明日を待ち望む 時系列順

11月10日



今日も陽だまりとは仲良くしつつも

もうそろそろお別れの時間だろう。


11月に差し掛かり、

暑さとは無縁になってきたこの頃。

時々暑い日が産まれてくるけど

8月とか9月の比ではない。

夏からすれば涼しい日が

今では暑い日として疎まれていた。


花奏「んんー…。」


授業はとっくの前に終わっているも

未だに教室に根を張る私。

何がしたいのかと問われても

正直なところなんとも答え難い。

この時期だからここにいたい。

たったそれだけだ。


11月あたりになると

どうしても2年前のことが過る。

例の自殺を仕掛けた日のこと、

歩と初めて出会った時のことだ。

11月頃だと覚えているあたり

結構深い傷になっており、

その跡はくっきり残っている様子。

思えば今年の9月当初あたりは

まだみんな私の過去については

歩以外全く知らなかったんだっけ。

それに歩だって全てを

知っているわけではなかった。

そう思うと随分境遇は変わったなと思う。

しかし同時にみんなの対応は

何ひとつ変わらなかった。

暖かいままだった。

寧ろ麗香に至っては

より話しかけてきてくれるように

なったわけで。


花奏「…はぁ。」


背伸びのため伸ばした手を

緩めると声も緩んで落ちてゆく。


4月から不可思議な事が立て続けに起こった。

宝探しだなんて急に始まって

最初はよかったけれど愛咲が消えて。

それから聞いただけの話ではあるけれど

美月に異変が起こって、

波流がそれを手伝っていたらしくて。

初めて歩の家に乗り込んだのって

確かこのくらいの時期だった気がする。

無理矢理泊めてって言ったのだ。

その後麗香と羽澄が愛咲を

連れ戻しに行ってくれたらしく。

夏あたりに急に歩と美月が

仲直りしたのか距離が近くなっていて、

みんなで夏祭りに行って。

花火は怯えるがあまり

楽しめなかったけれど、

隣に歩がいたから多少大丈夫だった。


夏を満喫し、不可思議な苦しみなど

もう終わったかと思いきや

夏休み明けに大きな爆弾の手土産。

私の過去を全て晒さなければ

ならなかったあの日の事。

あの出来事は実際仕組まれていたのか

偶々森中が私を見つけて

崩そうとしてきただけなのかは分からない。

直近では2年生のみんなが

何やら巻き込まれたみたいな事を

うっすらと聞いたが3人とも

その件に関しては口を開こうとしないもので

実際どうなのかは分からない。

本当、いろいろあったな。


一気に回想を巡り、

漸く今いる11月に辿り着いたところで

ひと息ほっと塵を吐く。


花奏「歩、教室におるかなー。」


左腕をちらと見やる。

今日も綺麗な肌。

傷ひとつ見せてくれない頑固な偽り。

化粧って凄いと何度思わされたことか。

傷跡は治らないままな上

私の心の中の傷も癒えないままだが、

今が幸せだと断言できる。

みんなのおかげだ。


鞄を肩にかけるとからりと

夏のストラップが話しかけてきた。

「こんなところに留まっていないで

早く行っておいで」

そう諭しているようにも聞こえる。


花奏「行ってみるか。」


スキップをするように

片足でひとつ足音を教室の床に食わせ

廊下へと旅立つ。

夕陽が近いと不意に思う。

何しろもう11月、冬も同義。

生徒たちの制服は冬服一色へと

染められていた程だ。

時間が経つのは早いと思い知らされる。


定時制で通っているらしき子が

数人見受けられるような気がする。

それくらい時間は経っていたよう。

どれだけぼんやりしてたんだと

自嘲気味に呟きを落としかけるも

変な笑みが溢れるだけ。

私にはよくあることだった。

脳内でずっと考え事や会話をして

変なのって自分で笑ってしまうの。


花奏「ふんふふー、ふーん。」


誰にも悟られない程度の鼻歌を

廊下の酸素らに聴かせてやる。

彼らは楽しそうに振動して

ほんの少し周りへ広めてくれた。

散布された空気は行くあてもなく

その場で崩れていったけれど。


何の歌だったか思い出せないけれど

何となく頭を過った歌。

BGMだったっけ。

いつ聞いていたものだっけ。

それすら曖昧なままお供の鞄と

歩幅を合わせて歩いていく。


お目当ての教室が近づくにつれ

段々と緊張してきてしまう。

毎回そう。

歩がいるのかいないのか。

今日は話してくれるかくれないか。

誘いに乗ってくれるか無視されるか。

いつもどきどきしながら

教室まで足を運ぶのだ。

内心そんなことを考えているだなんて

歩はこれっぽっちも知らないだろうな。


花奏「ふふっ。」


木漏れ日が喜んで跳ねていた。

私の小さな微笑みも羽に見えた。


花奏「歩、いるー?」


教室を覗くと誰も居らず、

そのせいか私の声がしんしんと響く。

切な気に鳴く私の残響は

跳ね返ってまた私の元へ帰ってきた。

居場所がなくなったらしく、

ちっぽけな木霊を撫でるのみ。


花奏「そっか、居らへんかったか。」


そう言いながらも教室へと無断で

ずかずかと入っていく。

そして窓の方へ一直線。

行くべきところは決まってた。

まるで今年度初めて歩と

会った時のように迷いなく進むの。

鞄は1番後ろの窓側の席を拝借し

その上に置かせてもらった。

肩の荷が降り軽くなった体を重力に絡めて

消えてしまわないように地に足をつける。

大丈夫。

今はもう、飛ぶ為の道具はない。

気持ちもない。


かちり。

無意識ながら窓の鍵を開ける。

帰る時には施錠しなければ。

隅でそんな思考が体育座りをしていて、

それ無視するようにベランダへ1歩。

そしてまた1歩。

両足は外の風を受け涼しそうに顔を歪めた。


花奏「ほんま変わらへんな、この景色。」


あの日も運動部員は外で声を出しながら

走ったり筋トレしたりとトレーニングに

励んでいたのを遠目に見た記憶がある。

隣には冬服の彼女。

当時から髪はボブくらいだった気がする。

ざくっとした考え方で、

その触感は私にとっては異質で斬新で

素直に驚かされたんだ。

彼女の遠くを見る目は

私にそっくりだったのに

遠くではなく前を

向いていると気付いた時には

この人はすごい人だと漠然と感じた。

この人と仲良くなりたい。

この人のことを知ってみたい。

そう他人に対して思えたのは

久しぶりだったんだっけ。


それ以降今年の4月では

まさかの再会を果たした。

もう歩は卒業してるかもしれないと

思いながらの入学で半ば諦めていた。

けれど再会して、

しかも歩も私のことを覚えてくれていた。

これ以上の幸せは無いと

その時からずっと思っている。


花奏「んで、暫くずーっと毒しか吐かんかったよなぁ。」


「誰が毒しか吐かなかったって?」


花奏「え?」


ベランダの手すりに肘をつき

ただぼんやりと外を眺めているだけのはずが

つい口に出ていたらしい。

無意識とは恐ろしいものだ。


聞き馴染みのある声は

反射的に私を振り向かせた。

視界は黒髪をとらえ、風は四季を揺らす。

鞄ひとつこの教室にはなかったはずだが、

彼女は、歩は私の後ろで突っ立って

私へと声を飛ばしていた。


歩「え?じゃなくて。」


花奏「あはは、分かってるやろー。」


歩「私でしょ。」


花奏「あれあれ、自意識過剰なん?」


歩「合ってる癖に。」


花奏「まあ大当たりってとこや。」


歩「最悪、なんか腹立つし聞かなきゃよかった。」


花奏「残念やな。聞いた過去はもう変えられんでー?」


歩「ほんと残念。」


花奏「本気で嫌そうやん。」


歩「誰のせいだと思って。」


花奏「私ー。」


歩「大当たり。」


歩は私の方へ歩み寄り、

何をするかと思えば

肩をたしんと1回叩いた。


花奏「いったー、何すんねん。」


歩「うざかったから1発いれたの。」


花奏「理不尽極まりないな。」


歩「意地悪をしたあんたが悪い。」


肩には自分の熱がじんわりと篭り出す。

歩はにたりとこちらへ

薄い笑みを蒔いた後どこへ行くかと思えば

私が鞄を置いた隣の机に自らの鞄を投げ

私のいるベランダへとやってきたのだ。

そして隣まで来たと思うと

さっきの私のように縁に肘を乗せ

頬杖をし出した。

いつもの体制だ、と

心の中で歓喜の声が上がる。

いつものポーズを見ると

どことなく安心している私がいた。

さっき軽くながら殴られたし

その仕返しにでもと

隣にいる彼女の頭に手を乗せた。


歩「…!離せ、やめろって!」


花奏「はいはいごめんやん。」


歩「謝るくらいならやるな。」


花奏「叩いた仕返しや。」


歩「最悪。」


花奏「ほんまに触られるの苦手よな。」


歩「きもい、無理。」


ぱ、ぱっと頭の上を

払うような仕草をしている。

その後、髪を整えるかのように

手櫛を1回だけしたのだった。


歩は、人に触れられるのは苦手だった。

それは今年度の4月に

出会った時から知っている。

そういう人もいるものだと

勿論分かってはいたものの、

実際目の当たりにすると

そんな人もいるのかと

少々衝撃を受けたものだ。


しかし、歩から人に対して

触れることはそう苦手でも

ないのかもしれないと思うことがある。

例えば花火の時。





°°°°°





歩「小津町。」


花奏「ん?」


歩「消すよ。」


ぱっと花火を持っていた方の手首を掴まれ、

そのまま地面の方へ下ろそうとしていた。


花奏「待って。」


歩「…。」


花奏「待ってや。…最後まで見たい。」


歩「…あそ。」





°°°°°





トラウマのひとつとも言えるのかもしれない

手持ち花火をした時、

私の心の動きを察知して

花火を消そうとしてくれた。


またある時は。





°°°°°





歩「頑張ったよ。」


花奏「……ぅ…ぁ………っ…。」


あれ。

なんだか変な声が漏れた。

すると、何故だろう。

視界が唐突に霞むものだから

どうしようもなくなってその場で固まる。


堰を切ったようにぼろぼろと涙が溢れてゆく。

別に、泣こうとしたわけじゃないのに。

人の優しさに甘えようなんて

考えていたわけじゃないのに。

同情を誘いたいわけでもないのに。


何で泣いているのかが

私には当分理解できそうにない。


歩「……小津町、ありがとう。」


本当、柄にもなく

歩さんはそっと抱きしめてくれた。

覚えてる。

だって彼女は人に触れられるのを

極端に嫌っていたはずだ。

だから、こんなことをするはずがないのに。

ぼろぼろと溢れては

止まるところを知らず、

歩さんの肩を濡らした。

鼻を啜れば、初めて彼女の香りを

直で吸ってしまった。

少し柑橘っぽいような香りだった。

やがて鼻は詰まっていき

何の匂いも分からなくなってゆく。






°°°°°





そして今、私を叩いたことだってそう。

これは、自分から触れることは

苦手ではないということなのか、

それとも私だからなのだろうか。

後者であれば嬉しいこと

この上ないのだけれど、

きっとそんなことはない。


花奏「なんでそんな苦手なん?」


歩「何してたの。」


花奏「わ、あからさまに話逸らすやんか。」


歩「な、に、してたの。」


言葉の圧がかかる。

未だに頬杖をつきながら

不快そうな顔をしていた。

探るなうざい、と心の声が漏れている。

流石にこれは深掘りせんほうがいいのだろう、

そう判断して外へと視線を移す。


花奏「見ての通りぼんやり。」


歩「ああ、ほんと見ての通りじゃん。」


花奏「今鼻で笑ったやろ?」


歩「ふっ。」


花奏「あー、わざとやん。」


歩「はいはい、わざとですー。」


歩はいつからこんな

距離が近くなったんだっけ。

前は隣になんて絶対来なかった。

寧ろ私を嫌悪してか離れようとしていた。

まだ多少距離は空いているというか、

信頼はしているけど

信頼しきっていないというか

そういった蟠りは私の中ではある。

けれど歩からしたらそんなこともないのかな。


さっきみたいに肩を叩いてくるなんて

初めて会った時からすれば考えられなかった。

まあ触られるのは未だに物凄く

嫌いなままのようだけど、

歩は少しずつ変わっているようで。

私だってきっと変わっていってるのだろう。


花奏「そういや歩こそどこに行ってたん。」


歩「ああ、さっき?」


花奏「そうや。」


歩「普通にトイレ。」


花奏「なーんや。」


歩「帰ったと思った?」


花奏「うん。鞄ないねんもん。」


歩「あんたみたいにふらーっと教室に誰か来て盗難でもあったら大変でしょ。だから持ってっただけ。」


花奏「あはは、確か最近多いって言ってたしな。…ってトイレの床に置いたん?」


歩「馬鹿なの?背に置くとこあるでしょうが。」


花奏「あんな狭いところ乗るん?」


歩「荷物少ないから余裕。」


花奏「教材持って帰ってないのばればれやで。」


歩「家で使わないやつばっかだからいいの。必要なやつはちゃんと入ってる。」


そう言って歩は自分の鞄へと視線を移す。

手と頬は離れ一時的に休戦。

虚な教室内に佇んでいた、

草臥れていて凹んでいる鞄は

荷物は少ないことを物語っていた。

多分単語帳とか筆箱とか

必要最低限の物しか

入れてない感じの見た目。

それすら歩らしいと思ってしまう。


花奏「受験、するんやっけ。」


歩「そ。」


花奏「そっか。頑張ってな。」


歩「当たり前でしょ。」


また外を向き肘をつく彼女。

そうさらっと言ってしまうあたり

かっこいいだなんて思う。

前からそうだ。

大切な事こそ針を刺すように

言葉で人を刺すように断言する。

そっか、なるほどなって毎回気付かされる。

どうやったらこんな真っ直ぐな

生き方ができるのか知りたかった。

今も知りたいのだ。

2年前から変わらずずっと。


歩「あ、そうだ。小津町って何の科目が得意?」


花奏「理系科目大好きやで。」


歩「そっか。なら今度化学教えてほしい。」


花奏「下級生に教えてって言う受験生がおるかいや。」


歩「あれ、同い年?」


花奏「それ言われると何とも言えへんやん。」


歩「あんた前言ってたよね?同年代の人達に遅れを取ってるから自分で勉強してるって。」


花奏「あはは、そんなこと言ったな。懐かしー。」


歩「って事で頼んだ。」


花奏「任せてや。共通テストで化学満点取らせたる。」


歩「心強。」


頼られている事に違和感さえ感じる。

いつからこんな関係になっていたんだっけ、

と疑問を感じずにはいられない。

私も私で前は歩を煽るような、

少しばかり甘噛みするような事は

一切言っていなかった気がする。


そうだ。

前までは私が無理矢理

あれしようこれしようって

色々したんだっけ。

一緒に夜ご飯食べようって言って

歩の家にまで押しかけた事もあったし、

一緒に勉強しに行こうと

図書館に誘ったこともあった。

今思えばこんな奇行の数々を

よく歩は許してくれたな、と感じる。

それが今となっては

歩が無理を押し切ってまで

私に言ってくるのだ。

それがどれほど嬉しいことか。


彼女の一挙一動に感動し喜んでいると

歩自身はきっと知らない。


花奏「今日バイトは?」


歩「もうこの時期だし11月からは休みもらってる。」


花奏「そっか。さすがにそうよな。」


歩「10月もだいぶ減らしてもらってた。融通が利きすぎて逆に怖いよ。」


花奏「そこで働けてよかったな。いいとこやん。」


歩「ほんとね。」


花奏「じゃあもう受験一直線か。」


歩「そゆこと。」


花奏「歩なら合格できるで。大丈夫。」


歩「ん。」


花奏「そんなら、これから受験終わるまではもうあんまり歩の家行かんほうがいいやんな。」


受験に集中してほしいから。

そんな願いを込めてひと言地面に落とすと

どれほど寂しいことか、

後になって孤独感が漏れ出す。

自分の指同士を絡めるも

気持ち悪くて直ぐに離した。

大切なものまで抜け落ちたような気がした。


歩「は?そうとは言ってないでしょ。」


花奏「だって邪魔やろうに。」


歩「勉強教えろ。」


花奏「命令口調かいや。」


歩「定期的に夜通し勉強会するから。」


花奏「歩は出来るやろうけど私は無理や。寝るで。」


歩「無理にでも付き合わせる。」


花奏「地獄や…。」


私がげんなりして見せると

歩は心地よさそうににたっと笑った。

彼女はショートスリーパーで

2、3時間寝れば十分なのだそう。

いっそ寝ないでも行動できるといえば

できるなんてことも言っていた気がする。

ほんと意地悪なのはどっちなんやろうか。

絶対私が先に寝るのを知ってるからこそ

この意地悪な笑みを浮かべているのだ。

けど、どこかほっとしてる。

嬉しいと思っている。

繋がりが切れない事に安堵している。

何と浅はかな人間だろうと

私を馬鹿にする私もいた。


歩はひとしきり話して気が済んだのか

ベランダから離れ教室へと戻る。

手すりには微かに彼女の体温が

翼を広げて消えてゆく。


花奏「帰るん?」


歩「図書室で過去問借りてから帰る。」


花奏「そっか。」


歩「小津町はまだここにいんの?」


花奏「ううん、もう十分やから帰ろうかな。」


歩「ふうん。そ。」


花奏「てかぼうっとするのにこんなに時間使ってよかったん?」


歩「リフレッシュしたかったからいいの。それにー」


鞄を肩にかけたが、位置が悪いのか

もう1回肩に掛け直す彼女。

夏祭りのストラップが揺れる鞄。

外では「もう1本」と叫ぶ声。

その後に続く生徒達の返事。

雲は今何処に向かって行進しているだろう。


歩「何か今日、小津町と初めて会った時の事思い出したから戻ってきたかった。」


花奏「…あはは。」


乾いた笑いが口からこぼれ出る。

きっと私は困った表情をしてた。


花奏「なーんやそれ。」


歩「何?」


花奏「ううん。まあ、もうそろそろやもんね、2周年。」


歩「言い方が妙にキモい。」


花奏「あーあ、妙に傷ついたわ。」


歩「雰囲気台無し。」


花奏「うちのせいやないもん。どちらかと言うと歩が悪いやろ。」


歩「謝るなら今のうちだけど?」


花奏「はよ図書室行ってきー。」


歩「は?ばーか。」


花奏「うわ、純粋な悪口やん。」


体を外から教室へと向けると

歩は何か悟ったのか

駆け足で出入り口の方へと向かった。

私が何かしてくるとでも思ったのだろう。

子供っぽいところもあるのだと

知ったのはつい最近の事だ。


から、から。

チャックの金具が踊っていた。

から、りり。

ストラップのクマも踊っている。

陽は責めるように吠えていた。

彼女はくるりと身を翻し、

こちらへと振り返る。

燦然とした教室内では

光を反射して埃が舞っていた。


歩「んじゃ。」


花奏「なぁ歩。」


走り去っていきそうな彼女を止めると

時さえ止まってしまったかのように

光の反射は呼吸を我慢する。

夏のよう。

でももう夏は居なくなっている。

うっすらと影を残し

段々と小さな背になってゆく。

そこへ強めの声を飛ばす。


花奏「花奏って呼んでや。」


4月か5月当初から言っているこの言葉。

この誘いにだけは絶対乗ってくれなかった。


歩「煩い小津町。」


してやったって言うようににたって笑って、

こちらに片手を上げた。


歩「また。」


花奏「ちぇー。…うん、またな!」


今日も駄目だったよう。

ひと言丁寧に吐き捨てて

そのまま私を置いて行った。

一緒に駅まで帰るか誘おうとしたけれど

今日は感慨に耽るので精一杯。


何故だろう。

今日は過去ばかり私を取り囲み戯れてくる。

歩はそれを見越して

私を1人にしてくれたのかな。


花奏「…いや、そこまでは考えてへんやろうな。」


私の煤けた醜い独り言は

木漏れ日や埃に塗れて

ほとほとと床にびっしりつめられたのだった。


花奏「あー。久々こんなにぼうっとしたわ。」


こんなくだらない事にに時間を使える

なんでもない日常さえきっと幸せの一部だろう。

それに気づいていないふりをして

窓辺の景色に手を振る。

またね。

ここにはいずれまた

ぼんやりしにくるだろう。

もう少しだけ、ここにいたいな。

そんな気がしつつも

今日は一旦さよならだ。

じゃなきゃ動けなくなるような気がした。


幸せだ。

陽は相変わらず責め立てるように

私の足元を刺していた。











11月11日



今日は金曜日。

普段の生活は延長線のまま

止まるところを知らない。

学校に行く準備をしながら

ちらとTwitterを確認する。


みんな様々動いていて、

日常が垣間見えた。

あぁ、みんな別々の日常があるんだなって

当たり前のことをよく思う。

みんな違う生活をしていて

1から10まで一緒の生活している人なんて

いないとは分かっている。

けれどよくよく思ってみれば

みんな違う生活をしてるって

凄いことのような気がする。

みんな違う場所に行って、

みんな違うものを食べて、

みんな違う歩幅で歩く。


花奏「変なの。」


ニュースとひとコーナーでやっていた

動物の変顔の画面を見ながらそう呟く。

動物も人間に似て変顔するんだなと

ぼんやり思いながら制服の袖に腕を通した。

変なの、と呟いたその文字列は

みんな違う事に関してか

動物の変顔か、将又その両方か

判別はつかないままだった。

今日は父さんの方が遅く家を出る。

どうやらそのまま出張らしい。

簡単なこと…それこそ皿洗いとかは

済ませておいたけれど、

洗濯や他の家事は何もしていない。

父さんには家出る前に何をしていて欲しいか

書き置きでも残しておこう。


花奏「…あれ?」


いつもあるところにメモ用紙がない。

こういう時に限ってなくて

どうでもいい時こそいつもの場所にいる。

本当何故なんだか。

探せばそりゃ出てくるだろうが、

学校に行く時間も迫っているので

あんまりこんな事に割きたくない。

どうしようかな。

そう思っている間に

ニュースは動物のコーナーを終え

天気予報へと内容は移り変わっていた。


花奏「あ。」


普段は行かない物置部屋に行くと

ニュースキャスターの声は

どんどん遠のいていき、

しまいには何を言っているんだか

うまく聞き取れなくなっていた。

そして棚の中にあった

少し黄ばんだ付箋の束。

元々はただの白かったんだろうが、

日が経つにつれ酸素と仲良く

なってしまったのだろう。


花奏「なんかあの時のメモみたいやな。」


宝箱の中に入っていた、

人で例えるなら80歳くらいのメモ用紙。

そこに書かれた謎の文字列。

そして最後の宝箱へのヒント。


そういえばあの宝箱の中にあった

メモの数々は結局何の言葉だったんだろうか。

唯一完全に何を指し示しているか分かったのは

「伊瀬谷真帆路は生きている」という

言葉の書かれたメモのみ。

後は抽象的で何に対して言っているのか

全くもって見当がつかない。

けれどひとつわかってるとはいえ

理解は何ひとつできていない。


だって私は真帆路先輩が

亡くなったと言う知らせを聞いた。

その上葬儀にも参列した。

もう動かなくなった彼女を

この目で確と見た。

あれが夢だなんて思えない。

それに真帆路先輩は元々今私の通っている

高校にいたのだけれど、

彼女が高校3年の時に自殺した。

当時の歩は高校1年だから

もしかしたら先生たちから

話があったかもしれない。

先生たちから話はなくとも

少なからず学校中で噂にはなっていただろう。


そんな彼女が生きているというのだ。

嘘だとはわかっていても

淡い期待に心を寄せてしまう。


花奏「…ちゃうちゃう、こんな考えるためにメモ探したんやなかった。」


さっさと付箋を1枚剥がした後、

近くにあった鉛筆で

がりがりと筆跡を残す。

これはやったからこれをしておいてほしい。

大まかだが伝わるように。

そして最後には

「出張気をつけて、いってらっしゃい」

と添えた。


そうこうしているうちに

家を出なければならない時間は

刻々と迫っていた。

持ち物を大雑把に確認する。

そして制服を1度整え直して

ポケットに例のものがあるか否か

確かめるためにそっとスカートに触れる。


花奏「うん、あるな。」


先輩からもらったストラップ。

毛糸で作られたもので、

所謂あみぐるみというもの。

過去に燃やされてしまって

青いイルカだったものは今では

ほぼ真っ黒だけれど、

それでも透明な袋に

ストラップを入れ持ち歩いていた。

今でも身近に先輩を感じれる気がしたから。


花奏「よおし、行くか。」


靴を履き、つま先をトントンと

リズミカルに鳴らすと

外で小学生が奇声を上げた。

タイミングがいいなんて

遠くで思いながら

私は1度家の方へと振り返る。


花奏「行ってきまーす。」


返事はなく、聞こえてきたのは

父さんの特大な音量のいびきだけ。

ぐっすり眠っているようなので

このまま10時頃までは

寝かせておいてあげよう。

昨日も昨日で頑張っていたようだし。


そうして夏祭りの気を帯びた

ストラップを踊らせ、

家を後にしたのだった。


学校に着くや否や

見知った顔に声をかけた。

すると、眠そうだった湊は

ぱあっと明るい顔をして

私に声をかけ返してくれたのだった。


湊「花奏ちゃんおはよう。」


花奏「おはよー。なあなあ、今日の英語って宿題あったっけ?」


湊「あったあった。しかも当てられるやつ!」


花奏「ほんまかいや。やっべ急いでやらな。」


湊「それくらい見せるよ、ほれ写しちゃいな。」


花奏「えっ、湊が宿題やってんの?」


湊「馬鹿にしないでいただきたい、気が向くときは向くんだから。」


花奏「ありえへんわ、明日雪やで。」


湊「だったら関東地方の初雪は貰ったね。1位だよ1位。」


私も私で変な例えをすることがあるとは

自負しているが、湊も湊だと思う。

所々変なのだ。

いい意味で周りとは違うとも

取れるだろう、きっと。


湊「ま、見せる見せる。ちゃちゃっと写しちゃいな。」


花奏「ほんま助かるわー!ありがとうな。」


湊「あってる保証はないけどねー。」


花奏「ええんや。凌げるってのが大きいねん。」


昨日はぼんやりとしていたせいで

宿題のことを完全に忘れていた。

結局昨晩は家に帰ってから

机の元に行って勉強しようとはするも

ペンが持てずうつ伏せていた。

1年間頑張った、と

ただ感傷に浸っているだけ。

そんな、夜に漬け込まれる日くらい

あってもいいだろうと

自分を甘やかした結果

今日痛い目を見ていた。


今までこの高校での宿題をし忘れる

なんて事はなかったと記憶している。

随分と傷が顔を出しているのだなと

自嘲した事は自分の中だけに留めておこう。

朝、時間が有れば歩のところへ

顔出しに行こうと思ったが

昨日の感傷からはまだ抜け出せず

課題も課題でだいぶ大変なので

行けそうにない。


かしかしと耳に擦れる音。

写している間に時間はあっという間に過ぎ、

何とか終わったものの芯も時間さえも

擦り切れていた。


花奏「ありがと、めっちゃ助かったわ。」


湊「いいのいいの。また今度ジュース1本奢って。」


花奏「アンパンマンジュースでええな?」


湊「えーやだー。あはは。」


楽しく笑ってくれるもんだから

私も思わず声を出して笑ってしまう。

要望は無糖の午後の紅茶だと言うので

昼休みだか来週だかには

買ってお詫びをすることにしよう。

そんな話をしているうちに

教室には人が溢れかえっており、

終いにはチャイムまで鳴り始めた。


席に座ったままでいるも彼女は後ろの席。

先生がまだきていないのもあって

肩をとんとんと叩かれる。

何かと思って振り返れば

にんまりと目元を細めた顔があった。

机の上にだらんと上体を

寝かせている体制で、

なんだかこっちまで気が抜けた。


湊「間に合ってよかったねー。」


花奏「お陰様で。」


湊「ふふん、もっと崇め奉り給え。」


花奏「やっぱ牛乳とかにしたろかいな。」


湊「牛乳、中学の頃からは飲めないのー。」


花奏「へえ、そうやったんか。」


湊「嫌がらせ反対ー!」


花奏「もー分かっとるって、無糖な無糖。」


湊「よろしい。」


今回は私が奢る番だが

普段は逆のことが多い。

彼女は宿題をしない常習犯であり、

よく宿題を見せてとお願いされる。

その度お菓子をひとつ分けてくれて

申し訳なく思っていたのだが、

本人は

「いいからいいから、気持ち受け取っといて」

と軽く流すのだ。

2、3ヶ月に1回くらいの

よくわからないタイミングで

飲み物を忘れる彼女なので、

その度私からお返しという形で

飲み物を奢っていた。

ほんと、彼女が宿題をやってきているなんて

明日はきっと雪だ。

変な事が起こりそう。


「席座れー。」


低く渋い男性の声が教室の

壁という壁に跳ね返り生徒たちの元へ届く。

声の主は先生だと

その刹那はっと分かった。

まだ席を立っていた数人の生徒は

綺麗に散っていき

自分の場所へと戻っていった。

学校ならではの号令がなされる中、

湊の欠伸が不意にも私の耳を掴んだ。

空は雲が多めだが、

雨が降っていないだけマシだろう。

夕方の帰る頃に

降らなかったらいいけれど。


先生「連絡事項です。今日の放課後から夜あたりにかけて警備員が校内回るからなー。最近中高生を狙った殺傷事件が多いので、その対策です、と。…そうだな、部活生とかすれ違ったら挨拶するようにー。」


つん、と背中に刺激を感じて

若干顔を後ろに寄せる。


湊「物騒だね。」


花奏「やな。」


小声で返事をすると

それ以降湊から言葉はなかった。


生徒達は続けて静かに耳を澄ませたまま、

将又聞かずに別のことをしたまま

朝のホームルームの時間は過ぎ去っていった。





***





うとうとしてたらしい。

はっと目を開くと先生がかつかつと

黒板に物を書いている。


花奏「…!」


まずい、ノートがほぼ白い。

びーっと伸ばされた薄い黒線は

直ちに消しゴムに消されていく。

電車内でうたた寝してしまった時特有の

謎にどきどきとした感覚に襲われる。

早く板書しなきゃと思いシャーペンを握るも。

かつん。

思わず机にシャーペンを転がしてしまって

教室にぱっと響き渡る。

でも、それを気にする人はいなくて

かか、かっというノートと黒芯が擦れる音。

学生の特許とも言えるのかも。

脳内はごたごたに音を立てながら

表面ではただ板書を進めていた。


花奏「…?」


黒板に一部繋がらない箇所がある。

寝ている間に消されてしまったらしい。

後で湊に見せてもらおう。

昨日から今日にかけて

とてもではないが変だな、と我ながらも思う。

いつも通りにいかないもどかしさと

そんな日もあるという寛容さが

混ざりそうで混ざらずに

水と油のように綺麗に分割されている。

そのせいで気持ち悪さは

増しているようにも思えた。

そう思った刹那、終わりを告げる鐘。

今日の2時間目が終わる合図だった。





***





湊「花奏ちゃん寝てたね、珍しい。」


花奏「ありゃーバレてたか。」


湊「席後ろだし流石にね。」


花奏「あはは、そりゃそうか。」


湊「寝顔が見れなかったのが残念っすねー。」


花奏「絶対見せたないわ。」


授業を終え後ろに座っている

湊と少し会話をする。

やはりというか、うたた寝してたことを

指摘されてしまった。

えへへ、と笑うことしかできない。


湊「にしてもほんっと珍しいじゃん。」


花奏「あぁー、寝ちゃったこと?」


湊「うん。花奏ちゃんが授業で寝たところを見るのは初めてかも。ってかそもそも授業中の爆睡は初じゃない?」


花奏「爆睡て。確かに寝てたけども。」


湊「明日、雪降るでしょー。」


花奏「それは大袈裟やって。湊が宿題やってくる方が珍しいやん。」


湊「なら珍しいの2乗ね。明日は吹雪だ。」


花奏「なんやそれ。」


湊「じゃなきゃ元取れないって。」


人差し指で机を擦り付けている湊。

相変わらず上半身は机と仲良し。

何をやっているのかと思えば

消しかすに圧をかけて形を変えているらしい。

時々真っ黒な消しかすが見えた。

元が取れないとはいえ

そもそも何に対してだろう。

私達が珍しい事をしたってことに

対しての代償的なものって話だろうか。

天気側が代償を払うってどういう事だ…。

やはり彼女の突飛な発想力には

ついていけないところがありつつも

自分を振り返ってみる。


花奏「まぁでも、確かにあんま寝ることないかもなぁ。」


高校生は2回目ということもあり

お父さんにはだいぶ負担をかけている。

それを承知の上なので

もしかしたら何処かでしっかりと勉強を

しなければならないと

思っているのかもしれない。

高校生としては持っていて当然というか

持つべき感情だと思ってきたけれど、

私は過去が過去な上尚そう思うのかも。

思えば1回も授業中には

寝た事なかった気がする。

合間合間の休み時間に伏せて

軽く寝ることはよくあったけれど。


花奏「なんか疲れとったんかなぁ。」


湊「ちゃんと寝た?」


花奏「うん、しっかりと7時間。」


湊「健康すぎるくらい。」


花奏「そうなんよ。」


湊「因みにうちは9時間。」


花奏「聞いてないし寝過ぎや。」


湊「眠かったんだもん。至福だったよ。」


花奏「幸せのことこの上ないやろうに。」


湊「まさにその通り。ま、今日もしっかり休んでくれよん。」


花奏「うん、そうするわ。湊も休む時しっかり休みなね。」


湊「勿論。無理できないってかしたくない性格なもんで。」


湊は手遊びがてら

両手をぐーぱーしていた。

湊は平均か、

それより少し高いくらいの身長だが

私と比べてしまうと10cm程は差がある。

だらけている姿勢ということもあり

不貞腐れた子どものよう。

どこか可愛げあるようにも見えてしまう。

湊だからそんな事はないけど。

それを本人に言ったら

むすっとした顔で見られ…

おや、今もそんな顔で見られてる。


花奏「…なん?」


湊「今絶対小さい子供みたいって思ったっしょ。」


花奏「なんで分かったんや…。」


湊「口元緩んでた。」


花奏「マスクしてるのに見えるかいや。」


湊「うち千里眼持ち。」


花奏「観察眼持ちの間違いやろ。」


湊「夢がないなあ。」


花奏「うーん…ま、素直も考えようやな。」


湊「長所だから気にしなくていいんじゃない?」


花奏「あはは、ありがと。」


癖でつい人の頭を撫でた。

湊の髪はふわふわしてて、

指にほどよく絡んできた。

湊はというと満更でもない顔をしていて

どことなく嬉しいというのは伝わっていた。


その後はいつも通り授業を受け、

休み時間には歩のところに行くも

いつも通りやんややんや言われて。

愛咲は歩にだる絡みしに行って

結局こっぴどく追い返されていた。

今日はぼんやりと外を見て過ごすこともなく

時間が経っていることを

不意に忘れてしまう日々。

そしたらいつの間にか今日が終わる。

授業が全て終わり、

帰りのホームルームが終わった段階で

スマホの消音モードを辞める。

これだって習慣になってしまった。


花奏「…あ、卵なかったかも。」


帰りの準備をしつつ

家の冷蔵庫の中を想起してみると

そんな気がしてならない。

朝卵焼き作った時に

使い切ったんじゃなかったっけ。

湊は既に部活なり遊びになり行き

教室にはいなかった。

毎回いの一番に飛び出していくのだ。

焦っているのか楽しみなのか知らないが

普段あれだけマイペースなのに

なんでそこだけはせっかちなのだろうと

いつも不思議に思う。


今日は帰りにスーパーに寄りたいな。

って思うと今日は歩の元へ行くのは

おやすみといったところだろう。

別にいつも約束して会っているわけではないが

何となく会ってる日は多かった気がする。

すれ違うことも勿論あった。

私が教室に行っても歩がいなかったり

将又その逆もあったり。

最近歩は放課後教室や図書室で

勉強してから帰ることが多い。


肩に鞄をかけ、教室に残った

普段仲良くしてくれてる別の子に

ばいばいとひと言かける。

一緒にいがちなのは湊だけど

他2、3人とも程よく友好関係があった。

2年前から大きく変わったもんだ。


花奏「うわ、降りそうやな。」


玄関で靴を履き替え

外を一望してからの第一声がそれだった。

折り畳み傘、持ってきてただろうか。

冷たくなった金具を引き

鞄の中身を確認するも

教科書としか顔を合わせられない。


仕方ない。

そう割り切って外へと踏み出す。

固いコンクリートの感触が足裏を劈く。

校門を出てほんの数歩進んだところで

ととんととんと機械音が存在を証明し出した。

唐突にその音と出会ったものだから

驚いて1度立ち止まる。

そうだ。

さっき自分で音が鳴るように

設定し直したんじゃないか。

音が鳴るのはLINEだけ。

みんなに何かあった時に気づけるように。


花奏「……何かあったんかな。」


勿論くだらない話をする時にも

LINEは動いているが、

真剣な話し合いの時に動くことも多々ある。

半々といった確率だろう。

今回も、もしかしたら何かあったのではないか。

そう思うと気が気でなくなって

冷たくなったスマホを手に取る。

歩きスマホは流石に危ないので

一端路ばたに身を寄せた。


花奏「…。」


嫌な心臓の響き方をしていると分かる。

雨が降っているわけでもないのに

手はしっとりと無機物を温める。

毎回LINEを開くときは

これ程にまで緊張してしまうのだ。

画面には。


美月『明日予定がなかったら歩の誕プレ買いに行きましょ?』


と、美月らしく簡潔に纏められた文章が

規則正しく丁寧に並んでいた。


花奏「そっか。」


急なお誘いかと思えば

歩の誕生日は11月15日だったと不意に過る。

後4日で彼女は18歳になるらしい。

私と全く同じ歳になるらしい。

やはり時間は無情にも疾く走り去っていたと

今もまた改めて感じていた。


誕生日プレゼント、かあ。

歩は何が好きなんだろうか。

何度も家に突撃し何時間も

一緒に過ごしてはいるけれど

歩のことはまだまだ未知数。

そもそも歩が進んでこれが好きだと

声にしたことがあっただろうか。

何となくしているとか

することがないからしているだけ、とか。

バイトや生活に関しては

そういった言い回しをよくしている。

ああ、全然彼女の事を

知れていなかったのだなと

ほんの少しだけ肩を落とす。


美月へ勿論という趣旨の内容を

送り返そうとした時のこと。


…とつ。


ととん。

画面を歪ませた何か。


花奏「…雨?」


手のひらを上に向けて確かめる。

そこには雨粒は乗らず

ぴと、と頬を伝う水滴。

今日は天気予報を

見てすらいなかったんだっけ。

見たものは動物の変顔のみだったと

はっきりと思い出せる。

スマホを眺む間にびっしりと

分厚い雲に覆われていた。


ぼんやりと空を眺めていると突如

比にならないほどの大雨が私を襲う。

食われるかと思うほど強い雨。

ゲリラ豪雨というやつだろうか。

夕立というやつだろうか。

こんな時に限って

折り畳み傘はおろか何もない。

スマホから通知の音がしようとも無視して

走っていれば間に合っただろうか。

…いや、距離的に

確実に間に合ってなかったな。

そもそもまるまるしたら、とか

まるまるだったらなんて

起こるはずないのに。


花奏「やべっ、走らな。」


美月への返事は後回しにして

鞄にスマホを突っ込み走り出す。

夕闇に追われ、夕立に襲われ、

逃げるように帰路を辿った。

卵は家に帰ってもう1度出るか

いっそのこと明日にしよう。

しち、しちと靴の裏が

コンクリートに染み付いた。











11月12日



花奏「……………ぅー…。」


ぴぴっ。

脇からその音が鳴ったのを確認してから

そうっと抜き出す。

38.6℃。

その数字が全てだった。

熱である。

朝起きてみると明らかに普段とは違った

身体の怠さが感じられ、

体温計に手を伸ばしてみたところこのさまだ。

ああ、もう。

手を動かすのさえ辛い。

今日は何もかもを捨てて

寝転ぶことしか出来無さそうだった。


花奏「…昨日の夕立のせいやろうなー…。」


ぐーっと寝転がりながら

背伸びをしても全くすっきりしない。

それどころか体の重さを知り

尚更怠さが増すように思われた。


結局昨日は全速力で走って

最寄り駅まで行ったものの、

全身は絶え間なく雨に打たれていたもので

濡れ鼠になっていた。

幸い鞄の中身は雨の被害を受けず、

けろりとした顔のまま。

制服は仕方なく洗濯に回し

父さんはいないが為にご飯も適当。

夜ご飯は余っていた

にんじんのサラダだけしか

食べていない気がする。

朝もお腹は空かず、

水だけで胸いっぱいだった。

冷たいものが胃を通る感覚。

体内をずたずたに刺すかの如く潤していった。


花奏「…はぁ。」


私1人だけがここにいた。

家にいた。

久しぶりに孤独感に襲われる。

暫くは父さんの出張もなかったからかな。

歩も受験勉強があるし、と思うと

無闇な連絡も取りづらくなってしまった。

ごろんと寝返りを打ってスマホに手を伸ばす。

美月に謝罪の旨を伝えなきゃ。

その動作すら苦しいと思う節さえあるほど。

熱が出るってこんなんだったっけと

記憶を探してみるもあまり鮮明には

思い出せなかった。

小さい頃インフルエンザになった時くらいで。

それも小さかったが故殆ど覚えてなかった。


ふと画面を開くと時間は結構経っていて。

あと数分後には美月が家を出るであろう

時間となっていた。

いろいろ準備とかしていただろう。

申し訳なさは募るばかりだが

今だけは体調が故、気怠さの方が勝る。


花奏『ごめん、今日行けそうにない』


そんな端的なメッセージを残すと

たまたまスマホをいじっていたのか

ぽん、と既読の文字が瞬時に浮かぶ。


美月『分かった。何かあった?』


花奏『熱出たんよ。ごめんな』


美月『そんな日もあるわ。無理せずね。お大事に。また来週あたり予定が合えば行かない?』


花奏『そうする』


思考が回らない。

辛さのあまり日本語はぼろぼろだが

要件が伝わったのならよかったと思い

美月の返事を待たずにスマホを放る。

充電器に繋げておきたいな。

昨晩はほぼ適当に済ませ楽した結果

バッテリー残量は僅かだと

赤色が知らせてきていた。

けれど視界がぼんやりする。

まだ寝足りないのかな。

…と、それ以前に熱じゃないか。

熱だからか寝足りないのか

朦朧とする意識の中でぴこぴこと指を動かす。


花奏『美月ほんとごめん』


そこで送信ボタンを押して以降の記憶は

私にはなかった。





***





ぴーんぽーん。

遠くから私を呼ぶのはそんな音。

意識は朦朧とした中で、

自分が熱であることも

どんな服を着ていたかも忘れ

玄関の方へ向かう。

ふらふらとよたつく足元には

頼りない床の軋む声。

宅急便だろうか。

何か頼んだっけ。

そっか、父さんの荷物かな。

くらいまで考えたところで

思考はショートしてしまい、

後の道のりは何も考えられずに

玄関まで歩いていた。


花奏「……はーい。」


精一杯の明るい声を出してみると

喉に痰が絡み掠れた声しか出なかった。

玄関先にある鏡には

一応外に出ても大丈夫そうな部屋着が見えた。

咳払いを数回する。

判子は靴箱にあったような。

そう思いながらを戸を開けた。


梨菜「わ、大丈夫!?」


花奏「梨菜…?」


そこにはいるはずのない彼女と

高くに登ったままの陽があった。

何か用事だろうか、

思い当たる節がないままきょとんとしていると

梨菜は袋を前に突き出した。


梨菜「お見舞いに来たの!花奏ちゃんが熱出したって聞いたから。」


花奏「そうなん。態々ありがとうな。」


言葉尻に覇気がまるでなく、

にへらと弱々しく笑うと

梨菜は困ったように眉を下げていた。


梨菜「ううん、全然いいんだよ。たまたま近くにいたからお見舞いにって思ったの。」


袋を差し出してくれるものだから

何も考えられない頭は

素直に受け取ることしかできない。

さっと中身を見ると

ゼリーだとかプリンだとか

喉を通りやすいものが多々あった。

そして冷たい飲み物が少し。


花奏「ほんまありがとうな。」


梨菜「気にしないで。辛いところ玄関まで来させちゃってごめんね。」


花奏「んーん。そんなー」


言葉は分散して姿を消すと共に

体がぐにゃりと曲がってしまったのか

視点が一気に下がる。

勢いよく膝をついてしまったようで

一瞬何にも感じないと思えば

熱が轟々と唸り出す。

けれど痛みよりも力が入らないことに

驚いてしまって言葉も出ない。

しゃか、と手元でレジ袋が鳴く。

不幸中の幸いか、足の下敷きには

ならなかった様子。


梨菜「か、花奏ちゃん!?」


花奏「あはは…大丈」


梨菜「駄目だよ。今、家に親御さんは?」


花奏「…おらん、けど…。」


梨菜「布団まで連れてくよ、いい?」


花奏「え…大丈夫やって、自分で」


梨菜「また倒れたら困るもん!ごめんね、家入るよ。」


梨菜は半ばどころか完全に無理矢理

家へと押し入り、

私の手からお見舞いの品を外した。

それから私の腋の下に手を滑らせ、

せーのという掛け声と同時に

ぐっと上へ引き上げられる。

お陰で何とか立つことはできたものの、

やはりふらついてしまう。

頭痛も治るどころか

酷くなっているようにさえ感じる。


梨菜「どっち?」


花奏「ん……あっち…。」


梨菜「分かった。お邪魔します。」


ひと言そう断った後、

私の部屋を目指し迷わず進む。

梨菜は私より1つ歳は下だけれど、

姉ということもあるからか

幾分もしっかりしているように見えた。

天真爛漫で、でもこう真剣な顔を

真横から見ていると凛々しくて。

しっかりしてるなって。

私とは全然違うなって思った。

ああもう、頭が回らない。

体を彼女に委ねたまま

ふらりふらりと朽ちかけた床を踏む。

大体この家に来た人は

床が軋むことに怯えてたり

驚いたりは多少するのだが

梨菜はそんな表情なんて

これっぽっちも見せずに

私を支えたまま歩いていた。


梨菜「花奏ちゃん、横になって…布団かけるからね?」


花奏「ごめん…本当にごめんな…。」


梨菜「ありがとう1つで許してあげる。」


花奏「…うん…ありがと…。」


梨菜「うんっ!買ってきたもの冷蔵庫に入れとくね!」


梨菜は私を寝転がし

布団をかけた後どたどたと

玄関の方へかけていった。

何か梨菜にお茶とか出さなきゃ。

今の自分の状態を知ってか知らずか

そんな事を思った後、

すぐに意識は闇の中へ

潜っていくのを感じた。

また、昏睡に凭れて…。





***





「話しかけないで。」

「は?」

「分かんないから聞いてるだけ。」

「小津町。」


何故か、歩の声が反芻して聞こえる。

ここはどこなのだろう?

真っ暗。

真っ暗?

目を閉じている気がするような。

…疑問を感じてそっと目を開ける。


花奏『…学校?』


そう。

学校だった。

けれど私には1つ確信があった。

これは夢だっていう確信。

夢を見てると気づける夢を見るのは

何度かあったが、

ここまで鮮明なものは初めてで

なんとも奇妙で落ち着かない気分だった。

ベランダから見える青々とした空は

両手を広げ私を呼んでいるようにも見えた。

清々しい気分で1つ大きく息を吸う。


歩「ねぇ。」


花奏『…?』


返事をしようとして振り向くと、

歩の隣には既に「私」がいる。

「私」がいたのだ。

私自身は第三者視点なのだとそこで思い知る。

ぐるりと周りを見渡すと

机が乱立していて、

なんだかヤンキーが多数いる学校を思わせた。

そのうちの1つの席に歩は座り、

彼女の真前に「私」がいた。

いつもの休み時間の時のよう。

歩は怠そうに肘をつき、

嫌々ながらに話を聞いてくれるのだ。

視界に入る「私」を含めた2人からは

私のことは見えていないらしい。


歩「なんで私だったわけ?」


花奏「どういうこと?」


歩「…なんで私にだけこんなに突っかかってくるの。他にも、2、3年や1年の奴もいたでしょ。」


花奏「突っかかってくるなんて言い方の悪い……ま、それは置いといて…だから、なんで私か…って?」


歩「…そ。」


花奏「せやな…ひと言で言うなれば…恩人だから。」


相当昔にした会話だった気がする。

懐かしい。

そんな感情に塗れていく。


全ての始まりはTwitterがおかしくなった事。

日に日にフォローしている人の欄が

増えていく中で最後の方に

追加されたのが歩だった。

再会を果たしてすぐは、

この人が恩人だということに気づいたけれど

どうにも人柄が違うように映ったんだっけ。

それでも歩と仲良くなりたくて

ただひたすらにがむしゃらに話しかけて

付き纏うようになって。

今思えばストーカーやメンヘラと思われても

おかしくないくらい

歩にべったりくっついてた。

歩も歩で当たり前な反応というか、

嫌がる素振りはそこそこに見せていた。

けれど本当に嫌がってはいなかっただろうし、

悪態を吐きながらも私に付き合ってくれた。

その後もいろいろな不可解に苛まれ。

いろいろな光景が鮮明に脳裏に浮かぶ。


その中で苗字だけれど

呼んでくれるようになって、

いつの間にか夕ご飯を

一緒に食べる仲になった。

共に勉強することも多くなった。

今やいなくちゃいけない大切な存在。

友達以上恋人未満と言うのだろうか。

正直言葉で表せないくらい大切になっていた。

彼女のいない生活なんて考えられずにいた。

だから卒業という言葉が怖くて。

本来なら私も卒業する年だが

退学してる等の影響で一緒には卒業出来ない。

その後の生活がどうなるのか

全く想像できない。

それほどにまで、大切になってた。


そんな回想をしてるうちに

目の前にいる2人の会話は進んでいた様子。

そういえば昨日もそんな事考えていたっけ。

最近は過去に思いを馳せてばかり。


歩「小津町。」


花奏「なーんや?」


歩「私ーー」


ゔー。

ゔー。

ちかちかと点滅したのち、

その理想的な時間は微睡と共に溶けていった。





***





ゔー。

ゔー。


花奏「……ぅ…。」


夢を見ていた。

不思議な夢。

でも、ただの過去といえば過去だけど。

全てをはっきりと覚えているわけではないが

断片的に情景が浮かんだ。

夢らしくとても幻想的で

夢らしくなく生々しい夢だった。

そんな感想を抱いてた。


何で私は目覚めたんだろう。

そうして目をぐるぐるとしていると

時計が目に入る。

午後5時半くらい。

結構寝てしまっていたらしい。

過眠症を引き起こしてしまったのかと思うほど。

一瞬驚くも今日は休日なのを思い出して

少々ほっとした。

そういえば美月と今日買い物行く予定を

ドタキャンしてしまったことへの謝罪を

伝えたか否かが思い出せない。

起き上がるのさえ辛くて、

すぐに眠ってしまった記憶が色濃い。

…あれ。

その後梨菜がきたんだっけ。

それすら夢だったのだろうか。


花奏「うぅ…。」


朝よりは幾分もマシになったが

まだ体は快調ではないらしく、

上体を起こすと頭が鳴った。

思えばどこかでスマホの唸り声が聞こえる。

ふと騒音を掻き鳴らす画面を見ると

まさに美月の名前。

やはり今日はやめておくというのを

伝え忘れていたのだろうか。

ひやりと汗が背に滲む。

美月はずっと待っていたのではないか。

それもトーク画面を見れば解決する事。

体はこの感情についてこなくて

のろのろとしたスピードしか出せない。

一先ず不安は置いておき、

お叱りの電話だろうなと

のんびり受話器のマークを押した。


花奏「もしもし?ごめんな、みつ」


美月『…!花奏、花奏っ花奏ぇっ…!』


花奏「えっ…?」


乱れた呼吸にふと

胸を締め付けられる思いが湧く。

美月の声は涙声で恐ろしいほどに震えていて

この世の何を見たら

そんな声を出すのかと思うほど。

それほど彼女は怯えているようだった。


美月『かなっ…ご、ごめんなさっ、ごめっ…!』


ぐず、と鼻を啜る音がした。

どうやらひどく取り乱しているらしい。

ここまで取り乱す彼女を

目の当たりにした事はないからか

自分の中にも酷く動揺の色が窺えた。

頭痛や怠さといった不純物は

居場所をなくしてしまった。


花奏「大丈夫、大丈夫やから今どこにいるか教えて?」


すぐに飛び起きて電話をスピーカーにし

着替えを始める。

頭痛とか諸々今は考えの外にいて、

とりあえず体は動くってことは分かった。

近場なら走って行くくらい出来るだろう。


美月『いま、ぃ、まっ…花奏、花奏っごめん、ごめんなさいぃ…』


花奏「…っ。」


何があったの?

何があったらこんな。

美月は私への謝罪をひたすらに口にしていた。

どうして?

それがまず浮かんでしまった。

悲痛。

声だけで胸が痛む。


花奏「大丈夫だよ、美月。周りに誰かいる?」


現状を知りたい。

その一心で美月に問う。

いくら大丈夫だと声をかけても

取り乱してしまった上対面じゃない以上

伝わらないことが多い。

そうとは知りつつも落ち着くようにと願って

言葉を投げかけてしまう。


美月『まわ、り、はっ…んずっ…み、んなぃっ…いる。』


花奏「みんなおるんやね?うん、分かったよ。」


急ぎつつも出来るだけ優しく言葉を渡す。

みんながいる事には安心した。

みんなとはいえ家族なのか

それとも梨菜や波流達なのか。

どちらにせよ誰かはいるという事。

…ならば。

ならばどうして美月に声をかけてあげないのか。

すぅ、と背筋が凍るも、

電話越しで何やらざわざわとした

とても濃度の薄い喧騒は聞こえた気がした。

どこか人の集まるところにいるのだろうか。

しかしそれもすぐに止んでしまう。


嫌な想像が駆け巡る。

何があったの。

何が怖いの。

これは確実にドッキリなんて

生優しいものではないことくらい

とっくのとうに分かっている。


用意が終わって玄関に立つ。

もう出れる。

スマホはスピーカーを止め耳にあてて

がちゃっと鍵を開ける。


花奏「今からそっち行くからね。…美月、みんなもどこに」


美月『ど、こ…………ょ……ぃ………。』


車が通ったからだろうか。

しっかり聞き取れなくて。

自分自身焦る気持ちが募ってか

乱雑に鍵を閉めていた。

かつんと勢いよく乾いた音。


花奏「ごめん、もう1回言ってほしい。」


美月『ぁ……びょ、ういん…病院っ…!』


花奏「…病院?」


美月『ぁぅ、ごめん花奏っ…ごめんなさいっ、ぁ…ぁ、あたしのせ、ぃでっ』


花奏「美月のせいじゃないよ、大丈夫だから。」


病院。

学校の近くにある大きなところだろうか。

大きいだけあって多くの患者さんが

そこに集まるからという理由だけで

その病院に的を絞った。

合っていなかったらまた連絡を…

でも、間に合わないとか

そういうことが起こってしまったら。

間に合わないってなんだ。

誰かが怪我したくらいじゃないのか。

それにしては美月は取り乱しすぎではないか。

いつの間にか走ったまま

いろいろ考えが駆け巡る。

巡って。

巡った先に。

ぱっと美月の声がしなくなった。


花奏「…!?美月、美月っ!」


『もしもし、花奏けぇ?』


花奏「……麗香…!」


麗香『…。』


麗香は何故か押し黙ってしまって。

奥から美月の嗚咽が聞こえてきた。

それにまた胸を抉られるような気持ちになる。

さっきの麗香の声だって

平然を保っているような雰囲気を醸しつつも

どこか喉の奥で引っかかるような、

そんな違和感が爪を立てる。


花奏「ね、ねぇ、麗香教えて。」


聞いてはいけないと誰かが

どこかで警鐘を鳴らす。

きこえてる。

きこえてるんだよ。

でも、聞かなくちゃいけない気がして。

というより聞かないと納得ができなくて。


花奏「何が起こったの。」


麗香『……歩先輩が』


歩。

その言葉に、がむしゃらに

動かしていた足が止まる。

走っていた足が。

…ふと、どこに向かえばいいのか

分からなくなる。

横で車が通る。

横断歩道までもう少しだった。


麗香『…歩先輩が、亡くなった………っ。』


その言葉だけ。

それだけが大きく聞こえた。

はっきりと鮮明に聞こえた。

嫌なほど残響して聞こえた。


歩が、死んだ…?

ふと。

不意に。

何故か。


目の前が。





***





息をしてたのか分からないほど

ひたすらに走って

麗香が教えてくれた病院についた頃。

霊安室に彼女はいた。

吐き気を催すほどぞっと背筋が冷えた。

霊安室には台があって

白布で何か隠されており、

周りには泣きつく美月の姿と

声を押し殺して泣くみんなの姿。

数人はまだ到着していないのか

欠けているように見えた。

親御さんすら仕事があったのか

まだ到着してないみたいで。


美月「うわあぁあああぁっ…ああぁあぁっ…。」


美月がこんなにも声を上げて泣くところを

見たことがなかった。

誰かに話しかけられた気がしたけれど

一切私の耳には届かなかった。

心配する旨だっただろうか。

それすら分からない。

辿々しくそれに近づいて、顔を…

顔を、見ようとはした。

けど嫌なほど手が震えて、

なんだか気持ち悪くて現実味がなくて。

…。

…。

ぁ…。

短く声が漏れた気がした。

…。

…出来なかった。

したくなかった。

確認したらそれが最後の様な気がして。

歩が死んだと認めるってことの様な気がして。

私はただただ立ち尽くすだけ。

何にもせず、耳は機能せず、

ただ浅く呼吸するだけ。

過呼吸にならなかっただけよかっただろう。

何故だろう。

何故か、涙すら伝わなかった。


美月「ぇぐっ……うああぁあぁっ…。」


美月の痛々しい泣き声だけが

空虚な一室に満ちていた。

その音だけが嫌なほどずっと残響していた。

ただそれだけだった。











11月16日



それから数日は瞬く間に過ぎていった。

日々は溶ける様に過ぎていった。

時間がさらさらに溶けていた。

気がつけばお通夜が終わって

家に帰ってきていた。

もう夕方なんだ。

何してたんだっけ。

何を話したっけ。

何も覚えてないや。

…あぁ、でも1つ。

美月が棺に泣きついて離れなかったことだけ

妙に脳裏にこびり付いている。


もう陽は傾きかけている気がする。

曇っているせいで分かりづらいけれど。

父さんはもう仕事に行き、

今日は浅い夜には帰ってくるのだそう。

また、1人だった。


花奏「……。」


交通事故だったと聞いた。

歩は実家に帰る途中美月と出会し、

2人で家の方向へと歩いた。

きっと小学生時代の通学路とかを通って

懐かしいね、なんて話していただろう。

横断歩道で信号が青になるのを

待っていた時に事件は起きた。

運転手はスマホを車の床に落とし、

それを拾おうとして視線を動かしたところ

ハンドルを切る手が不安定になり

そのまま歩達の元へ突っ込んだ。

歩は美月を突き飛ばして

彼女はそのまま車の餌食に、

美月は突き飛ばされた時の怪我以外はなく。

だから美月は自分のせいだと

咽んでいたらしい。


花奏「…。」


そういえば、最近歩と話してないや。

連絡も取ってない。

どうしてだろう。

少しの間疎遠になってた気がする。

それもそうか。

昨日から学校は普段と変わりなく

いつも通りあったものの

私は今日含め3日間休んでいた。

父さんが連絡してくれてたみたいだけど

私はそれすら気づかず

ずっと布団に潜り歯を噛み締め

眠ろうにも何故か眠れず

数日を過ごしていた。

いつもなら疲れてすぐ眠れるはずなのに。

勉強、しなきゃな。

最近してない。

また遅れをとるのは嫌だな。

そういえば歩に

化学を教えるって約束したんだっけ。

いつなら都合が合うんやろ。


頭痛はもうせず熱もひいているのに

腕は重いままだった。

徐に、数日ぶりにスマホへと手を伸ばす。


LINEを開くと夥しい数の通知数。

個人からもみんなとのグループLINEも

煩いほどに話し散らかしていた。

読む気になれなくて閉じようとするも、

1番下で数字を光らせる名前に

吸い寄せられるように魅入ってしまう。


花奏「…あ。」


私と彼女の…歩との連絡は

私が体調を崩した日で綺麗に途絶えている。

歩とのチャットを開くと、

私の体調を心配する旨のものが数個と

あと電話が来てた。

何となく折り返してみる。

今はもう学校の時間は終わり

放課後のはずだから、きっと大丈夫。


電話独特のコール音。

とぅるるる、とぅるるる。

虚しく響くだけ。

勉強中だったのかな。

いつものように図書室にいるのかも。

あの日も…先週あたりも

過去問を借りに図書室へ行くって

言ってたもんね。

少ししたら、きっと、すぐに。

…すぐに。


…。

ただし、コール音は延々と続くだけだった。

繋がれ、繋がれと願った刹那

ぷつっという音がする。

嬉々とした。

歩が電話に出たんだって、そう思って。

だけれど。


『ただいま電話に出ることができません。』


と、知らない声が突きつけてきた。

…そっか。

と、ひと言だけ頭の中で溢れた。


改めてチャットを見返してみる。

私が熱で倒れてた時の彼女の言葉を。


歩『熱出たんだって?大丈夫?』


歩『今美月と会った。あんたの家私の実家と近かったよね?』


歩『今から美月と家まで行くから。きつかったら私達が来てもそのまま寝てて。』


私はこれに気づかず

呑気に眠ったままいたのだ。


花奏「………ぁ…あぁ…。」


歩は、歩は。

ここまでこようとして、たんだ。


いつから彼女とは

ここまで距離が縮まったんだっけ。

いつから心配してくれるようになったっけ?

いつから休日でも会うような

仲になったんだっけ…?


いくら振り返ってみても

境界線が分からない。

いつの間にか、歩は近くにいた。

いつもいつも遠くに感じてたのに。

罵倒されるし毒は沢山吐かれるし、

私といるのは嫌なんだろうなって

ずっと勝手に決めつけてた。

私とは居づらいんだろうなって。

でも違った。

距離をとっていたのは

私の方だったのかもしれない。

踏み出せずに、全てを信頼出来ずに

1歩引いて接していたのは

私だったのかもしれない。


花奏「…っ。」


返事を今更返してみる。

見ているかな。

期待、してしまうの。


花奏『もう大丈夫。』


…治ったよ。

頭痛も何もないよ。

体だってどこも痛くないよ。

辛くないよ。

吐き気だってないんだよ。

もう熱だって下がったよ。


心の中では沢山の言葉が、

溢れるほどの言葉が湧くのに

口からはひと言も出てこなかった。


空気が足りないな。

…。


…。



花奏「……大丈夫…や………ない…。」


頭痛はない。

熱だってない。

なのに辛い。

痛い。

心が今までにないほど痛い。


ほろりと落ちたのは言葉だけじゃなかった。

頬を伝ってぼろぼろと流れていた。


花奏「…だい…じょうぶや、ない…よぉ…っ。」


ほろほろ。

言葉も涙も痛みさえも

漸く表に出たと思えば留まるところを知らず。

意図していないのに溢れてしまう。

まるであの日みたいだ。

もう戻れないあの日のよう。

私の過去を全て吐露したのち、

歩がよく頑張ったと言ってくれた時のよう。

けれど、違いがあった。

私は今、1人だった。


歩とのLINEに既読がつくことはない。

電話にだって出ることはない。

分かってる。

分かってたんだよ。

ずっと、3日前からずっと。

あの時霊安室で歩に会ってから

ずっと分かってはいたの。

認めたくなかった。

認めたくなかった。

歩がいないなんて信じられなかった。

学校に行っても歩だけいないのが

心底嫌だった。

歩ともう話せないなんて

嘘だと思っていた。

逃げたかった。

忘れたかった。

信じたくなかった。


たった今、本当に歩がいなくなった事に

気がついてしまったような。

もういないんだって実感してしまって。


花奏「…なん………っ…なん、でっ…。」


何故歩じゃなきゃいけなかったのか。

どうして。


まだ話したかった。

まだ遊びたかった。

まだご飯一緒に食べたり

お泊まりしたりしたかった。

一緒に居たかった。

まだ一緒に。


毎日後悔無く生きていたつもりが

後悔しかなかったことに気がついた。

日々の幸せに気づけなかった。


花奏「歩…あ、ゅっ…。」


不意にもういない彼女の名前を呼ぶ。

涙に呑まれて声は霞み、

嗚咽が止まらないせいか

目の前が更に曇ってゆく。


大丈夫じゃないよ。

歩。





***





気が晴れるまで泣こうと思ったが

涙なんて枯れて嗚咽だけが居残り続けた。

泣きたいのにもう泣けないよと、

もう泣いても仕方がないよと

言われているようだった。

こびりついた涙の跡を拭い、

スマホの電源を落とす。


花奏「…。」


もう、歩はいないんだ。

それを受け止めようとしても

受け止められないまま。

何か歩がいたという

…いや、歩がいるという痕跡を

見つけたくて仕方がなくなった。

まだこの場にいると信じたいらしい私の頭。

その考えに突き動かされ、

引き出しの中を覗いていた。


古い木の匂いが鼻をつつく。

なんだろう、ヒノキっぽい気もする。

湿気にやられたのか

年老いた匂いのする棚から

懐かしいとさえ思う紙束を取り出す。

それには宝探しの時の

宝として入っていたものだった。

抽象的すぎてよく分からないものから

座標、住所、そして

「伊瀬谷真帆路は生きている」の文字。


歩の家は最後に行こう。

まずは海の方に行こうかな。

それから何度か一緒に行った図書館。

学校には…気が向かないな。

1番一緒にいた時間が長い場所のはずなのに

他の誰かにその場所が何も思うことなく

踏まれていると思うと不思議な感覚に陥った。

私にとっては思い出の場所でも

誰かからすれば踏んでも蹴っても

なんとも思わないただの場所。

場所に思い出が宿っていないのだ。

今はきっと、それを不快に感じてしまうから。

それから…宝探しの時

歩とこの住所のところを

一応見に行ってみようって

話して行ったんだっけ。

そこにも行こう。

懐かしいな。

記された住所に行ったのはその日以来だから

半年は経っているだろう。


スマホは置き、水とかお金とか

必要なものをリュックに詰め、

突き動かされるままに外へ出た。


花奏「…。」


外はあり得ないくらい赤くて

人は家へと向かう頃。

今から海に行っても真っ暗かな、

微妙に明るいかな。

そんな心で電車に揺られ

ぼんやり外を眺める。


思えば学校に行く時も出かける時も

いつでもスマホを持っていだっけ。

記憶を頼りに電車に乗り降りするのは

もしかしたら初めてのことかもしれない。

みんなに何かあった時に

すぐ気づけるように。

そう思って柄でもなくずっと

持ち歩いていたんだっけ。

夏明けにSNSであれほど嫌なことがあっても

それ以上にみんなに異常が起きた時

早く知れる方がいいと思って。


そんな柵から解かれたのか

今はこうしなきゃいけないなんていう

固定観念が消え去っていて、

幾分か気持ちは楽だった。


花奏「………あ…。」


1つ駅が通り過ぎる。

この電車は急行とかだったのかなと

今更ながらに気付く。

そんな中歩みたいな人が

通り過ぎた駅のホームにいた気がして

はっとするももう過去のこと。

事実を確認することはできなかった。


今から追えば辿り着けるだろうか。

会えるだろうか。

そんな発作的な衝動に駆られ、

私は次止まる駅で降り

各停に乗って戻っていた。


彼女の影だろうと追いたくなるほど

今は寂しさで一杯で

優しさに飢えていた。

私が泣いていようと吐いていようと

歩は心配すら出来ない。

隣にもいない。

いてくれない。

それを思い起こすたびに

喉の奥がこんこんとして

引っ掛かりを感じるも

涙腺が緩むことはなかった。


会いたいだけだった。


各停で戻り、御目当ての駅で降りる。

名前は聞いたことがあるような気もするも

降りたことはない駅で。

名前のない恐怖に

手を広げられていると漸く知った。

そこでうろうろと不審に

周りを見渡したり探したりするも

勿論見当たらない。

当たり前だ。

そう、当たり前。


花奏「……歩…。」


いつしか名前を呼ぶのが癖になっていた。

出逢ってすぐの頃は

同い年とはいえ私の方が

低学年だった為歩さんって呼んで。

そして夏休み後のあの苦しかった一件以降

歩からさん付けなしでいいって言われて。

嬉しいことこの上なかった。

それが嬉しすぎたからか、

一件を終えて1週間は

気が緩めば今歩は何をしてるだろうと

考えた気さえしてくる。

それくらい嬉しくて嬉しくてたまらなかった。


花奏「…。」


海に行こう。

ちゃんと辿り着こう。


そう思ってまた元の進行方向へ進む

電車に乗り込む。

もう外は見まいと目を伏せ、

ぐらりぐらりと揺られされて。


ぱっと、急に周りが明るくなる。

何かと思えば日差しだった。


音楽もかからず人が話す言葉もなく、

電車は静かに進むのみ。

人工の音は轟々と車輪が擦れる音、

電車が呼吸してる音だけ。

向かいにはスマホをいじっている

中年の女性がいた。

不意にその女性は顔を上げたが、

またすぐにスマホへと視線を移す。

私のことなど見ていない。

見えていないのかもしれない。

そしてまた辺りは暗くなってゆく。

ビルなどに塞がれた光らは

今はどこで浮遊してるんだろう。


花奏「…。」


…。

…。


…気づいた時には海にいた。

仄暗さの中で灯している赤は

もう海の遠く向こうで沈みかけていた。

これが沈めば一気に真っ暗だろう。

仄暗いなんて比ではないはず。

周りには観光客なんてほぼおらず、

多分この近所に住んでいるであろう人々が

ぽつぽつといるだけだった。


宝探し初日。

その日は歩は来なかったんだよね。

当時歩と美月は仲が物凄く悪くて、

美月がここに来るからという理由もあり

来てなかった覚えがある。

今じゃ仲良くなり、

一緒に歩いて私の家にまで

来ようとするくらいになった。

仲直り出来てよかったって

部外者ながらそう思う。


花奏「秋になったな。」


つい最近まで4月で、

高校生活のやり直しは

始まったばかりのはずがいつの間にか

11月と対面していた。

そして私は18歳になって、

歩は昨日18歳になって。

…。

…そっか。

昨日誕生日やったもんね、歩。


砂の上に徐に座り、

ずっと動いている海を眺める。

絶え間なく動く彼らから

時間は戻らずずっと前に進んでいると

暗示されているような不快感を手渡された。

受け取りたくないな。


花奏「…誕生日おめでと……。」


ぽろ、と砂が服から落ちる。

その場を思い切り立っていた私は

逃げるように次の場所へと向かった。


また電車を乗り継ぎ着いたのは

私の家と歩の家の間くらいに位置する

顔見知りの図書館だった。

時々休日はここで勉強したっけ。

初め歩は学校まで行くと言ってくれたが

そうなると歩側の移動の負担が大きい。

いくら定期圏内とはいえ、

電車は疲れるものだ。

何しろ朝や晩は乗る人が多く、

座れないことも屡々あったと記憶している。

そこでお互い妥協案というか、

譲れるところは譲って

家同士の真ん中あたりにある

図書館にしようって言ったんだよね。


自転車が何台か止まっていて、

まだ数人いるんだなってこと分かる。

辺りは真っ暗で、

車のヘッドライトや弱った街灯だけが

私の足元の頼りだった。


花奏「…。」


次の場所へ行こう。

そう思った時には足は動いていて、

図書館の灯りを背に進んでいた。


考えることがないのは辛かった。

こんな感触は、感情は

なんとも久しぶりだった。

手元や周りには何にもなくなって

消えてしまいたくなるような、

そんな感覚。

あの時と一緒だ。

お母さんが死んだ時と一緒。

真帆路先輩が死んだ時と、一緒。


いつだっけ。

夏辺りだろうか。

お母さんの前で手を合わせた時に

ふと思ったんだ。

大切な人ばかり居なくなっていった。

消えていったって。

また、私は失った。

失っていた。

でも懲りずにまた欲しいと、

頼れる人が近くに、隣にいて欲しいと

願ってしまうのだ。

どうして学ばないんだろうか。

どうして諦めきれないんだろうか。

どうして私の周りでばかり。

どうして私じゃないの。

そんな卑屈な考えが私の頭を

食っていくのが目に見えた。


花奏「………ぁ…。」


ありえないほど細い息が

喉を通り抜けた頃。

もう、嫌だなと

…もう、全てをやめてしまいたいなと

自暴自棄が過った時、

次の目的の場所に着いていた。


廃れたマンションのような見た目をした建物。

多分3階建くらいだろう。

ぼろぼろに崩れている部分もあって、

月明かりや人工の光が

建物内を照らしていた。

確か天井はなかった覚えがある。

なんていうんだろう、

建設途中に辞めてしまったかのような見た目、

そしてそのまま風化していったような。

立ち入り禁止の文字は半年ほど前には

張ってあったはずが、

今じゃ何もなく誰でもいつでも

入れるようになっていた。

誰かが剥がしたのだろうか。

子供らが遊びで入ったとして、

その時に建物が崩れでもしたら大変だろう。


夜に見るこの建立物は

いかにも幽霊の出そうな雰囲気を纏っていた。

けれど、たった今幽霊云々より怖い思いを

感じている私からすれば

この情景に対し怖いなんて

これっぽっちも湧かなかった。

人間ではなくなってしまったみたいだった。

すっぽり抜け落ちていることに

違和感はあるものの、

取り戻し方が分からなかった。


花奏「…石だらけ…やな…。」


不法侵入だろうと思うが、

断りを入れず建物へと入っていく。

あの4月の時と同様に。

扉さえなく、そのまま階段を上がる。

階段は全てセメントで

埋めていたのか知らないが、

ひびは入りつつも崩れまではしなかった。

建物も一部崩れているだけであって

大部分はひび割れで済んでいる。

壁の穴から一直線で光が入っていた。


花奏「………と、おい…な。」


なんだろう。

何故その言葉が浮かんだのか分からないが、

そう呟いている私がいた。

それから最上階まで階段で上がる。

エレベーターの設備らしきものはなく、

床、壁、階段だけの大変質素な場所だった。


最上階に上がり終えると、満天の星。

月光が薄ぼんやりと空気を撫でる。

非現実かと見紛う程の景色の良さに

思わず大の字に寝転がりたくなった。

…が。


花奏「…なんや……あれ。」


最上階の真ん中には、

半年ほど前にはなかったはずの

卵型に近い物体があった。

しかも割と大きめで2畳くらいは

易々と占めるのではないだろうか。

見た目はごつごつとしていて、

機械部分が丸出しになっている。

つぎはぎをしたのか、

綺麗な鉄1枚というわけではなく

夥しい数の小さいスクラップ板を

繋ぎ合わせたような感じだった。

その1部は扉なのかなんなのか

空いたままで、不時着したかの如く

少し斜めになっているのがわかった。

中からはぼんやりと赤い光が照っている。


花奏「前はなかったよな…?」


もしかしたら6月くらいから

あったのかもしれないし、

つい最近現れたものなのかもしれない。

現れたも何も、ここらに住む人が

プラモデルを組み立てるのに

いい場所だと案じて

ここを使っているだけかもしれない。

そう考えるとそう見えてしまう。

なんだ、ただの趣味の宝庫かって。


恐る恐る近くまで行って観察してみる。

何かのプラモデルなのだろうか。

元ネタがなんなのかは一切わからないけれど

よく作られているのは分かる。

自分で材料を1から集めたのかな。

そういうことを考えている時だけ

歩の事を忘れらていたことに

私は気づかないまま。


花奏「…へぇ。」


赤い光は動かなかったため

誰もいないと勝手に断定し

中をちらと見てみる。

赤い光は近くで見ると

思ったほど赤くはなく、

オレンジといった方が妥当だった。

キャンプとかで使われていそうな、

常夜灯を強くしたような感じで。

中には機械のみで構成された

机なのか操舵室的な何かなのか

分からないスペースがあり、

1人用だろうほどの狭さだった。

椅子などはなく、

ただその台のスペースだけ。

背中側にも多くの動線が剥き出しになっていて

一件何の用途かまるで見当もつかない。


一目で中全体を見れることから

思った通り人はいないことは理解した。

音もしない。

しんとしている。

無音。

無音が聞こえるの。

それが心地よくて不気味だった。


…中に入れるのだろうか。

どうだろう。

もし、人の創作物だったら。

そう考えると流石に辞めておいた方がいいか。

倫理観が警鐘を鳴らした時、

とあるものが目についた。


花奏「…?」


メモ用紙を繋げて、

A4サイズくらいにしてある紙が

その奇妙な物体の中に貼り付けてあった。

黄ばんでいるような…。

光が、紙を仄かに照らす。

そこに浮かび上がる

油性ペンで書かれたような文字列。


花奏「…っ!?」


『小津町花奏』


しっかりとそこに記されてあった。

ぞっとして1歩退くも

うまく足が動いてくれない。


違う。

これは誰かの趣味で

造り上げられたものなんかじゃない。

違った。

これは意図的に私に向けて造られた何か。

それこそ不可解な出来事の一環。

まだ終わっていなかったんだ。

ここ1ヶ月は何もなかったものだから

安心し切っていたのかもしれない。

逃げたくなった。

助けを呼びたくなった。

けれどスマホも何も持っていない今じゃ

どうすることもできない。

声を上げたくても震えてしまって、

掠れてしまって声が、出ない。

怖いって漸く思えた。


この不可解からは逃げていいのだろうか。

見なかったことにしていいのだろうか。

そしたら…もしかしたら、

消えてしまうことだって出来るのだろうか。

でも、愛咲の時みたく

また戻ってきてしまうのだろうか。

…それは…嫌だなと。

物静かに呟いていた。

頭ではしっかり答えが出ていた。


花奏「…っ。」


固唾を飲み込む。

怖い。

…が、気になってしまう。

人間の好奇心とは困ったもので。

この機械は私に

無縁のものではないと知った今、

触れないわけにもいかなかった。

…使命感、だろうか。

それともただの欲だろうか。


中に入ると、例のさっき見えた紙。

『小津町花奏』。

そして台のスペースに付属した

小さな電光掲示板のような物には

『00202211111025』。

ぱっと見何の数字なのか

まるでピンとこない。

台の上にはまた紙があり、

飛ばないようにとセロハンテープで

上が止められていた。

近未来的なのかアナログ的なのか。

その紙には

『三門歩の生きる未来を』

…と。

……ひと言、だけ。


…そして、注意書き。

『操作パネルにある白いボタンを押せば

指定の日時まで戻ります。

その他部品、ボタン等を押すと

2度と機能しなくなります。

ご了承ください。』


…。


…。

…。


花奏「……歩…?」


状況が読み込めず、

ただ彼女の名前を呼んでしまう。

歩が生きている未来…?

指定の日時まで戻る…。

…タイムリープ…って言うんだっけ。

……。

…。

生きている、未来。

…。


花奏「…。」


また、一緒にいられる…?

また話せる…?

また笑い合える…の…?


