでいない明日だった。


漸く決心がついたのか足を座布団から離し

身ひとつで玄関へと向かう。

特大音量でのいびきが遠くから聞こえる。

まだ寝かせておいてあげよう。

そう思い、音が立たぬよう

静かに静かに鍵を開けた。

ちり。

微々たる音は木を僅かながら揺がすも

父さんには届かないようだった。


外に出ると異様に冷えた。

ぶるりと身震いをひとつ。

羽織を持ってきたらよかったと思ったが

取りに帰る気にはなれなくて

そのまま家を後にした。

今、何時だろうか。

そう思っていたら近所の公園には

『11:20』あたりを指したアナログ時計。

そっか。

そんな夜中だったんだ。

道理で足が痺れるわけだ。

よたよたとしながら目的地へと向かう。


花奏「…………ふぅ…。」


手先がありえないほど冷え、

痛いほどにまでなっている。

ふぅ、と息を吹きかけても

温まるどころかさらに冷えてしまった。


とた、と猫が猛ダッシュで過ぎる。

かと思えば横から車がのっそりと顔を出した。


猫の抜け道を横切り、

沈んだ一軒家を横目に、

脆弱な住宅街を抜け、

2駅先まで覚束ない足取りで辿った。


かんかんかん、と踏切が鳴る。

悲痛な声をあげていたのに

助けさえ求めない彼女の声が浮かんだ。

声から忘れていく、なんて言うけれど、

忘れるどころか色濃く残り

爪痕だらけになっている。

この傷はきっと一生物だ。


歩は。

歩は何をしてるのかな。

まだ美容院に就けるようにと

練習をしているのかな。

あの部屋で料理でもしてるのかな。

こんな時間だからバイトかな。

いや、受験生だからバイトは

ほとんど入っていないと言っていたっけ。


花奏「…つい、た。」


いつもなら2駅程度、

歩けば1時間ほどで着くはずが

今日ばかりは更にかかった感覚がした。

時計がないから分からないが

確実に日付は超えただろう。

信号では青になった瞬間渡り出しても

ちかちかと焦らさせる中漸く渡り終える

なんてことが多々あった。

ただ、私だって痛いのは嫌なので

ちかちかしたって赤になったって

焦らず歩いていた。

そもそも車通りは少なかったから

安心していた…気がする。


そして。

目の前に立ちはだかる例の廃墟。


1歩、また1歩と足を踏み入れる。

夜の廃屋はまた違った不気味さに塗れていた。

階段では転ばないように、

いつかの時とは大きく違い

踏みしめるように歩いた。

月がだんだんと大きくなっていくように

錯覚しだす私の頭。

屋上に着いた時には触れれるかとさえ思った。


例の機械は、まだあった。


ここにまだあると確信していたはずが

安心のあまりかため息が漏れる。

疲れもあり、片足を引きずるようにして

奇妙な物体の前まで行き、

それを背にして硬い床に座った。

こてん、と体を横に倒す。

自然と左側を天井に向けて寝転がっていた。


花奏「…………冷た…。」


床はひんやりとし過ぎていて、

足先はもう殆ど感覚はなかった。


私が入院していた2週間。

それは病院でのご飯のように

なんとも味気ないものだった。

病院に運ばれて2、3日程で

意識はしっかりと戻ってきた。

それからほぼ寝たきりの生活。

歩は生きていて、別の大きな病院で

治療を受けていると聞いた。

けれど、そんなのは嘘だとすぐ分かった。

優しい嘘のつもりだったんだろうけれど

正直気休めにもならなかったんだ。

だから直接聞いた。

「本当は亡くなったんだろう」と。

看護師だったか医者だったか、

渋い顔をしながら肯定していたっけ。


結局のところ、歩は生きられなかった。

あの時額を寄せ合って眠ったのを最期に

歩は私の近くから居なくなってしまった。

葬式には出れなかった。

病院の中で静かに、

葬式は終えたという旨を誰かから聞いた。


ついでに、美月も亡くなったと聞いた。

何故なのかもっぱら疑問だったが、

思えば美月を助けたのは歩だった。

同時刻に起きた事故事件は

私たちの心をぼろぼろにするには

十分過ぎたんだ。

入院中、麗香がお見舞いに

来てくれた事があった。

珍しく1人で行動してるなと思えば、

愛咲も羽澄でさえもショックは大きく

学校に行くこともまちまちなんだとか。

聞いた話だからなんとも言えないが