…嘘…だろうけど、

信じたくて仕方なかった。

何ひとつ理解できていない。

けれど夢を見ずにはいられなかった。

歩の助かる未来を、

歩が生きている未来を見たい。

隣にいて欲しい。

隣にいたい。

それだけ。

たったそれだけの願い。


大切な人を失いたくない。

それだけ。


停止していた体に鞭を打ち、

迷わず白いボタンへと手のひらを這わせる。

そう。

迷いなどなく。

冷たい。

ずっと野晒しだったもんね。

じんわりと私の熱が無機物へと染む。

浸む。


花奏「……歩…待っててな…。」


絶対に助ける。

そう考えは移り変わっていた。

悲観的なんてものは消え去り

希望に溢れていたの。

助けられるって。

今を、未来を変えられるって知ったから。


くしゅ、と。

固いもの同士が擦れる音と共に

オレンジの光や黄ばんだ紙は滲み、

やがてー











11月11日



うとうとしてたらしい。

はっと目を開くと先生がかつかつと

黒板に物を書いている。


花奏「…!」


まずい、ノートがほぼ白い。

びーっと伸ばされた薄い黒線は

直ちに消しゴムに消されていく。

電車内でうたた寝してしまった時特有の

謎にどきどきとした感覚に襲われる。

早く板書しなきゃと思いシャーペンを握るも。

かつん。

思わず机にシャーペンを転がしてしまって

教室にぱっと響き渡る。

でも、それを気にする人はいなくて

かか、かっというノートと黒芯が擦れる音。

学生の特許とも言えるのかも。

脳内はごたごたに音を立てながら

表面ではただ板書を進めていた。


花奏「…?」


黒板に一部繋がらない箇所がある。

寝ている間に消されてしまったらしい。

後で湊に見せてもらおう。

昨日から今日にかけて

とてもではないが変だな、と我ながらも思う。

いつも通りにいかないもどかしさと

そんな日もあるという寛容さが

混ざりそうで混ざらずに

水と油のように綺麗に分割されている。

そのせいで気持ち悪さは

増しているようにも思えた。

そう思った刹那、終わりを告げる鐘。

今日の2時間目が終わる合図だった。





***





湊「花奏ちゃん寝てたね、珍しい。」


花奏「ありゃーバレてたか。」


湊「席後ろだし流石にね。」


花奏「あはは、そりゃそうか。」


湊「寝顔が見れなかったのが残念っすねー。」


花奏「絶対見せたないわ。」


授業を終え後ろに座っている

湊と少し会話をする。

やはりというか、うたた寝してたことを

指摘されてしまった。

えへへ、と笑うことしかできない。


湊「にしてもほんっと珍しいじゃん。」


花奏「あぁー、寝ちゃったこと?」


湊「うん。花奏ちゃんが授業で寝たところを見るのは初めてかも。ってかそもそも授業中の爆睡は初じゃない?」


花奏「爆睡て。確かに寝てたけども。」


湊「明日、雪降るでしょー。」


花奏「それは大袈裟やって。湊が宿題やってくる方が珍しいやん。」


湊「なら珍しいの2乗ね。明日は吹雪だ。」


花奏「なんやそれ。」


湊「じゃなきゃ元取れないって。」


人差し指で机を擦り付けている湊。

相変わらず上半身は机と仲良し。

何をやっているのかと思えば

消しかすに圧をかけて形を変えているらしい。

時々真っ黒な消しかすが見えた。

元が取れないとはいえ

そもそも何に対してだろう。

私達が珍しい事をしたってことに

対しての代償的なものって話だろうか。

天気側が代償を払うってどういう事だ…。

やはり彼女の突飛な発想力には

ついていけないところがありつつも

自分を振り返ってみる。


花奏「まぁでも、確かにあんま寝ることないかもなぁ。」


高校生は2回目ということもあり

お父さんにはだいぶ負担をかけている。

それを承知の上なので

もしかしたら何処かでしっかりと勉強を

しなければならないと

思っているのかもしれない。

高校生としては持っていて当然というか

持つべき感情だと思ってきたけれど、

私は過去が過去な上尚そう思うのかも。

思えば1回も授業中には

寝た事なかった気がする。

合間合間の休み時間に伏せて

軽く寝ることはよくあったけれど。


花奏「なんか疲れとったんかなぁ。」


湊「ちゃんと寝た?」


花奏「うん、しっかりと7時間。」


湊「健康すぎるくらい。」


花奏「そうなんよ。」


湊「因みにうちは9時間。」


花奏「聞いてないし寝過ぎや。」


湊「眠かったんだもん。至福だったよ。」


花奏「幸せのことこの上ないやろうに。」


湊「まさにその通り。ま、今日もしっかり休んでくれよん。」


花奏「うん、そうするわ。湊も休む時しっかり休みなね。」


湊「勿論。無理できないってかしたくない性格なもんで。」


湊は手遊びがてら

両手をぐーぱーしていた。

湊は平均か、

それより少し高いくらいの身長だが

私と比べてしまうと10cm程は差がある。

だらけている姿勢ということもあり

不貞腐れた子どものよう。

どこか可愛げあるようにも見えてしまう。

湊だからそんな事はないけど。

それを本人に言ったら

むすっとした顔で見られ…

おや、今もそんな顔で見られてる。


花奏「…なん?」


湊「今絶対小さい子供みたいって思ったっしょ。」


花奏「なんで分かったんや…。」


湊「口元緩んでた。」


花奏「マスクしてるのに見えるかいや。」


湊「うち千里眼持ち。」


花奏「観察眼持ちの間違いやろ。」


湊「夢がないなあ。」


花奏「うーん…ま、素直も考えようやな。」


湊「長所だから気にしなくていいんじゃない?」


花奏「あはは、ありがと。」


癖でつい人の頭を撫でた。

湊の髪はふわふわしてて、

指にほどよく絡んできた。

湊はというと満更でもない顔をしていて

どことなく嬉しいというのは伝わっていた。


その後はいつも通り授業を受け、

休み時間には歩のところに行くも

いつも通りやんややんや言われて。

愛咲は歩にだる絡みしに行って

結局こっぴどく追い返されていた。

今日はぼんやりと外を見て過ごすこともなく

時間が経っていることを

不意に忘れてしまう日々。

そしたらいつの間にか今日が終わる。

授業が全て終わり、

帰りのホームルームが終わった段階で

スマホの消音モードを辞める。

これだって習慣になってしまった。


花奏「…あ、卵なかったかも。」


帰りの準備をしつつ

家の冷蔵庫の中を想起してみると

そんな気がしてならない。

朝卵焼き作った時に

使い切ったんじゃなかったっけ。

湊は既に部活なり遊びになり行き

教室にはいなかった。

毎回いの一番に飛び出していくのだ。

焦っているのか楽しみなのか知らないが

普段あれだけマイペースなのに

なんでそこだけはせっかちなのだろうと

いつも不思議に思う。


今日は帰りにスーパーに寄りたいな。

って思うと今日は歩の元へ行くのは

おやすみといったところだろう。

別にいつも約束して会っているわけではないが

何となく会ってる日は多かった気がする。

すれ違うことも勿論あった。

私が教室に行っても歩がいなかったり

将又その逆もあったり。

最近歩は放課後教室や図書室で

勉強してから帰ることが多い。


肩に鞄をかけ、教室に残った

普段仲良くしてくれてる別の子に

ばいばいとひと言かける。

一緒にいがちなのは湊だけど

他2、3人とも程よく友好関係があった。

2年前から大きく変わったもんだ。


花奏「うわ、降りそうやな。」


玄関で靴を履き替え

外を一望してからの第一声がそれだった。

折り畳み傘、持ってきてただろうか。

冷たくなった金具を引き

鞄の中身を確認するも

教科書としか顔を合わせられない。


仕方ない。

そう割り切って外へと踏み出す。

固いコンクリートの感触が足裏を劈く。

校門を出てほんの数歩進んだところで

ととんととんと機械音が存在を証明し出した。

唐突にその音と出会ったものだから

驚いて1度立ち止まる。

そうだ。

さっき自分で音が鳴るように

設定し直したんじゃないか。

音が鳴るのはLINEだけ。

みんなに何かあった時に気づけるように。


花奏「……何かあったんかな。」


勿論くだらない話をする時にも

LINEは動いているが、

真剣な話し合いの時に動くことも多々ある。

半々といった確率だろう。

今回も、もしかしたら何かあったのではないか。

そう思うと気が気でなくなって

冷たくなったスマホを手に取る。

歩きスマホは流石に危ないので

一端路ばたに身を寄せた。


花奏「…。」


嫌な心臓の響き方をしていると分かる。

雨が降っているわけでもないのに

手はしっとりと無機物を温める。

毎回LINEを開くときは

これ程にまで緊張してしまうのだ。

画面には。


美月『明日予定がなかったら歩の誕プレ買いに行きましょ?』


と、美月らしく簡潔に纏められた文章が

規則正しく丁寧に並んでいた。


花奏「そっか。」


急なお誘いかと思えば

歩の誕生日は11月15日だったと不意に過る。

後4日で彼女は18歳になるらしい。

私と全く同じ歳になるらしい。

やはり時間は無情にも疾く走り去っていたと

今もまた改めて感じていた。


誕生日プレゼント、かあ。

歩は何が好きなんだろうか。

何度も家に突撃し何時間も

一緒に過ごしてはいるけれど

歩のことはまだまだ未知数。

そもそも歩が進んでこれが好きだと

声にしたことがあっただろうか。

何となくしているとか

することがないからしているだけ、とか。

バイトや生活に関しては

そういった言い回しをよくしている。

ああ、全然彼女の事を

知れていなかったのだなと

ほんの少しだけ肩を落とす。


美月へ勿論という趣旨の内容を

送り返そうとした時のこと。


…とつ。


ととん。

画面を歪ませた何か。


花奏「…雨?」


手のひらを上に向けて確かめる。

そこには雨粒は乗らず

ぴと、と頬を伝う水滴。

今日は天気予報を

見てすらいなかったんだっけ。

見たものは動物の変顔のみだったと

はっきりと思い出せる。

スマホを眺む間にびっしりと

分厚い雲に覆われていた。


ぼんやりと空を眺めていると突如

比にならないほどの大雨が私を襲う。

食われるかと思うほど強い雨。

ゲリラ豪雨というやつだろうか。

夕立というやつだろうか。

こんな時に限って

折り畳み傘はおろか何もない。

スマホから通知の音がしようとも無視して

走っていれば間に合っただろうか。

…いや、距離的に

確実に間に合ってなかったな。

そもそもまるまるしたら、とか

まるまるだったらなんて

起こるはずないのに。


花奏「やべっ、走らな。」


美月への返事は後回しにして

鞄にスマホを突っ込み走り出す。

夕闇に追われ、夕立に襲われ、

逃げるように帰路を辿った。

卵は家に帰ってもう1度出るか

いっそのこと明日にしよう。

しち、しちと靴の裏が

コンクリートに染み付いた。












11月12日



花奏「……………ぅー…。」


ぴぴっ。

脇からその音が鳴ったのを確認してから

そうっと抜き出す。

38.6℃。

その数字が全てだった。

熱である。

朝起きてみると明らかに普段とは違った

身体の怠さが感じられ、

体温計に手を伸ばしてみたところこのさまだ。

ああ、もう。

手を動かすのさえ辛い。

今日は何もかもを捨てて

寝転ぶことしか出来無さそうだった。


花奏「…昨日の夕立のせいやろうなー…。」


ぐーっと寝転がりながら

背伸びをしても全くすっきりしない。

それどころか体の重さを知り

尚更怠さが増すように思われた。


結局昨日は全速力で走って

最寄り駅まで行ったものの

全身は絶え間なく雨に打たれていたもので

濡れ鼠になっていた。

幸い鞄の中身は雨の被害を受けず、

けろりとした顔のまま。

制服は仕方なく洗濯に回し

父さんはいないが為にご飯も適当。

夜ご飯は余っていた

にんじんのサラダだけしか

食べていない気がする。

朝もお腹は空かず、

水だけで胸いっぱいだった。

冷たいものが胃を通る感覚。

体内をずたずたに刺すかの如く潤していった。


花奏「…はぁ。」


私1人だけがここにいた。

家にいた。

久しぶりに孤独感に襲われる。

暫くは父さんの出張もなかったからかいな。

歩も受験勉強があるし、と思うと

無闇は連絡も取りづらくなってしまった。

ごろんと寝返りを打ってスマホに手を伸ばす。

美月に謝罪の旨を伝えなきゃ。

その動作すら苦しいと思う節さえあるほど。

こんな熱とか体調不良さえ久しぶり。

熱が出るってこんなんだったっけと

記憶を探してみるもあまり鮮明には

思い出せなかった。


思い出せなかった…?

いつだろうか。

同じくらい怠くてきつかった日が

ないとは断言できなかった。

いつだっけ。

小さい頃インフルエンザになった時の事?

…小さかったから殆ど

覚えてないだけだろう。

きっと何か夢の記憶やらなにやらと

混ざってるだけ。

最近夢を見ることが多かったから

きっとそうに違いない。


ふと画面を開くと時間は結構経っていて。

あと数分後には美月が家を出るであろう

時間となっていた。

いろいろ準備とかしていただろう。

申し訳なさは募るばかりだが

今だけは体調が故気怠さの方が勝る。


花奏『ごめん、今日行けそうにない』


そんな端的なメッセージを残すと

たまたまスマホをいじっていたのか

ぽん、と既読の文字が瞬時に浮かぶ。


美月『分かった。何かあった?』


花奏『熱出たんよ。ごめんな』


美月『そんな日もあるわ。無理せずね。お大事に。また来週あたり予定が合えば行かない?』


花奏『そうする』


思考が回らない。

辛さがあまり日本語はぼろぼろだが

要件が伝わったのならよかったと思い

美月の返事を待たずにスマホを放る。

充電器繋げときたいな。

昨晩はほぼ適当に済ませ楽した結果

バッテリー残量は僅かだと

赤色が知らせてきていた。

けれど視界がぼんやりする。

まだ寝足りないのかな。

…と、それ以前に熱じゃないか。

熱だからか寝足りないのか

朦朧とする意識の中でぴこぴこと指を動かす。


花奏『美月ほんとごめん』


そこで送信ボタンを押して以降の記憶は

私にはなかった。





***





ぴーんぽーん。

遠くから私を呼ぶのはそんな音。

意識は朦朧とした中で、

自分が熱であることも

どんな服を着ていたかも忘れ

玄関の方へ向かう。

ふらふらとよたつく足元には

頼りない床の軋む声。

宅急便だろうか。

何か頼んだっけ。

そっか、父さんの荷物かな。

くらいまで考えたところで

思考はショートしてしまい、

後の道のりは何も考えられずに

玄関まで歩いていた。


花奏「……はーい。」


精一杯の明るい声を出してみると

喉に痰が絡み掠れた声しか出なかった。

玄関先にある鏡には

一応外に出ても大丈夫そうな部屋着が見えた。

咳払いを数回して扉を開ける。

判子は靴箱になったような。

そう思いながらを戸を開ける。


梨菜「わ、大丈夫!?」


花奏「梨菜…?」


そこにはいるはずのない彼女と

高くに登ったままの陽があった。

何か用事だろうか、

思い当たる節がないままきょとんとしていると

梨菜は袋を前に突き出した。


梨菜「お見舞いに来たの!花奏ちゃんが熱出したって聞いたから。」


花奏「そうなん。態々ありがとうな。」


言葉尻に覇気がまるでなく、

にへらと弱々しく笑うと

梨菜は困ったように眉を下げていた。


梨菜「ううん、全然いいの。たまたま近くにいたからお見舞いにって思ったの。」


袋を差し出してくれるものだから

何も考えられない頭は

素直に受け取ることしかできない。

さっと中身を見ると

ゼリーだとかプリンだとか

喉を通りやすいものが多々あった。

そして冷たい飲み物が少し。


花奏「ほんまありがとうな。」


梨菜「気にしないで。辛いところ玄関まで来させちゃってごめんね。」


花奏「んーん。そんなー」


言葉は分散して姿を消すと共に

体がぐにゃりと曲がってしまったのか

視点が一気に下がる。

勢いよく膝をついてしまったようで

一瞬何にも感じないと思えば

熱が轟々と唸り出す。

けれど痛みよりも力が入らない…。

…。

…。

…?

これ、前も何処かで見たような気がする。

正夢ってやつかな。

しゃか、と手元でレジ袋が鳴く。

不幸中の幸いか、足の下敷きには

ならなかった様子。


梨菜「か、花奏ちゃん!?」


花奏「あはは…大丈」


梨菜「駄目だよ。今家に親御さんは?」


花奏「…おらん、けど…。」


梨菜「布団まで連れてくよ、いい?」


花奏「え…大丈夫やって、自分で」


梨菜「また倒れたら困るもん!ごめんね、家入るよ。」


梨菜は半ばどころか完全に無理矢理

家へと押し入り、

私の手からお見舞いの品を外した。

それから私の腋の下に手を滑らせ、

せーのという掛け声と同時に

ぐっと上へ引き上げられる。

お陰で何とか立つことはできたものの、

やはりふらついてしまう。

頭痛も治るどころか

酷くなっているようにさえ感じる。


梨菜「どっち?」


花奏「ん……あっち…。」


梨菜「分かった。お邪魔します。」


ひと言そう断った後、

私の部屋を目指し迷わず進む。

梨菜は私より1つ歳は下だけれど、

姉ということもあるからか

幾分もしっかりしているように見えた。

天真爛漫で、でもこう真剣な顔を

真横から見ていると凛々しくて。

しっかりしてるなって。

私とは全然違うなって思った。

ああもう、頭が回らない。

体を彼女に委ねたまま

ふらりふらりと朽ちかけた床を踏む。

大体この家に来た人は

床が軋むことに怯えてたり

驚いたりは多少するのだが

梨菜はそんな表情なんて

これっぽっちも見せずに

私を支えたまま歩くの。


梨菜「花奏ちゃん、横になって…布団かけるからね?」


花奏「ごめん…本当にごめんな…。」


梨菜「ありがとう1つで許してあげる。」


花奏「…うん…ありがとな…。」


梨菜「うんっ!買ってきたもの冷蔵庫に入れとくね!」


梨菜は私を横に寝転がし

布団をかけた後どたどたと

玄関の方へかけていった。

何か梨菜にお茶とか出さなきゃ。

今の自分の状態を知ってか知らずか

そんな事を思った後、

すぐに意識は闇の中へ

潜っていくのを感じた。

また、昏睡に凭れて…。





***





「話しかけないで。」

「は?」

「分かんないから聞いてるだけ。」

「小津町。」


何故か、歩の声が反芻して聞こえる。

ここはどこなのだろう?

真っ暗。

真っ暗?

目を閉じている気がするような。

…疑問を感じてそっと目を開ける。


花奏『…学校?』


そう。

学校だった。

けれど私には1つ確信があった。

これは夢だっていう確信。

夢を見てると気づける夢を見るのは

何度かあったが、

ここまで鮮明なものは初めてで

なんとも奇妙で落ち着かない気分だった。

ベランダから見える青々とした空は

両手を広げ私を呼んでいるようにも見えた。

清々しい気分で1つ大きく息を吸う。


歩「ねぇ。」


花奏『…?』


返事をしようとして振り向くと、

歩の隣には既に「私」がいる。

「私」がいたのだ。

私自身は第三者視点なのだとそこで思い知る。

ぐるりと周りを見渡すと

机が乱立していて、

なんだかヤンキーが多数いる学校を思わせた。

そのうちの1つの席に歩は座り、

彼女の真前に「私」がいた。

いつもの休み時間の時のよう。

歩は怠そうに肘をつき、

嫌々ながらに話を聞いてくれるのだ。

視界に入る「私」を含めた2人からは

私のことは見えていないらしい。


歩「なんで私だったわけ?」


花奏「どういうこと?」


歩「…なんで私にだけこんなに突っかかってくるの。他にも、2、3年や1年の奴もいたでしょ。」


花奏「突っかかってくるなんて言い方の悪い……ま、それは置いといて…だから、なんで私か…って?」


歩「…そ。」


花奏「せやな…ひと言で言うなれば…恩人だから。」


相当昔にした会話だった気がする。

懐かしい。

そんな感情に塗れていく。


全ての始まりはTwitterがおかしくなった事。

日に日にフォローしている人の欄が

増えていく中で最後の方に

追加されたのが歩だった。

再会を果たしてすぐは、

この人が恩人だということに気づいたけれど

どうにも人柄が違うように映ったんだっけ。

それでも歩と仲良くなりたくて

ただひたすらにがむしゃらに話しかけて

付き纏うようになって。

今思えばストーカーやメンヘラと思われても

おかしくないくらい

歩にべったりくっついてた。

歩も歩で当たり前な反応というか、

嫌がる素振りはそこそこに見せていた。

けれど本当に嫌がってはいなかっただろうし、

悪態を吐きながらも私に付き合ってくれた。

その後もいろいろな不可解に苛まれ。

いろいろな光景が鮮明に脳裏に浮かぶ。


その中で苗字だけれど

呼んでくれるようになって、

いつの間にか夕ご飯を

一緒に食べる仲になった。

共に勉強することも多くなった。

今やいなくちゃいけない大切な存在。

友達以上恋人未満と言うのだろうか。

正直言葉で表せないくらい大切になっていた。

彼女のいない生活なんて考えられずにいた。

だから卒業という言葉が怖くて。

本来なら私も卒業する年だが

退学してる等の影響で一緒には卒業出来ない。

その後の生活がどうなるのか

全く想像できない。

それほどにまで、大切になってた。


そんな回想をしてるうちに

目の前にいる2人の会話は進んでいた様子。

そういえば昨日もそんな事考えていたっけ。

最近は過去に思いを馳せてばかり。


歩「小津町。」


花奏「なーんや?」


歩「私ーー」


ゔー。

ゔー。

ちかちかと点滅したのち、

その理想的な時間は微睡と共に溶けていった。





***





ゔー。

ゔー。


花奏「……ぅ…。」


夢を見ていた。

不思議な夢。

でも、ただの過去といえば過去だけど。

全てをはっきりと覚えているわけではないが

断片的に情景が浮かんだ。

夢らしくとても幻想的で

夢らしくない生々しい夢だった。

そんな感想を抱いてた。


何で私は目覚めたんだろう。

そうして目をぐるぐるとしていると

時計が目に入る。

午後5時半くらい。

5時、半。

…。

…結構寝てしまっていたらしい。

過眠症を引き起こして

しまったのかと思うほど。

一瞬驚くも今日は休日なのを思い出して

少々ほっとした。

そういえば美月と今日買い物行く予定を

ドタキャンしてしまったことへの謝罪を

伝えたか否かが思い出せない。

起き上がるのさえ辛くて、

すぐに眠ってしまった記憶が色濃い。

…あれ。

その後梨菜がきたんだっけ。

それすら夢だったのだろうか。


花奏「うぅ…。」


朝よりは幾分もマシになったが

まだ体は快調ではないらしく、

上体を起こすと頭が鳴った。

思えばどこかでスマホの唸り声が聞こえる。

ふと騒音を掻き鳴らす画面を見ると

まさに美月の名前。

やはり今日はやめておくというのを

伝え忘れていたのだろうか。

ひやりと汗が背に滲む。

美月はずっと待っていたのではないか。

それもトーク画面を見れば解決する事。

体はこの感情についてこなくて

のろのろとしたスピードしか出せない。

一先ず不安は置いておき、

お叱りの電話だろうなと

のんびり受話器のマークを押した。


花奏「もしもし?ごめんな、みつ」


美月『…!花奏、花奏っ花奏ぇっ…!』


花奏「えっ…?」


乱れた呼吸にふと

胸を締め付けられる思いが湧く。

美月の声は涙声で恐ろしいほどに震えていて

この世の何を見たら

そんな声を出すのかと思うほど。

それほど彼女は怯えているようだった。

怯えて、怯えて。

この悲痛さには覚えがあった。

覚えが、あったんだ。


美月『かなっ…ご、ごめんなさっ、ごめっ…!』


ぐずって鼻を啜る音がした。

どうやらひどく取り乱しているらしい。

ここまで酷くなる彼女を

目の当たりにした事はないはずなのに

記憶にはあるの。


これ、何処かで。


すうっと体温がひいていき、

変な汗が背を伝う。

頭痛や怠さといった不純物は

居場所をなくしてしまった。


花奏「大丈夫、大丈夫やから今どこにいるか教えて?」


すぐに飛び起きて電話をスピーカーにし

着替えを始める。

頭痛とか諸々今は考えの外にいて、

とりあえず体は動くってことは分かった。

近場なら走って行くくらい出来るだろう。


美月『いま、ぃ、まっ…花奏、花奏っごめん、ごめんなさいぃ…』


花奏「…っ。」


何があったの?

何があったらこんな。

美月は私への謝罪をひたすらに口にしていた。

どうして?

それがまず浮かんでしまった。

悲痛。

声だけで胸が痛む。


花奏「大丈夫だよ、美月。周りに誰かいる?」


現状を知りたい。

その一心で美月に問う。

いくら大丈夫だと声をかけても

取り乱してしまった上対面じゃない以上

伝わらないことが多い。

そうとは知りつつも落ち着くようにと願って

言葉を投げかけてしまう。


美月『まわ、り、はっ…んずっ…み、んなぃっ…いる。』


花奏「みんなおるんやね?うん、分かったよ。」


自分の中で違和感が波打ちつつも

出来るだけ優しく言葉を渡す。

みんながいる事には安心した。

みんなとはいえ家族なのか

それとも梨菜や波流達なのか。

どちらにせよ誰かはいるという事。

…ならば。

ならばどうして美月に声をかけてあげないのか。

すぅ、と背筋が凍るも、

電話越しで何やらざわざわとした

とても濃度の薄い喧騒は聞こえた気がした。

どこか人の集まるところにいるのだろうか。

しかしそれもすぐに止んでしまう。


嫌な想像が駆け巡る。

何かあったんだっけ。

何か怖いんだっけ。

これは確実にドッキリなんて

生優しいものではないことくらい

とっくのとうに分かっている。

私にとっても美月にとっても。


用意が終わって玄関に立つ。

もう出ることはできる。

スマホはスピーカーを止め耳にあてて

がちゃっと鍵を開ける。

嫌な予感がする。

嫌な、とてつもなく嫌な。


花奏「今からそっち行くからね。…美月、みんなもどこに」


美月『ど、こ…………ょ……ぃ………。』


車が通ったからだろうか。

しっかり聞き取れなくて。

自分自身焦る気持ちが募ってか

乱雑に鍵を閉めていた。

かつんと勢いよく乾いた音。


花奏「ごめん、もう一回言ってほしい。」


美月『ぁ……びょ、ういん…病院っ…!』


花奏「…病院?」


美月『ぁぅ、ごめん花奏っ…ごめんなさいっ、ぁ…ぁ、あたしのせ、ぃでっ』


花奏「美月のせいじゃないよ、大丈夫だから。」


病院。

学校の近くにある大きなところだろうか。

大きいだけあって多くの患者さんが

そこに集まるからという理由だけで

その病院に的を絞った。

合っていなかったらまた連絡を…

でも、間に合わないとか…。

間に合わないって、なんだ。

何にだ。

私は、何かに間に合わなかったから

今こう思っているの?


巡って。

巡った先に。

ぱっと美月の声がしなくなった。


花奏「…!?美月、美月っ!」


『もしもし、花奏けぇ?』


花奏「……麗香…!」


麗香『…。』


麗香は何故か押し黙ってしまって。

奥から美月の嗚咽が聞こえてきた。

それにまた胸を抉られるような気持ちになる。

さっきの麗香の声だって

平然を保っているような雰囲気を醸しつつも

どこか喉の奥で引っかかるような、

そんな違和感が爪を立てる。

…違う。

違和感はそれだけじゃない。


花奏「ね、ねぇ、麗香教えて。」


聞いてはいけないと誰かが

どこかで警鐘を鳴らす。

聞こえてる。

聞こえてるんだよ。

でも、聞かなくちゃいけない気がして。

というより聞かないと納得ができなくて。


花奏「何が起こったの。」


麗香『……歩先輩が』


歩。

その言葉に、がむしゃらに

動かしていた足が止まる。

走っていた足が。

…ふと、どこに向かえばいいのか

分からなくなる。

横で車が通る。

横断歩道までもう少しだった。


麗香『…歩先輩が、亡くなった………っ。』


その言葉だけ。

それだけが大きく聞こえた。

はっきりと鮮明に聞こえた。

嫌なほど残響して聞こえた。


歩が、死んだ…?

死ん……。


…。

…。

…っ……。

…。

……死んだ。

…。

死ん、だ。

…。

…。

死んだんだ。

…。

そうだ。

…。

…。


…。

そ、うだ。

…そうだ。

そうだ。

そうだ。

そうだったじゃないか。

歩は今日、死んだんだ。

どうして今の今まで忘れていたの。

どうして思い出せなかった。

どうしていつも通りに、

前回と同じ通りに過ごしてしまったの。

どうして途中で気づけなかった。

どうして時々の違和感を放置した。

どうして、どうして。

どうして。


花奏「……はっ………は…。」


走った後だからかな。

呼吸が落ち着かず浅いところでぶれたまま。

だらんと垂れた腕。

その先に持ったままのスマホからは

麗香の呼ぶ声が聞こえた。

必死に叫ぶように私を呼んでるの。

けど。

…それを無視して電話を切った。

今は聞きたくない。

今は。


思い出した。

歩は今日亡くなった。

理由は交通事故。

私の家にまで来ようとしたところ

車が突っ込み美月を庇って轢かれたんだ。

そして気づけばお通夜は終わってて

私は思うがままに外をふらついて。

海に行って、図書館に行って、

そして廃れたマンションのような

建物へと足を運んで。

…そこで、変な機械があったんだ。

タイムマシン…だったのだろうか。


スマホを確認すると、

間違いなく11月12日の文字。

現に今、過去へ戻ってきている。

戻ってきているのだ。

そんなはずはない。

現実的じゃない。

嘘だ。

そう思っても、事実が口を塞いでくる。

これは現実だよって。

歩が生きる未来を。

…。

…やり直しが、出来る。

出来てしまう。


花奏「……戻、らなきゃ。」


私は踵を返し、病院に行くのは諦めた。

亡くなったともう断言されたのだ。

行っても、また認めたくなくて

逃げてくるだけ。

しない理由は探せば探すほど出てくるもので、

自分が心底嫌になりかけた。


確か歩が事故に遭ったのは

彼女の実家近くの横断歩道だった。

その近くに例の廃ビルは

あった記憶がある。

思えば事故のあった交差点とは

徒歩5分だか10分くらいしか

変わらないのではないだろうか。

今いる私の家からは

2駅行った先のところ。

走って駅まで行き、

前回とは違って意識のしっかりしたまま

不均衡な現実に揺られ動く。


花奏「…っ。」


待ってて。

私が歩を助けるから。

そう強く思うたび、

自分の手を握りしめてしまう。

爪が食い込むことに気が付けないまま

2駅の間はあっという間に埋まった。

履き慣れた学校用のスニーカーは

勢いよくコンクリートを蹴る。

細かな石らが飛ばされるも

そんなのはお構いなし。

今は行くべきところがあるのだ。


まだ夕暮れ、しかし夜も迫る頃。

遠くからは子供の遊ぶ声が聞こえる。

そうだ。

今日は土曜日だもの。

遊んでいる子供だって多々いたことだろう。


花奏「…ここだ。」


夕陽が私を責め立てる中、

私は目的地についていた。

昨日とは乗って来た電車の方向が違ったため

内心記憶を頼りに進むことには

不安があったが何とかたどり着けた。


ちらと周りを見回し、

邪魔が入らないことを確認する。

誰もいないと分かり、

素早く敷地内を移動した。

瓦礫の床を駆け、

ひび割れた階段を登った。

そして最上階で待つ、謎の機械。

舞っている虫の影。

相変わらずここにあったのだ。


…いつからあったのだろう。

いつからあるのだろう。

それは甚だ疑問ではあるものの

今は重要ではない。


花奏「……助ける。」


ひと言、決意を胸に

躊躇なく機械の中へと入る。

やはり『小津町花奏』の文字と

『01202211111025』の数字。


花奏「…?」


こんなに1って多かったっけ。

あれ、2が多いのか?

なんて微かな違和感を感じつつも、

私はすかさず白いボタンに

しっとりと手を這わせる。

手汗が酷かった。

乱れる呼吸を抑えつけようと圧迫するたび

より乱雑な塵が吐かれていった。


花奏「……っ。」


覚悟は決めた。

絶対に助けるんだ。

私だけに与えられた

この上ないチャンスなのだ。


一瞬の戸惑いと共に

白いボタンは沈んでいった。











11月11日



うとうとしてたらしい。

はっと目を開くと先生がかつかつと

黒板に物を書いている。


花奏「…!」


まずい、ノートがほぼ白い。

びーっと伸ばされた薄い黒線は

直ちに消しゴムに消されていく。

電車内でうたた寝してしまった時特有の

謎にどきどきとした感覚に襲われる。

早く板書しなきゃと思いシャーペンを握るも。

かつん。

思わず机にシャーペンを転がしてしまって

教室にぱっと響き渡る。


花奏「…っ!?」


違う。

違う。

違うんだ。

私は見たことある。

この情景を知っている。

私は繰り返しているんだ。

そうだ。

思い出した。

今回は初めから思い出せた。

板書なんてどうでもいいんだ。

今は、今は歩を助ける方法を。


花奏「…。」


まずは整理しなきゃ。

ここから放課後まではとりあえずいいとして

歩をあの横断歩道から離せば

万事解決するのではないだろうか。

ということは、

私と美月は予定通り買い物に行き、

歩には実家に帰らないでもらう、とか。

そもそも今日から明日にかけての

みんなの予定がわからない。

思えばどうして梨菜が私の家に来たのかさえ

未だわかっていないままだ。

私の家から1番近いのは美月で、

梨菜は少し離れているはず。

学校の近くに家があると

言っていた気がするのだ。

それに美月は私との約束がなくなり、

明日は1日何も予定が

無いんじゃないのか。


…分からないことが多すぎるけれど、

まず1番は夕立にあたらず帰り

明日風邪をひかないことが先決かも知れない。

あの熱や怠さは外を歩けば

怪我するのではないかと思うほどの辛さだった。

それさえなければ私はだいぶ自由に動けるはず。

そしたら歩をきっと直ぐに

救い出すことはできるはずなの。


今後どうするかを思案していると

突如終わりを告げる鐘。

今日の2時間目が終わる合図だった。





***





肩をとんとんと突かれる。

後ろからだ。

…となると犯人は1人しかいない。


湊「ねぼすけさん、へーき?」


湊は相変わらず机にくっつくように

寝そべって話しかけていた。

繰り返されたこの会話。

前までの私は素直に楽しんで話せてたのに

今じゃそれどころではなく

不安ばかり異常に過剰に募ってゆく。


花奏「平気や。」


湊「花奏ちゃん寝てたね、珍しい。」


花奏「バレてたんやな。」


湊「席後ろだし流石にね。」


花奏「それもそっか。」


湊「寝顔が見れなかったのが残念っすねー。」


花奏「絶対見せたないわ。」


湊は自分の髪を指に巻き

するすると引っ張って解いていた。

少しぎこちない会話をする。

そう感じているのは私だけか。

やはりうたた寝してたことを指摘されて、

他の人からしたらただの変わらない

11月11日なのだと悟った。

えへへ、と笑ってみるも

うまく笑えているか分からない。


今は歩に会いたいと強く願う自分がいた。

また手をぎゅっと強く組む。


花奏「ごめん、ちょっと行ってくる。」


湊「ん?トイレー?」


花奏「ううん。別のとこ。」


湊「ほいほい。気をつけていってくるのじゃぞ。」


花奏「ん、ありがと。」


人差し指で机を擦り付けている湊。

相変わらず上半身は机と仲良し。

何をやっているのかと思えば

前回同様消しかすに圧をかけて

形を変えているらしい。

こちらに見向きもせず送り出してくれるのは

正直ありがたかった。

きっと今、私は酷い顔を

しているような気がしたから。


次の授業も10分後にあることだし

早歩きどころか走って歩の教室まで行く。

歩は生きているのだろうか。

生きているに決まっている。

だって歩が事故に遭うのは

明日なのだから。

歩に最後会ったのはいつだっけ。

思えば普通に11日と12日を

過ごしていたら歩と会ったのは

11日の昼休みだけだと気がつく。

私の感覚では1週間くらい会えていないような

感じがしているが、実際はそうでもない様子。


かたかたと床を踏み鳴らしてるうちに

目的の場所が視界に入る。

後ろの扉付近には数人屯していたが、

前の扉はすかすかだったので

そちらに体を寄せた。


花奏「歩っ!」


思ったより大きな声が

教室に響き渡ってしまい

生徒が何人もこちらを振り向く。

数秒こちらを向いた後、

興味を無くしたのかしんとした教室内にも

また話し声が復旧し出す。

その中で1人、視点を外さず

ずっと私を見つめている人がいた。


歩「…?」


歩本人だった。

歩は呼ばれたことに驚いたのか、

いつもついている肘の

その先の手は頬についていなかった。

きょとんとした瞳のまま

固まっている彼女。

私も然り。


歩が、いた。

その事実に思わず涙が出そうになる。

もし今歩と私しかこの場にいなかったら

間違いなく泣き出していた。

歩はじっと見つめたままで、

少し訝しげな顔している。

震える足を1歩踏み出す。

かつん、と足音が嫌なほど

反響して聞こえた。

歩はいつも通りずっと待ってくれていた。

待っててくれた。


いつものように歩の前に立ち

目を合わせてみる。


歩「…何か?」


あからさまに嫌ですと言わんばかりの

オーラを出している彼女は

いかにも歩らしくて。

ああ、歩だって。

歩が生きているんだって実感している。


花奏「いいや、何も。」


歩「は?きも。」


花奏「あはは、傷つくやん。」


歩「言ってろ。」


ああ、いつもの会話だ。

久しぶりのいつも通りだ。

歩がいるのがいつも通りで、

歩と話すのがいつも通りになっていた。

嬉しかった。

歩がいることが嬉しかった。


歩「んで、珍しいじゃん。授業の合間にくるの。」


花奏「まあね。来たくって。」


愛咲「おうおうおーう!花奏ーい!どうかしたのかー?」


どん、と視界が揺らいだのかと思えば

首に温もりが巻き出す。

ふと横を見ればにっかにかの笑顔をした

愛咲が肩を組んできていた。

そっか。

愛咲も歩と同じクラスだから

さっきの私の声も聞こえてただろう。

何かあったんじゃないかと思って

駆けつけてきたのかな。

それとも面白そうと思って来たのかな。

真意は分からなかったけれど

愛咲さんの笑顔は私の緊張や不安を

溶かすのに十分すぎるほどだった。


花奏「愛咲!…ううん、ただ来たかっただけやねん。」


愛咲「ひゅー、お熱いねぇー。」


歩「んなんじゃないから黙ってろ。」


愛咲「ええー?ちげーの?」


歩「馬鹿じゃないの?相変わらずうざ。」


愛咲「ぐふっ…大ダメージを負った…。麗香の毒舌は減ったと思えば三門は逆に酷くなっていってるよなー。」


大ダメージなんて言ってる割には

すぐにけろっとして腰に手を当て

威勢よく話し続けていた。

愛咲らしいな。

歩らしいな。

これが日常だったんだ。

幸せだったんだ。


歩「ってか小津町、授業間に合うの?」


愛咲「そーじゃん、移動教室とかねーのか?」


花奏「うん、自分の教室やから平気。…やけどそろそろ戻るな。」


愛咲「だなー。ちょっと遠めだしな!」


歩「ん。」


愛咲「また来な!」


花奏「…うん、そーするわ。」


じゃあまた、とひと言残して

歩と愛咲の前から背を向ける。

またね。

また。


この日常を守りたい。

無くしたくない。

亡くしたくない。

ぎゅっと手を握り締める。

みし、と鈍い音が鳴った。





***





その後はいつも通り授業を受け、

休み時間には歩のところに行くのはやめた。

もう会う気力がなかった。

決意を漲らせるには

ほんの数分で十分だった。

それよりあれ以上顔を合わせていると

涙が溢れて来そうだったから。

今日はぼんやりと外を見て

過ごすこともなく時間が経っていることを

不意に忘れてしまうなんてことはなかった。

そしたら今日はすぐに終わらず、

ずっとどうすればいいのか

考え続けていた。

とはいえそもそも情報量が少ないので

ほぼ無意味に悩んでいるだけにも映る。

授業が全て終わり、

帰りのホームルームが終わった段階で

スマホの消音モードを辞めた。

いつもの習慣はこんな時になってまで

私にまとわりついてしまっていたのか。


花奏「…まずは、雨に当たらない。」


呟きは誰にも届かないで、

私の耳にだけ残響する。

得体の知れない責任感が

私に重くのしかかる。


湊は変わらず既に部活なり遊びになり行き

教室にはいなかった。

毎回いの一番に飛び出していった。

肩に鞄をかけ、教室に残った

普段仲良くしてくれてる別の子に

ばいばいと駆け足でひと言かける。


花奏「…降りそうやんな。」


玄関で靴を履き替える前、

外を一望してからの第一声がそれだった。

どうして折り畳み傘を

持ってきていないのだろう。

朝の私の行動を悔やむも、

戻ってくるのは学校にいるところから。

そこはやり直しが効かないようだった。

冷たくなった金具を引かずとも

教科書としか顔を

合わせられないのは既知である。


傘は持っていない。

帰る方向が一緒で仲良い子という

条件で絞っても身近ではいない。

…愛咲や麗香は方向一緒だったっけ。

どうだっけ。

けれど2人で1つの傘を使ったところで

風から免れることはできるのだろうか。

少しでも違えば変わるのかな。

…なら、学校が閉まる時間まで

校内で待ってみるのも手か。

そう思い立って踵を返す。

あれがただの夕立ならすぐに過ぎ去るはず。


花奏「……ここでええかな。」


普段は来ない階層の空き教室。

移動教室とかの時に使われるんだろうけど、

私はまだ使ったことはなかった。

そこにある窓側の机に濡れていない鞄を

音が鳴らないように置く。

奥からは曇り出した空。


花奏「…スマホスマホ…。」


天気を調べたい。

何時に止むのだろうか。

もしも下校時間まで止まなかったら

また濡れ鼠になるしかないのだろうか。

とりあえず席について

画面を食い入るように覗く。

私の愛用している天気のアプリは

無情にも全て晴れとなっていて、

時々局地的な雨が急に降り出すかも。

…なんて曖昧なことが書いてあった。

小学生だか中学生だかの頃、

天気予報は100%

当たるわけではないと習ったが、

その不確定さをここまで

恨んだのは初めてだった。


完全下校時間まではまだ2、3時間ほどあり、

部活にも入ってない私は

どうしても暇を持て余すこととなった。

けれど、誰かと話す気にもなれない。

特に歩とは少し距離をおいていたい。

会ってしまうと心が複雑に

揺れ動いてしまう気がしたから。


少しゆっくりと考える時間が欲しい。

今その時間であると気づいた時には

机に伏せ目を閉じていた。


歩をあの横断歩道から離せばいい。

もしそれが不可能そうなら、

横断歩道に行く手前で足止めすればいい。

私は美月との約束をドタキャンしたら

梨菜が私の家に来て、美月は歩と会った。

歩は実家に帰ろうとしていてー


そこで不意に瞼の闇は

私の意識まで覆い始めた。





***





…。

…。

とんとんと肩を叩かれる。

誰だろう。

湊だろうか。

…あれ。

授業は終わったんだっけ。

私…どこで寝てたんだっけ。

記憶がうまく繋がらない。

寝起きですぐ目を擦り、

部屋の明るさに目を細める。


「あ、起きたー。」


のほほんとした声の主。

女の子のよう。

寝ていたことや誰かに起こされたことに

とんでもなく驚いて

肩がびくっと跳ね上がる。

視界も急に明瞭になり、

体の様々な機能が一気に覚醒した。

景色を見回すと見たことのない教室。

…そうだ。

私、空き教室で考えようとしてたら

寝てしまったんだっけ。


そして肩くらいまで伸びた外ハネの髪。

今の私より眠そうな瞳。

見たことのある制服だなと思えば

リボンの色を見るに同じ学年のよう。


「おはよーう。」


声もなんだか抜けていて

聞いていると眠くなってしまうような。

話し方もゆっくりだから

更に睡眠欲を誘発してくる。

なんだか見覚えがあるような気がしつつも

記憶のフックには何も引っかからない。


花奏「お、はようございます…。」


「眠いところごめんねぇ。」


花奏「え、いや…全然。」


彼女は鞄を持っていた。

これから帰るんだろうか。

私の横に突っ立っていたが、

そのまま私の前の席に鞄を置いた。

綿毛のようなストラップが目に入る。


「今日ね、この教室使うんだ。」


花奏「そうなんや、ごめん。すぐ出るわ。」


「ああ、大丈夫大丈夫。あと1時間くらいあるからねー。」


花奏「まあでも、早めに出るな。」


はっと時計を見ると

5時半くらいを指しており、

完全下校時間は6時だったのが過る。

さぁーっという音が耳を打つ。

それが頭の中で処理された時、

あぁ、駄目だったんだと瞬時に悟った。

雨は待っても止まなかった。

そのことに落胆しつつも

目の前にいるこの子へと視線を向ける。

というか、1時間後からこの教室と使うとは

一体なんの用途なのだろう。


花奏「この後何かあるん?」


「私、定時制なの。」


花奏「ああ、そうなんや。」


そういえば入学する時に

この学校には定時制があるみたいな話を

聞いた覚えがある。

定時制も私の進路の選択肢として

ひとつあったんだけど、

やっぱり昼間に同級生と過ごしてみたくて

辞めたんだった。

そのあたりを考慮するに6時という

完全下校時刻は全日制の学生用の校則だろう。


定時制の人たちがいるなら

まだ教室に居れるかも。

…とは考えたけれど、

もしこの後指導が入った後

今回で歩を助けられたなら

指導が入ったという事実は残る。

それに今は出張中の父さんを

心配させたくもない。

今日は仕方なく帰ることにしよう。

外を見ると、夕方の時よりは随分と

小降りになっている。

昨日よりは大丈夫だろう。


花奏「雨、結構降っとる?」


「ううんー、傘さすかどうか迷うくらいー。」


花奏「そっか、教えてくれたんめちゃくちゃ助かるわ。」


「いえいえー。もう帰るの?」


花奏「うん。そうしようかと思ってる。」


「りょーかいー。気をつけてねー。」


花奏「うん。ありがとうな。」


何故かまだ心臓は不定期に鳴り、

緊張していたのか逃げるように

その教室を去った。

なんともふわふわしている子だったな。

本来あるべき行動をとっていたら

あんなことは起こらなかった。

普段から色々な物事が

自分の選ぶ選択肢によって

大きく変わってしまうということに

改めて気づかされた。


花奏「…あ。」


階段を降り、靴箱に向かっている中で

そういえばあの子の名前を

聞いていなかったことを思い出す。

それに、会ったことがあるような

気がしたのも忘れていた。

そして、あの子と話している間は

歩が明日いなくなってしまうのを

いい意味で忘れていたと思う。

辛いことをほんの少しだけ軽くしてくれた。

そんな気がしただけ。


11月なだけあって外は6時前でも

もう真っ暗に等しい。

今雨が降ってるってことも

大いに関係してるだろうけど。

電柱は光さえなければ

完全に姿を隠してしまう。

靴箱の明かりに虫が集ることはなく、

その代わりに飢えた蜘蛛が

外へと繋がる扉の端に巣を作っていた。


花奏「…よし。」


しとしとと雨は降っているが、

前回よりはだいぶマシだ。

そう割り切って外へと踏み出す。

固いコンクリートの感触が足裏を劈く。

前回と同じだ。

1つ違うところがあるとすれば

踏み締める地面がぐしゅぐしゅに

顔を歪ませているということ。

校門を出てほんの数歩進んだところで

美月からLINEが来たんだっけ。

今回はきっと私が寝ている間に

通知が来ているはずだ。

家に帰ったら確認して、

私の体調が大丈夫そうであれば

了承の意を伝えておこう。

そして、早めに解散して

歩の実家の方向へと向かう。


もし今回のやり直しで最後だったら。

そう思うと怖くて仕方がない。

きっと美月と約束をしている場合ではないだろう。

けれど、歩の誕生日を祝いたいという

微かな願いも強く、

私の判断力ではどっちかを捨てるなんて

発想までには至らなかった。

至れなかった。


一端路ばたに身を寄せることなく

スマホから機械音もならず、

さりげなく降る雨には心底嫌気がさしながら

帰路を順調に辿っていた。

できる限り雨には当たりたくないのは

変わらないので、結局前回同様走っていて。

…ただ雨に当たりたくなかっただけなのか、

それとも何か焦っていたのか。

きっと両方だろう。


花奏「…。」


…とつ。

嫌な心臓の響き方をしていると分かる。

ととん。

地面を歪ませた張本人。


花奏「…なんでっ…?」


確かめずともわかる。

予兆なく1発強く私の頬を殴って来た雨。

体温が彼らに奪われてゆく。

夜ということもあり更に

気温は下がる中、

比にならないほどの大雨が私を襲いだす。

食われるかと思うほど強い雨。


どうして、今なの。

こんな時に限って、どうして。

もう少し早く起きていれば、

もう少し学校に残っていれば

こんなことは避けられたのだろうか。


花奏「…っ。」


雨を恨み、自分の行動を悔やみ走り出す。

夕闇に追われ、夕立に襲われ、

雨に好かれながら帰路を辿った。


しち、しちと靴の裏が

コンクリートに染み付き、

靴の跡が雨の痕を上書きしていった。











11月12日



花奏「…ほんま頭にくるな、これ…。」


ぴぴっ。

脇からその音が鳴ったのを確認してから

そうっと抜き出す。

38.6℃。

その数字が全てだった。

熱だ。

前回と全く変わりはない。

朝起きてみると明らかに普段とは違った

身体の怠さが感じられるのも一緒。

自分の体が思うように動かないのが

もどかしくて仕方がない。

手を動かすのさえ辛い。

それだって一緒だ。

このポテンシャルのまま

どうにかやり過ごすしかない。


花奏「…美月との買い物…行くか…。」


ふらふらとする体。

足に力を入れて支えるも

頭痛に舌を出される始末。

重力が何倍にもなって

私を食ってかかるようにのしかかっている。


昨日は全速力で走って

最寄り駅まで行ったものの

何も変えることができず

全身は絶え間なく雨に打たれていた。

鞄の中身なんて今はどうでもいい。

制服だって後でいい。

昨晩は胸がいっぱいで

ご飯は喉を通らなかった。

朝も体調のせいかお腹は空かず、

水すらも飲みたくなかった。

部屋の井草が心配するように

湿気った匂いを放り出すも、

今はありがたいとは思えなかった。


花奏「…は………はっ…。」


私1人だけがここにいた。

家にいた。

頭痛に頭を打たれ、

蹲りたくなりながらも洗面台に向かう。

髪を結い、出かける支度をするも

朝ごはんはやはり喉を通りそうにない。

電車の移動中で少しでも寝て、

体力を温存するようにしておこう。


手早く準備は済ませて、

美月との集合場所へと急いだ。

家にいると、それこそもう

起き上がって来れないような気がしたから。





***





美月「お待たせー…って、どうしたのよ!?」


花奏「あははー…なんか、ちょっと調子悪くてな。」


美月「ちょっとどころじゃないわよ!」


駅で待ち合わせ、

美月が私を見つけて走って来たや否や

すぐさまお咎めの言葉が刺さった。

美月は眉を下げ心配するような顔をしつつも

声を多少荒げて私を怒ってくれていた。

その事実にありがたいことだとは

分かっているものの、

今だけは少々きついものがある。


美月「今酷い顔してるわよ。」


花奏「あはは…分かっとるって。」


美月「分かってないからここに来てんでしょ。」


花奏「もー、大丈夫やってば。」


美月「大丈夫ってのは大丈夫じゃない人が言うものなのよ。」


花奏「そうかもしれんけど」


美月「体調が悪いのは仕方がないわ。延期しましょ、ね?」


花奏「ううん。」


美月「どうしてよ…?明らかに顔が白いじゃない。」


花奏「歩に渡すプレゼント買うんやろ?当日に祝いたいやん。」


美月「気持ちは分かるけど………分かったわ。当日は勿論祝う、けどプレゼントは後日また予定を合わせて買って渡す。それじゃ駄目?」


美月は冷静に妥協案を提案してくれた。

言いたいことはわかる。

分かるのだ。


だけど、美月は知らない。

今日起こるこれからのことを知らない。

もしもの話。

美月とこのまま夕方まで出かけたとして

歩と美月が会わなかったとする。

2人が会うことで歩くスピードが

変わっていたのならこのひとつだけで

歩は事故に遭わなくなるかもしれない。

どの可能性を拾うのか決めきれず、

あれがいいかも、

いやあっちの方がいいかもと

決めきれない私がいた。

このまま帰ると美月は歩に会うのだろうか。

それとも時間がずれたからそんなことは

なくなるのだろうか。


花奏「あのさ、美月。この後なんか用事あるん?」


美月「今はあたしが聞いてるんだけど?」


花奏「先答えてや。お願い。」


美月「用事…いいえ、今のところないわ。」


花奏「そうなんやな。」


ってことはほんとに偶々

美月が家を出て帰るタイミングで

歩と会ったっていうことだろう。

その偶然をずらせたなら

どれほどいいことか。


美月「ええ。だから今日は一旦解散しましょ。不安だし家までついていくわ。」


花奏「ううん。近いからってそんなええよ。」


美月に迷惑かけるわけにはいかない。

こういう場面になってよく思うが、

美月は判断力に優れていると感じる。

ふと美月と目が合う。

思い出すのは棺にしがみつき

声を上げて悲痛なまでに泣く姿。

電話の時の動揺と痛いくらいの謝罪の言葉。


美月「…ねぇ、花奏。」


美月はひと呼吸置いて、

私を諭すように静かに呼んだ。

しと。

雨が降ったような気がしたの。


美月「あなた、自分のことをもう少し大事になさい?」


花奏「自分を…。」


美月「そう。こうしなくちゃいけないなんて事は世の中そんなにないのよ。自分で作ってるだけ。」


花奏「…。」


そ……っか。

心の中で呟きを落とす。

…分かった。

きっと彼女は了承してくれず、

どれだけ願い出ても却下される。

出かけるには確実に私の体調が

万全でなくては進まない。

今までよくまともに話せていたなと

嘲り笑うように頭痛が酷くなる。

すぐ真横の壁に凭れるも

頭痛や怠さはなくなる事はなかった。

さっと私の肩や脇の下に手が入り、

支えるように圧を感じる。

…紛れもなく美月だった。


美月「ほら見なさい。こんなんじゃ歩けだってしないでしょ。」


花奏「…でも」


美月「でももだけども駄目。きつい言い方しなきゃ分かってくれない?」


花奏「…っ。」


もうひと押し、と思ったが

反発力が大きくなるだけで

なんら効果はなかった。

美月に言いくるめられ、

結果美月は私の家まで同伴し

今日は解散する流れとなった。

電車で並んで座るも

寝ることが出来ないほど辛い。

頭痛のせいかな。


美月は私に一切喋りかけることなく、

一切何かを問うわけでもなく

読書に耽っていた。

ゆらゆらと揺れるのが

更に追い討ちをかけてくる。

手をぐっと握りしめるも

痛みは和らがなかった。

ゆるりと揺れる互いの髪の毛は

擽ったさを誘う前に

嫌悪感を誘ってきていた。





***





電車を降り改札から出てすぐ、

美月は私の手を握った。

何の意図があるのかわからなかったが

それを考えれるほど余裕はなく、

覚束ない足取りで家路を辿る。


美月「こっちで合ってるわよね?」


花奏「…うん。」


美月の方が身長はだいぶ小さいから

側から見れば妹に連れられる姉のように

見られることだろう。

彼女は私の手を引き、

一刻でも早く且つ安全に

私の家まで行こうとしているのを感じた。

真剣そのもの。

まるで私の命がかかってるみたいに。

そんな大袈裟な。

どうしてここまでしてくれるんだろう。

前回の梨菜といい、

今回の美月といい。

どうして。


余念ばかり過っていると

突如として私の家が見えた。

今まで下を向いていたのかな。

美月に肩を優しく叩かれてふと我に返ったの。


美月「辛くない?着いたわよ。」


花奏「ありがとうな。…じゃあここで。」


美月「ええ。また何かあったらすぐ呼びなさいよ。」


花奏「うん。…態々送ってもらったんに何も出来んくてごめんな。」


美月「いいのよ。花奏の風邪が治るんならそれで。」


困った人、と言うように

肩をすくめて笑っていた。

ああ、本当に迷惑とも何とも

思っていないんだろうなって、

さっきの言葉は本心だろうなって感じて

心底安心できた。

大丈夫だって何となく分かった。


それから美月を見送ってから

家に入ろうと思ったが

それは美月が許してくれなくて、

先に家に入ることになった。

戸を閉める間際、

美月とまたねなんて言い合って。

これで変わったんじゃないかと

淡い期待を抱いてしまう。

何も変わっていないはずなのに

変わったはずだと信じたくなった。


髪だけ雑に解いて髪ゴムをその辺に放る。

閑静な時間に背を委ね布団に入ると、

みるみるうちにあたりが暗くなってゆく。

頭痛がする。

体は怠いし熱い気もする。

熱、朝何度あったんだっけ。

もう…覚えてなー





***





ぴーんぽーん。

遠くから私を呼ぶのはそんな音。

突如ひやっと背筋が凍り体温が下がる。

そして一気にどっどっと

心臓が鳴り出し血液は廻る。

ふらふらとよたつく足元には

頼りない床の軋む声。

梨菜だ。

前回通りだとこの時間、

午後の2時半頃…梨菜が来る。


花奏「……はーい。」


精一杯の明るい声なんて今は作れなくて。

真相を知ってしまったかのような

野太い声が出てしまう。

咳払いを数回して戸を開けた。


梨菜「わ、大丈夫!?」


花奏「そう、よな。」


梨菜「ん…?」


花奏「いや、こっちの話や。」


梨菜「そっか。…ならいいんだけど。」


そこにはいたのは彼女と

高くに登ったままの陽だった。

梨菜は決まって袋を持っており、

それを丁寧に前へ突き出した。


梨菜「これどうぞ。プリンとかゼリーとか食べやすいもの入ってるから。」


花奏「助かるわ。態々ありがとうな。」


かさかさと乾いた音をたて

手元でしっかりと皺に引っ付くビニール袋。

ビニール袋でさえお金がかかるのに…

態々申し訳ないという気持ちが募ってくる。

一先ず左腕にかけ、

梨菜との途中で

止まっていた会話へと再参加する。


梨菜「んーん、全然いいんだよ。私も偶々ここらへんにいてさ。せっかくならお見舞いに行こうって思って。」


花奏「そういや誰から私が体調悪いって聞いたん?」


そこだ。

今まで不明だった点の1つ。

何故梨菜が私の体調不良について

知っているのか。

きっと朝の段階では美月しか知らないはず。

となると美月からのルーツで

情報は流れているのだろうとは

大まかに予想できるが…。


梨菜「美月ちゃんだよ。Twitterで呟いてたの。花奏ちゃんが体調悪かったのに無理してたみたいなこと言ってたんだ。」


花奏「そうなんか。…美月には迷惑かけたな。」


梨菜「すごい心配してたよ。」


花奏「うん…そうよな。」


梨菜「それでね、美月ちゃん予定が急遽入っちゃったらしくて。本当はそれ、美月ちゃんが渡す予定だったんだ。」


花奏「…え?」


梨菜「…?どうかした?」


美月に急遽予定が入った。

その言葉が引っかかった。

その予定のせいで美月と歩は

出会ってしまうんじゃないか。

しかし、前回とは少しは違う。

前回の美月の外出理由は分からないけれど

今回とは訳違う可能性だってあるのだ。

そう。

前回の彼女に外出の訳を

聞くことなどもうできない。

全く同じ事を繰り返せば

知る事はできるだろうが、

そのために歩に苦しい思いをさせるのは

本望ではない。


花奏「今、美月ってどこにおるん。」


梨菜「それは私も分からないの。」


花奏「そう…やんな。」


梨菜「連絡してみる?」


花奏「え?」


その手があった。

あった…んだけれど、

美月の用事が何か分からない以上

連絡してしまっては申し訳ないという

考えが湧いてしまっては止まらない。

こういうところ、判断力が鈍いのだ。


花奏「ううん。ええよ。」


梨菜「そう?何だか深刻そうだったから。」


花奏「大丈夫や。それよりありがとな、梨菜。」


梨菜「全然。近くにいたしね!」


花奏「あはは、頼り甲斐あるわ。」


こんなに笑顔で蕩けているけれど

前までの梨菜を見ていたから

頼り甲斐があるように見えた。

しっかり姉なんだなってしみじみと。


…そういえば。

前回私の部屋にまで送ってくれた梨菜は

そのまま帰ったのだろうか。

鍵を開け放して。

けれど、美月からの電話の後鍵を開けて

家を出て行ったような覚えはある。

その時…梨菜はどこにいたんだろうか。

なんてことを思ったけれど、

遂に頭痛が悲鳴を上げる。

ずきずきと巣食う痛みは

くると分かっていても耐え難かった。


花奏「…う…。」


梨菜「大丈夫!?もう寝て花奏ちゃん。」


花奏「…うん、そうするわ。本当ありがとうな。」


そう断りを入れると、

梨菜はするりと玄関から出て

真っ直ぐこちらを向いた。

ここも違うんだって漠然と思う。

何が作用してこうなったんだろう?

私が今ここで大きくふらつかなかったから?

それが有力だろうけど…

…ああ、もう頭が回らないや。


花奏「じゃあね、また。」


梨菜「うん!お邪魔しました!」


丁寧に1つ小さくお辞儀をし、

梨菜はその場を去っていった。

かちり。

締め出すように戸の鍵を締め、

再度布団へ戻る。

スマホは充電器に繋ぎ、

アラームを大体3時半頃に設定した。

確か4時半頃に例の事件が起きたはず。

早めに交差点に着いて

張っていれば必ず会えるだろうと踏んでいた。

結局のところ、事故の目前で

止めることになりそうだった。


花奏「…っ。」


頭痛が止まない。

この風邪において1番の敵は

もしかしたら熱でも怠さでもなく

頭痛なのかもしれない。

…そう過った時にはもうー





***





花奏「はっ…!?」


突如として視界が開けるも、

またどっどっと心臓が煩くなり続ける。

寝坊した時の感覚に似ている。


今何時だ。

アラームは鳴ったのか。

記憶の限りだと鳴っていないけれど

どうなのだろうか。

幾分か辛さのなくなった体は

震えてながらスマホに手を伸ばす。

すっと映された白い数字。


『15:58』


花奏「…っ!?」


まずい。

3時半には起きているはずが

予定は大きく狂い4時の方が近くなっていた。

冷や汗がどっと出て、

脳内ではどうしよう、どうしようの繰り返し。

髪を縛る間もなく鍵を開け放して

家から飛び出ていたと分かったのは

電車の音が耳に届いてからだった。

スマホも持たず定期だけ持って

電車に飛ぶように乗った。


たった2駅だが、気が気でなく

いつもよりずっと長い間

乗っているような錯覚に陥る。

1時間は経ったのではないか、

なんて思ってしまうほどに。

こんな時、時間が止まったら

どれほどいいことか。

空想にまで手を出したところで

電車は遂に目的の駅に止まった。


前回の記憶を頼りにタイムマシンのある

廃墟の方へ向かう。

そのまま真っ直ぐ進めば

確か交差点があった。

…思えば、だ。

交差点なんて幾つもあるのだ。

その事実に今気がついてしまい、

走っている汗に加え気持ちの悪い滴が

顎や背中をつうっと伝う。

間に合わないんじゃないか。

そんな不安が心臓をこれでもかと言うほど

早く早く鼓動させる。


花奏「…嫌や…歩っ……!」


廃墟が見えた。

ここから歩の実家や美月の家が

ある方向へー


そう。

…。

そう、足を踏み切った時。


ぎー………が…っ…。


…遠く遠くで轟音をかき鳴らし

鈍い音を纏う何か。

…。

…いや、きっと違う。

違う。

違うはずなんだ。


直後、叫び声が耳に届く。

想像を絶するような金切り声。

何かを失ったような、そんな音。

嘘。

嘘だ。

嘘であってくれ。

お願い。

一生のお願いだ。

お願い。

歩を、助けて。


この性格の悪い轟音に

歩や美月は関わっていない事を願いながら

1歩1歩着実に近づいてゆく。

野次馬が増えてゆく。

進むたびに、だんだんと。


「もしもし。…はい。……救急ですー」


電話をしている人がいた。

警察に、だろうか。

頭は考えるのをやめてしまったらしく、

ただ見たりスマホを構えたりするだけの

人間らをかき分けて進んでく。

住宅街の中で少しだけ大きな交差点。

周りの家から出てきたのか、

エプロンをつけたままの女性や

学校から帰ってすぐのの高校生、

飾らない普段着の男性など様々。

皆の視線の先。


花奏「……っ!?」


頭の凹んだ車。

凄惨な赤。

急ブレーキの後。

咲いた肉片。

転がったままの人体。

ぼさぼさの髪。

泣きつく女の子。


関節は変な方向に曲がってた。

遠くからでもわかる。

肘だか膝だかが逆の方向に曲がってた。


花奏「………あ……………ゆ…?」


喉の奥が痰でくっつき

うまく呼吸ができない。

言葉だってあり得ないほど掠れている。

呟きは形にもならずガヤに掻き消された。


1歩。

また、1歩。


彼女の元へ。


ぱっ、と。

不意に腕を掴まれた。

腕を引かれた。

異常な止めようにふらりとよたつくも

足を地につけ、血につけ耐える。


「ちょっと、近づかないほうが」


花奏「やめて…!」


腕に精一杯、今入る力全てを使い

気味悪い手を振り解く。

知らない人に触られるのは

何故か今だけは気持ち悪くて仕方なかった。

それ以上に邪魔をするなと言う

怒りか何かが込み上げてきていた。


掠れてひと言さえ出なかった癖に

今だけこんなにはっきりと憎く出るの。

私の声がきっかけだろうか。

美月が、泣きついていた美月が

ばっとこちらを振り返る。


美月「か……かな、か…なでっ…!」


花奏「…っ。」


美月「歩が、わ、私のせいで…歩がっ!」


彼女の、未だに真実を受け入れられない顔。

そして美月が動いた事で

より顕に見えてしまった、歩自身。


歩。

これが歩だって言うの…?

歩…?


花奏「歩…?」


歩「………………ぁ…。」


花奏「……どう、し…たの…?」


受け入れられない。

こんな現実、嘘だ。

受け入れたくない。

それは私だっておんなじだよ。

こんな、な、の。

信じたく、ない。


右半身が酷く損傷していて、

流血が何処からかわからないが止まらない。

無意識か否か、口がぱくぱくと動いている。

余った左手を。

彼女の目の前に立って

縋り泣くこともできず見下ろすように

突っ立ったままの私に

歩、は。

歩は、左手を伸ばしていた。

かくかくと痙攣させながら。

粘度の低い液体をびっしりと塗ったくって。

擦り傷だらけの指で。

届かないのに、私へと。


花奏「…ぁ……あ…ゆ……っ…歩、歩っ!」


現実…だ。

現実か…?

分からない。

判断のつかないまま、

歩がまだ生きている事が

その時漸く頭に流れてきて。

急いで駆け寄り膝をつく。

彼女の前で。

昨日までの面影はなく

あるのは惨い情景だけ。


伸ばされたその手をしっかりと握る。

擦り傷は痛むだろう。

けど、けど、それ以上に

今逃してしまったらもう会えない気がした。

離さない。

絶対、この手は離さない。

血、だろうか。

ズボンに染み込んで膝に違和感を感じる。

甘い水音が耳を轢いてゆく。


歩「………ぁ…………ぁ…ぇ…………ぁ…」


花奏「何、歩、歩っ!…分かる?私やで、花奏やで?」


歩「……………ぃ…」


花奏「歩、大丈夫やから。すぐ救急車、きてくれるからっ!」


手をぎゅっと握る。

辛そうな顔なのは変わらない。

かひゅー、ひゅー…と息が聞こえる。

虫の息。

…そんな言葉が頭を過る。

焦点は合っていないし、

目は撥ねられた時の衝撃か否か

真っ赤に充血してる。

きっと見えてないんだ。

ここだよ。

ここにいるよ。

歩。

いるよ。


大丈夫。

助かる。

きっと。

大丈夫。

大丈夫だよ。


何度も何度も彼女へ言葉を送り続ける。

しかし、段々と歩からの

聞き取れない掠れた言葉さえ

なくなっていった。

1分も経ってない、と思う。

送っても返ってこなくなる感覚は

いつかの時…前回より前の時、

歩がいなくなって以後

LINEしたり電話したりした時の感覚に

異常なほどにそっくりだった。

恐怖が背中をよじ登る。

あの時の孤独感が、怖い。

怖い。

失いたくない。


握っている手が徐々に体温を手放していく。

もう、私よりも冷たいのではと思うほど。


歩「…………」


美月「歩っ!目を覚まして、歩っ!」


花奏「…っ!」


美月が歩の頬に手を添えた時だった。

だらん、と。

私の手中から冷たい異物は落ちていった。

するり。

ちた。

落ちた先はどす黒い水溜まりで。

私はその中に座り込んでいたのか、と

客観視できない私が言った。

擦り傷の目立つ左手は

みるみるうちに黒く染まってく。

ふと。

自分の手のひらを見ると

皺にくっついた命の抜け殻。

ぬめぬめする。

まだ、生きて…る…

…と、信じたい。

のに。


花奏「……。」


美月「歩っ!歩…歩っ…うあああぁぁああっ…!」


ああ。

…駄目、だったと。

直感がそう告げた。


花奏「起きてよ、歩。歩っ…歩、起きてや…。」


床に落ちた手を拾い上げ、

再度ぎゅっと強く握る。

骨が軋む音が聞こえるのでは

ないかというほどに。

冷たくなってゆく。

どれだけ私が温めても全然暖かくならない。

ならない。

…。

もう、手遅れ…だ。

嫌なほど現実が見えてしまっている。

予測して…否、知ってしまっているが故に

今…歩がいなくなったことを

認めかけてる自分がいる。


助けられなかった。

私がもうちょっと早くここに来てたら。

私が美月との約束を強行できていたら。

私が歩の帰省を止められていたなら。

後悔ばかり。

後悔のみの海で息継ぎすらできない。

涙は歩が息絶えたと感じた瞬間、

堰を切ったようにぼろぼろと溢れ出した。

透明は赤に混じるも

すぐ赤に染まって見えなくなった。


ごめん。

ごめんな。

痛いよな。

痛かったよな。

辛かったよな。

ごめんな。

ごめん、歩。

歩。

助けてあげられなくて、ごめんな。


びっこをひきながら

ひとつひとつ彼女に手渡してく。

言葉はもう、届かないのに。

決心がつかない。

ここを離れる決心が、できない。


美月「私のせ、いで…歩っ…ごめん、なっさい…ごめ……なさいっ…!」


美月のせいじゃない。

違うんだよ。

そう声をかけてあげれなかったのは

私の卑怯な性格のせいだろうか。

声をあげてなく彼女を慰めもできず

声をあげなくなった彼女を

救うこともできなかった。


それから救急車が来て

あたりが落ち着きを取り戻したかのような

仮面を被ったのは15分か30分くらい

経ったかどうかの頃。

救急車が来る音を察知して、

名残惜しいがずっと握っていた手を離す。

冷たい。

手を離しても外気温が

私を刺すように冷やしてくる。

美月はまだ大粒の涙を流しながら

もう動かない歩に縋っていた。


花奏「………ごめん。」


ひと言置き去りにして

その場を後にする。

逃げてきたようで吐き気がする。

美月も歩も全て置いてきて

私だけ助かろうとしているようで

気持ち悪くて仕方がない。

けれど。

…けど、戻らなきゃ。

こんな未来、あっちゃ駄目だ。

駄目だ。

服は血みどろのまま、

多少減った野次馬の間を抜け

一気に廃墟へとひた走る。


骨が悲鳴を上げている。

心臓が咽せている。

血液が足掻いている。

私は、生きてしまってる。


足がもう動かないと思っても

無理矢理動かし続けて、

心臓が変な動きをしていても

ひたすらに走り続けた。

廃墟が見えてすぐ人目を気にする間も無く

中に入り階段を駆け上がる。


花奏「い゛っ…。」


中途、階段で躓き脛を擦りむいた。

ズボンで見えないがそんな気がする。

ズボン自体紅色塗れで

血が出ているかどうかさえも確認できない。

けれど、こんな痛み

歩に比べたら比でもない。

こんなの、歩の痛みと比べたら何とでもない。

また足の裏に力を入れ

ひび割れた階段を蹴り上げる。


靴裏が最上階の床を叩いた。

もう、陽は沈みかけている。

赤を纏った奇妙な機械は

今回もここにあってくれた。


花奏「…助ける。」


絶対に。

絶対に助ける。

歩を、あんな目に遭わせない。

絶対。


初めて歩が死ぬ瞬間を目の当たりにして、

私の中の覚悟や決意は

今までにないほど煮え滾っていた。

周辺にある数字や文字には目がいかず。

悩んでる場合じゃない。

そんな時間、とうにない。


白いボタンを迷いもなく押した。

助けるため。

あなたの未来を守るため。











11月11日



うとうとしてたらしい。

変わらず授業中だ。

ノートは白い。

線がびーっとだらしなく引いてある。

これだって同じだ。

いくら願おうとここからしか

再開できないらしい。


不意に、昨日の…

…というよりかは前回の情景が

脳裏にこびりついて離れてくれない。





°°°°°





右半身が酷く損傷していて、

流血が何処からかわからないが止まらない。

無意識か否か、口がぱくぱくと動いている。

余った左手を。

彼女の目の前に立って

縋り泣くこともできず見下ろすように

突っ立ったままの私に

歩、は。

歩は、左手を伸ばしていた。

かくかくと痙攣させながら。

粘度の高い液体をびっしりと塗ったくって。

擦り傷だらけの指で。

届かないのに、私へと。





°°°°°





花奏「…っ。」


吐き気、だろう。

夕立に当たったわけでもないのに

全身が体調不良を訴えてくるようで。

喉の奥で朝食べたものが

迫り上がってくる異物感。

けれど、勿論この時間は授業中。

先生のひとりぼっちな説明以外は

ろくに耳に届いていなかった。

先生の声だって届いたとしても

右から左へ流れていった。





°°°°°





かひゅー、ひゅー…と息が聞こえる。

虫の息。

…そんな言葉が頭を過る。

焦点は合っていないし、

目は撥ねられた時の衝撃か否か

真っ赤に充血してる。





°°°°°





授業中のせいか否か、

あの情景は過ぎらずにはいられなかった。


記憶に悩ませれ続けて耐えて

漸く2時限目の終わりの合図が鳴った。





***





湊「花奏ちゃん寝てたね、珍しい。」


花奏「…まあな。」


湊「席後ろだし流石に気づいちまったよ。」


花奏「…。」


湊「うち千里眼持ちだからね。」


花奏「そういや前も言っとったな、それ。」


湊「あれ、おんなじこと言ってた?」


きょとん、と目を丸くする湊。

まるで全てを見透かされて

驚いている犬のようだった。

何の話でその言葉が出たんだっけ。

マスクの下がどうこうみたいな

話だった気がする。


花奏「言ってなかったっけ。」


湊「今編み出した新作のはずが既出だったかー。芸人としては悔しい限り。」


花奏「…え?」


湊「そこは突っ込むべきでしょー。あんたの本業は学生だーって。」


花奏「…あ………そ、っか。」


そっか。

そうだ、思い出した。

千里眼云々の話は確か

私がうたた寝し終えて直ぐの

休み時間にあった出来事。

つまりたった今の時間で

あったはずの出来事だ。

湊からすれば初めての

この日のこの休み時間だ。

繰り返しを経ていつ何をしたのか、

どんな話をしたのか薄れだしている。

私からすれば少し前にあったことなのに

湊や周りからしたらそもそも

無かったことになったんだ。


湊「ちょっとちょっとー、そんな真面目にそっかーなんて言われたら困るでしょー。」


花奏「あはは…ごめんな。私も芸人やないから上手い返しが浮かばへん時だってあんねん。」


湊「なるへそ。納得。」


花奏「ならよかった。」


湊は相変わらず上半身と机は仲良し。

でも消しかすを机と指で潰すことはせず

じっとこっちを見て視線を外さない彼女。

それこそこっちが気まずくなり

視線を廊下の方へと移した。


湊「次の授業中丸先生だって。ちょいと面倒だね。」


花奏「そうやな。英語か次。」


湊「そうそう。当てられるよ、当てられちゃうよー?」


花奏「そういう湊が当たんねんで。」


湊「うわ、言い出しっぺの法則ってやつ?あーやだやだ。」


態とらしく寒いみたいな

ジェスチャーを取った後、

また机にべたーっと張り付く。


花奏「大丈夫やろ、今日宿題しとるんやし。」


湊「たしかに。戦闘準備は万全じゃ。」


花奏「戦闘って…戦いなんこれ?」


湊「生きる上で避けては通れない戦いだね。私にとっちゃ鎧着てなきゃ致命傷。」


花奏「勉強せいってことやな…。」


湊「うわーん。趣味だけに時間を割いていたいー。」


花奏「花の高校生活やん。3年間頑張ろうや。」


湊「勿論だよ。湊さんは高校に入ったからには半端にやめないのだ。」


花奏「お、ええやん。私も頑張らな。」


途端にしん、と私達の会話は終わった。

話題の区切れ目で静かになることは

これまでに幾度となくあったが、

ここまで顕著なのはなかなか無かった。

不思議と焦ってしまう。

湊はリラックスしすぎている程に

未だ干された洗濯物の体制。

そのままの体制でそのままの声で、

…いや、語るように、だろうか。

声が飛んできたのだ。


湊「何かあった?」


花奏「…え?」


湊「顔に出てるよ。考えてますーって文字。」


花奏「…マスクしてるのに分かりっこないやろ?」


目元だけで分かるものなのだろうか。

目は口ほどに物を言うと言うけれど。

…湊はそれでさっき

じっと私のことを見ていたのだろうか。

真実は知れないな。


湊「うち千里眼持ち。」


花奏「……せやな。持ってるな、千里眼。」


湊「おおー、認めてくれたかー。」


得意げに鼻を鳴らす湊は

上手にできたでしょ褒めてとねだる

大型犬のように映った。

そこまで顔に出ていただろうか。

…きっと、自分では知れないだけだろう。

自分では気づけないだけだろう。

多分酷い顔をしていたんだと思う。

じゃなきゃ湊はこんな言葉を発さない。

前回はそうだった。

私に見向きもせずただ適当に

送り出してくれたんだ。


…そっか。

前はこの短い時間で

歩のところに行ったんだっけ。

今は。





°°°°°





歩「………ぁ…………ぁ…ぇ…………ぁ…」





°°°°°





花奏「…っ。」


嫌なことばかり思い出してしまう。

辞めておこう。

今は辞めておこう。

じゃなきゃ、きっともたない。

…そんな甘えたことを脳内で口にする。


湊「無理にとは言わないよ。きつかったら次の授業さぼっちゃいな。」


花奏「あはは…いくらなんでも良くないやろ。」


湊「あはは、いいのいいの。必要なくとも時々さぼりな。休むことって必要だよ?」


花奏「よう寝る湊が言うんやから説得力しかないわ。」


湊「えっへへー。ま、無理せずね。」


花奏「ん。ありがとうな。」


少しばかり肩の力を抜いて、

湊の優しさに寄りかかってみる。

そのまま3時限目は始まり、

いつものように授業は続いた。





***





それから放課後になるまで

歩の教室には行かず

湊を始め教室の中で仲良くしている子達と

一緒に過ごしていた。

周りの人たちを見ているとよく思うのが、

歳に関係なくしっかりしている人は

沢山いるということ。

湊だってその1人だ。


湊は私が18歳であると

知っているかどうかは分からないが、

それ抜きでいい友人だと思う。

周りの子もそう。

空気を読むのが得意な子がいたり、

周りを引っ張るのが得意な子がいたり。

今日は知らない日を過ごそうと

現実から逃げるように息をした。

けれどどこかずっと息しづらい。

生きづらい。

引っかかっている。

あの生々しい記憶が。

ずっと、ずっと。

忘れちゃいけないと牙を立てて

肩なり脛なりを喰らってく。


…そういえば。

そう思って足元の方に視線を向ける。

脛、怪我したよね。

けれど勿論とでも言うように

足には特徴的な傷はなかった。


「はい、きりーつ。」


椅子にもたれ足元を見ていたせいで

よろけそうになりながら席を立つ。

地面が揺らいでいるような感覚が

襲ってくるも偶にある事だと

簡単に片付けた。


「きょーつけー。礼。」


通る男性の声で放課後になったと悟る。

そうだ。

今の今まで忘れようと背を向けていたせいで

今回をどうするか何も決めていなかった。

とりあえず雨を凌ぐ。

そう。

それが先決だ。

それから、美月との約束は後回しにしてでも

歩をあの交差点から離そう。

事故の起こる場所は分かった。

…分かった。

だから、あの場所から離せばいいんだ。

きゅっと握りしめた手が

無意識のうちに震えていた。

寒いわけじゃないのに。

何故か、なぜか。


湊「ねー、花奏ちゃん?」


花奏「ん?どうしたん。」


湊「湊さんがジュース1本奢ったげよーか?」


花奏「急に?それに確か…やけど私が奢るんやったろ?」


湊「そうだけどさ。ま、うちの気まぐれよ。利子付きで返しておくれ。」


花奏「ほんま気まぐれやな。」


湊「はははっ。利子は冗談として…飲み物どう?うちも飲みたい。」


花奏「ついてこいって言ってへん?」


湊「ついてきてー。」


花奏「言うたな。」


湊「ほれほれ、鞄持ってー。」


花奏「置いていかへんの?」


湊「うち鞄の中に夢と希望詰まってるタイプだから。」


花奏「聞いたことないタイプやそれ。」


湊「早よ行くぞよー。」


花奏「あ、待ってや!」


湊は私の話も良く聞かず

鞄を肩に担ぎぱーっと教室を飛び出す。

…多分、湊なりに気を遣ってくれてるんだろう。

それにまた心が痛む。

そんなに違うかな。

いつもの私じゃないかな。

教室内のみんなの話し声や

ころころ変わる天気だっていつも通りなのに。

ほっぺをぐいっと摘み、気合を入れ直す。


花奏「……ってー…。」


湊は今回の事件事故には

全くもって関係ないのだ。

心配させたくない。

心配かけたくない。

関係ない人にまで迷惑をかけるのは

違う気がしていた。


花奏「…よし。」


辛くても笑っていれば

きっと報われるから。

だから、無理にでも笑っていれば。

きっと。

今までそうだってから。

だから。

そんな希望的観測で鞄を肩にかけ

湊の後を追った。

教室を飛び出ると、

階段付近で湊が待機しているのが見えた。

ふと私が見えたのか大きく手を振っている。


湊「こっちー。」


花奏「はいはい。待ってな。」


湊「待たなーい。」


湊はふらふらと踊るように

階段を降りていってしまった。

鞄を肩に掛け直し再度走る体制をとる。

廊下には既に人が溢れており、

私らのクラスは遅めにホームルームが

終わったのだと気付かされた。

湊を追って階段を降り1階まで行くと

凍てつく寒さが体の末端を啄みだす。

小刻みに食うものだから

微妙な刺激が痛痒い。

それらを無視して靴箱前を通過する。


湊「とーおちゃーく。」


手を広げ飛行機のようなポーズを

披露している彼女。

ついていった先は何故か職員室前。

先生たちはまだ教室なり

職員室内なりにいるのか

人通りはほぼない。

その代わり生徒が数人。

部室の鍵を取りに来たのか

通る人は疎にいた。


花奏「なんでここなん?」


湊「自販機はある、机椅子もある。そして何より職員室からの暖か過ぎる空気をお裾分けしてもらえる。」


花奏「一石三鳥と。」


湊「そゆことー。」


手を腰にあて、良く見つけたでしょと

言わんばかりに目をきらきらさせている。

目は口ほどに物を言うんやなって

実感してしまった時だった。

湊は窓側の長机に座り鞄を雑に下ろした。

隣にお邪魔すると、

湊はいつの間にか財布を取り出し

ほぼ真横にあった自動販売機へと

吸い込まれるように行った。


湊「どれがいいどれがいい?」


花奏「急かさんといてや。」


湊「だって、もしタイムセール中だったらうちらもみくちゃにされて終わるよ?」


花奏「ここデパ地下でもスーパーでもないんよ。」


湊「と、取られちゃってもいいのかい…?」


花奏「多分最後の1個じゃないから大丈夫やで。」


湊「最後の1個だったらどうするよ!」


花奏「それは湊の千里眼で見てくれや。」


湊「うーん、ふむふむ…なるほど。」


花奏「見えた?」


湊「ポカリ君は殿だよーって言ってる。」


花奏「唯一のラストがポカリかいや。」


湊「運動部のマドンナだもんね。」


花奏「ポカリ君は喋らへんよ。」


湊「もー、夢ないなー。」


花奏「湊は妄想癖が過ぎるんや…。」


自動販売機に耳を押し当てていたあたり、

千里眼が何か分からなくなってきた。

千里「眼」とは。

やはり湊はどこか頭のネジが

飛んでしまっているんだろうなと

思わずにはいられなかった。

こんな変人だが観察力は

優れていると言えるだろう。

湊は財布を手にじっと

自動販売機を見つめている。

選ぶのに必死みたいだった。

私も並んでぴかぴかと光るボタンを

目で追っていた。


湊「どれにする?」


花奏「うーん、じゃあこれ。」


湊「水?本当に?」


花奏「ほんまに。」


湊「味っけあるものにしよーよ。」


花奏「甘いものとかってこと?」


湊「そーそー。ほら、抹茶オレ美味しそう。」


花奏「値が張るやろうに。ええて。」


湊「いーのって!気にしない気にしない。だって私、今度午後ティーの無糖奢ってもらうんだよ?」


花奏「でも」


湊「そ、れ、に。うちいつも小さいお菓子ちびっとに対してたまに花奏ちゃんに飲み物奢ってもらうじゃん?釣り合い取ろ取ろ?」


花奏「あー…うん、分かった。お言葉に甘えるで。」


湊「よしきた。抹茶飲めるかい?」


花奏「大好きや。」


湊「よし、けってーい。」


からんからんとお金を入れ、

光ったボタンを早急に押す。

早業すぎるもので、なんでそんなに

せっかちなのか不思議だった。

湊はよく、ここって急ぐところ…?

という場面で急いでいるイメージがある。

宿題とかはほぼやってこないのに

授業の開始時間2分前には

席についている、とか。

何かしら自分ルールがあるんだろう。


がたん。

気づいた時には抹茶オレは

視線の随分と下に無惨に転げていた。


湊「とっちゃいなとっちゃいなー。」


花奏「うん。ありがとうな。」


湊「お安い御用ってもんよ。」


花奏「湊はなんか飲むん?」


湊「それこそポカリ君でしょ。」


花奏「この後部活でもあるん?」


湊「んーん、今日は休みー。」


花奏「部活なしに普通に飲むんはきつない?」


湊「えー、そう?うちは全然いける。」


花奏「そうなんや。」


湊「ま、飲みきれなかったら明日部活あるし持ってくどん。」


変な語尾をつけたところで

彼女はまたお金を入れ直し、

留まり光った無機物を優しく押した。


がたん。

それと同時に留まり光っていたところに

ふわっと文字が浮かぶ。

「売り切れ」

そう、残されてあったのだ。

目をまん丸にしてこの文字を

見つめる自分が浮かんだ。

まるで他者視点のように

自分が見えたような気がした。


湊「ふんふふーん、ポカリ君ー。」


花奏「湊、見てみて!」


湊「ん?どうしたの鼻息荒げて。」


花奏「いいから、上!」


湊「何々ー。…え、まじ?」


気だるそうにポカリを取った後

のっそり立つ彼女。

そして、私と同じものを見た後、

自動販売機の前でぽかんと

口を開けてしまって動かない

彼女の姿が横目に入る。


花奏「まじや!」


湊「すっご、まじじゃん!現実じゃん!」


花奏「ほんまに最後の1本やん!」


湊「よっしゃー!今日ついてるー!やったやったー!」


ぱっと見えた文字に驚きを隠せないようで

きゃっきゃっと騒いで

跳び回り始めていた。

お互いに片手に飲み物を持ちながら

縁を描くように跳ね回る。

まるで子供が終わらないけんけんぱを

しているかのよう。

ここが職員室前だと言うことも忘れて

2人で構わずはしゃいだ。


この時また歩の事を忘れられた気がする。

久しぶりに思い詰めない時間。

思い詰めなくてよかった時間。

それが私には必要だったのかもしれない。

ただ、息抜いてばかりでは絶対に駄目だ。

明日、今度こそ絶対に、

絶対に助ける。

凄惨な場面が脳内でありありと描写されるも

今はみるみるうちに霞んでいった。

今は気にするな、と神様か何かが

言ってくれているんだろうか。


「そこ、ちょっと静かに。」


湊「あはは、あーごめんなさいー!」


花奏「すみません!」


「ここ騒ぐスペースじゃないから。勉強する人だって多いんだから気をつけなさい。ね、わかった?」


湊「はいー。以後気をつけますー!」


はしゃぎすぎるあまり職員室からは

中年の女性の先生が出てきて、

私達は注意をされてしまった。

湊はこういうのはされ慣れてるのか

言葉尻を眠たげに伸ばし返事をしていた。

いつも寝ていたり宿題を忘れたいするから

その分経験値を積んでいるのだろう。

…あんまりいいことではなさそうだけども。

先生はというとひと言私達に

釘を刺した後また部屋へと戻っていく。

未だにいらいらしているようで、

かつかつと足音を踏み鳴らし

馬のように威勢よく歩き去っていた。


湊「あー、もー、よく騒いだ騒いだー。」


花奏「騒ぎすぎやろほんま。」


湊「花奏ちゃんだって人のこと言えないでしょー?」


花奏「それはそうやけどさ。」


湊「やっぱうち持ってんのよ、千里眼。」


花奏「そうやな。信じるしかないわ。」


湊「だよねだよね。うちもそう思うもん。」


お互いだいぶ落ち着いて

泡だらけになった飲み物を手に席につく。

彼女はうんうん、と首を縦に振り、

ポカリを更に2、3回振って

キャップをかきかきと鳴らし開けていた。


私もそれに倣って蓋を開ける。

硬い音が鳴り終わった瞬間、

ふわっと香る和の匂い。

甘いのを買ってもらって

よかったのかもしれない。

こんだけ騒いだこともあってか

喉は甘いものを欲していた。

これも見越して抹茶オレを推奨してきたのかな。

そんなわけはないだろうけど、

もしそうだったらいよいよ怖い。

きっと将来は占い師でも

やったほうがいいだろう。


花奏「そういやなんで食堂にせんかったん?」


湊「んー、場所的にここの方が良くない?」


花奏「雰囲気的な?」


湊「え、むずその質問。何となくだよ何となく。」


花奏「そっか、そんなもんか。」


湊「てかここのおかげでラストポカリ取れたんだし!」


花奏「せやな。それを見越してここにしたんやもんな?」


湊「お、おう。勿論勿論。」


花奏「あはは、適当すぎやろ。」


湊「ばれちゃーしかちゃねー。」


ゆるゆるの滑舌のまま

また上半身は机に引っ付いていた。


以降、湊とはくだらない会話をした。

多分だけど、私があんまり

思い詰めたような顔をしていなかったから。

だからか否か、あの授業のここが

難しかったよねーだとか、

普段家で何してるのー、とか。

兄弟いたっけ?みたいな

普通ほぼ初対面でするような会話を

今更ながらに繰り広げていた。

思えば湊と1対1でこんなに

長く話したことはなくて。

当たり前だが長時間電話だってしたことない。

彼女の新たに知る面が多くて

純粋に面白い、なんて思った。


途中、スマホの音が鳴るが

鳴ったなと思うだけで思考の内にも入らない。

多分美月からだろう。

今まで通りならきっとそう。


湊とのなんてことない会話が

今じゃとてつもないほど心地よくて、

ずっと居続けたいなんて

夢に縋りたくなってしまう。

けれど、時間は無情にも過ぎ去るもの。

湊は会話の区切りがついたところで

スマホを取り出していた。


湊「お、なかなかいい時間だね。」


花奏「何時?」


湊「4時半過ぎ。」


花奏「1時間は話してたん?」


湊「みたいだね。あっちゅーま。」


花奏「ほんまにな。」


湊「抹茶オレ美味しかったかい?」


花奏「めっちゃ美味しかったわ。ありがとうな。」


湊「なんのこれしき。今度は無糖お願いね。」


花奏「任せーや。」


湊「お!頼もしいー!」


湊は何でこう私を誘って

話し始めたのかを忘れているふうに見える。

元気付けるため、だったのだと思うけど

「元気になったっぽいね」

みたいな事さえ言わず、

触れないでいてくれたのは

どこが嬉しかったし安心していた。

もう大丈夫かなって

本人の中でもひとつ落ち着いたのだろう。


湊「んじゃ、うちはちょっくらいくとこあるもんでー。」


花奏「え、用事?ごめん、話してしもうて」


湊「だーいじょーぶ大丈夫。夜学校に来る子とはなそーよって言っててね。」


花奏「ああ、定時制?」


湊「そーそー。うちの気分が乗らなきゃなかなか会えないからさー。」


花奏「完全に湊次第なんやな。」


湊「ま、相手の子も気まぐれで気分乗らないと早くこないのよ。」


花奏「似た性格なんか。」


湊「ま、そゆことー。」


そんなに緩い不安定な仲もあるのだなと

見方がまた少し変わってく。

そういえばこの後、だっけ。

定時制だと言っていたあの子も来る事だろう。

今は前より時間は早い。

今なら走っていけば雨に濡れずに

帰ることはできると思う。

いいタイミングだ、と内心口角は上がっていた。


お互い空のペットボトルと鞄を持ち、

すぐ近くのゴミ箱に空を捨てて

廊下に足音をうち鳴らした。

職員室前には質問に来ていた生徒を始め

生徒会役員やら何やら

色々な人が寄っていた。

そこから離れたせいで学校内が

絶え間なく無音に包まれているような、

そんな感覚へと呑まれてく。


また話していると

中途階段がある道へと差し掛かる。

隣を歩いていた彼女は足を止め、

いつしか私の後ろで

なんだか眠たげな瞳を向けていた。


湊「うちここ上がるんだわー。」


花奏「そっか。また来週な、湊。」


湊「おー。うちのLINEはいつでも寂しがりやだよん。」


花奏「はいはい。気ぃ向いたらな。」


湊「待ってるねー。んじゃまたー。」


からり。

準備できました、と言うように

リュックを背負い直し

1段飛ばしで階段を駆け上がっていった。

さすが、体力が有り余っとるんやな

…なんて他人事。

この1時間での会話の内容や

自販機で売り切れの文字を見た時を

思い出してしまい

ふふ、と笑みが溢れる。

6時間前が嘘のよう。


…けれど。

湊には気を遣わせてしまったし、

何より解決には一向に近づいていない。

ただ感情のその場凌ぎ。

炎天下の中木陰へと逃げ込んだだけ。

時間が経てば日の傾きも変わり

私のいる位置には焼くような日光が

届き出すことだろう。

1人になった瞬間にこうも考えてしまう。

一気に責任感や罪悪感が

にょきにょきと生えていく。


花奏「…今帰らな。」


泥に塗れた思考から何とか足を引き抜き

階段から離れ靴箱へと向かう。

向かおうとする。

…そうしようとした、その時。


「……小津町?」


落ち着いた声質が、

私の記憶をずたずたに裂いてゆく。

陰惨な影が咲いてゆく。


花奏「…っ!?」


どうして、ここで。

こんな時に。

今。

何で。


そう思わずにはいられなかった。


歩「今帰るとこ?」


花奏「あ……え、っと……あははー…そうなんよね。」


笑うのが下手。

もっと上手く繕って。


そう野次を飛ばす私の小人。

上手くいかない私の表情。

わら、えない。

どうしよう。


不意に霞む過去と今。

今は存在していない、ある予定の未来。





°°°°°





歩「………………ぁ…。」





°°°°°





歩「聞いてた?」


花奏「…え?」


歩「聞いてないね、その感じ。」


花奏「あ、はは…ごめんって。」


あのぐしゃぐしゃな過去が、

今の私を責めてくる。

そんなふうに感じてしまう。

ひん曲がった右側の手足、

赤く着色された動転した瞳、

かくかく震えた左手、

私に伸ばしてきた擦り傷だらけの指。


鮮明だ。

鮮明すぎるの。


歩「…あのさ…いつもと違うんだけど?何?」


花奏「そんなことないで?」


歩「急によそよそしい態度取られても不快なんだけど。」


花奏「それは………。」


いつもと違くはないよ。

同じだよ。

何もないよ。

…その、ひと言が出なかった。


どうしてそんなにも取り繕って

隠していたいのさ。

どうして。

そんなの、心配かけたくないから。

…答えは出ていても

どうして普通を装いたがるのか

不思議で不思議で仕方がない。


歩はきっといつものように

いつもの濃度で毒を吐いているだけ。

それだけなのに。

今は責め立てられているように感じる。

少しの間が空く間に

歩は何か言葉を発することもなく

奇妙な時間だけが流れていった。

焦るように口を開くも

吸う息が足りないの。


花奏「…ごめん、今日すぐ帰らないかんくて。」


歩「そ。」


花奏「……じゃ…また、な?」


歩「ん。また。」


出たのは掠れ震えた音。

相手の出方を伺うような、

ガタの出たコミュニケーション。


歩はどんな顔をしていただろう。

直視できないままに

私はその場から逃げ出した。

そう。

逃げ出してたんだ。

恐怖に襲われ彼女を遠ざけてしまった。

それほどまでに、

過去が今を喰らっている。

まるであの時のよう。

かえのアカウントが私を責めたて、

全てを認めた後の時のよう。





°°°°°





歩「あんたはそれで本当にいいわけ。」


花奏「…いいって。」


歩「…っ…あのさ、何が理由で認めてるんだか知らないけど、それが嘘ってくらい分かる。」


花奏「…。」


歩「嘘をついてまで守りたいものでもあんの?」


花奏「…。」


歩「どうにか言って。」


花奏「…本当だよ。」


歩「…っ。」


花奏「全部、本当だから」





°°°°°





急いで学校から出なきゃ。

半ば使命感に襲われて飛び出す。

空模様は小雨。

大丈夫。

大丈夫。

うん。

大丈夫だ。


花奏「…大丈夫。」


自己に暗示をかけ、

平然を取り戻すよう訴えかける。

未だ嘗てこんな動悸が落ち着かないことは

あっただろうか。

…きっとあった。

あったんだけど、今は思い出せない。

焦りが思考の邪魔をする。


どくどく。

どくどく。

変。

ひと言で片付けるなんて余りにも

雑だとは分かっているけれど、

冷静さが欠如した私には

丁寧さを求められても応えられなかった。


小雨の中、これ以上雨が

酷くならないことを祈り

無我夢中で走り抜ける。

閑静な住宅街、寂れた犬小屋。

そんなもの一切視界に入らず

ただ湿った地面を蹴り上げる。

間に合う。

大ぶりになる前に、きっと家まで。


花奏「はっ、はっ…はっ。」


思えばどうして雨を凌ぎたいんだっけ。

美月と買い物に行くためだっけ。

不意に浮かんだのは

美月のあの心底心配していた表情と

歩のさっきの不機嫌な顔。

歩…もうすぐ誕生日なんだ。

…本来ならばもうとっくの前に

すぎてしまったであろう誕生日。

今の私には祝える気はしなかった。

顔を見るとあの悲惨な光景が浮かぶ。

浮かんでしまうもの。

暫く歩と対面するのは

難しいんじゃないかとさえ感じてしまうの。


しち、しちと靴の裏が

コンクリートに染み付く中

雨を踏み締め泥を蹴った。











11月12日



花奏「…何で…。」


ぴぴっ。

脇からその音が鳴ったのを確認してから

そうっと抜き出す。

37.7℃。

熱だ。

けど前より低い気がする。

前回は38℃は上回っていた記憶がある。

朝起きてみると明らかに普段とは違った

身体の怠さが感じられるのは一緒だが

前よりか幾分も調子はいい。

手を動かすのさえ多少は平気。

熱であることには変わりはないけれど

今までの苦痛を思えば軽いもんだった。


花奏「…雨に少しでもあたったら駄目なんやろうな。」


ぽつり。

雨かと思うほど細い呟きは

朽ちた家をつんと注射針のように刺す。

…が、勿論何も起こらない。

誰もいない、また私だけの時間。


夜ご飯や朝ごはんは

今までの周期より

微々たる程度だけど多く取れた。

きっと湊のおかげだろう。

昨日はお風呂もさっさと済ませ

美月からの連絡に明日は予定があるから

難しいと返事をしたあとすぐに床についた。


今日は何にもない。

そんな、周期。


今まで何回繰り返したんだっけ。

想起してみるも苦い記憶ばかり蘇る。

1回目は何も知らず、

2回目で思い出して

3回目で目の当たりにした。

もしかしたら私が

1回目だと思っている出来事は

実はさらに過去に繰り返されていた

なんてこともあり得てしまう。

そう考えるとぞっとする。

今までずっと忘れたまま

私は11月11日と12日を

繰り返していたのだろうか。


花奏「…大丈夫。」


また1つ、自分に声をかけるも

帰ってくるのは浅い呼吸だけだった。

きい、と家が鳴る。

古臭い匂いが鼻をつつく。

いつもと変わらないはずなのに

いつもとは全く違って

不気味に見えてくる。


花奏「…歩…を、止めな…。」


思考を口にするも、

どうすれば?が次に出てくる。

純粋に帰省を止めれば

済む話…だと思いたい。

昨日の今日で連絡をするのは

憚られる気が十二分にするけど、

それ以上に来て欲しい明日がある。

意を決して今までより断然軽い体で

歩へと文字を伝った。


か、と。

キッチンの方で乾いた音が歌声を上げた。


花奏『歩、今日予定ある?』


いきなり

「今日実家に帰るんでしょ?やめてほしい」

なんて言ったら

そもそもなんでその情報を知ってるの?

…となるのがオチだ。

数分考えた結果

この声かけが無難かもしれないと考えた。

数日前に、実家に帰ると

耳にしていたことなんて抜け落ちていると

気づけなかったのだ。


花奏「…そっか。すぐに返ってくるなんて保証ないわな。」


当たり前だ。

人それぞれ生活にはペースがある。

それを知っているはずなのに

今は焦りという化け物が

口を大きく開けているせいで

早く早くと希っていた。


…数分経っても通知ひとつ来ず、

すぐに話すことは無理だと

諦めの気持ちが過りだす。


花奏「…水……飲んで1回寝る…か…。」


いくら前回までと比べ体調はマシにしろ

熱があるといえば大いにあるのだ。

感覚の麻痺、慣れ。

私の好きではない言葉達が

脳細胞と戯れている。

嫌だな、と遠巻きに眺めて思うほど。


キッチンへ行くと、また

…か、と……。

…と音がする。

よくよく見てみれば錆びた蛇口から

1滴1滴絞り出すように

透明が流れ出ていた。

涙みたいに、ただ深々と。

きゅっと音が鳴るまで締めると

漸く涙は落ちなくなって。


花奏「…。」


大丈夫。

もう1度確と念じて

布団に潜りいつもの匂いに包まれた。





***





花奏「…。」


…。

…。

朝…。

…じゃ、ないか。

…昼、かな。

………どう、だろ。


時計を探し求めて手を伸ばすと

ぶつかったのは結局スマホ。

『11:35』。

そう、自信をありありと見せつけるように

主張してくる電子機器。


今回は時間を越さなかった。

それに1番安心出来た。

前のように過ぎてしまったら、

また守れなかったら、

またあの無惨な情景を

見なければならないのか。


いいや。

大丈夫。

今回で助ける。

助ける準場は整わせる。


思えば今回の場合

梨菜は私の家にくるんだろうか。

確か美月からTwitter伝に

梨菜まで届いたんじゃなかったっけ。

今回は美月との予定は

日程が合わないという理由で断ったし

熱が出たとTwitterで報告さえしていない。


花奏「…梨菜…来ん……やろう、な。」


寝起き声、掠れに掠れ

喉奥のがらがらした粒が吐き出される。

ふつ。

…スマホは息耐えたかのように

真っ暗に染まっていた。

あ、と思い再度起こしてやる。

そのままLINEを送っていたのを思い出し

急いでアプリを開いてみると、

歩の名前の横に赤いマークがついていた。

見てくれたんだ。

よかった。

返信時間を見てみれば

幸いにもついさっき。

10分程前の時間が表示されている。


花奏「…!」


歩『実家帰る』


絵文字も顔文字もびっくりマークさえ

使わないのは歩の特徴とも言えた。

部分部分でああ、歩だと実感しながら、

共に嫌悪に陥りながら

何とか返信を返す。

返事を送るだけで

息が切れるような麻痺。

恐怖、からだろうか。


花奏『今日実家に帰るのやめてくれへん?』


単刀直入に。

…それだけ。

迷っても迷っても、

気味悪く引き伸ばすよりは

要件をすぐに伝えた方がいいと判断してた。

歩なら、きっとそうだって予測して。

…否。

決めつけて、かな。


ととんととん。

送って直後にそんな機械音。


花奏「え…?」


歩『何で?』


そりゃそうよな。

自己完結している自分がいる。


爆速の疑問が投げかけられた。

そりゃそうだ。

私だって来週月曜日学校に行くななんて

言われたら何故と問わずにはいられない。

しかも理由を言えないなんて言われたら

尚更不信感を抱くもの。


理由、か。

率直に「歩が死ぬから」なんて言ったら

頭がおかしいと思われて終わりだろうし

何より気分が良くない。

不快感しかない。

自分が死ぬなんて理由、

嘘にしか聞こえないし

逆にはいそうですかなんて受け入れる人なんて

いないに等しいだろう。

どう切り返すか悩んでいると、

続けてととんと軽く響く。


歩『文字打つのだるいから電話かけていい?』


ばく、と1つ大きく心臓が動く。

どうしよう、どうすればいい。

それ以上にどうすべきか、と心が問う。

…助ける為。

あなたを、歩を救う為。

それなら答えは出てるんだ。

最初から選択肢なんてないんだ。


花奏『そうしよか』


歩『かけるよ』


既読とついてすぐ文字が投げられ、

今度はすぐに電話の通知が投げられた。

てん、てんてんてんてれれんてんー…


…ワンコール待ったあと、

決意を固め受話器を取るボタンに触れたのだ。

あのタイムマシンの白いボタンを

初めて押した時のような緊張感。

心臓の鼓動が聞こえるほどに

感情に押しつぶされそうになっていた。


歩『もしもし?』


花奏「お。聞こえてんで。」


歩『そう。よかった。』


歩はまだ家の中なのか、

騒々しい風の音や隊列を乱した車の音は

全く聞こえはしなかった。

次の言葉に詰まる。

焦りや不安と言った黒い感情だけが

雪のように積もってく。

口を開くも音を出せないでいると

機械を通して彼女の声が届いた。


歩『何かあった?』


花奏「…いや、なんもないで。」


歩『ふうん。』


花奏「…。」


歩『何で実家帰らないで欲しいの?』


花奏「えっと…それは…。」


歩『…。』


花奏「…ごめん、言えんくて。」


歩『あんたさ、昨日から歯切れ悪いし挙動不審だよね。』


花奏「そうかいや?」


歩『…はぁ。』


ため息1つ、耳元で伝う。

こそばゆさはなく、

不満がダイレクトに届くから

背筋がきゅうと縮まる思いがした。


歩『あんたが聞かれなきゃ答えないようなやつって事は分かってるんだけどさ、聞いても答えないならどうしようもないよ。』


花奏「…答えれへんこともあるんよ。」


歩『無理矢理はどこまでも通用しないから。』


花奏「歩にだって予定があるのは分かってる。それでも」


歩『それでも、言うことを聞けと?』


花奏「そんな上から言ってるんやないよ。」


歩『やんわり言ってくれてはいるけど同じ内容だからね?』


花奏「…っ。」


歩『ただただ今日の帰省を辞めろって話?』


花奏「そう。そういうことや。」


歩『へぇ。これから会えとかそういうのじゃなく?』


花奏「うん。」


歩『なにそれ、小津町らしくない。』


花奏「逆に帰省やめて会えって内容やったら私らしいんかいや。」


歩『多少は。でも他の予定を退けてまでそんなことするような人ではなさそうって思ってたけど?』


歩は多分怒ってるんだと思う。

淡々としたいつもの喋り口調に

呆れや何かそう言ったものが

乗っているような感じがした。


歩『あのさ、いくらなんでも無理なことはあるから。』


花奏「私やって引けんのや。」


歩『なら納得できる理由が欲しい。』


花奏「それは言えん…。」


適当に嘘でもついておけばいいものを、

言えないの一点張りで

通そうとする正直さには

自分でも反吐が出るほど呆れていた。

素直さなんて、短所にしかならない。

…なんて、今更か。


暫くはこの会話の攻防が続いたが

結局平行線のまま時間は経った。

歩も私も共に引けないまま。

歩にとって今回の帰省は

何かしら時間の制約があるらしく、

例の時間以外では出れないようで。

予想はつく。

だって、もうすぐ誕生日でしょ?

歩は家族を大切にしてるし

ご家族の方だって歩を大切にしているのが

ひと目見てとまでは言い難いが分かる。

多分だけれど、何処か店を予約してるとか

そういったことだろうと思う。

だから時間の融通はあまりきかないんだと。


歩『いい加減にしてくれない?』


平行線のまま話し合いをして

…否、話し合いにすらならず

お互い同じことを一方的に言っているだけの

拙い時間がずっと流れた。

どう頑張ってもお互い同じ事しか

出てこないの。

それに痺れを切らした歩は

声荒らげにそう啖呵を切った。


花奏「それは」


歩『なんか理由があるんだろうと思えば言えないの一点張りでしょ。』


花奏「だってそうとしかー」


歩『もう勝手にして。』


とつ。

まただ。

雨のような短い音。

そして途切れる息の音。

つー、つー。

時間にして大体5分から10分くらいの

短いものだったけれど

会話というにはあまりにも幼稚で。

…歩と話している中で初めて

楽しいとかそう言ったことを

何も感じなかった。


花奏「…。」


自分の熱で微量ながらに

温まったスマホを胸元に抱き寄せる。

あーあ。

…。


花奏「…喧嘩がしたかったわけやないのに。」


違うのに。

どうしてこうなるの。


…でもまだ。

まだ私にはやらなきゃいけないことがある。

苦い思いをしながらも

支度を整え出す。

かと言って例の時間は4時頃だったはずだから

まだ時間には余裕があるも

心は落ち着かないまま。


訳もなくお母さんの前に座って

じっとその顔を眺む。


花奏「…。」


また、大事な人をなくさないように。

なくさないことが可能なら

出来ることは何だってしたい。


また拳を握りしめていた。

爪が手のひらに食い込んで

深く深く跡を残したの。





***





花奏「…そろそろ行かな。」


電話後そのままじっとしていた時間が長く、

ただ机に向かっていた。

勉強をするわけでもなく、

何かメモを見るわけでもなく

時間を潰していた。

そこから何かを得る事はなく、

無意味に生きて。


花奏「…。」


定期券だけを持ち、電車に乗る。

前回ほど体調は酷くなかったからか

昼間は寝なくても何とか動ける程。

前回どれだけ酷かったんだと

自嘲するも何故だろう、

疲れてしまって笑いにすらならない。


2駅進み電車を降りて

廃墟のそばを通り交差点へと向かう。

きっと今の周期のままなら

美月と歩は出会って

話しながらくるんだろう。

ある程度予測は経つものの

ある未来を変えられる予測までは

脳内でちゃんと立てられない。

救える未来が見えない。

…後ろ向き、過ぎるか。


背を向き逃げようとばかりする自分を

押さえつけて現実を見せる。

このことを何度繰り返したことか。


花奏「…。」


例の交差点に着き、

近くのアパートの壁に背を寄せた。


何もない時間こそ考え事ばかり巡る。

嫌な妄想、嫌な現実ばかり

私の周りを取り巻き踊る。

足掻いても足掻いてもそこからは出れずに

しゃがみ込みながら奮い立たせるの。

大丈夫。

大丈夫だって。

…そんな惨めなことをずっと。


「…………………ょ………。」


「………………ぁー………………。」


…。

…いつの間にか目を閉じていたらしい。

ふと耳に届く話し声。

顔を上げると、見知らぬ女子学生が

体操服のまま帰路についていた。


花奏「……そんな時間…よな…。」


今、何時だろうか。

それを確認しようと

ポケットに手を伸ばすも

定期以外持ってきていないことに気がついた。

今回は前回と違って余裕があったんだから

持ってこればよかったのに。


花奏「………失敗したな…。」


「………ゃ……ぃ…?」


「…………?」


また遠くから声が聞こえる。

部活が終わって一斉に帰る時間なんかな。

そう思うと微笑ましい気がしてー


歩「なんでここに小津町がいるわけ。」


花奏「…っ!?」


美月「え、ちょっと…歩…?」


歩「なんで。」


突如として彼女の声が耳を劈くものだから

目を見開くも一瞬思考が停止した。

どうして。

…どうして。

問いが脳内を反芻するも

驚きのあまり口をぱくぱくと開くだけで

まともに音が出てくれなかった。


歩はというと不愉快オーラを全面に出していて

それに対し美月は状況が飲み込めずに

珍しくわたわたと取り乱していた。

…美月を見るに

歩は私との電話の内容を

話していなかったのだろうか…?

歩の背負う大きめのリュックは

風が流れてもびくともしなくて。


花奏「理由は言えへんって。」


歩「別に私と会うためとかじゃないんでしょ?何なの、付き纏う真似までして。」


花奏「少しでいいからここでー」


歩「さっさとどっかいって。」


美月「ちょっと歩、その態度は失礼じゃない!」


花奏「歩、待って!」


歩「…。」


歩は私の話を1ミリたりとも受け入れてくれず

マンションを抜けた先へと

進んでしまう彼女。

美月はというと歩に叱りながら

置いていかれないように隣へくっついて。

駄目。

行ったら駄目。

その一心で歩の腕を掴む。

離さないように、って。

長袖。

温く体温が伝う。


花奏「歩っ!」


歩「やめてっ!」


花奏「お願い待って!」


美月「少しくらい話を聞きましょ?理不尽だわ。」


歩「理不尽なのはどっち。」


きっ…と私を睨む視線は

完全に敵対心に燃えていて。

こうしたかったわけじゃないのに。

そう過っては不安が押し寄せる。

この後起こるであろう出来事が

口を開けて待っているのが見える。


車がいくつか通る中、

信号はふと緑へ変わった。

いつだ。

いつのタイミングだっけ。


花奏「少しでいい、聞い」


歩「煩い、離せって。」


焦りか否か。

無理矢理彼女を引き寄せた。

が、歩は足にこれでもかと力を入れて

私の掴む腕を掴み返す。

わたわたしている美月の姿は

もうほとんど視界には入ってこなかった。


花奏「ぐ…っ。」


みし。

爪が食い込む音がした。

本気で嫌がっているのは

何度か見たことあるが

ここまでじゃなかっただろう。

痛さが故反射的に離してしまった。

反射的に手が離れる。

離れー

まだ真っ青に顔を染めた信号が目に入った。


反動。

反動で。


美月「…っ!?歩危ないっ!」


歩「えっ…ー」


ぎいぃぃぃぃいっていう異質な音。

自分の息が脳いっぱいに広がって

音がほとんど聞こえなくなる。

視界がほんの少しずれる。

…。

…え……?


何かを叫んだと思う誰かの声と

ぎいぃぃぃぃいっていう…音の残骸。

それから、がしゃあという

何かに当たった音。

少し経って、鈍くぶつかる重い音。


音。

…あぁ、音。

聞こえてる。

…よね…?


美月「…ぁ…歩っ!」


花奏「………………ぇ…?」


美月「歩っ!しっかりして、歩うぅっ!」


身長の小さい美月は四肢を目一杯動かして

ぐしゃぐしゃに絡まった何かへ

一直線に走っていく。

今。

…今、何が起こった…?


…私、

私、何をしでかした……?

私、今、何をした…?


花奏「ぁ……ぇっ…あ、ゆ…。」


息を十分に吸っていないせいで

息継ぎを挟みながら声をかける。

けど、私はその場から動けなくて。

声なんて届いてるわけない。

声に、なってたのかな…?

歩…?

嘘、だよね?


暑い。

暑くて腕を捲ってみる。

これだって現実逃避だ。


花奏「…………。」


爪痕が、残ってる。

部分によっては血が滲んでいて、

側から見ると痛々しい。


「おいおい、事故かよ…?」


「え、やばいやばい!」


「見てあれ。」


偶々居合わせた人達が

狂ったように一斉にスマホを取り出す。

私の隣までに近づいた人の

ホーム画面が不意に目に入る。


『16:24』。


再び美月と歩に目を向けるも

なんだか上手く捉えられない。


美月「花奏!救急車っ!」


花奏「………みつ」


美月「いいから早く!」


花奏「…!」


美月「歩、しっかりしなさいよ!起きてて、歩っ!」


前見た時はこうだったっけ。

また違った気がする。

美月は怒りやら何やら混ざり濁った感情を

私に直接ぶつけていた。

物凄い剣幕で捲し立てた後

必死に、命を削るように

歩へ声をかけ続けて。


自分の手元を眺める。

かたかたと小刻みに震えていた。

前の歩みたいに、目に見えるほどに。


私が。

私が、歩を殺した…?

私がやってしまったのも同義なんじゃないか?

反動で。

反射で。

そんなの言い訳に過ぎない。

私がやったんだ。

私が…。


花奏「…………………あ……ゆ…?」


美月「歩!ねぇ、しっかりして!」


大声で叫ぶ美月の声は

とんでもなく震えていた。

とんでもなく。


足が動かない。

罪悪感が足の裏に根を張って

まともに動いてくれないの。

動きたくても、どうしても出来なくて。


美月「歩っ!歩ってば!」


近くで電話をする人の声がする。

もしもし、救急です、と。

それは私の耳を通り越して

きっと美月に届いたことだろう。

美月はしっかりと歩の手を握っていた。

左手。

あの時は私が掴んでいた手。


私のせい、だ。

私が何とかしなきゃ。

私が助けるんだ。

私がけじめをつけなきゃ。

私が。

私が。


私の得意ではない責任感という言葉は

覆うように肩に触れてくる。

逃げないようにと足を掴んでくる。

責任に雁字搦めになって、

脳はその場を逃げるようにと

警告が出される。

その甘い考えに乗っ取られるかの如く

私は美月と歩に背を向けた。

事故から目を背けた。


美月「どこ行くのよ。」


花奏「…。」


美月「何とかいいなさいよ。ねぇっ!」


花奏「…っ。」


言えること。

探しても探しても

うんともすんとも言えない。

そんな気力も資格も私には無い。

…あぁ。

でもたったひとつ言わなきゃ。

…言わなきゃいけないこと、あったや。


花奏「…ごめん。」


美月「花奏、待って!」


その言葉を最後に私は

いつもの廃墟にまで息を切らして走り続けた。

事故を目撃してた人なのか分からないけど

通りすがる人たちの視線が

いつも以上に痛い気がした。

責め立ててくるような錯覚を覚えた。

そんな錯覚に怯えた。


足の裏が痛い。

さっき足の裏に張っていた根を

無理やりに引きちぎって

ここまで来たからだろうな。


私のせいだ。


その言葉は深く深く

私の根幹を食らって言うのだ。

意志を持っているかのように、

私に向かってお前がやった、って。


ぼろぼろの建物の前に着く。

またか、と思うと同時に

もう繰り返したくな、い…って。

もう辞めたいなんて弱音が

口から零れかける。


花奏「…駄目…や……。」


駄目。

駄目なんだ。


花奏「歩を…助けるんや…絶対、絶対…っ。」


私が殺してしまってしまったも同然。

その罪悪感は意識をも呑み

弱音を飲み込ませてくる。

もう逃げるな。

逃げても欲しい未来はない。

お前がやったんだ。

お前が何とかしろ。

そう、言われているようで。


駆け足で階段をあがる。

足まで震えてしまっているせいで

まともに立つことすら難しい。

だけど1歩ずつ進んで、進んで。

上がって。

登って。

待ち構えている、奇妙な固形。

私を救い私を苦しめる未来へ繋ぐもの。


花奏「……。」


美月は追っては来なかった。

歩の傍にずっと居続けたんだろう。

ずっと。


…。

…。

…もう、いい。

考えるのは辞めだ。


花奏「…絶対助ける…。」


呪いのようにぶつぶつと繰り返し

機械へ1歩踏み入れる。

白いボタン。

電子文字で

『03202211111025』。

『小津町花奏』と記された紙。

何行かにわたる注意書き。


何度か見た。

何度か。

たった数回。

それだけのはずなのに、

十分すぎる回数だった。

人間が学んでしまうには十分すぎた。


白いボタンに手を這わせる。

冷たい。

じんわりと私の熱が無機物を伝う。

ボタンに力を込めて、

願いを決意を全て込めて。


ー押した。











11月11日



…。

学校だ。

紛れもなく、変わりなく。


教室内で、今は2時間目の終わり。

先生が頑張って

…否、慣れてしまって気だるげに

授業をしているのが見える。


少し前までうとうとしてたんだよね。

ノートにはびーっと引かれた

だらしない黒線。

消す気も起きず放置して、

板書する気も起きずペンを置く。

窓の外はまだ明るくて、

雲は敷かれていないの。

底のない空を見ても湧き出る感情は恨みだけ。


…。

助ける。


…とはいいつつも。

どこか心が折れそうで。

美月と歩を置いたまま、

しかも喧嘩したまま逃げ出したんだ。

どこまで私は卑怯者なんだろうと

嫌気しか差さない。


花奏「……。」


ため息すら付けず息を無意識に止めた時

2時間目の終わりを告げるチャイムが鳴った。





***





肩をとんとんと突かれる。

後ろから。

前回あれだけ気を遣わせて

結局なんにも解決できなかった事にも

引け目を感じ始めていた。


湊「ねぼすけさん、へーき?」


湊は相変わらず机にくっつくように

寝そべって話しかけていた。

繰り返されたこの会話。

繰り返してくれるいつも通り。

もう構わないで。

優しくしないで。

そんなふうに思ってしまう自分がいる。


花奏「ごめん、ちょっと体調悪いから次の授業休むわ。」


湊「ありゃ、大丈夫?」


花奏「うん。」


湊「次中丸先生の授業だね。」


花奏「…そっか。」


湊「ま、体調1番だよ。めんどっちい先生の授業サボれるラッキーくらいに思いなね。」


花奏「ありがとな。」


湊は何か言いたげなような気もしたが

席を立つ私にやんわり手を振ってくれた。

重力に逆らうのはきついと

言わんばかりの手の上がりよう。

ほとんど机から離れてなかった。


体調が悪いって言ったはいいものの

保健室に行く気にもならず

屋上へと繋がる階段で過ごした。

誰も来ない。

誰も注意を向けない。

そんな場所。


来た場所は屋上手前なだけあって

1番上の部分にはほんの少し

踊り場のようなスペースがあった。

そこに大の字に寝転がる。

砂が舞ってようが埃が待っていようが

関係なく床に背をつけた。

きっと汚くなってるだろう。

結った長い髪を胸の辺りにかき集めておく。


花奏「…伸びきったな。」


誰にも聞こえない呟きは

どこにも反射せず私の耳だけ受け取った。


突如、どこからか音がした。

既成音。

作られた音。

3時間目が始まった様子だった。


思えば騒がしかった学校は

しんと静まり返って

その代わり遠くから通る声が数個。

授業をしているんだろう。

湊からせっかく宿題を見せてもらったのに

結果無意味になってしまった。

湊の行為を前回も今日も

無駄にしてしまっていた。


ぱさぱさになった毛先を

指に搦めくるくると回す。

いつか誰かがやってたよね、この仕草。

歩だっけ、湊だっけ。


伊勢谷先輩に

「ポニーテールのままいて」

と言われて以降、

馬鹿みたいにずっと守り続けてきた。

それは単に彼女が亡くなって以後

唯一残る彼女の残火だったからと

いうのもあるだろう。

けど、1番はきっと慕っていた先輩に

ポニーテールが似合うと言われて

嬉しかっただけなんじゃないかな。

馬鹿みたい。

私は昔から馬鹿だった。

馬鹿真面目だった。

だから2年前は酷い環境下で

過ごす羽目になってしまった。

いつだって周りの環境は

自分のせいで良くも悪くもなったんだ。


…。


花奏「上手くいかへんもんやな…。」


今までの人生を振り返った結果だろうか。

幸せだと思っていたはずの日常の基盤は

簡単に緩いで揺らいでしまった。

とうにいつも通りは

崩れ去っていることに

気が付かない私がいた。





***





花奏「…。」


湊にも歩にも他のみんなにも

会う気が起きなくて

…いや、会う資格なんかなくて

ずっと屋上手前に篭っていた。

いつか人が来るんじゃないかって

初めは不安になっていたけれど、

6時間目が終わるまで

誰も来ることはなかった。

昼ごはんも食べないまま

ひたすら横になっていた。

担任の先生にはばれているんだろうか。

そしたら何か言われるのかな。

そんな思考回路は途切れていて、

諦めの念しか過ぎらない。

もう、授業はいいやって。


1人でいるはいいものの

罪の念ばかり嵩んでゆく。

思い返して、苦しんで。

過去に囚われて。

というよりもあって欲しくない

未来に首を絞められて。


…けれど。

前回を持ってして

逃げては行けないと強迫観念が襲う。

歩を見捨て亡くしたのなら

歩を救うまで逃げるな。

そう言われているような感覚。


花奏「…歩………。」


ぽろっと零れる彼女の名前。

名前を呼ぶことさえ億劫になる。


2回だ。

2回彼女の死を目の当たりにして

私は何を思えばいい?

何を感じればいい?

何をすればいい?


大丈夫なんて毒な言葉で

また感覚を麻痺させて。


腕時計を確認すると、

もうすぐで帰りのホームルームの時間だった。

これだけは出席しないと

不審がられるかな。

…けど、最悪ホームルームが終わってから

教室に行けば先生に会わず鞄は取りに行ける。


花奏「…。」


帰りのホームルームを未出席にした後

先生とあってしまうのは面倒だな。

先生がどこに居るとかまでは

流石に分からないし。

正直予測もあまりつかない。

と言うよりそこまで頭は回らない。

頭は、今は考えるということを

頑なにしてくれない。


諦めて教室まで歩く。

数人のすれ違う生徒達。

学年の違う、先輩達。

歩とだけはどうしても

邂逅したくなかった。


いつもの風景のはずだ。

他の人からしたら

ただの変わらない過ぎ去る日だ。

何の変哲もない、戻ってこない日だ。

ただの11月11日なんだ。

それがどうしようもなく

気持ち悪くて仕方がない。

気持ち悪いのは…きっと私の方。

繰り返している方がおかしいんだ。

なのに、何ともなく過ごしている

普通の人達の方が異常に見えた。

奥の方に自分の教室が見えてくる。

その中で見なれた影がひとつ。


教室前で湊は誰かを待っていたのか

ぼうっと突っ立ってるのが見えた。

私を見掛けるやいなや

ちょこちょこと小走りで

私の元まで寄ってくれて。


湊「お、花奏ちゃん。」


花奏「湊…。」


湊「ありゃりゃ、酷い顔してるじゃん。」


花奏「そんなことないやろ。」


湊「鏡みてから言ってみそ?」


そして何やらごそごそと

制服のポケットをいじった後、

手を開いてみ?と言われそのまま待っていた。

すると。


湊「はい。」


花奏「何、これ。」


湊「チョコと、あと湊さんお手製の手紙。」


花奏「…っ。」


ポケットから取り出された見慣れたお菓子。

いつも湊が持ち歩いていて、

ことある毎にくれる例のチョコだった。

手紙、だなんて言うけれど、

銀紙に包まれた小さなチョコに

付箋がぴっと貼ってあるだけ。


『無理せずいつでも頼ってちょ』


右端にはよく分からない

奇形の物体が描かれてある。

湊は確か画伯と言えるほどに

絵が下手なんだったっけ。

頑張って描いたのはわかるんだけど

どう頑張っても部屋の隅に取り巻く

綿埃のようにしか見えなかった。


たったひと言。

その優しさが嬉しかった。

今すぐにでも泣き出したかった。

その優しさに救われた。

湊に抱きついて弱音を吐露したかった。

私どうしたらいいか分からないって

本音をぶちまけて楽になりたかった。

その優しさが辛かった。

頼れない自分がいた。

それならいっそ罵倒してくれた方がマシだった。

いっそ殴って見捨ててくれた方が楽だった。


花奏「…ありがとな、湊。」


湊「いーんだよ、心の友よー。」


そう言うと私の首に腕を回し

するりと肩を組んで来た。

湊の身長じゃきついだろうに

背伸びをしてまで絡めてくる。


湊は2時間目が終わって以降

私が授業をサボったのは

ただの体調不良じゃないって

気づいてたんだろうな。

じゃなきゃこんなことしないよね。

やっぱり観察眼

…いや、千里眼を持ってるんだろうな。

…なんて。


それから帰りのホームルームは自然と始まり、

何か咎められることもなく自然と終わった。

起立、礼。

その先生の慣れきった挨拶だって

不自然さひとつもなく過ぎ去った。


湊「ちょいちょい、花奏ちゃん。」


湊は後ろから肩をつんつんと突き

私に声をかけていた。

いつもならすぐに教室から出るんにな。


湊「この後時間あるかい?よかったらお茶しないかい?」


花奏「あー…ごめん、すぐ帰らんと。」


湊「そっかー、残念丸。」


花奏「ごめんな。また今度埋め合わせするから。」


湊の優しさは十二分に知った。

私が少しでも辛そうな雰囲気を出すと

こうやって誘ってくれるもの。

口説き文句が毎回微妙に違っているのは

2時間目以後の私の行動のせいだろうか。

似てるけど違う。

そんな微々たる違和感が床で寝そべっている。

さっきまでの私みたいに、だらしなく。


今はただ歩に会いたくない一心で

教室を後にした。

このまま湊といてしまったら

歩に遭遇してしまったのを覚えてる。

まだ記憶に新しい。


少し前までは歩に会いたくて

仕方ないくらいだったはずなのに

こうも簡単に変わってしまうのか。


半ば早歩きで靴箱へ向かうと

やはり分厚い雲が空を覆っていた。

今から降りますよ、と

ご丁寧に忠告してくれているみたいに。

もうどうでも良くなった。

どうでもよく感じてしまった。

結局雨に少しでも当たれば

熱が出てしまうのは確定なんだ。

なら避けようとしたって

変わらないじゃんか。


花奏「…帰ろ。」


靴を履き替えてたったひと言。

傘を持たずして1歩、また1歩と

外の世界へ踏み出す。

限りなく鈍色へ向かう空。

ほんの早歩きも無意味になる。


とつ。

とと、つ。


鞄の表面を湿らした何か。

鬱陶しさを超し恨みにまで

なってしまった夕立への感情。

怒り、だろう。

それとも悲しみか。

それら全てを放って

寧ろ諦めてしまっているのか。


走らなきゃ。

…とは思いつつも

体がついてきてくれなくて。

校門を出て幾分かは走ったけれど、

不意に足が止まってしまった。


花奏「…。」


雨に打たれたまま、動けなくなった。

生徒たちは数人いたが、

折り畳み傘を差して道をゆく人が数多。

鞄なりブレザーなりを頭まで被って

雨を避けている人はぱっと見はいなかった。


人がいないところを歩きたい。

今はそんな気分で。


花奏「…こっち…やったっけ。」


記憶に身を任せ投げやりに歩き出す。

なんなら鞄も捨てて身ひとつで

軽くして歩きたかった。

けれどそんなことできるわけにもいかず。


確かだが住宅街に混じるように

道を辿っていけば

宝探しの時にお世話になった

コンビニがあるはず。

その道は生徒はほぼ通らず、

住民も疎だった気がする。

ましてや今日はこんな雨だ。

近くの駐車場に紛れていれば

誰にだって見つからないんじゃないか。


そう思っては駆けるように雨を踏む。

どうしてだろう。

雨に打たれるのは当たり前で、

今の私には雨に打たれている姿こそ

似合っているとさえ感じていた。

雨にずぶ濡れて1人でいる。

それが今のお前に似合ってるよと

雨は揶揄っている様に

私をひたすら殴り続けてくる。


繊細な雨の音とは程遠く

音の暴力とも言える中進むと

だんだんとお目当ての場所が見えてきた。


花奏「…。」


変わらない。

当たり前かもしれないけれど、

その当たり前が今となっては

奇妙にさえ思えてきた。

思った通り人はおらず、

コンビニ内ではレジ前で

スマホを弄る若い店員の姿。

店内にさえ人はほぼいないようだった。

駐車場には数台車が停まっているも

中に人影はなくて。

随分と朽ちかけた自動販売機の影に潜み、

コンビニや細い道路から

姿が見えないよう隠した。


少し寒い。

空は何故か薄暗いまま。

…あぁ、雨が降ってるからか。

微かに開いていた口の中に

雨粒が入って納得した。

渇きは満たされず

雨粒は単純に不味かった。


しゃがむ気にはなれなくて

立ったまま俯き目を閉じた。

今はこのままのほうが楽だった。

鞄は傍へ雑に寝転がし、

雨と十二分に戯れさせている。

ただ雨にあてられるしかなかった。


花奏「…。」


スマホにはもう美月から

連絡が来ていることだろう。

けど返信する気なんて微塵も起きない。

する気になれるわけない。

あんな怒りに満ちて、

怒りに身を任せたような

彼女を見てしまったら。


制服は勿論びしょ濡れで、

靴の中ではぐしゃぐしゃと

靴下が息巻いている。

無駄に長くに伸びた髪が

しっとりと頬に張り付いた。

ほんの少し風もあるみたい。

時間も分からない。

時計をを見る気にもなれない。

もう動きたくない。


一旦、目を閉じた。

深く深く眠るように。

長い間走ったり今立ったりしているせいか

足裏が妙にずきずきした。

それでもそのまま目を閉じて、

目の前の景色に一先ずさよならを告げる。

ざあざあと今更になって聞こえて来た

雨音に背中を預けて

眠るように時を過ごした。





***





…。

…。





***




…。

…。


…今、何時なのだろう。

目を閉じたままの視界で思う。

暗くなったら夜だ。

…その程度しかわからない。

日が出ていればまだ多少は

分かったかもしれないけれど

生憎の天気だ。

耳には憎い雨音だけが心地よく浸透した。


…その音響がふと変わる。

直に聞いていた音が

何か物体を通した音になる。

…私の頭に降る感覚が

それとともに消えてしまい

居なくなってしまった。

そこで漸く目をゆっくりと

眠っていたように開いた。

雨が降っているし昼も終盤だった為

暗がりが近いことだろうと思っていたが、

ついさっきまで目を閉じていたからか

外が眩しく見えた。

…私の前に、人。

その人は私に傘をさしているようだった。

…その人……。


愛咲「風邪、引いちまうぞ?」


花奏「…!」


愛咲…だった。

コンビニは近くにあるけれど

そんな簡単には見つけられないはず。

なのになんで。

どうしてこんなところでさえ

私を知っている人に出会ってしまうの。


花奏「…なんでなん…?」


愛咲「偶々この道通ったら見つけちまってさ。えへへ。」


花奏「…傘…いらん。…いらへん。」


彼女の手に直接触れるのは

なんだか気が引けたので

傘の柄を押して傘を戻す。

私に傘をさしていたせいで

愛咲は頭に水滴を被っていた。

私の触れた場所から

傘の柄を伝ってつうっと

愛咲の手に滴る。


愛咲「でも」


花奏「ほんまにいい。」


愛咲「じゃあ一緒に入ろーぜ?そんなら万事解決じゃあねーか?」


花奏「…いいから。」


…私がどれだけいらないと言って断っても

愛咲は聞き入れず私の隣にそっと佇み

傘の下を半分分けてくれた。

…久しぶりに雨から離れて

少し切ないような気もした。

私を責め立ててくる雨は

なぜか心地いいような気がしてしまっていた。


愛咲「ちょっとしか一緒にいれねーけど、話なら聞くこたぁできるぜぃ?」


花奏「…。」


俯くと、足元にはいつの間にか

水溜りが巣を作っている。

駐車場の砂も混じってしまったせいか

透明と言うには程遠い。

反射して私が映ることはなく

雨が着地したところに

波紋を広げるだけだった。


愛咲「鞄も制服もびしょ濡れじゃねーかよう。」


花奏「…。」


愛咲「…ってそんなテンションでもねーよな。」


私はうんともすんとも答えず

ただ下を見ていたら

愛咲はそう返していた。

やっと自分が雨に

打たれていたんだと自覚したのか

体がひんやりとし始めている。


花奏「……いつもこの道を通ってるん…?」


愛咲「いーや、気が向いたら通るだけ。」


花奏「…。」


愛咲「何かあったんだよな。」


花奏「…。」


優しい声色だった。

この声は受け入れていいんだって

体が勝手に判断している。

問い質すような聞き方じゃなくて

寄り添うような聞き方だったから

つい安心が一瞬滲んだ。


愛咲「うちの下の子達がさー、よく喧嘩するんだよう。最近は前に比べりゃあ少なくなったけど。」


ふと急にそんな話が聞こえた。

…そういえば愛咲は

妹や弟がいるんだっけ。

そうだった。

思ったよりちゃんと

お姉ちゃんしてる人なんだった。


愛咲「んで、どっちが何をしたかって聞くと大体相手が悪りーの一点張り。そういう時、うちはあえて何にもしない事が多いんだ。」


花奏「何にも…。」


愛咲「そう。…うーん、ってか、正確にいえば待ってるっていう方が正しいかもな。無理に聞き出すのってなんか、こうー…違げえじゃん?」


彼女は自分の頬を軽く掻きながら

困ったように笑ってそう言ってた。

私は…

私はどんな顔をしてたんだろう。


愛咲「何が言いてーかっていうとだな、言いたくなかったら言わなくてもいいよってこと。」


花奏「…。」


…唐突に兄妹の話をし始めて

何の関係があったのだろうかと

疑問に思っていたけれど、

どうやらそういう事らしかった。


愛咲「話をする事で悪化することもある、なんてどっかで言われたしなー。」


花奏「…そう、なんや。」


愛咲「おうおう!んだよぅ、うちの真面目モードは意外みたいな顔しよってからにぃー!」


花奏「だって意外やから…。」


愛咲「言うじゃねーか!このこのぅ!」


愛咲は何故か嬉しそうに

肘で突く素振りをした。

愛咲には類い稀なる謎の

真面目モードがあることは

前から一応は知っている。

けど、そんなに露呈することもなかった。

私が覚えているのは、

4月に初めて出会った時と

9月にかえというアカウントから

攻撃的な言葉が飛ばされ、

私が自分の過去について全てを話した時。

偶に現れる頼り甲斐のある部分。

それが今は顕著に表に出ていた。

そして初めて見る

姉としての姿がそこにあったような気がした。


愛咲「加えてさーうちがここらの道を通る理由、気分ってのは勿論あるけどもーひとつあるんだぜい。」


花奏「…理由……。」


愛咲「そー。愛咲さんにだって考えくらいありますー。ぶーぶー。」


本当に考えなどあるんだろうか、

と疑問を抱くも玉砕。

何処か、真っ直ぐ遠くを見て

肩を疎ませて言っていた。


愛咲「なんかな、人を疎外してるって言うか、人から離れている状態が心地いい時もあるんだよ。」


花奏「愛咲…。」


愛咲「おうよ。意外っしょ?ありゃ、そーでもねー感じ?」


花奏「愛咲が人から離れたい時とかあるんやな。」


愛咲「え、そんな超人だと思ってたのかよー!ちげーちげー。ど人間。んなずっと人といるなんて疲れちまうって。」


腰を屈めとんとんと拳を軽く打つ。

おばあちゃんのような

ポーズをとっている彼女は

どう見たって人懐っこい。

でもそんなふうに見える人でも

人付き合いが嫌になる時があるんだろう。


愛咲「だかーら、たまーにオンラインよりオフラインって時があるわけよ。」


花奏「スマホの話?」


愛咲「そーそー。たまーにだから。ここ大事だぜぃ?こー見えて愛咲さん、中々に人気だからよぅ。」


花奏「自分でいうかいや。」


愛咲「だっはは。自負してるって事で!」


連絡が来たらちゃんと早めに

返している、と言いたげだった。

傘の内側でととん、という

特異な音ともに雨特有の鼻を突く匂い。

だんだんと辺りに混じって空気と混ざって

何がなんだか分からなくなるくらい

原型を止めなくなっていく。

溷濁する。

その結果が私の足元にできた

水溜りのような気がした。


それからほんの少しの間

お互いに空白の時間を過ごした。

ひと言も発さず、

全てを雨に任せた時間。

…それに飽きてしまったのか

愛咲は口を開いてた。


愛咲「そーだ!」


花奏「…?」


愛咲「この傘あげるわ。愛咲さんからのクリスマスプレゼントー!」


花奏「え…?」


愛咲「だーかーら、プレゼントだぜい?ふぉっふぉー、メリークリスマース!」


花奏「でも、そしたら愛咲…」


愛咲「いーのいーの、すぐそこのコンビニに傘くらい売ってっしょ!」


花奏「それなら私が傘を買って帰る。」


愛咲「遠慮なんてするだけ無駄無駄。うちの家、晩御飯に唐揚げなんて出たら戦争してまで勝ち取るんだぜ?」


花奏「それとこれとはまた話がちゃうような。」


愛咲「んま、ビニールよりこれの方が頑丈じゃんか。今日少し風あるし念の為、な?」


花奏「…だからって…」


愛咲「礼を受け取るのも礼儀だぜい?」


花奏「…!」


…その言葉にはっとする。

確かにそうかもしれないと

妙に納得してしまう自分がいた。

それを察したのか愛咲はにこっと笑って

私に傘を押し付けて

コンビニの方へと走って行った。

私の手元にはそこそこ大きめな

パステルで水色の傘だけが残った。


花奏「…なんで。」


…私にこんな事をするんだろう?

なんで…?

春の頃から少しずつ仲良くなって

歩の教室に遊びに行ったら

時々愛咲とも遭遇して話して。

…たったそれだけで?

それだけの関係で?


その答えはどれだけ考えても

どれだけ待ってみても

分かることはなかった。

指すら擦りもせずただ浮遊している。

そんな状態が続くうちに

愛咲はビニール傘をさして

私のところに来てくれた。


愛咲「よーし、それでうちもおっけーっと!」


花奏「何で…。」


愛咲「ん?どーかしたか?」


花奏「何でここまでしてくれるん?」


愛咲「へ?」


素っ頓狂な声をひとつあげた後、

ぷ、だっははー!

といつもより快晴に笑うように

波を広げていった。


愛咲「あったりめーだろ!友達が困ってたら助けるっちゅーもんじゃね?」


花奏「それだけで…?」


愛咲「だけも何も…大事なことだと思うぜい?」


愛咲は珍しく正当なことを言っていて

普段との温度差があまりにもあることからか

随分とかっこよく見えた気がした。

真っ直ぐに助けるのは当たり前だと。

そう言える愛咲がかっこよく見えた。

助ける。

…そうよな。

助けるのは当たり前、か。

……。


愛咲「ま、自分を犠牲にし過ぎてまではやめといたほうがいいか。」


花奏「…。」


愛咲「あくまで持論だけどな!個人的意見ってやつよ。」


肩をぽんぽんと叩いてくる。

制服はびしょ濡れで

冷たくなっているはずなのに

愛咲は私の肩から手を退けても

水を振り落とすような仕草は

これひとつとしてしなかった。


花奏「…傘…ありがとうな。」


愛咲「いいってばようー。あんさ、めちゃくそ申し訳ねーんだけど、うち、そろそろ時間が厳しいから帰るな。」


花奏「うん。…分かった。」


愛咲「愛咲さんのLINEはいつでもがら空きだぜい?」


花奏「ん?それはええことなんか…?」


愛咲「おう、へーきへーき。うちが即既読つけるからな!こちとら現役陸上部だぞー!」


陸上部だから既読も早い

…と言いたいんだろうか。

何ら繋がってない気がしたが、

愛咲の事だからきっと

通知が来たら走って

スマホのある場所まで行って

来たメッセージを読むぜって事なんだと思う。


傘を差しながら屈伸し始めるあたり

どうやら走る気満々の様子。

雨の中なのに走って最寄り駅まで

行こうとしているらしい。

転んでしまう未来が

ぼんやりと輪郭をなぞった。

時間がないってことは彼女は高校3年生だし

やっぱり塾とかあるのだろうか。

あれ、愛咲は既に

受験を終えているんだっけ。

そんなことを思っていると、

じゃーな、風邪に気をつけるんだぞー?

と声がしてはっと顔を上げる。

…頭に水滴が落ちることはなかった。


花奏「…傘、ありがとう。」


ちりんちりんと自転車のベルの音が

どこからが聞こえた。

こんな大雨に自転車に乗っているのか。

私の声はその音と雨の音に

掻き消されたと思ったが

走っていく後ろ姿は片方の手をあげていた。

…届いた、のかな。


とつん、とん。

傘、が手元にあった。

今傘の中にいるはずなのに

私はびしょ濡れだから周りから見たら

不思議に思われる事だろう。

けどそんなのは関係なく

ただの疑問と焦燥感と安心感が織り交ざり

雲より深い灰へと濁っていった。


しち、しちと靴の裏の水溜まりが

浅い呼吸をする中、

初めて雨に当たらない今日を迎えた。










11月12日




花奏「…そりゃそうよな。」


ぴぴっ。

もう体温計なんて使わなくても

体のだるさや頭痛の程度で

熱があるのは分かっていた。

相変わらず38℃越え。

そりゃああれだけの雨に打たれれば

誰だってそうなるだろう。


頭痛。

吐き気、体調不良。

それらは今日を

捨てていい理由にはならない。

体調が悪いからなんだ。

動けるだろう?

そう言われているようで。


花奏「美月からの連絡…見てないな。」


毎回通りなら昨日の時点で

連絡が来ているはずだが、

そもそも気力がなくて見ていない。

きっとお怒りのメッセージくらい

きているだろう。


もう歩とは喧嘩したくない。

もう2度とあんな終わり方したくない。

もう2度と…。

…そう考えているあたり

また失敗してもやり直せる、

大丈夫だと言っているみたいで

何だか嫌気がさした。

尊い命だと忘れかけているような。

生き返るのが当たり前かのような。

そんな大きな違和感が私の肩を

ぐっと掴んで爪が食い入るほどに

力を加えてくる。


花奏「…。」


もう4回目だか5回目だかまで

繰り返している。

正直なところ、気が滅入っていた。

まだまだ試行錯誤の余地はあるが、

事実はともかく心がついていかなかった。

重い使命感にのしかかられてるくせして

体が動こうと思っても動いてくれない。

動かせない。

動かしたくない。

どちらかなんて分からないけれど、

頭はがんがんと唸るような声を上げた。


花奏「………ど…うしよ…。」


どうしよう。

…どうしたらいいんだろう。

喧嘩をせずに帰省を無くす。

…それが出来ればベストなんだろうけど

今の心持ちじゃ出来ない気がしてならない。

前回の体調の良さを持ってしても

あの結果だったのだから。


あれこれ考えるうちに時間は経ち、

いつの間にか朝日が登りきっていた。

そう言えば昨日、ご飯は食べたんだっけ。

…いや、水だけだったかな。

朝も続けて食べる気になんてなれず

また布団に潜ってまた考えて。


花奏「…愛咲。」


ふと、昨日の出来事が浮かぶ。

優しく寄り添うように掛けてくれた

話したくなったら話してという言葉。


視野が狭いだけじゃないか。

もっと他に、歩を助ける方法は

あるんじゃないだろうか。

けど、今の状態じゃ恐ろしく

頭は回らなかった。


花奏「……。」


LINE。

…そうだ。

愛咲に聞いてみよう。

彼女だったらどうするのか。

きっと必要とあらば彼女は

しっかりと真面目に答えてくれる。

そう、信じて。


花奏『相談したいことがある』


すこん、と清々しい送信音。

歩に送った文章を思い出す。

現状を見すえて送ったはずが

現状を打ち壊すのみとなってしまった。

もしも。

もしも、あの電話の時に

本当のことを言っていたのなら

どうなっていたのだろう。

歩本人に、歩が死ぬと伝えたら。

…そしたら、もっと逆上してただろうか。

それとも納得したのだろうか。

想像したところで手元には

冬になりかけた寒さで冷えるスマホだけ。

シュミレーションしたって現実は

変わらないままだった。


時間が戻ってやり直せるなら。

そんなことが出来るなら

どれほどいいことか。

羨ましさに駆られながらも後悔しないために

今が1番大切で楽しいんだと

言い聞かせながら生きてきた。

が、実際はどうだ。

やり直して、したい未来に出来ただろうか。


すぼ。


LINEの画面を開きっぱなしにしてたらしく、

即既読を付けてしまう。

愛咲の既読速度より早かっただろうな。


愛咲『どんとこーい!どーした?』


文面から彼女の声が想像できてしまうあたり

愛咲の快活さが窺えた。


花奏『もしも友達が交通事故で亡くなるって知ってたら愛咲は助ける?』


愛咲『ほ?』


相談内容の意図が読み解けなかったのか

それだけ送られてきて数分経った。

相談があると言われて

聞いてみればこれだ。

私にこの事が起こっているって

誰でも察せてしまうに違いない。

愛咲も混乱してることだろうに。

と思った刹那また、すぼ、と音が鳴る。


愛咲『そりゃもち!』


考えた結果分からず、

とりあえず困ってたら助けるといった

解釈で返答しているように感じた。

愛咲らしいといえば愛咲らしい。


花奏『助ける時さ、どうやって助ける?』


愛咲『方法?』


花奏『うん』


愛咲『車を破壊する』


花奏『訴えられるやん』


やはり、と言ってはなんだが

私とは発想の方向が大きくかけはなれていた。

確かにそれが1番の解決策だろう。


けど、もしそれで歩に降りかかる災難を

避けることが出来たとして

車を壊したという事実が残るのは

慰謝料云々を考えると

父さんに大きな迷惑がかかるから困る。

人に迷惑をかけずに

ただ何事もなく免れることは

出来ないのだろうか。


愛咲『警察沙汰駄目かよー』


花奏『穏便にって出来る?』


愛咲『うーんむずくね?新手のパズルゲーム以上に頭使うううう』


花奏『私も考えとるんやけど浮かばんくて』


愛咲『分かった、交通事故に遭わなきゃいいんしょ?』


花奏『そう』


愛咲『んじゃその事故現場に居なきゃいーんじゃね?』


花奏『そうなんやけど、それが難しくって』


愛咲『えー無理やりとかのパワープレイゴリ押し太郎じゃいけねーのかよー』


花奏『厳しいと思う』


愛咲『えーーーー純粋に室内にいりゃいい気するけどなー』


花奏「…ん?」


室内。

その単語がやけに引っかかった。

室内にいればまずは

交通事故に遭う確率は悉く減る。


…そもそも家じゃなくていいんじゃないか。


ばち、と何かが繋がったような感覚が

背筋を駆けていった。

そうだ。

室内ならいいんだ。

慌てて文字を打ったせいで

何度か誤字を繰り返した後、

漸く送りたい文書が並んだ。


花奏『ありがとう、解決するかもしれへん』


愛咲『うおおまじか!なんか役に立ってっかわかんねーけどよかったぜー!!!』


花奏「…愛咲には感謝せな。」


言葉と共に画面を閉じる。

真っ暗闇には自分のぼさぼさした髪の毛と

やつれているようにも見える顔が映っていた。

スマホが手から零れ、1度天を仰ぐ。

木材の天井だ。

木目まではっきりと見える。

古い家だ。


…。

よし。


心を決めて再度

スマホの画面を無理に光らせて、

LINEから歩とのトークを開いた。


まだ、生きている。

彼女は生きている。

送っても返事が来るんだ。

あの時のように、

いつかのあの時のように

返ってこないなんてことは起こらない。

そうだ。


花奏「…大丈夫。」


花奏『歩今日暇?』


そう言えば前はこの後すぐには

返事は返ってこなくて、

1度仮眠をとったら丁度良かったんだっけ。

水も飲む気になれず、また布団に包まる。

11月となれば手足の先が冷えて仕方がない。

寒いからかな。

体がかたかたと震えていた。





***





ぴーんぽーん。

遠くから私を呼ぶのはそんな音。

意識は朦朧とした中で、

次第に視界は明快になってゆく。


花奏「…え……?」


布団を跳ね除けると、

ぐっしょりと背中が濡れていたのに気づいた。

いや。

それ以上に。

どうして…?

動揺は隠せず、玄関まで行けない。

今回は美月に何も連絡してないはずじゃ。


「…………花奏ちゃん居ますかー?」


花奏「…!……今行く。」


相手に届いたか否かは定かではないが

強かに返事をする。

ふらふらとよたつく足元には

頼りない床の軋む声。

どうして。

こんなルートもあるの?

何が作用した?

くらいまで考えたところで

思考はショートしてしまい、

後の道のりは何も考えられずに

玄関まで歩いていた。

緊張が走る。


花奏「……はーい。」


喉に痰が絡み掠れた声しか出ないのは

前々からわかっている。

咳払いを数回して扉を開けた。


梨菜「わ、大丈夫!?」


花奏「…梨菜……なんで…。」


そこにはいるはずのない彼女と

高くに登ったままの陽があった。

何事だ。

居るはずはないんだ。

だって前にはいなかったじゃんか。

どうして。

どうして?

そんな思いが強まるばかり。


梨菜「えっと…美月ちゃんが物凄く心配してたの。それで私、偶この辺にいたから美月ちゃんの代わりに様子を見にきたんだ。」


花奏「…美月は用事?」


梨菜「え?あ、うん。そうみたい。」


花奏「…そっ…か。」


確か梨菜が来るのは

午後の2時くらいじゃなかっただろうか。

正確な時間までは覚えてない。

唯一記憶に確と刻まれているのは

『16:24』という数字のみ。


思ったより寝すぎてしまったらしい。

歩、まだ家を出ていないといいけれど。


梨菜「花奏ちゃん、そんな顔してたっけ。」


花奏「…?」


梨菜「…あ、え、聞こえてた…?」


花奏「思いっきり。」


梨菜「ごめん!こっちの話で…。てか花奏ちゃん顔色悪いよ?」


花奏「ちょっと体調悪いんよ。」


梨菜「そ、そうなの!?玄関まで来させちゃってごめんっ!すぐ出るね。お大事にね!」


梨菜は駆け足にそういうと

ばたばたと音を立てて

家から去っていった。

私が体調が悪いっていう前情報がなかったから

お見舞いという名目ではなかったらしい。

美月の心配性の結果が

今の出来事に繋がったのか。

どっちにしろ梨菜が何故か

この辺にいるのは変わらずじまい。


…さっきの梨菜の言う

そんな顔してたっけ…というのは

多分体調が悪いせいで暗く見えたのだろう。

実際顔色が悪いなんて言われたし。

その違和感だったんだろうな。

そう思うことにして再度布団へ向かった。


布団に潜らずにとりあえず座り、

スマホの画面をつける。

時刻は2時半。

LINEには歩から2時間程前に

メッセージが届いていて。


歩『実家帰る』


変わらず、この文章。

そりゃそうか。

変わった方が変なんだ。

何かが作用してしまった結果だ。


花奏『実家帰る前に少しだけ図書館で勉強せーへん?』


すこん、と快晴のような音。

そう、室内ならいい。

それなら歩を遊びではないけれど

誘ってしまえばいい。

それが考えついたひとつの案だった。

出来れば16時半あたりまで

図書館にいれたらいいんだけど。

少し無理を言ってでも

この時間を乗り越えることができれば。

そんな淡い期待を胸にじっと

待ち続けていると、

5分ほど経った頃に通知の音。


歩『いいよ。けど夜までは無理。』


急に誘われているにも関わらず

普通に了承するあたり

歩のフットワークの軽さが窺える。

彼女は割と臨機応援な行動をとるのが

上手だなって思う。

バイト先が居酒屋と本屋だからか

自分の家がお店だからか

将又別の理由かは分からないけれど、

どこかで培った能力なのだろう。


花奏『ありがと!何時までいけるん?』


歩『4時位』


花奏『4時半まで一緒におれへん?』


前は、ここが通らなかった。

無理に事実を言った結果、

その素直さは仇となった。

きっと今回も駄目だろうな。

そう、諦めていた。


歩『別にいいよ』


花奏「…えっ……?」


思わぬ返事に素っ頓狂な声が漏れ出る。

本当に?

本人へそう問い返したかったが、

そのひと言が出ずに画面に触れる

指にもストップがかかる。


そしたら、前回は何故。

思い返していると、

歩は前怒り立っていたから

対応に応じなかった…という線が

1番有効に思えた。

そりゃあ訳も分からない条件を

鵜呑みにするほど歩も馬鹿じゃない。

そう思うと納得してしまう自分がいる。


歩『何時から行ける?』


花奏『いつもんところには3時20分にはつける。』


歩『おっけ。じゃその時間に集合で。』


花奏『急いで準備する。』


そこまで送ると、すぼ、と

なんとも質素なスタンプが送られてきた。

たった1時間程度しか居られないのに

嫌な素振りもなく了承してくれたのだ。

多分、歩は素でこれなんだと思う。

1時間だろうと全然構わないらしい。

今回は通り道であることは

1つ理由だと思う。

歩の実家は図書館のある駅を

通過する形になる。

だから気軽に行けるというのもあるんだろう。

けどきっとそれだけじゃない。

歩自身やっぱりフットワークが

異常なほどに軽いのだ。


春の頃はどうだっけ。

ここまで快くすんなりと

「いいよ」なんて言ってくれたっけ。


そう思う間もない事を思い出し、

すぐさま準備を整え出した。

体調は朝よりもほどほどに良くなっていて

頭痛も多少は引いた気がした。

歩のおかげかなとすら感じる。

今は不思議と歩に会いたいなんて

思ってしまっていた。

きっと寝ぼけてるだけだ。

きっとそうだ。





***





花奏「ごめん、お待たせ。」


歩「ん、全然。」


歩は外が寒くなってきたにも関わらず

図書館前でスマホを弄って待っていた。

外套は昼間ならまだいらないが

朝晩の冷え込みは想像以上になっている。

彼女の服装も今日は厚めのパーカー。

相変わらず無彩色を好む傾向にあるみたい。


いつもと変わらない歩がいた。

歩が、いた。

その事実が今になって降りかかってくる。

さっきまで会いたいと思っていたはずが

今では多少心苦しい。

手をきゅっと袖の中に隠した。


歩「じゃ、行こ。」


花奏「せやな。」


歩「化学しか持ってきてないから。」


花奏「やる気満々やん。」


歩「教えてくれるって言質取ったしね。」


花奏「あー…そやったな。」


その言質を取られた日というのも

私に取ってはもうだいぶ前の話に思えた。

いつだっけ。

あれは10日の事だっけ。

何回か昨日と今日を繰り返していたせいで

時間の間隔は曖昧。

更に高熱のせいで寝てばっかりのことも多く

尚更時間感は狂っているように思えた。


歩「てか、顔色悪くない?」


花奏「…。…そうかいや?」


歩「うん。なんか白い気がする。」


花奏「ええやん美白で。」


歩「は?はいはい真っ白美人ですねー。」


花奏「なぁーんでキレとるんよー。」


歩「キレてない。」


花奏「…あはは、もー困ったなぁー。」


つい、楽しげながら本音が漏れた。

上手い返しが見つからない。

なんだか、疲れている気がした。


…そうだ。

思えばご飯、ずっと食べてなかった。

そりゃあ力が入らないのも当たり前か。

昨日の昼すら食べてないんだから

丸々24時間は確実に物を食べてない。


そんな事を考えてるうちに

歩はするりと図書館に入っていく。

ガラス戸のせいで、

彼女がアルコールで手を

湿らせているのが見えた。

私も続こうと扉の前まで来たのに

急に足がぴた、と止まってしまい、

手を伸ばしかけるも

その手は本当に伸ばしていいのかと

自問が始まってしまう。


ふっ、と黒い影が過ぎった気がした。

気づくと真っ黒な服を着た男性が

私を抜かして消毒もせず

図書館に吸い込まれるように入っていった。

ウィーン、と閉じかかったガラス戸は

私を察知しまた開く。

ふと、綺麗に反射。

潤っている目がこちらを捉えた。


歩「どうしたの?」


花奏「…ううん。靴の中に小石入ってて気持ち悪いなーって思ってん。」


歩「いいじゃん。相棒にでもしたら?」


花奏「意地悪な事言わんでやー。」


歩「ふっ。」


鼻で笑いくしゃっと目元を細めた後、

歩はすぐに背中を向けた。

小さな背中だった。


歩「行こ。小津町。」


パーカーに埋もれた手は

小さく子招きしていた。





***





歩「んでここは?」


花奏「モル濃度使うんよ。」


歩「あそっか。」


かしかし。ひそひそ。

図書館の1番奥の席で鳴る

シャーペンの芯が身を削る音。

小声ながらに伝える音波。

休日の弛んだ図書館。


近くには児童向けの本が並んでおり、

休日ということもあってか

いつも以上に繁盛している。

子供同士で時に集り

ミッケやなぞなぞを

楽しんでいる様子が窺えた。

他にも絵本をじっと読む小さい子や

母親と同じ本を眺める子供。

そこから視線を外せば

ずらりと小説を始め多くの本が立ち並ぶ。

思うままに本を手に取り

立ちながら眺む人、1度座る人。


不意に美月の顔が浮かぶ。

そういえば今回の周期では

1回も連絡を返してないことに気がついた。

本がある、本好きは美月

…と言った具合に連想していたら

そんな結末に繋がっていた。

けれど、今更焦ってもしょうがないと

自分に言い聞かせる。

美月だったら座って本を吟味するだろうな

…なんて考えて。


歩「聞いてる?」


花奏「ん?あぁごめん、聞いてへんかった。」


歩「だろうね。そんな感じした。」


花奏「んで、なんて?」


歩「今何時?」


花奏「今は…。」


腕時計を確認すると

『16:13』と主張された。

もうこんな時間か、とどくり。

心臓がひとつ大きく波打った。


花奏「…。」


歩「…?何時?」


花奏「あ、ごめん。4時15分くらい。」


歩「そ。ならまだ行ける。」


花奏「次難題やし時間かかるから今度でもええんちゃう?」


歩「嫌。」


花奏「意地っ張り。」


歩「あんたが言うか。」


花奏「そりゃこっちのセリフやで…。」


想定の時間まではあと少し。

今回は室内だから大丈夫。

大丈夫。

…だよね?


ここは図書館の端の方ながらも

壁の裏側は確か他所の家とかだった気がする。

大丈夫。

車は来ない。

心配しないで。

自分で自分を落ち着かせながら、

不安に駆られながら

歩の直向きな姿に目をやる。


歩「絶対15分で片付ける。」


花奏「よし、のった。」


歩のその折れない芯に

心を打たれたのか知らないが

難題に取り組むことになった。

彼女はほんと、諦めないんだなって

その時に改めて思わされた。

いつだってそうだったと思う。

これと決めたら突き進む。

頑張るのは当たり前って

正々堂々正面から言える人。

不器用だから誤解を与えやすいし

素直じゃないから突き出る言葉は棘が多いけど

それはきっと、

正面から向かっている事の裏返し。

その真っ直ぐな目が私を捉えて

離してくれなかった。

いつからか、ずっと。


10秒経つ、1分経つ、3分経つ。

事ある毎に時計を確認してしまう。

もう終わったはずの出来事に

つい注意を向けてしまう。

どうしてもあの光景が、

凄惨な未来が過ぎってしまう。

残酷な過去が巣食ってしまう。


いつからか私の手は止まっていて、

小刻みに震えていた。

冬の日に外に出て迷子になり

帰れなくなってしまった子供みたいに。


歩「…小津町?」


花奏「なんや?」


歩「大丈夫?」


顔を覗き込むように傾げる彼女。

どれだけ虚勢を張っていても

体はどうにも正直すぎた。


そうだ。

私、今日熱出てたんだっけ。

だからか。

そう、自己完結して。


花奏「うん、平」


「きゃあああああっ!?」


突如。

…突如森閑な図書館に響き渡る絶叫。

それは子供達が遊びで出すような声ではなく

本気で何かを恐れている声。

図書館にいる人らが一斉に

声の方へと振り向く。

皆硬直してしまって動きが見えない。


そこには。

真っ黒な服を着た男、

そして傍には尻餅をついた

小学生くらいの女の子。

母親らしき女性。

男の片手には、ぎらぎらと白光りする刃物。

刃、物。


直感が告げてた。

狙いは歩だ、って。


歩「…っ!?」


花奏「歩、こっち!」


もう嫌だ。

もう嫌。

嘘だ。

違う。

違ってくれ。

お願い。

お願い。


こんな事実、無くなれ。

こんな未来、変わって。

お願い。


どんなに心内で懇願した事だろう。


椅子に座っていたにも関わらず

歩の手を引き全ての荷物を差し置いて

図書館の出口へと足を必死に動かした。

辺りも騒然とし始め

多くの人が出口へと駆け込み出す。

図書館員は何をしているのか、

周りはほぼ視界が開けず

ただ歩の手を握って走った。


歩「ーー!ー…!」


歩が、何か言っている気がした。

けどそんなの耳に届かない。

1番大切な人の声が届かなかかった。


どうして。

室内なら逃れられるんじゃないの。

事故に遭わなきゃ歩は死なない。

そうじゃないの?


まだ歩が死ぬって決まったわけじゃないのに

私の頭の中では暗闇に突進していた。

もう、確信を得ていた。

もう分かりきっていた。

5回目だもの。

5回。


それでも、諦めたくなかった。

心のどこかでは諦めてたんだと思う。

けど違うって。

助けられるって。

現実から目を背けて自分を奮い立たせて、

感覚を麻痺させて立ち向かうしかない。

それしかないから。

まだ、私は狂ってない。

違う。

まだ。

まだ、大丈夫。

まだ平気。


ふと。

足元が揺らぎバランスを崩す。

倒れこそはしなかったが、

数秒足が止まってしまった。

あれ。

なんで動かない?

どうして?


また、歩が何か言っている気がした。

耳鳴りのせいで何にも届かない。


後ろを振り返ると、

黒が迫ってきていた。

夜になる。

もうすぐ、夜だった。


男は1歩踏み出し、

歩を目掛けて1振り。


歩「ーーーぁぐっ…!?」


花奏「ぁ……」


音のない世界に揺らいだ彼女の奇声、

音もなく刺さってしまった白。

音を立てて笑い出す黒。


あーあ。

違う。

違う。

私の脳内は否定を続けてる。

その否定は認められるべき。

何に対しての否定か。

そんなの、もう私だって分からない。

正解を教えて。


明日への正解を教えて。


花奏「歩っ!」


がむしゃらに男に殴りかかった。

まだ助かる。

大丈夫。

そんな言葉回しばかりで、

考えるよりも先に動いていた。


急な事。

変にスローモーションに見えた。

男は私に右肩を殴られたにも関わらず

にんまりと不適な笑みを浮かべながら

迷わず歩から刃物を抜く。

また、奇妙な嬌声が聞こえたところで

視界の隅にのたうち回る何かが映った。

それが彼女だとは思いたくなかった。

違う。

違う、って思ってた。


周りは止めにも入らず

ただ出口へと駆けていくだけだった。


体がふらつく。

そうだ。

私、今日熱出てたんだっけ。

だからか。

そう、自己完結して。


ふ、と。

左の脇腹に、違和感。

違和、感。


花奏「………………ぇっ…?」


男は迷いなく、刃物を抜いた。

抜いたんだ。

私の左脇腹から無理やり。


理解できない上力が入らず

男に掴みかかっていたはずの手は

呆気なく離れて。

床に打ち付けられて尚

状況が飲み込めずにいた。

お腹が冷たい。

腰が、変に冷たく感じる。


なんで、なんだろうね。


突如、堰を切ったように

血液が轟々と唸り出した。

あー…

刺された、んだって分かってすぐ。


花奏「か……あああぁあ゛あ゛ぁあ゛ぁっ……!?」


痛い、を超えてしまって

叫んでないと正気が保てないと

本能が判断した結果だった。

痛みを逃していないと死んでしまう。

そんな危機感が体を巡った。


足ががくがくと揺れている。

だらしなく涎が頬を伝う。

脇腹に手をあてがうも尚更苦痛は増すばかり。


歩「小津ま」


声がただ漏れた。

ふ、と無意識に涙が伝った。


男は構わず歩に刃物を振り下ろし続けた。

何度も何度も。

恨みを持っているかのように。

何度も。


歩が、私が何をしたの。

何でこんな事になっているの。


理不尽に耐えられず、

運命は変えられず

床を這いながら歩に近づく。

寝頃がってただ咽んだままでいられるか。

まだ。

まだだ。

歩は諦めなかったじゃんか。

勉強へひたむくさっきまでの

彼女の横顔が脳裏に色濃く浮かぶ。

目と鼻の先にいるはずの歩に左手を伸ばす。

びり、と腰が悲鳴をあげ、

ぐじんと爪の先まで痛みが伝う。


す、と。


伸ばした左手の甲に、

垂直に立つ柄が見えた。

絵のようだった。

まるで。


花奏「はぐっ……!?」


か、か。

そんな切れた呼吸音が脳で反芻する。

これは私の呼吸音?

誰の?