正直意外だなって思ったことは確か。

なんでだろう。

みんなのことを薄情だなんて

思ってたわけじゃないけど

それほどにまで心的負担がかかるとは

思っていなかったといえばいいのだろうか。

いい意味で期待をしていなかった

というのが正しいのか。


愛咲は酷く後悔しているなんて話も

耳にした気がする。

「力になれなかった」。

そんな事を言っていたと聞く。

私は意識ここにあらずといった感じで

ただ目を閉じ、時々開いてはまた閉じた。

それでも麗香は構わず話を続けた。


美月が亡くなった事で

波流は特に深く傷を負ったのだとか。

他校のことだからそこまで正確じゃないけど

部屋に閉じ籠りっきりという噂も

たっているらしい。


交通事故を起こした人間、

殺傷事件を起こした人間共に

既に捕まったらしい。

交通事故に関しては

前回以前より知ってる内容と変わらず。

あの真っ黒な服を着た男に関しては

笑いながら図書館から出てきたところを

警察に取り押さえられたらしい。

麗香の話によると、犯人は

「自分好みの女の子が刺されて

苦しんでいる姿を見たかった」

なんていう独白をしたという。

最近話題になっていた中高生の殺傷事件は

全てそいつがしたことであり、

そんな連続事件を起こす前は

自分で自分の腹を抉って楽しむという

異常行動を起こしていたとか。

どっちにしろ快楽犯ってことには

変わりなかったのだ。


それから麗香は私に対して

「花奏は何も悪くない」

と声をかけてくれた。

本当に悪くなかったんだろうか。

本当に?

図書館に誘ったのは私だ。

あの時自分が痛むのが嫌で

もう1度手を伸ばせなかったのは私だ。

それでも私が悪くないと言えるのだろうか。

なんて色々思ったが

考えることに疲れてしまい、

後の麗香の話は理解できず

通り過ぎるのみだった。


花奏「……………何も……。」


何も。

上手くいかなかった。

ここまで惨敗なのは初めてだった。

歩と美月は亡くなり、

私は負傷し、体は無傷の皆だって

心はずたずたに裂かれていた。


麗香だってきっと平気なふりをしていただけで

心の奥底では苦しかったのかもしれない。

見えないところで泣いていたのかもしれない。

けど、私にはそこまで想像できなかった。


私の体には後遺症は残らなかった。

今微々ながら程々満足に動けてるのだって

きっと、きっと幸せ。


花奏「…し……あ…わせ……か…。」


私の生涯は幸せだった。

幸せである筈だった。

小学生の頃、お母さんが癌で亡くなった。

真帆路先輩と出会えた。

彼女は2年ほど前忽然と姿を眩ませて

次会った時はもう棺の中だった。

今年の4月、みんなに出会った。

歩と美月が不慮の事故で、事件で亡くなった。

大切な人ばかり居なくなっていった。

消えていった。

沢山傷を負った、沢山逃げて来た。

逃げて来た結果0からのやり直しになった。

全部私のせいだった。

全てを置いて、捨てて逃げて来た。


もう、逃げちゃだめ。

誰かが耳元で囁く。


いつの間にか閉じていた目を開き、

右半身に力を入れて上体を起こす。

ごう、と血液が唸るももう慣れたことだ。

刺されてすぐの時と比べたら

…歩や美月の痛みに比べたら

こんなもの痛みにもならない。


花奏「…………。」


機械へと踏み入れる。

どれだけ願ってもきっと

11日の2時間目の末に戻るんだ。

それ以上前には戻れないんだ。

機械をいじり、11日より前に

戻るよう設定したかったが、

生憎紙に書いてあったんだ。


『操作パネルにある白いボタンを押せば

指定の日時まで戻ります。

その他部品、ボタン等を押すと

2度と機能しなくなります。

ご了承ください。』


はったりかもしれない。

けれど本当にもう戻れなくなってしまう方が

私は怖かった。


素直に白いボタンへと手を這わす。

この素直さがきっと邪魔なんだ。

そう分かっていても今更どうにもできない。

決心をして。

決意を。

…。


私はもう、何かがおかしいことに

気づけなくなりつつあったのかもしれない。


すち。

ボタンが下へと沈んだ。

脇腹はまだ痛んでた。

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