酸素が足りないのか視界がぐらりと歪んだ。


歪んだ線が蔓延る中、

黒靄は仕切りに楽しげに

手を振りかざしていたっけ。


それからの意識は殆どない。

きっと辺りは地獄絵図。

多分だけど、それから私は動くことが

出来なくなったんだと思う。

もう、痛いことを恐れて

彼女に手を伸ばせなくなったんだと思う。

気づけば男はいなくて、

図書館は再度森閑な場所へと戻っていった。


最後に、ぼやけた視界に映った輪郭。

彼女と、歩と額を寄せ合って

ぐずぐずになった左手で頭を寄せて。

私は何て言ったんだろう。


お泊まり会の時ですら

こんなに近づいたことはなかったな。











11月28日



「お大事にどうぞ。」


父さん「ありがとうございました。」


花奏「……。」


お世話になった看護師さん達に一礼して

病院を後にした。

父さんはいつも以上に言葉少なく

私の隣を歩いている。


ほろ、と雨だろうか。

露が頭に降ってきた。

どうやら朝と昼の寒暖差で出来た

朝露のようなものらしく、

木の下を歩いていたのかと漸く気づいた。


何もない日だった。

空はぼんやり晴れていて、

きっと今日はいい日だと陽も訴えている。


父さん「…。」


花奏「…。」


駐車場に着くと

父さんは車の扉を開けてくれた。

それに甘え後部座席へと腰をかける。

私が座ったのを視認した後優しく扉を閉め、

何やらトランク内を物色した後

運転席へと向かったのだった。


と、すす。

座るタイミングで薄く伸びた布の擦れる音。

かこんと硬いものがぶつかったような

響きがしていた。


父さん「これ飲むかい?」


花奏「……。」


父さんの手には緑色の

ラベルが貼られたペットボトルが2つ。

お茶かと思ったがよくよく見てみれば

抹茶の飲み物らしい。


花奏「…うん。」


あんまり手を伸ばすことが

出来ないことを悟ってか

父さんはぐんと体を伸ばし

私の隣の座席へ置いてくれた。


飲むとは言ったものの喉は乾いてないな。

そう思って意味もなく外を眺めていた。

同じ身長くらいの男性2人が

病院内へと歩いていく姿が見える。


父さん「蓋、開けたほうがよかったな。すまん。」


花奏「……すぐ飲まないから大丈夫。」


父さん「…そうか。」


再度伸ばしかけた左腕は

そそくさとハンドルへ戻っていった。


父さん「…出発するぞ。」


ぶうん、と車が唸り出した。

久しぶりに外をまじまじと眺める。

変わらないもんだな、とは思った。

それだけだった。





***





車が小さな段差で揺れるたびに

ぴりっと傷へ電流が走った。

車が揺れるたび隣の抹茶は跳ねて、

ついにはごとりと床へ落ちてしまってた。

父さんは軽く謝りながら

信号待ちの時に拾おうとしていたが

家に帰ってからでいいと伝えると

素直に「わかった」と言って応じていた。


1時間は流石に経っていないだろう頃、

私は家に着いていた。

移動中は眠ろうとしても

傷が痛むせいで眠れず、

くるくると移り変わる外をなぞっただけ。


父さん「父さん、ちょっと買い物してくるから先入ってて。」


花奏「…うん。」


私の返事は全てワンテンポ遅く、

父さんもそれを見兼ねているのか

気長に待ってくれていた。

はい、と家の鍵が手渡される。

見慣れたはずの鍵の形は

今では異形に映った。


地に足を下ろす。

さっきも病院から出る時に

勿論足はついていたが、

また異国の地に踏み入れるかのような感覚。

自分の家が不気味に見えたのは2回目だった。


父さん「じゃあ、すぐ帰ってくるから。」


花奏「……いってらっしゃい。」


父さん「ああ、いってきます。」


特徴のないシルバーの車は

私が少し離れたのを確認した後

エンジン音を立てて走り去っていった。


木造の平家であるこの家。

久々に中に入ると

なんだかカビ臭い気がした。

こんなんだったっけ。

低い机。

古い箪笥。

錆びた蛇口。

私がいない間に随分と

時が経ってしまったかのような錯覚を覚える。


ゆっくりと自分の布団に腰を据える。

なんとか歩くことはできるが、

とてつもなくゆっくりだ。

そして左手でものを掴むにはまだ痛んだ。


脱ぎ捨てたはずの制服は丁寧に

ハンガーにかかっていて、

びしょ濡れで見るも

無惨な状態だったはずの学生鞄は

ぱりぱりに乾いていて雨特有の跡があった。

結局今、外は限りなく晴れ。


花奏「……。」


じっとしていたいのに

足がうずうずしてしまって

発作のように鞄から教科書や筆箱、

事件の前日のままで重量のあるお弁当箱を

床に散乱させた。

よくこんなたくさんのものを持って

登下校してたな、って思う。

よく肩潰れなかったな。

凄いな、と漠然と感じた。


それから触り心地の悪い

ぱりぱりに乾いた鞄を家の裏手の

小さな小さな庭にひっくり返して置いた。

この季節、この気温ということもあり

羽虫は少なかったが

地面には蟻が数匹いるように見える。

雑草の種子だったのかまでは

見当がつかなかった。


それから再度部屋に戻っては

えんじ色のシミすらついていない

私用の鞄を手に取った。

中には、図書館の机の上に広げていたはずの

もうひとつの筆箱やノート、

定期券などが入っていた。

何故か化学の問題を解いている途中の

ただのコピー用紙までもが入っている。


花奏「……これ………私の…違うのに…。」


例の難題は途中で終わっている。

15分で片付くどころか

約2週間経っても解決してなかった。


ふと、自分の左手を見てみる。

まだ包帯が巻かれていた。

これからは自分で包帯の巻き直しとか

しないといけないらしい。


どうしようかな。

何をしよう。


家に帰ってきたはいいものの

することもしなきゃいけないことも

したいことすら無くなっていた。

寝転がりたいのも山々だが

なんだか引っ掛かりを感じて

憚られてしまう。


スマホを見る気にもなれなくて

電源はいつからか切れたまま。


頭の奥ではオルゴールが鳴っている気がした。

どこで聞いたのか不明だが

ぴー、ぽー、と2音のみ繰り返している。

特有の電子音は記憶に棲みついて

どうやらゆっくりと眠っているようで。


花奏「…。」


家は、どうやら息絶えてしまったみたいだった。

切なさを覚え、縋るように

お母さんの前へと身を寄せる。


笑ったまま動かずに10年ほど経ったが、

今も尚笑い続けているお母さんの姿があった。

泣き崩れる父さんの姿を今も覚えていた。

それはどうも美月と重なってしまう。


花奏「………ただい、ま。」


手を合わすこともせずに

徐に話しかけた。

近くに見える花は隅が枯れ始めて

渋く茶色が顔を出す。

座布団も敷かずに畳の上で

座っていたからかな。

足を見るとうじうじした柄が私を見ていた。


花奏「………………うん…。」


意味もなく返事をしてみる。

こんなにも言葉が浮かばないことってあるんだ。

いつもなら最近あったこととか

話していたと思うんだけどな。

あまりに困ってしまって居心地が悪く、

ついには耐えきれなくて

キッチンへと足を伸ばした。


シンクには溜まった洗い物。

それからカップラーメンの抜け殻。

冷凍食品のゴミ袋。


父さんはここ2週間碌な生活を

していなかったことが窺えた。

ただ、ゴミは指定日に出していたのか

大きな袋は見当たらない。


水。

飲もうと思ってコップを持つ。

日陰に佇んでいたからか

これはまた随分と冷えている。

おまけに水道水も冷たくて、

胃や頭を冷やすには十分すぎた。


ふと、転げた抹茶を思い出す。

そのまま放置していたのを忘れて

なんなく家に入ってしまった。

何故だろう。

湊の喜び跳ねる姿が浮かんだ。


花奏「……。」


あぁ。

何しよう。

勉強?

…気分じゃないな。

何かをしていないと

溺れてしまうとさえ感じている。

何かをしてないと、それこそ崩れてしまう。

逃れるように何かを探している。

けど、見当たらない。

何かが見つけられない。

そのもどかしさに反吐が出かかった。


食卓でもある低い机に

先輩からもらったストラップを置いた。

呼吸しづらそうに見えたから

透明な袋から取り出して寝かせる。

黒焦げた部分はもう動かない。

青い部分だってもう動かない。

青いイルカだったはずのストラップ。

今見るとさらに焦げてしまったように見える。


「花奏。」


そう、誰かが呼んでくれた気がした。

誰だろう。

結局歩は今でも尚意地を張って

花奏とは呼んでくれないのだ。


小津町。


そう、呼ぶんだ。

爪を見る。

伸びていた。


思えばこの家は何もないことがわかった。

よくこんな家で暮らしていたなと思う。

自分の家が不気味に見えたのは2回目だった。

1回目は、父方のおばあちゃんが亡くなって

以後この家に引っ越して来た時。

以前住んでいたところから、

田舎から逃げてそのまま住み着いた時のこと。

幽霊が住んでるとよく思ったものだ。

今では私たち家族が住んでいる。


再度自室に足を向け、

布団に座った後自分の枕を抱えた。


変な匂い。


鼻がそこそこにいい私は

この違和感に気づけていた。

取り巻く違和感には

気づけずにいた。

私自身のおかしさには

気づけなかった。


花奏「………。」


大きく1つ、深呼吸をする。

からからに乾いた空気は

喉を刺激して痰を絡んで吐き出される。

ぎゅっと両手で枕を抱えた。





°°°°°





花奏「…。」


歩「…何してんの?」


花奏「匂い嗅いでる。」


歩「…なるほど。」


花奏「ちょっと臭い。」


歩「ぷ…あはは。なにそれ。」


花奏「本当本当。」


歩「あんたって結構鼻効くよね。」


花奏「多分、そこそこ。そんな遠い距離まで嗅ぎ付けれるってわけじゃないけど。」


歩「ふうん。」



---



歩「…小津町の家の匂いだね。」


花奏「そう?」


歩「そ。他の人ん家の匂い。」





°°°°°




…。

…。


少しの間息を止めた後、

思い立ったように歩き出し

靴を履いて外へ出た。





***





外は何にも変わらなかった。

寧ろ家の中だけが変わっていたまである。

家から出たはいいものの

何をするかやはり戸惑い、

結局は玄関前で扉を背に

体育座りをしているだけだった。


今までどうやって過ごしてたんだっけ。

病院内では死んだように過ごしていた。

何にもできないし

最初のうちは考え事をしていたけど

考えるのだって疲れてしまった。

何も考えたくなくなった。

その後数日は眠ること以外することがなく、

眠っては図書館にいる夢を見た。

いつしか、眠ることも億劫になっていたっけ。


目を閉じるといつでも彼女の

悲痛な悲痛な叫び声が鳴り響く。

頭の中での私はいつも図書館にいて、

血濡れた床の上に立っているんだ。


「…花奏?」


花奏「…?」


上から降る声に反応して

閉じていた目を開ける。

思っていたよりも日は落ちかかっていて

目先にはシルバーの車が見えた。


父さん「鍵、開かなかったかい?」


花奏「…ううん、開いた。」


父さん「そうか。お寿司買って来たんだ。食べよう。」


花奏「…うん。」


父さん「寒いだろうから家に入って待っててくれ。」


花奏「分かった。」


ぐう、とだれた音が鳴る。

腹の虫は私以上に元気だった。


それから父さんは車を車庫に入れ

じきに家へと戻ってきた。

久しぶりに食べる塩分多めの食事は

欲を潤すと共に口の中を渇かした。

しょっぱいというのはなんとなくわかるが、

新鮮そうな見た目にも関わらず

味がしなかった。

山葵だって辛さが抜けてしまったのか

全然びりっとこない。

なんなら歩いた時の方が

手やら腰やらにびりっとくる。

美味しくないお寿司だな、って思っちゃった。





***





夜はあっという間に両手を広げ、

私有地だと主張してきた。

父さんはそれに託けてか否か

お風呂に入らずすぐに寝てしまった。

「すまんな、今日はもう寝る」と

私にひと言残して。

それから、「花奏も早く寝るように」

…なんて言っていた覚えがある。


花奏「…。」


上の空で聞いてなかった。

私は食事が終わってから未だ

1歩どころか一動もせず

食卓の前に座ったままだった。

こち、こちと古臭い時計の音がする。

電気はつけっぱなし。

消すにも気力がいるものだ。


花奏「…。」


背にはお母さんが見守ってくれていた。

夜らしい。

カーテンは父さんが閉めてくれてたのか

光は外へと漏れていない様子。


わんわん、と吠え盛る犬の声が耳を掠める。

夜だ。


家の前をトラックが通ったのか

窓ガラスが一斉に輪唱し

また一斉に黙って行った。


夜だった。

紛れもなく、今日の夜だった。

もうすぐで明日だ。

待ち望んでいない明日だった。


漸く決心がついたのか足を座布団から離し

身ひとつで玄関へと向かう。

特大音量でのいびきが遠くから聞こえる。

まだ寝かせておいてあげよう。

そう思い、音が立たぬよう

静かに静かに鍵を開けた。

ちり。

微々たる音は木を僅かながら揺がすも

父さんには届かないようだった。


外に出ると異様に冷えた。

ぶるりと身震いをひとつ。

羽織を持ってきたらよかったと思ったが

取りに帰る気にはなれなくて

そのまま家を後にした。

今、何時だろうか。

そう思っていたら近所の公園には

『11:20』あたりを指したアナログ時計。

そっか。

そんな夜中だったんだ。

道理で足が痺れるわけだ。

よたよたとしながら目的地へと向かう。


花奏「…………ふぅ…。」


手先がありえないほど冷え、

痛いほどにまでなっている。

ふぅ、と息を吹きかけても

温まるどころかさらに冷えてしまった。


とた、と猫が猛ダッシュで過ぎる。

かと思えば横から車がのっそりと顔を出した。


猫の抜け道を横切り、

沈んだ一軒家を横目に、

脆弱な住宅街を抜け、

2駅先まで覚束ない足取りで辿った。


かんかんかん、と踏切が鳴る。

悲痛な声をあげていたのに

助けさえ求めない彼女の声が浮かんだ。

声から忘れていく、なんて言うけれど、

忘れるどころか色濃く残り

爪痕だらけになっている。

この傷はきっと一生物だ。


歩は。

歩は何をしてるのかな。

まだ美容院に就けるようにと

練習をしているのかな。

あの部屋で料理でもしてるのかな。

こんな時間だからバイトかな。

いや、受験生だからバイトは

ほとんど入っていないと言っていたっけ。


花奏「…つい、た。」


いつもなら2駅程度、

歩けば1時間ほどで着くはずが

今日ばかりは更にかかった感覚がした。

時計がないから分からないが

確実に日付は超えただろう。

信号では青になった瞬間渡り出しても

ちかちかと焦らさせる中漸く渡り終える

なんてことが多々あった。

ただ、私だって痛いのは嫌なので

ちかちかしたって赤になったって

焦らず歩いていた。

そもそも車通りは少なかったから

安心していた…気がする。


そして。

目の前に立ちはだかる例の廃墟。


1歩、また1歩と足を踏み入れる。

夜の廃屋はまた違った不気味さに塗れていた。

階段では転ばないように、

いつかの時とは大きく違い

踏みしめるように歩いた。

月がだんだんと大きくなっていくように

錯覚しだす私の頭。

屋上に着いた時には触れれるかとさえ思った。


例の機械は、まだあった。


ここにまだあると確信していたはずが

安心のあまりかため息が漏れる。

疲れもあり、片足を引きずるようにして

奇妙な物体の前まで行き、

それを背にして硬い床に座った。

こてん、と体を横に倒す。

自然と左側を天井に向けて寝転がっていた。


花奏「…………冷た…。」


床はひんやりとし過ぎていて、

足先はもう殆ど感覚はなかった。


私が入院していた2週間。

それは病院でのご飯のように

なんとも味気ないものだった。

病院に運ばれて2、3日程で

意識はしっかりと戻ってきた。

それからほぼ寝たきりの生活。

歩は生きていて、別の大きな病院で

治療を受けていると聞いた。

けれど、そんなのは嘘だとすぐ分かった。

優しい嘘のつもりだったんだろうけれど

正直気休めにもならなかったんだ。

だから直接聞いた。

「本当は亡くなったんだろう」と。

看護師だったか医者だったか、

渋い顔をしながら肯定していたっけ。


結局のところ、歩は生きられなかった。

あの時額を寄せ合って眠ったのを最期に

歩は私の近くから居なくなってしまった。

葬式には出れなかった。

病院の中で静かに、

葬式は終えたという旨を誰かから聞いた。


ついでに、美月も亡くなったと聞いた。

何故なのかもっぱら疑問だったが、

思えば美月を助けたのは歩だった。

同時刻に起きた事故事件は

私たちの心をぼろぼろにするには

十分過ぎたんだ。

入院中、麗香がお見舞いに

来てくれた事があった。

珍しく1人で行動してるなと思えば、

愛咲も羽澄でさえもショックは大きく

学校に行くこともまちまちなんだとか。

聞いた話だからなんとも言えないが

正直意外だなって思ったことは確か。

なんでだろう。

みんなのことを薄情だなんて

思ってたわけじゃないけど

それほどにまで心的負担がかかるとは

思っていなかったといえばいいのだろうか。

いい意味で期待をしていなかった

というのが正しいのか。


愛咲は酷く後悔しているなんて話も

耳にした気がする。

「力になれなかった」。

そんな事を言っていたと聞く。

私は意識ここにあらずといった感じで

ただ目を閉じ、時々開いてはまた閉じた。

それでも麗香は構わず話を続けた。


美月が亡くなった事で

波流は特に深く傷を負ったのだとか。

他校のことだからそこまで正確じゃないけど

部屋に閉じ籠りっきりという噂も

たっているらしい。


交通事故を起こした人間、

殺傷事件を起こした人間共に

既に捕まったらしい。

交通事故に関しては

前回以前より知ってる内容と変わらず。

あの真っ黒な服を着た男に関しては

笑いながら図書館から出てきたところを

警察に取り押さえられたらしい。

麗香の話によると、犯人は

「自分好みの女の子が刺されて

苦しんでいる姿を見たかった」

なんていう独白をしたという。

最近話題になっていた中高生の殺傷事件は

全てそいつがしたことであり、

そんな連続事件を起こす前は

自分で自分の腹を抉って楽しむという

異常行動を起こしていたとか。

どっちにしろ快楽犯ってことには

変わりなかったのだ。


それから麗香は私に対して

「花奏は何も悪くない」

と声をかけてくれた。

本当に悪くなかったんだろうか。

本当に?

図書館に誘ったのは私だ。

あの時自分が痛むのが嫌で

もう1度手を伸ばせなかったのは私だ。

それでも私が悪くないと言えるのだろうか。

なんて色々思ったが

考えることに疲れてしまい、

後の麗香の話は理解できず

通り過ぎるのみだった。


花奏「……………何も……。」


何も。

上手くいかなかった。

ここまで惨敗なのは初めてだった。

歩と美月は亡くなり、

私は負傷し、体は無傷の皆だって

心はずたずたに裂かれていた。


麗香だってきっと平気なふりをしていただけで

心の奥底では苦しかったのかもしれない。

見えないところで泣いていたのかもしれない。

けど、私にはそこまで想像できなかった。


私の体には後遺症は残らなかった。

今微々ながら程々満足に動けてるのだって

きっと、きっと幸せ。


花奏「…し……あ…わせ……か…。」


私の生涯は幸せだった。

幸せである筈だった。

小学生の頃、お母さんが癌で亡くなった。

真帆路先輩と出会えた。

彼女は2年ほど前忽然と姿を眩ませて

次会った時はもう棺の中だった。

今年の4月、みんなに出会った。

歩と美月が不慮の事故で、事件で亡くなった。

大切な人ばかり居なくなっていった。

消えていった。

沢山傷を負った、沢山逃げて来た。

逃げて来た結果0からのやり直しになった。

全部私のせいだった。

全てを置いて、捨てて逃げて来た。


もう、逃げちゃだめ。

誰かが耳元で囁く。


いつの間にか閉じていた目を開き、

右半身に力を入れて上体を起こす。

ごう、と血液が唸るももう慣れたことだ。

刺されてすぐの時と比べたら

…歩や美月の痛みに比べたら

こんなもの痛みにもならない。


花奏「…………。」


機械へと踏み入れる。

どれだけ願ってもきっと

11日の2時間目の末に戻るんだ。

それ以上前には戻れないんだ。

機械をいじり、11日より前に

戻るよう設定したかったが、

生憎紙に書いてあったんだ。


『操作パネルにある白いボタンを押せば

指定の日時まで戻ります。

その他部品、ボタン等を押すと

2度と機能しなくなります。

ご了承ください。』


はったりかもしれない。

けれど本当にもう戻れなくなってしまう方が

私は怖かった。


素直に白いボタンへと手を這わす。

この素直さがきっと邪魔なんだ。

そう分かっていても今更どうにもできない。

決心をして。

決意を。

…。


私はもう、何かがおかしいことに

気づけなくなりつつあったのかもしれない。


すち。

ボタンが下へと沈んだ。

脇腹はまだ痛んでた。











11月11日



ふと目が覚めた。

視界は急に光を入れたせいで

ほんの少し揺らいでいる。

目が開きづらい。

ずっと暗かったんだから

それはそうかもしれないけれど。


2限目が終わる。

後5分。

もう1度頭を腕の中に埋めた。

眠ったままでいたかった。

なら戻らなければいい話。

きっとそう。

そうなんだろうけど、

もう逃げたら駄目だと言われ続け

身動きが取れなくなりつつあった。

重度の使命感や責任感、

罪悪感に雁字搦めにされた私には

選択肢などなかった。


花奏「……。」


あれから何回も繰り返した。

感覚で言うと10回は超えている。

正確な数を数えるのは

6回や7回くらいから辞めてしまった。


何度も試行錯誤した。

繰り返した。

参っていた。

道手立てが分からなかった。

教えて欲しかった。

明日への進み方を教えて欲しかった。

普段何気なくくるはずの明日が

来ないとなったら誰もが

明日を探しに出かけるだろう。

明日を欲すだろう。


明日が欲しい。

未来が。

歩や周りのみんなが生きている明日が欲しい。

それだけでいい。

それだけが欲しい。

幸せが、欲しい。


花奏「…。」


すう、はあと息が漏れる。

何回も試行錯誤した。

最終の下校時刻まで待ち

外をずっと眺めていても

雨は片時も止むことなく

少しだろうが必ず当たった。

翌日は必ず微々だろうと熱が出た。

必ず美月に出かけへ誘われた。

誘いを断り、歩をあの交差点から離すと

美月は必ず亡くなった。

そして歩も必ず亡くなった。

歩に関しては交差点から離し

室内や室外共に様々なところにいたとしても

必ず亡くなったんだ。

男はどこからともなくやってきて

歩を楽しそうに刺しては捕まった。

色々な方法で男から歩を守ろうとしても

返り討ちに遭うときは

必ず左の脇腹を刺された。

刺されて搬送されれば大体2週間は

必ず病院から出れなかった。


繰り返す中で分かったことがあった。

入院してしまえば

今日に戻ってくるまでに2、3週間程の

不必要な休養がある事。

戻ってしまえば怪我なんてないことになる。

搬送されるだけ意味がなかった。

以後、怪我をしても出来るだけ

歩いて廃墟まで向かった。

刺された後電車に乗って急いだはいいものの

乗客や駅員に止められ

救急車に乗せられた記憶がある。

だから苦痛に耐え激痛に狼狽え

廃墟まで歩いて行った。

何度も。何度も。

そして、男は確実に歩だけを狙い

歩を何かしらでつけているのだと考えた。

男好みの容姿だったのか何だか知らない。

盗聴器やら何やらで歩の居場所を

特定しているかも知らない。

ただ、どこにいても奴は居た。

刃物を持って悪意と共にやって来た。


ぴり、と。

刺されてもないはずの脇腹が痛んだ。

どうして。

どうして、だろう。

ひやりと背筋を気味の悪い汗が伝う。


その時、2限目の終わりを

告げるチャイムが鳴った。





***





つん、と伏せている私の背中に感触。

湊だ。

まず初めに心配の旨が伝えられる。

返答は私の態度や顔色、

選ぶ言葉によって微々たる変化がある。

それから、私が教室を出るとか

次の授業をサボるとか言えば

不安げな目つきをしながらも

止める事なく行ってこいと言ってくれる。


…それだって全て分かってる。

それほどまでに繰り返した。

飽きてしまう程に

この11日と12日を見ていたんだ。


どうすれば歩を助けられるのか。

そんな考えはとうの昔に廃れてしまった。

最近は投げやりにがむしゃらに

ただ1つ前の周期と

何か1つだけでも違えばいいやと

考えるようになっていた。

全部を変えようが1つを変えようが

向かう結末は1つなんだ。

収束してしまうのだ。

そんなの、足掻いたって一緒じゃんか。

無駄、じゃないか。


花奏「……っ。」


湊「花奏ちゃん、手、力入れすぎ。」


花奏「……。」


湊は珍しく自席から離れ

私の隣に突っ立っていたらしく、

声のかかる向きが違った。

湊に言われてその事に気づき、

咄嗟に爪を立てるのを辞めた。

掌には爪痕が深めに残っている事だろう。


無駄。

そんなふうに思いたくなかった。

私の努力が無駄になるのは

別にどうでもよかった。

ただ、歩自身の死が無駄になる事は

どうしても嫌だった。

歩を助けられなかった、

歩を死なせてしまった、

歩を殺してしまったと言う罪悪感が

重なれば重なるほど

どんどん逃れられなくなっていった。


湊「…次の授業、一緒にサボっちまお?」


花奏「…。」


湊「だって次中丸先生でしょ?いいよいいよ、1回くらい」


花奏「…もう、ええよ。」


湊「え?」


中丸先生の授業なら

既に何度も何度も休んだ。

無断欠席した。

逆に言えば、何回かは全く同じ授業を受けた。

湊が珍しくやってきたと言う宿題は

どこが間違っていて

どこが合っていたかさえ

ほぼ記憶している。

…それくらい、繰り返した。


花奏「…もう……構わんで。」


湊「花奏ちゃ」


花奏「お願い。」


顔を上げず目線も合わさず、

湊に言葉だけを向けた。

言葉の針だけを手向けた。

彼女はどんな顔をしてたんだろう。

最後のポカリを手にして

笑っていたのが遠い昔のよう。

実際にその姿を見たのはいつだったろう。

3回は入院したから

2ヶ月は前じゃないだろうか。

実際には6時間後の話なのに。

まだ、11月か。

いつまで11月だ。


湊「…分かった。迷惑かけちゃってごめんね。」


花奏「…。」


迷惑じゃない。

寧ろありがたい事。

ありがたい事なんだ。

それは理解している。

…。


…理解してるはずなのに、

ありがたいと感じれなくなっていた。

その優しさは当たり前だと

麻痺してしまっていた。

その柔らかな言葉1つ1つが

鬱陶しくなり始めていた。

人間は慣れてしまう。

匂いも出来事も何もかも。

醜い。

自分が憎かった。


ぐ、とまた手に力が入っていた。

それに気づかないまま

私は教室を飛び出して

いつもの屋上へ続く階段に身を潜めた。





***





6限目の終わりを知らせる合図が鳴った。

それと同時に喧騒一色になる校内。

今まで教室に戻る日が多かったけれど

今日はいいや。

今回はいいや。

その代わり1度ここを離れ、

校内の隅の教室を散策した。

使われていない用具室のような部屋がないか。

そこで一晩越せないか。

そんな期待を込めて。


悪い評判を背負う事になっても

どうでも良くなっていた。

全て投げ出しかけていた。

炭酸の抜けたサイダーのよう。

活気も覇気もなにもない。


普段は歩かない学校の隅の方へ、

隅の方へと進む旅。

進む度異国に踏み込んでいるような

奇妙で不安で朧げな感覚。

1度歩に連れられて

問い詰められたことはあったものの、

トラウマとは化していなかった。

そこで見かける顔見知りは

とてつもなく安心するもんで。

…。

安心、してしまったんだ。


花奏「…。」


麗香「…あれ、珍しいお客さんけぇ。にぃ?」


よく見つけたね、と楽しげに

行き止まりでにんまり笑う彼女。

校舎の構造上、左右の端に曲がり角があり

そこに2、3つ程の教室がある。

扉を開き部屋のひとつへ入ろうとした姿。

春の頃から比べて肩につくくらいには

伸びている髪の毛。

私だってきっと、少し伸びたんだろうな。


麗香「…花奏?」


花奏「ああ、ごめん。何もない。」


麗香「らしくないけぇ。どうしたけぇ。」


花奏「どこ行っても知ってる人に会うなあ思っててん。」


麗香「へぇ…?」


私が近寄らない事に疑問を感じたのか否か

麗香は私の元に歩み寄り手を引いた。

と、とん。

長く直線である廊下から

私は姿を眩ました。

角を曲がれば本当に

この学校には人が通っているのかと

疑いたくなるような埃っぽさ。

濃度の低い騒ぎ声が聞こえるおかげで

ここは現実だと踏みとどまっていた。


麗香「何でこっちまで来たけぇ?」


花奏「何でって…学内で誰もこうへんところを探してたんや。」


麗香「ふうん。」


腑に落ちない、といった様子で

鼻をすんと鳴らす。

猫のような仕草。

ひょいひょいと奥へ誘うように

手を掴んだまま進んでゆく。

私はなすすべもなく連れて行かれた

…と言うよりかは反抗する意思がなかった。

疲れ切ってしまったのか

身を任せるのが楽だった。


麗香「理由も理由な上折角だし、見られたからには黙らせるけぇ。」


花奏「え、何のこ」


麗香「いいからまずここに入るけぇ。」


手を引かれたと思ったら

今度はくるりと背中側に回られ

ぐいぐい押して来た。

転びそうになりながらもされるがまま、

そのまま1つの朽ちかけた教室に

押し込められたのだ。

麗香も続いて教室に入り、

今度は素早く私の前に回った。

途端、とたんと扉が唸っていた。


室内はやはり埃っぽいが

廊下ほどではなかった。

人が普段から過ごしているのか

いないのか、丁度境界くらいだろう。

机が真ん中に1つあり、

囲むように椅子が4つ。

正面に格子付きの小さな小さな窓がある以外

壁は背の高い棚で埋まっていた。

床には何かの資料だろうか、

紙が積まれている。

教室、と言うには狭すぎた。

これではまだ6畳の部屋の方が

広く見えるだろう。


花奏「…えっと……」


麗香「ここのことは内緒けぇ。にぃ?」


花奏「は、はぁ…。」


麗香「ここ、今使われてない部屋けぇ。教室を分断してるせいでこんな狭いんだって。」


机を指でなぞる彼女。

西日のさす部屋のようで

陽は今は床の端くれと戯れている。


麗香「たーまたま鍵が壊れてて入れるのを見つけてしまったけぇ。」


にしし、とぶかぶかのパーカーで

口元を隠し笑い声。


麗香「誰も来ないけぇ。にぃ?」


花奏「…!」


麗香「あて、サボりたい時とかはよくここにいるけぇ。」


花奏「…麗香も授業サボるんやな。」


麗香「んー…授業というより愛咲先輩との会話けぇ。」


花奏「あぁー…。」


麗香「捕まったら終わりだけぇ。」


花奏「やろうな。」


麗香「だから、休み時間はここに籠ることが時々あるけぇ。」


花奏「…そっか。今も来てるもんな。」


麗香「うん。」


がらがらと軽い音を立てながら椅子を引く割に

音もなく座る彼女。

陽の光のせいで若干ながら埃が輝く。

それを気にする様子もなく

足を組んで背もたれに思いっきり寄りかかった。

なんだか麗香の新たな一面が見れた気がした。

麗香は今も尚計り知れないところが多い。

ミステリアスな雰囲気は

いつまでも麗香の周りを漂っている。


麗香「花奏も座るけぇ。」


花奏「私はええよ。」


麗香「そう言わず。」


花奏「ううん、ほんまに。」


麗香「意地っ張りけぇ。」


花奏「今は立っときたい気分やねん。」


麗香「なら仕方ないけぇ。」


少し前までは私の事を苦手意識していたのか

全くといっていいほどに喋らなかったのに

今じゃ1対1でこんな狭い空間で

言葉を交わし合っている。


だから正直私のお見舞いに

来てくれたのは意外だった。

私が過去のことを話したからだろうか。

あの時も率先して

動いてくれたのは麗香だった。


麗香「っていうか、あて「も」サボるんだなーとかいってるあたり花奏はサボってるけぇ?」


花奏「授業?」


麗香「勿論。」


花奏「…何回もな。」


麗香「わあ、不良けぇ。にしし。」


今はこう楽しげに笑っているが、

前までの色彩は風化してないためか

現在の何もないはずの状態でさえ

本当に笑っているのだろうかと疑ってしまう。


何回か入院し麗香が訪れる度

だんだん彼女の表情が

見れるようになっていった。

よくよく見れば、彼女は眉間に皺を寄せ

惨憺たる風景を思い起こしたかのような

苦い苦い顔をしているのだ。

きっと思い起こされているのは

愛咲や羽澄の状態、

そして他のみんなの事が主だろう。

意外だと思った。

変な話だが人間なんだなって

その時思えたんだ。

そんな記憶があった。


花奏「…私がこの場所の事知ってよかったん?」


麗香「ん?」


花奏「だって、私の事苦手やったろ?」


麗香「そんなの、前の話けぇ。」


そんなの、と一蹴し

足は痺れたのか組み直していた。

ふぅーと長く一息吐き、

とん、と肘を付く。

その手に頬をくっつけた。

嫌なほど歩と重なった。


麗香「花奏は結構引きずるタイプけぇ?」


花奏「…分からへん。」


麗香「にしし。そんな真面目に考えなくても。」


花奏「…あはは…せやな。」


相変わらず下手な笑い方。

貼り付けたような笑顔、渇いた声。

麗香の猫のような鋭い目つきが

私を捉えている事に気づいた。

しっかりと私を掴んで離さない。

かと思えばふらりと視線を

格子窓の方へ伸ばした。


よく見てみれば窓の淵には

小さいながら時計が飾ってあった。

キッチンタイマー程度の

とてつもなく小さな。


麗香「帰りのホームルーム、そろそろけぇ。」


花奏「そんな時間なんやね。」


麗香「うん。愛咲先輩は流石に戻ったと思うしあては教室に戻るけぇ。」


机から体を引き剥がし

ほんの少しばかり勢いをつけて

椅子から腰を離す。

かたこと。

椅子は揺れ、満足そうだった。


麗香「花奏はすぐ戻るけぇ?」


花奏「…教室近いしあと1分ここにおるわ。」


麗香「ここ、お気に入りけぇ?」


花奏「割とええな。」


麗香「にしし。愛咲先輩には絶対口外禁止けぇ。」


花奏「分かった分かった。」


この秘密であろう場所を

共有できたことが嬉しかったのか

麗香は終始言葉尻が跳ねるようだった。

そのままスキップでもするんじゃないか。

しかし麗香に限って勿論そんな事はなく、

扉から出る時には小さく手を振っていた。

反射的に返すも、

顔は笑ってなかっただろうな。

麗香は気づかなかったのか

扉を静かに閉めて足音も立てず

気配を消してしまった。


花奏「…。」


1人。

埃と戯れる。

埃も誇りすらも散ってゆく。


花奏「…。」


ここ。

…かな。


一晩、ここで過ごしてみよう。


花奏「…。」


1人になった途端脳はショートしてしまい、

今までの周期の結末が

映画の予告版のように華麗に移り変わる。

けたけたと笑う男の声は

常に耳に留まり続けた。


ぴり。


姿勢が悪かったんだろうか。

左の脇腹が痛んだ。





***





それからは誰も来なかった。

格子窓の外は着々と暗さを手に入れ、

今では豹変しきっている。

昼の面影はどこへやら。


私はというと、椅子に座るのは疲れて

床の紙束の近くで体操座りをしていた。

そっちの方が臀部は痛くなるし

辛いと批判されるだろうが、

私はここの方が落ち着いた。

収まりが良かった。

スカートに埃がくっつき

くしゃくしゃになってるくらいが丁度いい。


花奏「…。」


資料を徐に手に取る。

手ぐせなのか、紙の縁を

爪と肌の間に挟んで遊んでしまう。

内容は、生徒会集会のメモのよう。


そういえば麗香は生徒会に入ったんだっけ。

だからこんな隅にある

存在している事すら知らなかった教室を

知っていたのかもしれない。

何かの拍子にここへ来たんだろう。

そしたら案の定鍵が壊れているときた。

うってつけ。

麗香はにたりと不敵な笑みを浮かべたのかな。


そこまで空想して、頭が疲れた。

飲み物はある。

今回も昼ご飯を食べていなかったから

一応食料もある。

ただ、両方とも今は

摂取しようとは思わなかった。


花奏「……はぁ…。」


意図せず息が漏れる。

次はどうすればいいんだろう。


室内での試行は戻るまでに

時間がかかりすぎるから

正直もうしたくない。

するとしても私の家や

例の廃屋の近くにしたい。

刺された後に手足を引き摺って

何駅も歩くのはとんでもなく苦痛なのだ。

痛みに耐え、耐えられるはずもなく

途中で行き倒れて病院送り。

…なんてこともあった。

とんだ出血量だ。

よくあれで歩こうなんて思えるよな。

自分でも馬鹿らしく思えた。


と、考えると廃屋近くか起点の交差点。

美月も助けると考えると

交差点の方が融通が効く?

そもそもこの時点においての

融通ってなんだ?


花奏「…そもそも2人同時に助けるとか出来るんかな。」


浮かんでしまった疑問を壁に投げつける。

散乱した書類に、シミの付いた床に。

あぁ。

言葉にしてしまった。

やってしまった。

その瞬間大きな現実が

私を押し潰そうとしている図が

鮮明に見えてしまった。


2人。

歩と、美月。

美月は何とかなるんじゃないか。

…と思いたかった。

最終地点を交差点以外の場所で

数回過ごしたが、美月は交差点で死ぬのだ。

交差点近くに寄ると歩は死に美月は助かる。

交差点から離れると両方死ぬ。

その場合、私は怪我を負う。

実際のところあんな重症負わずに済むだろう。

私が歩を見捨てて逃げれば、の話だが。


そんなことは出来るわけなかった。

散々歩には辛い思いをさせて

私だけ逃げるなんてそんな虫のいいこと

許されるはずがなかった。


眠たい。

眠ってしまおうか。

けれど眠ったところでどうなる。

悪夢を見るのみ。

悪夢、というよりかは過去の回想が

勝手ながらに行われてしまうのだ。

つまるところ、休息という休息は

暫くの間取れていなかった。


私は血濡れた図書館の床の上に

ただ何をすることもなく立っている。

そして周りを見渡せばー


がたん。


花奏「…っ!?」


はっ、とした。

誰も来ない。

麗香がそう豪語していたにもよらず

漏れ染みてゆく黄色の光が

真っ暗だった部屋へ許可なく侵攻してくる。

麗香とは違い豪快な開け方。

漸く自分がいたところは

こんなにも暗いところだったのかと

驚嘆しながらも、

今はそれどころじゃないと自分を鼓舞した。

したところで何だ。


「……おぉ!びっくりした…何してるんだ。」


現れたのは恰幅のいい男。

細身じゃないためか例のけたけた笑う声が

無意識に再生されずに済んだ。

帽子や服装に見覚えがあると思えば、

交通整備をしているおじさんのような

見た目をしていた。

…先生ではなさそう。

見たことない顔だった。


どうしてこんなに冷静なんだろう。

いや、冷静ぶってるんだろう。

自分が不思議でならなかった。


花奏「…。」


ああ。

あ、あ。

駄目だったんだな。

と、ひと言。


「もう遅いから帰りなさい。」


花奏「何時ですか。」


「23時を回ったところだ。定時制の生徒も下校したぞ。」


花奏「…そうですか。」


やはり学校に留まることは出来ないのか。

自分の受け答えの下手さにさえ

どうにも腹立たしい何かを感じる。

下手くそ。

下手くそ、下手くそ。

卑下しても卑下しても止まらず、

こんなものでは駄目だ、

足らない、と感覚が畝っている。


生きた心地がしなかった。

ずっと前からだろうか。

しかし、今日は特段と生きていなかった。


私は渋々鞄を背負い、

罪を確と背負い警備員の横を抜ける。

警備員。

その単語にはっとした。





°°°°°





先生「連絡事項です。今日の放課後から夜あたりにかけて警備員が校内回るからなー。最近中高生を狙った殺傷事件が多いので、その対策です、っと。…そうだな、部活生とかすれ違ったら挨拶するようにー。」





°°°°°




警備員。

そうだ。

遠い遠い記憶にあったじゃないか。

それから中高生を狙った殺傷事件。

これだって、そう。

歩が巻き込まれたのは、これだ。

私はあの時物騒だなーとか思って

他人事のように受け取っていた。

他人事だと思ってた。

自分の番になるなんて、

歩の番だなんて知る由もなかった。


「ほら、早く帰りなさい。先生には連絡しとくから。」


花奏「…。」


うんともすんとも返す気にはなれなかった。

全てが繋がってしまったように感じた今、

全てが不可能に感じてしまった。

救いようがない、

と理由もなく感じてしまったのだ。

返事をしたからどうなる。

この先の未来が変わるか?

変わったとして、それは歩が救われる未来か?

そんな確証どこにある。


思い知った。

私は今、答えのない問いを

解いているのに同義だと。


玄関まで警備員に連れられ

とぼとぼ歩いた。

歩くのだって億劫だ。

もう、無理な気がしたから。

外は雨だった。

小雨。

降ってるか降ってないか分からないくらいの。

視認できないくらいの細かな雨。


「雨か…傘は持ってるかい?」


花奏「…いえ。」


「そうか。そこで少し待ってなさい。」


花奏「…?」


ひと言、待ってろと伝えるや否や

足早に廊下を蹴り去っていった。

何事だろう。

先に報告でもするのだろうか。


すぐにでも玄関から出て

警備員の知らぬ間に抜け出してしまおうとは

考えたのだが、足が棒のよう。

うまく動いてくれない。

動く意思がない。

鞄を背負いなおすも他は動く気になれず

眠気に襲われる中突っ立っていたら

どたどた、と重い足音が聞こえてきた。

何かと思っていつの間にか

俯いていた顔を上げると、

11月には似つかわしくない程

額に汗を浮かべた先程の警備員が

肩で息をしながら立っていた。


「生徒さん、これ、使いなさい。」


差し出された右手には

真っ白とはかけ離れているビニール傘。

職員室とかから借りてきた

誰かの忘れ物だろうか。


花奏「…いいんですか。」


「勿論。ほら、早く家に帰ってあげなさい。ご家族さんが心配してるだろうから。」


父さんは出張でいないから

実際のところ私1人なんだけど、

反論する気も失せていて

静かに傘を受け取った。

それを見計らってか

警備員は「気をつけて」、

と声をかけてくれた後

またすぐに巡回へと戻っていった。


花奏「…。」


傘。

そういえばいつか、

愛咲に傘をもらったっけ。

返せなかったな。

返さなくていいって言われたんだっけ。

どうだっけ。


ばさ、と玄関口で開き、

そのまま外へ出る。

とと、と、とつと。

音響が今までと違う。

直に当たらない雨粒。

寧ろ今の状態の方が違和感がある。

雨に当たるのが当たり前。

制服はぐずぐずになって

靴の中まで水は侵入し

気持ち悪いなと感じながら帰る。

それが当たり前だった。

なのに。


踏み出す。

踏み出す、踏み出す、踏み出す。


それでも雨に当たらない。


おかしい、って思った。

おかしかった。

幸せを感じない。

嬉しくない。


暫く歩くとコンビニの方へ通ずる道と

規定の通学路との分岐点がお出ましになる。


花奏「……ふん、ふ、ふー…ふーん…。」


馬鹿みたいに鼻歌を溢した。

傘を投げ捨ててみようかとも考えた。

その時。


花奏「…っ!」


突如。

風は大きく腕を振ったのか

傘は音を立ててひっくり返る。

ご、と嫌な音のおまけつき。

投げ捨てるまでもなく、

投げ捨てる必要なんてどこにも無く

私はやはりこの道を辿るのだ。


しとしと。

頭やら肩やらを濡らす雨。

雨は鯨を象らず水滴を只管に

私へと当てつける。


おかしい。

おかしかった。

可笑しかったんだ。


花奏「……ふふっ。」


雨が体に当たり濡れ鼠になることに

安心して思わず笑みが溢れた。

可笑しかったんだ。

おかしかったんだ。

私はおかしくなっちゃったんだ。


しち、しちと靴の裏。

傘を道端に捨てた。

どうせ戻るんだから、何をしたって変わりない。

雨だって笑っていた。











11月12日



何も変わらなかった。











11月11日



2限目に起きる。

あー、この授業ももうすぐ終わる。

飴色に濁った色をしている掛け時計が

それを物語っていた。

そして湊が話しかけてくる。

面倒になっていつも屋上手前の

階段やら踊り場やらに寝そべる。

時間が経つのを待つ。

そして帰りのホームルームに出たら

また湊に話しかけられる。

だからホームルームが終わってから

教室に寄れば誰とも出会わずに済む。


前、学校に篭って居られないか

もう1度試した。

場所はここ、屋上手前。

けど見つかった。

そして歩は死んだ。

前回はどうだったっけ。

前々回は。

両方とも交差点にした覚えがある。

刺されたくなかったから。

痛いのは暫く嫌だったから逃げたのだ。


花奏「…。」


きーんこーん…。

帰りのホームルームが終わる音だろうか。

腕時計を確認すると既に午後3時。

なんだ、ホームルーム開始の時間か。


大の字にはなれないものの

それなりに手を広げて

リラックスした姿勢をとる。


上手くいかないな。

上手くいかないのが普通になってきた。

交差点に行けば歩は死ぬ、

それ以外のところだと

美月と歩双方が死ぬ。

交差点であれば事故死、

それ以外は殺される。

私は歩を助けようとすれば刺され

何もしなきゃ刺されなかった。

どこかの周期で意識が無くなるほど刺されたが

私はどう頑張っても死ななかった。

ぎりぎりのラインで生き残る。

そして彼女が、いなくなる。


花奏「……なんで逆にならへんの。」


逆に。

私が死んで歩が生き残る未来。

そんなものを望むようになっていた。

いつからか分からない。

ただ、なんとなく。

なんとなく、もう終わりたいなんて

思い始めていた。

ならこの日付に戻ってこないで

そのまま進めばいいじゃないか。

歩のいない日々を過ごせばいいだろうに。

そう、思われるんだろうな。


歩を何度も殺してしまっている以上、

助けなければ何の意味もないのだ。


歩は何度も苦しんだんだ。

何度も、何度も何度も。

苦しいなんて生半可な言葉では表せない。

そんな、痛みを。

それを全て無かったことに出来るか。

出来るわけがない。

そんなのを認めてしまったら

本来あるはずだった未来と

何も変わらない。

苦しませるだけ苦しませてやっぱなしだなんて

愉快犯にも程がある。

虫が良すぎる。

それこそあの殺人鬼と一緒だ。

森中と一緒だ。

そんなのじゃない。

違う。

違う。

私はそんなんじゃない。

だから、助けるまで続けるんだ。

きっと。


暫く手を広げ寝転がっていると

不意に眠気が襲ってきた。

ここ最近しっかり眠れた記憶がない。

しっかりご飯を食べた記憶だってない。

入院してる時は流石に少しは

口に入れたが生きてる心地はしなかった。

そもそもどのくらいの量を

摂取していたかさえ記憶にない。

覚えてないのだ。

色々な周期の記憶が混ざっていた。

こんなにまで繰り返したんだ。

繰り返してしまったんだ。

吐き気を感じた。

…それだけ。

いつも通りだ、こんなの。


何かを考えている気になりながら

結局ぼうっとしてるだけの時間は過ぎ

我に帰った時には1時間程経過していた。

帰りのホームルーム終了のチャイム、

鳴っていたっけ。

聞こえないくらいに

頭が動いてなかったんだろう。


花奏「…。」


はぁ。

心の中でため息をつき

その場で立って埃を払う。

さて、どうしよう。

帰ろうか。

帰るしかないか。

腹を括ったのか諦めたのか、

教室へとぼとぼと歩き出す。


廊下には部活生らが慌ただしく駆け抜けたり

先生が疲れた顔ですれ違ったりと

いつもと変わらぬ風景が

繰り広げられていた。


教室に行くと当たり前のように誰もいない。

湊もいない。

誰もいない。

適当に窓際の席につく。

自分の鞄は定位置に置き

床に足をついて音もなく佇んでいた。

今までの中でもどこかでは

見たことのある光景のはずだ。

なのに、どこか淋しくなった。

心細いと感じた。

そう思ってしまった。

何でかは分からない。

寂しさに襲われたのだ。


花奏「………………。」


歩。

最近、ちゃんと話せてないって、

そんな気がした。

何でだろう。

2日に1回くらいは会ってるのに。

ちゃんと話せてない。

ちゃんと、というよりは

楽しく何も考えず話せてない、かな。

最後に何も考えずただただその場の

幸せに浸って話せてたのはいつまでだろう。

懐かしい。

…懐かしいな。

あの時のようにまたどうでもいい話をして、

時に戯れて、時に真剣な話をして、

時に笑い合いたいな。


あーあ。


花奏「……寂しい……。」


口にすると尚更現実を

突きつけられているようで

心がきゅっ、と音を立てる。

痛い。

痛かった。

心だか心臓だか脳なんだか。

痛かった。

どこかしらが痛かった。


それに気づいてもどうにもできない。

どうにもできないところまで

きてしまったのだから。


寂しい。

寂しい、寂しい、寂しい。

今までずっとみんながいた。

みんなが隣にいてくれた。

歩がいてくれた。

歩に何度も相談に乗ってもらった。

歩と沢山の時間を過ごした。

今じゃ。

今じゃ…今…。


いない。

隣に、いない。


花奏「……っ。」


まだ死んだわけじゃない。

まだ死んでない。

なのにどうしてこんなに孤独なんだ。

行くとこ行くとこに誰かと会った。

見知らぬ定時制の子から湊、

愛咲、麗香、美月、梨菜、歩。

いろんな、いろんな人に支えられてた。

それに気づけなかった。

気づいても無視してた。

私は薄情者だ。


こ。


何かが折れる音がした。

心か。

こころ、か。

もう、立ち直れそうになかった。

ここまでやり直してきて何もなくなった。

今、遂に全てが無駄になってしまった。

私が1番恐れていた事態だった。


花奏「ぁ……あ…。」


ぎゅっ、と自分の胸ぐらを掴む。

このまま心臓なんて潰れてしまえ。

息なんて絶えてしまえ。

止まってしまえ。

命なんて終わってしまえ。

死んでしまえ。

死んでしまえ。


どうしてここまで思い詰めているのか。

思い詰められているのか

私には到底理解できなかった。

出来なかった。

何も分からなかった。


花奏「ふー……ふー…。」


服をくしゃくしゃにしながら掴んでるだけ。

なのにこんなにも痛い。

痛い。

痛い、痛い、痛い。

痛い。

…痛い。

いた、い。


花奏「……い、たい…。」


いたい。

居たい。

歩。

あ、ゆ。

歩。

そう、歩。

歩と。

歩と一緒に居たいだけ。

居たいだけ。


上手くいかないな。

上手くいかないもんだな。


諦め、ようか。

そうだ。

そうすれば終わる。

終わるじゃんか。


そんな邪念が過ぎった時。


「……小津町…?」


花奏「……。」


……。

…。

ば、か。


花奏「馬鹿っ……何で、何で今なんよ…っ。」


歩「…大丈夫?」


花奏「来んなや、来んで、来んで…!」


歩「…!」


花奏「もう、嫌や…。」


と。

とと。

足音が少ししたと思えば

遠くで止まったまま。


あーあ。

八つ当たりして何になる。

歩をさらに追い詰めて苦しめて

何になるっていうのだ。

寂しさが故?

そんなの許される訳ない。

怒りとか悔恨とか

ぐちゃぐちゃに織り混ざった感情の

吐き出し方が分からなかった。

汚い混合物を今、

大好きで助けたい、ずっと一緒に居たい

大切な彼女へ吐いたのだ。

吐いてしまったのだ。


嫌悪が止まらなかった。

どうすればいい。

さらに強く服を握りしめる。

だけど勿論何にもならない。

体にだって食い込まない。

服がしわしわになっているだけ。


このまま心臓なんて潰れる訳ない。

息なんて絶えるはずない。

止まるなんて有り得ない。


歩「馬鹿はあんたでしょーが。」


肩に強めの感触。

叩かれたのかと思うほどの強さ。

それにはっとして顔を上げると

見計らっていたのか

服を握っていた手を払った。


歩「力入りすぎ。」


花奏「……馬鹿。」


歩「だーかーらー、馬鹿はあんただっての。」


花奏「来んでって言ったやんか。」


歩「放って置けるとでも?」


花奏「…放ってや。」


歩「生憎、そこまで嫌な人間じゃないもんで。残念でした。」


肩からぱっと手を離したかと思うと

歩は私から距離を取った。

やっと、離してくれた。

放っておいてくれるんだ。

今だけ薄情になってくれるんだと

期待してしまった。

それほどまでに歩を信頼できなくなってた。


歩「小津町、早く帰るよ。」


花奏「……は?」


歩「は?じゃなくて。ほら、さっさと準備する。」


花奏「なんで」


歩「何で、もどうして、も今は要らない。はーい5ー、4ー…」


私から離れたかと思えば

鞄を背負い直しカウントを始める。

カウントダウンは私に取っては

最早恐怖でしかなかった。

明日の16:24までというタイムリミット。

カウントダウン。

今だって行われているのだ。

怖くて、怖くて仕方なくて

歩の誘いにまんまと乗ってしまい鞄を背負う。

歩は私の様子を横目で確認した後

小さく手招きして教室を後にした。


と。

とと。


さぁー。

さぁ、さぁー。


大雨だ。

そうだ、この時間は雨が強まってる時間だった。

いつこの事実を、未来を知ったんだっけ。


歩「うっわ。ひどい雨。」


花奏「……。」


歩「もう少し居座っとく?」


廊下で歩の声が跳ねる。

楽しそうに壁に反射して

私の耳にまで届く頃には

湿気を含みしとしととしていた。

6月、一緒に窓から雨が降るのを眺めたっけ。

あれ、あの時は雲が分厚かっただけだっけ。

それとも夢の中だっけ。

今本当なら2月くらいかな。

雪、降ったかな。

歩の受験は無事終わってる頃かな。


誕生日はもう、とっくの昔に去ったよね。

なのに私はまだ歩の誕生日まで

4日前でずっとずっと届かない。


歩「…小津町。」


花奏「……おめでと。」


歩「は?」


花奏「…ずっと、祝えてなかったから。」


歩「誕生日?まだだけど。」


花奏「知ってんで。15日やろ?」


歩「え、うん。」


花奏「知ってる。ちゃんと覚えてんで。」


色々忘れてしまった。

最初の周期のことやご飯の美味しさ、

安定した睡眠の心地よさ。

4月のこと、今ある幸せのこと、

歩がいる事の大切さすら今の今まで忘れている。

今も忘れてる。

思い出せない。

歩といる事の楽しさを思い出せない。

普通を思いだせない。

幸せの、何もない普通を思い出せない。

けれど11月15日が歩の誕生日だという事実は

ずっと頭の中に残ってる。

これだけずっと変わらずに

頭の中に残っていた。


歩「……そ。」


花奏「…あのさ。」


歩「何。」


花奏「……帰ろうや。」


歩「この雨の中?」


花奏「何ともないで。」


歩「正気?私絶対嫌なんだけど。」


花奏「濡れたって変わらんよ。」


歩「あんたは馬鹿だから風邪ひくね。」


花奏「…やな。風邪引くわ。」


歩「はーあ。素直なんだか強情なんだが分かんないね。」


歩は窓辺に寄りげんなりした顔をした後

ぴん、と固いはずのガラスに

でこぴんを食らわせていた。

窓ガラス側も今頃驚いているだろう。


そういえばこの鞄、

いつだか庭で乾かしたけれど意味なかったな。

乾いていたから意味なかった。


今はまだ湿っぽさのない鞄を背中で温めた。

生き物じゃないくせに私より生きてそうだった。


歩「傘持ってる?」


花奏「持ってへん。」


歩「私の持ってる折り畳みだけでいけそ?」


花奏「折れるで。」


歩「風なかったら行けるでしょ。雨には確実に濡れるけど。」


花奏「この雨の中帰るん?」


歩「帰ろっつったのはあんたでしょ。」


花奏「そうやけど、嫌やろ?」


歩「それでも小津町が帰るっていうんなら付き合う。今日は隣にいるって決めた。」


真っ直ぐ。

さっきまで窓の外を見て雨を眺めていたはずが

いつの間にかしっかりと私を見て離さなかった。

歩はいつもそう。

話す時は頬杖をついてそっぽを向き続けるのに

大事な時は絶対と

言っていいほど視線を外さない。

目を見てくる。

それに緊張してしまう。

圧を感じてしまう。

逃げ場がないって焦りを感じる。

焦ってた。

怖かった。

逃げ場がないことが怖かった。

やり直しが効かないこの今が怖かった。


歩「だから、帰る。」


花奏「……やっぱ馬鹿なんは歩の方や…。」


歩「そんなこと」


花奏「歩の方が、馬、鹿や………っ。」


ふと。

涙が溢れそうになった。


馬鹿なのは私の方だ。

歩の言う通りだ。

でも認めたくなかったのか知らないが

否定の言葉だけ出てきた。

彼女を、現実を、自分を。

…それらを全て否定する言葉だけの雨が

日時関係なく降り続けていた。


泣いたらだめだ。

泣く資格なんてないだろう。

いつからかそう言い聞かせている自分がいた。


歩「…。」


花奏「……帰ろう、な?」


歩「…分かった。」


それ以上言葉を放つことはなく

分かったとだけ耳に響いた。

それでいい。

それだけでよかった。

歩と2人で一緒の時間を

過ごせるだけでよかった。


廊下を抜け下駄箱へ向かう。

1年と3年では靴箱の場所が違うため、

より校門に近い側の靴箱で

待ち合わせようとなった。


歩「んじゃ、すぐそっち行くから。」


花奏「…うん。」


そんな、簡単な言葉を交わし合って

私はまた1人になる。

1人。

心地いい。

楽だ。

怖い。

寂しい。


とと、と。


ひとりぼっちの足音は

廊下で虚しく踊ってた。


今回。

今回、どうすればいいんだろう。

今までどうやって過ごしてたんだっけ。

今までどうやって繰り返してたんだっけ。

どんな心情で、どんな決意で。

どんな考えで動いてたんだっけ。


靴箱につき上靴を仕舞う。

外靴を取り出す。

なんて事ない所作のはずなのに

どうやって体を動かしていたのか

不意に分からなくなった。

どうにか思い出して靴を入れ替えて

きんきんに冷えた靴を履く。

それから土砂降りの空を眺められる様

靴箱に寄りかかりながらしゃがんだ。


きっと雨って泣いてるんじゃなくて

叫んでるだけのような気がした。

それが他人から見たら涙の様に映るだけで。

…なんて、訳わかんないや。


歩が、生きている。

今は生きている。

明日はどうやったら来るんだっけ。

どこからが明日なんだっけ。

明後日の迎え方が分からない。

明日の出会い方も分からない。

明日が来るのって普通なんだっけ。

どうして明日が来るのは

当たり前になっていたんだろう。

そんなの、そんなの異常だ。

毎日なんて事なく明日が来るのを分かっていて

「また明日」なんて気安く言う。

確証なんてないのに。

明日も生きているって約束されてないのに

何故か明日は来るって信じてた。

狂って信じてた。


明日が欲しい。

ただ何にもない明日が。


ずっと、ずっとずっとずっと渇望してた。

欲しがってた。

明日を。

普通を。

何もない日々を。

幸せを。


花奏「……。」


しゃがんだままうつ伏せた。

机に体重を預けて伏せる湊の姿が浮かんだ。

悪いことしちゃったな。

悪いことしちゃっているな。

特に最近。

…本当にそう思ってる?

どうせやり直す。

なかったことになる。

なら別にいいじゃんか。

…本当にそう思ってる?


悶々と同じことばかり考え直しては

同じ場所に辿り着いた。

わからないや。

どうしたらいいんだっけ。

それだけだった。

今更歩が死ぬ未来を受け入れて

何回も殺した歩の事を認めて

過ごすことなんてできない。

それは変わらなかった。

認めてなるものか。

大好きな歩を。

大好きなはずの歩を。

そんなの。


歩「…お待たせ。」


足音を鳴らさない様配慮していたのか

それとも私の耳が雨の音しか拾わなかったのか、

気づけば上から声が降ってきた。

何故だろう。

胸がきゅっと痛んだ。


歩「体調悪い?」


花奏「……んーん…。」


歩「そう。」


花奏「………。」


歩「大雨だけどさっきよりはマシかも。帰ろう?」


花奏「……うん。」


ゆっくり顔を上げると

外がだいぶ暗い顔をしてるせいか

室内が随分と眩しく感じた。

見上げると歩の顔が見えるも

逆光だからか仄暗い。


…私、この2日間に起こった事で

歩に謝った事あったっけ。


歩「ん。」


歩は手を差し伸べてくれた。

立てる?と言う代わりにん、のひと言だけ。

それでも意図は通じてた。

歩の鞄や袖口には大粒の雨が

降った痕跡が残っていて、

色が変わりきっている。

咄嗟に右手を伸ばして歩の手を掴んだ。

左手は何故か痛む気がしたから。


力を入れると引っ張り上げられる様に

その場に立った。

それから歩の傘の半分を貰う。

折り畳み傘且つこの雨の量ということもあり

1歩出ただけで肩はじとじとだった。


歩「久々じゃない?こんな雨なの。」


花奏「…。」


歩「空より酷い顔してるよ。」


花奏「…あはは、それ、誰かにも言われたな。」


歩「空より酷いって?」


花奏「うん、酷い顔してる、って。」


歩「でしょうね。誰から言われたの?」


花奏「…もう忘れた。」


歩「そっか。」


歩はこっちを見ることもなく

傘を握り腕を上げて隣を歩いていた。

身長差が故歩はちょっときつそうで。


花奏「…傘……」


歩「持ってくれない?」


花奏「あ、うん。」


歩「はい、頼んだ。」


花奏「…。」


歩「もうちょっと寄って。」


花奏「ごめん。」


歩「違う違う。あんたが外に出過ぎ。」


花奏「…私はええんよ。」


歩「は?いい加減にして。」


いい加減にして。

いつだかの記憶。

喧嘩した時、そんな感じのこと言ってたよね。

その周期は何で死んだんだっけ。

歩。

歩、歩。

歩。

…歩。

名前を呼びたくても呼べなくて。

喉の奥でつっかえてどうしても。


歩「馬鹿は風邪引くんだから優先的に傘使って。」


花奏「…いらんよ。」


歩「いる。」


花奏「…。」


歩「はぁ…なら私傘から出るから。」


花奏「なんで?」


歩「ね?そうなるでしょ?」


花奏「…。」


歩「寄って。」


ぐい、と袖を引っ張られる。

強すぎないあたり優しさが見えた。

…否。

ずっとだ。

ずっと優しさで接してくれているんだ。

歩は不器用にも程があるくらいに不器用で、

側から見たら言い方はだいぶきつい。

けど、歩は今だって優しかった。

それに暗い雰囲気になりすぎないよう

歩自身何ともないかのように

振る舞っているんだろう。

何ともない様に。


隣に歩がいた。

真隣。

ここまで近づいたことはあったっけ。

…あったね。

あったよね。

これ以上近くに。

額を寄せ合ってお互い満身創痍でさ。

夕暮れの佇む図書館で。

他の周期にも数回はあったよね。


歩「あんたってほんと身長高いよね。」


花奏「…高い方やな。」


歩「私の兄弟も身長高いんだ。」


花奏「そうなんやね。」


歩「あんたと同じ学年。どっちが高いだろうね。」


花奏「…分からへん。」


歩「それもそっか。」


花奏「…。」


歩「小津町って雨好きだっけ。」


花奏「…え?」


歩「え?だってこんな大雨の中帰るって言い出すから。」


花奏「…最近嫌いになったな。」


歩「私も雨は嫌い。」


花奏「…。」


歩「ってか嫌いってはっきりいうの珍しいじゃん。」


花奏「…そうかいや?」


歩「うん。聞いたことない。」


花奏「…私にも嫌いなもんくらいあるで。」


歩「花火の時でさえ嫌いとは断言しなかったのに。」


花奏「あんなの…たったの数回やから。」


歩「…火傷の話?」


花奏「……うん。」


歩「たったの数回さえあっちゃいけない事だと思うよ。」


ちた、ちた。

水音、足裏。

今回は珍しい事に2つの人工音。

歩がいた。


歩「あんたは自分を犠牲にしすぎ。そんでもってそれを受け入れすぎ。」


花奏「…。」


歩「…あのさ、ここで前言ってた条件とやらを使うべきじゃない?」


花奏「……条件…?」


条件。

その言葉には覚えがない。

周期内では聞いたことが無いと思う。

となればそもそも繰り返してしまう前の

記憶まで遡らないといけない。

周期で経た日数をざっくり思い返すと

もう3ヶ月以上は前のことだ。

思い出せる自信がなかった。


歩「忘れたの?」


花奏「…うん。」


歩「はーあ。覚えてた私が馬鹿みたい。」


心底残念、と言ってるみたいに

大きなため息をひとつ。

何の話だろう。

いつの話だろう。

条件?

何度思い返してもぴんとこなかった。

記憶に引っ掛からなかった。


歩「小津町さ、前に言ったの。「条件でいつか1回私の相談に乗ること」って。」


花奏「相、談…?」


歩「そ。なんだっけ。何の話をしてその流れになったんだかまでは覚えてないけど。」


ちらと隣を見ると遠くを眺む彼女の目。

そんなに前のことを

思い返しているのだろうか。

前。


歩「簡単な2択だけでもいいからさ、みたいなこと言って言ってた気もする。」


花奏「…………!」


浮かぶ秋空。

鮮明な雲の色。

相変わらず賑やかな教室内。

そうだ。

そうだった。

あったじゃんか。

確か私がこうして繰り返す前の日の記憶。






°°°°°





花奏「ならそのかわりに条件ひとつ。いつか1回だけでいいから私の相談に乗ること。」


歩「は?」


花奏「あ、今やないで。」


歩「いや、それは分かるけど何その条件。」


花奏「呑んでくれる?」


歩「簡単な2択とかなら。」


花奏「あはは、やった。」





°°°°°





花奏「……ぁ…った。」


歩「ん、思い出した?」


花奏「うん…う、ん。」


歩「いつか1回小津町の相談に乗ること…そのいつかってさ、今なんじゃないの?」


使い道、ここ以外ないでしょ?

そういった視線をひとつ

こちらに寄越してきた。

歩は。

歩は、いつもそう。

どうでもいいような会話を

ひとつひとつ丁寧に覚えている。

忘れていいものほど大切に。

日常を大切に。

私との、人との会話を大切にしている。

優しさなのか癖なのかまでは

私には区別がつかないけれど、

たった今心配してくれているのは

嫌と言うほどに伝わってきた。

伝わってきたから。


花奏「…傘、持つの変わってや。」


歩「は?今?」


花奏「お願い。」


歩「…ま、いいけど。」


焦っていたのか無理矢理のように

傘を押し付けた。

肩は既に水が溜まり始めていても

おかしくないだろう。

いや、まだかな。

どうだろう。

色は変わり切って濁っているのは

容易に視認出来た。


たった今心配してくれているのは

嫌と言うほどに伝わってきた。

伝わってきたから。

だから。


私は隣には居れないって、思った。


歩が転ばない程度に

背中を軽く押してやる。

するとよろけながら前のめりになるも

なんとか体制を保ち転ぶことはなかった。


さぁー。

雨が私をこれでもかと劈き出す。

そう。

そう、そう。

そうだ、これだよ。

私にふさわしいのはこんな残念な結果だ。


私は彼女の背を押した場からは

1歩も動けずに居た。

否、動かなかったんだ。


歩は体制を整えた後

きっ、と睨むように私を視線で刺してきた。


歩「ちょっと、小津」


花奏「相談。聞いてや。」


歩「先傘の中に入ってからにして。」


花奏「嫌や。なら話さへん。」


歩「何言って」


花奏「いいから。今くらい聞いてほしいねん。」


歩「後で沢山聞くから。」


彼女が寄る。

夜に惑わされかける。

その甘美な言葉に片足が浸るも我慢して

1歩、彼女から遠ざかる。

一緒にいちゃいけない。

私なんかが、歩といちゃいけない。

彼女には未来がある。

あんな残酷じゃない、

もっとずっと素敵な未来が。

それを私が壊している。

そうとしか思えなくなってきた。


歩「なんで…。」


花奏「今だけ。どうせ、忘れ…るから。」


歩「…。」


寂しい。

寂しいよ。

けど、彼女を突き放して、彼女を拒絶して

私は1人の2日間に戻る。

歩が生きる明日に辿り着くまで1人で戻る。

それがきっとあるべき周期。


だから。

最後の相談だって直感的に感じた。

歩に対する最後の相談。


花奏「……どう、やったら幸せに、なれるん…?」


歩「…っ!」


ざぁ、ざぁー。

雨がより一層強くなる。

私はいつか何時何分に前が強くなるとか

はっきりした時間を覚えてしまうほどに

繰り返すんだろうか。

そこまでは繰り返したくないな。


心地よく雨が浸透する。

折りたたみの傘をさしていた彼女は

目を見開いて私を眺めていた。


花奏「も、う…分か…らへん…。」


歩「…幸せ…難しいよね。」


花奏「……。」


歩「いつの間にかなってるもんだと思うよ。幸せって。」


花奏「…なろうと思、って…なれる、もんやない…か。」


歩「なれるよ。あんたが今まで頑張ってきてこの高校入ったのだって幸せのひとつ。小津町自身が掴んだ幸せでしょ。」


花奏「……。」


歩「もっと簡単なことでもいいと思うよ。」


花奏「…簡単……って…。」


歩「ご飯が美味しい。空が綺麗。よく眠れた。沢山話せた。そんなのでもいいじゃん。」


そんなのでもいいじゃん。

歩は肩をすくめて、

困ったように微笑んでいた。

初めて見た表情な気がした。

よくよく見れば彼女の肩も濡れそぼり

朽ちた色に成り下がっている。


少し前の私ならそんなことで

幸せを感じていたんだろう。

小さなことで幸せを感じられる

幸せな人間だったと思う。

でも今は生きてることすら幸せに感じない。

いつの間にか幸せになるどころか

いつの間にか幸せを忘れてしまった。

不幸に鈍らされたのだ。


もう分からない。

わからなかった。


大好きなはずだったあなたを

殺し続けて今ここに立っている事が

正しいのか幸せなのか

分からなくなっていた。


しとしとと雨が浸透していき、

鞄の中身は愚か骨の髄にまで水が

染み出しているのが伝う。


歩「……あのさ。…私は小津町と」


花奏「ごめん。」


咄嗟のこと。

彼女の話を遮るように、

また逃げるように声が漏れた。

本音だ。

きっと本音だった。


歩「それは、何に対して?」


花奏「……ご、めん…。」


歩「……。」


花奏「…………ご、め……な、さ………ぃっ…。」


歩「………。」


私には謝罪の言葉しかなかった。

今までたくさん苦しめてごめんなさい。

殺してごめんなさい。

助けられなくてごめんなさい。

迷惑かけてごめんなさい。

心配かけてごめんなさい。

一緒にいたいのにその思いとは反対に

怒らせるような事だってした。

何度も何度も殺した。

歩を苦しませた。


花奏「……ごめ、…ん…なさいっ………ご、めんっ……。」


歩「……っ。」


花奏「ごめんなさいぃっ…。」


いつからか。

下を向き手で顔を覆い、ねこ背になりながら

今までの分の懺悔をするように謝っていた。

雨だか涙だか分からない液体が

頬から頭から足まで流れ出す。

視界は真っ暗だった。

未来も真っ暗だった。

手で遮られた雨音の世界の中。


ふと。


花奏「…!」


首元を巻く、感触。

何が起きたのか分からなかった。

けれど動けないまま、

染む温かみを感じていたんだろう。

歩の腕、のようだった。


歩「私は、小津町と居れるだけで幸せだよ。」


身長差があるから、かな。

下に引かれるように抱きしめられてて。


歩「あんたが辛いなら隣にいる。」


花奏「……い、や。…嫌っ…」


歩「嫌でも何でも私が放っておけない。放っておきたくない。」


花奏「な、んで……っ!」


歩「何でも何も…あんたが今まで私にしてきてくれた事でしょ。」


花奏「…そんな、こ、と…してない…っ。」


歩「してた。本人の私が言うんだから間違いない。沢山救われた。」


花奏「何も、し、てな…い……っ!」


歩「小津町が本当に何もしてなかったんなら、今あんたにこんなことしてない。」


花奏「…っ。」


歩「無駄じゃないよ。全部。」


花奏「…ちが、う…。」


歩「…何が違うの?」


花奏「わ、たし…最低なこ、とをずっと」


歩「最低じゃないよ。」


花奏「ちがう、違う…!」


違う。

違うんだ。

違うんだよ。

顔から手を退け歩を引き剥がそうと

彼女の肩を押す。

離れて。

その優しさが辛いから。


けれど、彼女は更に力を強めるだけ。

首元から体温は離れてくれない。

力が入らない。

もう、疲れた。

ずっと心身共に疲れていたのだ。

きっと。

雨に打たれて冷静になって

漸く気づいてしまったのだ。

気づかなければよかったのだ。


歩「…あのね、私あんたにされたことの中で嫌って思うのはひとつもなかった。」


俯きながら彼女が離れるよう

肩を押していても

意味などないに等しかった。


歩「そもそもあんたにどんな酷い事されても私、多分許すよ。」


花奏「…っ。」


歩「強引だなって思うときは何度もあった。…ってかそればっかり。」


先が見えないほどの豪雨の中

彼女の声だけが耳に届く。

雨の音は今だけ静かに鎮座している。


花奏「ゃだ…いや、嫌っ…。」


歩「ちゃんと聞いて。」


花奏「嫌、私…わ、たしは」


歩「強引だけどあんたはいつも、私のこと気に掛けてたでしょ。」


花奏「違」


歩「違わない。大切にしてくれてるって嫌な程わかってた。」


何が言いたいの。

私は何もしていない。

なのに。


歩「だからこそ、あんたが1歩引いたところから関わってるのも、大切な事程言えないってのも知ってるつもり。」





°°°°°





歩「あんたってさ、あくまでも自分から話す事ってしないよね。」


花奏「そう?」


歩「そ。こっちから問い詰めて漸く答えてる感じする。…ってか今そう感じた。」


花奏「ふうん。」


歩「ま、そう思っただけ。」





°°°°°





私の過去を知って欲しくない。

その思いだってきっと

知られていたんだろう。


歩「今まであんたの頑張りも葛藤も過去も色々見てきた。」


ぐ、と更に彼女の腕に力が入る。

普段は棘のある言葉しか言わない歩が

今はこんな。

…今の私に対して優しく棘だらけの言葉を

投げかけてきていた。


歩「小津町のこと、ちゃんと見てるから。」


花奏「あ……ぅ…ぁ…」


歩「頑張ってるよ。小津町はいつも頑張ってる。私が見てる、気づいてる。」


彼女が私を抱き寄せると同時に

私は力が入らなくて

つい膝から呼吸を忘れた地面に膝をつき

溺れたコンクリートに心を寄せた。

それでも尚首元やら背中やらに

人間の体温が優しく付き纏っていて。

ぎゅって体を寄せられた。

視界の隅で逆さになりながら

揺れる折り畳み傘が見える。


きっと、雨だから。


歩「私、わかってるよ。だから大丈夫。」


これは紛れもなく

私が待ち望んでいた言葉だった。


こんなに大切な歩の事を

どうして何度も失くせたんだろう。

それで大丈夫なふりをしてきたんだろう。

どうして彼女を

信頼し続けられなかったんだろう。

どうして信じられなくなっていったんだろう。

どうして突き放すようなことを

しようだなんて考えちゃったんだろう。

どうして。

どうして歩はここまでしてくれるんだろう。

どうして抱きしめてくれてるんだろう。


ごめんなさい。


あなたの信頼に応えられなくて

ごめんなさい。


花奏「ご、めんっ…な、さぃ…っ…。」


歩「泣きたい時は思う存分泣けばいい。涙が枯れるまで泣いて、明日から頑張ればいい。だから小津町ー」


花奏「ぇ…ぅ……ぅん、う、んっ…。」


呼吸がうまくできない。

生きづらい。

息づらい。

それなのにたった今、

幸せだなんて思ってしまった私は

卑怯者だろうか。


ぎゅーっ、とさらにきつく距離を縮められた。

耳元で雨と息が交差する。

掠めて霞んで、くすぐったくて幸せだった。


歩「負けるな。」





°°°°°





「負けるな。」





°°°°°





2年前と同じ言葉のはずが

今日のはやけにか細く

強かに影を残していった。

雨の音が深く深く私を刺す。

刺す、刺す。

ずたずたになっても尚。

飛び降りようと心に決めて眺めた

あの教室からの景色が再生される。





°°°°°





歩「待って。」


「…。」



---



歩「そこ、先生たちが言うには出ちゃいけないらしいけど。」


花奏「…。」





°°°°°





そうだ、不意に思い出した。

明日だった。

歩と出会ったのは、明日。

11月12日だったな。


たったひと言。

その優しさが嬉しかった。

今すぐにでも泣き出したかった。

その優しさに救われた。

歩に抱きついて弱音を吐露したかった。

私どうしたらいいか分からないって

本音をぶちまけて楽になりたかった。

その優しさが辛かった。

頼れない自分がいた。

それならいっそ罵倒してくれた方がマシだった。

いっそ殴って見捨ててくれた方が楽だった。


雨の中、私の鼻は彼女の匂いを

しっかりと掴んで離さない。

安心した。

プレッシャーになってしまっていた。


私は散々泣き喚く中

しちしちと雨は

私達を悉く殴り劈いていった。

いつまでも彼女の体温は離れなかった。











11月12日



思い出したことがある。

どうして歩を助けようとしているのか。

何故私には彼女が必要なのか。

思い出したことがある。

歩自身の言葉の優しさを。

歩自身にあるはずの未来を。


それでも。


それでも何も変わらなかった。











11月11日



花奏「…。」


…。

…。

時間が過ぎるのを待つだけ。


花奏「…。」


シャーペンだって落とさない。

びー、と伸びた黒い線も消さない。


花奏「…。」


先生の話なんて毛頭聞いていない。

運動場で体育をしていた人たちが

騒ぎながら戻ってくるのだって

なんら気にならない。


花奏「…。」


変わらない。

変わらない日常。

そう。

変わらなかった。

何もかも変わらなかった。


花奏「…。」


努力した。

した。

したと言っていいと思う。

これまでの10何回かの、

下手すれば20何回目かの今日と明日。

単純計算したって1ヶ月分は越してる。

しかも入院した等のイレギュラーもあって

2、3ヶ月はもう経っているだろうな。

4ヶ月目に入っただろうか。

どうなんだろう。


それでも。

それでも歩を助けたい。

あの雨の中私を抱き寄せて

「ちゃんと見ているから」と

言ってくれた彼女のことを信じたい。

きっとどこかで今も見てくれている。

いつかその頑張りを褒めて欲しいなんて

濁った考えが湧いた。

褒めて欲しいがためにやるんじゃないのに。

ただ助けたいだけ。

ただ当たり前のことをしているだけ。

それだけ。


花奏「…っ。」


なのに。

また脇腹が、心が痛い。

この日に、今日に戻ってきてしまえば

いくら前の周期で歩と近づいたって

なかったことになるのだ。

何にもなかったことに。


私だけが全てを知っている。

独壇場だった。

観客もいない中1人で淡々と

踊り続ける操り人形のよう。

歩を救うか私が諦めるか。

その白黒がつくまで私は。

私は。

1人、か。


花奏「…さ……みし、ぃ………か…。」


歩との雨中の話を経て

私の中に潜むこのどす黒い感情は

収まるどころか膨れ上がっているようだった。

それでも1人。

他の人を頼れない。

歩の言った通りだ。

私は友達に、仲間に親友に対して

大切な事程言えないんだ。


花奏「…。」


きーんこーん…。

その時、2限の終わりを

告げるチャイムが鳴った。





***





湊「花奏ちゃん寝てたね、珍しい。」


花奏「…なあ、湊。」


湊「ん?どうしたんだってばよ。」


花奏「…。」


2時間目が終わり各々が次の授業の準備や

将又どうでもいいことを話している。

徐に後ろの席から声がかかる。

ふと、湊の名前を読んでみた。

だからってどうにかなるわけではないが

これで未来は分岐したのかもしれない。

こんな些細なことの繰り返しなんだろうな、

人生って。


湊「なあによう、黙っちゃってー。」


花奏「うーん、なんか話そうと思ったんに忘れてしもたわ。」


湊「あーそれ、うちもよくやる。」


花奏「そうなんや。」


湊「うん。片手に醤油持ちながら空いた手で醤油探すのも一緒だよね。」


花奏「微妙に違うと思うで。」


湊「ありゃ、そうかい?」


花奏「あーでも、忘れてるのは一緒か。」


湊「おお、そうかいそうかい。」


ほんの少しばかりしょんぼりした

顔の彼女を見て

咄嗟に一緒だよねと答えれば、

湊はぱあっと明るくなって

納得したようにうんうんと頷いていた。


私から湊に話しかけたのって

いつぶりだっただろうか。

前の周期やその前だって

決意が煮えたぎるが余り

思考に思考を重ねたくて

結局屋上手前の階段へ篭っていた。

その時の湊の顔、どうだったっけ。

どんな顔をしていたっけ。

案外いつものように興味なさげだったかな。

それとも心配していたかな。

どうなのだろう。

もう同じ周期などないのだ。

もう同じ日など来ないのだ。

同じ日を繰り返しているはずが

いつも微々たる変化だろうか何だろうが

必ず変わった今日と明日になる。


授業の内容も起こってしまうイベントも

何もかも同じはずなのに

違った今日と明日を繰り返している。


湊「そういやさ、次の授業中丸先生だよ。どうするよ。」


花奏「どうするも何も…授業受ければええやん。今日宿題してきてるんやろ?」


湊「むう、そうだけどさ。なんかこう、心にくるものがあるじゃん。」


花奏「…?」


湊「当てられるかも、当てられるかも…わー当てられたー!みたいな。」


花奏「それって心にくるん?」


湊「唐突なものは心臓に悪いよ。地震雷火事親父とか。」


花奏「あー…。」


それと、事故…とか。

確かに私は今歩が死ぬことを知っている。

知っている上で色々行動を変えている。

今ここまで気持ち的に楽な気がするのは、

前程まで追い詰められていないのは

紛れもなくあの雨の日がきっかけだ。

歩と帰ったあの日のこと。

あの日からはもう既に

1週間程が経過してしまっただろうか。


その1週間だって変わらず歩を助けようとして

変わらず歩を救えなかった。


今、よぎってしまった。

こうやってゆったりと話すことさえ

歩からすれば憎いのではないか。

罪も同義なのではないか。

歩はちゃんと見てると言っていた。

今になって恐ろしくなり

耳鳴りがし出して心臓が縮む。


湊「…?花奏ちゃん大丈夫かい?」


花奏「えっ…?」


湊「地雷踏んじゃった…?」


花奏「あ、ううん。全然。ちょっと冷蔵庫の中身思い出してただけや。」


湊「なんだいそれは。何と家庭的な。」


花奏「あはは、そんなんやないって。」


今だけは。

今だけは逃げちゃだめだろうか。

湊との何も考えないでいい

この平穏を存分に味わっちゃだめだろうか。

許して欲しい。

今だけは。

こんな幸せを感じていたい。


なのに、心中に落ちる影の濃度は

益々高くなるばかり。

思い出してしまったが最後。

罪悪感の呼吸はまた再開してしまった。

束の間の休息だったんだろうな。


湊は鋭く観察をしながら

私と話しているようにも見えた。

湊には全て筒抜けなようで、

全てを見られているようでふと怖くなった。

私の犯した今までの過ちが

ばれているのではなかろうか。

ばれたら何故まずいのか。

何故。

それは分からなかった。


湊「そーだ、今日の放課後暇かい?」


花奏「ううん、ごめんな。」


湊「ありゃー残念丸。」


これはまたどこかで

聞いたことがあるような台詞を

机にぽとりと手向ける。

いつ聞いたんだっけ、残念丸だなんて。

湊は湊で変わらないままだから

持ってるワードセンスも勿論

そのままなわけで。

更新されない日々とは

こういうものなのかと悲しくなる。

こういうものだったと

今更ながらに改めて知る。


湊「どーしても駄目かい?」


花奏「また今度にしような。」


湊「うちは今じゃなきゃ意味がないと思ったけどなー。」


花奏「え?」


湊「今を全力で生きるタイプの湊さんは今だっ!…って思うのだよ。」


花奏「どういうこと?」


湊「花奏ちゃん、ちょっぴり顔つきが違うなーって。」


花奏「…そうかいや?」


湊「何となくね。うちの感。」


花奏「…。」


厄介だな。

けど、この苦しさを知ってほしい

気持ちも大いにある。

なんなら溢れ出そうだ。


辛いことがあったんだ。

大切な人が死んでしまうの。

それを阻止するために何度も何度も

同じ日を繰り返して、そして失敗するの。

彼女の死を何度も見ているの。

なのに私は何もできないの。

助けて。

そう。

そうだ。

助けて、と。

ひと言。

たったひと言を言いたかったんだ。


そこで点と点が線になったかのような

感覚が脳を伝う。

廊下では移動教室の為に歩く学生らの姿や

ただふざけ遊ぶ学生らの姿が流れる。

四季のようにあっという間に

人間は過ぎ去って見えなくなっていった。

それらは時間と日々と同じように

戻ってくるはずなどなかった。


湊「花奏ちゃん。」


花奏「んー?」


ふと湊の方へ顔を傾げると

ばっちり目があってしまう。

歩といい湊といい、

大切な時に視線を外さない人達ばかり

周りにいる気がする。

逃げ場がなくなってゆく。

直感で感じたことに畏怖し

思わず目を背けた。

不自然だっただろう。

側から見れば恋する男子学生のように

機敏だった自信さえある。

けど、そんな生温い優しい感情じゃない。

怖い。

怖いんだ。


湊「話せなさそうなら話さなくていいんだよ。」


花奏「…っ。」


湊「その代わりね、ひと言だけでもいいのさー。」


花奏「…。」


湊「例えばね、辛いーとか、苦しいーとか、さみしいー、とか。今日電話しよーとか一緒に帰ろーでもいいってわけよ。」


湊は珍しく

…否、何度もこうやって寄り添ってくれていた。

ひと言だけでも。

それこそ助けて、と。

それだけでもいいんだろう。

けど、けれど、これは私だけの問題だ。

私情だ。

だから巻き込みたくない。

巻き込みたくない。

話したってどうせ次の周期になれば

なかったことになる。

なら話したっていいのではないか?

そう、何度も思った。

しかし私は覚えている。

ずっとずっと覚えている。

その時の罪悪感が別途で募っていくのは

なんだか嫌だった。

もう背負いたくない。

それが素直な感想だった。


花奏「…ごめん。」


湊「謝らなくていーのに。」


花奏「だって…」


湊「だっても何も、どこに謝る理由があったのさー。湊さんにゃ見つけられなかったよー。」


ぐーっと背伸びをしながら

欠伸までしている。

言葉尻は随分とふやけてしまい

なんて言っているのか聞き取りづらかった。

関節のなる音が机に降る。

ひとしきり伸び切ったのかまた机と仲良し。

元の体制へ戻っていった。


花奏「…。」


湊「多分ね、細かいとこまで気にしすぎだよ。」


花奏「…。」


湊「世界は広いよー?人間って大体器大きいよー?」


花奏「やから大丈夫、と?」


湊「そゆことー。」


花奏「何も理由になってへんけど…」


湊「フィーリングでいーのだよー。海見てたら悩みなんてちっぽけに思えるってやつ。世界は広いし人間の器も広いよー。」


花奏「…よう分からんかったわ。」


湊「え!なんでー。湊さんショック・オブザ・ショックだー。」


目を見開いて本気で残念がった後

にんまりと目を細めているようだった。

湊の言っていることは半分本気で分からないが

半分はなんとなく分かった。

とりあえずは今悩んでることって

意外とそんなに重大なことじゃないかもよ?

…と言いたいんだと思う。

そして、人様に迷惑かけるななんていうけれど

支えあってこそ人間ってもんでしょ

…みたいなことが言いたいのかな。

湊節の聞いた言葉は

難解且つ深いものが多い気がした。

多分、私がこんな状態だからだろう。

普段の私だったなら

こんな話は出てこないはずだから。

…11月11日より前はそうだったから。


湊「無視せずね。次中丸先生だし嫌だったらサボっちゃいな。」


花奏「ありがとな。」


湊「いーのよいーのよ。どんとまかせなさい。」


花奏「そういや湊の宿題、間違ってるとこあったで。」


湊「え、まじ?どこどこ?」


花奏「えっとな、68ページのー」


今、私には辛いことが起きている。

歩がこの後死んでしまう。

なのに今できることをなんて思って

湊の間違っていた問題を指摘していた。

お門違いにも程がある。

けど、出来ることを。

今出来ることを積み重ねていけば

もしかしたら変わるかもしれない。

そんな淡い期待を抱いて。


湊はといえば、私が指摘したところの全てを

私の言った通りに修正していった。

これで湊はどこを当てられたとしても

間違いなく答えれるだろう。

…だから、なんだ。

これをしたからといって

歩の死ぬ未来は変わらないのに。


いつか過去のように

何も考えずにただ日々を過ごしてみたい。

それが今の私の願いだった。

いつからか根付いた願望だ。

欲だ。

なんとも独りよがりな欲だった。


湊「すんごい助かったよー。ありがとね。」


花奏「ええんやってこれくらい。」


湊「湊さんアンパンマンみたく最強になった気分だよ。」


花奏「顔濡れたら終わりやん。」


湊「弱点あってこそのヒーローでしょー。」


花奏「無敵派やないんや、意外。」


湊「チートヒーローもかっこいいっちゃいいけどさ、人間味ないじゃん?」


花奏「人間味…か。」


湊「やっぱ強くて弱い存在じゃないと応援しがいがないよね。」


花奏「そういうもんなん?」


湊「うち理論はそう。」


花奏「ふうん。」


私にはあまりよく分からない理論を

机やら椅子やら教室に広げた直後、

中丸先生の姿が見えた。

湊は明らかに嫌そうな顔をしていたけれど

この風景だって何度も見た。


変わった気になっていたけれど

何も変わらない11日だ。


何も、変わらない…。





°°°°°





花奏「見ての通りぼんやり。」


歩「ああ、ほんと見ての通りじゃん。」


花奏「今鼻で笑ったやろ?」


歩「ふっ。」


花奏「あー、わざとやん。」


歩「はいはい、わざとですー。」





°°°°°





何故、なのだろう。





°°°°°





歩「………ぁ…………ぁ…ぇ…………ぁ…」


花奏「何、歩、歩っ!…分かる?私やで、花奏やで?」


歩「……………ぃ…」


花奏「歩、大丈夫やから。すぐ救急車、きてくれるからっ!」





°°°°°





どうして。






°°°°°





花奏「それは」


歩『なんか理由があるんだろうと思えば言えないの一点張りでしょ。』


花奏「だってそうとしかー」


歩『もう勝手にして。』





°°°°°





どうして、上手くいかないんだろうな。





°°°°°





歩「てか、顔色悪くない?」


花奏「…っ。…そうかいや?」


歩「うん。なんか白い気がする。」


花奏「ええやん美白で。」


歩「は?はいはい真っ白美人ですねー。」


花奏「なぁーんでキレとるんよー。」


歩「キレてない。」


花奏「…あはは、もー困ったなぁー。」





°°°°°





今までの周期の悲惨なこと、

何気ない会話、歩の表情、声、気持ち。

何故今なのか。

次々と浮かんでしまっては

留まるところを知らないの。





°°°°°





歩「小津町のこと、ちゃんと見てるから。」


花奏「あ……ぅ…ぁ…」


歩「頑張ってるよ。小津町はいつも頑張ってる。私が見てる、気づいてる。」





°°°°°




あぁ。




°°°°°




「負けるな。」




°°°°°





花奏「…ごめん、湊。やっぱ授業抜けるわ。」


湊「え?あ、うん。それでいいと……。」


中丸先生が生徒達と

和気藹々と話している声が

霞がかって耳に届く。

狭間には学生同士の話が集まっていた。

ふと懐かしいような匂いが鼻をくすぐる。

これは湊の匂いだ。

懐かしいのか否かどうなんだろう。

前が見えない。

目にまつ毛が入ったのかな。

微妙に痛い。


ぱたっと止んでしまった湊の返事は

もう続くことはなく、

その代わりに彼女は私の手首を掴んだ。


湊「…花奏ちゃん、うちも行く。ほら、いこ。」


花奏「…えっ……?」


湊「いーからさ。ほれ、チョコは持った。」


ブレザーのポケットから

いつから忍ばせていたのか定かではない

銀紙に包まれたチョコを

ひとつちらりと見せてくれた。

コンビニで売っている箱タイプのチョコの

中身だけ持ち歩いている感じだろう。

甘く苦い香りがほんのり届いた気がする。


花奏「な、なんで湊まで」


湊「自分のこと、もうちょっと客観的に見てからいってけろ。」


花奏「…?」


湊「行こう。」


そうひと言放ったと思えば

私の手を無理矢理に引き

クラスメイトの目を引きながら

教室を後にした。

無理矢理に連れていかれているせいで

手首が千切れそうな感覚にまで陥る。

物凄く強い力で、絶対に私を離すまいと

考えていることが嫌でもわかる。

ふと、頬に違和感を感じた。

乾いて硬直していくような違和感だった。


湊「どーこいこっかな。2人になれる場所がいいよねー。」


花奏「…なら、ひとつ上の階で廊下をまっすぐ行ったところにいいとこあるで。それか屋上手前。」


湊「まあじ?んーじゃあ、前者の方に行こ行こ。案内してちょ。」


花奏「分かった。」


相変わらず優れた判断力で決めた後、

私はそっちの方向へ進んでいった。

かつていつかの周期で

麗香に教えてもらった穴場だ。

確か夜を過ごそうと思って失敗した場所。

校舎の隅に寄るほど喧騒は遠のき、

段々と校舎自体が古くなっているような

感覚が身に纏いだす。

不気味だった。

ただただ不気味だった。


湊「この突き当たりを?」


花奏「左。」


湊「の、1番奥?」


花奏「そう。左側な。」


湊「ここねー…怖すぎるでしょ!」


湊は扉を見るや否や

そう声を抑えつつも言っていた。

校舎が古い上この辺りは

改装していないのか

扉は錆び放題で酸化しまくっている。

不気味だし気味が悪い。

できれば近づきたくない場所とさえ

思ってしまう時があったくらいだ。

だけど、1番安心して居られる。

大声さえ出さなきゃ誰も来ないのだから。


湊か扉を開ける時、

運良くか悪くかチャイムが鳴った。

3時間目の始まる合図だ。


湊「ほれ、早く早く。」


手早く入った彼女から

小さく手招きをされる。

神隠しに合うような気持ちで教室に入り、

狭い狭い部屋へと入ったのち

後ろ手で扉を静かに閉めた。

久しぶりに戻ってきた。

麗香の顔や動きが浮かぶ。

あの猫のような目つきに

ふらっとどこかに行ってしまいそうな雰囲気。

あの時はどんな話をしたんだっけ。


手持ち無沙汰だったのか癖なのか、

頬を強めに拭うように擦った。

水分こそ付着しなかったものの

違和感だけがそこにあった。


湊「せーんまいね。」


花奏「でも立地はええで。」


湊「だねー。」


足元に紙が落ちていたのか

湊はぎこちなく足をばたつかせた後、

かつて麗香の座っていた椅子に

遠慮なく座った。

微かながらに埃が舞う。

あの日とは違った角度から

仄かに光が差し込んでいる。

秋だった。

まだ、秋だった。

また秋だった。


湊「にしてもさ、よくこんなところ見つけたね。」


花奏「前友達に教えてもらってん。この部屋は鍵壊れてるから入れるよって。」


湊「へぇ。そういえば花奏ちゃんってクラス以外でも結構繋がり持ってるよね。」


花奏「クラス以外…あぁ。」


多分だけど歩をはじめとする

様々な不可解な出来事に

関わることとなってしまったみんなのことを

指しているのだろうか。

そうでないのだろうか。

湊の意では少なくとも歩や麗香は

クラス以外での繋がりとして

含まれそうだけど。


湊「でもうちさ、花奏ちゃんがその人達と話してるところって今思えば見た事ない気がするんだよ。」


花奏「まあ、いつも私から歩やみんなの教室行くしな。」


湊「そっかそっか。片思いは大変だねー。」


花奏「放課後とかは向こうから来てくれたりするんやで。偶にやけど。」


最近はそんな事起こらなくなってしまった。

最近とはいえど11日以降というのが正しいか。


ぴい、と小鳥が鳴くと共に

風が勢いよく起立したかのように吹く。

学校の周りに植えられていた木が

一斉に喋り出した。

対して部屋の中の埃は

未だにほろほろ舞うか隅に蹲るのみ。


湊「あ、そうだ。チョコ食べる?」


花奏「ううん、いらへんよ。」


湊「いーからいーから。甘いもの摂ってたら辛いことも忘れるって。」


花奏「でも今は本当に」


湊「じゃあ持っとくだけ。ね?こんな沢山あってもポケットの中でふやけちゃうからさ。」


銀紙に包まれた小さなチョコをひとつ

掌に乗せてこちらに伸ばしていた。

受け取れ。

さもないとどうなるのか分かってるのか。

とまで聞こえてきそうな湊の眼光に屈して

恐る恐る手を伸ばした。


遠くから先生だか生徒だかの

声が聞こえる気がする。

音楽をやっているのだろうか。

リコーダーの音もしている気がした。


花奏「…じゃあありがたく貰うことにするわ。ありが」


湊「あのね。」


ぱし。

チョコを取ろうとした手は

チョコを間に挟むようにして

湊に手を握られてしまった。

冷たくなった銀紙の質感が鈍く掌に染む。

驚きのあまり手を引こうとしたが、

どこからこんな力が湧くのだろう、

また離せない程の強さで握ってくる。

彼女の手はチョコを包んでいた

銀紙より大層冷えていた。


花奏「…!」


湊「花奏ちゃん。」


花奏「…離して。」


湊「うちね、花奏ちゃんの力になりたいんだよ。」


花奏「それは分かって」


湊「分かってない。」


彼女は珍しく声を荒げて、

でも授業中ということを考慮してか

音量は物凄く小さく私を説得していた。

私に話しかけていた。

他の誰でもない私だけに。

冷たい湊の手とは対照的に

私の手はどんどん暖かくなっていった。

変に手汗まで出ているのがわかる。


湊「花奏ちゃんは今、自分がどんな心境でどんな状況にいて、どんな影響を受けているのか分かってない。」


花奏「な、何。どうしたん急に。」


湊「急じゃないよ。」


花奏「急やって。普段の湊ならこんなことせんやろ?」


湊「しなかったよ。花奏ちゃんが苦しくなかったならしなかった。」


花奏「いつ私がそんなこと言ったん。」


湊「言葉では言ってない。でも目がそう言ってる。」


花奏「湊は考えすぎやって。千里眼でも持ったん?」


湊「確かにうちは人一倍敏感なところはあるかも知れない。でも今の花奏ちゃんの状態が良くないことなんて誰でも分かるよ。」


花奏「誰でもて。」


湊「本当に気付いてないの?それともフリなの?」


花奏「な…んの話なん?」


湊はどこか遠回しに伝えている気もするけれど

それ以上に彼女がこんなにも

正面から言葉を投げかけていることに

驚きを隠せなかった。

いつもへらへらしていた彼女だ。

授業はある程度出席しているものの

ほぼ眠っている彼女が、だ。

普段は見ない姿だったからか

責められている気がしてならなかった。


湊は突如手をぱっと離し、

チョコがお互いの手から落ちた。

虚しく短く、部屋に響き渡るも

日々が変わるにはどうも足りなかった。


花奏「あっ…。」


慌てて貰ったチョコを拾うと

幸か不幸かチョコは

溶けても割れてもいなかった。

銀紙に包まれているし大丈夫。

そう思ってそそくさとポケットに突っ込む。


湊「落ちてないやつに変えるよ。ほら。」


花奏「ううん、ええんよ。」


湊「…そっか。」


湊は何を悟ったのか諦めたように呟いて、

新しく取り出していたお菓子を

元いた場所に仕舞っていた。


湊「…花奏ちゃんはさ、変わっちゃったの?」


花奏「…どういうことなん?」


湊「自分で気づけない程麻痺しちゃったの?」


花奏「さっきから訳分からん事ばっかり…何が言いたいん。」


湊「…。」


おかしい。

今日の彼女は…いや、

今回の、今周期の彼女は何かがおかしい。

何故。

何故なんだろう。


…飲み物を手にして

はしゃいでいた頃の湊とは大違いだ。

あの時の彼女の表情や声は

ほぼ薄れ切ってしまっている。


湊「さっき泣いてたんだよ。」


花奏「え?」


湊「泣いてたの、花奏ちゃんが。」


花奏「…私が?」


唐突な湊の言葉に

ふと息が止まる。

泣いていた?

私が?

いつ?


疑問は次々と浮かぶのに

答えばかりが浮かんでこない。

手持ち無沙汰だったのか癖なのか、

頬を強めに拭うように擦った。

もう違和感は殆どなく、

肌が摩擦して微々たる痛さのみ

頬に残ってしまった。


湊は。

湊の目は、怖かった。


湊「そうだよ。それで無理矢理だったけどうちも授業抜けたんだ。」


花奏「…。」


湊「花奏ちゃんを1人にしたら、それこそ消えちゃいそうな感じがしてさ。」


花奏「そんな事せえへんよ。」


湊「説得力がないんだよ。今だけは花奏ちゃんの言う大丈夫とかの言葉は信用できないな。」


花奏「…そう言われても」


湊「今までずっと気づけなくてごめんね。」


花奏「…。」


…。

違うよ。

違うんだよ湊。


そんな心の中の呟きは

感情の荒波に呑まれて消えていった。


湊「花奏ちゃんの事、なんでもわかってるつもりでいた。こういう性格なんだろうなとか、こういう時ああいう行動をするだろうなとか。」


花奏「湊…。」


湊「強い部分ばかり見せるもんだから鵜呑みにしちゃったみたい。」


花奏「…違う、ずっとやない。」


湊「…?」


花奏「ずっと…辛かったんやない…違う、違っ…。」





°°°°°





花奏「ゃだ…いや、嫌っ…。」


歩「ちゃんと聞いて。」


花奏「嫌、私…わ、たしは」


歩「強引だけどあんたはいつも、私のこと気に掛けてたでしょ。」


花奏「違」


歩「違わない。大切にしてくれてるって嫌な程わかってた。」





°°°°°





何を話しても歩との会話が

浮かび上がってくるのは何故だろう。

思い出すたびこんなにも

心が苦しくなるのは何故だろう。

ぎゅうと心臓が軋んで音をあげている。

痛い。

とてつもなく痛い。

脇腹も心も何もかも。

痛い。


花奏「ぁぐっ…!」


痛い。

脇腹が痛い。

刺されてもいないはずの部位が

今刺されたかのように

じんわりと痛みが侵食する。

遂に頭がおかしくなってしまったのか。


蘇ってしまう。

あの記憶らが脳を蝕んでゆく。

もうやめて。

もう離して。

もう私に付き纏わないで。

もう私達を自由にして。


湊「花奏ちゃんっ!?」


周りの机やら椅子やらの隊列を

崩すかのような勢いでふらつき、

突っ立っていたのに

いつの間にか視点は低くなっていた。

咄嗟に脇の下に腕を差し伸べられ

ゆっくりと床に膝をつくも

痛みが引くわけでもなかった。

しわのついた制服には

全くもって血など滲んでいない。

なのに。


湊「花奏ちゃん、しっかり!ねぇ…!」


花奏「痛い…ぃたっ…」


湊「どこが痛いのっ!?」


花奏「ぁ…いだい、いだ、いっ…。」


どこが、と問われているのは

耳に届いているのに

あの日々の叫喚だけが木霊して

湊の言葉の意味が理解できなかった。

痛い、痛いと繰り返しながら

血に塗れているはずの脇腹を

必死に抑えることしかできなくて。


痛い。

いた、い。

助けてほしい。

助けて。

ほろ、ほろ。

床に水滴がいくつか降った。

私はまだ雨漏りだとしか考えたくなくて

視界が歪んでいる事実から

また目を逸らした。


湊「辛かったら横になって!すぐ保健室の先生呼んでくるから待ってて!」


花奏「ゃだ…いづっ…や………いが、な…いでっ…」


湊「すぐ戻るから。」


湊は私の肩に手を置いて吠えるように強かに、

でもきっと優しくそう伝えた後、

ドアを豪快に開き足音だけを残して

どこかへ走り去ってしまった。


微かながらに湊のにおいが

走り去っていくような感覚がした。

ポケットからだろうか。

甘く苦そうなチョコの香りか

つんと鼻をつついていたっけ。


花奏「…い、かない…で………ぁ…歩っ…。」


気づけば彼女の名前を呼んでいた。

ついさっきこの部屋から出ていったのは

間違いなく高田湊だと分かっている。

分かっているにも関わらず

私はどうしようもなく歩を探していた。


花奏「…歩ぅ、っ……た…すけ、て………っ…。」


助けて。

そう言いたいのは

どう考えたって歩の方なのに。

誰もいないこんな部屋で、

こんな時に限って本当に言いたい言葉が

ぽろっと溢れるんだ。

どうしようもない程救えない。

自分も歩も何もかも。

助けてなんて言える権利ないだろう。

なのに救ってほしい。

私を11月11日と12日の狭間から

明日へ引っ張り出して欲しい。

誰かこの手を引いて欲しい。

でも。

でも、この事に巻き込まれないでいて欲しい。

こうなるのは私だけでいいから。

だから。


だから、なんだ。

望みすぎだ。


花奏「…ぃだい、いた、いぃっ…。」


助けの求め方を知らない私は

ただ湊が戻ってくるまで

脇腹を抑えて蹲るしかなかった。

秋の香る、埃っぽい部屋だった。











11月12日



昨日は結局保健室で

残りの時間を過ごした。

脇腹の痛みは時間を経ると

嘘だったかのように引いていった。


お弁当なんてとっくの前に

喉を通ることなんて忘れていて、

食べる気力なんてとうの昔に失せていた。

しかし、昼まで保健室にいたら

昼食は食べろと言われるだろうと思って

早退することを選んだ。


荷物をとりに教室に戻った時

湊のあの真剣かつ心配を含む眼差しが

私の事を見送っていて、

逃げるように背を向けた。

湊の事が怖かった。

見透かされているようで怖くなった。

こんな態度をとった私に対して彼女は

「お大事に」と切なげに口にしていたっけ。

昼に学校を出ることは初めてで、

晴れだか曇りだか見分けのつかない

空だったことは記憶に新しい。


なのに、最寄駅から家までの

ほんの短い距離で雨が降った。

細い細い雨だった。


何も、変わらなかった。

何も変わらない日になった。











11月11日



…。

………。


「ーーー。」

「ーーー。」


……。

……ひゅ。


「ーーー。」

「ーーー。」


………ひゅう…。

……ひゅ、かひゅ…っ。


「ーーー。」

「ーーー。」


…………はっ…。


湊「…花奏ちゃん……?」


花奏「………はっ…はっひゅぅ…っ!?…かっ…はっ、はっはっ…!」


…あれ。

なんで。

もう、風邪でも引いたのか。

まだのはず。

毎回、ふらふら。

今日は一段と酷いな。

そうだと思う。

視界がぼやける。

音が遠い。

近くにあった音が、

遠く遠くからぼやぼやと聞こえる。

なんで。

く、るしい。

苦しい。

ずっと、苦しい。

頭がきんきんと冷えてくる。

手が冷たい。

寒い。

苦しい、苦しい苦しい苦しい。


湊「花奏ちゃん…!?」


足に力が入らない。

ちゃんと椅子に座っているのかもわからない。

周りにいるはずの人達が見えない。

先生も黒板の文字も何もかも。

持ってたはずのシャーペンだって

どこかへいってしまった。

感覚がない。

感覚がない。

それがなんとも心地いいような気が

してしまったのはなんでだろうか。


湊「花奏ちゃん、花奏ちゃん!」


「だ、大丈夫!?」


「先生!小津町さんがー」


湊の声は辛うじて判断できるものの、

他の周りの人間の声は届かなかった。

だって1番近くの大切な人の声でさえ

届かないことが続いたんだから。

過去の周期に思いを馳せても

待ってる結末は変わらないというのに。

痛い。

苦しい。

助けて。

そんな簡単な言葉しか出てこない。

前はもっとまともに考えて行動して

しっかり歩を助けようと

努力していたはずなんだけどな。

いつからこうなっちゃったんだろう。


花奏「はっ……ひゅぅっ…ひぅ…かひゅっはっ、はっ…!」


訳の分からない音しか口から出なかった。

近く、近くから自分の

これでもかと思うほど気持ちの悪い

呼吸の音が鳴り響く。

頭の中で延々と繰り返されている。

外はどんな景色だっただろうか。

この2時間目の授業の初めの方は

どんな内容だったっけ。

額には脂汗が滲み、

不幸に蝕まれた健康な体は

11月とは思えないほどの熱気に包まれていた。

遠く、遠くから。

とっても遠くから、必死な音がした。


湊「花奏ちゃん、ゆっくり息を吐いて!」


そう、聞こえた。

幸か不幸か湊の声しか分からない。

毎回、2時間目が終わって休み時間に入ると

1番最初に聞く彼女の声。

周りが確認できない。

確認できないけれど、

確と彼女の声は届いていた。

最近の周期では暫く

彼女の事を蔑ろにしていたというのに、

たった今も助けてくれていた。


湊に問い詰められるように

2人で話したあの周期以来、

私は彼女と距離を置いていた。

話しかけられても下手に笑って流したり、

そもそも無視していたりと

いろいろな方法で彼女を傷つけた。

その度に向けられる鋭い眼光は

最早恐怖で体が震えるんじゃないかと

思うほど棘を帯びているように見えた。

それこそ私は問い詰められなければ

話をしないという性格を

見抜かれていたのであれば

最も妥当な行動だったんだ。

ただ、タイミングが悪かった。

私がこんな事に巻き込まれていなければ

観念して素直に助けを求められていただろう。

…いや。

歩が死ぬなんてことさえなければ

そもそも私はこんな気持ちになる今日は

こなかったんだ。


花奏「……はっ…ひゅぅ……ふぅ、はっ…ふ…」


湊「…うん…ゆっくりでいいからね…ゆっくり…。」


背中に手が添えられて、

とん、とんと一定のリズムで撫でられる。

その感覚はどうにもあるようで、

自然とこれに倣っていればいいのだと

判断していた。

湊は後ろの席だったよね。

授業中席を立ってまで

こっちにこなくていいんだよ。

もう私の事は放っておいていいんだよ。

と、どれだけ心の中で思ったとしても

口から出るのは浅く激しい呼吸だけだった。


あの日の強い言い方さえも

湊なりの優しさだってことは

分かっているにつもりだった。

つもりなだけ。


目の前が、ちょっとずつ現実に戻ってくる。

床が見えてくる。

耳が音を拾い出す。


花奏「……はっ…ひゅぅ……ふぅ、はっ…ふ……ぅー…ひゅう、はっ…ふぅ……っ!」


湊「そうそう、その調子。」


花奏「かひゅ…ふぅ……はっ、はっ……ふぅ…ふ…はっ…」


湊「はいて、はいて、ちょっと吸う…そうそう、うちの手の動きに合わせてね…。」


花奏「かひゅぅ……ふぅ、はっ……ふぅ…ふ…はっ…」


浅い浅い呼吸の中、

最近は何していたのかを思い出そうとしても

これといって思い出せない事に気がついた。

最初の周期だったり

途中記憶に色濃く残った、

…言い換えればトラウマとも言えるような、

そのような光景なら覚えている。

美月が棺に縋り付いて泣いているところだとか、

歩が車に撥ねられるのを

初めて見た時のことだとか、

図書館で愉快犯に初めて襲われた時だとか。

あとは滅多刺しにされたことも

記憶には根深く残っている。


けれど、最近はほぼ抜け落ちている気がした。

助けられない。

その事実だけは残っている。


先生「今保健室の先生呼んだからすぐ来てくれるはずです。」


湊「…ありがとうございます。花奏ちゃん、もう少し待てる?」


花奏「………ふぅ…はっ………ふぅ………っ…。」


私は、無力だ。

無力だ。

無力だ。


このまま息が止まればいいのに。

そう望んだのはいつだったか。

不意に思ってしまったのはいつからだったか。

今より少しだけ前向きに

生きていけたらいいのに。

生きていけたらいいのに?


そういえば

未だに化学の難問は解けてないままだったな。


湊「…だいぶ落ち着いた……?」


花奏「ひゅう……ふぅ………ぅ…うぅ…っ。」


湊「もう少しで保健室の先生、来るからね。」


未だに背中をさすってくれている彼女の手は

暖かかったんだろうと思う。

制服越しだから伝うに伝わなかった。

湊の声は寄り添うように優しくて

諦めたように落ち着いていた。

彼女なら将来看護師や介護士だって

似合うだろうな。


昼の広がる空は

いつも私の事を見下して嘲り笑っていた。


それから保健室の先生が来たのは

ほんの数分後のことだった。





***





また保健室に来ていた。

けれど、前とは来た時間帯が微妙に違うからか

前使ったベッドとは反対側の場所。

何度保健室にこれば気が済むのだろう。

何度病院に入れば気が済むんだろう。


入院してしまうと無駄に

時間がかかると学んで以降も

時々病院へ入る事があった。

死ぬと覚悟する程刺された時は

流石に自分の足で例の機械が

あるところまで歩けなかった。

あの時の傷跡、生々しい肉の色。

結構記憶に残っている。

脇腹はもちろんの事、手の甲、太もも、鳩尾。

…じり。

また脇腹が傷んでしまう。

歩が愉快犯に殺される前

少しでも庇う動きをすれば

必ず脇腹を第一に刺された。

必ず。


花奏「…。」


脇腹の痛みがあるのは

日常の一環と化してしまったが

これは一体何なのだろうか。

まだ刺されたわけでもないのに

刺された時と同等くらいの痛みが

襲ってくる時がある。

タイミングは様々で、

ランダムだと思っているけれど

実際どうだか真偽は定かではない。


このベッドは直前に誰かが使っていたのか、

それとも保健室独自の匂いなのか、

鼻の奥に残るような

特徴的で滲む匂いが香った。


周り一面白である絶望的な状況に身を任せ、

久しぶりにゆっくり寝てしまおうかなんて

邪念がよぎった時だった。

ひそひそと話し声がしたかと思えば

豪快な足音が近づいてくる。


「…小津町?」


しゃらら、という音と共に

ひとつの白が畳まれた。

空気が速やかに新しいものと

入れ替わっていくのが分かった。

瞬時に見えた黒髪に整った顔。

…どうしてきたのかな。


花奏「…………歩…。」


ポーカーフェイスなのか分からないが

相変わらず何を考えているのか

分からない顔をしていた。

眉を顰める彼女は嫌がっているようにも

不安がっているようにも取れる。

いつものあの面倒くさがっている雰囲気とは

違うんだろうなというのは見てとれた。

ただ、そこまでだった。


歩「…体調どう?」


花奏「……。」


どう。

体調、どうなんだろう。

大丈夫と言ったところで

嘘だとすぐばれるんじゃないか。

別にいいよね?

嘘だからなんだ。

散々嘘なんてついてきたでしょ?

なのに今更。


…違う。

嘘云々以前に

自分自身の体調が分からない。

良いのか悪いのか分からない。

分からなくなってたんだ。


今はまだ熱は出ていないんだよね?

だって雨に当たるのはこの後だから。

この後だっけ。

あれ?

もう雨に罵られてきたんだっけ。

制服干した?

…いや、前の周期では干してない。

暫く制服なんて干してないんじゃないか?

最後に干したのいつだっけ。

鞄から中身出した?

いいや、もう長いこと鞄の中身は

入れ替えていない。

卒業して通学鞄なんて

もう使わないものに成り果てたのではと

思えるほど変わっていない。

お弁当食べた?

ずっとずっと食べてない。

腐っていないいつも同じお弁当を

最後に眺めたのはいつだろう。

そもそもご飯食べた?

…。

入院していれば食べるしかないけれど、

病院を経ず機械まで辿り着けた時は

何も口に入れていなかった。

長いことそんな生活をしている。

父さんとお寿司食べたのっていつだっけ。

そもそもお寿司だったっけ。

父さんとも長い間顔を合わせてないな。

もうそろそろ会いたいとさえ

思ってしまうほどに。


…結局なんだっけ。

何を聞かれてたんだっけ。

体調、だったっけ。


返答に困っているところ、

どたどたと足音がしたと思ったら

こちらに音が近づいてきた。

結んでいた自分の髪の毛は

随分と自由に布団に舞っていて

視界の隅に映り込んでいた。

今、晴れていると良いな。

今日と明日の天気なんて分かりきっている癖に

そんな事を願ってしまっていた。

不意に見えた癖っ毛、

そして耳を劈くような通る声。


愛咲「花奏!大丈夫かよ!」


花奏「……う、ん。……まぁ…。」


愛咲「多分花奏のクラスの子がな、「花奏が過呼吸になって」って教えてくれたんだよぅ。」


私のクラスの子。

間違いなく湊だろう。

2人に伝えたのは彼女なのだと

勝手に決めつけている自分がいた。


とんとん、と愛咲に腕を軽く叩かれる。

私が横になっていたからだろう、

みんなが覗き込むような形で

顔を合わせるものだから

気持ち悪くなって私は顔を背けた。

シーツが顔を歪めている。

私が寝返りを打ったせいか。


花奏「…………そ…っか。」


歩「…。」


愛咲「花奏、何か悩み事とかあれば直ぐに言ってくれよな。愛咲さんが力になれることは少ないかもしんねーけど、いつでも花奏の味方だからな!」


過呼吸ひとつにどこまでの心配を

重ねているのかわからなかった。

やはり過呼吸ともなれば

ストレスからくるものなのだと

思われたのだろう。


歩「きつかったら学校早退しなね。」


花奏「…。」


歩「大丈夫、小津町なら。」


とん、と軽く肩を撫でるように

手を這わせた彼女。

それと同時に僅かながら

黒い髪が静かに揺れた気がした。

愛咲とは全く違った

慈愛に満ちたような手つきで。


その言葉は見放しているのではなくて、

私を信じているからこその言葉だった。

湊から何を聞いたのかは知らないが、

いつもの2人と違うことは

何となく肌で分かる。

妙に心配しすぎている気がしたのだ。

元からこうだったのかもしれないし

違ったのかもしれない。

分からない。

何か分かったことなんてあっただろうか。

何も分からない、で許されればいいのに。

なのに、この日々は

分からないなんて甘えた言葉で

終わってくれるわけがなかった。


歩「小津町。」


花奏「……。」


歩「…ごめん、何もない。」


愛咲「じゃあうちらそろそろ教室戻るわ。ゆっくり寝るんだぞ!」


歩「……お大事に。」


花奏「…。」


愛咲「じゃーな!」


愛咲さんの快活さな声は

保健室中に響き渡り、

私の耳にまでも確と届いていた。

背中を向けたままだったので

出ていく様子も2人の顔も見ていないけれど、

足音が遠ざかっていくのは分かった。

…。

再び静寂が訪れる。

静寂とは言えど、

誰かの呼吸の音が密かに聞こえた。

保健室の先生か他の利用者だろう。


花奏「………謝ることないのに。」


呟きをひとつ、柔らかなベッドに吸わせる。

謝るのは私の方だ。

なのに、なんで。

明らかに何かを言いかけてたが

何だったんだろう。

…もう、聞くことはできないだろうな。

私はその選択肢を捨てたんだ。

捨ててしまったんだ。

無意識ながらに、知らぬ間に。


ずき、と脇腹が痛むから

膝を抱え込み布団を上まで被った。

知らない人の匂いでいっぱいの肺は

居心地が悪そうに

浅く呼吸をするので精一杯だった。











11月12日



何も変わらなかった。

変わるわけがなかった。











11月11日



花奏「……。」


授業は先ほど終わり、

もうすぐ湊から声がかかる頃。


過呼吸を起こして次の周期。

今思えば何故あんな事態になったのか

見当もつかないというのが本音だった。

ただ、最近の周期を振り返れば

11日での脇腹の痛みや

肺だか心臓だかが痛む事が

増えつつあるような気がする。

何もしていなくても痛む事が増えた。


そして相変わらず歩は死んだ。

殺人鬼か車が原因で死ぬ。

殺人鬼によって死ぬ時美月も変わらず死んだ。

美月をどれだけ交差点から引き離そうとしても

どうしても外せない用事を頼まれているのか、

絶対あの交差点を通るようだった。

そして梨菜は不定期に私の家へ立ち寄った。

Twitterで私の不調が呟かれた時には

忘れる事なくゼリーやプリンを持ってきた。

梨菜は私の家の近辺で

一体何をしているのだろう。

最初の周期からの謎だ。

そして、確か…だけど、

最初の方の周期で梨菜が私の家に上がった時、

ふと消えてなかったっけ。

美月からの電話で起きて、

慌てて家を出たんだけど

鍵ってどうしてたんだっけ…ってなって。

結局開いてたんだっけ

しまってたんだっけ。

周期を経る度にいつの記憶だったのか忘れ

元がわからなくなるまで混ざってゆく。


花奏「…はぁ。」


久しくため息をついた。

身体の力が抜けるのを感じたけれど、

何もすっきりとはしなかった。


湊「花奏ちゃん寝てたね、珍しい。」


花奏「…珍しいんか。」


湊「うん。ついでにため息なんてもっと珍しいかな。」


花奏「私のイメージどうなってるんや。」


湊「うーん…さあ?」


花奏「さあ、か。」


湊「そんなに失望しないでくれよーん。」


花奏「ごめん、ちょっと考え事しててん。」


湊「ありゃー、でーじょーぶそ?」


花奏「うん。小さい事やから平気。」


湊「そかそかー。困ったらいつでも頼ってちょ。」


花奏「そうするわ。ありがとうな。」


適当に目元を細めて

笑ってるふうに見せるも

湊には通用してなさそうな気がした。

前周期の優しい湊と

もっと前の周期の責められる恐怖を味わった

あの湊を見てきたから、

彼女自身のことが分からなくなっていた。

恐怖を覚えていたけれど、

前周期のあの暖かな手つきが

どうにも忘れられなくて

憎むに憎めなくなっている。

お母さんのことを思い出していた。

もう癌で随分と昔に亡くなってしまった

お母さんのことが浮かんでいた。


私がインフルエンザだか何かで寝込んだ時、

背中か肩を一定のリズムで

とんとんと優しく打ってくれた。

あの目、あの声、あの匂い。

大切な記憶なのに

段々と薄れていることに気づき、

背筋が震えるほどの寒気を感じた。

怖かった、のかな。


湊「チョコいるー?」


花奏「ううん、いらへん。」


湊「まあそう言わず」


花奏「いらんよ。」


がららと音を立てて席を立ち、

そのまま湊を置いて

またいつもの屋上手前へー

…。

…いや。


花奏「…向こうの教室にしよう。」


校舎隅のあの西日がきつく当たる教室。

あそこにしよう。

湊は最後なんて言ってたのか

全く聞いていなかったせいで

何も届かなかった。

もう私の心には届かなかった。





***





かちり。

真っ暗な視界に手向けられた音に

気がついた時には、既に風化してぼろぼろに

なっていた扉が半ば開いていた。

薄目を開くといつもとは違う視点の低さ、

そして違った風景、煙った床。

私、どこで何してたんだっけ。

あれ。

もう12日だっけ?

今何日だっけ。


「…!?」


ぼんやり今日のことを思い出していると、

ふと息を呑む音が上から聞こえた。

ああ。

私、床で寝てたのか。

目をゆっくりと開きつつ

そんな今更な事実に気づいていた。

制服に汚れがついてしまっただろうな。

でもそんなの今更か。

だって歩が死んだ時は

もっとずっと汚してたもの。

あれは私服だったっけ。

制服ではなかった気がするけれど。


「…誰……。」


花奏「…麗香やろ?」


麗香「……花奏けぇ?」


花奏「うん。」


顔を上げずに、机や椅子の足越しに見える

紙の束に向かって声を投げた。

きいいと錆びついた音を立てたと思えば、

静かにことりと鳴る。

多分扉を閉めたんだろうなとは思う。

彼女はどんな顔をしているんだろう。

前2人でここで会った時の

夜を楽しむ猫のような顔は

していないだろうな。


麗香「花奏もここのこと知ってたけぇ?」


花奏「…まぁな。」


麗香「へぇ。生徒会以外知らないと思ってたけぇ。」


花奏「…。」


麗香「せっかくあてだけの秘密基地みたいな感じになってたのに。ちょっと残念けぇ。」


にしし、と微かながら

諦めたような笑い声が届いた。

麗香から教えてもらった場所だというのに、

本人はいつだかの周期とは打って変わって

少しばかり嫌そうにしている気がする。

せっかくなら自分から

この場所を紹介したかったのだろうか。


こつ、こつと軽い足音がする。

まるで猫のよう。


麗香「んで、そこで何してるけぇ。」


机らの足越しに

彼女がしゃがんで目を合わせてくる。

私の真前に来てそうしないあたり

私を全体的に観察しようと

しているような気がして

なんだか気持ち悪く感じた。


見せ物じゃない。

私の苦しみは見せ物じゃない。

麗香自身そんな意図はないとは

分かっていても尚曲がって私の頭に届いていた。


花奏「なん…。」


麗香「寝てたけぇ?」


花奏「…そうやけど。」


麗香「授業は?」


花奏「さぼった。」


麗香「花奏が?珍しいけぇ。」


花奏「私のことなんやと思ってるん。」


麗香「馬鹿ほど真面目で完璧に見せたがる人間。」


花奏「…聞いてりゃいいとこ無いな。」


麗香「そこまでは言ってないけぇ。ものは捉えよう、短所だって長所けぇ。」


花奏「…。」


麗香「加えるなら愛想がある、かな。」


はぁ、とひとつため息を

床に転がした彼女はすっと立ち上がり、

私の視界からは消えてしまった。

そしてがらがらと椅子をひき、

そこに腰掛けたようだった。

華奢な足と椅子の足が見える。

私は相変わらず髪を胸元に纏め、

蹲るように小さくなって寝転がったまま。


麗香「ほんと、何があったけぇ。」


花奏「何も無い。」


麗香「それが嘘だってことくらいは誰だって分かるけぇ。」


花奏「だから何。」


麗香「相談ならいつでも聞くけぇ。にぃ?」


花奏「相談することなんて何もない。」


麗香「にしし。あーあ、酷い言われようけぇ。」


花奏「…。」


麗香はけたけたと楽しげに笑った。

何が楽しいのだろう。

それともこの場が暗くならないよう

あくまで楽観的に捉えているだけなのだろうか。

私はもう彼女の事を

信用できていないのかもしれない。

そもそも信用していなかったのかもしれない。

信用するってどうやってすればいいんだろう。

何を信用すればいいんだろう。

私は歩を助けたい。

なら、私は今何をしているの。


花奏「…今何時。」


麗香「そこに時計があるけぇ。にぃ?」


花奏「…。」


動きたく無い。

けれど、時間を確認するにはそれしかなかった。

少しだけ上体を起こせば

きっと窓の淵に置かれた

小さな時計は見えるはず。

そう思って手に力を入れようとした時だった。


花奏「…。」


動けなかった。

体が思うように動いてくれない。

硬直してしまったみたいに、

何ひとつ身動きが取れなかった。

紐で雁字搦めにされている訳でも

ボンドなどの粘着物で

固定されている訳でも無いのに。


…ただ、麗香がここにくるということは

きっと帰りのホームルームが近いということ。

今までの今日と明日の積み重ねから

答えを導き出すしかなかった。


花奏「……3時ぐらいか。」


麗香「合ってるけど…時計見てないのによく分かったけぇ。にぃ?」


花奏「…。」


麗香「ま、そこは全く重要じゃ無いけど。」


動かせない体のまま、

麗香が脚を組むのが見えた。

机に肘をついているのだろうか。

歩みたいなポーズをとっているのかな。


麗香「本当に相談は出来ないけぇ?」


花奏「…出来ひん。」


麗香「じゃあ、手伝えることはあるけぇ?」


花奏「…相談と何が違うん。」


麗香「全然違うけぇ。それこそご飯買ってこいって言うなら買ってくるけぇ。にぃ?」


花奏「…いらへん。」


麗香「例えばの話けぇ。」


花奏「…。」


麗香「あてに出来ること、あるけぇ?」


花奏「…。」


出来ること。

歩や美月を助けるのに出来ること。

明日、車と殺人鬼から

逃れることが出来ればいい。

殺人鬼は事前に逮捕するくらいしか

出来ないんじゃないだろうか。

そう考えて警察に電話をした周期があったが

想定通りまともに取り合ってくれなかった。

その時私がなんて言って電話したのか

全くもって覚えていはいけれど、

どこにいるのかが明確でないと

捕まえようがないと言われたんだったっけ。

それから、車に関しては

最近は美月を轢くことが多くなっている。

それ即ち歩は殺人鬼に殺されることが

多くなっているという事だった。

美月をあの場所から

引き離す事が必要なのだろうか。

なら明日それを…。


花奏「…。」


違う。

違った。

全ての元凶は雨だ。

そうだ。

雨が降るから1番最初の

あるべき周期から

大きくずれてしまっているんだ。

あるべき周期は私が風邪なんてひかず

美月とショッピングへ行き、

そして帰るというもの。

そのはずだ。


もしも。

もし、私が風邪をひかずに買い物へ行けて、

そしてそれが少し早めに終われば。

…そしたら、私は歩に明日、

誕生日プレゼントを贈ることが

出来るのだろうか。

ずっと繰り返してきた今日と明日。

1度も祝えていなかった彼女の誕生日。

どこかのタイミングで

おめでとうとは言った覚えがあるが、

ちゃんと祝えたかと問われると

そうとは言えなかった。

今回ならできるんじゃ無いか。

もしかしたら出来るんじゃ。

そんな淡く脆い期待に思いを馳せた。


花奏「…夜……。」


麗香「んー?」


花奏「夜、学校でひと晩過ごしたい。」


麗香「本気けぇ?」


花奏「うん。」


麗香「…だいたい予想はつくけど…何をしてほしいんだけぇ?」


花奏「ひと晩過ごせる場所を提供して欲しい。」


麗香「…ほんと、何考えてるんだか分からないけぇ。」


はぁ、とまたため息が

壁やら床やらに反射した。

古臭い本屋のような匂いのするこの部屋は

ため息なんてものをあっという間に吸い込み

より一層重たい空気が

場を支配していくように見えた。

ひとたまりもないほどの大きな不吉が

押し寄せてくるような感覚が身を迸り、

胸元に散る髪の束を汗の滲む手で

強く強く握った。

強く握ったところで髪は

軋む音を響かせるだけだったけれど。


麗香「ここじゃだめけぇ?」


花奏「鍵のかかるところがいい。」


麗香「へぇ。だからここはダメと。」


花奏「夜中、警備員が回ってくる。」


麗香「この部屋までけぇ?」


花奏「知らない。」


麗香「じゃあ大丈夫けぇ。こんな隅の薄汚いところにまで来ないけぇ。」


ふわふわと揺れる足が見えるも

近いのか遠いのか判断が鈍る。

楽しんでいるみたいに揺れている。

将又、赤子を眠らせる揺籠のように。


麗香は言葉を選ぶ事なく

ただ楽しんで遠回しに

問い詰めているような感じがした。

直感にしかすぎないけれど、

今の私ではそう感じる他なかった。


前々から麗香の考えることは理解に苦しんだ。

宝探しも面白くなさそうといいつつも

好奇心に突き動かされて行くと言い、

私を嫌ってたかと思えば

夏が秋頃だったかいつの間にか懐いていて、

私のお見舞いに来た時には

麗香らしからぬまじめな顔をした。

まるで人間のよう。

人間、か。

そうだ。

人間だ。

人間だった。

どこか麗香は同じ人間ではないと思ってた。


本当に麗香の言動は理解し難かったか?

普通の人と同じで理解できたんじゃないか。

理解しようとしてなかっただけじゃないか?


花奏「…鍵のかかる教室がいい。」


麗香「ふぅん、そうけぇ。」


かたん、と椅子を鳴らしたかと思えば

彼女の足はどうやら出口へと向かっていた。

もうすぐ帰りのホームルームが

始まる頃なのだろう。

やっぱり相談するだけ無駄だったのか。

答えもださず彼女は私の元を去るんだ。

そう思うと人なんて信用できない、

信用するだけ無駄だと

あの雨のように降ってくる。

いつからこんな考え方に

なってしまったんだろう。

何がきっかけだったんだろう。

なんで。

こうなりたかった訳じゃないのに。


麗香「また後で。」


花奏「………え…?」


麗香「ホームルーム終わったらまた来るけぇ。それまでに鍵のかかる場所を考えとくから、ここから動かず待ってるけぇ。にぃ?」


私は帰りのホームルームには

出席しないと踏んだんだろう。

優しい口調、鋭い目つきで

ここで待ってろと告げた後、

スキップをするように足軽に

埃を蹴飛ばして出ていった。

その姿を見て余韻などなく、

ただ目を瞑るだけだった。


今回はどうするのか?

まずは雨を凌ぐ。

それから、学校から直接

美月の元まで向かおうか。

歩のプレゼントを買って、

そのまま彼女に渡そう。

漸く歩の誕生日を祝うことができるんだ。

半永久的に届かない15日。

届かないのなら、今祝って仕舞えばいい。

漸く。

漸くだ。

喜んでくれるといいな。


私は自分のいる状況のおかしさになんて

とっくのとうに気づいていた。

それと同時に、自分の異変には

これっぽっちも気づけなかった。

脇腹の痛みや今起き上がれないのだって

いつかは治るものだと思っていた。





***





麗香「…お待たせしたけぇ。…って、本当に全く動いてないけぇ。」


からりからりと空気を鳴らす鞄。

荷物も諸々持ってきて

再度この部屋に立ち寄ったようだった。


麗香「さて、さっきの頼み事だけど。」


重い音を豪快に鳴らし、机と鞄が擦れゆく。

机の上へ雑に投げたようだった。

参考書や教科書が入っているであろう鞄は

衝撃に耐えられず凹んでいるだろう。


麗香「良さげな場所があるけぇ。」


花奏「……どこ。」


麗香「生徒会室けぇ。」


花奏「…生徒会室……。」


麗香「そうけぇ。あてが役員だから鍵の貸し借りは出来る、ちゃんと鍵はかかる。それに学校の中でも端の方にある。どうけぇ、いいとこけぇ。にぃ?」


花奏「何階なん。」


麗香「それも1階。隅の窓だけ開けて翌日出ることも可能。隅の方には使わない用品や段ボールが詰まってるから、翌日閉めとけば問題ないけぇ。」


花奏「……。」


……。

麗香が意気揚々と語るのを

瞳を閉じて聞いていたが、立地としては

素晴らしくいいのはよく伝わった。

そこであればきっと問題はないだろう。

ただ、鍵を開けられなければの話。

そこの前提を崩してしまったら

元も子もないのだろうけれど、

重要な点だと思う。

…そのはず。

頭はとうに回っていなかった。


花奏「……鍵がもし開けられたら?」


麗香「ああ、警備員が、けぇ?」


花奏「そう。」


麗香「端に段ボールが積まれてるから、女子高生2人くらい隠れられは出来ると思うけぇ。」


花奏「…そっか。」


麗香「どうけぇ。」


花奏「なんでそんな乗り気なん。」


麗香「…今はあてが聞いてたのに。ま、いいけど。」


再度がらがらと音を鳴らし、

勢いよく腰を下ろす彼女。

きい、と椅子が音をあげるも

勿論壊れることなどない。


麗香「だって夜の学校けぇ。わくわくするに決まってるけぇ。にぃ?」


花奏「……。」


麗香「さ、ここで少し時間を潰したら生徒会室に行くけぇ。」


花奏「鍵はどうするん。」


麗香「ん?主語が足りなくてわからないけぇ。」


花奏「…私たちが生徒会室に入って…でも鍵は返さないかんやろ?」


麗香「鍵の返却なら助っ人を呼んであるけぇ。ま、助っ人とはいえどあんまり頼りにならないけど。」


にしし。

麗香はいつの間にか私の前でも

笑顔を見せるようになっていた。

今じゃ机の裏側のせいで

彼女の顔は一切見えなかったが。

机の裏には剥がされさせた

商品説明のテープの跡があった。


こつ。

こつ、と。

彼女がテーブルを爪で突くような

細く拙い音がする。

一定のリズムで鳴るものほど

不快な音はないなと思った。





***





陽が傾き始め、いつの間にか西陽が姿を消し

仄暗さがこの部屋を支配し始めた時だった。

何時なのかは判断がつかないまま。


麗香「さ、そろそろ行くけぇ。」


花奏「…。」


さっきまでひとつとして会話はなかった中、

突如耳を埋める麗香の声。

眠る手前だった私は気怠げに瞼をこじ開けた。


麗香「ほら、起きるけぇ。」


花奏「……。」


麗香「寝てるけぇ?」


花奏「…起きてる。」


麗香「なら起きて」


花奏「…ごめん…手……貸して。」


何故だか震えてしまった声。

未だに体は思うように動いてくれず、

指1本すら思い通りに出来ない。

それこそ金縛りにでも

遭ってしまったかのような。


私の言葉を聞き、渋々と言ったところだろうか。

椅子から腰を上げて

かつかつと微かな靴音をお土産に

私の前まで来てくれた。


麗香「…体調でも悪いけぇ?」


花奏「……ううん。」


麗香「手を貸すだけじゃ起きれないけぇ。肩までぐっと手、伸ばすけぇ。」


自然と左側を上に寝転がっていた私の手を

王子様のように優しく取り、

左手を力強く引き肩にかけられた。

滲むような痛みがある気がしたけれど、

そんなのは気のせい。

気のせいでしかない。

だから、痛みを無視して彼女に体重を預けた。

久々に動いた体は鉛のように重く、

外の空気のように新鮮だった。


麗香「まず座るとこまで行くけぇ。いっせーのーせっ。」


掛け声と共に上体が引き上げられ、

私も手伝おうと頑張って腰の位置を変える。

麗香の手伝いもあり、

所謂お姉さん座りまで行けたところ、

そのまま立つ動作まで助けてもらい

何とか床から剥がれることに成功した。

まるで床の一部になってしまったかのような

錯覚さえ覚えていたのに、

今ではこんなに視点が高い。

私、人間だったんだって

改めて感じてしまう。


麗香「流石に何センチも身長の高い人を起こすのはきついけぇ。」


花奏「…ありがとうな。」


適当にぐー、ぱー、と繰り返すと、

錆びた自転車を漕ぐように

ぎこちなくだが動いていた。

続けると段々と滑らかな動きになっていき、

暫くして漸く人の手のようになった。

さっきまでは人間じゃなかったな。


麗香「鞄は?」


花奏「えっと…家…やなくて…教室に置きっぱ。」


麗香「じゃあ一緒に取りに行くけぇ。」


花奏「階段降りてからちょっと歩くし、階段のところで待っててや。」


麗香「んーん。1人には出来ないけぇ。」


花奏「…なんでなん。」


麗香「なんでってよく言えたもんだけぇ。今の自分の状態くらい客観視出来てから言って欲しいけぇ。」


にぃ?と、分かったか問うように、

また、釘を刺すように

彼女は私の目をじっと眺めた。

受け取り方を変えれば

睨んでいるとも取れるほど鋭い目つきだった。

否、実際に睨んでいたのではないか。

真偽は定かにならぬまま、

彼女は重たげな荷物を肩にかけ

垢と埃まみれの見窄らしい部屋を後にした。


廊下へ出て、階段を降り、私の教室へ行く。

いつだかの時に湊と歩いた道を

逆走するような形だった。

あの周期、湊とはどんな話をしたんだったか。

数周期だけ前の話のはずなのに

すっかり別の周期と混ざってしまって

記憶のフックにうまく引っかからない。

闇鍋からお目当ての具材のみ

引き上げようとしているようなものだ。

思い出せるのはいつだって

「寝てたね」から始まる日々と、

甘ったるくておかしくなりそうな

チョコの匂いだけ。


麗香「…結構雨降ってるけぇ。」


外を見ながら歩く彼女は

いつだかの歩を彷彿とさせた。

確かだけど、窓に向かって

でこぴんをしていたんだっけ。

傘をわけっこして帰って。

…あの温もりが忘れられなかった。

忘れたことや分からないことが

信じられない速度で増えてゆく中、

時々こうして思い出せるものがあった。

それらはどうしても

2度と手に入れられないものだった。

既に記憶の中だけのもの。

もう存在しない事実。


今はふらふらと楽しげな足取りで

隣を歩く麗香の姿があるだけ。

ラベンダーのような香りが

マスクを越して届いたが、

本当にその香りであってるのだろうか

疑問でならなかった。

マスクを間に挟んでいるせいで

匂いは捻じ曲げられているのではなかろうか。

…なんてどうでもいいか。


揺れる彼女の髪の毛を横目に

目標だった教室へ辿り着く。

私の鞄だけがぽつりと

床に転がっているのが

遠くから分かった。


花奏「…少し待ってて。」


麗香「はーい。」


麗香は流すように返事をすると

私を観察するように廊下の壁に凭れた。

最早監視されているような

圧迫感があったが、今は後。

そそくさと荷物をまとめ、

鞄を手にしたところで時計に目をやる。

5時半が近かった。

あれ。

なら、そろそろ定時制の子が

来る頃だろうか。

あの教室、どこだっけ。

適当に入ったんだっけ。

相当昔のことだから

そりゃあ覚えてないに決まってるか。


そこまで思考は巡ったのち麗香の元へ行くと、

安心したように目を細めて

私を迎え入れてくれた。

かつて口数の少なかった彼女は

よく目線や目つきのみで

情報を与えていたっけ。

不意に過去が過ぎったところで、

彼女は先導するように前に立ち

猫のように歩いてゆく。


麗香「こっちけぇ。職員室に行って鍵を借りてから向かうけぇ。」


花奏「…今日、仕事なかったん?」


麗香「今日はあての仕事はなかったから行ってないけぇ。それに、合唱祭や修学旅行諸々が終わってるしひと段落してるっぽいけぇ。」


花奏「…この先の行事って何かあったっけ。」


麗香「それこそ卒業式くらいしかないんじゃないけぇ?にぃ?」


花奏「…そっか。」


麗香「今年は行事ができてよかったけぇ。去年は夏やら冬やらにコロナが流行って、いろいろ縮小して行われたから。」


花奏「…。」


麗香「花奏ー。」


花奏「ん?」


麗香「…んーん、話聞いてるのかなって思って呼んだだけけぇ。」


花奏「…そう。」


麗香はそこまで話すと

諦めたように話題を振るのを辞め、

只管に歩くのみとなってしまった。

次の行事は卒業式、か。

そこまで辿り着ける日は来るのだろうか。

来たとしても隣に彼女はいるのだろうか。

気がかりだった。

未来は不安しかなく、

光なんて一筋も見えなかった。


職員室に鍵を取る間は部屋の前で待ち、

そこから更に後ろをついていき、

ついに着いたのが生徒会室。

だったが。


愛咲「…お、やっと来たかー!」


麗香「待たせてごめんけぇ。」


愛咲「ずぇーんぜんいーんだよぅ。それより何だって?麗香がうちに頼みたいことがあるんだってぇ?」


麗香「そうだけど…これは機密ミッションだから声を落として欲しいけぇ。」


愛咲「機密ミッションっ…!分かった…声は小さくする!」


確かに僅かながらは小さくなった音。

どうして愛咲がここにいるのかは

全く検討がつかなかった。

学校の隅、生徒会室。

そこにいた愛咲。

愛咲ほど生徒会室が似合わない生徒は

いないだろうな。


愛咲「…ってか花奏、どうしたんだよ。」


花奏「えっ…?」


愛咲「んだー?お弁当のおかずでも盗まれたかぁ?」


花奏「…。」


麗香「それは明日以降にでも話すけぇ。」


愛咲「そんなテンションじゃねぇよな。ごめん!」


花奏「…別に謝ることじゃ…。」


潔く頭を下げる彼女の特徴のある癖っ毛が

これでもかと言うほどに勢いよく宙を舞う。

どうして謝られてるんだろう。

謝るのは私の方なのに。


麗香「愛咲先輩に頼み事があるけぇ。」


愛咲「おぉ!待ってたぜ。どんな頼み事だ?」


声量を抑えながらも

麗香に頼られたことが嬉しいようで、

わくわくと腕を振りながら

次の言葉を待つ愛咲。

重要なことだとは分かっていても

どこか明るくしようと

無意識ながらに行動しているんだろう。


麗香「…大きな声じゃ言えないけど…あてらが生徒会室に入ったら鍵を職員室に返して欲しいけぇ。」


愛咲「…なるほど。っていいのか?」


麗香「今回だけ。お願いけぇ。」


愛咲「でもよぅ、それって…」


麗香「それから職員室に入って鍵を返すときは、「嶺さんは用事があるみたいで先に帰って、途中私が預かったので返しに来ました」とか言うけぇ。」


愛咲「そもそも鍵はなんて言って借りたんだ?」


麗香「今日塾で使う参考書を忘れたって言って借りたけぇ。しかも焦ってる気味に。」


愛咲「伏線はばっちり、か…ってことはうち主人公!?」


麗香「主人公…あー…そうけぇ。全ては愛咲先輩にかかってるけぇ。」


愛咲「うおお!盛り上がってきたな!」


愛咲がこれだけ声を上げていても

校舎の隅だからと言うこともあるのか

人の姿がほぼ見えない。

ちらと廊下の遠くに映る影があるとしても

下校するためにこちらなんて

見向きもせずどこかへ消えた。

麗香はもう1度事細かく愛咲に

指示したところで生徒会室の鍵を開けた。


麗香「鍵は内側からあてが閉める。先輩は返してきてほしいけぇ。」


愛咲「おうよ、任せな。うちら共犯な?」


麗香「そうけぇ。絶対口は割るな、けぇ。にぃ?」


愛咲「あーあ、ついにうちも不良かぁ。」


麗香「先輩はあてらのヒーローけぇ。」


愛咲「だっはは。そう言やぁ聞こえはいいけどな。」


麗香に背中を押されつつ

未知の教室に足を踏み入れた。

普通ならば入ることのない場所。

知らない世界へ来たような不思議な感覚が

足から腹にまで迫り上がってくる。


愛咲「じゃあ麗香、頼んだぞ。」


麗香「それはこっちのセリフけぇ。」


愛咲「あと花奏!」


元の声量で十分私に届くのに、

絶対に届けようとしているのか

微々ながら強くなった愛咲の波長。

書類の多く積まれた机から目を離し

彼女の方へ向いた時だった。

窓の外でびゅう、と強かに風が吹き、

木々が響めきだしたのだ。


愛咲「無理すんなよ。」





°°°°°





愛咲「あったりめーだろ!友達が困ってたら助けるっちゅーもんじゃね?」


花奏「それだけで…?」


愛咲「だけも何も…大事なことだと思うぜい?」





°°°°°





愛咲は見た目に反して案外真面目な人だから

こんなリスクのあるような、

かつ校則違反は犯さないと思っていたのに。


本当だ。

本当に助けてくれた。

あの日から愛咲は変わってなかった。

…否、あの日から何ひとつ進んでなかった。

変わりようがなかったんだ。





°°°°°





「力になれなかった」。

そんなことを言っていたとかなんとか。





°°°°°





花奏「……愛咲…。」


愛咲「じゃあな、また来週!」


麗香「またね。」


愛咲「おう!」


私が次に口を開く前に

愛咲は背を向け陸上部らしく

走り去ってしまった。

もう引退してしまったにも関わらず

軽快な足取りは変わらぬまま。

背を最後まで見届けたかったが、

麗香が扉を閉め鍵までかけた為に

あの癖っ毛を視界に

入れることは出来なかった。


麗香「口を滑らせなきゃいいけど。」


花奏「…。」


麗香「ねぇ、花奏。」


花奏「…ん?」


麗香「愛咲先輩も単純な馬鹿じゃないけぇ。」


花奏「…それは分かってるけど。」


麗香「…ふうん。……ならいいけぇ。」


不服そうにひと言溢した後、

電気もつけずに部屋の隅にある

山のような段ボールの方へ向かった。

壁との間にスペースを作ると、

こっちだと言うように手招きをした。


麗香「ぼうっと立ってないで早く。」


花奏「……あ…うん。」


麗香「先にここに入って。鞄はあてに貸して欲しいけぇ。」


麗香の言う通りに動き、

段ボールと壁の間の隙間に体育座りをした。

足を伸ばせそうにはなかったが、

2人とも胡座をかけるほどの

スペースはありそう。

ただ、掃除する時間などなかった為

スカートはより一層汚れ塗れだろう。

後から隣へ来た麗香は

その事など全く気にしていないのでは

ないかというほどの勢いで座り、

2人の通学鞄を縦に積んだ。

重そうな麗香の鞄が下、

多分軽い私の鞄が上で。

鞄の上から更に段ボールをひとつ

上手いこと立てかけたところで、

隣の彼女はふう、とひと息ついた。

それからスカートを軽く整え、

体操座りをしていた。


立てかけた段ボールは

私には見えないが

机やら何かに引っ掛かっているらしい。

随分と高さを保ったまま

安定して動かなくなっていた。


麗香「…お尻が痛くなるのは仕方がないけぇ。最悪、鞄を椅子にして座るけぇ。にぃ?」


花奏「…そうやな。」


麗香「親に連絡しなくていいけぇ?」


花奏「父さんは出張で家におらへんからいい。」


麗香「そうけぇ。」


花奏「麗香は?」


麗香「雨が酷くて友達の家に泊まるって言ったけぇ。そこは幼馴染と話を合わせてるけぇ。」


不思議と麗香と2人きりの空間。

大雨が背にある窓から音を漏らしてくる。

雨に濡れていない。

濡れていないのに震えが止まらなかった。

今更。

今更なのに。


麗香は気付いてか気付かずか

無視するように顔を背けた。





***





かちり。

そんな音が鳴った時、

私の視界は真っ暗だった。

隣からか細い呼吸の音。

私の呼吸の音は、どこ?


麗香「……しっ…。」


聞き取れるかどうかレベルの

息の擦れる音が聞こえた。

私はいつの間にか顔を埋めていたようで

視界は真っ暗だったらしい。


かちり…?

その音。

もしかして。


どくんと心臓が飛び跳ねる。

突如、血の巡りが一気に良くなり、

お尻が痛くなっていたことにさえ

気付いてしまったのだ。


きっと。

きっとあの警備員だ。

傘を何処かから持って渡してくれた、あの。


花奏「…。」


麗香「…。」


息を殺すってこういうことかと

身に染みて感じた。

前もこういうことがあったな。

いつの周期か忘れたけれど、

歩とこうやって図書館か部屋か

また別の場所で閉じこもって

殺人犯から逃げようとしたの。

バリケードを作ったとしても破られ

鍵を閉めていたとしても

窓を割って入ってきたけれど。


その周期じゃなかったっけ。

私が死ぬ直前まで刺されたのって。


花奏「…………ゅ…。」


ずき。

そんないつもの痛みが脇腹を突いた。


だめだ。

今は、駄目。

我慢しなきゃ。

我慢。

我慢を。


ふと人工の光の線がちらと映る。

そして鼻息のようなものも聞こえた。

…気がした。

鼻息はもしかしたら

麗香や私のものかもしれない。

判断がつかない。

つかない。


顔を埋めたまま、手に力を入れた。

いなくなりたい。

いなくなりたい。

雨なんて嫌いだ。

抜け出したい。

辞めてしまいたい。


どうしてだろう。

時にこうやって邪念が押し寄せるのかな。


暫く息を殺し続けて

思考を振り払おうという思考に取り憑かれた。

そして何分何時間経ったのか

ついに分からなくなってしまった時。


麗香「……花奏…もういいけぇ。」


花奏「……っ…?」


麗香「もう出てって数分経つけぇ。」


未だこそこそと耳を掠める程度の声が

心地よく感じた。

また人間を辞めていたような感覚。

全てが抜け落ちてしまって

抜け殻になったような。

なのに痛覚は残っている。

延々と続く痛み。

そこから救ってくれたのは彼女の声だった。


…歩もこうやって

名前で呼んでくれたらな。

その願いは叶いそうにないことは

想像するに容易い。


麗香「…今10時半くらいけぇ。定時制も終わって少ししたくらい。」


花奏「…。」


麗香「日付を超える前後くらいになれば、狭いここから移動して、逆に廊下側の壁とかに寄るけぇ。」


花奏「…死角?」


麗香「そうけぇ。そしたらあて、昼ごはんの余り物があるから食べるけぇ。にぃ?」


花奏「…私はいらへん。」


麗香「一口だけでいいけぇ。」


花奏「いらへんって。」


麗香「後1時間半もしたら変わるもんけぇ。」


花奏「麗香はお腹空かへんの?」


麗香「空いてる分には空いてるけど、夜ご飯食べずに塾行って帰ると11時ぐらいになる時もあるから、慣れてるけぇ。」


花奏「…そう。」


暗がりの中、未だしとしとと降る雨。

天気予報は大きく外れ、

ずっと降る地獄のような涙。


麗香「…あてが花奏の力になりたいって思ったのには理由があるけぇ。」


会話は終わり、また数時間

話さないのだろうと思っていた矢先

急に話しかけてくるものだから、

びく、と肩が浮いてしまう。

けれど、何事もなかったかのように

私は顔を埋めたまま

雨の音に耳を傾けた。


麗香「花奏は前にさ、過去のことを全てあてらに話してくれたことがあったけぇ。にぃ?」


花奏「…。」


麗香「その時に「自殺しかけた」って聞いて、親近感が湧いたんだけぇ。」


花奏「…。」


麗香「それまで愛嬌完璧人間で、馴れ馴れしくて嫌いだったけど、それにも理由があってちゃんと人間だったんだって思うようになった。」


花奏「…。」


麗香「そう思ったら親しみやすくなったけぇ。」


花奏「…だから助けようってなるん?」


麗香「仲良くなったと言っても差し支えないと思ってるけぇ。にしし。」


花奏「…そうなんかな。」


麗香「…今まであてが一方的に距離を置いてたけど、今はまるで逆だけぇ。」


花奏「…。」


麗香「…こんな気持ちになるのは流石に知らなかったけぇ。」


花奏「…。」


声を落として呟くせいで

妙に後悔のような色が滲んでいた。

ただ共感しただけじゃないか?

同じような過去の部分があった。

それだけで?

…愛咲が雨の中助けてくれた時も

同じように思ったんだっけ。

それだけで?

…って。

助けるのに理由はいらないんだろうな。

愛咲も麗香も。





***





…それからはまた話さない時間が続き、

次に話したのはそれこそ

日付を超える手前だった。

人気のなくなった学校は

幽霊の棲家のようにも見える。


段ボールの山から這い出て

お互い鞄を手に廊下側の壁に寄った後、

麗香は静かにお弁当を出していた。

お尻には板が入ったのかと勘違いするほど

脇腹とはまた違った痛みが住み着き

中々消えてくれない。

これでも胡座をかいたり

体操座りにしたりと体制は変えたのに。

私はただぼうっとして

また寝転がろうかと思った時だった。


麗香「はい。おにぎりあげるけぇ。」


花奏「えっ…?」


彼女の片手には、いつから用意していたのか

ラップに包まれたお手製のおにぎりがあった。

真っ暗なせいで具までは分からないが

ふりかけを混ぜ込んだもののように

見えなくもない。


麗香「あげるけぇ。」


花奏「いらへん。」


麗香「ひと口だけでいいけぇ。」


花奏「…私お弁当残ってる。」


麗香「昼もあの狭い部屋にいたけぇ?」


花奏「…。」


麗香「ほんとに何があったんだか。」


ぺりぺりとラップを剥がす音が

ありえないほど反響していた気がした。

物はたくさんあるのに人気がなく、

生きている心地のしない夜は

雨の独壇場だった。

その雨もそろそろ退場の時。

段々と無音へ近づく中、

届くのは麗香の息だけ。


麗香「はい、ひと口。」


花奏「…だから」


麗香「お米は美味しいけぇ。」


花奏「…。」


あのお寿司は美味しくなかった。

お米もお魚も美味しくなかった。


麗香「ま、あてはパン派だけど。」


花奏「…。」


麗香「ひと口食べたら許してあげるけぇ。黙るなり寝るなり好きにするけぇ。」


花奏「…食べへんかったら?」


麗香「口に突っ込む。」


花奏「そんな人やったっけ。」


麗香「どういう意味けぇ。」


花奏「そんな無理矢理にする人やったっけ。」


麗香「その言い方は好きじゃないけど…あてだってこの半年で変わったんだけぇ。多分、花奏も。」


花奏「…。」


麗香「…はい、早く。」


ん、とラップから脱皮したおにぎりが

口元に持っていかれる。


許して欲しい。

何から、誰からは問わず

ただ漠然と過った思考に従順になり、

お腹が空いていなかったが

麗香の言う通りひと口だけ食べることにした。

小さく口を開けると

彼女は黙っておにぎりを押し付けた。

歯に粘着質なものが当たり、

少し大きく口を開けて

米を数十粒口に含んだ。


麗香は満足したのか

私の口元からおにぎりを離し、

何も気にせず私が口をつけたところから

ぱくりと豪快に頬張っていた。


味、ないや。

やっぱりご飯って美味しくない。

いつから美味しくなくなったんだろう。

冷たくて歯に微々ながらくっつくあたり

さも柔らかいシリコンを食べているよう。

何のふりかけだったんだろう。

美味しさが分からないし

食べてないものを食べてるようで気持ち悪い。

もう、口にしたくはないな。


花奏「…。」


幸せ…。

…ご飯が美味しいのも本当に

幸せのひとつだったんだな。

私はもう幸せになれないのかな?


麗香「もうひと口くらいいるけぇ?」


花奏「…いらへん。」


麗香「……そう。」


花奏「…。」


麗香「…ゆっくり寝るけぇ。大丈夫。寝てれば明日は来るけぇ。」


花奏「…。」


彼女の言葉には耳を傾けず

凹ませた鞄を枕に横になった。

自然と左側が上で、髪は胸元に纏めて握る。

そして膝が肘とくっつくくらい

小さく小さく丸くなる。

現実から逃げるように。


明日が来るなんて

何も知らないから言えるんだ。











11月12日



花奏「…。」


朝だ。

小鳥の囀りが聞こえる。

理想的な目覚め方を夢見たが

夢は叶わず最悪な目覚めだった。

いつも通りの悪夢と共に迎えた今日。

どうすれば気づいたら朝なんてことに

なるんだろうか。


花奏「…長かった…な…。」


夜が長い。

最近はずっとそうだ。

明けないのではないかと思うほど

夜は暗く雨は止まない。

夜中になって漸く

水音は退き出して、

これでもかと言うほどの静寂が訪れる。


隣ではまだ心地よさそうに眠る

麗香の姿があった。


徐にスマホに手を伸ばし

LINEを開いてみると、

やはり美月からの連絡があった。

朝6時。

まだ若干ながら暗がりの中、

早急に美月へ返事を返した。


『返事遅くなってごめん。今日でよければ行こうや。』


こんな状況になっていても

文面ではそれらしき兆候はまるでない。

文字だけじゃ伝わらないのだ。

当たり前だ。


花奏「……。」


今日はきっと長くなる。

長い1日だ。

ずっとずっと前からこの1日に寄り添ってきた。

突き放されてきた。

今回はどうなるんだろう。


麗香には声をかけずに

この場から消え去ってしまいたかったが、

何せ学校にいるが故に憚られてしまう。

仕方ないと肩を落とし、

彼女を起こすことにした。


花奏「…起きて。」


麗香「……んぅ。朝…?」


花奏「そう。」


麗香「…ふぁ………は…はっ……。」


寝転がったまま奇怪なポーズで

背伸びをしながら欠伸をする彼女は

まるで野生の猫のよう。

ひと言声をかけて肩を揺すっただけなのに

自然と起きたあたり、

驚くほど寝起きがいいのだろう。


麗香「…ん…花奏はいつ起きたけぇ?」


花奏「今。」


麗香「そっかぁ……もう出るけぇ?」


花奏「うん。1回帰る。」


麗香「そうけぇ。随分と早い帰宅で。」


花奏「……。」


凹んだ鞄はそのままに

ひとまず立って麗香から離れ、

できる限りの埃を払い落とした。

叩いても叩いても落ちてくる微細な塵は

落としきることなんてできず、

途中で諦めて手をはたいた。

それから簡単に制服を整えて

鞄を肩にかけた時だった。


麗香「ねぇ。」


花奏「…ん?」


麗香「何で学校に居座りたかったけぇ?家には誰もいないって言ってたし…会いたくない人でも来る予定だったけぇ?」


花奏「……雨に当たりたくなかった。」


麗香「本当にそんな理由で?」


花奏「うん。」


麗香「…はぁ…理解できないけぇ。」


花奏「……。」


理解出来るわけないんだから

しようとしなくていいのに。


花奏「じゃあ」


麗香「待って。」


ここから出ようと例の段ボールの山へ

近づこうと1歩踏み出したのに、

凛と麗香の澄む声が聞こえて

私の足を静止させた。


花奏「……何。」


麗香「そんな不機嫌そうな顔しなくても。」


花奏「…。」


麗香「朝ごはん、しっかり食べること。分かったけぇ?」


花奏「…お人好し。」


麗香「花奏にそう言われるなんて心外けぇ。」


麗香はどんな顔をしていたのだろうか。

振り返ることなく部屋の隅へ行き、

窓の鍵を開け放った。

馬鹿になるほどの日差しが

随分と斜めから刺さってくる。


朝だ。

明日が来てしまった。

恐怖でしかない今日だ。


窓枠に足をかけ、

無駄に勢いをつけて外へ踏み出した。

彼女を置いて逃げるように学校を去った。





***





10時手前。

私服に着替えて横浜駅で待ち合わせ。

6時頃に返事をしたと言うのに

美月は起きていたらしく

とんでもない速度で返信が来た。

それから何時に集合するかを

決めようとなったのだが、

昼過ぎ頃には解散して

歩の元へ向かいたかった為、

午前の集合にしてもらった。


くぅ、と切ない音が

群衆の騒音にかき消された。


花奏「…朝ごはん…食べてないや……。」


意図して食べなかったわけではないが

そもそも食べる習慣がなくなっていた為

すっかり忘れてしまっていた。

麗香が言っていたんだっけ。

聞いてないつもりでも

意外と耳に入ってるもんだな。


「花奏?」


すぐ隣から疑問を飛ばされる。

気づけば身長の低い美月が

背で手を組み覗き込むように

私のことを見ていた。

一瞬ぎょっと目を見開いた後、

肩の力を抜いて私の前へすっと立つ。


花奏「……あぁ、美月。」


美月「おはよう。」


花奏「うん、おはよう。朝からごめんな。」


美月「いいのよ。用事も済んだことだしね。」


花奏「用事あったん?」


美月「えぇ。波流のところに少し。」


花奏「悪いことしたな…ごめんな。」


美月「だから、すぐ終わる用事だったから大丈夫よ。」


花奏「ほんまに?」


美月「本当に。少しご飯をお裾分けして貰いに行っただけだから。」


わざわざ多少距離のある

波流の家までご飯のお裾分けを

貰いに行くことがあるだろうかと

疑問に思ったけれど、

バドミントンペアとして仲良くなれば

そんなこともあるのかもしれないと

大目に見て適当に流しておいた。

それから少しして、吸血鬼の話を思い出す。

ご飯をお裾分けとは

血を分けてもらったということでは

ないのだろうかとよぎった。

頭はうまく回ってくれなくて

ぼうっとしていることが増えた気がする。


美月「さ、今日はどこに行こうかしらね。」


ふわふわと浮かぶように揺らぐ

綺麗にハーフアップに纏められた髪。

対して私は1分も経ず結んだ

雑ないつものポニーテール。

なんだか久しぶりに美月に

会えたような感覚がした。

最後にあったのはいつだっただろうか。

梨菜は割と高頻度で出会う。

愛咲や麗香は会おうと思えば会える。

美月や波流、羽澄とは

思えばほぼ出会っていないような気がした。

どこかしらの選択肢を取れば

出会うことになるのだろうか。

反して湊とはどうしても

毎回顔をあわせている。

それは仕方のないことだけど。


文面ではない彼女と対面し、

なんとも言えない緊張が走った。

記憶の中で、美月は棺に縋るように泣きつき、

ある時は怒り任せに私を責め立てる歩を

宥めていた姿が霞む。


美月「…?どうしたの、早く行きましょ?」


花奏「そうやね。ごめんごめん。」


美月「いいのよ。何かあてはある?」


花奏「…そういえばないな。」


美月「じゃあいろいろとお店を回ってみて考えましょうか。」


花奏「美月は何にするか決めてるん?」


美月「大体はね。けど、他に良さそうなものがあればそっちにしようかなって考えてるわ。」


花奏「おっけ。お店はあんまり知らへんから美月についてくわ。」


美月「はいはい。仕方ないわね。」


ひょこひょこと子ウサギみたく

跳ねるように歩き出す後ろ姿。

本当に楽しみにしていたのだろう。

私は美月みたいに楽しんで買い物するなんて

今後ずっと出来ないかもしれない。

漸く風邪をひかず辿り着いた今日に

希望なんて見出せずにいた。

選択肢が無数に増えたのだ。

雨に当たらず迎える今日が来たことで

出来ることが限りなく増えてしまったのだ。

それを喜べるほどの心は持ち合わせてない。

どこかに落としてしまった。


暫く2人で歩き、

良さそうな雑貨屋や服屋、

家具系の店など幅広を巡った。

美月と2人きりでいるのは

それこそ熱を出していたのに

無理矢理買い物に出かけようと

した時以来ではないか。

その後の周期にもあったっけ。

ちょっとした時間に

一緒にいる事はあったような覚えもあるが、

ここまで濃密な時間を経るのは

久しぶりと言うには十分過ぎた。


美月「へぇ、ここ良さそうじゃない?」


花奏「おしゃれやね。」


美月「私、少し見てくるわ。」


花奏「そっか。じゃあ私は反対側のお店におるな。」


美月「えぇ、分かったわ。」


美月は木を基調とした

アンティークっぽい系統の小物が多い

お洒落な雑貨屋に足をのばした。

後ろ姿が見えなくなるまで何となく見送り、

宣言通り反対側のお店に寄った。

アクセサリー屋のようで

指輪やらピアスやイヤリングやら、

私とはほぼ無縁なものばかりが並ぶ。

値段は程よくお手頃で

手は届くといえば届くものが多い。


花奏「…。」


本当は考える時間が欲しかっただけ。

その為に美月と離れたかっただけだった。

品物の陳列する棚の前で

ふと立ち止まってしまう。


まず、誕生日プレゼントは何がいいだろうか。

そもそも私があげていいのだろうか。

…15日は来ないのに。

……1度は祝いたいな。

歩に日頃の感謝を伝えたい。

いつも助けてくれてありがとうって。


沢山助けられた。

初めて出会った時、

宝探しの時から夏祭りの時、

夏明けの時、雨の時。

ずっとずっと私を救ってくれたのは歩だった。

その感謝を伝えたい。

その方法でしか私は何も返せない。

何も。

何も返せない。

返せてない。


そうだ。

私、歩に何もしてあげられてないや。


花奏「…何がええかな。」


歩は1人暮らしだし

何か生活に役立つものがいいかな。

キッチン用品とか?

それをプレゼントで渡すのは

流石にどうかと思ってしまう。

役立つ…役立つ…。

便利グッズとかなら100均で十分になる。


不意にヘアグッズが多かったのを思い出す。

髪ゴムからウィッグスタンドとかまで様々。

でも私はそういう

髪やウィッグ関連の知識は疎い。

何が必要かも何も知らないし、

歩の家に何がないとかまでは分からない。

最近…それこそ3、4ヶ月くらいは

歩の家に行っていないから

もうどんな雰囲気だったかも危うい。

実際には先月あたりに1度は

行っているはずなのにな。


花奏「…。」


そして今回の周期のことだ。

今は美月と出かけている。

ただ、昼過ぎには解散するとなると

あの横断歩道にいる可能性は高い。

歩の最終位置を何処にするかにもよるけれど。

頭がこんがらがってくる。


歩が交差点で死ぬと

美月は生きてる。

車は歩に当たるから。

車が突っ込んでくる時、

美月は歩と一緒にいた。

きっと歩が交差点にいるときは

必ず美月もいたはず。


歩を交差点から離すと美月も歩も死ぬ。

歩は殺人犯に、美月は車に。

美月は必ずあの交差点から離れられず

歩は必ず死ぬのか。


今回美月と例の時間まで一緒にいられたなら

また話は別だろう。

交差点から美月を引き離す術は

もしかしたらここにあったのかもしれない。

歩に会いつつ美月は近くにいてもらう。

これが出来たなら。


…これが出来るかもしれないのは

今周期で雨に当たらなかったからだ。

もし雨に当たってしまったら

その時点で今の選択肢は消える。


一般としては15日にプレゼントを渡すのが

勿論セオリーなんだろうけれど、

私は今日しかなかった。

美月さえいいのであれば

2人で渡す事もできるだろうが、

美月はしないだろうな。

そもそも、何故態々呼び出して

今日渡さなきゃいけないのかという

理由を説明できない。

15日に本来ならば

学校で会うはずなのにどうして。

問い詰められても答えられない。

…なら、美月には何も言わずに

近くにはいてもらい、

歩を呼ぶのが1番だろうか。


…念のため、幾ら死にかけても

病院へ送られないようにする為に

廃墟前で16:24になるのを待った方が

いいかもしれない。

今回は交差点ではないが故

殺人犯に刺される可能性の方が

高いだろうから。


それこそ車に関しては

いつしか誰かが言っていたように

壊してしまうのもありかもしれない。

明日へ足を踏み出せるならそれでいい。

犯罪歴なんて今はどうでもよかった。

未来のことなんて考えられなかった。

誰が言っていたんだっけ、

車を壊したらいいって。

湊だっけ、愛咲だっけ…?


美月「花奏?」


花奏「え?」


美月「花奏、大丈夫?さっきから真剣に選んでるみたいだけど。」


ふと横から覗いた顔に驚き、

思わず肩がかくっとあがる。

心臓が摘まれたようにきゅっと音をあげた。


そっか。

アクセサリー屋の商品棚の前で

突っ立っていたんだっけ。

今周期の事を考えだしてから

プレゼントの事が頭から抜けていた。


花奏「あぁ、うん。どれにしようかなって悩んでしもうて。」


美月「そうよね。今のところ目星はついてる?」


花奏「えーっとな…。」


商品を全くと言っていいほど

見ていなかったので、

たった今アクセサリー達を正面から見やる。

ぱっと目の前にあったネックレスを指差し

誤魔化すように口を開いた。


花奏「これかな。後…どこかの棚にあったイヤリングとか。」


美月「いいじゃない。歩はあんまりこういうのって持ってなさそうだし、新鮮でいいと思うわ。」


花奏「…貰っても困るかな。」


美月「そんな事はないでしょうよ。花奏からのプレゼントだったら歩は大切にするわ。」


花奏「ほんまかいや。」


美月「あら、信用ないのね?」


花奏「そういうわけやないけど…。」


美月「花奏のいつもの考え方でいいと思うわよ。」


花奏「…いつものって?」


咄嗟に出てしまった疑問。

いつもの考え方ってどんな。

いつもって何。

私の普通って何処に行ったの。

一気な沸々と湧き上がる疑問達は

止まるところを知らずに

限りなく増え続けてしまう。


美月「そうね…歩は私の事好きだし何あげても喜ぶだろう!…みたいな底抜けに明るい考え方よ。」


花奏「そんなふうに見えてたん?」


美月「他の人はどうか知らないけれど、少なくとも私にはそう映ってるわ。」


花奏「…そっか。」


底抜けに明るい、か。

なんだか想像つかない。

最後に心の底から笑ったのはいつだかさえ

覚えていないような私が

明るいだなんて信じられなかった。


美月との会話はそこそこに

再度棚の方を眺める。

時間も割と迫っている事だし

決めなければならなさそう。

じっと見つめた後、

最初に焦って指差した

ネックレスにすることにした。

水色のような青のような色で

小さな惑星だか星だかのモチーフのついた

可愛らしいネックレス。

美月の意見を聞いてみるに

いいと思うと言ってくれたので

これにすることにした。


美月はもうプレゼントを買っていたようで、

よくよく見てみれば鞄がやや膨らんでいる。

お会計を済ました後彼女の元へ寄ると、

スマホをいじっている姿が目に入った。


花奏「お待たせ。」


美月「いいえ、全然待ってないわ。」


花奏「…ありがとうな。」


美月「何にも気にすることないわよ。」


花奏「そういえば美月は何買ったん?」


美月「ちょっとしたお洒落な照明と、あとタオルとか。」


花奏「結構買ったんやな。」


美月「今まで長年祝えていなかったもの。罪滅ぼしってわけじゃないけど…やっぱり今までの穴はどこかで埋めたいのよね。」


花奏「…そうやね。」


美月「花奏も良さげなのあってよかったわね。」


花奏「うん。美月がいいと思うって言ってくれたから決めれたんよ。」


美月「私の言葉なくたって決めてたわよ。」


花奏「…そうかな…?」


美月「そうよ。にしてもネックレスを選ぶなんて洒落たことするわね。」


花奏「え…?どういうこと?」


美月「ネックレスには「あなたのことを心から思ってる」とか、「ずっと一緒にいてほしい」っていう意味があって、想いを込めたプレゼントにぴったりなのよ。」


花奏「へぇ…知らんかった。」


美月「それでね、さっきのネックレスは宇宙とか星とかのモチーフだったじゃない?」


花奏「うん。」


美月「それの意味もまた素敵なの。さっき気になって調べたのよ。」


花奏「それでさっきスマホ触ってたん?」


美月「えぇ、そうなの。それでね、星モチーフのあるアクセサリーは身につける人に明るさとかを与えて、幸運を招く意味があるみたい。」


美月がスマホを触るなんて

珍しいと思っていたから、

謎が解明されたようですっきりとした。

暇さえあれば本を読み、

調べるときも本を使っているという

彼女に対しての勝手なイメージがあったのだ。


花奏「幸運…ね。」





°°°°°





歩「…幸せ…難しいよね。」


花奏「……。」


歩「いつの間にかなってるもんだと思うよ。幸せって。」


花奏「…なろうと思、って…なれる、もんやない…か。」


歩「なれるよ。あんたが今まで頑張ってきてこの高校入ったのだって幸せのひとつ。小津町自身が掴んだ幸せでしょ。」


花奏「……。」


歩「もっと簡単なことでもいいと思うよ。」


花奏「…簡単……って…。」


歩「ご飯が美味しい。空が綺麗。よく眠れた。沢山話せた。そんなのでもいいじゃん。」





°°°°°





もしも歩に何もない明日が来るなら。

その明日が幸せなら何でもいい。


そして欲を言って良いならば、

これからも歩と一緒にいたいな。

…なんて、そんなの許されるはずないか。


美月「良い買い物出来たわね。」


花奏「…うん、そうやな。」


振り向き笑いかける彼女に

ぎこちない作り笑いを

浮かべることしかできなかった。

良い買い物…そっか。

良いプレゼント、買えたのかな。


そんな思案に耽っていた時、

ささやかに電話のコール音が鳴った。

私のスマホからではなかった。


美月「…あ、私ね。ごめん、少し出て良いかしら?」


花奏「うん、勿論。」


急用の電話だと思ったのか、

すぐさま人の少ない通路の隅へと移動し

スマホのボタンを押した後

慌てるように耳に当てた。


声を潜めて話す美月のことなど見ず、

さっき購入したネックレスの事を

思い浮かべていた。

今日、渡すのか。

漸く歩の誕生日を祝えるのか。

正確には15日まで届かなかったけれど、

ひとつ感謝を伝えられたら。

…私は何してるんだろうか。

こんなことしてる暇があったら

歩を助ける方法を考えるべきだろうに。


暫くぼうっとしていたら電話を切ったのか

彼女はひとつ息を漏らしていた。

神妙な面持ちなものだから、

なんだか不吉な予感がする。


花奏「…何かあったん?」


美月「いえ、大したことじゃないわ。」


花奏「大したことじゃなくても教えてほしい。」


この出来事がきっと

あの時間に美月が交差点へ

向かってしまう理由なんだと悟った。

これをもし変えることができたなら。

そしたら。

歩は生きる…?


美月「パパの知り合いが倒れたんですって。家に誰もいなくて、さっき救急隊員が来て、今は自宅で安静にしているらしいの。それで、様子を見に行ってほしいみたいなのよ。」


花奏「大丈夫なん?」


美月「今出先とは伝えたけれど…弟達に任せるには頼りないし、パパとママ両方とも、今仕事中だから…あまり大丈夫ではないわね。」


花奏「……。」


これか。

だから美月は外に出ざるをえなくて、

しかも交差点を通らなければ

ならなかったのか。


そういえばいつだかの周期で

梨菜が何か言っていたのを思い出す。





°°°°°





花奏「今、美月ってどこにおるん。」


梨菜「それは私も分からないの。」


花奏「そう…やんな。」


梨菜「連絡してみる?」


花奏「え?」





°°°°°





あの時素直に聞いていれば

また全然違ったんだろうな。

今更なことに気がついて

後悔の層は増すばかり。


花奏「…じゃあ、解散しとこうや。時間もいい感じやし。」


本当に解散していいのか

不安ばかりが過ぎる。

今までだって幾度となく自分の選択に

不安を抱いてきたが、

最近はこの感覚を忘れていた。

久々に陥る穴の底。

このまま美月を野放しにしたら

結局交差点で撥ねられて終わりだ。


美月「いいの…?」


花奏「だってお互い目標は達成したやろ?」


美月「…まあ、確かにそうね。」


花奏「知り合いの方のこと心配やし、早めに行ってあげてな。」


美月「…ありがとう。ごめんなさい、花奏。」


花奏「全然ええんやって。また……。」


また…別の日に遊びにこれば

ええだけやから。

…それは流石に言えなかった。

私の「また今度」は

いつになるのかなんて分からないのだから。

そんな無責任なこと、

口にできるわけがなかった。


美月「…花奏…?」


花奏「へ?」


美月「へ?じゃなくて…今一瞬ぼうっとした?」


花奏「あ、あははー…ごめん、頭回ってなかったわ。」


美月「そんなことあるの?」


花奏「たまにあるんよ。ほら、早よ帰ろうや。」


美月「そうね。」


ふとショートしてしまった頭を再起動して、

2人で電車に乗り込んだ。

その時に、歩にLINEを送る。

「今日もし歩の実家の最寄駅に来ることがあったら、その最寄駅で待っていてほしい」

そんな旨のメッセージを送りつけた。

私の隣には読書をする美月。

4月頃、出会ってすぐの時も

このような風景だった気がする。

当時春服を着ていたのに

今では秋服を身につけている。

時間が経ってしまったんだな。

…時間、進まないもんだな。


花奏「…美月のお父さんの知り合いの家ってどこにあるん?」


美月「私の最寄駅から近いわよ。」


花奏「そんな近くなん?」


美月「えぇ。それこそ風車の回っている家って分かる?」


花奏「流石にそこまでは…。」


美月「そりゃそうよね…ごめんなさい。えっとね…私の家から15分歩いたくらいのところかしら。」


花奏「駅側?」


美月「な、何でそんなに知りたいのよ…?」


花奏「何となく気になってん。」


美月「そう…まあ、確かに駅寄りね。線路沿いとでもいうのかしら。」


花奏「へぇ。」


線路沿い。

駅寄りなら交差点は通らない。

あの交差点は美月の家に

とてつもなく近い位置にあったはず。

なら…大丈夫。

…本当に……?

…念には念をいれておかなきゃ

後悔する気がした。

こんな絶好のチャンスなんてもう早々ないよと

誰かに囁かれている気がする。


花奏「ならさ、もしその方の様子見が早めに終わったら、あの…廃墟みたいな家分かる?」


美月「草が生い茂っていて、2階か3階建くらいの…あの…壁とかにも蔓が巻き付いているところ?」


花奏「…!そう、そこで待ち合わせようや。」


美月「え…?どうして…」


花奏「15日の当日のこと、ちょっと相談しときたいねん。LINEやと面倒やし会って話しときたいなって。」


美月「別にいいわよ?」


花奏「ほんま?……そや、私夕方用事があって、4時半には電車乗りたいんやけどそれでもええ?」


美月「えぇ。流石に2時間くらいあれば十分だと思うわ。」


花奏「そっか。ありがとうな。」


すらすらと嘘が並べられていく。

その光景が自分でも恐ろしくなった。

私、いつからこんな

流れるように嘘を吐くようになったっけ。

…最初からか。

きっとそう。

最初から私はこういう人間だった。


廃墟の位置は

線路沿いではないけれど駅側。

あの交差点は通らなくて済む。

済むはず。

…はず。

無事でいてくれ。

お願いだから、

美月も歩も痛い思いをしないでほしい。

痛い思いなんて並大抵な言葉で

表せるはずがなかった。


花奏「…っ。」


今回は何か変わるんじゃないか。

そんな期待を膨らまさずには

いられなかった。

それと同時に選択肢が無限と思われるほど

広がってしまったことに

絶望するほかなかった。





***





花奏「…。」


それから私は1人でひと足先に

例の廃墟に向かった。

今の時間…3時頃から

あの機械はあるのか気になり

廃墟に侵入して確認したところ、

機械らしきかけらひとつさえなかった。

時間指定でここに来ているのだろうか。

機械の謎は解けないままだし

解けそうにもないとさえ感じる。

考えるだけ無駄のような、

そんな大きな何かが動いている。

直感はそう告げてやまなかった。


美月は連絡の通りに彼女のお父さんの

知り合いの家へ向かってから

結構な時間が過ぎ去った。

廃墟を確認した後は

することもなかったので、

駅周辺にあった椅子に座り

ぼんやりと思考を巡らせた。

否。

きっと考えてるふりをしただけだ。


4時が近づいてきた頃、

歩から連絡があった。


歩『もうすぐ着く』


そんな言葉が届いた。

数分後には電車が駅に

滑るように入り込んで行き、

人がぞろぞろと降りてくる中に

無彩色の私服で身を包む

彼女の姿が現れる。


花奏「…!」


こっちだよ。

そう言ったつもりが

口を開いたまま浅い浅い息が

微々ながら漏れただけだった。

本当に呼んでいいのか。

今していることは間違いではないか。

不安が、疑問が連なる中、

歩の方から私を見つけてくれた。


歩「あ、いた。」


花奏「歩…。」


てこてことリズムよく歩いてきて

私の座っていた椅子の元にまで来てくれた。

大きめの黒いリュックを背負う彼女は

どちらかと言うとリュックに

背負われているように見える。

いつも、いつも

見つけてくれるのは歩だった。


歩「ん。なんか休みの日に会うの久しぶりな感じする。」


花奏「そうかいや?」


歩「さあ。何となく。」


この口数の少なささえも

歩を象るもののひとつだ。

ひしひしと、今歩といるんだって

実感していた。

私も久しぶりな気がしてた。

何でだろう。

2日に1回は会っているはずのに。


花奏「荷物、多いな。」


歩「実家に帰ろうと思ってて。だから小津町が呼んでくれたのが今日でちょうどよかった。」


花奏「ならよかったや。」


今日実家に帰ることだって

随分と前から知っている。

初めての周期から

実にどのくらい時間が経ったのだろう。

喧嘩してからどのくらい経っただろう。


歩「何か用事?」


花奏「あ、そうそう。あんなー」


鞄の中を漁り、

ラッピングしてもらった袋を取り出す。

思ったよりもくしゃくしゃになっておらず、

なんとか人に手渡せるくらいの

綺麗さだといえるだろう。

その袋を見た瞬間、

歩は目をくりっと大きく見開いて

言葉なくただそれを見ていた。


花奏「…早いねんけど、誕生日プレゼント。」


歩「え…?ほんとに…?」


花奏「うん。誕生日おめでとう、歩。」


あぁ。

やっと伝えられた。

しっかりとあなたに正面向かって。

漸く。

…漸く。

辿り着かない15日に想いを馳せるのはやめ

今ある奈落の底のような

11日と12日を選んだ。

ある一種、私が諦めた証拠とも

言えるのかも知れない。


歩「開けていい?」


花奏「うん、開けて欲しい。歩も座ったら?」


歩「ん。そうする。」


すると、何の躊躇もなく真横に座ったのだ。

いつからこんなに距離が近くなったんだっけ。

いつから隣に躊躇いなく

来てくれるようになったの?


何故だか今だけは

歩が死ぬなんて夢の話に思えた。


ぶぉー、と電車がまた

駅の中へ舞い込んでくる。

そのせいか、ラッピングを開ける音は

そこまで気にならなかった。

ふと強めの風が吹く。

マスク越しだけれど、

ふわりと歩の香りがした。





°°°°°





歩「……小津町、ありがとう。」


本当、柄にもなく

歩さんはそっと抱きしめてくれた。

覚えてる。

だって彼女は人に触れられるのを

極端に嫌っていたはずだ。

だから、こんなことをするはずがないのに。

ぼろぼろと溢れては

止まるところを知らず、

歩さんの肩を濡らした。

鼻を啜れば、初めて彼女の香りを

直で吸ってしまった。

少し柑橘っぽいような香りだった。

やがて鼻は詰まっていき

何の匂いも分からなくなってゆく。





°°°°°





案外鼻は覚えているものなんだな。

すん、ともう1度鼻を鳴らした。

もう香りは届かなかった。


ラッピングを開き終えて、

私にとっては見覚えのある

ネックレスが顔を出す。

歩は雛鳥を抱えるように

大切そうに手のひらに広げていた。


歩「わっ…すごい綺麗…!」


花奏「ね、すごい綺麗やんな。」


歩「宇宙っぽい?星?惑星…?」


花奏「そんな感じのモチーフなんよ。」


歩「見て、光に反射させるとほんと綺麗…!」


子供のようにはしゃぐ歩は

空にネックレスの飾りの部分を翳した。

澄んだ青色が歩の肌にこぼれ落ちる。

この横顔を見れただけで

私は今まで頑張ってきて

よかったなんて思ってしまった。

まだ終わったわけではないのにね。


歩「つけていい?」


花奏「え…?そんな無理してつけんでええんに。」


歩「無理なんて何もしてないし、私がつけたいって思ってんの。」


花奏「歩はアクセサリーとかあんまりつけへんから、苦手やと思ってた。」


歩「苦手と思ってたのにこれ選んだの?意地悪?」


花奏「えっと…ちがっ」


歩「冗談だって。大丈夫、言いたいことは分かってるから。」


花奏「ほんまに分かってるんー?」


歩「うん。勿論。」


当たり前のように肯定してくれたのは

私のためなのか

それとも適当に返事をしただけなのか。

どちらにせよ嬉しい返事であることには

変わりはなかった。

歩は話しながらネックレスの金具部分を外し、

自分の首へ回して後ろで止めようとしていた。


歩「確かに私はあんまこういうのって身につけないけど…興味がないって言ったら嘘になる。」


花奏「そうなんや?」


歩「うん。1人暮らしで手が届きづらかったって言うのもあるし、何が似合うかわかんないし…って、やらない理由あげたらキリがないんだけど。」


花奏「じゃあ、ひとつきっかけになったんかな。」


歩「そうだね。小津町のおかげ。」


やや下を向きながら金具を止めるのに

苦戦しながらもそう溢してくれた。

違うよ。

全部歩のおかげだよ。


頭はまともに話を聞いていなかったのか

自分を否定する言葉ばかり浮かんだ。

それでも今、歩が喜んでくれているのが

とてつもなく嬉しかった。


歩「…あのさ、悪いんだけど後ろ、つけてくれない?」


花奏「え…私…?」


歩「以外いないでしょ。」


花奏「…そうやね。」


私が触れたら歩は消えてしまうのではないか。

そんな不安がいつの間にか

思考を支配していた。

だから、歩に自ら触れるのは

怖くて怖くて仕方がなかった。

けど、頼まれたからにはやるしかない。

そう腹を括り、

自分の荷物を置いて歩の後ろに回る。


歩「ん。お願い。」


花奏「うん。」


自分でも声がうわずって

緊張しているのが分かった。


歩はおろしていた髪を

軽く両手でまとめて

首の裏を露出させた。

もう11月だ。

まだ11月だ

首元が冷える前に

ささっとつけてしまおう。


さっき私が買ったばかりのネックレスを

歩の首の周りに這わし、

簡単につけ終わってしまう。


歩「ありがと。」


花奏「ううん。全然ええんよ。」


歩「いい感じ。どう?」


花奏「めっちゃええやん。歩、黒とか白の服が好きやからちょうど映えるかもね。」


歩「ね。いいアクセント。」


歩はネックレスをつけても尚

惑星のような飾りを

じっくりと見つめていた。

美月の言っていたことはこれだったのかな。

私からのプレゼントだったら

歩は大切にするという言葉の意味を

漸く理解できたような気がする。


花奏「…そろそろ実家の方行こっか?」


歩「あんたも来るの?」


花奏「途中までな。この辺で用事があんねん。」


歩「へぇ。じゃあ途中まで一緒に行こ。」


花奏「うん。」


歩から「一緒に」なんて単語が

出てくること自体珍しくて

思わず返事を忘れるところだった。

それに、歩がこうやって

誘ってくれることが何よりの幸せだった。

歩と一緒にいれることが幸せだった。


通行人や自転車に乗る人たちの

邪魔にならないように

隅によりながらも2列で歩く。

隣には歩がいた。

その幸せを噛み締める。

もうすぐ終わる幸せだから。


歩「朝だっけ、麗香から連絡が来たんだけどさ。」


花奏「…麗香から?」


歩「そう。」


花奏「……なんて?」


歩「オブラートに包むと、小津町の事気にかけてやれって。」


花奏「…。」


歩「だから、あんたから連絡が来た時びっくりした。」


花奏「そっか。」


歩「明日とか明後日に何かあったりするの?」


花奏「え、何で急に?」


歩「だって誕生日分かってて先にくれたんでしょ?」


花奏「うん。…まあ……。」


歩「法事とかあるのかなって思ってたけど、違う?」


花奏「…違うで。」


歩「そうなんだ。」


きっと歩なりに探りを

入れているのだと思う。

そうだよね。

だって明後日も明明後日も

私たちは学校で会える予定だから。


歩「じゃあ何で今日に?」


花奏「歩、教室の中とかでおめでとうって言って騒がれるの苦手かなって思って。」


そうか。

私は歩に対しても

最も簡単に嘘が言えるようになっていたのか。

嘘つきだ。

嘘つきだ、私。


歩「ん。そっか…。」


花奏「…。」


歩「小津町。」


花奏「なん?」


歩「何か困ったことがあったら言って。」


花奏「うん。分かってるって。」


歩「…信じていい?」


花奏「勿論や。」


不安がる歩の言葉ににこっと笑顔で返す。

安心していいよ。

困ったことはないよと言うように。


けれど、それを見透かしたのか

歩がより険しい顔つきになるのを

見逃さなかった。


駅を出て少し歩いたところで

見覚えのある後ろ姿を見つけた。

ハーフアップにしていて、

今日1日、目にした服装だ。


花奏「あ。美月ー!」


そう大きな声で呼びかけると

彼女ははっとしたように

勢いよく後ろを振り返った。

それから、私たちの方へと

駆け足で寄ってくる。

たった今様子見が終わったのだろう。

2時間ほどかかったのか、

随分長いこと時間を拘束されていた様子。


美月「花奏!歩もいるじゃない!」


花奏「あぁ、そうなんよ。たまたま駅で会うてん。」


歩「え?」


美月「あら、そうだったのね。」


歩「……ま、うん。」


歩は一瞬戸惑いながらも話を合わせてくれた。

やっぱり適応能力が高いのだと思い知った。

そこからは歩きながら話すことにして。


歩いてるうちに自然と私と美月が横に並び、

歩は後ろにつけていた。

何度か場所を変わろうと

それとなく動いてみたが、

結局交代はできなかった。

それこそ、私を後ろから

観察しているようにも取れて。


花奏「そういや、用事は終わったん?」


美月「えぇ、漸くね。」


歩「何してたの?」


美月「パパの知り合いが倒れて、ちょっとお手伝いに行ってたの。」


歩「面倒くさそう。」


美月「そんなこと言わないの。確かに人使いは荒かったけれど…。」


花奏「結構時間かかったんやね。」


美月「カーテンの付け替えとか買い出しとかまで頼まれちゃったのよ。」


歩「断ればいいのに。」


美月「流石に倒れた人にそんな酷なことは出来ないわ。」


歩「お人好し。」


美月「歩に言われたくないわよ。」


2人とも目元を細めて

楽しそうに会話をしているのが窺えた。

2人は元々喧嘩をしていて

ひと言さえ口を聞かなかったのに

今じゃこうして和解している。

それに安心感を覚えた。


そんな安心感は簡単に砕かれると

私はもう知っていた。

けど、知らないふりをしていたのかもしれない。

今日ばかりは普通の日が来ると

信じてみたかったのかもしれない。


美月「そういえば歩は何でここまで来たの?実家?」


歩「そう。呼びだされたの。」


花奏「そりゃ呼ぶやろうに。」


歩「うちの家は誕生日とかクリスマスに限らず、意外と行事ごとやるしね。」


花奏「豆まきとか?」


歩「それとか、柚湯、七草粥…。」


美月「あら、しっかりやってるのね。」


歩「お母さんがそういー……はが、か…っ!?」


美月「……えっ…?」


知っていた。

知っていて、止めなかった。

私は馬鹿だな。


歩の背後には見知らぬ

…否、見知った男が立っていた。

何回も見た。

何回も悪魔のような笑い方を見てきた。

狂ってる姿を見てきた。

あのけたけたと笑う声だって

何度も聞いてきた。

もう、聞き飽きるくらいには

聞いてきたんだ。


歩「ーぁぐ………はっ…?」


美月「歩、歩っ!」


美月がふと隣からいなくなる。

歩の背後にいる奴へ飛びかかろうと

地面を蹴り上げていた。


凄いな。

怖くないのかな。


美月「歩から離れなさいっ!」


歩「ゃ………い゛…っ。」


美月「離れてっ!」


歩「い゛…だい、ぃだい痛っ…!?」


美月「この」


私はただ突っ立って

冷たく眺めてるだけだった。

音もなくさっくりと

美月の体に何かが刺さっているのが見える。

お腹の部分に深く深く。


刃物を抜かれた後だからだろう、

歩が声にもならない悲鳴をあげている。

刃物って刺さった時も勿論痛いけれど、

抜かれた後が1番痛いよね。

じんわりと広がる激痛って

どれほど叫んでも逃げていかないから。


歩「あ゛ぁ゛あぁ゛あぁっっ!?」


美月「ぁゆ、ぁゆっ…!…ぁ、ぎっ…」


歩「はぁ゛……ぁ…はぁ゛…っ!?」


美月「歩…ぁ…っ、しっかりして!」


歩「ぁ゛あぅ…ゔあぁあぁぁっ…ぁゔあ゛っ…!」


美月「逃げて、逃げ…はゔ…ぁっ…!?」


前々から思っていたけれど、

この愉快犯は身体能力が高かった。

握力も強くて殴りかかっても

私は死にかけるだけだった。

それを何度も繰り返したせいで

無駄に学んでしまった。

こういう時くらい殴りかかろうという

考えが浮かべばよかったのに。


刃物を抜かれて蹲る美月。

お腹を抑えているのは辛うじて分かるが

出血量はどうなのだろう。

私には何が出来たんだろう。


歩「ぁ…ゃ…やめ゛っ」


それから歩に跨り、

刃物を天高く振り上げる。


歩「…い゛っ……た…すけ゛…っ」





°°°°°





愛咲「あったりめーだろ!友達が困ってたら助けるっちゅーもんじゃね?」


花奏「それだけで…?」


愛咲「だけも何も…大事なことだと思うぜい?」





°°°°°





困ってたら助けるのは

大事なことなの?





°°°°°





歩「そもそもあんたにどんな酷い事されても私、多分許すよ。」





°°°°°





ただ見ることしか出来ない私こと、

本当に許そうなんて思えるの?





°°°°°





歩「小津町のこと、ちゃんと見てるから。」


花奏「あ……ぅ…ぁ…」


歩「頑張ってるよ。小津町はいつも頑張ってる。私が見てる、気づいてる。」





°°°°°




私は。

…私は。

今も許されない行動をしている。

なら、もう何したって同じだ。


美月「ぃ…や…。」


花奏「…っ!」


その時ふと自分の体が無意識のうちに動いた。

きっと、今までの行動を

学習してしまったが故だろう。

歩が刺された。

なら私も刺されなきゃ。

そんな学習をしてしまった。


ぱっと出た手で

振り下ろされる包丁の刃を

思いっきり握った後

そのままの勢いで地面を転げた。

それには流石の愉快犯も

歩からは離れざるを得ないほどの

衝撃だったらしい。


歩「ぁ……あ゛ぅ…こ、づま…!?」


花奏「…っ?」


初めてだ。

初めてのことに驚きを隠せなかった。


脇腹以外が先に傷つくのは

初めてのことだった。


だが手のひらには多量の血。

摩擦も生じたために

深く深く切り付けられた様子。

血さえ止まれば

白だか黄色だかの脂肪や筋肉が

見えてくることだろう。

この深さだったら

縫わなきゃいけなくなるだろうな。


何処かから悲鳴が聞こえた。

美月なのかもしれないし

歩かもしれない。

将又全く別の人、

それこそ通行人かもしれない。

その声が聞こえても尚

犯人は歩を殺すのを止めようとしなかった。


花奏「…そうよな。」


歩「はや、く…にげ、てぇ゛…!」


花奏「もう、後戻りできひんもんな。」


歩「に、げ」


花奏「だからいっそのことって…快楽に委ねたんやな。」


今も許されない行動をしている。

なら、もう何したって同じだ。

そんな考えが湧いたのだろう。

あぁ。

私はこいつと同じ考え方だったのか。


花奏「なぁ。」


私は近くにいる歩には

一切視線を向けずに

例の黒フードを被った男に話しかけた。

聞く耳など全く持っていないようで

また歩へと駆けてゆく。


花奏「待ってや…っ!」


犯人の腕を掴むとそのまま体を翻され、

予定調和の如く脇腹をさっくり。

そう。

これだよ。

これが正しい順路だ。


左の脇腹を刺された事実に

思わずにやけが止まらない。

ふと覗いたフードに隠れた素顔は

私の様子を見た刹那、

一瞬たじろいだ様に見えた。


花奏「ぃ゛…なあ、愉快犯…。」


こんな痛み、刺されなくとも

常時感じているせいで

刺されている事実に、痛みそのものに

鈍り出していた。

それに気づけなかった。

痛いものは痛い。

けれど、なんだかおかしいのだ。


脇腹を刺されたまま、

犯人の腕をしっかりと掴んで

私の体から刃物が抜けない様にする。

早く歩を殺そうとしているのか

刃物を抜こうと上下左右に

咄嗟に揺さぶってくる。

内臓をかき混ぜられているようで

気持ち悪くて痛くて仕方なかった。


花奏「……歩…殺すま、えに゛…私の事、殺しぃや…。」


歩「…っ!?」


美月「花奏、何言って」


花奏「死にた、い…んよ…なぁ…ぁ゛…っ。」


愉快犯の黒パーカーは

どんどんと私の手から滲みゆく血を

吸い取っていった。

今、こいつはどんな顔をしてるのだろう。

笑ったのだろうか。

恐れたんだろうか。


死にたい。

初めて言葉にした。

してしまった。

向き合わない様にしていた。

この感情が湧いていることから

目を背け続けてきた。

けれど、口にした瞬間

これは本心だと確信したのだ。

おかしい。

可笑しかった。

歩は何の罪もなく死ぬのに

歩を殺し続けている私は

延々と生きているのだから。

そんなの、おかしかった。





°°°°°





歩「小津町。」


花奏「なん?」


歩「何か困ったことがあったら言って。」


花奏「うん。分かってるって。」


歩「…信じていい?」


花奏「勿論や。」





°°°°°





信じてくれたのに、ごめんな。

私が歩を信じれへんくなってて、ごめん。

ごめんなさい。


花奏「……今回、こ、そ…しっか、り゛…殺してな…?」


痛い思いをするだけして

結局宙ぶらりんになるのだけは

もう勘弁してほしい。

歩は絶対死ぬ。

私は絶対生きる。

なら、ひとつを変えてしまえば。

絶対生きていた私が死んでしまったら。

そしたら歩はどうなるんだろう。

そこに因果があると決めつけて、

愉快犯の腕を握ったまま笑いかけた。


ほんの一瞬、犯人の動きが

止まったかと思えば、

私が気を抜いた瞬間に

刃物を勢いよく抜き去った。

それから何か心に決めたのか、

片手に白光りする凶器を構えた。

無論、私に向かって、だ。


漸く終わりが見えた。

この長い長い昨日と今日が

やっと終わるんだ。

嬉しかった。

とうの目標なんて忘れかけて

いつしか終わることだけを望んでた。

この憎い犯人によって

終わりを迎えられることだけが

唯一残念な点だけど。

でもそこまで高望みはできない。

もう、いいや。

そう思った時だった。


ふと。


花奏「……っ!?」


ふと、過る。

…過る、人影。


歩「…………ぁ゛…んぐ、ぁ……」


花奏「…ぇ……何で…?」


歩「ば………かぁ゛…っ…!」


私を突き飛ばしたと思えば舞う鮮血。

あぁ、もう駄目だ。

今回も駄目だったか。

失敗だ。


花奏「………歩…。」


歩「死なせな゛ぃ…ぜった」


ぐぶ、という水音が聞こえたかと思えば

転げた歩に再度跨り、

邪魔が入らないよう焦って

何度も突き刺す愉快犯の姿が目に入る。

何度も何度も突き刺して

終いにはいつものように笑い出す。

ここまでがテンプレート。

愉快犯はひとしきり歩を刺したあと

私と美月を一瞥し、刃物を捨てて逃げ去った。

残された私と美月はただ呆然とするのみ。

周りの人がわらわらと

集まり出していることに気がつくのは

まだ先のことだった。


あと少し時間が経てば警察やら救急車やらが

飛ぶように走ってくるだろう。

それまでにはあの廃墟に行かなきゃ。


でも。

久々に情が湧いた。


花奏「ありがと、歩。」


ぐずぐずになった髪の毛を

優しく整えるように撫でた。

もういなくなってしまったなら

消えてしまう心配もなく触れることが出来た。

ずるいかな。


美月「…かな、で…?」


花奏「ん?どうしたん?」


美月「歩は…?」


花奏「死んでるで。脈ないよ。」


美月「…!…そんな…嘘、よね?」


花奏「……。」


美月「…そんな、そん…なっ…。」


花奏「ごめんな、歩。また駄目やったよ。」


美月「なんで…な…そんな…落ち着いてるわけ…?」


花奏「歩が死んだんやで?そりゃこうなるやん。」


美月「あなた…お、かしい。おかしいわよ…っ!」


花奏「…そんなん前からやろ?」


美月「そんなことない…花奏は優しくて…それで」


花奏「私、変わっちゃったんよ。」


美月「何で…麗香の言ってたことってこれ…だったの…?」


花奏「また麗香かぁ…。」


美月「…さっき言ってたこと…死にたいってどういうこと…。」


花奏「そのままの意味や。」


美月「何で…何で相談してくれなかっ」


花奏「相談したところで忘れるやんか。私だけしか今までのことだって覚えてへんやろ?」


美月「……何のことを言ってるのよ…?忘れないわ。忘れないに決まってる。」


花奏「………この言葉、まんまと信じられたらよかってんけどな…。」


脇腹に手を添えて紅色の液体をぼとぼとと

迸らせながらその場を立った。

いつも綺麗に最後を

迎えさせてあげられないことに

段々と胸が痛んできた。

反面、助けられないことに

胸が痛むことは少なくなっていった。

脇腹は常に痛みを訴えてくるようになった。

変わっちゃった。

変わってしまった。

何もかも、全部。


それから近くに放られた

3人の血で浸された刃物を手に取る。


美月「…っ!?花奏、待って!」


花奏「…美月。」


未だにお腹を抱え込む美月の前に

しゃがんで丁寧に置いてあげると、

きょとんとした顔で

私の瞳を不安げに見つめていた。


花奏「…ほんまに、死んだら駄目なん?」


美月「っ!」


ばち。

そんな鈍い音が鳴ったと思えば

私の視界は揺らいでいて、

しゃがんでいた体勢からバランスを崩し

片手を硬いコンクリートについた。

…頬がひんやりとする。

美月に叩かれたようだった。


美月「ぁ…歩が救ってくれた命を…雑に扱うなっ!」


花奏「…あはは、ごめん。そうよな。」


刃物はそのままにすっと立ち上がり、

美月を置いて歩き出した。

何もないな。

ここには何も。


美月「待って…どこ行くのよ。」


花奏「…。」


美月「待ちなさいよ、ねぇっ!」


答えたって忘れるんだから意味がない。

忘れるわけがないなんて

そんな綺麗事を相手にできるほど

私は大人じゃなかった。

美月の言うことを全て無視し、

通る人々に白い目で見られながらも

あの機械の元へ行った。


そういえば歩の首元、

赤に塗れながらも

仄かに青く澄んでいたような。





°°°°°





歩「わっ…すごい綺麗…!」


花奏「ね、すごい綺麗やんな。」


歩「宇宙っぽい?星?惑星…?」


花奏「そんな感じのモチーフなんよ。」


歩「見て、光に反射させるとほんと綺麗…!」





°°°°°





ネックレスやブレスレット、イヤリング等の

プレゼントの意味。


ずっと一緒にいたい。


花奏「…………ぅぁ…っ。」


ずっと。





°°°°°





歩「確かに私はあんまこういうのって身につけないけど…興味がないって言ったら嘘になる。」


花奏「そうなんや?」


歩「うん。1人暮らしで手が届きづらかったって言うのもあるし、何が似合うかわかんないし…って、やらない理由あげたらキリがないんだけど。」


花奏「じゃあ、ひとつきっかけになったんかな。」


歩「そうだね。小津町のおかげ。」





°°°°°





花奏「……ぇぐっ………うあぁっ…。」


歩いているはずなのに

何故か息切れが酷くなる一方だった。

嗚咽が漏れていることの方が

脳内に残留して仕方がない。





°°°°°





歩「死なせな゛ぃ…ぜった」





°°°°°





急に正気が戻ってきたのか、

今までの比にならない程の

罪悪感が荒波のように押し寄せた。


花奏「んぐっ……はぁ、はぁっ…あぁぁあぅっ…!」


数人から声をかけられただろうか。

分からない。

いつの間にか廃墟の方へ歩いていて。


認めたくなかった。

歩が死んだなんて嘘だ。

違う。

でもさっき、ああもあっさり

歩は死んだと認めたじゃないか。

なのにどうしても今になって

その変わらない、変わるはずのない事実を

否定したくなったのだ。

こう思ったのは久しぶりだった。

最初の数回以来じゃないかな。

最近は歩の死が当たり前になってたんだ。

そう気づかされて胃酸が逆流する。


花奏「……はぁっ、はぁ……ぁゔっ…ぉぇっ…っ!」


ふらふらと壁に手をつき、

口の中の不快感をアスファルトに手放した。

とぽ、とぽと唾液と絡んでも

数滴しかこぼれ落ちない。

ご飯、暫く食べてないんだった。

麗香のくれたおにぎりの一部以外

口にした覚えがない。

吐き出されるものもないのだ。

喉が、口の中が焼けた感覚がする。


花奏「はっ…ひゅっ………っ。」


過呼吸を起こそうがなんだろうがもう。

もういないんだ。


花奏「ひゅぅっ……ひゅ、はっ…ぅうぁっ…!」


蹲りたい。

蹲って大声を上げて泣き出してしまいたい。

でも、そうしてももう…

…慰めてくれる人は、隣にいてくれる人は

もういない。

また。


花奏「……っ…あぁああぁあっ!」


1歩踏み出して。

地獄へと踏み出して。

1歩ずつ廃墟へ、昨日へ歩き出していた。


花奏「はぁぁぅっ……ぁっ…ひゅぅっ…あぁああぁっ…っ!」


奇妙な音を上げながら歩む。

今までで1番悪い期だ。

最悪な期だった。


廃墟に着くや否や

急に膝に力が入らなくなり、

階下で転がってしまった。

まずい。

もうすぐで意識が途切れると

そんな直感が脳内を走る。

何としても入院だけは阻止したくて、

赤子のように手足を使って

階段を這って登った。

砂やら石で服も傷口もぼろぼろで、

深く切り込みの入った掌には

幾つか小さな石が挟まり

その度に激痛が走る。


決死の思いで最上階に着くと

やはり例の機械が佇んでいた。

それが意味すること。

歩は、もう。


花奏「……ひぐっ………ぇうっ…ゔうぅっ…。」


声にならない声が漏れる。

腕をちぎられた獣のような声。

機械の元まで這い、ボタンを押すために

がたがたと震える膝で立つ。


『31202211111025』


久しく数字を確認してみても

何の意味かも分からない

相変わらずな羅列だった。


花奏「はっ、はぁっ…っ。」


死にたい、は言わない。

歩が助けてくれた命だから。


花奏「はっ…ぅ…。」


本当にこれを使うことが正義か?

本当にこれで間違ってないのか?

本当に歩を助けることは出来るの?


…けれど。

けれど、今辞めたら

歩の死が全て無駄になる。

それだけは避けたかった。

ずっとずっと昔から

それだは避けようと心に誓ってきた。


花奏「……ぁ…はは…。」


どうしようもなくて

乾いた笑いが込み上げた。

どうしよう。

どうすればよかったんだろう。

こんな時。

こんな時歩ならどうするだろう。

歩なら現実を受け止めて

しっかり前に進めたんだろうな。

過去ばかり見てる私と違って

あなたは未来へと向かえる人。


…そんなあなたを

やっぱりここで死なせたくない。

歩は私なんかより

生きるべき人だから。

命を大事にできる人だから。





°°°°°





花奏「………歩…。」


歩「死なせな゛ぃ…ぜった」





°°°°°





初心なんてとうの昔に忘れた。

歩も繰り返していたら

絶対死なせないなんて言葉

言わなくなっちゃうのかな。


廃墟は優しく見守るように、

将又突き放すように

閑静な住宅街に佇むのみ。

私には当たり前のように選択肢はなく、

例の機械に乗り込みボタンを押すだけ。


たった今隣に歩がいたなら。

その願いが叶うなら。


花奏「………助ける…。」


自殺願望は私の中に飲み込まれていった。

本音は2度と表には出さないでおこう。

私は普通の女の子。

死にたいとか、思ってない。

思ってない。


花奏「…助けるんだ、絶対助ける、助ける助ける助ける助ける助けるっ…たすけ、助けるっ…絶対、絶対。」


ぶつぶつと呪いのように紡がれた言葉。

それに続き脳内では暗示の数々。

…私は気づく事が出来なかった。


花奏「絶対助ける、助ける助ける助けるんだ…助ける、絶対助ける助けるんだ助ける、助ける…たすけ、る……たすけ…っ。」


最後にふとこぼれてしまった。

その言葉。

本音を…1度だけ吐いてもいいかな。

今なら誰も聞いてない。

だから。


花奏「…た、すけ………て…。」


その本音。

それに気づく前に

変わらず白いボタンを押すのだった。











11月11日



何も変わらない日々だった。











11月12日



変わらない朝。

変わらない熱。

変わらない日々。


花奏「…。」


食べられない日々。

眠れない日々。

痛み続ける日々。


花奏「…。」


美月からの連絡は放置。

やっぱり彼女は相談する以前に

全てを忘れ去っていた。

そりゃあそうだよね。

はなから信じていなかったけれど

心の中にもやもやが残る。

期待しかけたのかもしれない。


ここ最近の周期では

歩を助けようと動いているものの

歩自身と対面することが怖くなり、

会うのは控えていた。

学校は早退して湊とも話さず、

麗香や愛咲らともすら勿論話さない。

スマホで連絡を取って相手の行動を変え、

どうにか歩の生きる道を探していた。

すると、あの最悪な周期で得た

美月の情報が役に立っているのか、

歩を交差点から離しても

美月が死ぬことは少なくなった。

唯一の変わったことといえば

そのくらいだろうか。

美月の連絡を放置すると必ずー。


ぴーんぽーん。

そんな音が家中に鳴り響く。


いつもはどれだけ辛くても

玄関まで行くのだが、

今回はいいか。

もう、いいか。

いいや。


花奏「…。」


今の状態では

まともに喋ることも苦しい。

このきつさにも慣れたものだ。

寧ろいつだかのあの

体調が悪くならなかった周期の方が

おかしいのだから。

最悪の周期からまた何回か過ぎた。

10回はとうに過ぎただろうか。

だいぶ昔のことになっていった。

時間が経つ毎に記憶は混濁していく癖に

罪悪感はしっかりと積もったまま。

雨の音は耳の奥で鳴り続け、

彼女の嗚咽や苦しむ声は

夢の中でも鳴り止まずにいた。


逃げることが出来なくなって数周期。

どこに行けばいいのかすら

判断ができなくなっている。


花奏「…はぁ……。」


布団に潜ったまま寝返りをうつ。

窓が見えた。

狭い庭のようなスペースが

ぎりぎりながら見えた。

昼間だというのに

未だに布団に包まったままで。


もう1度寝てしまおうか。

そしたら…。

そしたら、また昨日へ戻りに行こう。


そう思った時だった。


花奏「…えっ…?」


人影が写ったのだ。

不審者…?

あの愉快犯か…?

…いや、そんなはずはない。

あいつは歩を追っているのだから

私のところには来るはずがない。


そう分かっていながらも

どくんと心臓が大きく跳ねる。

怖さが故か今までお供だった

かけ布団を蹴飛ばして

その場で立ってしまった。


今までこんなことなかった。

ずっと家の中にいた周期なんて

これまでにも数回はあった。

何が作用した?

どうして急に?

それらの疑問は答えられるはずもなく

只管待つことしか出来ず。


次の瞬間、ふと人が見えた。


花奏「…っ……梨菜…?」


梨菜は私の姿が見えるや否や

安心したようにひと息つき、

私に小さく手を振った。

初めて梨菜からの来訪を無視した。

すると心配して庭の方まで足を運び

安否を確認しに来るのか。

梨菜の行動は本当、読めないことだらけだ。


私は観念して玄関に向かい、

かちりと音を鳴らして鍵を開ける。

気だるげにゆっくりと戸を開くと

庭の方から駆け足で寄る梨菜の姿が見えた。


梨菜「急に来てごめんね!」


花奏「…どうしたん。」


梨菜「えっとね、美月ちゃんからー」


またこれか。

この会話を何度したことか。

聞き飽きてしまって

耳にすら入らない。

聞くだけ無駄だもの。

私は今、何をしているんだろう。

何がしたいんだろう。


花奏「…美月は用事やろ。」


梨菜「え?あ、うん。そうみたいだけど……ねぇ、花奏ちゃん。」


花奏「…ん?」


梨菜「花奏ちゃん、やっぱりそんな顔してなかったよね?」


花奏「…何言ってるん。」


梨菜「笑わずに聞いて。」


花奏「…?」


今までこんなことあったっけ?

相当前にも顔が違うだのどうこうと

言っていたような気がするけれど、

こんな断定的な言い方だっただろうか。

梨菜はひと呼吸置いた後、

意を決したような目つきで

私を刺すような眼差しで見つめてきた。


梨菜「私…私ね、今日を何回か見てるの。」


そう、ひと言呟いた。

ひと言。

たった、それだけ。

そして付け加えたの。


梨菜「……花奏ちゃんは何回目の今日なの…?」


花奏「………っ…!?」


あり得ない。

あり得なかった。

信じられなかった。

こんな事、今までなかった。

なかっただろう。

どうして急にこんなことが。


…そしたら、私の今までの行動も

記憶されている…ということ…?


花奏「ぁ…あ…っ……ごめ、ごめんなさいっ、ごめんな、さい…っ!」


梨菜「え…花奏ちゃん…?」


花奏「違うの、ちがっ…許しっ…許して…ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさっ…!」


梨菜「落ち着いて、花奏ちゃん!」


花奏「だっ…ぁゔっ…今までの、こと、知ってるんでしょっ…!」


梨菜「知らない!私何も分からないの。」


花奏「そんなの、嘘に決まって」


梨菜「本当なの。話を聞いて、花奏ちゃん!」


花奏「そんなはずない…!今までのこっ……ー」


あれ。

どうしてだろう。

視界が急に揺らいだ。

そうか。

あれ…?

私、今熱出てたんだっけ?


視界も思考も朦朧としだし、

全てが霞んだ先に、

歩の影を見た気がした。





***





「何か今日、小津町と初めて会った時の事思い出したから戻ってきたかった。」

「もう勝手にして。」

「それでも小津町が帰るっていうんなら付き合う。今日は隣にいるって決めた。」

「そうだね。小津町のおかげ。」


何故か、歩の声が反芻して聞こえる。

ここはどこなのだろう?

真っ暗。

真っ暗?

目を閉じている気がするような。

…疑問を感じてそっと目を開ける。


花奏『…学校。』


そう。

学校だった。

けれど私には1つ確信があった。

これは夢だっていう確信。

夢を見てると気づける夢を見るのは

何度かあったがここまで鮮明なものは

幾度となく見てきたつもりだ。

なんとも気持ち悪くて

落ち着かない気分だった。

ベランダから見える赤々とした空は

両手を広げ私を呼んでいるようにも見えた。

憎々しい気分で1つ大きく息を吸う。


歩「ねぇ。」


花奏『…?』


返事をしようとして振り向くと、

歩の隣には既に「私」がいる。

「私」がいたのだ。

私自身は第三者視点なのだとそこで思い知る。

ぐるりと周りを見渡すと

机が乱立していて、

なんだかヤンキーが多数いる学校を思わせた。

そのうちの1つの席に歩は、

…歩は、首から上がない状態で座り、

その真前に「私」がいた。

いつもの休み時間の時のよう。

そう、歩が鮮血に塗れていること以外は。

歩は怠そうに肘をつくことなく、

だらんと力なさげに話を聞いてくれるのだ。

視界に入る「私」を含めた二人からは

私のことは見えていないらしい。


歩「なんで私なの。」


花奏「…分からへんよ。」


歩「なにそれ。」


花奏「…っ。」


全ての始まりはTwitterがおかしくなった事。

日に日にフォローしている人の欄が

増えていく中で最後に

追加されたのが歩だった。

再会を果たしてすぐは、

この人が恩人だということに気づいたけど

どうにも人柄が違うように映ったんだっけ。

それでも歩と仲良くなりたくて

ただひたすらにがむしゃらに話しかけて

付き纏うようになって。

今思えばストーカーやメンヘラと思われても

おかしくないくらい

歩にべったりくっついてた。

歩も歩で当たり前な反応というか、

嫌がる素振りはそこそこに見せていた。

けれど本当に嫌がってはいなくて

悪態を吐きながらも私に付き合ってくれた。

その後もいろいろな不可解に苛まれ。

いろいろな光景が鮮明に脳裏に浮かぶ。


その中で苗字だけど呼んでくれるようになって、

いつの間にか夕ご飯を一緒に食べる仲になった。

今やいなくちゃいけない大切な存在。

…そうだったはずの存在。

正直言葉で表せないくらい大切になっていた。

なっていたはずだった。

彼女のいない生活なんて考えられずにいた。

今じゃ手に取るように

考えられるようになった。

だから卒業という言葉が怖くて。

本来なら私も卒業する年だが

退学してる等の影響で一緒には卒業出来ない。

そもそも卒業まで

辿り着けたならの話だけど。


そんな回想をしてるうちに

目の前にいる2人の会話は進んでいた様子。

最近は過去に思いを馳せてばかり。

未来なんて永劫見えないのかな。


歩「小津町。」


花奏「なーんや?」


歩「私、許さないから。」


ーーーゃん。

ーーーちゃん…。

ちかちかと点滅したのち、

その現実的な罪の意識は

微睡と共に溶けていくはずなどなかった。





***





花奏「はっ…はっ…!?」


嫌な夢を見た。

でも今回はましな部類だったな。

不幸中の幸いか。

浅く肩で息をしながら

とりあえず周りを見渡してみる。

和風の家、いつもの布団、

見えた窓の外、古びた障子。


家か。

私の家だ。

多分、そう。

高鳴る心臓の鼓動を落ち着かせようと

ひとつ大きく深呼吸をした。

深く息を吸ったのはいつぶりかな。

久しくこの行為をしたような。


梨菜「…あ、花奏ちゃん、起きた?」


私の部屋を覗くように

ふらっと現れた顔は、

髪をサイドテールに結ってある

いつもの梨菜だった。

ついさっきまで話していたのに、

遠い昔に会って以来だと勘違いしてしまう程

時間が経っている気がしている。


花奏「えっ…何で…」


梨菜「ごめんね。心配だったから勝手に家に上がって、花奏ちゃんが起きるまで待ってたの。」


花奏「そう、やったんや…ごめんな。」


梨菜「いいのいいの。私が急に突飛なこと言っちゃったのが原因だし。」


花奏「突飛な…あっ…。」


そうだ。

梨菜は、確か私に

「何回目の今日なのか」って

聞いてきたんだよね?

そんな言葉、繰り返してきた人間じゃなきゃ

そもそも出てこないと思う。

梨菜が何回か今日を見ているのも

事実…なのだろう。


花奏「…あのさ、梨菜の知ってる昨日と今日のこと…。」


梨菜「うん。それを話したくて待ってたんだ。」


花奏「……梨菜から見てどうなってるん。」


梨菜「私から見た昨日と今日は何もないんだよ。」


花奏「…は…?」


辛うじて昨日が何もない事には納得できる。

だって何もないのだから。

しかし今日も何もないとは

どういう事だろうか。


梨菜「ただ普通の1日なの。それに、今まで何回か繰り返したんだろうけど、私は記憶が曖昧で」


花奏「待って。繰り返したって分かってるのに曖昧ってどういうことなん?」


梨菜「なんていうんだろう…夢を見た後みたいな感じかな。何となく覚えてるけど時間が経つにつれて思い出せなくなっていく…みたいな。」


花奏「…そんなことになるんや。」


梨菜「忘れていくものだから、いつもデジャブをたまに感じるくらいの日常を送ってるの。日付も進んでるのに11日と12日にいつの間にか巻き戻ってるみたいな感じがしてて。」


梨菜の目つきは真剣そのもので、

嘘ではないんだろうなとは思う。

…そもそもこんな状況になってまで

嘘をつく理由がないというか。

脳内ではまだ雨の音がこびりついているせいか

今も尚雨が降っているような感覚がした。


梨菜「花奏ちゃんはどうなの?」


花奏「どうって…。」


梨菜「昨日と今日のこと、覚えてる?」


花奏「…っ……。」


言葉にされるとされるほど

胃がきりきりと痛む。

それ以上に、悲鳴を上げたくなるほど

脇腹が焼き切れていくような痛みが走る。

…現状を整理するためだ。

その為だ。

必要なことなんだ。

逃げちゃ駄目だ。


梨菜「…無理しないでね。」


花奏「ううん、大丈夫。…ちゃんと話すから…。」


梨菜「うん…。」


それからはゆっくりと時間をかけて、

昨日と今日が繰り返されていると

しっかり覚えている事。

けど繰り返す間に

忘れてしまった周期もある事。

今日、必ず歩が殺される事。

条件によって美月も死ぬ事。

繰り返しすぎて今が何回目の今日なのか

分からなくなっている事。

機械を使ったら昨日に巻き戻せること。

それらを全て伝えた。


話しているうちに段々と

梨菜の顔は曇っていき、

終いには眉を顰めて聞いていた。


梨菜「…そんなことが……。」


花奏「……。」


梨菜「辛かった…よね。」


花奏「…っ。」


私が欲しいのはそんな言葉じゃない。

同情なんていらない。

だってどんなに話し聞かせたって

私になれるわけじゃない。

私の苦しみなんて、歩の苦しみだって

梨菜には分からない。

あなたには分からない。

分からないでしょ。

分かるわけがないんだから。


だからこそ、歩の言葉は

私の体を刺すほど痛くて、

でも嬉しくてたまらなかった。

同情より理解を示してくれた事に

全てが報われた気がした。

…けれど実際のところ、

歩の言葉だったら全て

受け入れていただろうと思う。

例えそれが同情だったとしても。

歩なら。


花奏「…どうすればええんかな。」


梨菜「粗方の事は試したんでしょ?」


花奏「選択肢がありすぎて粗方と言えるのかどうか…。」


梨菜「そっか…。」


選択肢は無数にある。

どの言葉をどんなニュアンスで

話すかによっても

相手の行動は変わっていく。

分かりやすい例を挙げるならば湊だろう。

私の一文一句の音の違いによって

発される言葉が微妙に違ったり

将又唐突に異例の動きをしたりする。

無数だ。

たった2日間でこんなにも

違う未来が隠されているなんて

思っても見なかった。

普通の生活を送っているだけなら

私は気づかなかった。

歩も愛咲も麗香も美月も梨菜も

毎回違った行動をとるのだ。


そして今回だ。

梨菜は特定の動きをしない例外だと分かった。

言い方は悪いけれどCPUではないという事。

梨菜から見ても私はそうではないという事。

…?

待って。

私がCPUではないと気づいたのは

何でだったんだろうか。

だって梨菜からすれば記憶は朧げで

繰り返しているという意識も曖昧。

なのにどうして?


花奏「…何で私が繰り返してるかもって思ったん?」


梨菜「えっ…?…あぁ、だって目が違うんだもん。」


花奏「目…?」


梨菜「そう。雰囲気っていうのかな。今日は思い詰めてるどころの話じゃないくらい重い何かを背負ってるような…そんな目をしてたから。」


花奏「…そうなんや。」


梨菜「確信が持てたのは今回で漸くだったんだけどね。」


花奏「へぇ…今までは?」


梨菜「うーん…こんな顔してたっけ?…くらい。」





°°°°°





梨菜「花奏ちゃん、そんな顔してたっけ。」


花奏「…?」


梨菜「…あ、え、聞こえてた…?」


花奏「思いっきり。」


梨菜「ごめん!こっちの話で…。てか花奏ちゃん顔色悪いよ?」


花奏「ちょっと体調悪いんよ。」


梨菜「そ、そうなの!?玄関まで来させちゃってごめんっ!すぐ出るね。お大事にね!」





°°°°°





そんな会話が相当昔にあったのを思い出す。

前々から思ってはいたけど

ただ体調が悪いだけと思ってたのか。

…梨菜としては繰り返してる感覚が

しっかりとはないから、

その出来事すら最近のことだと

勘違いしてる…なんてこともありそうだな。


そんなに違ったかな。

他のみんなは違いに

気づいていないような気もしたけど。

…あぁ、でもいつか学校に篭った時は

流石に麗香と愛咲には筒抜けだったっけ。

他にもあったのだろう。

私が気づいていないだけで。


それから梨菜は一緒に

どうすればいいかを考えてくれたが、

これといって良さそうな案は

何ひとつ出てこなかった。

出てきたとしても既に試していたり、

現実味がなかったりと

欠けている部分が目立つ。

その間にも刻々と例の時間が

迫っている事に焦りを隠す事はできなかった。

焦るなんて今更すぎるのに。


梨菜「…うーん…じゃあどうすればいいんだろう。」


花奏「…。」


梨菜「いっそ息抜きしてみない?」


花奏「…え?」


梨菜「息が詰まっちゃって周りの選択肢が見えてないだけかも!ね、一旦外に出ようよ。」


花奏「え、でも…」


梨菜「大丈夫、ね!」


うきうきと話す彼女。

今更明るい気分になんて

なれっこないけれど、

一緒になって沈んでこないだけ

ちょっぴりありがたかったかもしれない。


梨菜「だから、外を歩くだけだけど行こう!」


花奏「…。」


梨菜「お散歩に付き合ってくれないかな…?」


付き合わせてるのは

間違いなく私の方なのに、

こういう言い回しができるあたり

大人だなと感じた。

私なんて18になってもまだ子供のまま。

大人になり損ったと

失望感に塗れてゆくばかり。


結局、服を着替えて身支度をした後

梨菜に連れられて外に出る事になった。

歩が死ぬ時間までは2時間弱程あり、

一応行動しようと思えば

出来るくらいの時間だ。

歩に会おうと思えば出来るくらいの。


外は嫌気が差すほど快晴で、

昨日の雨はどこに行ったのか

何度も恨みたくなった。

否、実際恨んでいた。

照りつけるような秋の日差しと

戯れるように楽しげに歩く梨菜。

この人はいつも陽の元に

いる人だと感じさせられる。


梨菜「ふんふふーん。私、元々散歩しててこっちまで来てたんだよ。」


花奏「…!」


梨菜「どうしたの、そんなはっとして…」


花奏「だからこの辺にいたんやね。」


梨菜「…?…そうだよ?」


花奏「何か用事でもあったん?」


梨菜「えっとね…私もちょっとだけ落ち込んでることがあって…それで適当にふらふら歩いてたの。」


そう言いながら

照れるように笑う彼女の姿。

梨菜も落ち込むことがあるんだ。

梨菜も人間なんだと

何故か改めて思い知る。


思えば今の今まで梨菜が

この近辺にいる理由を知らなかった。

美月から梨菜だけへと

私の様子を調べて欲しいだなんて

連絡をした訳ではないだろう。

私抜きのグループを作ったか

個人で皆に相談として送ったか。

別にそれは大した問題ではないけれど

いつだかの周期で

麗香が歩へと連絡していたのを思い出す。

何だっけ。

要約すると私に気を張っておけ

…みたいな内容だったと言っていた気がする。

今後もそういう私には分からないような形で

情報のやり取りがされるだろう。

そのことも頭に入れて

選択しろだなんて無理極まりない。

何しろ紙に整理した事を書いたとしても

次の周期には持っていけないんだから。


…いや、ひとつ方法があるかも知れない。

もしも廃墟にあるあの機械の中に

持って入ったらどうなるのか。

けれど戻った先はいつも教室。

…無理だろうか。

服が違う時点で

持ち越せないのは分かっている。

そもそもあのタイムマシン…と

紛いなりにも呼ぶとして、

それはどんな原理で動いているんだろう。

私の意識だけを過去に飛ばして…

…そしたら体は宙ぶらりん?

その先の世界線は?


…考えるのは辞めておこう。

頭が痛い。

パラレルワールドといった類の話は

あまり得意ではなかった。

考えれば考えるほど海を手でかくだけで

隣の大陸へと行こうとするような

無意味なことに感じたから。


梨菜「さ、こっちこっち。」


電車に乗ることもなく

迷わず私の前を歩く彼女。

近所のはずなのに見たこともない

細い脇道を通り、時に薄暗い住居から

偶々外を覗いた人と目が合う。

その度に背筋を得体の知れないものが

ぞわぞわと迫り上がってくる。

梨菜はというと通り慣れているのか

それ一切気にすることなんてなかった。


るん、と1歩踏み出す先には

学校よりも遥かに長い階段。

奥に続くにつれ草木が生い茂る。

周りは相変わらず古びた民家が多いが、

草が整備されているのもあり

一気に陽が照っていた。

家からはそう遠くない。

この階段を上がれば

地域一帯は展望出来るのではないか。

そうとすら感じる階段を通り過ぎて

住宅街をふらり歩いた。


梨菜「んー。やっぱり外の空気はいいね。」


花奏「…そうやね。」


梨菜「…花奏ちゃんはさ、憎くて憎くて仕方ない人とかいる?」


花奏「………え…?」


梨菜「あ、急にごめんね。」


花奏「いや…全然。」


梨菜「気になったの。」


花奏「憎くて…んー、どうやろうね。」


梨菜「いないの?」


花奏「いないっていうか、嫌いだとか許せないだとか思う人はいるけど、憎くて仕方ないとまで言えるかどうか…。」


梨菜「優しいんだね。」


花奏「そんなんやないよ。」


梨菜「ううん、優しい。私は出来ない。」


花奏「梨菜はおるん?そういう人。」


梨菜「いるよ。今でもそれで頭がぐるぐるすることがあるの。」


花奏「…。」


梨菜「それで落ち込んじゃってて。あはは。」


花奏「そっか…。」


梨菜「もし全部の気持ちを閉じ込めておけなんて言われたら…そりゃあ…どうしたらいいか分からなくなっちゃうじゃん。」


梨菜の声が初めて落ち込んだ。

憎い相手。

浮かぶのは愉快犯の顔。


そして、気付きたくなかったが

肌で感じてしまったことがあった。

それは、梨菜の視線の冷たさだった。

何を見つめているのだろう、

自然の先には住宅街が広がるのみ。

目が違うとはこのことなのだろうと

不意によぎったのだった。


花奏「…梨菜?」


梨菜「なあに?」


花奏「いや、何もない。」


何かを聞くのが怖くてその言葉を引っ込める。

踏み込んではいけない一線であると

直感的に思ったのだ。

それ以降日常会話を繰り広げ、

何かしら周期に関して考えることはなかった。

梨菜も気を遣っているのか

繰り返す日々については

話題に出すことはなかった。


その後はいつものような日々を過ごし

いつものように助けることなんて叶わず

いつものように廃墟へと向かって

繰り返すしかなかった。











11月11日



うとうとする。

目覚める。

おはよう、昨日。


目を開けずに眠る。

先生がかつかつと黒板に文字を書いている。


花奏「…。」


ノートがほぼ白いのは当たり前。

びーっと伸ばされた薄い黒線は消さずに放置。

電車内でうたた寝してしまった時特有の

謎にどきどきとした感覚に

襲われる事もなくなった。

板書しなきゃと思わなくなって早数十周期。

シャーペンは握らない。

だから机にシャーペンを転がす事もない。

落とした音が教室に響き渡る事もない。

どうせそれを気にする人もいない。

かか、かっというノートと

黒芯が擦れる音は毎回聞こえた。

学生の特許なんて聞き飽きた。


花奏「…。」


黒板に一部繋がらない箇所がある。

寝ている間に消されている。

もし明後日に生きることがあれば

湊に見せてもらおうか。

…やっぱいいや。

明後日に辿り着けることはない。


今日から明日にかけて

慣れてしまった奇怪な日常を繰り返す。

いつまでも終わらない地獄。

いっそ2年前に小さな町で

酷いいじめを受けていた時の方が

楽だったとまで感じる始末。

そう思った刹那、終わりを告げる鐘。

今日の2時間目が終わる合図だった。





***





湊「花奏ちゃん寝てたね、珍しい。」


花奏「…。」


湊「ありゃ、まだ寝てる?」


花奏「…。」


湊「花奏ちゃん、授業終わっ」


花奏「…早退するわ。」


湊「えっ…?」


花奏「今回も早退するから。」


湊にひと言は残すようになった。

理由はない、気分だ。

何かしら引っかかるところがあったらしい。

自分のことではないように感じているせいか

推測のようなものしか浮かばない。


最近は無意味に繰り返し

周期数は無闇に増えていった。

その都度疑問も増えていった。

私はどうして高校にいるんだろう。

どうして湊と話したんだろう。

どうして廊下を歩いているんだろう。

どうして早退するんだろう。

どうして寝るんだろう。

どうして明日は来るんだろう。

どうして変わらないんだろう。

どうして歩は死ぬんだろう。

どうして私は生きているんだろう。


生きていることそのものに

疑問を抱くようになっていた。

死にたいなんて思ってない。

違う。

私は普通の人だから。

けど、生きていることが

不思議で不思議でならなかった。


花奏「はぁ。」


結局宣言通り早退した。

理由なんて簡単につけれた。

脇腹は常に痛むし

呼吸だって安定しないことが増えた。

それを訴えればベッドで少しの間横になり

そのまま返してくれるのだって学んだ。

最近は心療内科系だったか何かの提案を

されるようになったけど私には必要ない。

いくら怪我しても傷ついても

今日に戻れば治るのだから。


帰る時はやはり、

最寄駅から家までの

ほんの短い距離で雨が降った。

細い細い雨だった。


花奏「……はぁ。」


しち、しちと靴の裏が

コンクリートに染み付くほどの雨は

これから降るのだ。





***





11月12日



ふと。

思いついたことがある。

今までやっていなかった相当突飛なこと。

1度似たようなことはしたっけ。


今までの思い出の土地へ

足を運ぶこと。


前回は…

…とはいえど相当昔のことだけれど、

その時は海や図書館といった近場で済ませた。

今回は大阪まで行こう。

前に住んでいたあの辺鄙な町まで行こう。

どうせお金も時間も命も戻ってくるのだ。

あの時の地獄を思い返せば

今の地獄なんてそうでもないと

思い返すことができるかも知れない。


唐突に決めたことだから

今から新幹線に乗らなければならない。

確実に歩の死の時間には間に合わない。

それでもいいやと思い始めている私は

最早人間ではないのだろう。


花奏「…。」


日帰りを予定してはいるが

念の為一泊分の服や歯ブラシ、

フェイスタオルなどほんの少しの日用品を

そこらに放ってあったリュックに詰めた。

勿論ご飯は食べることなく昔に比べて随分と

不味くなった水道水を口に含む。

それから髪を雑にまとめ上げようとした。

…が。


花奏「………いいや…。」


ふぁさっと鳥が羽を折りたたむように

長い長い髪が宙を舞う。

確かポニーテールをし続けていたのは

真帆路先輩がずっとポニーテールを

して欲しいって言ってたからだっけ。

もういいよ。

したって意味ないんだから。

下ろした髪はもう1度ブラシをかけ

リュックを背負うという理由で

適当に右に流しておいた。


リュックを背に玄関先に立つ。

お金も十二分に持った。

家は既に誰も住んでいないようにも感じる。


父さんのいない家に住み続けて

最低2ヶ月は経っただろうか。


花奏「…。」


会いたいという気持ちさえ忘れ

1人でこの家に住んでいるのが

当たり前のようになっていた。

1人暮らしをしたら大変だろう。

熱が出ても誰も看病してくれない。

ご飯は買いに行かなきゃない。

日付の進まない1人暮らしでは

そんな苦労もなかったな。


花奏「…行ってきます。」


いってらっしゃい。

その言葉なしに家を後にする。

誰の優しさに触れる事なく電車に乗り込み、

新幹線へと乗り移っていった。


車窓では景色が流れていった。

煩わしさを感じたくなかったから

スマホは予め機内モードに設定。

勉強道具なんて以ての外、

本などと言った娯楽も置いてきた。

外を眺むのみ。

そういった落ち着いた時間が

私には必要だったのかも知れない。

息の詰まるような閉鎖的な日常。

そこから抜け出すためにも。


不定期に襲う揺れは

私の体の不調を

思い出させるには十分だった。


きり。

じり。

脇腹は絶え間なく痛むようになったまま

治ることはなくなっていた。





***





花奏「………ぁー……。」


喉の奥から掠れ切った音がした。

感慨深くなったのか

それともここに戻ってきたことに対して

呆れている自分がいるのか。


午後1時頃になって漸く

目的地であった大阪の山奥の町に足をつけた。

懐かしい。

そのひと言に尽きる。


バスから降り立ったこの地は

まるであの日以来時が進んでいない。

未だにあの腐ったような高校は

あれがさも普通だと思い込んで

暮らしているんだろうな。

虫の声がする。

山だからということもあるのだろう、

あちこちで虫の輪唱が絶えず聞こえて

賑やかすぎた。

反面、人はほぼおらず、

街の隅の方でバスを降りたからか

人1人さえ見当たらない。


花奏「…学生は学校やとして…他の人は何してるんやろうな。」


呟きをひとつ足元の石に吸わせ

そのまま足で蹴り飛ばした。


いろいろな思い出の土地へと

足を運んでいった。

暫く歩き回り、たどり着いたのは家だった。


花奏「…。」


久々、それこそ2年ぶりに

過去住んでいた一軒家へ訪れた。

その姿は似ても似つかない姿だった。


木造ではなかったために

構造がところどころ露出しているが

大部分は燃えてしまったのか

黒焦げになっている。

今でもなんとかどこが玄関で

どこがキッチンだったかは思い出せるけれど、

過去の風貌は悉くない。

キープアウトなどの

テープも貼っていなければ

その他注意を促すものが何ひとつなかった。

この町の一部になったんだろう。

忌むべき一部に。


私の記憶が正しければ、

父さんに過激ないじめのことを話して

その当日に家具は全て置いて

この町を出ることにした。

おばあちゃんの家が神奈川にあり、

そこは今誰も住んでいないと言って。

町から出る時、車の中から

後ろをじっと見つめていると

人影がちらついた。

その人影はきっと森中で、

手には…手には、ポリタンク。

油かガソリンだと直ぐに判断がついた。

私の家の方へ向かい

ポリタンクを持ち運ぶ森中。

やる事はひとつだろう。

森中が燃やしたのだ。


花奏「……ただいま…。」


あの頃から父さんは既に

仕事で忙しそうにしていたな。

帰ってただいまと口にしても

誰も返事なんかしてくれなかった。

それが当たり前になっていて

日常と化していったけれど、

どこか寂しさは拭えなかったんだと思う。


扉はないが故にそのまま

家の中へ入ってゆく。

靴を脱いでも靴下は真っ黒になるし

そもそも瓦礫が多くて危険だったから

靴はそのままに家に上がる。

階段等は流石に分かるのだが、

そちら側が特に損傷が酷かったらしく

登るのは危険極まりなさそうだった。


どうしてこの家がこのまま

残っているのか甚だ疑問だったが、

解体費用がかかることを思い出せば

すぐに納得がいった。

元々町以外で暮らしていて突如混入した異物。

そんな奴らの家なんて誰がお金を払ってまで

解体したいのだろうか。

…そういったところだろう。

この町はおかしかった。

狭い世界だった。

そう、狭すぎたんだ。


花奏「………。」


未だに焦げ臭さが残っている気がする。

トイレを覗けば黒い灰のようなものが

便器の中にこびりついて固まっている。

一部壁は残っているものの

悪霊が取り憑いているかのような

模様が染み付いており、

そこら中に大小様々な木の板が

転がり朽ちていた。

靴を脱がなくて正解だった。


ひと通り観察した後、比較的綺麗で周りからも

見られる心配のないであろう

部屋の一角に腰を下ろし膝を抱えた。

最後に通っていた高校に

足を運んでみたいのだが、今はまだ授業中。

学生らに会うのは良くないと

自然に判断を下していた。

私が今高校生をやり直して高1。

当時同い年だった奴らは今や高3。

受験期真っ只中らしい。

就職する人は多そうな雰囲気だけど

実際はどうなのだろう。


花奏「……あんな奴らが町出るとか…最悪…。」


町に高校までは建立されていても

大学は流石になかった。

という事は町から出て都市の大学に通うか

上京等するか、という話になってくる。

就職だってそうだ。

町中で大概就職先は見つかるだろうが

大手につきたいとなれば

町から出なければならない。

あんな奴らが世に放たれるなんて

反吐が出そうになる。


人が死にかけるようないじめは日常茶飯事。

学校側もそれを容認。

…というより学校でいじめがあると

頑なに認めない先生。

何度か目撃しているというのに

改善する余地なし。

私は余所者だったせいで

学校以外でも酷な眼差しを向けられたっけ。

気にしないようにしてたし

学校のことで手一杯だったから

そこまで気にはならなかったけど、

今思えばとてつもなく劣悪な環境。

そんな環境でも、まだ当時の方が

ましだったかもと思ってしまえるほどに

今の私の心は憔悴し切っていた。


膝を抱えたまま顔を伏せた。

ごく稀に通る車の音、虫の声、鳥の声。

耳を澄ませていなくても

聞こえてくる騒音は早々に無視して、

眠るように過去に思いを馳せた。





***





花奏「…。」


時間を忘れ痛みに耐え、

はっとして顔を上げた時には

綺麗な夕焼けの残骸が

朽ちた家の中に焼け付いているのが見えた。


花奏「…そろそろ…やな。」


自然とひとつ、方言で呟きを

落としてみて気づいた。

そうだ。

私、歩と初めて話した時以来

方言を練習して使い始めたんだっけ。

この嫌いな町の方言を。


花奏「……そろそろ…かな…。」


方言は使わない。

使うなんて気持ち悪い。


そう思った私は即座に言い直していた。

あいつらと同じ喋り方をするなんて

この町に染まってしまったみたいで

とことん嫌になる。


機内モードのままのスマホを見るに

時刻は5時手前。

とっくに歩はいなくなった。

機内モードを外せば多大な量のメッセージや

非通知が届くことだろう。

分かっていながらもそのまま画面の光を消す。

リュックはそのまま置いていこう。

もしもの話、高校にまだ誰か残っていたら

色々と物を物色されるかもしれない。

それこそ移動費が盗まれたら

神奈川に戻れなくなる。

貴重品は持ち歩くより隠し置いておく方が

この町では安全とさえ思えた。


私の部屋は2階だから

もう見る事は難しいよね。


何故か今になって過ぎった思想。

それから自分の左手首を見た。

お化粧をして隠していない為に

線になった傷跡が幾つも顔を出している。

そっと触れてみると凸凹していた。


花奏「……行こう…。」


手ぶらで何も持たずに家から出る。

出る時に周りを見渡しても

誰もいなかった事は幸いだった。

昔使っていた通学路を

当時の時の道順のまま歩く。

30分程だろうか、将又それ以上だろうか。

ゆっくりと気ままに景色を堪能する間に

例の高校が見えてきた。

時々学生らしき人とすれば違うも

見知らぬ人ばかりで安心する。

もしかしたら知り合いは

いたのかも知れないが、

私は気づく事が出来なかった。


高校に着くと断りなく敷地内へ入り、

学校の裏手にまわった。

現在私服ということもあり

校舎の中に入るのは流石に憚られる。

なら、何をしに来たのか。

そう問われれば何とも答え難い。


体育館裏の方へ回る。

もう部活は終了したのか知らないが

生徒1人さえ外にいなければ

体育科の中にも1人すらいない。


花奏「…。」


ここで何されたんだっけ。

制服をずたずたにされたような覚えもあれば

例の花火の件だったような気もする。

どこで何されたかだなんて

そんないちいち覚えている方が変か。


体育館裏の花壇を見やる。

手入れされていなかったようで

花々はちりちりに枯れ、

生きていた当時の輝きなどとうに失っていた。

可哀想に、と他人事のように

ひと言だけが頭を掠める。


「……?」


さく、さくり。

落ち葉の季節だったことを忘れかけていたが、

その音でまだ秋だったと認知する。

そしてその足音は私のものではなかったことも

勿論即座に察知した。


花奏「……。」


森中「…あれー…まだ生きてたんやー。」


花奏「…森中…。」


森中「え、何?名前覚えてくれてたん?」


鼻で笑い遇らうように

距離を置いて話しかけてきたそいつこそ

私を当時いじめていた主犯の

森中で間違いなかった。

1番会いたくない奴に会うなんて

本当、ついてないと思う。

ため息なんて吐いても吐ききれない。

もううんざりだ。

髪は切るのが面倒になったのか

下の方で適当に括られている。

2年の間が空いたのだ。

昔はセミロングくらいだったはずだと

回想の中の森中と重ねていた。


第1声が「生きてたんだ?」の時点で

普通の会話ではない事は確か。

きっと全て分かっている癖に。

私があの日逃げたことも、

生きていたことも。


森中「どう、今の生活。楽しんどるか?」


花奏「…。」


森中「無視はないやろ。久しぶりに会うてその態度?」


花奏「第1声が生きてたんだってのもどうかと思うけど。」


森中「生きてたんや、よかったねえっていう意味に決まってるやん。」


花奏「…。」


嘘。

ずけずけと相手のスペースに

無理矢理入ってくるのだって

全く変っちゃいない。

落ち葉を踏み鳴らし近づいてくるのを察した。

けれど、動く気にもなれず

ただ森中を睨みつけるだけ。


森中「何や、そんな目つきするようになったんや。」


花奏「…煙草臭い…吸ってる?」


森中「だったら何やねん。関係ないやろ?」


花奏「…。」


森中「お前も肩に根性焼きしてる癖によく言うわな。」


森中は心底心地よさそうに

けたけた笑うのみだった。

何故だか無性に腹が立つ。

森中が根性焼きと指すのは

手持ち花火で肩を焼き付けられた跡のことを

言っているのだとすぐに想像出来た。


森中「何で今更戻ってきたん?謝れって言いにきたん?」


花奏「違う。」


森中「じゃあ何なん?お前のお友達みーんな、お前の過去知っていなくなりでもしたか?」


花奏「何で…。」


森中「あ?」


花奏「…何で知ってるの。」


森中「本名でTwitterやってるとか、見つけてくださいって言ってるようなもんやろ。」


花奏「じゃあ、かえって名前のアカウントは…。」


森中「誰それ。」


花奏「…え?」


森中「そいつは知らへんな。ま、ええやんか、そんなどうでもいいこと。どうなん、みんなおらへんくなったか?」


花奏「みんなはそんな人じゃない。」


森中「へぇー。随分信頼してるんやね。うちらの時とは大違いやんけ。」


花奏「当たり前でしょ。」


さくり。

また1歩と森中が近づく。

そこそこに鼻の効く私は

確実に煙草の匂いを掴んでいった。

逃げたい。

早く帰ってしまいたい。

こいつとだけは本当に会いたくなかった。

だからこの時間にしたというのに。


日陰だけでなく世界全体が

暗くなりゆく時間の中、

人影は私とこいつのみ。


森中「ただの観光にでも来たんかいや?こんな土地に態々?なぁ?」


花奏「…何で学校にいたの。」


森中「無視かよ。ほんま偉い身分になったな。」


花奏「…。」


森中「学校があったからに決まってるやろ。」


花奏「……他の生徒がいない理由は何。」


森中「二者面談とか進路相談とかでほぼ午前帰りや。途中で学生に会うたんならそいつら面談終わりやな。」


花奏「…あっそ。」


森中「聞いた上でその返しか。なっとらんな。」


さく、さくり。

私の目の前まで来て

足を止めて私を見上げた。

そしてポケットへと

手がスライドしたかと思えば

ふと何か固形のものがちらつく。

強めの風が吹いたせいで

まとめた髪が自由に舞い、

同時に落ち葉も騒音を鳴らして

踊り狂い出した。


森中「またあのお楽しみの時間思い出したいんか?」


花奏「…。」


かち、かち、と首元で鳴る操作音。

容易に想像がつく。

いつだか森中らが私の腕を

無闇に遊びで傷つけるのに用いた

カッターだろう。

冷たい感触を首筋に張り付け、

森中らしくなく手加減しながら

ゆっくりと手前に引いた。


森中「お前みたいな異物な、この町にはいらんのや。」


花奏「………ぃ…ぅ…。」


森中「は?」


花奏「可哀想に。」


森中「あはは、言うようになったな。」


その刹那、頭に何かしらの感覚。

何かと思えばわしゃわしゃと

犬のように撫でる森中の手。

そして次の瞬間、はっきりと

首元に鋭い痛みが走る。

それと同時に脇腹や手の甲にも

電流が流れたような錯覚を覚えた。


急にカッターを引いたのだ。

そりゃあ血は流れるものか。

そうだった。

こいつは、この町の奴らは

殺すことに躊躇ないんだった。

それこそいじめのひとつとして

机の上に猫や鳥、犬の死体を

平然と置いてくる奴らだった。


首元を抑えて呻き声を上げ、

その場で蹲るように膝をつく。

首元を刺されたのは

今までの周期の中でまだ数回。

慣れてない痛みは慣れたものよりも

相当鮮度の良い痛み。

膝をついたからだろう。

地面が大層近くに見えた。

2年前と同じ風景の如く間近に。


森中「昔から何回も言ってんねんけど忘れてるみたいやからもう1回言ったるわ。聞き?」


花奏「…っ。」


がさつに前髪あたりを主に鷲掴み

ぐっと上を向かせ眉間に刃を当てた。

そこは目じゃないんだ。

目ぐらい簡単に刺されると思った。

あの愉快犯と同じように。

微量ながら躊躇ったのか判別はつかなかった。


森中「お前は居るだけ、喋るだけで周りを不幸にする奴やってこと忘れんなや。」


花奏「…!」


森中「お前の周りは不幸ばっかやろ。なぁ、全部お前のせい」


花奏「違う…。」


森中「何が違うん。お前がおらんかったらこの町も平穏を保てたんや。」


花奏「…町のことなんて知らない。」


森中「そうよな。たかが部外者やし。」


花奏「…。」


森中「迷惑してるで、周りの奴ら。別の場所に行っても困らせてんねやろうなぁ。」


花奏「そんなことっ…」


森中「ほんまにないって言えるか?」


花奏「…っ。」


森中「今1番仲ようしてるのは誰やったっけ。ほら、あいつ。歩くみたいな名前の奴。」


花奏「歩が何。」


森中「相当気に入っとるみたいやな。向こう、くっつかれて迷惑してるで。」


花奏「…何が分かるの。」


森中「そりゃあ分かるやろ。お前にくっつかれてええ気になる人間おらんからな。歩って奴も嫌々ながら付き合って、表ではそうでもないフリしてんねん。」


ばっと投げ捨てるように弧を描くものだから

首が無慈悲にもこき、っと鳴った。

勢い余って強く手を地についた。

それからカッターの刃も顔から離れたが、

微量ながら血が流れる。

あの日々は血が流れるのは

普通だったもんな。

懐かしい。

今も大して変わらない、か。


森中の言葉は嘘まみれで

信じる必要なんてないとは

頭では分かっている。

ただ、心が拒んでいた。

歩のことを信じればいいと分かっているのに、

歩を信じることができなくなっている。

迷惑してる。

そうだよね。

散々な目に合わせて、

現在だって死に追いやって

それを迷惑じゃないとどうしたら言えようか。


森中「あん時死んどきゃあよかったのにな。」


花奏「…っ!」


そう呟く彼女の目は酷く冷たかった。

人とは思えないほど。

私もあのような目をしていたのだろうか。

梨菜に言われたんだっけ。

目が違った、って。


あの時、この町から逃げずに

火事に遭いそのまま

死んでいればよかったのだろうか。

そしたら歩に再会もせず

私は今こんな目に遭わずに済んだのかな。

歩は、歩は死なずに済んだのかな…?


森中「お前、逃げたやろ。」


花奏「…やっぱり家を燃やしたの、って…。」


森中「知ってる癖に。」


逃げたと知った上であの家に火を放ったんだ。

おかしい。

普通じゃない。

普通じゃないのは私も一緒…?


森中「今殺してやろうか。」


花奏「…そんなの、願い下」


森中「こんだけ正面から言ってても分からへんねんな。」


花奏「は…?」


森中「生きてる価値がないって言ってんねん。お前は不幸をばら撒く害悪な存在や。居るだけ無駄。なぁ、分かるか?」


森中はしゃがみ、私と同じ目線になりながら

再度刃を向けた。

さっきとは違って少し距離を離しながら。

蔑むような目で私を見下していた。

2年前と全く同じ目つき。

変わらない。

何も変っちゃいない。


生きる価値、存在意義。

全てを否定されても

立ち上がれるような気力が欲しかった。

言い返せるほどの強さが欲しかった。

半ば諦めている自分がいる。

歩を無惨に殺し続ける私なんて

生きている意味など最早ないに等しい。

居るだけで不幸を撒いている。

そう言っても過言ではない。

森中の言うことが正しいと思ってしまう。

そう思う他なかった。


私はどうしたらよかったんだろう。

歩の死を受け入れて

そのまま歩のいない日常を

虚しく過ごしていたらよかったのかな。


ぺたん、とお尻を地につけ、

逃げる意思を示すのなんて辞めた。

手に落ち葉や土がくっついてくる。

日陰だったこともあり

湿り気が良く気持ち悪さが全身を襲った。


森中「なぁ。」


花奏「…。」


森中「昔からお前はすぐに逃げてたよな。」


花奏「…。」


森中「今回はもう逃げんなよ。」


花奏「…あはは…もう逃げれない…でしょ。」


こんなところまで来てしまったんだ。

こんなに繰り返してしまったんだ。

今更歩の死を受け入れて

逃げるなんてできるか。

…出来る、もん、か。

でも。

でももし欲を言っていいのであれば、

全てを投げ出して逃げてしまいたい。

辞めてしまいたい。

救うことを諦めてしまいたい。

全ての責任を捨てて

死んで、しまいたい。


…あれ。

私は普通で死にたいなんて

思ってないんじゃなかったの?


森中「殺したろうか。」


花奏「…!」


それは。

一種救いの言葉だった。


左手を乱雑に取られ、掌を上に向けられる。

薄く凹凸のある腕が

秋の夕日に微々ながら照り付けられて

明らかになってゆく。


あぁ。

私は、最後までこいつの言いなりか。

それは癪だな。

それだけは、少し嫌だな。


森中「傷、だいぶ残ってんねんな。汚っ。」


迷いなく傷の真上にカッターを構えて

ふと私の目を見やった。

冷たい、冷たい目。

本当に変わらない。

何ひとつ変わらない日々だった。

私だけは変わったと、

成長したと言ってやりたかった。

それを証明したかった。

こいつらとは違うと

見せつけてやりたい自分がいた。

いたんだ。

痛んだ。

居たんだ。


カッターを構えた森中の手を

上から掴んでやった。


森中「何や、無駄な足掻きでもす」


そのまま力を込めて。

私の手首により深く刺さるように

力を強く込めてそのまま引いた。

とく、とく。

あー…。

久しぶりに手首が痛む。

その部位が痛む。

痛い。

痛い、な。

間違いなく痛い。

私は生きている。

生きてしまっている。


森中「…っ!?」


森中は私の予期せぬ行動に

心底驚いたのか、

カッターをからりと地に落とし

私の手を振り払った。

落ち葉にじんわりと

私の血が滲んでいく、滲んでいく。


花奏「はっ…はっ…ぃ゛…。」


森中「お前、何やってんねや。」


何でこんなことしてるんだろう。

私は迷いを捨ててカッターを拾い上げた。

それから。

…躊躇いさえも振り払って

また深く手首を切る。


切る。


切る。


切る。


何度も、何度も。

それこそあの愉快犯を

彷彿とさせるように何度も。

肌が紅に塗れても、

服が液体を吸って重くなっても、

地面に黒く染みがついても、

それらを気にすることなく

ただだひたすらに、一心不乱に切り続けた。


私なんて居なくなってしまえ。

ここで何してるんだよ。

歩はまた死んだ。

居なくなった。

私がこんなとこに来ているせいで、

私が何もしなかったせいで。

私があなたの代わりに死ねたなら

どんなにいいことだろう。

居なくなってしまえ。

消えてしまえ。


きっと血が止まっていれば

数多の深い傷が見えるだろう。

それこそ骨ぎりぎりにまで

届いているのではないかというほどの。

そこまでは行かずとも

確実に普段見ない体の内部が

露出しているはずだ。

このまま心臓なんて止まってしまえ。

息なんて絶えてしまえ。

命なんて終わってしまえ。

死んでしまえ。

死んでしまえ。


どうしてここまで思い詰めているのか。

思い詰められているのか

私には到底理解できなかった。

出来なかった。

何も分からなかった。

分かっていないふりをしているだけ。

全て分かっている。

嘘を吐き続けた。

歩を始め色々な人に様々な嘘を吐いてきた。

1番は自分に嘘を吐き続けていたと

この時まで知らないまま生きて来てたんだ。


切って。


切って。


もっと、私が苦しみきるまでー


森中「離せやそれ!」


突如、カッターを持つ手を

強い力で押さえつけられたと思えば

脇腹に物凄い勢いで蹴りを入れられた。

世界が回転して頬にじっとりと何かの感触。

一瞬、私はどうなっているのか

分からなかった。

視界が段々と安定して来たと思えば

蹴られた痛みも加算され

脇腹が今までにないほど酷く痛む。


花奏「か、はっ、はっ…あ゛っ…!」


森中「うちの持ちもん汚すなや、気持ち悪い。」


花奏「ぃゔっ…い゛っ…ぃだっ…っ。」


森中「そうや。気持ち悪いねん。ずっと前から何にも変ってへん。」


花奏「は、はゔっ…っ!」


森中「病んでリスカして被害者ヅラ?自意識過剰も甚だしいわ。」


花奏「あ゛ぅぅ…た…ぅ゛……っ。」


森中「喋んなや。これ以上町を、他人を汚すなよ。さっさと死ねばよかったんやこんなやつ。」


横になった視野のまま。

目の前に転がる土や葉の着いた

酷く汚いカッターを拾い上げた。


森中「私が前科負う必要なさそうで安心したわ。勝手に自分で死ぬやろ、なぁ?」


花奏「た゛っ……ぅぇ…っ…ひゅ、ひゅうっ…。」


森中「嫌なもん見せられたもんや。ほんま気ぃ悪い。2度と町に来んな。」


浅い呼吸が脳内で反芻する。

それ、知ってる。

昔にも何度かやったもの。

軽い過呼吸、だろうか。

息が吸いづらい。

その上全身が痛い。

肺も、首も、腕も、腰も。

痛い。

痛くて仕方がない。


かさ、かさりと

音が遠ざかってゆく。

残ったのは吐き気のする煙草の匂いと

むせ返るような鉄の匂いだけ。


花奏「はゔぅっ……あ゛、ぅ…。」


つぅっと、眉間辺りから

血が流れた。

…のだと思う。

頬を横切ってそのまま地へ吸わせた。


花奏「ぁ゛……ぁ、ゆ゛ぅ…っ…。」


歩。

無意識のうちにその名前を口にしていた。

信じられない。

もうあなたのことを信じられない。

今までの慰めや励ましの言葉全て

嘘だったように思えてしまう。

本当は迷惑してたんだよね。

私は邪魔でしかなかったよね。

それでも、プレゼントをあげた後の

あの目の輝きを嘘だと思いたくなかった。


でも。

でも、もう信じられない。

どうしよう。

死んでしまいたい。

どうして私は毎回生きてしまうの。

このまま息絶えられたら。

…そしたら、歩は?

これまでのことから逃げるの?

それでいいの?

逃げていいの?

歩は許してくれるの?


どうすれば。

どうしたら。


花奏「…た……ぅ゛け、て…っ。」


どうしたら救われるんだろう。











11月11日



……。

…。

痛みが少ない。

戻って来たらしい。


花奏「…。」


結局、散々自分を切り付け

悶え苦しんだ後冷静になってみると、

やっぱり逃げるわけにはいかないなと思い

大阪の荷物を置いた家まで

真っ暗な道を静かに歩んだ。

幸いなことに誰ともすれ違わず、

リュックもその中身も

奪われていなかった。


そこから服を着替えたり、

持って来ていたタオルで

ひとまず傷をぐるぐると巻いてみた。

傷は大体凝血しており、

タオルを巻く段階で

瘡蓋とまではいかない塊が剥がれ、

再度流血する事も何度かあった。

首も同様にし、マフラーっぽくしておいた。

ここから遠く離れたバス停の近くに

公衆トイレがあった為、

そこで眉間の血は洗い流して。

それからぱっと視界に入る

傷口以外の汚れは落とした。


そしてバスに乗り込み

寝台列車で関東まで帰ったのだ。

車掌さんや周りの客には

相当変な目で見られたけれど、

入院するルートを辿らないだけましだ。

そう思えばこんなことなど

気にするに値しなかった。

電車が揺れるたびに

あちこちの傷が痛んだのは

あまり思い出したくないな。

朝方、覚束ない足取りで

廃墟の最寄駅に降り立った後、

迷うことなくそこへ向かった。

廃墟には朝日を受けずに

機械は立ちすくんでいた。

タオルを剥がそうとすると

傷口にくっついてしまって離れなかったので

そのままにしてボタンを押した。

お腹、空いていたのかな。

ごろごろと腹の虫が鳴いていた。


そこまでが前周期の話だった。

ボタンを押すまでずっと

スマホを確認していなかったから

本当に歩が死んだのか等

何も知らないが、今までの様子を見るに

死んでいて当たり前だろう。

事実を確認するまでもなかった。


湊「花奏ちゃん寝てたね、珍しい。」


花奏「…。」


湊「ありゃ、まだ寝てる?」


花奏「…。」


湊「花奏ちゃん、授業終わったよ。」


花奏「…。」


もしも。

もし、歩が許してくれるなら。

私が死ぬことを許してくれるのなら。

…私はそうしようと思っている。

終わりが見えた気がした。

長い長い地獄がやっと、やっと終わるような。

幸福感に満たされていくような、

そんな感覚で溢れてゆく。


湊「もー、起きてるんなら返事くらいしてくりょーい。」


つん、と伏せたままの背中に

僅かな刺激が加わる。

やめて。

今は放っておいて。

次の授業、サボるから。

何か言い返そうと思って上体を起こし、

湊の机へと視線を移した。

いつからか、彼女の目を見ることは

なくなっていたっけ。


花奏「…。」


…。

…あれ。

…あれ?


花奏「…。」


口は開いているはずなのにな。

おかしいな…?

今までこんなこと、1度もなかったのに。

何で…?

あれ…。


湊「うおお、急に起きてもびっくりするよー。」


花奏「…。」


湊「花奏ちゃん…?」


おかしい。

どうして。

ひと言でいいんだよ。

煩い、でも、何?…でも。

だったひと言。

ひと文字すら。

それすら…。

…それ、すら。


ふと焦点があっていないことに気がついた。

それどころじゃない。

違くて。

今は、気にすることじゃなくて。


湊「…?」


花奏「…。」


どうしよう。

どうしたらいいか分からなくて

その場を立ち、逃げるように

教室を後にしようとした。


一旦逃げ出してしまえば

何か分かることが、分かる、ことがー。


湊「ちょ、待ってよ!」


体が跳ね返ったように足が止まる。

やめて。

やめてよ。

掴まれた左腕は

前周期の痛みが僅かに流れ出す。


湊「ど、どうしちゃったの?急用?」


そう。

そうだよ。

そういうことにしておいて。

クラスの人が数人

視線を向けていることに気づきながらも

必死に何度も頷いた。


すぐさまこの状況から離れたかった。

皆が、ここにいる全ての人が、

私を責めているような気がした。

いらない。

お前はいらない。

そう、言われているような気が、して。


湊「そっか。…えと、ごめんね。引き止めちゃっ」


怖い。

どうしよう。

どうしよう。

どう、すれば。

湊の話も最後まで聞かず、

腕を大きく振って彼女の拘束を離れた。

離れた。

よかった。

よかった。

これで。

…よかった?


花奏「…っ。」


湊「…!」


湊と、久々に目があった。

怯えているような、責め立てているような。

…分からない。

分からなかった。

目的を思い出したのか、すぐに湊へ背を向け

保健室に寄るわけでもなく

学校から飛び出した。

飛び出した。

飛び出してしまった。

こんなこと今まで1度もしたことなかったのに。

リミッターが外れたのか。


雨は降っていない。

だってこの時間だもの。

当たり前だ。


どこへ行こう。

どこ。


すれ違う人々皆が

私を蔑むような目で見ていた。


歩。

歩、のところ。

そこに行こう。

そうだ。

歩に…会いに。

……。


花奏「…。」


…。

…全て、思いつきのまま

行動してしまった。

何してるんだろう。


何してるの。

何で話せないの。


疑問、不安、罪悪感。

全てが重石の如く

私の体に心に乗っかってくる。

歩の家に行ったって迷惑になるだけだ。

森中の言葉を間に受けたのか、

そんな思考にばかり陥る。


不安だ。

不安で仕方がない。

前の周期のこのぐらいの時間の頃、

こんな感情になっていなかったじゃないか。

何が変わってしまったの。

森中のせい?

…大まかに言えばそうだろうけど

実際は違うと思う。

森中は気づかせるきっかけになっただけ。

気づかせる。

そう。


私が今消えたいと思っていることに

気づかせてくれるひとつのきっかけに

なったにすぎないんだ。

きっかけは森中ではなく

歩やその他のみんなだった可能性もある。

偶々忌むべきあいつだっただけで。


花奏「はぁ、はっ…。」


いつの間にか走っていて、

コンビニのあたりを通ったところで

漸く頭が冷えて来た。

錯乱しかかっていた脳は

一旦の落ち着きを取り戻す。

歩の家に行くと言っても鞄も定期券も何もない。

言ってしまえば家にも入れない。

鍵だって学校に置いて来た鞄の中で眠っている。


…家にいれば学校の先生なり湊なり来て

容赦なく問い詰めてくるだろう。

憐れむような視線を向けて

無責任に問い詰めて。

聞くだけただだからって

私の気も事情も知らずに。

…それなら、まだ…。

…まだ、歩に会う方が…楽?

本当に?

楽って何?


花奏「はっ、あぅ……はっ…。」


また大きく1歩踏み出す。

歩の家まで行くとして

徒歩だとどのくらいかかるのだろうか。

陽が落ちる前に着けばいいけれど。


鞄も持たずこの時間帯に

制服姿で歩いている人間が珍しいのか、

通行人がやけに視線を

寄越してくるような気がする。

気になる。

気になる。

怖い。

そう思うだけで頭はまた

ごちゃごちゃと黒い線が絡まってゆく。

逃げるように。

ただ逃げるようにその場から

足を踏み出し続けた。





***





歩が帰ってくるまで3、4時間と

言ったところか。

やはり局地的な雨は私を追うように

ほんの少しだけ降った後、

すぐさま消えていった。

傘も持たずとぼとぼと歩くのみ。

このぐらいの雨なら傘はいらない。

この程度だから。

それに傘を持っていたって意味がない。

その傘は奪われるまたは壊れるから。


いつだかの周期では傘をどうにかして持って

夕立に当たらない方法だって探った。

何回も探った。

それでも何かしら事が起こって駄目だった。

コンビニで買えば折れて、

借りたものだとしても呆気なく強風に煽られ、

強風に打ち勝ったとしても

通った人に強引に盗られ、

盗られないよう強く持てば殴られだってした。

夕立には当たるしかないらしい。

その試行をしてる分、

私は歩をむげむげと殺していた。


花奏「…。」


横を通った人がちらと顔を向けた気がした。

そんなの気にしている暇なんてなかった。


もう限界だった。

とっくのとうに限界は感じていた。

でも見ないふりをして来た。

自分に大丈夫だと嘘を吐き続けていた。

気が滅入るどころの騒ぎじゃない。

それどころじゃなかった。

どうすればいいのか分からなかった。

だから歩の家に行こう…

…だなんてとんだお門違いなのは

私が重々承知している。

しているはずなのに。

私は彼女に顔向けできないのに。

なのに、なぜ足を進めているのだろう。


花奏「…。」


声さえ上がらなかった。

ざあざあと遠慮なく私を打った雨らは

この様子を楽しんでいるようにも見える。


最初の頃はこの雨を避けようと

必死になって探っていたっけ。

思えばあの時はまだ希望を持っていて

何もかもを捨てきれていなかったんだなって。

特に最初の方。

体調が悪いのに美月と出かけて

歩へのプレゼントを買いに行こうとして。

今思えば馬鹿みたい。

そんな全てを選んで

手元に残して置けるはずなんてなかったのに。

滑稽に見えた。

過去の私は滑稽だ。

なら今はどうなのか。

更に滑稽で醜くなった。


花奏「…。」


ようやくの思いで歩のマンションに辿り着く。

結局3、4時間程かかっただろうか。

途中で足が痛くなって、

休憩がてら靴を脱いでみれば

マメが出来ていた。

…けど、このくらいの痛み

何とでもなかった。

過去の私の比べれば。

今までの歩と比べれば何ともない。

彼女のマンションは相変わらず

質素に立ちすくんでいた。


いつかの周期で歩の家を張ってた事があって、

昼の1時半以降は歩の家のある階に

誰も通らない事を確認している。

次に通るのは夕方の5、6時頃。

…その時も私は歩を。

歩を。


花奏「………んぐっ…っ…。」


喉の奥が焼けたように痛かった。

胃酸だ。

胃酸が不意に上ってきていた。

昼ごはんも食べてないから

多分ただの胃液だけ。

けれど吐くわけにもいかず

ただただ喉の痛覚を働かせて蹲るのみだった。


花奏「……はっ…………っ…ぅ…。」


声が上がらない。

変な呻き声しか出ない。

今、きついのかな。

それすら感覚は麻痺して

分からなくなっていた。


寒い。

寒さが故震えが止まらない。

寝てもいいだろうか。

少しだけ。

少しだけ、休憩。

…休憩、していいのだろうか。

そんなことをしてる暇があったら

歩を救う方法を考えた方がいいのではないか。

…救う?

…というより、自分が終われる方法を

考えた方がいいのではないか。

どうしたら歩に許してもらえるのか。

そんな考えがぐるぐるループする。

けれども気づいた時には

私は歩の家の扉前で横になって蹲っていた。

残る体力の中結んでいた髪を下ろす。

真帆路先輩にお願いされたポニーテールを

何の躊躇いもなく解いてしまっていた。


花奏「…………。」


髪の毛で顔を隠すようにしたおかげか

首元があったかくていつしか

目も閉じて闇に依存した。





***





「……………っ!?」


あれ。

誰かの息遣いが聞こえた。

まだ歩が帰ってくる時間ではないはずだから

この階の人…だろうか。

でも、え…?

1時半に人が出たっきりで、

次来るのは夕方じゃ…?


今、何時なんだろう。

私、歩の家の前で横たわってるんだよね?


「…小津町……ねぇ、小津町っ!」


あぁ、待ち侘びていた。

歩に呼ばれるのを待ち望んでた。

その声でずっと呼ばれたかった。

肩に触れられた。

きっと。

そんな感触。

まだ目を閉じていたから

真偽は定かではないけど。

でも、この声は歩のもの。


歩「…!」


寒かった。

寂しかった。

辛かった。

沢山話したいことはあるけど

全部話せないままなんだ。


歩。

私、話したいことがあるの。


歩「小津町起きてっ!」


今なら。

今このまま死んでしまえたら。

そんなに幸せなことはないな。

たった今、消えれますように。

そんな願いを込めてまだ目を開かなかった。


歩「…!…ちょっとごめん、触るよ!」


髪を丁寧に優しく退け、

顎の付け根の方に

ずっと手が伸びてくる。

びく、と僅かながらに体が跳ねる。

11月とは思えないほど指先は冷えていた。

首を絞めるのかつ思いきや軽く抑えらただけ。

と、と、と。

自分の脈が脳まで響く。

脈を確認していたのかな。


歩「…待って、今すぐ家開けるから。」


がち、かこん。

それでようやく我に帰る。

そうだ。

今は歩の家の前で横になっていて。

もう彼女には迷惑をかけたくない。

ここから去らなきゃ。

そうしないと。

そう思った時のこと。


花奏「……………ぅ…。」


歩「小津町っ!」


起きなきゃ。

そう思って体を少し動かしたら、

腰だか腕だかに激痛が走り

思わず呻き声が上がった。

それを聞きつけた歩は

急いで私の元に駆け寄ったからか

開きかかっていたドアが1度閉まる。

どん、と壁のある音を設けて。


歩「小津町、立てる?」


花奏「…………っ…。」


上体をゆっくりと起こし、

目をゆっくり、開いた。

ただ、床を見るように。

彼女から目を逸らした。

目を合わせたくなかった。


歩「……っ!?」


一瞬、歩の動きが止まった。

肩に触れるあなたの体温が

辛くて、でも愛おしくて。


歩「肩かすから、家入って。」


花奏「……。」


…。

…そこまでしなくていいんだよ。

放っておいていいんだよ。

これ以上迷惑かけるわけにはいかないし。

そう思うと私の体は

鉛のように全く動かなくて。

それを見兼ねたのか、歩は私の片腕を

自分の首に引っ掛けた。


待ってよ。

やめてよ。


口にしたかった言葉は出ず、

口を微かに開くだけ。

寒かったのか、ふるりと

歩が微々ながら震えたのを感じた。

歩は私を先に家に入れて、

そして私から離れたあと

自分の鞄を取って家に入れた。

がこん。

そんな風にして私たちは籠城に篭る。

歩は、私へと当たり前のように言った。


歩「早く濡れた服脱いで、洗濯するから。あと先お風呂入ってあったまってよ。」


花奏「……。」


歩「小津町……?」


ずっと俯いていたまま

玄関に立ち尽くしていた。

帰らなきゃ。

そう思って玄関の扉に向かい、

ドアノブに手をかけた。

私、ここにいたら駄目なんだ。

歩を傷つけてしまう。

だから。


…ここから逃げなきゃと思ったのに、

歩は逃してくれなかった。

そうだ。

前々からそうだった。

歩は逃してくれなかった。


歩「ねぇ。」


ドアノブにかけた手を掴まれ引かれ、

半ば強制的に彼女の方を向いた。

向かざるを得なかった。

バランスを崩しそうになりながらも

なんとか耐える。

ふと。

ふと、綺麗な目がこちらを見据えていた。

目が合って、しまった。


歩「…今日泊まっていって。放っておけない。」


そんなこと言わないで。

どうしよう。

私、ここに来ちゃいけなかったんだ。


いつだかの時と同じように

自分の胸ぐらを精一杯掴んで

制服をくしゃくしゃにして蹲る。

苦しい。

苦しいかった。

泣いてるとも取れるような変な嗚咽が溢れた。


花奏「………………っ………ぅ…。」


歩「……。」


あなたの優しさが

ぐさぐさと心を突き刺していた。

この感情を離そうにも離せなくて

私は抱きしめ返すしかなかった。

この気持ちの名前はなんだ。

罪悪感か。

それとも別の何かなのか。


私は歩に会ってはいけなかった。

いけなかったのに、

顔を合わせた上家に入れてもらって

しかも歩の近くにいるなんて

どうしようもなく

救いようのない人間だと思った。

悟った。

それでも私は自分に弱くて

歩に頼ってしまっている。

それが嫌だった。

嫌いだった。

嫌いなんて言葉では言い表せないほどの

自責の念が積まれていた。


歩「……大丈夫。」


花奏「……っ。」


歩「…気休めの言葉でしかないと思うけど…多分、今の小津町には必要だと思うから。」


ぽんぽんと頭を撫でられる。

長い髪を下ろして

そのままに蹲ったものだから

玄関の床に無惨に広がっているのが分かる。

迷惑な筈なのに彼女は。

彼女は、拒むことも、なく。

寧ろ受け入れて、くれて。


花奏「………………はっ………ぅ…っ。」


それでも。

いくら自責があったとしても

自分が憎くて仕方がなくても

辛くても、苦しくても嗚咽のみが溢れ出て

涙なんて一切流れなかった。

ただただ気持ちが悪い呻き声が

私の耳に歯形を残すばかり。


いつまで経っても

その場を立てないでいる中、

見兼ねたのか歩はそっと手を引いてくれた。

ずっと蹲っている訳にもいかず、

彼女によって立たざるを得なくて。

大切に閉じ込めていた体温が

すうっと消えて行く。


歩「お風呂、入っておいで。」


花奏「……。」


歩「服は用意しとくから。前泊まったときに少し置いて行ったでしょ?あれ。」


花奏「……。」


歩「風邪ひいちゃうと嫌だから。」


髪をさわっと撫でられる。

私は。

私は、そうされる資格なんてないのに。

歩を殺して、ばっかりで。

なのに。

なんでそんなに優しくするの。

私はどうしようもなくて、

声も出さず頷くことしか出来なかった。


これまでで1番苦しい時間になるだろうなと

何となく察してしまった。

あれよあれよと彼女に誘導され

気がつけば浴室にいた。

自己を肯定する思考が全て流れるようにと

願ってシャワーを頭から被る。

暖かかった。

温度差が故熱いのか否か

一瞬分からなかったが、

すぐに順応してゆく。

だんだんと体は温まっていったのか

悴んで動かなかった手も

だいぶ自由が効いてきた。


花奏「……。」


口を聞けるはずがない。

だってその資格がないのだから。

本来なら会うことすらしてはいけないのに。

歩に会う資格なんて。


花奏「……。」


次。

……次。

今期…。

どうしたら。

私は彼女を殺さないためにはどうしたら。

…違う。

どうしたら、彼女を殺さず

自分が居なくなれるのか。


いつからか繰り返して

生き残ることが幸せではなく、

全てを終えて消えてしまうことが

幸せだと信じて疑わなくなっていた。


花奏「…。」





°°°°°





歩「死なせな゛ぃ…ぜった」





°°°°°





花奏「……はっ…っ…。」


凄惨な状況が脳裏をずたずたに引き裂いた。

喉が鳴った気がした。

だめだ、それどころじゃない。

歩を、歩を助けるんだ。

歩をもう苦しめないように。

もう、もう。

もう。

…もう、無理だな。


花奏「はひゅっ…、はっ………はぁっ…!」


視界が一気に揺らいだ。

そんなことをしてる暇じゃないのに。

いや、もういいのかな。

苦しむだけ苦しんで

そしていなくなれるのなら。

でももし消えれなかったら。

歩だけ消えてしまうなら

私は、また。

私は歩と一緒にいてはいけないのに。

一緒にいたら、だって歩が。

歩が。


こと、ごんこっ…。

何の音なのかわからないけど、

シャワーは変わらず

私を刺しているのは分かった。

今まで散々揶揄うように降って来た

あの雨のように。

絶えず、絶えず。


花奏「…はっ、はぁっ………ひゅ…はっ…!」


息が吸えない。

それでも涙なんて出なかった。

ただ苦しいだけだった。

それ以上に歩は。

歩、はまた、ま、た。


歩「小津町っ!?」


座って蹲り胸元を押さえてた私に

これでもかというほど降りかかる水を

あっという間にきゅっと止めていた。

髪の毛に含まれていた水が

一気に居場所をなくしだらしなく落ちて行く。

あぁ、また迷惑をかけたんだ。

歩は1人暮らしだから

水道代とか気にしているのに。

私は。

それに彼女に心配をかけて。

迷惑を。


花奏「は、はっ……はゅ、ひゅぅっ…!」


ばさっと上から何かが降る。

綺麗に肩にかけられて、

その上から背中をとんとんと優しく這う。


歩「大丈夫だよ、小津町。」


花奏「ひゅ、ひゅぅー………はっ…ぅ…うぅっ…。」


歩「そうそう、その調子。」


とんとん、とぎこちないけれど

落ち着くペースで背をなぞるものだから

あぁ、このタイミングで

呼吸すればいいんだって

本能は分かっていたみたいで。

湊の時より酷く視界が滲んだ。


花奏「…ひゅ、…ふぅっ、はっ、は、……ふ、ひゅ…。」


歩「うん、偉い偉い。」


花奏「……ひゅぅ………すぅ、ひゅ……はぅ…。」


歩「大丈夫。私がいるから。」


意図してかせずか

私からは判断はつかないけれど

歩がいる、その事実に安心して首を締められた。

明日には私が歩を消してしまう。

殺してしまう。

いや、そうならないようにするんじゃないか。

するんだ。

する。

する、の。

…。


決意と迷いが常に交錯する。

また、形容できない感情が

目まぐるしく渦を巻いていく。

歯ががたがたとなっていた。

それが歩にも聞こえていたのか、

聞こえていなかったかは分からない。


歩「……大丈夫だよ。花奏のせいじゃない。」


花奏「………ぅー…っ…はぅ…っ…。」


私のせい、なのだ。

何回も彼女を殺しているのは私なのだ。

なのに。

知らないから、だろう。

歩はそう言ってた。

また、呻き声しか出なくて。

会話する権利なんてないから。

声は、出ないから。


少しの間そうした後、

またそうっと離れていった。

また、離れた。

でも顔を上げて切ない顔をして乞うことは

出来るはずもなかった。

まだ蹲り続けるだけだった。


歩「ご飯作ってるから、着替えてこっちきてね。」


花奏「…。」


歩「ドア、あけとく?」


花奏「…。」


小さく、こくんと頷いていた。

咄嗟に歩の姿が確認できていればそれでいいと

判断していた。


歩「うん、わかった。早めに着替えなよ、それこそ本当に風邪ひくから。」


花奏「…。」


また、項垂れたままひとつ頷きを落とす。

風邪なら、ひくことは決まっている。

もう抗えない部分なのだ。

だから今更どうしようとどうにもならない。

…のは知っているのに、歩に言われたからか

1歩ゆっくりと立ち上がって

歩が用意してくれた服に手を伸ばした。

歩は私が着替えるところで

ふと背中を向けすぐそこの

キッチンの火をつけていた。


私が安心する様に、だろうか。

比較的後ろ姿は確認できる位置で

歩は作業していた。

気を遣わせているのだろう。

そう思うたびに胸が苦しくて

時折ひゅうと息が漏れる。

でももう迷惑をかけるわけにはいかなくて

なんとか踏ん張って堪えた。

彼女は私が着替えていることを考慮して

こちらを見ることは一切なかった。

着替え終わって出ようとすると

不意に歩が通せんぼをしてきた。


歩「髪、乾かしたら?」


花奏「…。」


首を横に振った。

風邪をひくのは、

熱が出るのは変わらないんなら

これ以上迷惑はかけてられないと思ったから。

でももし明日失敗したら元に戻る。

失敗しないように、失敗………。

そう考えたらまた震えが止まらなくて。


歩「…そう……私が乾かそうか?」


花奏「………。」


それこそ手を煩わせるよね。

よね?

あぁ、頭が回らない。

なのにまだがんがんと痛みは回る。

少し立ち止まった後

私は彼女の言葉に甘えて

そっとドライヤーを手に取っていた。


側からすれば今の私は

相当面倒くさいと分かっている。

ただ勝手に病んで人に依存して

迷惑をかけるだけの存在というのは

頭の隅では理解している。

限界だとかどうとか言っていようが

そんなの一切関係ない。

だって唯一欲しい結果が

何1つないのだから。

増えていくのは罪だけ。

歩の死のみ。

それだけが積まれていく。


髪を乾かしていても気が気でなくて

ふと肩に何かが触れて顔を上げると、

すっとドライヤーを取られてしまった。


歩「前、向いてて。」


花奏「…っ。」


何から何までしてもらって

迷惑をかけている、迷惑しかかけていない。

そのことばかりが頭を汚染していく。

ざくざくと切り込みを入れられる。


歩「ぼーっとしてたみたいだから。」


花奏「…。」


歩「ほら、こっちの方だけ乾いてる。」


花奏「……。」


歩は手慣れて髪を乾かしていってた。

わしゃわしゃと程よく髪をかき回された。

それと同時に思想も回されているような

気にさえなった。

森中の撫で方とは似ても似つかないほど

暖かくて優しいものだった。


歩「…余計な事してたらごめん。」


花奏「……っ。」


そんな事ないって、

私の方こそ迷惑ばかりかけて

ごめんって言いたかった。

言いたかったのに口は震えるだけで

音を発してくれない。

迷惑ばかりかけている、

それだけで済むのか?

私はそれ以上の事をしている。

しているのだ。

私の罪はどうやったら拭えるのだろうか。


少しの間、時間が過ぎた。

髪は早くもさらさらと空を舞っていて

歩の手櫛でも難なく通り過ぎるほど。


花奏「…。」


歩「……ねぇ、小津町。」


猫撫で声のようなものを彼女は溢す。

いつもきっぱりと嫌なものは嫌と

突っぱねる彼女からしてみれば

とても異様な光景だった。


歩「……ハンバーグ作ってるんだけどもう少し時間がかかりそうなの。待てる?」


…もしかしたら本当は違う事を

言おうとしたのかもしれない。

私に何かを聞こうとしたのかもしれない。

けど歩はひとつ固唾を飲み込んで

別のことを口にしてくれていた。

気を遣わせてるんだって思い知った。

歩は好意でやってくれてる…のかな。

分からない。

彼女を根本から信用できなくなっていたことに

今更改めて気づき吐き気を催した。

けれど喉が焼けるような感覚だけで。

それだけ。

胃液以外出てこなかった。


歩「…小津町っ!?」


かちかち、とドライヤーを切って

私の顔を覗き込むように歩は動いてた。

けれど髪の毛を下ろしてたからか

彼女の顔を見ずに済んだ。

よかったって、それだけが浮かんで。

胃液はざらざらと喉を轢いて

ゆっくりとまた奥へ戻っていく。

何回も唾液を飲んだ。


歩「っ……。」


花奏「……。」


歩が悲壮感に溢れた声を出すたびに

私のせいだってばかり。

私のせいで。

私の、せい。





°°°°°





歩「…幸せ…難しいよね。」


花奏「……。」


歩「いつの間にかなってるもんだと思うよ。幸せって。」


花奏「…なろうと思、って…なれる、もんやない…か。」


歩「なれるよ。あんたが今まで頑張ってきてこの高校入ったのだって幸せのひとつ。小津町自身が掴んだ幸せでしょ。」


花奏「……。」


歩「もっと簡単なことでもいいと思うよ。」


花奏「…簡単……って…。」


歩「ご飯が美味しい。空が綺麗。よく眠れた。沢山話せた。そんなのでもいいじゃん。」





°°°°°





じゃあ、私が今手一杯に持っている

この現状は一体何?


花奏「……っ…ひゅ………。」


歩「……!」


もう、何回繰り返しただろう。

何回あの凄惨を目の当たりにしただろう。

何回あの凄惨を耳にしただろう。

何回喉が鳴っただろう。

何回彼女を苦しめただろう。

何回歩を、歩を。


歩「今考えてること、全部忘れて!」


歩がぐるっと私の肩を持って

半回転ほどさせた。

そこで、ばちっと目があってしまった。

歩は。

歩は、なんだか。


歩「……っ!」


…泣きそうな顔をしてた。

あぁ、どうしよう。

どうすれば。

なんて考えていたら腰に手を回された。

ぎゅって暖かさが滲む。


花奏「……ひゅぅ…………ぅ…。」


ぐっと呼吸を抑える。

じゃないと彼女が心配するから。

全く落ち着かないまま息を止めてた。

すると心臓なり肺なりが

気味の悪い挙動をしていることが分かった。


花奏「…はっ、はっうぅっ…ひゅ、ひゅぅっ……!」


変な声が出た。

少し我慢したらさっきより不均衡で

歪な息が漏れた。


歩「ゆっくり息して。ゆっくり。」


腰に回された手の内の片方が

またさっきのように

とんとんと背中を叩く。

ゆっくり。

ゆっくり息を。


歩「それで、一旦今後ろめたく思っている事を全部忘れて。」


花奏「……ひゅぅ、ひゅ……はぅ…っ……ひゅー…。」


歩「………お願い。」


その声はあまりにも切なくて

喉が切れそうで芯が溶けそうで。

今ある事を忘れる。

そんな事、出来るのだろうか。

出来ない。

出来るはずがない。

だって忘れたら、忘れたら。


歩は一旦と言っていたにも関わらず

私の脳はそれさえ拒むようになっていた。

忘れてしまっては思い出せなくなるような

強迫観念に脅かされていた。

もう、誰も何も私の罪を解くものは

ないのだと悟ってしまうほどに。


それでもひとまずは息を落ち着けることに

意識を向ける。

ゆっくり、ゆっくり。

歩の叩いてくれているペースに合わせて。

まずそうしないと歩を悲しませるから。

迷惑かけるから。


花奏「……ふゅ…ひゅう……………ぅ…。」


歩「うん、上手上手。」


花奏「……ひゅ……………………ぅ…。」


ゆっくり、ゆっくり。

息は落ち着いていた気がした。

安心した。

同時に嫌悪に陥る。

落ち着くと嫌悪し、

過呼吸で上手く息が吸えない時は

何も考えずに済んでることに

気づいてしまった。

後者の方が楽なんじゃないかとも。


少しの間、そのままゆっくりと

背中を叩いてくれていた。

息が落ち着いても、まだゆっくりと。

眠くなってしまいそうなほど

時が流れた気がした後、

不意にまた体温が離れていく。

それが愛おしくて悲しくて安心した。

感情はぐるぐると目まぐるしく移ろいだ。


歩「ご飯、食べれそう?」


花奏「……。」


分からない。

分からないけれど頭は縦に振っていた。

そういえば、最後にものを

食べたのはいつだっけ。

最近の周期では当たり前のように

昼ごはんから食べていない、

食べられるわけがないから。

最近ものを食べたという記憶がなかった。

この体自身は朝に食べているけれど、

心持ち的には、もうどれくらい経ったのか。


歩「…そっか、よかった。」


花奏「…。」


歩「部屋で待ってて。寝ててもいいから。」


花奏「……。」


私はただ項垂れるように

頷くことしか出来なかった。

寝ててもいい、か。

快眠したのだっていつ以来ないのだろう。

いつ眠ったって、うたた寝でさえ

あの、事故の画面が。

悪夢のような現実が。

…いや、今思い出しちゃいけない。

だめだ。

歩が、心配する。

歩が。

……。


歩「……小津町。」


いつから彼女は私の事を苗字で

呼んでくれるようになったんだっけ。

昔はあんた、としか呼ばれなくて。

いつからこんなに大事になったんだっけ。

いつから殺したくないと

思うようになったんだっけ。

いつから殺し続けているんだっけ。


歩「…1度、休憩したら?」


花奏「……。」


歩「私は何にも知らないから苦しめる事を言ってるのかもしれない。」


花奏「…。」


歩「けど、そんなになるまで頑張ってるなら休憩したって報われるはずだよ……?」


報われる……?

…それがわかるのは歩が明日を無事に

生きてくれたときだけ。

その時だけ、漸く分かる。

無駄じゃなかった、って。

休憩が意味するのは歩の重なる死だけ。

それをよしと出来る訳がない。

そんな訳がない。


歩「……話したくなったらいつでも聞くから。」


花奏「……っ。」


歩は。

…歩は、居た堪れないと

言わんばかりの表情を滲ませてやまなかった。





***





それからふと気づけば座っていて、

目の前には机があって、

その上にはハンバーグとお米があった。

出来立てなのか湯気が上っている。


何をしていたっけ、と思えばずっと

今期をどうするかを考えていた事を思い出す。

今期はイレギュラーだ。

今までにない法則だ。

体験したことのない選択肢だった。

この選択がある事で

更に分岐が増えたと言う事に

絶望を感じるほかないとも思った。

逆に救う道があるのかも知れないとも…

…もう、あまりそうとは思えなくなってた。

まだ救える気でいることの方が

おかしいのだ。

私はおかしいんだ。

普通じゃなかった。


歩「いいよ、いつでも好きな時に食べて。冷めたらあっためるから。」


キッチンで洗い物をしているのか、

さーさーという特有の水音が聞こえた。

歩は、食べないのだろうか。

なんて隅で考えていると、

私の心の声が漏れてたのように降ってきた声。


歩「私、後で食べるから。」


いいのだろうか。

本人がいいと言っているだろう。

この葛藤も虚しく私のお腹は

くるくると奇妙に音を立てるだけ。

自分が人間である事が嫌になるような気がした。


お箸を、手に取ってた。

なぜかその手は震えていて、

ハンバーグを割るのだって時間がかかった。

なんでこんなに怖いのか分からなかった。


花奏「…………。」


ひと口。

含んでいた。


花奏「……。」


ほかほかしてた。

そういえば、初めて歩の家に来た時、

一緒にハンバーグを食べたっけ。

それ以降何回目か歩の家に来た時は

一緒に作ったんだよね。

ハンバーグ。

その時は確か歩の家の味に合わせて。

だから。

だから、懐かしい味がした。


花奏「……はむっ…。」


お米を飲むように少量だけ掻き込んだ。

ただただ暖かかった。

懐かしかった。

美味しかった。


花奏「んむ…………はむ……。」


これが、食べたかったんだって。

久しぶりに食べたご飯は

あり得ないくらい美味しくて。

いつだか食べたお寿司やおにぎりとは訳が違う。

美味しい。

ご飯が美味しかった。


花奏「……ぁむっ…ん、む…っ。」


最近は特に胃液しか通らなかった喉が

今は食べ物を通していた。

あの嫌で苦しい

ざらざらとした不快感はなくて、

すうっと喉の奥に流れてく。

喉が焼ける感覚がない。


花奏「……ん、む………ぐずっ……っ。」


何日ぶり…なんてものでは表せない、

何週間も何ヶ月も食べた記憶はなかった。

そんな、何ヶ月ぶりのご飯だった。

その分歩を亡くしてきたんだ。

そんな歩が作ってくれたご飯を

今私は食べているんだ。


花奏「…はん………ぅうっ…ずっ…んむっ…。」


いつの間にか、今まで何が起こっても

流れなくなっていた涙が

堰を切ったようにぼろぼろと流れてた。

食べかけのハンバーグの上に

何滴か落ちたかもしれない。

ぐちゃぐちゃになりながら

無我夢中に目の前にあるご飯を頬張ってた。


花奏「…ひぐっ………っ…んむっ……。」


視界は歪んでて、もう何が何だか

分からないほどだったけれど、

それでも、ひたすらに口にものを入れた。


花奏「はむっ………ずっ……んんぅっ…うぅ…。」


拭う事を忘れたまま。

時間なんて進まないでほしい。

今がずっと続いてほしい。

その願いに反して目の前にあるご飯は

だんだんと減っていくばかり。


花奏「…っ…うぅっ…ぐずっ………ひぐっ…っ。」


歩と、一緒にいたい。

一緒にいたい。


その時だった。

ぽん、と頭に感触があって。


歩「………頑張ったね。」





°°°°°





歩「…よく頑張った。」





°°°°°





それだけ。

それが全てだった。

お箸は自然に止まって

ただ、涙と時間が流れてた。

口の中がからっぽになって。

でも、手が動かなくて。

不意にお箸を机の上に置いてた。


花奏「…ぅううっ……うわあああぁっ…っ。」


みっともなく、声を上げるだけ。

それでも歩は。


歩「…。」


何にも言わずに横から抱きしめてくれた。

何にも言わず、ただ抱きしめてくれた。

歩はそこにいた。

歩が、歩が。


花奏「うああぁあぁぁっ…ぐずっ…ああぁあっ…!」


何にも気にせずに

ただただ声を上げるだけ。

赤ちゃんと同等の事を無意味にしているだけ。

まるで無力な子供のよう。

腕を捻れば泣いてしまうような程。

歩の肩をぽとぽとと頬を伝って濡らしてく。

それでも歩は気にせずに

またゆっくりと背中をさすってくれる。


歩「………いいよ。」


何が、とは言わなかった。

けれどいいんだって漠然と捉えてた。


花奏「うああああっ…ああぁぁっ…ひぐっ…うわあああぁぁああぁっ…!」


どうしてそこまでしてくれるの。

どうしてそんなに優しいの。

私は何にも出来ていないのに。

私は何度も殺しているのに。

もしも。

もしも歩が今の私のしでかしている事を

知ってしまったならば何と言うだろう。

私を虐げるだろうか。

それとも。


歩「…うん………うん……。」


こうやって受け止めてしまうのだろうか。

ここまできたら虐げられる方が楽だった。

貴女の優しさが辛かった。

今こうやって

抱きしめられてることが辛かった。


涙は長いこと止まらなくて。

その間もずっと

歩の手がまだ私の背をなぞる。

私を象ってくれている。


歩「…今まで色々あった事を無理矢理聞き出そうとは思ってない。」


花奏「んっ……ひぐっ…あぁああぁっ…。」


歩「もしかしたら花奏を苦しめる事を言うかもしれないけどね………声に出していいんだよ。」


花奏「ぐずっ…ううぅぅうぁっ……っ。」


力なく頭を振った。

だめなんだよ。

だめなんだ。

口を聞いちゃいけないんだ。

私はそもそも今こうやって

歩に抱きしめられること自体

あってはならないことなのに。

人間として扱われている事さえ

不思議と言っても過言ではないのに。

なのに。


歩「……いいんだよ。」


花奏「ひぐっ……あぁぅっ………んぐっ…。」


歩「いいんだよ、声に出して…私に吐き出してもいいんだよ。」


花奏「ぐっ…うああぁっ……ひゅっ…うあぁああっ。」


一瞬喉が鳴った。

自分でも少し驚いて硬直してしまうけれど

私を覆ってくれる体温のおかげで

全然気に留めずにすんだ。


歩に吐き出す。

それこそだめだと思った。

だから、首を振った。

今まで以上に強く振った。

でも歩は私の後頭部に手を添えて

ぎゅっとしてくれた。

首が振れない程にぎゅっと。


歩「私本人が言ってるからいいの。」


花奏「ひぐっ…んぐっ…ああぁあぁっ、あうぁうあぁっ…!」


歩がいいと言っても…そう言ってくれても、

強迫観念に雁字搦めにされた私には

ぱっと歩に話す事は出来なかった。


歩「……私は小津町が思い詰めることなく過ごせれたらいいなって思う。」


花奏「…ああぁあぅ…あぁぁぁぁっ…ぅぐっ…。」


歩「あんたはどうでもいいことまで背負いがちなところがあるから。」


すっ。

1回だけ、手癖なのかなんなのか

私の背中をさすってくれた。


歩「だからきっと…小津町のせいじゃない。」


そんなはずない。

そんなはずないんだ。

私は。

私は何を。

ぽろって。

何にも考えずに溢れてた。


花奏「……あぁああぁっ…んく、んぐっ……ご、め……な、さ………ぃ…。」


歩「……!」


私には謝罪の言葉しかなかった。

今までたくさん苦しめてごめんなさい。

殺してごめんなさい。

助けられなくてごめんなさい。

迷惑かけてごめんなさい。

心配かけてごめんなさい。

一緒にいたいのにその思いとは反対に

怒らせるような事だってした。

何度も何度も殺した。

歩を苦しませた。


花奏「……ごめ、ひぐっ…ん…なさいっ………ご、めんっ……ひぐっ。」


歩「……っ。」


花奏「ごめんなさいぃっ……あぁああぁっ…うあああぁぁあぁっ…!」


歩「…謝らないで。」


花奏「あぁぁああっ…あぁうあぁぁぁああぁあっ…。」


歩「花奏のせいじゃないから…だから謝らなくていい。…自分を責めないであげて……っ。」


責めないでいる事はもう出来なかった。

もう出来ない。

何回も、何回も歩を無残な姿にさせて

それで今更…今も尚、

自分を許す事はできない。

後頭部に手を添えられているけれど、

無理に少しだけ動かした。

…横に、振った。

出来ないって。

それはしちゃだめなんだって。

自分のした事を許してしまう事は

歩を今まで何回も殺してきて正解だって

認めちゃう気がしたから。

だから。


歩「…っ…………………ごめんね…。」


歩の手に、ちょっと力が入った気がした。

どうして歩が謝るの。

何で。

何でなの。

私はそうさせたかったわけじゃない。

やめてよ。

違うの。

謝るのは私なの。

私の方。

でも、もう謝るなって。

歩、に…言われて。


花奏「ぅ…ぐずっ……うああぁああぁっ…ひぐっ……ああぁぅぁあぁうぁっ…!」


歩「……っ。」


また、声を上げて泣くだけだった。





***





暫くしてゆっくりゆっくりと

涙が止まっていき、

残ったご飯をかきこんだ。

お皿を洗うくらいはしようと思ったが

それすら歩に阻まれ、

結局ベッドの縁に背を預けて

ぼうっとするだけだった。


小さい子供のように指遊びをしてみる。

兎の影絵を作ってみたり、

影絵ではなく蛙みたいなものを作ってみたり。

でもすぐ飽きて手を離す。

自分の体温が散布していき、

ほんのりと冷気が掌に乗る。

窓から冷気が押し寄せる。

まるで海のよう。


花奏「…。」


目元を拭ってみる。

もうからからに乾いていて

涙はもう出なさそうだった。

目が腫れている感じがする。

あれだけ大泣きすればそりゃそうか。

いつ以来だろう。

泣いたのもご飯を食べたのも。

泣いたのは雨の中歩と話した

あの時以来だろうか、

ご飯は麗香からもらったおにぎりを

口にしたあの時以来だろうか、

それとも病院食だったか。

双方とも随分昔のことだと思う。

あぁ。

ご飯、美味しかった。

また食べたいな。


今ならぐっすりと眠れそうな気がした。

悪夢なんて見ずに

眠って起きれるような気がしてた。


歩は洗い物が終わると

ささっとお風呂に入りに姿を消した。

シャワーの音が微かに聞こえる。

日常だ。

多分、これが幸せだ。

こんな幸せ、私が享受しちゃ駄目だな。


きゅっと自分の手を結んだ。

固く固く、逸れないように。





***





ふと。

香りがする。

懐かしい香り。

安心する匂い。


私…。

…そっか。

歩の家にいたんだっけ。

私今、眠ってた?

眠ってたんだとしたら

私は悪夢を一切見ずに

起きるところまで辿り着けたということ。

そんなこと、あるんだ。


真っ暗な世界から逃れるために

目を少しずつ開くと

視界に風景が広がりだす。

いつの間にか布団に潜っていたようで、

深く深く息を吸うと

脇腹が痺れると同時に

歩の匂いがすうっと香った。

恐る恐る目を開けてみると、

机に向かって何かを書いている彼女の姿。

勉強かな。

そうだよね。

受験期だもんね。

…私の相手をしてる暇なんかないのに。


もうここを出ていこう。

朝なのか夜なのかまるで分からないが

出ていかなくちゃ。

そんな使命感に襲われる反面、

体は素早く動かなかった。

布団の擦れる音がする。


歩「…ん、起こしちゃった?」


花奏「…。」


ふるふると首を振る。

起こされたどころか快眠したところ。

そう、伝えられる術がない。

歩はショートスリーパーなこともあり

いつものように布団に潜らず

何かしら手を動かしていた。


歩「まだ夜中だからもう1回寝たら?」


花奏「…。」


歩「…寝れないの?」


花奏「…。」


全ての問いかけに首を振る。

考えること自体が面倒になって来ていた。

けれど、ここに来た理由を思い返す。

そうだ。

許してもらうために…。

…全て終わっていいか。

今までの凄惨な事実を

なかったことにしていいのか。

それを問う、為に。


とりあえずベッドから出て

ベッドを背にさっきのように座る。

ここで寝落ちてしまったのだろうか。


歩「どうしたの?」


花奏「…。」


歩「…何かして欲しいことでもある?」


花奏「…。」


歩「…そんな質問ばっかされても困るよね。」


花奏「…。」


困らないよ。

寧ろ嬉しい。

気遣ってくれるのが分かるから。

だから、嬉しいのに苦しい。

首は横に振っておいた。

髪の毛が目に入りかかるも

目を閉じたおかげで入らなかった。


歩「さっきよりもましな目してる。」


花奏「…。」


歩は何か書く手を止めてから

私に向き合い話をしてくれていた。

止めなくていいのに。

勉強中でしょ?


そう思って机を改めて覗くと

どうやら参考書は広がっておらず、

小さめのノートがひとつ

机を占領しているだけだった。

私の視線に気づいたようで

彼女もそれを見やる。

ここからじゃ流石に

なんて書いてあるかまでは読めなかった。


歩「あぁ、これね。日記書いてんの。」


花奏「…。」


歩「今まで小津町が泊まってきた時にもこうやって書いてたの。知ってた?」


知らなかった。

私が寝ている間やお風呂に入っている間など

目を盗んで書いていたのかな。

首を横に振った。


歩「だろうね。毎日日記書いてんの。」


そうひと言添えると静かにノートを閉じて

部屋にある棚にしまった。

そこには幾つか、

背表紙が違ったり同じだったりする

小さめのノートが林立していて、

今まで生きてきた証が

そこに積まれているのだと知る。


歩は生きているんだ。

今、こうやって。

隣で。


歩「流石に見られるのは恥ずかしいからね。」


花奏「…。」


歩「何しよっか。」


花奏「…。」


歩「散歩でもする?」


今出来ることって何だろうか。

浮かばない。

浮かばなかったから、首を縦に振ってみた。


夜は冷時計を確認すると

2時頃を指している。

真夜中のようだった。


歩「よし、じゃあ行こ。コート貸したげる。流石に夜は冷えるし。」


花奏「…。」


歩「…きょうだいのやつがひとつあったはずだから。そんな顔しないで。」


私、どんな顔してたんだろう?

確かに歩のサイズのものは

私には入りそうにないなとは思ったけれど。


そしてやっぱり歩は

信じられないほどフットワークが軽いなと

思うばかりだった。





***





外の空気は針のようで

息を吸うたびに肺を刺激する。

いつかの周期では

夜な夜な廃墟へと歩いたこともあったな。

あの時は2駅分程歩いた。

今回では軽く5駅は超えた。

もしかしたら10駅も超えているかも。

歩の家までの道のりはだいぶ遠かった。


靴の裏で小石が踊る。

コンクリートに照る街灯の光は心許無く

私たちに影を作るだけ。

側に雑草が申し訳程度に生えている。


歩の髪が揺れる。

邪魔になるからと家を出る直前に

まとめていたっけ。

結べるほどに長くなっていた。

いつの間に。

でも、いつからか

ずっとその長さだった。


全ての周期の過ごした時間を足したら

一体どのくらいになっていたのだろうか。

3ヶ月?

4ヶ月?

半年?

1年?

1年とまでは流石に行っていないと思うが、

半年くらいだったらあり得るかもしれない。


歩「やっぱ冷えるね。」


花奏「…。」


歩「こころからコートひとつ貰っといてよかった。」


花奏「…。」


歩「あ、きょうだいがこころって名前なの。あいつも身長高いんだ。それこそ小津町と同じくらいに。」


花奏「…。」


歩「同じ学校で小津町と同じ学年なの。見たことない?」


花奏「…。」


歩「よくハーフアップしてるんだ。よければ仲良くしてやって。」


こころ…歩の妹さんらしい。

4月に歩の実家へと

足を運んだことを思い出す。

あの時は美月と一緒だったはず。

当時美月と歩は喧嘩してたよね。

懐かしい。


今になっていつからそんな呑気なことを

考えられるように

なっていたのか疑問に感じた。

私は周りを不幸にしてしまうのに。

居るだけ害悪な存在…なのに。


歩「このままコンビニ寄って明日の朝ごはん買ってこっか。」


花奏「…!」


嫌だ。

そう思った時には

ぱっと歩の袖を小さく引いていた。


あ、ぁ。

あ。

何やってるんだろう。

何してるの。

馬鹿。

…脳内でいくら罵倒の言葉の数々が

湧くように出てきたとしても

その手は離れることはなかった。

体と心が分離してしまったような

奇妙な感覚に溺れてゆく。


歩「…?」


花奏「…っ。」


歩「どうしたの。」


花奏「………………ぅ……。」


歩はただ黙って

私の顔を見据えていた。

静かで落ち着いている瞳と

しっかり目があった。

やめて。

こういう時だけ目を離さないというのは

いつ対面しても怖かった。

じっと見つめるの。

それは圧をかけているわけではなく

私は待つよという暗示。

分かってる。

分かってるけれど、

逃げたくて仕方がないと

心が拒否反応を起こしがち。


花奏「…………っ…。」


どうしよう。

困ってしまって袖を引いたまま

力なく笑って見せた。

精一杯の作り笑い。

これが成す意味なんて

あるのか分からないけれど。


歩「ちょっとはじに寄ろうか。」


花奏「…。」


袖から手を離すも手をしっかりと、

離さないようにと握られ

結局逃げられないまま、

近くにあったマンション横の椅子に

横並びで座る。

すると、私は逃げないと判断したのか

手を軽く解いてみせた。

歩は手を握るのを始め

スキンシップを取るのは苦手だったはず。

なのに今周期ではそんな素振りなく

…否。

きっと無理をして私を安心させていた。


ぷらんぷらんと彼女の足が揺れる。

影が伸びたり縮んだり。

街灯のある位置のせい。


歩「…あのさ、直球で聞くんだけど…話すの怖い?」


花奏「…。」


こくん。

縦に首を振った。


多分この感情は怖いんだと思う。

私が話したら、周りに迷惑がかかる。

不幸にする。

してしまう。

…って。


歩「…そっか。昨日の今日で何かあったんだね。」


花奏「…。」


そっか。

私、昨日は普通に話してたんだっけ。

昨日って言ったって

私からすると何ヶ月前の話だって感じだけど。

昨日何してたんだろう。

私は10日に何してたんだろう。

もう覚えてない。


記憶が砂時計の中の砂のように

さらさらと徐々に消えてゆく。

そんな感覚に浸ってゆく。


歩「なんか言われた?」


花奏「…。」


返答に困ったけれど、縦に首を振ってみる。

俯いたまま話を聞いていて、

髪の毛がいい具合に彼女との隔たりになり

歩の顔は見えなかったけれど、

ふと視線を落としたのが分かった。


ぷらんぷらんと揺らしていた足が止まる。

そしていつものように足を組んだ。

街が凪ぐ。

いつも以上に静かな夜だ。


歩「ん、そっか。」


花奏「…。」


歩「私はね、小津町と話すの楽しいよ。」


花奏「…。」


歩「何言っても返してくれてさ。時々私、ほんとにきついことも言った。なのに話しかけてくれた。」


花奏「…。」


歩「ずっと理解しようと近くにいてくれた。」


花奏「…っ。」


歩「誰が何と言おうと私は小津町と話してたいなって思う。」


歩は何とでもないように

さらっと言っていた。

もしかしたら多少の恥ずかしさは

あったのかもしれない。

けど、堂々と言ってくれる彼女は

いつもいつでもかっこよかった。


今日は晴れ。

空も雲はあまりないようで

星が微々ながら光っているのが

見えるだろう。


花奏「………ぁ…ゆ、の…」


歩「…!」


諦めたくない。

図書館で諦めず難問を解いていた

彼女の姿が過ぎった。


いつもいつもあなたに苦しめられて

いつもいつもあなたに救われた。


花奏「…歩…の…………ぅ……作っ、た…ご飯……が、いい……っ。」


歩「分かった。任せて。」


やけに嬉しそうな声が

吹き始めた夜風に混じって耳に馴染む。


ちらと髪を透かして歩の様子を窺うと、

彼女は少し笑っていたような。

笑ってた。

それが、私も嬉しかった。

いいんだ。

喋っていいんだ。

そう思わせてくれた。

微量ながらも心に安心が滲む。

歩はいつも私の手を引いて

真っ暗闇から引っ張り上げてくれた。


歩「なら…パンと卵はあるから…ハムだけ買って帰ろ。」


花奏「……。」


歩「少しずつでいいよ。焦る必要ないし。」


花奏「……ぅ、ん。」


椅子から立ち上がった後、

お尻についた僅かについた

砂や小石を払い落として

近所のコンビニへ向かった。

暗闇の中ぽつぽつと並んでいる街灯の真下。

影は2つ。

隣にはあなた。

紛れもなく歩が。


花奏「…わ、たし…。」


歩「…。」


花奏「私……歩、に………酷いこと、を…沢山してき、たの……。」


歩「…そう?全く。」


花奏「…っ。」


歩「そもそもあんたにどんな酷い事されても私、多分許すよ。」





°°°°°





歩「そもそもあんたにどんな酷い事されても私、多分許すよ。」





°°°°°





歩「強引だなって思うことは常にあったけど…でも、小津町にされたことの中で本気で嫌って思うのはひとつもなかった。」





°°°°°





歩「…あのね、私あんたにされたことの中で嫌って思うのはひとつもなかった。」



---



歩「強引だなって思うときは何度もあった。…ってかそればっかり。」





°°°°°





花奏「どんなに……酷い、事って………例えば…。」


…。

例えば。


花奏「…私が……ぁ…歩の事…殺した、と…っ…しても…?」


ふと。

隣を歩いていた彼女の足が止まる。

不安。

怖い。

助けて。

一気に感情は溢れて

目まぐるしく移り変わり、

彼女の影を追って振り返った。

街灯から少し外れた場所にいるせいで

彼女の顔はほぼ見えず、

どんな表情を浮かべているのか

一切と言っていいほど分からない。


歩「あんたはそんな事しないでしょ。」


花奏「…っ。」


歩「小津町が包丁持ちだして、自分の意思で私を滅多刺しにするとかそんな事起こんないから。」


花奏「何で…そう、言えるん……?」


歩「逆に私の事殺したいって思ったことあんの?」


この問いには必死に

否定の意を伝える為に大きく首を振った。

歩に乾かしてもらった髪が

空を切るように勢いよく揺れる。


思った事ない。

そんな事、1度も思った事なんてない。

歩に生きていて欲しかったから

こうやって何度も何度も

繰り返しているの。

違うの。

殺したかったわけじゃないの。

それを…。

…それを、知って欲しかったのかもしれない。

他の誰でもないあなたに。

歩に。


歩「でしょ?だからありえないの。そんな事態になる確率なんて0%だから。」


花奏「でも…っ」


歩「ないよ。」


花奏「っ…。」


歩「自ら手を下してないならきっと小津町自身が殺したって勘違いしてるだけ。あんたってそういう人じゃん。」


花奏「…!」


歩「余計なとこまで責任負うの。ほんと馬鹿。」


花奏「…。」


歩「でも本当に万が一、もし本当にそんな事が起こったとしても寧ろ小津町ならいいけどね。」


花奏「………ぇ、っ…?」


歩「知らないやつに殺されるだとか災害や事故なんかで死ぬより多分まし。」


花奏「……ぅ…嘘も…大概にして、や…?」


歩「嘘って思いたいならそれでいいけど。」


ぷい、と猫のように

そっぽを向いてしまった。

いつも通りだ。

あぁ。

いつもと変わらない日常だ。


歩「後老衰も嫌。何にも出来なくなってくのは流石に耐えらんない。」


花奏「でも…1番ええん…や、ない…の…?」


歩「特に最後2、3ヶ月は寝た切りになりそうじゃん。自分の変化に打ちひしがれたくない。」


花奏「う、ん…。」


歩「ご飯が美味しい。空が綺麗。よく眠れた。沢山話せた。そんな何ともない日が続くなら全然いいんだけど。」





°°°°°





歩「ご飯が美味しい。空が綺麗。よく眠れた。沢山話せた。そんなのでもいいじゃん。」





°°°°°





花奏「………歩……変わ、ら、へん…な。」


歩「そう?」


花奏「………ぅん…。」


同じ日。

11日と12日。

たった2日間。

人格なんて早々変わるものではない。

知っている。

だけど変わらないなと

思わずにはいられなかった。


歩「そうだ。」


花奏「…ん……?」


歩「ひと言だけ言わせて。」


街灯の下。

立ち尽くしたままに

車が1台通り過ぎてゆく。

特有の攻撃的な光。

寝台列車に乗ったのを思い出す。


歩「私は、小津町と居れるだけで幸せだよ。」





°°°°°





歩「私は、小津町と居れるだけで幸せだよ。」





°°°°°





変わらない。

本当、変わらないな。


歩「だから…負けるな、小津町。」





°°°°°





「負けるな」





°°°°°





はにかむあなたの顔は

夜に溶けていきそうなほど儚かった。

歩に何もない幸せな明日が、明日が。

…来ますように。











11月12日



…。

またいつの間にか眠っていたらしい。

匂いがする。

歩の匂い。

…それから、何か焼いているような。

そんな匂い、音。


ばっと布団を勢いよく捲ると

カーテンが開かれていて

陽が刺すように照っている事に気がついた。

時計を確認すると9時と10時の間。

長いこと寝ていたみたい。


歩「あ、おはよ。」


花奏「……………ぁ…。」


あれ。

昨日、あれだけ話せたのに。

…喉が起きてないだけだろうか。

また、戻ってしまったのかな。


昨晩はあの後コンビニに行き、

ハムとお茶を買って寄り道せず帰宅した。

帰りはどうやって

歩の家まで来たのかを聞かれ、

徒歩で来たと答えたら

物凄く驚いていたっけ。

鞄も全て学校に置いてきて

逃げ出してきたって言ったら

「月曜日腹括って行かないとね」

と笑いながら言っていた。

スマホも全て学校に置いてきたし、

私の住所は学校側が抑えてるからといって

家に行ったとしても誰もいない。

父さんに連絡があっただろう。

でも私自身何も持ち歩いていないから

半ば行方不明扱いかもしれない。


歩には学校だけでも連絡しとけばと

提案はされたけれど、

明日の夕方まで待ってほしい事を伝えたら

迷いもなく「いいんじゃない」とひと言。


くう、とお腹が鳴る。

寝て起きたらお腹が空いていた。

いつぶりだ。

こんな感覚、懐かしすぎて

違和感すらある。


歩「すぐ出来るから。」


花奏「……ん、ぅ…………。」


歩って1人暮らしなんだ。

再確認するように脳内を過った。





***





それから朝昼兼のご飯を食べ、

今日は机を拭くのを手伝わさせてもらえた。

お皿を洗っている音がする。

昨日と同じ。

変わらず、同じ。


歩「そういえばさ、いつ家戻んの?月曜ここから行く?」


花奏「……ぁ…………あ、明日…には…。」


歩「そっか。」


花奏「ぁゆ、今日………。」


歩「ん?」


花奏「……きょ、う……歩、の予定………。」


歩「ないけど?」


花奏「……え、ぇ…?」


歩「…?」


花奏「だ、って…実家、に……」


歩「あぁ、いいのいいの。いつだって帰れるんだし。何なら平日の方が楽なの。学校と実家近いしさ。」


花奏「…………ほんま、に…?」


歩「うん。だから気にするだけ無駄だよ。」


こちらを一瞥して

またシンクへ向かう彼女。

無駄。

そこまで言われてしまっては

そもそも気にしようとすら思わなくなる。

私の行動全てを知っているかのように

言葉を並べられた。


私は机を拭き終わり、

歩が洗い物を終えたところで

再度深く睡魔が襲う。

ベッドの側面に背を寄せる。

最近…とはいえどこの体的には

通用しないが、最近の周期ではよく

寝れなかった日が続いた。

実質眠らず動き続けているのと同義程度の

心的疲労が溜まっていたのかもしれない。

その皺寄せが来たのか

こくりこくりと首から揺れた。


歩「眠い?」


花奏「ぅ、ん…。」


歩「寝ていいよ。」


花奏「………ぁゆ…は…」


歩「私?…んー……今日1日家にいようかな。買いたいものも用事もないし。」


花奏「……うん…。」


歩「眠そう。聞いてないでしょ。」


花奏「聞い……て、る…。」


歩「はい、ほら、布団入って。」


肩をとんとんと叩かれて渋々布団の中に入る。

何も言われなければラグの上で横になって

日に当たりながら猫のように

眠っていたことだろう。


歩「あんたってさ、ほんと聞き分けが良すぎるってくらいいいよね。」


花奏「そうかいや………?」


歩「うん。昨日の夜も声かけたら布団の中に入ってったし。」


花奏「うん…。」


歩「寝かけてたし少しくらい駄々捏ねても不思議じゃないのにさ。」


布団の中に体を沈める。

さっきまで暖ったはずが

リセットされており、

また温め直すところから

始めなければならなかった。


私は相変わらず髪を胸元に纏め、

体の左側が上を向くように

蹲るように小さくなって寝転がる。


歩「…おやすみ。」


花奏「……………おや……すみ…。」


広がる闇世界の中でふわっと頭に感触。

撫でられているような。…そんな気がした。





***





…。

…今、何時だろう。

布団の中が温過ぎて出たくない。

ずっと寒い思いをしていたから

今この幸せを逃したくない。

足をばたばたと泳いでいるように動かすと

ふわりと見知った香りが鼻に届いた。

懐かしい。

懐かしいな。

そして安心する。

あぁ、あなたがいるんだって思える。

そんな香り。


うっすらと目を開けると

一瞬見た覚えのない場所だと

判断して飛び起きた。

程よくスプリングの効いたベッドからも

覗いていた時計は

もう5時の近くを指している。

大切だった暖かさは

私の不注意な動きのせいで

どこかへ霞み消えてしまった。

朝なのかな、それとも夕方なのだろうか。

どちらにせよ眠りすぎていることは確か。


花奏「…………ゅ…?」


声が掠れて言葉を紡ぎ難い。

そんな中絞り出した数時間ぶりの声は、

乾燥してしまって喉の奥で

口内がくっついていたが故

微々たる波しか起こらなかった。

どうして私は歩の家で寝ていたんだっけ。

時計やらその他の家具、

そしてこのベッドの匂いから

歩の家だったと思い出した。

そこまでは良いんだけど。

昨日から散々甘えた上

今日もこんな時間まで

家に入り浸っていたのか。


花奏「…………ぁ…ゆ…?」


…返事はない。

ひと、ひとと水滴が蛇口から

強かにこぼれ落ちる音だけが

この家を支配していた。

時々隣の部屋に住んでいる人なのか、

どんと床が壁が鳴る。

集合住宅で住むならば

騒音とか多少の問題はどうしてもある。

だから、これは仕方のないこと。

歩の家に何度か遊びに行った時から

このような不定期な音は

部屋を襲ってきていたから。


花奏「…歩……ぁ…ゆ……っ!」


いくら呼んでも隣にはいなかった。

隣に来てくれなかった。

もう時間切れだよ。

自分から歩み寄らなかったから

こんな結果を招いたんだよ。

そう言われているような気がしてならなかった。


…まだ。

まだ、嘘だと信じたいんだ。


きっとこの5時は

いつもと違う5時だって、そう思いたい。

それでね、晩ごはんを一緒に食べるんだ。

昨日は私が1人で食べてしまったから

今日は一緒に、隣で。

朝ごはんの時のように。

それから何をしよう。

それこそ化学の難問は

まだ解けてないままだったし、

誕生日プレゼントは買えてないままだな。

他に、以前に2人との会話の中で

あれしたいね、これしたいねっていうのは

なかっただろうか。


花奏「…歩……どこ…?」


そんな妄想をでかでかと広げていても

頭では現実を理解していたんだろう。

布団からつま先の冷えた足を取り出し、

ラグのひかれた床につける。

人工物の毛が足裏を擽ったけれど

慣れてしまったのかどうでもよかった。

カーテンは閉じられていなくて

外は随分と赤かった。

昨日の雨を経て吹っ切れたかのように

自分を主張する太陽は沈みかかるも、

歩の部屋は日当たりの関係上

一切照らされていなかった。

そういえばこの部屋は

日当たりがいいんだっけ、悪いんだっけ。

朝日が差していたのは記憶に新しい。

夏に暑すぎって言って

エアコンをつけてた彼女の後ろ姿を

未だに覚えてる。

そんな日から、あの夏から

どれだけ時間が経ったのかな。

今、本当なら何月の何日だろう。

髪、もっと伸びてたのかな。


花奏「歩……ぁ………………」


歩。

もしさ。

もしもね。

こんな繰り返しの日々が、

昨日と今日が終わって。

昨日と今日が、終わったとして…

…それで、もしも明日が来たなら。


花奏「……っ…。」


もし、明日あなたと会えたら

私の髪を切って欲しい。

そうだな。

もうポニーテールは出来なくていいや。

ボブくらいがいいな。

それこそ歩より少し短いくらいの。

結べなくていいから、

ばっさりと切ってしまいたい。


それでね、また伸びたら

歩に切ってもらうんだ。


歩「…。」


花奏「……歩…。」


彼女はお風呂場で雑に寝転がっていた。

浴槽を洗おうとしていたのか

スポンジが転がっている。

少し時間が経ったようで、

スポンジについていたはずの泡は

どこかへ散布してしまった。

雑に転がるシャワーヘッドからは

水はほぼ滴り落ちていなかった。

そして謎の金具。

よくよく見てみればシャワーを固定する

部品のようにも見える。

これとともにシャワーヘッドまで

落ちてきたのだろうか。

何度も何度も2日間を繰り返して来たが、

艶やかな黒髪を床に撒き散らして

静かに眠る彼女の姿は初めて目にした。

こんなに綺麗に

亡くなっているのは初めて見た。

そう思うと今までの周期では

どれほど無惨に殺されていたのか

…否、殺していたのかと思う。

不意に笑いが込み上げてくるほどに

歩は綺麗に死んでいた。

確認しなくても分かる。

これだけは、この事実だけは

永遠に変わらなかったのだから。


花奏「歩、おやすみ。」


歩「…。」


音もなく寝転がる彼女の頭を撫でた。

丁寧にお手入れされていた髪は

手に絡まることなくって。

どうやったらこんなに綺麗なまま

保てるんだろうって

いつも不思議に思ってた。

歩の髪はいつも良い香りで、

それを目印に探しててさ。

けど所詮髪の香りだから空気に残らなくて、

酸素に溶けるように失せてゆく時

ちょっとだけ切なかったんだ。


前のこと。

相当前のことだけどさ。

私が頭を撫でたら嫌がってたよね。

触るな、きもい、って。

でももう嫌がらなくなっちゃった。

変な感じがした。

歩が歩ではなくなるって

こういうことをいっているのだろうか。

今から飛び起きて

やめろ触るなってくらい言ってくれないかな。

そんなこと、起こるわけないよね。

…起こったらいいのにな。


花奏「……床、痛いよな。ちょっと動かすで。」


彼女の背中、

それから膝裏に手を滑り込ませ

座った体制にして壁際へ寄らす。

けれどお風呂場では底冷えするだろうと思い、

もう1度力を入れてみる。

衣服越しだから歩は冷たくなっているのか

そうではないのかまだ分からなかった。


華奢な見た目だから軽いと思ってたけど

見た目よりもしっかり

人間らしく重量があった。

身長も小さいからもう少し軽いと

思ったんだけどな。

小さいなんて言ったら怒るかな。

でも実際のところ私が170cmくらいで

歩が150cmくらいだったから

20cmくらい差はあったんだ。

身長は小さいけど胸はあるよね。

その上美人さんなんだもん。

今だって綺麗に眠っててさ。

まつ毛長いなとか、

髪の毛が潤ってるなとか、

手足が白いなとか、

今になってまでそんなことを感じている。


花奏「……いくで、せーのっ。」


足腰に力を入れ直し、

気合を入れて体を持ち上げる。

動かなくなった彼女は重力に従順で

首がかくりと仰け反った。

それを戻せる手は余っておらず、

辛いだろうけどその姿勢のまま

お風呂場からゆっくりと出た。

あくまでどこにも彼女をぶつけないように

慎重に、慎重に運ぶ。

リビングに入りベッドの上へ

1度横になってもらって、

あたりにあるクッションをかき集めた。

そんな私の所作全てを

西陽はじっと見つめている。

でも、もう責められているとは感じなかった。


クッションを壁際にある程度並べたところで

歩をもう1度動かそうと

さっきの位置に手を入れた。

そしてスライドさせるように壁際へ連れ、

壁を背に腰掛けさせた。

もう力が入らないよね。

すぐに倒れそうになってしまったから

彼女を片手で支えたまま

あなたの隣を陣取る。

それから布団を被るの。

一緒の布団に潜るように。


花奏「体制きつない?…大丈夫?」


その答えはなく、

耐えきれなかったのか

こてんと私の肩に頭が傾いた。

艶やかとはいえど

さっきまで床に転がっていたせいで

髪は少しばかりぐしゃぐしゃだった。

彼女の口の中に髪が入りかけてたから

簡単に手櫛をして髪を逃した時、

ふと頬に触れてしまった。

どうしようもなく冷たくて、

手遅れだと分かるほどに冷たくなっていて。

…私はただ気づかないふりをした。

とっくに理解していた。

分かっていた。

ただ、気づかないふりをし続けていたの。


花奏「…よし、朝まで話そうや。な?」


歩「…。」


朝まで話していよう。

一緒に、今日の夜を一緒に。

そして一緒に明日を迎えよう。

私がずっと欲していた歩と迎える明日。

そこであなたと朝日を見たら

私は歩とお別れする。

決めたんだ。

きっと、今回の死因は

脳卒中とか心不全とか

体内部のものだったんだと思う。

じゃなきゃ流血もなしに死ねないだろうから。

シャワーヘッドが落ちて、

タイミングが悪く心不全、とかね。

これは私の予想だけど

…多分、私がいたら歩は

いなくなっちゃうんだろうな。

私がいなければ歩は生きていられると思うの。

だから、最期。

最期だね。

一緒にいられる最期の時間。


花奏「初めて会うた時のこと、覚えてる?」


歩「…。」


花奏「あの日、私自殺しようとしてたよな。」


歩「…。」


花奏「…懐かしいな。あのベランダからの景色まだ覚えてるもん。」


歩「…。」


あの日の景色は今でもよく覚えている。

夕方が近くなっていた時間帯で、

運動部員の声が遠くから疎に聞こえていた。

白かったはずのスニーカーは

町でのいじめのせいで

真っ黒になっててさ。

その頃は確か腕もぼろぼろだったの。

自分で薄く切ったこともあったし、

何より森中らに切られてたから。

こんな傷を特に隠しもしない

無防備さだったんだよ。

それで校内見学者を装ってたわけでもないけど

学校に侵入できちゃってさ。

今考えればあの高校は定時制の人もいたし、

その人達は制服がないから

あの時の私も定時制の生徒だと勘違いされて

難なく入れたんだろうなと思う。

とりあえず1番高い階に来て

適当に誰もいない隅の教室を選んだ。

すぐにベランダに出たはいいけど

飛び降りるのが怖くなっちゃって。

怖気付いてしまって

暫く外を眺めてたんだ。


花奏「この高校が真帆路先輩の通ってた高校かって感慨深くなってたなぁ。」


歩「…。」


真帆路先輩の通っていた学校を

少しだけでもいいから目に焼き付けておこう。

それからこの記憶と共に地へ飛ぼう。

そんなことを考えてたっけ。

私も真帆路先輩と同じ高校に通えていたら

あんな惨たらしい人生を歩まずに

済んだのかもしれないなって

後悔に後悔を重ねていた。


花奏「……ずっと外見てずっと考えてて。長い時間かけて漸く心が決まってん。」


歩「…。」


花奏「真っ黒になった靴も脱いでさ、よし飛び降りようと思った時やったんよ。」


歩「…。」


花奏「「待って」って急に声がしてな。」


歩「…。」


「待って」と。

私の足を止めたの。

振り返るほか何かをすることなんて出来なくて

声のする方へ視線を向けた。

そこに、歩がいた。

帰る前だったのかな、鞄を背負っていて

右手は癖なのか肩ベルトに添えてた。

私を見る目は驚きというよりも

何というか、冷静すぎていたっけ。

眉を顰めることなく

ただ声をかけただけみたいで。

そう思うと今では私のことを見て

顔を顰めるようになったよね。

保健室まで会いに来てくれた時とか

昨日私を家にあげる時だとか。

変わらないなんて思っていたけど

変わったよね。

変わったね、お互いに。


花奏「それから少しだけお話ししたよな。」


歩「…。」


花奏「当時は歩のことこれっぽっちも知らんかったし、正真正銘赤の他人やったけどな、歩が話してくれたから私も話してええんやって思えたんよ。」


歩「…。」


その時歩から聞いた話は

私にとっては衝撃的で。

歩自身、昔いじめを受けていたという話だった。

大切な友達だと思っていた子から

遊び半分でいじめられて以降

何も信じられなくなったあなたは、

今でも友達なんて作らないようにしていると

溢してたんだよ。

それでも生きている歩のことを

凄いなって素直に尊敬したの。

大事なことを曲げずに生きる歩が

とてつもなくかっこよく見えた。

私もこうなりたいって、

私も歩みたいに強く生きていたいって思った。

そして当時の私みたいに

命の道から外れようとしている人がいたら、

歩みたいに見て見ぬふりをせず

声をかけてあげられるような…

…そんな人になりたいって思ったんだ。


肩に凭れた歩の頭は

2度と勝手に上がることはない。

しばしば肩から

滑り落ちそうになるものだから、

その時は手で額を支えて

また肩に体重を預けさせた。

手ぐせかな。

歩の人差し指を握ったけれど、

間違いなんてなく冷たいままだった。


花奏「……あの時、止めてくれたんが歩でよかったな。」


歩「…。」


懐かしいね。

確かその日に関西弁話せるの

いいじゃんって言っていたよね。

どこに住んでるの、という話から

方言の話になっていってさ。

「私も転勤族で大阪に住んだことあったけど

方言の癖が強くて慣れなかった。」

なんて言ってた気がする。

それからエセでもいいからと

動画を見て勉強したのはいい思い出だな。


懐かしいね。

「負けるな」って言ってくれたんだよ。

目元が笑っていて、

あぁ、こんな優しい人もいたんだって

世の中を見直したんだっけ。

その言葉に元気付けられたよ。

その言葉があったから

この高校を受験しようと思ったし

歩ともっと一緒にいたいと思ったし、

何より少しだけ頑張って

生きていようって思えたんだよ。


思えばあの日から

歩は私の隣に座ってくれていたんだ。

2年前の日から変わらず

今もこうやって隣にいてくれていた。


花奏「歩。」


歩「…。」


花奏「ありがとうな。」


歩「…。」


花奏「ずっとずっと、今まで。沢山助けてくれてたよな。」


歩「…。」


花奏「沢山救われてたで…歩。」


歩「…。」


花奏「……ありがとう…。」


歩「…。」


花奏「…救われてた…んよ……ずっと。」


ぎゅ、と赤ちゃんみたいに

歩の人差し指だけを握る。

けど、歩は握り返してくれなかった。

彼女の人差し指は表面ばかり温くなり、

骨の髄までは温まりきらなかった。

私の手汗が歩の手の皺へ伝っているだろうな。


花奏「…その次に会えたのは今年の4月やったね。」


歩「…。」


正直私の感覚では今年と言えないけれど。

けど今は11月12日。

なら今年中だね。

時間、驚くほど全く進まなかったな。


花奏「Twitterのアカウントが変になってさ。そこに歩がおってびっくりしたんよ。」


歩「…。」


花奏「あ、でもその前に会うてたっけ。」


歩「…。」


花奏「ほら、私が入学して翌日かな、思い出の場所に行ったら歩がおってん。」


歩「…。」


花奏「まさかあの教室が今年の歩の教室になるなんてな。」


歩「…。」


花奏「…私、すごくびっくりしたんよ。また会えたって驚いたし、それ以上に嬉しくって。」


歩「…。」


もう会えないと腹を括っていた。

そんな人と再び会えたんだ。

嬉しい以外言葉が浮かばなかったのを

しっかりと記憶している。

けれど、嬉しい反面

どこか自殺しかけた日に出会った歩とは

何か違って見えたんだ。


それから宝探ししたよね。

1番最初の集合では歩はいなかった。

いくら誘っても頑なに断られた。

でもそれには理由があった。

当時は美月と歩は過去のことから

仲直り出来ていなかったから

何が何でも行きたくなかった。

行けなかったんだ。

そのこともまだ知らない時期。


けどある時を境に参加するようになって、

そして向かった先が

今何度も何度も行っている廃墟だった。

まさか今になって宝探しで見つけた宝が

関わってくるだなんて思ってもいなかったな。


花奏「それでさ、初めて私が歩の家に上がり込んだんよね。5月か6月くらいやったよね?」


歩「…。」


懐かしいね。

美容師を目指してるっていう話を聞いたのは

私が初めて歩の家に遠慮なくお邪魔した時。

一緒に晩御飯でも食べれたらと思って

前に美月から預かっていた

歩の年賀状を頼りに向かった。

けどその日彼女はバイトがあったらしく、

夜まで家の前で待ってたの。

夏前とはいえ夜だったから

相当冷えていた覚えがある。

コンビニで買った

レンジで温めて食べるタイプの

ハンバーグとお米、あとカット野菜を手に

じっと待ってたんだ。

結構覚えてるもんだな。

何の連絡も無く向かったものだから

歩は本当迷惑がってたのも覚えてる。

あの時は本当に嫌そうだった。

それからはちゃんと連絡してから

遠慮なく無理矢理お邪魔するようにしたんだ。

何度か一緒に晩御飯を食べて、

そして2回くらいだけ歩の家に泊まった。

繰り返しの日々は含めず2回

…だったと思う。

歩はいつからか反抗をやめて

…というより諦めて

すんなり家に入れてくれるようになったね。

昨日だってそう。

寧ろ自分から家に入れって言うものだから

一瞬耳を疑ったんだよ。


歩だからこそ無理矢理までして

仲良くなりたいって、

一緒にいたい、隣にいたいって思えた。

歩だからだよ。


花奏「あの時も歩が無茶を聞いてくれてありがとうな。」


歩「…。」


花奏「歩が折れてへんかったら、多分今の関係はなかったで。」


歩「…。」


花奏「…沢山許してもらってたんやね。」


歩「…。」


今更ながら歩の優しさに気付かされる。

どれほど私がわがままを言ってきていたのか

嫌でも理解させられる。

歩は子供っぽく話を聞かなくて

大人らしく判断をしていた。

ずっと前から、ずっと。

きっと私と会う前から。

彼女だからこそ出来たんだろう。


歩、ありがとう。

沢山の感謝を今、今伝えるね。

遅いよね。

気づくのも言葉にするのも遅いよね。

私ってばこういうところ馬鹿だよね。

歩の言う通り私の方が馬鹿だね。


花奏「ご飯一緒に食べるようになった頃かな。普通に教室にも遊びに行くようなったのは。」


歩「…。」


花奏「…歩ってば愛咲さんが絡むたび嫌そうな顔してたよな。」


歩「…。」


花奏「でも本当に嫌なわけじゃなくって…戯れてるっていうか。」


歩「…。」


花奏「居心地はよかったやんな。」


歩「…。」


数えきれないほどの時間を

彼女と過ごしてきた。

それこそ、不可解な出来事きっかけで

過ごす時間もあったけれど、

それ以上に自分達で集まって

話している時間の方が長かったと思う。

特に歩はそうだった。

いろいろなところに行った。

一緒に勉強もした。

歩と、あなたと一緒にいるのが

1番心地よかった。


指から手を離す。

じゃなきゃ歩の指がふやけてしまうから。

その代わり、彼女の頭に

自分の頭を寄せてみる。

こつんと固いものがあたると

歩の頭が肩から滑り落ちかけた。

バランス取るの、難しいな。

それでもなんとか上手くやって

頭を寄せ合ったの。


花奏「それ以降で大きなことといえば…みんなで夏祭りいったり手持ち花火をしたりしたよな。」


歩「…。」


花奏「…よく蝉の鳴く夏やったね。」


歩「…。」


花奏「……花火、歩のお陰で出来たんよ。」


蝉がわんわんと唸る夏。

浴衣こそ着なかったけど

みんなでわいわい騒いでさ。

それで1回目に見た花火は

大きな打ち上げ花火やったな。

私は過去のことを思い出したく無くて

その場から逃げたんだ。

そしたら麗香や歩が見つけてくれて、

寄り添ってくれたの。

でも何も言えなかった。

歩は。

歩は、どんな顔してたのだろう。

それこそ眉を顰めていたのかな。

あの表情をする時ってどんな時なんだろう。

思い返してみれば嫌がっている時と

私が無理して笑った時とかだったかな。

居た堪れないような気持ちに

なっていたのかな。

私に同情していたのかな。

どうなんだろう。

歩が生きている間に聞いておけばよかった。

あと、生きている間に

そんな顔しないでって伝えておけばよかった。


花奏「結局その日の花火は歩も見れてなかったんやないかな。ね?」


歩「…。」


花奏「それを案じてなんか分からへんけど、愛咲とかが手持ち花火でいいからしようぜって言い出したんよな。」


歩「…。」


花奏「…あん時ぞっとしたんよ。」


歩「…。」


花奏「んでね、内心歩はこのお誘いにのらんやろうと思ってた。」


歩「…。」


花奏「でも、すんなり受け入れちゃってさ。」


歩「…。」


花奏「もう逃げ場ないやんって勝手に落ち込んでたんやで。」


歩「…。」


大きな花火も勿論怖いけれど

1番怖いのは手持ち花火だった。

焼ける鋭い音を散布しながら

眩い光を放つそれらは見るのも

阻まれるほどに苦手だった。

過去、着火後の花火を肌にじっくりと

押し付けられたことがあったから。

今も体には火傷の跡が残っている。

私の体は火傷の跡やら

切り傷の跡やらで汚れてた。

傷だらけ。


夏夜、みんなで近くの公園に集まって

花火をすることになったよね。

その頃には美月と歩は

いつの間にか仲直りしてて

びっくりしたのを覚えてる。

歩がLINEのグループに入ったのだって

この時期だったはず。

歩の中で何かが変わったんだなって思うと

どこか嬉しくもあったし寂しくもあった。

歩はどんどん変わってしまう。

反面私はいつまでも過去に囚われて

今いる場所から進めないまま。

それも怖いことのひとつだった。

置いていかれるのが怖かった。

だから成長したくて

無理にでもみんなとの小さな

花火大会に参加したの。


花奏「2回目の花火大会、参加したはええけどやっぱり何も出来んくて…遠くにあった階段に座ってたんよね。」


歩「…。」


花奏「そしたら歩が隣に来てくれて…。」


歩「…。」


花奏「…。」


歩「…。」


花奏「…んで、蟻をでこぴんして飛ばしてさ。」


歩「…。」


花奏「花火…線香花火、持ってきてくれたやんな。」


歩「…。」


花奏「無理だったら蟻にでも食わせとけって言葉、まだ覚えてんで。」


歩「…。」


花奏「歩は覚えてたかな。」


歩「…。」


花奏「…花火、怖かったけどな…あの日の線香花火は綺麗やなって思えたよ。」


歩「…。」


花奏「……歩のおかげやで。」


歩「…。」


私が「歩のおかげだ」とか

「歩は恩人だ」とか言っても

いつも同じ言葉で返してきたよね。

「私は何もしてない、あんたが頑張っただけ」

…って、毎回毎回。

本音、だったんだなって

今になって漸く分かる。

最初は謙遜の言葉だと思った。

日本人あるあるのあれ。

私はそんなことしてないですよ、

恐れ多いです、みたいな。

でも違った。

歩は本気で自分は何もしてないと考えていて、

本気で私自身が頑張って

全てを変えてきたと思っていた。

そんなことない。

そんなのは違う。

違うのに。

歩のおかげで今まで頑張ってこれたのに。

歩のおかげなのに。

歩自身、自分を認められない部分が

あったのかもしれない。

それだってもう確かめようはないけれど。


歩がいたから高校受験を

もう1度しようと思えた。

歩がいたからあの町から出ようと

決心することが出来た。

歩がいたからどんな不可解な事が襲って来ても

私には居場所があると感じれた。

歩がいたから諦めずに

頑張ってこれた。

歩が隣にいてくれたから、

歩を助けようと頑張れた。

歩が隣にいてくれたから

生きようって思えた。


最早ここまで来たら依存かな。

しょうもなくってくすりと

笑みが溢れてしまう。

今日くらい許してほしい。

今日が終わればもう終わりだから。

明日の朝日と出会うまでだから。


花奏「…夏が明けてすぐの頃、かえってアカウントがいろいろ言ってきたよな。」


歩「…。」


花奏「「小津町花奏は18歳である」…とかさ。」


歩「…。」


花奏「今まで隠してたことが全てばれるのは本当に本当に怖かった。」


歩「…。」


花奏「…みんなを騙してたんやもん。…今まで通りにいられなくなるのが怖かった。」


歩「…。」


花奏「花火とか包丁とかいじめとか、その他のどんな事よりも…みんなに、歩に私の過去を知られるのが怖かった…。」


歩「…。」


花奏「………怖かった…な…。」


歩「…。」


あの日の歩の表情は今でも忘れない。

縋るような、けれど責めるような

言葉の羅列に物凄い剣幕で。

私、どうしたらええんか分からへんかった。

ただただごめんとしか呟けんくて。

それに対して歩は

更に口が強くなってさ。

結局私が折れてみんなの前で

今までのことを全部話したんよな。

もう終わったって思った。

今までの高校生活がどんなに楽しくて

幸せなものだったのか思い知った。

また1人になるんだって覚悟してた。

今思えば馬鹿だなって思う。

みんながそんなことで

離れるなんてことないのにね。

でも当時の私はまだみんなのことを

信頼できてなかったんやと思う。

歩も含め、まだ。

だから全てを話して以降

みんなが普通に今まで通りに

接してくれたこと、

物凄く驚いたのを覚えてる。

それから、とてつもなく安心して

涙が出るくらい嬉しくて

たまらなかったのだって覚えてる。


私、馬鹿だよね。

みんなにちゃんと正面から

向かったことはそれがはじめて。

いっつも距離を取ってたのは私の方だった。

だから信頼なんてできるはずがなかった。


花奏「でもみんな…受け入れてくれてすごく嬉しかった。」


歩「…。」


花奏「…中には私の事が悪く見えるようになった人もあるかもしれへん…。」


歩「…。」


花奏「でも…そうだとしても表面上だけでも普通に接してくれてて嬉しかった。」


歩「…。」


花奏「幸せやったよ。」


歩「…。」





°°°°°





花奏「……どう、やったら幸せに、なれるん…?」


歩「…っ!」



---



花奏「も、う…分か…らへん…。」


歩「…幸せ…難しいよね。」


花奏「……。」


歩「いつの間にかなってるもんだと思うよ。幸せって。」


花奏「…なろうと思、って…なれる、もんやない…か。」


歩「なれるよ。あんたが今まで頑張ってきてこの高校入ったのだって幸せのひとつ。小津町自身が掴んだ幸せでしょ。」


花奏「……。」


歩「もっと簡単なことでもいいと思うよ。」


花奏「…簡単……って…。」


歩「ご飯が美味しい。空が綺麗。よく眠れた。沢山話せた。そんなのでもいいじゃん。」





°°°°°





私は既に幸せだったんだ。

幸せになってたんだ。

だから、どれだけ幸せを探して

そうなろうったってなれっこなかった。

既になってたんだから。

もう幸せにはなれなかったんだ。

気づけなかったな。

あの時気づいていたらな。


ご飯が美味しいって幸せだ。

歩に作ってもらったハンバーグ、

本当に美味しかった。

また食べたい。

それくらい、美味しかったんだ。

空が綺麗って幸せだ。

晴れの日って素敵だった。

夏とかは日差しが強くて鬱陶しかったけど

雨よりは断然いいもの。

よく眠れるって幸せだ。

悪夢を見ずに気づいたら朝だなんて

そんな幸せをよく見落としてたな。

夢を見ないほど熟睡できるって

とても凄いことだったんだ。

沢山話せるって幸せだ。

みんなと、家族と、歩と。

昨日や前の周期があって肌で感じた。

私が話したところで皆は…

…歩は不幸になると思った。

でも、歩が話したいって、

そう言ってくれたから

私、今こんなに話してるよ。

話せてるよ。

歩と、話してるんだよ。

あなたと沢山話せるって幸せだったんだね。

同じ日々を繰り返す中で

いつしか歩と話すのは怖くなってた。

幸せを自分から手放していた。

馬鹿だね。

馬鹿だ。

私は馬鹿なんだ。

歩の言ってた通り、どうしようもないほどに。


花奏「それで気づいたらもう秋やで。…早かったな。」


歩「…。」


花奏「…出会ってから2年経って…私たち色々変わったね。」


歩「…。」


花奏「それぞれの考え方とかもそうやろうし、お互いの関係とかもさ。」


歩「…。」


花奏「…私、いつの間にか11日から出れへんくなったんよ。」


歩「…。」


花奏「…………いや…正確に言えば出れるな…あはは…。」


歩「…。」


こういう時、歩なら

「じゃあやめればいいじゃん」

とか

「無理してまですることないでしょ」

とか言ってくるんだろうな。

それこそ、そんな不安なんて

蟻に食わせとけって言うんだよ。

想像がつく。

想像がついちゃうほどに

歩のこと分かってたのかな。

まだまだ知らないことばかりだけど、

あなたが優しい人間だってことは

嫌なほど分かってるよ。

分かってる。


正確に言えばこのループする日々からは

抜け出すことは出来る。

しかも、最も簡単に。

ただ、私が歩を見捨てればの話だ。

私の努力が水の泡になるのは構わない。

けれど、歩の今までの苦しみが

なかったことになるのは許せなかった。

あれだけ苦しんだのに

1番最初と何も変わらないなんて

酷にも程がある。

それこそ愉快犯だ。

あの殺人鬼と同等だ。

そうはなりたくない。

なりたくない。

…前もこんなこと考えてたよね。

あれはいつだっけ。

いや、いつからだっけ。

今もずっと、そう考えている。

繰り返すのをやめてしまいたい。

けれどやめてしまったら

今までのことはどうなる。

延々と自分に問い続けた問題も

今日で破棄することになるのかな。

ああ。

化学のあの難問と一緒だ。

結局答えを出せないまま放棄するんだ。


花奏「……なぁ、歩。」


歩「…。」


花奏「…私が、さ…11日と12日を繰り返してるって…気づいてた?」


歩「…。」


花奏「あ…はは…気づいてへんかったやろ…?……そう…よな…。」


歩「…。」


花奏「…っ。」


歩「…。」


ごめんなさい。

何度唱えたか分からないこの言葉を

もう1度心を込めて歩に渡す。

まだ、私にこんな気持ちが残ってたんだ。

歩の隣にいるのにさ、

隣にいてほしいななんて思っちゃうんだよ。

肩から彼女の頭が

また滑り落ちそうだったから、

片手を腰あたりに手を伸ばし

もう片手を後頭部に優しく当て、

ぎゅっと包み込むように抱きしめた。

だんだんと11月らしく冷えてゆく体は

人形みたいにぐねぐねしていて

想像以上に重かった。

かくんと歩の顎が肩に刺さるようにぶつかる。

かつ、と彼女の歯が鳴ったのが聞こえた。


花奏「………沢山…沢山、辛いこと…あったんよ…。」


歩「…。」


花奏「…今だけ…聞いててや。」


歩「…。」


花奏「何も…答えへんでいいから…。」


歩「…。」


骨が折れるんじゃないかと思うほど

強く抱きしめたとしても

返事は勿論こない。

でも…ひとりじゃない。

ひとりじゃないって思いたい。

歩は、ここにいる。

いるのに…な。


花奏「…………つら、かった…。」


歩「…。」


花奏「…歩………。」


歩「…。」


花奏「…歩……た…すけ、て…。」


歩「…。」


花奏「…助けて………もう…も、ぅ…いや……だ…ぁ…。」


歩「…。」


花奏「ぃや、だ………………歩……っ…。」


歩「…。」


花奏「…助…け、てぇっ………。」


歩「…。」


花奏「………ぁ…ゆっ………っ。」


歩「…。」


花奏「…ずっと、ずっとずっと、辛かった…辛かった…!」


歩「…。」


花奏「……歩が、ぁ…歩、がっ……死んじゃ、う…か、らっ……。」


歩「…。」


花奏「それ、をね……と、めようと…。」


歩「…。」


花奏「………がんば…ってたんよ…ずっと…っ。」


歩「…。」


花奏「…ひぐっ……助けられなくて…ご………ごめん…な…ぁ……っ。」


歩「…。」


花奏「大好きなの、にっ…ぐずっ…沢山、ごめ…ん、な…っ…。」


歩「…。」


花奏「………ずっと…待っ、て…ぇぅっ…んぐっ……。」


歩「…。」


花奏「…待っててくれ、てっ……ぁ…りがとう……。」


歩「…。」


花奏「は………んずっ…ぁ…り、がと………ぅ…っ。」


歩「…。」


大好きな歩を何度も自ら手をかけた。

自ら手をかけるに等しいことをした。

そんな自分が許せなかった。

ずっと自分を恨んでた。

今でもそう。

今でも、これからもきっと

ずっとそうするだろう。


いろいろなことがあったんだよ。

初めは確か、交通事故で亡くなったの。

私は寝てて、美月から電話が来て。

2週目もそうだっけ。

3週目から繰り返していることに気づいて

未来を変えようと足掻き出したんだっけね。

いつかの周期では歩と喧嘩したんだよ。

辛かった。

怒らせたいわけじゃなかったのにって

あの周期以降何度も後悔してる。

他の周期では愛咲に相談に乗ってもらったり

湊に物凄く心配されたり、

麗香と校舎隅の部屋に行ったり。

図書館で初めてあの愉快犯と出会ったこと、

それ以降ずっと付き纏うように

犯人と出会したことだって記憶に残ってる。

歩に誕生日プレゼントを渡したの、

たった1回だけだったな。

もっと来年も再来年も祝っていたかった。

昔私が住んでた大阪の町に行ったら

森中と会って私は何も

変わっていなかったんだって思い知らされた。

その間にも歩は次々と死んでゆくの。

そして昨日。

ハンバーグを作ってもらった。

歩、あなたに大好物のハンバーグを。

美味しかった。

1番美味しかった。

1番辛かった。

1番忘れたくない味だった。


もしさ。

私がいなくなって

歩が生きる世界になったとして、

それでもまだあの機械があったなら。

…歩は私の事、救おうとしてくれるかな?


花奏「……………ぁ………ゆぅ…っ。」


離したくない。

一緒にいたい。


私の願いはそれだけだった。

ずっとずっと、これだけだった。

一緒にいたい。

一緒に居れる明日が欲しい。

それだけだった。

明日が恋しい。

待ち望んでいた明日は

すぐそこまで来ていた。


それから夜が明けるまで

2人で話し続けた。

前こんなことあったよねって掘り下げて、

こんなこと面白かったよねとか

それが悲しかったな、とか。

1から10までをなぞるように話した。

そして、大半はこれから先何したいかを語った。


たくさん話そう。

しょうもないことで笑い合おう。

知らない場所に遊びに行こう。

料理のレパートリー増やしたいよね。

化学の難問、15分で片付けてやろうよ。

受験お疲れ様会しよう。

合格祝いしようね。

みんなで集まって写真撮りたいな。

卒業式、私泣いちゃうかも。

卒業してもみんなで集まろう。

みんなで海とか行こうか。

初めて集まった思い出の場所だから。

その頃には髪を切ってもらおうかな。

ヘアケアとか教えてほしい。

花見行こう。

桜並木を見に行くんだ。

夜桜でもいいね。

もっとお泊まり会もしたいな。

お泊まり会したらたこ焼きパーティーとかも

いつかはしてみたいよね。


そしたらもう夏になるよ。

花火、見に行こう。

今年は打ち上げ花火からは逃げちゃったから、

今度は歩やみんなとしっかり見てみたい。

綺麗だなって思えるようになりたいの。

線香花火も絶対やろう。

これだけは外せないよね。

夏の間に、花火の他にまた海にも行こう。

プールでもいいね。

バーベキューでもいいし。

何か夏っぽいことを片っ端からしていこう。

楽しみ尽くそう。

それから、美月や波流は試合あるだろうし

みんなで応援しにいこうね。


歩は来年大学生になってるんだもんね。

大学の話、聞きたいな。

オンラインが多いのかな?

大学内で授業が受けれるといいよね。

歩に友達出来るかな?

私が不安になっちゃった。

ちくちく言葉は控えめにね。


そして秋になったら紅葉を見に行こう。

大学の授業が詰まってなくて

余裕がありそうだったら

沢山遊びに行こう。

季節関係なく沢山の時間を歩と過ごしたい。

誕生日パーティーしよう。

来年はプレゼント何にしよう。

今から悩んじゃいそうだな。


クリスマスが近くなったら

イルミネーションを見に行きたい。

雪が降ったら雪遊びしよう。

雪合戦がいいかな。

でも手加減はしてほしい。

年が明けたら初詣に行こう。

年明けくらいはみんなで集まりたいよね。

おみくじ引いて、屋台が出てたら

食べ歩きとかしてさ。

愛咲あたり凧とか持ってきそうじゃない?

みんなで童心に帰って遊ぶの。

一緒に恵方巻きとか食べたいね。

私多分喋っちゃうと思う。

美味しいって。

初めて泊まった時に

黙って食べれないのって言われたの覚えてるよ。

私とは反対に歩はひたすらに

頬張ってそうだよね。


……そして、3月になったら

梨菜と波流、麗香が卒業して

私や歩、愛咲や羽澄は

もう20歳になる年がくる。

20歳になったらお酒飲もう。

家でもいいし外食でもいいしさ。

今までの話やこれからの話を肴に

慣れないお酒を口にしよう。

積もる話はきっと沢山あるから

お酒進んじゃうね。


ここまでの思いが募ると

流石に執着しすぎなんだと自分でも思う。

けど、最期くらい許してほしい。


大切なあなたへ。

ありがとう。


カーテンは閉じ忘れたままだったらしく、

朝日が投げやりに差し込んでくる。

なのに歩は温まることなく

今の今まで眠ったままだ。

もう起きない。

目を開けて話すことはない。

そんな13日だけど、

今日はきっといい日だ。

きっと今日も幸せだ。


花奏「……よし。」


私はもう泣かない。

一昨日沢山泣いたから。

歩の隣で沢山泣いたから、だから今日こそは、

ずっと目指していた明日が来た今日こそは

笑って歩とお別れしたいんだ。


歩から手をそっと離すと、

微かな温もりはあっという間に

空気に溶けてしまった。

聞いたことのあるような小鳥の囀りが

心地よく浸透する。


声は聞けないけれど、

冷たくなっても匂いは残っていた。

もしも次会えたなら、

まずは声を聞きたい。

その時は。


花奏「……花奏、って呼んでな。」


頭をひと撫ですると

やっぱり他の誰でもない歩の香りが漂った。

布団から足を投げ出し

久々に着いたラグは

昨晩と何ら変わりはなかった。

違ったのは日差しだけ。

私も歩も変わらずに。


それからベッドの真ん中に

出来るだけ綺麗に寝かせた。

とはいえ思うように動いてくれなくて

シーツはくしゃくしゃに顔を歪めてしまった。

歩は笑顔とも真顔とも言い難い表情のまま。

それでも今までと比べたら

とんでもないほどに綺麗だった。


最期。

最期にもう1度頭を撫でる。

やっぱり怒らないんだね。

ちょっと……ちょっとだけ寂しかった。

最期くらい歩らしく

嫌がって欲しかったな。


今ならあなたの隣で

心地よく永遠に眠れる気がした。


花奏「おはよう、歩。」


歩「…。」


花奏「おやすみ、歩。」


歩「…。」


花奏「……。」


歩「…。」


あなたに、何の変哲もなくて

つまらなすぎるくらい

普通の明日が来ますように。


花奏「……じゃあ、行ってくるな。」


とびっきりの笑顔で。

頬が攣ってしまうくらいの笑顔で。


花奏「ばいばい、歩。」


大切なあなたへ。

ありがとう。

ずっとずっと、大好きだよ。

幸せをくれてありがとう。

ありがとう。


手にかけたドアノブまで朝日は届かず

無機質らしく冷えたままだった。











11月11日



よし。

戻ってきた。

さて、この授業が終わったら

早々に飛び降りるとでもしよう。


漸く終わりなのか。

そう思うと繰り返していた日々も

愛おしくなってくる。

そんな間違った感覚が

波のように押し寄せる。


高校生活を諦めずにやり直して

本当によかったと思った。

最期に父さんに会えないのは残念だけど。


静かに目を閉じたままその時を待つ。

随分と長く感じた。

そして、2時限目の終わりを告げる

チャイムが鳴った。





***





湊「花奏ちゃん寝てたね、珍しい。」


花奏「…。」


湊はいつものように話しかけてくれる。

そう。

毎周期毎周期飽きずに

ずっと話しかけてくれた。

CPUと同じと考えれば

当たり前なのだろうけど。

けど、何故だか今は

感謝の気持ちでいっぱいだった。


花奏「あはは、寝てもうたわ。」


湊「ねー。初めてじゃない?」


花奏「そうかもしれへんな。」


会話する気はさらさらない。

もう、すぐにでも終わらせたい。

その気持ちは変わってないから。


花奏「ちょっといってくるな。」


湊「ん?トイレー?」


花奏「ううん。別のとこ。」


湊「ほいほい。気をつけていってくるのじゃぞ。」


花奏「ありがとな。またね、湊。」


湊「あーい。また10分後ね。」


健気に手を振って見送る彼女。

何も知らないって幸せだ。

きっと。

きっと幸せの時だってあるんだ。


私はそのまま階段を駆け上がり、

歩の教室の前を通って

特別教室のような、授業でしか

使われていない部屋へと足を運んだ。


歩の教室の前を通った時、

ふと視線を感じるような気がしたが、

他の生徒だろう。

そんな都合よく世の中回ってはいない。


からから。

誰もいない教室。

校舎の隅の方ということもあってか

生徒や先生達の喧騒が遠い。

孤独。

そんな単語が脳裏を掠めるけれど、

意味のないことだった。


花奏「…。」


机の合間を通り抜け、

静かに扉を開けた後

ベランダ部分へ足を踏み入れる。

ふわっと秋風が薫る。

11月真っ只中特有の

控えめなのに存在感を主張する香り。

あーあ。

秋だった。

ずっとずっと秋だった。


花奏「……それも最期…かぁ…。」


感慨深くなって外を眺めてしまうも

そんな暇はないと思い立つ。

最上階から眺む地面は遥かに遠くて。

真下は案の定コンクリート。

あぁ、よかった。


花奏「…よし。」


ひと言溢した後に手すり部分を跨ぎ

地面は遠く下にあるままに

水泳の背泳ぎを始める前のような体勢をとる。

手を離したら、終わりだな。


花奏「……。」


最期の、遺言のようなひと言は

もういらない、口にしない。

ただ心の中で思うことは沢山あった。

そんなに悪くない

人生だったんじゃないかな。

…嫌はことは散々あったけれど、

諦めずにこの高校に入学して

そして歩をはじめとしたみんなに出会えた。


刻々と記憶の美化が始まるものだから

嫌になって笑ってしまう。

そして唐突に手の力を緩めると、

背中に物凄く強い風が押し寄せた。

びゅうびゅうと耳元で鳴る。

周りの音が聞こえなくなる。

心臓はありえないほどに昂っていたと思う。


真帆路先生やお母さんに

会えるのかな。











11月11日



うとうとしてたらしい。

はっと目を開くと先生がかつかつと

黒板に物を書いている。


花奏「…!」


まずい、ノートがほぼ白い。

びーっと伸ばされた薄い黒線は

直ちに消しゴムに消されていく。

電車内でうたた寝してしまった時特有の

謎にどきどきとした感覚に襲われる。

早く板書しなきゃと思いシャーペンを握るも。

かつん。

思わず机にシャーペンを転がしてしまって

教室にぱっと響き渡る。

でも、それを気にする人はいなくて

かか、かっというノートと黒芯が擦れる音。

学生の特許とも言えるのかも。

脳内はごたごたに音を立てながら

表面ではただ板書を進めていた。


花奏「…?」


黒板に一部繋がらない箇所がある。

寝ている間に消されてしまったらしい。

後で湊に見せてもらおう。

昨日から今日にかけて

とてもではないが変だな、と我ながらも思う。

いつも通りにいかないもどかしさと

そんな日もあるという寛容さが

混ざりそうで混ざらずに

水と油のように綺麗に分割されている。

そのせいで気持ち悪さは

増しているようにも思えた。

そう思った刹那、終わりを告げる鐘。

今日の2時間目が終わる合図だった。





***





湊「花奏ちゃん寝てたね、珍しい。」


花奏「ありゃーバレてたか。」


湊「席後ろだし流石にね。」


花奏「あはは、そりゃそうか。」


湊「寝顔が見れなかったのが残念っすねー。」


花奏「絶対見せたないわ。」


授業を終え後ろに座っている

湊と少し会話をする。

やはりというか、うたた寝してたことを

指摘されてしまった。

えへへ、と笑うことしかできない。


湊「にしてもほんっと珍しいじゃん。」


花奏「あぁー、寝ちゃったこと?」


湊「うん。花奏ちゃんが授業で寝たところを見るのは初めてかも。ってかそもそも授業中の爆睡は初じゃない?」


花奏「爆睡て。確かに寝てたけども。」


湊「明日、雪降るでしょー。」


花奏「それは大袈裟やって。湊が宿題やってくる方が珍しいやん。」


湊「なら珍しいの2乗ね。明日は吹雪だ。」


花奏「なんやそれ。」


湊「じゃなきゃ元取れないって。」


人差し指で机を擦り付けている湊。

相変わらず上半身は机と仲良し。

何をやっているのかと思えば

消しかすに圧をかけて形を変えているらしい。

時々真っ黒な消しかすが見えた。

元が取れないとはいえ

そもそも何に対してだろう。

私達が珍しい事をしたってことに

対しての代償的なものって話だろうか。

天気側が代償を払うってどういう事だ…。

やはり彼女の突飛な発想力には

ついていけないところがありつつも

自分を振り返ってみる。


花奏「まぁでも、確かにあんま寝ることないかもなぁ。」


高校生は2回目ということもあり

お父さんにはだいぶ負担をかけている。

それを承知の上なので

もしかしたら何処かでしっかりと勉強を

しなければならないと

思っているのかもしれない。

高校生としては持っていて当然というか

持つべき感情だと思ってきたけれど、

私は過去が過去な上尚そう思うのかも。

思えば1回も授業中には

寝た事なかった気がする。

合間合間の休み時間に伏せて

軽く寝ることはよくあったけれど。


花奏「なんか疲れとったんかなぁ。」


湊「ちゃんと寝た?」


花奏「うん、しっかりと7時間。」


湊「健康すぎるくらい。」


花奏「そうなんよ。」


湊「因みにうちは9時間。」


花奏「聞いてないし寝過ぎや。」


湊「眠かったんだもん。至福だったよ。」


花奏「幸せのことこの上ないやろうに。」


湊「まさにその通り。ま、今日もしっかり休んでくれよん。」


花奏「うん、そうするわ。湊も休む時しっかり休みなね。」


湊「勿論。無理できないってかしたくない性格なもんで。」


湊は手遊びがてら

両手をぐーぱーしていた。

湊は平均か、

それより少し高いくらいの身長だが

私と比べてしまうと10cm程は差がある。

だらけている姿勢ということもあり

不貞腐れた子どものよう。

どこか可愛げあるようにも見えてしまう。

湊だからそんな事はないけど。

それを本人に言ったら

むすっとした顔で見られ…

おや、今もそんな顔で見られてる。


花奏「…なん?」


湊「今絶対小さい子供みたいって思ったっしょ。」


花奏「なんで分かったんや…。」


湊「口元緩んでた。」


花奏「マスクしてるのに見えるかいや。」


湊「うち千里眼持ち。」


花奏「観察眼持ちの間違いやろ。」


湊「夢がないなあ。」


花奏「うーん…ま、素直も考えようやな。」


湊「長所だから気にしなくていいんじゃない?」


花奏「あはは、ありがと。」


癖でつい人の頭を撫でた。

湊の髪はふわふわしてて、

指にほどよく絡んできた。

湊はというと満更でもない顔をしていて

どことなく嬉しいというのは伝わっていた。


その後はいつも通り授業を受け、

休み時間には歩のところに行くも

いつも通りやんややんや言われて。

愛咲は歩にだる絡みしに行って

結局こっぴどく追い返されていた。

今日はぼんやりと外を見て過ごすこともなく

時間が経っていることを

不意に忘れてしまう日々。

そしたらいつの間にか今日が終わる。

授業が全て終わり、

帰りのホームルームが終わった段階で

スマホの消音モードを辞める。

これだって習慣になってしまった。


花奏「…あ、卵なかったかも。」


帰りの準備をしつつ

家の冷蔵庫の中を想起してみると

そんな気がしてならない。

朝卵焼き作った時に

使い切ったんじゃなかったっけ。

湊は既に部活なり遊びになり行き

教室にはいなかった。

毎回いの一番に飛び出していくのだ。

焦っているのか楽しみなのか知らないが

普段あれだけマイペースなのに

なんでそこだけはせっかちなのだろうと

いつも不思議に思う。


今日は帰りにスーパーに寄りたいな。

って思うと今日は歩の元へ行くのは

おやすみといったところだろう。

別にいつも約束して会っているわけではないが

何となく会ってる日は多かった気がする。

すれ違うことも勿論あった。

私が教室に行っても歩がいなかったり

将又その逆もあったり。

最近歩は放課後教室や図書室で

勉強してから帰ることが多い。


肩に鞄をかけ、教室に残った

普段仲良くしてくれてる別の子に

ばいばいとひと言かける。

一緒にいがちなのは湊だけど

他2、3人とも程よく友好関係があった。

2年前から大きく変わったもんだ。


花奏「うわ、降りそうやな。」


玄関で靴を履き替え

外を一望してからの第一声がそれだった。

折り畳み傘、持ってきてただろうか。

冷たくなった金具を引き

鞄の中身を確認するも

教科書としか顔を合わせられない。


仕方ない。

そう割り切って外へと踏み出す。

固いコンクリートの感触が足裏を劈く。

校門を出てほんの数歩進んだところで

ととんととんと機械音が存在を証明し出した。

唐突にその音と出会ったものだから

驚いて1度立ち止まる。

そうだ。

さっき自分で音が鳴るように

設定し直したんじゃないか。

音が鳴るのはLINEだけ。

みんなに何かあった時に気づけるように。


花奏「……何かあったんかな。」


勿論くだらない話をする時にも

LINEは動いているが、

真剣な話し合いの時に動くことも多々ある。

半々といった確率だろう。

今回も、もしかしたら何かあったのではないか。

そう思うと気が気でなくなって

冷たくなったスマホを手に取る。

歩きスマホは流石に危ないので

一端路ばたに身を寄せた。


花奏「…。」


嫌な心臓の響き方をしていると分かる。

雨が降っているわけでもないのに

手はしっとりと無機物を温める。

毎回LINEを開くときは

これ程にまで緊張してしまうのだ。

画面には。


美月『明日予定がなかったら歩の誕プレ買いに行きましょ?』


と、美月らしく簡潔に纏められた文章が

規則正しく丁寧に並んでいた。


花奏「そっか。」


急なお誘いかと思えば

歩の誕生日は11月15日だったと不意に過る。

後4日で彼女は18歳になるらしい。

私と全く同じ歳になるらしい。

やはり時間は無情にも疾く走り去っていたと

今もまた改めて感じていた。


誕生日プレゼント、かあ。

歩は何が好きなんだろうか。

何度も家に突撃し何時間も

一緒に過ごしてはいるけれど

歩のことはまだまだ未知数。

そもそも歩が進んでこれが好きだと

声にしたことがあっただろうか。

何となくしているとか

することがないからしているだけ、とか。

バイトや生活に関しては

そういった言い回しをよくしている。

ああ、全然彼女の事を

知れていなかったのだなと

ほんの少しだけ肩を落とす。


美月へ勿論という趣旨の内容を

送り返そうとした時のこと。


…とつ。


ととん。

画面を歪ませた何か。


花奏「…雨?」


手のひらを上に向けて確かめる。

そこには雨粒は乗らず

ぴと、と頬を伝う水滴。

今日は天気予報を

見てすらいなかったんだっけ。

見たものは動物の変顔のみだったと

はっきりと思い出せる。

スマホを眺む間にびっしりと

分厚い雲に覆われていた。


ぼんやりと空を眺めていると突如

比にならないほどの大雨が私を襲う。

食われるかと思うほど強い雨。

ゲリラ豪雨というやつだろうか。

夕立というやつだろうか。

こんな時に限って

折り畳み傘はおろか何もない。

スマホから通知の音がしようとも無視して

走っていれば間に合っただろうか。

…いや、距離的に

確実に間に合ってなかったな。

そもそもまるまるしたら、とか

まるまるだったらなんて

起こるはずないのに。


花奏「やべっ、走らな。」


美月への返事は後回しにして

鞄にスマホを突っ込み走り出す。

夕闇に追われ、夕立に襲われ、

逃げるように帰路を辿った。

卵は家に帰ってもう1度出るか

いっそのこと明日にしよう。

しち、しちと靴の裏が

コンクリートに染み付いた。












11月12日



花奏「……………ぅー…。」


ぴぴっ。

脇からその音が鳴ったのを確認してから

そうっと抜き出す。

38.6℃。

その数字が全てだった。

熱である。

朝起きてみると明らかに普段とは違った

身体の怠さが感じられ、

体温計に手を伸ばしてみたところこのさまだ。

ああ、もう。

手を動かすのさえ辛い。

今日は何もかもを捨てて

寝転ぶことしか出来無さそうだった。


花奏「…昨日の夕立のせいやろうなー…。」


ぐーっと寝転がりながら

背伸びをしても全くすっきりしない。

それどころか体の重さを知り

尚更怠さが増すように思われた。


結局昨日は全速力で走って

最寄り駅まで行ったものの

全身は絶え間なく雨に打たれていたもので

濡れ鼠になっていた。

幸い鞄の中身は雨の被害を受けず、

けろりとした顔のまま。

制服は仕方なく洗濯に回し

父さんはいないが為にご飯も適当。

夜ご飯は余っていた

にんじんのサラダだけしか

食べていない気がする。

朝もお腹は空かず、

水だけで胸いっぱいだった。

冷たいものが胃を通る感覚。

体内をずたずたに刺すかの如く潤していった。


花奏「…はぁ。」


私1人だけがここにいた。

家にいた。

久しぶりに孤独感に襲われる。

暫くは父さんの出張もなかったからかいな。

歩も受験勉強があるし、と思うと

無闇は連絡も取りづらくなってしまった。

ごろんと寝返りを打ってスマホに手を伸ばす。

美月に謝罪の旨を伝えなきゃ。

その動作すら苦しいと思う節さえあるほど。

こんな熱とか体調不良さえ久しぶり。

熱が出るってこんなんだったっけと

記憶を探してみるもあまり鮮明には

思い出せなかった。


思い出せなかった…?

いつだろうか。

同じくらい怠くてきつかった日が

ないとは断言できなかった。

いつだっけ。

小さい頃インフルエンザになった時の事?

…小さかったから殆ど

覚えてないだけだろう。

きっと何か夢の記憶やらなにやらと

混ざってるだけ。

最近夢を見ることが多かったから

きっとそうに違いない。


ふと画面を開くと時間は結構経っていて。

あと数分後には美月が家を出るであろう

時間となっていた。

いろいろ準備とかしていただろう。

申し訳なさは募るばかりだが

今だけは体調が故気怠さの方が勝る。


花奏『ごめん、今日行けそうにない』


そんな端的なメッセージを残すと

たまたまスマホをいじっていたのか

ぽん、と既読の文字が瞬時に浮かぶ。


美月『分かった。何かあった?』


花奏『熱出たんよ。ごめんな』


美月『そんな日もあるわ。無理せずね。お大事に。また来週あたり予定が合えば行かない?』


花奏『そうする』


思考が回らない。

辛さがあまり日本語はぼろぼろだが

要件が伝わったのならよかったと思い

美月の返事を待たずにスマホを放る。

充電器繋げときたいな。

昨晩はほぼ適当に済ませ楽した結果

バッテリー残量は僅かだと

赤色が知らせてきていた。

けれど視界がぼんやりする。

まだ寝足りないのかな。

…と、それ以前に熱じゃないか。

熱だからか寝足りないのか

朦朧とする意識の中でぴこぴこと指を動かす。


花奏『美月ほんとごめん』


そこで送信ボタンを押して以降の記憶は

私にはなかった。





***





ぴーんぽーん。

遠くから私を呼ぶのはそんな音。

意識は朦朧とした中で、

自分が熱であることも

どんな服を着ていたかも忘れ

玄関の方へ向かう。

ふらふらとよたつく足元には

頼りない床の軋む声。

宅急便だろうか。

何か頼んだっけ。

そっか、父さんの荷物かな。

くらいまで考えたところで

思考はショートしてしまい、

後の道のりは何も考えられずに

玄関まで歩いていた。


花奏「……はーい。」


精一杯の明るい声を出してみると

喉に痰が絡み掠れた声しか出なかった。

玄関先にある鏡には

一応外に出ても大丈夫そうな部屋着が見えた。

咳払いを数回して扉を開ける。

判子は靴箱になったような。

そう思いながらを戸を開ける。


梨菜「わ、大丈夫!?」


花奏「梨菜…?」


そこにはいるはずのない彼女と

高くに登ったままの陽があった。

何か用事だろうか、

思い当たる節がないままきょとんとしていると

梨菜は袋を前に突き出した。


梨菜「お見舞いに来たの!花奏ちゃんが熱出したって聞いたから。」


花奏「そうなん。態々ありがとうな。」


言葉尻に覇気がまるでなく、

にへらと弱々しく笑うと

梨菜は困ったように眉を下げていた。


梨菜「ううん、全然いいの。たまたま近くにいたからお見舞いにって思ったの。」


袋を差し出してくれるものだから

何も考えられない頭は

素直に受け取ることしかできない。

さっと中身を見ると

ゼリーだとかプリンだとか

喉を通りやすいものが多々あった。

そして冷たい飲み物が少し。


花奏「ほんまありがとうな。」


梨菜「気にしないで。辛いところ玄関まで来させちゃってごめんね。」


花奏「んーん。そんなー」


言葉は分散して姿を消すと共に

体がぐにゃりと曲がってしまったのか

視点が一気に下がる。

勢いよく膝をついてしまったようで

一瞬何にも感じないと思えば

熱が轟々と唸り出す。

けれど痛みよりも力が入らない…。

…。

…。

…?

これ、前も何処かで見たような気がする。

正夢ってやつかな。

しゃか、と手元でレジ袋が鳴く。

不幸中の幸いか、足の下敷きには

ならなかった様子。


梨菜「か、花奏ちゃん!?」


花奏「あはは…大丈」


梨菜「駄目だよ。今家に親御さんは?」


花奏「…おらん、けど…。」


梨菜「布団まで連れてくよ、いい?」


花奏「え…大丈夫やって、自分で」


梨菜「また倒れたら困るもん!ごめんね、家入るよ。」


梨菜は半ばどころか完全に無理矢理

家へと押し入り、

私の手からお見舞いの品を外した。

それから私の腋の下に手を滑らせ、

せーのという掛け声と同時に

ぐっと上へ引き上げられる。

お陰で何とか立つことはできたものの、

やはりふらついてしまう。

頭痛も治るどころか

酷くなっているようにさえ感じる。


梨菜「どっち?」


花奏「ん……あっち…。」


梨菜「分かった。お邪魔します。」


ひと言そう断った後、

私の部屋を目指し迷わず進む。

梨菜は私より1つ歳は下だけれど、

姉ということもあるからか

幾分もしっかりしているように見えた。

天真爛漫で、でもこう真剣な顔を

真横から見ていると凛々しくて。

しっかりしてるなって。

私とは全然違うなって思った。

ああもう、頭が回らない。

体を彼女に委ねたまま

ふらりふらりと朽ちかけた床を踏む。

大体この家に来た人は

床が軋むことに怯えてたり

驚いたりは多少するのだが

梨菜はそんな表情なんて

これっぽっちも見せずに

私を支えたまま歩くの。


梨菜「花奏ちゃん、横になって…布団かけるからね?」


花奏「ごめん…本当にごめんな…。」


梨菜「ありがとう1つで許してあげる。」


花奏「…うん…ありがとな…。」


梨菜「うんっ!買ってきたもの冷蔵庫に入れとくね!」


梨菜は私を横に寝転がし

布団をかけた後どたどたと

玄関の方へかけていった。

何か梨菜にお茶とか出さなきゃ。

今の自分の状態を知ってか知らずか

そんな事を思った後、

すぐに意識は闇の中へ

潜っていくのを感じた。

また、昏睡に凭れて…。





***





「話しかけないで。」

「は?」

「分かんないから聞いてるだけ。」

「小津町。」


何故か、歩の声が反芻して聞こえる。

ここはどこなのだろう?

真っ暗。

真っ暗?

目を閉じている気がするような。

…疑問を感じてそっと目を開ける。


花奏『…学校?』


そう。

学校だった。

けれど私には1つ確信があった。

これは夢だっていう確信。

夢を見てると気づける夢を見るのは

何度かあったが、

ここまで鮮明なものは初めてで

なんとも奇妙で落ち着かない気分だった。

ベランダから見える青々とした空は

両手を広げ私を呼んでいるようにも見えた。

清々しい気分で1つ大きく息を吸う。


歩「ねぇ。」


花奏『…?』


返事をしようとして振り向くと、

歩の隣には既に「私」がいる。

「私」がいたのだ。

私自身は第三者視点なのだとそこで思い知る。

ぐるりと周りを見渡すと

机が乱立していて、

なんだかヤンキーが多数いる学校を思わせた。

そのうちの1つの席に歩は座り、

彼女の真前に「私」がいた。

いつもの休み時間の時のよう。

歩は怠そうに肘をつき、

嫌々ながらに話を聞いてくれるのだ。

視界に入る「私」を含めた2人からは

私のことは見えていないらしい。


歩「なんで私だったわけ?」


花奏「どういうこと?」


歩「…なんで私にだけこんなに突っかかってくるの。他にも、2、3年や1年の奴もいたでしょ。」


花奏「突っかかってくるなんて言い方の悪い……ま、それは置いといて…だから、なんで私か…って?」


歩「…そ。」


花奏「せやな…ひと言で言うなれば…恩人だから。」


相当昔にした会話だった気がする。

懐かしい。

そんな感情に塗れていく。


全ての始まりはTwitterがおかしくなった事。

日に日にフォローしている人の欄が

増えていく中で最後の方に

追加されたのが歩だった。

再会を果たしてすぐは、

この人が恩人だということに気づいたけれど

どうにも人柄が違うように映ったんだっけ。

それでも歩と仲良くなりたくて

ただひたすらにがむしゃらに話しかけて

付き纏うようになって。

今思えばストーカーやメンヘラと思われても

おかしくないくらい

歩にべったりくっついてた。

歩も歩で当たり前な反応というか、

嫌がる素振りはそこそこに見せていた。

けれど本当に嫌がってはいなかっただろうし、

悪態を吐きながらも私に付き合ってくれた。

その後もいろいろな不可解に苛まれ。

いろいろな光景が鮮明に脳裏に浮かぶ。


その中で苗字だけれど

呼んでくれるようになって、

いつの間にか夕ご飯を

一緒に食べる仲になった。

共に勉強することも多くなった。

今やいなくちゃいけない大切な存在。

友達以上恋人未満と言うのだろうか。

正直言葉で表せないくらい大切になっていた。

彼女のいない生活なんて考えられずにいた。

だから卒業という言葉が怖くて。

本来なら私も卒業する年だが

退学してる等の影響で一緒には卒業出来ない。

その後の生活がどうなるのか

全く想像できない。

それほどにまで、大切になってた。


そんな回想をしてるうちに

目の前にいる2人の会話は進んでいた様子。

そういえば昨日もそんな事考えていたっけ。

最近は過去に思いを馳せてばかり。


歩「小津町。」


花奏「なーんや?」


歩「私ーー」


ゔー。

ゔー。

ちかちかと点滅したのち、

その理想的な時間は微睡と共に溶けていった。





***





ゔー。

ゔー。


花奏「……ぅ…。」


夢を見ていた。

不思議な夢。

でも、ただの過去といえば過去だけど。

全てをはっきりと覚えているわけではないが

断片的に情景が浮かんだ。

夢らしくとても幻想的で

夢らしくない生々しい夢だった。

そんな感想を抱いてた。


何で私は目覚めたんだろう。

そうして目をぐるぐるとしていると

時計が目に入る。

午後5時半くらい。

5時、半。

…。

…結構寝てしまっていたらしい。

過眠症を引き起こして

しまったのかと思うほど。

一瞬驚くも今日は休日なのを思い出して

少々ほっとした。

そういえば美月と今日買い物行く予定を

ドタキャンしてしまったことへの謝罪を

伝えたか否かが思い出せない。

起き上がるのさえ辛くて、

すぐに眠ってしまった記憶が色濃い。

…あれ。

その後梨菜がきたんだっけ。

それすら夢だったのだろうか。


花奏「うぅ…。」


朝よりは幾分もマシになったが

まだ体は快調ではないらしく、

上体を起こすと頭が鳴った。

思えばどこかでスマホの唸り声が聞こえる。

ふと騒音を掻き鳴らす画面を見ると

まさに美月の名前。

やはり今日はやめておくというのを

伝え忘れていたのだろうか。

ひやりと汗が背に滲む。

美月はずっと待っていたのではないか。

それもトーク画面を見れば解決する事。

体はこの感情についてこなくて

のろのろとしたスピードしか出せない。

一先ず不安は置いておき、

お叱りの電話だろうなと

のんびり受話器のマークを押した。


花奏「もしもし?ごめんな、みつ」


美月『…!花奏、花奏っ花奏ぇっ…!』


花奏「えっ…?」


乱れた呼吸にふと

胸を締め付けられる思いが湧く。

美月の声は涙声で恐ろしいほどに震えていて

この世の何を見たら

そんな声を出すのかと思うほど。

それほど彼女は怯えているようだった。

怯えて、怯えて。

この悲痛さには覚えがあった。

覚えが、あったんだ。


美月『かなっ…ご、ごめんなさっ、ごめっ…!』


ぐずって鼻を啜る音がした。

どうやらひどく取り乱しているらしい。

ここまで酷くなる彼女を

目の当たりにした事はないはずなのに

記憶にはあるの。


これ、何処かで。


すうっと体温がひいていき、

変な汗が背を伝う。

頭痛や怠さといった不純物は

居場所をなくしてしまった。


花奏「大丈夫、大丈夫やから今どこにいるか教えて?」


すぐに飛び起きて電話をスピーカーにし

着替えを始める。

頭痛とか諸々今は考えの外にいて、

とりあえず体は動くってことは分かった。

近場なら走って行くくらい出来るだろう。


美月『いま、ぃ、まっ…花奏、花奏っごめん、ごめんなさいぃ…』


花奏「…っ。」


何があったの?

何があったらこんな。

美月は私への謝罪をひたすらに口にしていた。

どうして?

それがまず浮かんでしまった。

悲痛。

声だけで胸が痛む。


花奏「大丈夫だよ、美月。周りに誰かいる?」


現状を知りたい。

その一心で美月に問う。

いくら大丈夫だと声をかけても

取り乱してしまった上対面じゃない以上

伝わらないことが多い。

そうとは知りつつも落ち着くようにと願って

言葉を投げかけてしまう。


美月『まわ、り、はっ…んずっ…み、んなぃっ…いる。』


花奏「みんなおるんやね?うん、分かったよ。」


自分の中で違和感が波打ちつつも

出来るだけ優しく言葉を渡す。

みんながいる事には安心した。

みんなとはいえ家族なのか

それとも梨菜や波流達なのか。

どちらにせよ誰かはいるという事。

…ならば。

ならばどうして美月に声をかけてあげないのか。

すぅ、と背筋が凍るも、

電話越しで何やらざわざわとした

とても濃度の薄い喧騒は聞こえた気がした。

どこか人の集まるところにいるのだろうか。

しかしそれもすぐに止んでしまう。


嫌な想像が駆け巡る。

何かあったんだっけ。

何か怖いんだっけ。

これは確実にドッキリなんて

生優しいものではないことくらい

とっくのとうに分かっている。

私にとっても美月にとっても。


用意が終わって玄関に立つ。

もう出ることはできる。

スマホはスピーカーを止め耳にあてて

がちゃっと鍵を開ける。

嫌な予感がする。

嫌な、とてつもなく嫌な。


花奏「今からそっち行くからね。…美月、みんなもどこに」


美月『ど、こ…………ょ……ぃ………。』


車が通ったからだろうか。

しっかり聞き取れなくて。

自分自身焦る気持ちが募ってか

乱雑に鍵を閉めていた。

かつんと勢いよく乾いた音。


花奏「ごめん、もう一回言ってほしい。」


美月『ぁ……びょ、ういん…病院っ…!』


花奏「…病院?」


美月『ぁぅ、ごめん花奏っ…ごめんなさいっ、ぁ…ぁ、あたしのせ、ぃでっ』


花奏「美月のせいじゃないよ、大丈夫だから。」


病院。

学校の近くにある大きなところだろうか。

大きいだけあって多くの患者さんが

そこに集まるからという理由だけで

その病院に的を絞った。

合っていなかったらまた連絡を…

でも、間に合わないとか…。

間に合わないって、なんだ。

何にだ。

私は、何かに間に合わなかったから

今こう思っているの?


巡って。

巡った先に。

ぱっと美月の声がしなくなった。


花奏「…!?美月、美月っ!」


『もしもし、花奏けぇ?』


花奏「……麗香…!」


麗香『…。』


麗香は何故か押し黙ってしまって。

奥から美月の嗚咽が聞こえてきた。

それにまた胸を抉られるような気持ちになる。

さっきの麗香の声だって

平然を保っているような雰囲気を醸しつつも

どこか喉の奥で引っかかるような、

そんな違和感が爪を立てる。

…違う。

違和感はそれだけじゃない。


花奏「ね、ねぇ、麗香教えて。」


聞いてはいけないと誰かが

どこかで警鐘を鳴らす。

聞こえてる。

聞こえてるんだよ。

でも、聞かなくちゃいけない気がして。

というより聞かないと納得ができなくて。


花奏「何が起こったの。」


麗香『……歩先輩が』


歩。

その言葉に、がむしゃらに

動かしていた足が止まる。

走っていた足が。

…ふと、どこに向かえばいいのか

分からなくなる。

横で車が通る。

横断歩道までもう少しだった。


麗香『…歩先輩が、亡くなった………っ。』


その言葉だけ。

それだけが大きく聞こえた。

はっきりと鮮明に聞こえた。

嫌なほど残響して聞こえた。


歩が、死んだ…?

死ん……。





°°°°°





歩「…おやすみ。」





°°°°°





花奏「……っ!?」


…ぁ……。

あ、れ……。


…。

…。

…っ……。

…。

……死んだ。

…。

死ん、だ。

…。

…。

死んだんだ。





°°°°°





真帆路先生やお母さんに

会えるのかな。





°°°°°





死んだ、はず。

…。

…。

…。

なんで?


何で。

終わったんじゃなかったの…?


花奏「……ぇ…えっ…?」


麗香『…混乱するのは分かるけぇ。……今から言う病院に』


花奏「何で…生きてるん…?」


麗香『はっ…?』


ありえない。

戻っている。

戻っているのだ。

戻って…。

慌てて電話を切り、

スマホのホーム画面を表示する。

ほんのりと眩む。

日付は、11月12日。


花奏「…っ!」


歩は今日、死んだんだ。

どうして今の今まで忘れていたの。

どうして思い出せなかった。

どうしていつも通りに、

最初と同じ通りに過ごしてしまった。

どうして途中で気づけなかった。

どうして時々の違和感を放置した。

どうして、どうして。

どうして。

どうして、戻った。


花奏「……はっ………は…。」


死んだ。

また。

また、歩が死んだ。

私だって。

私だって死んだはずだ。

この日へと戻るために

廃墟へ辿った記憶なんて

前の周期には一切ない。

ない。

そう。

ないのだ。


じりりと脇腹が痛む。

さっきまで痛まなかったのに

どうして急に。

激痛の走る腰を抑えて

声を上げないようにと蹲る。

普段気にしていなかった小石が

やけに大きく見えた。


何故?

何故、戻っているの?

明日は来なかったの?

どうして。

どうして?


花奏「……ぁ…歩っ…?」


私はまた彼女を…。

…。

…。


戻ろう。

歩が死んだら元も子もない。

歩が生きているところまで戻して

もう1度死んでみよう。

何が作用しているのか確認しよう。

そうしなければ。

…そうしなきゃ。


…私は死ぬことすら

許されない可能性が出てきてしまう。


何もかも信じられなくて

もう1度スマホの画面を確認しても

間違いなく11月12日の文字。

現に今、歩が死んだと知らせを受けた。

戻ってきているのだ。

戻ってくるはずがない。

ないのに、事実が口を塞いでくる。

今は12日だって。


花奏「……戻、らなきゃ。」


私は踵を返し、病院に行くのは諦めた。

亡くなったともう断言されたのだ。

行っても、また認めたくなくて

逃げてくるだけ。

しない理由は探せば探すほど出てくるもので、

自分が心底嫌になりかけた。


花奏「…っ。」


このパターンなら

歩は交通事故で死んだのだろう。

綺麗に亡くなっていた時の歩を思い返す。

血に塗れていなくて、

今までの凄惨なものに比べたら

相当綺麗なままで。


…ふと。

恐ろしい想像が

頭の中で浮かんだ。


私、自分が死んでから

何回戻っているのだろう。

何回目で気づいたのだろう…?

もしかしたら気づかない間にも

何度も繰り返していたのかもしれない。

今日を。

最悪な12日を。

そして忘れて、

また今日を繰り返す。

そんなことがあったのかもしれない。


自分の手を握りしめる。

爪が食い込むことに気が付けないまま

2駅の間はあっという間に埋まった。

履き慣れた学校用のスニーカーは

勢いよくコンクリートを蹴る。

細かな石らが飛ばされるも

そんなのはお構いなし。

今は行くべきところがあるのだ。


まだ夕暮れ、しかし夜も迫る頃。

遠くからは子供の遊ぶ声が聞こえる。

そうだ。

今日は土曜日だもの。

遊んでいる子供だって多々いたことだろう。


花奏「…。」


夕陽は、西日は間違いなく

私を責め立てている。


邪魔など入らないことは

今までのことで確認済み。

今までのこと…。

…全て、思い出していた。

何故忘れていたのかが不思議なくらいだ。


瓦礫の床を駆け、

ひび割れた階段を登った。

そして最上階で待つ、謎の機械。

舞っている虫の影。

相変わらずここにあったのだ。


…いつからあったのだろう。

いつからあるのだろう。

いつだかの周期で

早めにここについた時があったが、

その時はまだ何もなかった記憶がある。


花奏「……何で…。」


疑問と葛藤を胸に

躊躇なく機械の中へと入る。

『小津町花奏』の文字と

『51202211111025』の数字。


花奏「…?」


こんな数字の並びだったっけ。

最初の数字は5ではなかった気は

大いにするけれど。

なんて確とした違和感を感じつつも、

私はすかさず白いボタンに

しっとりと手を這わせる。

手汗が酷かった。

乱れる呼吸を抑えつけようと圧迫するたび

より乱雑な塵が吐かれていった。


花奏「……戻る、そして1度死ぬ。…それでも戻るようであれば理由と対策を考えなきゃ…。」


確実に歩を救って、確実に私が死ぬように。

その為に、戻すのだ。

歩の生きている昨日へと迷いなく戻るんだ。


白いボタンを、押した。











11月11日



…。

先生の声がする。

顔を上げてみると、

間違いなく10:25を指した時計。

戻った。

戻ってきた。

記憶はある。

忘れていない。

大丈夫だ。

…大丈夫。


すぐに試そう。

休憩時間まで5分もかかる。

待ってる方が勿体ない。

どうせ戻ってくるなら

何したっていいだろう。


花奏「…。」


何も考えずに席を立つと

がらがらと大きな音を立てて

自分の椅子が机と離れた。

それに驚き多くの同級生や

先生までもが私を見やる。

そりゃそうだ。

授業中、先生が説明しているだけの時に

急に生徒が席を立つんだから。


先生「…?どうしましたか、えっと…小津」


先生が名簿表を確認したのを見て

今だと脳が信号を出した。

全てを捨てる勢いで走り

教室を扉を開いて後にする。

…。

湊だろうか。

先生だろうか。

私の事を呼ぶ声がした。

物凄く遠いところから、

呼ばれているような気がした。


花奏「ひゅぅ……はっ、はっ…っ。」


息が切れたって何だっていい。

階段を何段か飛ばして駆け上がり、

最上階まで来たところで空き教室を探す。

その間に歩の教室の前を通ってしまうな。

顔を合わせてしまうのだろうか。


そう不安に思っていたら

歩のいるはずである教室に差し掛かる。


…いないでほしい。

出来るのであればもう顔は合わせたくない。

それでも気になって教室を覗いた。


花奏「…。」


誰もいなかった。

移動教室だったのだろうか。

授業が終わって会いに行った時

いつものように席について

頬杖をついていたような記憶がある。

この時間に移動することは

まずなかった為に

今更ながらこの事実を知った。

知ったところでどうだ。

何も意味はないけれど。


後何分で授業は終わるのだろうか。

この教室が空いているなら好都合だった。


花奏「……?」


…遠くできゃっきゃと

女子高生らの燥ぐ声が聞こえる。

体育等の授業が終わって

教室へ戻っているのか。

と考えたけれど、

体育に限らず早めに終わったなら

校舎を歩いていても不思議ではない。

そろそろ2限目の終わりを告げる

チャイムが鳴ってしまう。

急がなきゃ。

そう思った時。


「おーい!」


花奏「…っ!?」


聞き覚えのある声。

聞いたことある。

そうだ。

この教室は歩のいる教室であると共に

愛咲のいる教室でもあったんだ。


愛咲「かーなでー!」


チャイムはまだ

鳴っていないのにも関わらず

大声で叫ぶ愛咲を多くの人が凝視しただろう。

遠くに彼女の姿が見えた瞬間、

冷や汗は止まるところを知らず

どっと流れてくる。

心臓はどくどくと煩く、

血の流れる音が聞こえていた。


ここで捕まるのは1番面倒な事になる。

そう悟った私は走って教室へ入り込み、

ベランダへと向かった。

慌てて鍵を開ける。

出なきゃ。

死ななきゃ。


けれど、どれだけ力を入れても

その窓は開くことがなく。

鍵を見返してみると

しっかりと閉まっていた。

鍵が空いていたと知らず

焦って1度閉めてしまった様子。

愛咲の声が聞こえる。

嫌だ。

嫌だ。

今度こそ鍵を開ける。

窓を開く。


愛咲「花奏ー!何か用」


花奏「来ないでっ!」


ひと言叫んだ時にはもう、

手すりに足をかけ登るも

バランスを崩した。


はら。

紅葉の綺麗な日だったんだ。

ベランダの外へ投げ出され、

否、自分で投げ出した。

落ちる寸前、愛咲の顔を

見ることはできなかった。

そんな焦って飛び降りることないのに。

私に冷たく言い放つ私がいた。











11月11日



花奏「…おかしい。」


おかしい。

おかしいかった。

私はあの機械を使っていない。

だからこの日に戻ってくるはずはない。

なのに必ず戻ってくる。

死ねない。

生きることも出来ない。

八方塞がりとはこのことなのだろうと

改めて心に刻むことになった。


私は機械を使っていないのに

記憶を何とか保つ事が

出来るようになっていた。

死に戻るうちに忘れてはいけないと

強く思ったからだろうか。

同時に脇腹や手首を始め

様々な部位が今まで通り

痛みを訴えてくる。


あれから何度も試してみた。

何度も痛い思いをした。

飛び降りて戻るにしても

直前の鈍痛に一瞬浸って

あの時間に戻ってくる。

痛い事には変わりなかったが

一瞬で済むあたり

脇腹の痛みよりもましな気がした。

学校ではどの時間、

どの場所で飛び降りても駄目。

電車に轢かれても駄目。

薬や毒の類も駄目。

絶対戻ってくる。


刺される痛みを完全に知っているからこそ

自分を死ぬまで刺すことは

どうしても出来なかったし、

火に炙られるのも怖くて出来なかった。

その2つを除いて、

私が考えられる選択肢は

全て試していた。


死んでも戻ってくる。

これはきっと今までの歩の視点に

立っているのと同義だろう。

戻される。

本人は自覚なし。

私の場合は例外で

今までの周期を忘れずに

戻っている自覚だってあるけれど。

そうなれば浮かぶのはひとつ。

仮説を立てた。


誰かがあの機械を使っているとするならば。


そうならば戻っていることも納得は出来る。

どの場所にどの時間帯で死んでも

機械を使えばいいのだから

それらの条件は大して関係はない。

私の自殺を止めようと

誰かが必死に頑張っている。

そういうことではないか。

…もし本当にそうならば

誰が一体こんな事を。


花奏「…。」


誰かに後をつけられた記憶は

ないと言っても過言ではない。

普通、死ぬと分かっていたら

大胆に動いてきても

おかしくはないと思うけれど。


そもそも私自身

様々な時間、場所で死ぬものだから

対処が出来ないのだろうか。

それは大いにあるだろう。

歩の場合は時間と場所が決まっていたから

ある程度私も事前に構える事ができた。

それがなかったら手の打ちようはなかったな。


花奏「…。」


その時。

2限目の終わりを告げる

チャイムが鳴り響いた。





***





湊「花奏ちゃん寝てたね、珍しい。」


花奏「…。」


戻る。

戻る。

どうしたからいいのか分からない。

何をするにも気力が湧かない。

何をしたって無駄だと思い始めている。

何をしたって、死んだって、

歩は。

…。


湊「んあれ、花奏ちゃ」


花奏「…ごめん。」


湊「へ?」


無駄だ。

無駄なのだ。


もしも、私が死んだ後も

歩は死んでしまうのであれば。

私は確認のしようがないけれど、

そんな事実があるのなら。


…私は焦ってまた何度も何度も

歩の首に手にかけているのと

同じことではないのだろうか。


花奏「…っ。」


感情に任せ…

…感情なんて言えないほど

機能していないそれに任せ、席を立った。

授業中じゃなかったから

教室に響く音を気にする人もいなかった。


湊「トイレでも行くのかい?」


花奏「…。」


湊「…うちね、思うんだよ。次の授業サボってもいいかもなーって。」


花奏「…そうやな。」


湊「お?気が合うねえ。」


花奏「でも…ごめん。ついてきて欲しくはないな。」


湊「……花奏ちゃんってば千里眼でも持ってるのー?」


湊は笑い話に変えてくれたけど、

私はもう笑うことも出来なかった。

彼女の話を無視するように

そのまま背を向けて歩いた。

何で歩いているんだろう。

何で考えているんだろう。

泣くことも笑うことも

いつからか忘れてしまった。

凄惨な現実、凄惨な未来の記憶だけ

覚えているのに。


…。

こんな時に限って

歩が作ってくれた

ハンバーグの味が過る。

美味しかったな。

…。

…。

…。

また、眠れず食べれずの生活を

繰り返すようになっていた。

逆戻りだ。

何もかも。


花奏「…。」


いつもの最上階手前のところで

いつものように座る。

そして髪を手元に手繰り寄せ

ぎし、と音が鳴るほど強く握りしめた。

すると連動するかの如く体のあちこちが痛む。

痛い。

痛い。


…。

もう、やめたい。

やめた、い。

助けて。


花奏「…………た、すけ……て…。」


私の独り言はぽつり、

雨のように降ると

それきり脳から絶えず滴り

溢れてきていた。





***





…。

帰りのホームルームが終わる合図である

チャイムが鳴って、

また時間が経った。

一瞬けたたましくなったが

人は散っていったのか今では静かだ。

誰もいないみたいに。

時々遠く遠くから

女子高生の話し声や運動部らしき掛け声、

男子生徒の燥ぐ声が聞こえる。

日常だ。

他の人からしたら

何ら変わらないただの11日。

…。

いいな。

…私もそうやって過ごしたかった。

今からでも全て

忘れてしまえばいいのではないか。

…。

…でも、明日の歩の事故でどうせ思い出す。

変わらない。

変わらない日々。


胃酸が上るのを感じた。

何も食べてないのに。

変な体だ。


花奏「…。」


ここにいても何をしても意味がない。

帰る意味だってない。

何をするにも、本当の意味で

無駄になってしまった。

何を。

…何をすれば。

その考え方が間違っているのかな。

何をしなければどうなる…

その考え方にしたところで

結末は変わらない。


花奏「………ぁ……ゔっ…。」


誰か、誰でもいいから歩を助けて。


口に出せるなら出したかった。

話を聞いて欲しかった。

誰も頼れない。

誰も頼れないのに誰かに頼りたくて仕方ない。

隣に寄り添って背を撫でて、

今だけは同情でもいいから

優しい言葉が欲しい。

梨菜や湊を始めとする

みんなのことが信用できなかった。

信用…。

…歩のことも。


歩。

…隣にいて欲しかった。


痛いな。

何でこんな。

こんな目に。





***





花奏「…。」


痛みが治まりつつあるところで

体は勝手に歩き出していた。

どこに行こう。

頭ではそう考えているのだが、

迷うことなく彼女の、

歩のいる教室へと向かっていた。

2度と会わないと思っていたのに

こうやって期待を寄せて

向かってしまうあたり

どうにも自分を卑下してしまう。


花奏「…。」


ここだ。

何周か前にはここから

焦って飛び降りたっけ。

今日はゆっくり時間を使って、

2年前のやり直しが出来そうだ。


教室の中には誰もおらず、

窓もぴっしりと閉まっている。

からんと空虚な音が

聞こえてきそうなほどに

人の気配はなかった。


教室後方の窓を開く。

すると世界が開かれたかの如く

風は吹き荒れ髪を靡かせた。

運動部員の声が聞こえる。

かこん、と何かを打つ音から、

吹奏楽部だろうか、楽器を鳴らす音まで。


花奏「……。」


みんな生きているんだな。

生きていることに疑問を持たないんだな。

それが、それが羨ましいな。


この高校に入学したはいいものの

待ち受けていたものがこれか。

私、頑張ったのにな。


花奏「……。」


ベランダの手すりに腕を乗せ、

肘をついて外を眺めた。

あーあ。

あの日…2年前にもしも死んでいれば

きっと今頃こんな思いを

しなくてよかったのに。

あーあ。

…あー…あ。

器用な手先を持っても回る頭を持っても

歩1人すら救えず自分を殺せず。

この先どうすればいいんだろう。

そればかり。

そのことばかりが頭の中を蠢いて

脳の隅々まで食ってゆく。


かたん。

何かが落ちた音だろうか。

そう、思った。


「……小津町…?」


花奏「……。」


……。

…。

あれ。

このパターンだっけ?


花奏「……そ、か…。」


歩「…何してんの?」


花奏「…。」


歩「ねえ、小津町ー?聞こえてんでしょ。」


花奏「…。」


距離は遠いように感じる。

振り返ったら彼女がいる。

外は広くて限りなく灰色に近くなり、

雨はますます酷くなるばかり。

どこまでも続く空を見ては

今の私の立場と同じようでうんざりした。

どこまでも広がる選択肢。

それを想起させた。


歩「ねえって。」


真後ろ。

大きな音が聞こえたと思えば

背中を強めに叩かれる。

本人はそんな意識は

していないのだろうけれど。

びり。

脇腹ばかり痛む。

もうやめてよ。


歩「返事くらいしたらどう?」


花奏「…。」


歩「…?」


花奏「…。」


歩「小津町…?」


横に並び私の顔を覗くように

手すりから少々前のめりになっているのが

視界の隅に映る。

そのまま落ちたら危ないね。

もしも。

歩があの時間以外で死んだら

どうなるのだろうか。

…そんなの本末転倒か。

例の時間外で殺してどうする。

何の利がある。

歩には生きていて欲しい。

それが大前提だろうに。


歩「何かあった?」


花奏「……何も。」


歩「絶対何かあったじゃん。」


花奏「………。」


歩「昨日に続き今日もここに来るなんてどうしたの。」


花奏「…。」


私を覗くのはやめて

彼女もグラウンドの方を眺めた。

紅葉の季節だった。

色づく葉が綺麗に流れていく季節のままだった。


視界の隅で揺れ動く髪。

春の頃に比べたら伸びた方かな。

頬にぴたぴたと

雨が心地よく張り付いてくる。


花奏「…。」


歩「…別に無理に話せって訳じゃないけど、いつにも増して暗い顔してるから流石に気になった。」


花奏「…。」


私はこの半年間で

歩は嫌というほど優しい人だって知った。

だから、歩に見つかれば

簡単に逃してくれないことだって

前々から気づいていた。

見つけてくれるから。

あなたはいつも

私のことを見つけてくれた。

甘えたくなった。

今までの全てを話しても

茶化すか受け入れるかしてしまうと思う。

そして一緒になって考えてくれると思う。

それほどまでに優しい人だって

知ってしまっているから

いつからか会いたくなくなっていた。

歩に会ったら甘えてしまう。

この時間に甘えてしまう。

そして罪悪感を感じているふりをして

また元に戻すんだ。


隣にいなくていいんだよ。

私の事はもう忘れて。

そして、何もない平凡な日々を過ごして。


歩が生きている未来へ辿り着けるなら

私は不幸になってもいいから。


歩「……あのさ」


花奏「…死んでええ?」


歩「…………は…?」


花奏「だから、今ここで死んでええか聞いてるんよ。」


死んでも戻る。

無意味。

分かってる。

分かってる。

…けど、それ以外方法が分からない。

歩が必ず死に、私が必ず生きた。

それを覆すには私がいなくなればいい。

その発想から逃れられなかった。


歩「………いいって…言うと思ってんの…?」


花奏「……聞いただけや。」


歩「2度とそんな馬鹿なこと言わないで。」


花奏「…。」


分かった、とは言えなかった。

今後も一緒に付き合うことになる

感情、考え方だろうから。

ふう、とひと息湖の広い広い空に吐き出して

手すりを乗り越えようと

鉄棒をするようにジャンプした。

それだけで心臓がふわっとする。

今まで何度か味わった感覚だ。

そのままー


歩「……っ!?危ないっ!」


その声とともに視界が1回転。

そして頭やお尻などを強打し

一瞬1番下まで落ちたのかと思うも

珍しいことにまだ意識がある。

息を止める。

息を止めていても微かに

鼻の奥に香る匂い。

…そりゃあ隣にあなたがいれば

死に損なうことなんて分かりきっていたのに。


花奏「…ぃ…づぅっ…」


歩「馬鹿、馬鹿!何してんのっ!」


花奏「……っ。」


彼女に制服の襟を引かれて

転げたせいで空を見上げていた。

屋上の出っ張りに空は少し遮られている。

とつ。

とと、つ。

雨だ。

大雨だ。


雨は殴りかかるように

私を微々ながら打ちつけた。

何事もなかったように

とりあえず座った体制へと戻る。

じりり、じり。

酷く酷く痛む。

痛む。

こういう時どうしてたっけ。

ただ耐えているだけだっけ?


歩「許さないから。」


花奏「…っ!」


歩「死ぬとか、そんなの絶対許さないから。」


初めて聞いたかもしれない。

繰り返しの日々の中で

初めてこんな怒号を耳にした。

何でこんなに怒っているんだろう。

他に怒るべき周期って

沢山あったはずなのに。

どうして今周期で…?


ここじゃ…というよりかは

歩のいるところでは死ねないと悟り

その場を去らなきゃと思って

彼女に背を向け立とうとした。

したが、動けなかった。

まただ。

時々あるのだ。

ふと動けなくなってしまうことが。

背を向けたまま動かなくなった私に

何かと歩は叫び続けていたっけ。


どん、と、重く刺激が加わった。

何かと思えば

歩が背を叩いているらしかった。


歩「何でっ…。」


背中をずっと叩かれ続ける。

楽に死にたいのに痛ぶられる。

むしろこれがあるべき姿なのかもしれない。

延々と逃げ続けた結果だ。

怨恨のこもった殴り方だった。


花奏「痛いで。」


歩「これから死ぬんならっ、どれだけ叩いても殴ってもいいでしょうがっ!」


どん、と重たい音がした。

背中が、骨が軋む音がする。

痛い、と率直に思う。

痛い。

生きている。

だから痛い。


歩「馬鹿っ、馬鹿っ!」


花奏「…。」


歩「これだけやっても、まだわかんないわけ。」


花奏「分からへん。」


歩「…っ!」


分からない。

分かるわけがない。


歩「私は、あんたに死んでほしくないの。」


花奏「そんな酷なこと言わんでや。」


歩「言うに決まってる!酷だろうがなんだろうがこの先、あんたを止めなくて後悔する日なんて迎えたくないっ!」


花奏「エゴやん。」


歩「エゴだよ、それで何が悪いのっ!」


どん。

また重く骨へと響く。


歩「あんたがやめないなら、私、気が済むまで殴るか」


「ちょ…何してんだよ!」


突如聞こえてきた通る声。

もう全てが変わっている。

ぐちゃぐちゃだ。

今、ここにはいないはずじゃないの?


愛咲「やめろって三門!」


歩「だからっ…!」


愛咲「三門!」


私は背を向けたまま2人の方を見なかった。

見たって歩が酷い顔してるのも

愛咲が鬼のような形相なのも

手に取るように分かったから。


たし。

…と、強めの打音。


歩「…だから遠くに行かないで、小津町…っ。」


叩かれたのではなく、

振り上げた手を思いっきり受け止めた。

…そんなところだろうな。

背中には響くような低音は漏れなかった。

何だか寒いな。

寒いはずなのに冷や汗が

止まらなくなってきた。


歩「お願い…。」


泣かせたかったわけじゃない。

怒らせたかったわけじゃない。

ただ誰にも知られずに

ひっそりと死にたかっただけ。

最近考えることといえばこのことばかり。

繰り返して繰り返して

歩を亡くし続けて私は何がしたいんだ。

さっさと死んでしまいたい。

なのに死んでも戻ってくる。

どうすれば。

その繰り返し。

繰り返して繰り返して、逆戻り。


麗香「……何の騒ぎけぇ。」


羽澄「一旦歩が落ち着くまで花奏を外した方がいいと思います。」


花奏「…。」


愛咲「うちここに残るわ。花奏の事頼んでいいか?」


羽澄「はいであります!」


何故。

今、たった今この時間に

この高校のメンバーが揃うことなんてない。

ない。

あの雨の日は…

…雨の中歩と一緒に帰った周期では

こんなことなかった。

羽澄なんて恐ろしく久々に出会った。

会うはずがないのだ。


変わっている。

何もかも変わっている。

私以外に事実を、

今日と明日を変えようとしている人間がいる。

そしてその人が私の邪魔をしている。

その人が機械を使って戻している。

終わりのない日々へ私を閉じ込めている。


花奏「…。」


羽澄に軽く背を撫でられ肩を貸された。

力の抜けた膝は赤子のように覚束ない。

その足のまま歩の隣を通り抜けた。

初めてだらけの周期だった。


花奏「………。」


歩「……っ。」


何かひと言言えたらよかったんだろうけど

謝るなって言われて以降

ごめんなさいと言う選択肢は

綺麗に消え去っている。

なんて言えばいいんだろう。

…きっと何を話しても、何を口にしても

歩のことを困らせてしまう。

それこそ喋るだけで、

居るだけで不幸にしてしまう。


花奏「愛咲。」


愛咲「なんだ?」


花奏「ここに来たのは誰の指示なん?」


羽澄「花奏、早く行きますよ。」


花奏「聞いてからや。聞くぐらいええやろ。」


羽澄から腕を外し、

ふらつきながら近くにあった

ロッカーへ体重を寄せる。

麗香やら羽澄やらが不安げに

近寄ってきたがその事には目もくれずに。

随分と変な周期だな。


愛咲「…うちらは声が聞こえてきて、偶々」


花奏「そんなはずないよな?」


愛咲「何で決めつけるんだよ。」


花奏「愛咲達がここにおるはずないからや。誰かの指示がない限り、ここには歩しか来んやった。」


愛咲「知ってる風に言われたって」


花奏「知ってるんよ。」


愛咲「…。」


花奏「何回も見てきたんよ。繰り返してる中で1回もここに来ることはなかった。」


麗香「繰り返すって…何言ってるけぇ?」


花奏「…。」


何馬鹿なことを言っているんだ。

そんな視線をぶつけられた。

愛咲もそんな目をするんだ。

歩の近くにしゃがむ彼女は

どこか不安の滲む色をしていて、

あぁ、綺麗なんだなって思った。

繰り返しに慣れていない、

人を助けることが

当たり前だと思っているその目。

もう、私は無くしたけれど。


羽澄「いいから早く」


花奏「私の予想やと梨菜なんやけど、どうなん?」


愛咲「…っ!?」


徐々に開いてゆく目を見て、

良くも悪くも素直だと思った。

想像はつく。

私以外に記憶が朧げながらにあって

機械の存在も知っている人間。

私が唯一繰り返していることを話した人間。

CPUではない人間。

梨菜しかぱっと思いつかなかった。

違う行動を取ったのだ。

1人だけ、大まかには同じだろうと

全く違う言葉を使ってきた。

「何回目の今日なのか」って。


他のみんなの中で

繰り返している人がいたら

同じように干渉してくるだろうに。

梨菜以外いなかった。


花奏「梨菜から何て?」


愛咲「…っ。」


花奏「なんて言われたん。」


羽澄「もうやめてください!」


花奏「…梨菜に、私を止めろって?」


愛咲「それは…」


花奏「言えへんの?」


愛咲「…っ。」


羽澄「花な」


麗香「花奏が学校で自殺する可能性が高い、止めて欲しい。」


羽澄「…!…梨菜に言うなって言われてたじゃありませんか。」


麗香「隠したって無駄けぇ。花奏も馬鹿じゃないし、愛咲先輩ももう隠せないけぇ。」


花奏「…。」


歩が黙って俯くのを傍目に

麗香は少し俯いた。


隠す前提だったのか。

私が記憶を持ったまま戻った場合、

対策されないようにするためだろうか。

全てが変わったのは梨菜のせい。

梨菜が私の自殺をきっかけに

時間を巻き戻している。

何故。

私を救う為?


花奏「……なるほどなぁ…。」


…。

梨菜はどうやったら止められる?

…。

…梨菜を…殺す…?

そんなの、愉快犯と同じだ。

でもこの際どうでもいいのかな。

何をしても変わらない日々から

抜け出すためには

梨菜に手をかけて私も死ぬ。

それがいいのかな?

そんなんじゃ駄目だよね。

思い出して。

思い出せ。

刺される怖さを。

あの図書館での恐怖を。

あいつと…それに、森中と

一緒のことをするなんて。

…そんなの嫌だ。


花奏「…………ぁぐっ…!?」


じり、と比にならない程の

激痛が脇腹や手首を縛り付ける。

立っていられなくなり、

また視界が揺らぎ、

どこにいるのだか分からなくなる。


花奏「は、は…………ぁ゛…っ!?…えぁ゛っ…」


今までだって痛んでたじゃないか。

何今更芝居みたいなことやってるんだ。

でも本当に痛いの。

刺された時より遥かに、ずっと。


「花奏、おい花奏っ」


「先生呼んでくるけぇ!」


「…!しっかりするであります…花ー」


あ。

…。

………。

…ぁ。


もう、駄目かも。

視界がブラックアウトしてゆく。

音が遠のいてゆく。

これからもこのままこの日々を

進むことなく過ごすのかな。

そう思った時には

意識を手放していた。





***





「お大事になさってくださいね。」


花奏「…。」


梨菜「ありがとうございました。」


梨菜は律儀に深くお辞儀をして

私の手を引き病院を後にした。

私はどうやら倒れてしまったらしく、

その場にいたみんなは慌てて

病院へ連絡、そのまま運ばれたと。

梨菜からみんなに何かを伝えていたのか、

この場には私と彼女のみ。

2人だけで夜道を歩いていた。

雨は止んでいる時間のよう。

夜遅いことが予想される。


父さんは出張の影響で

すぐさま戻ってくることは出来なかった。

確か結構遠いところ、

それこそ地方の方への勤務だったはず。

そのため、保護者代理のような役割を

梨菜が担っていたんだろう。

代理が先生ではないあたり

梨菜が結構強く要望したのかな。


梨菜「倒れた時に怪我がなくてよかった。」


花奏「…。」


梨菜「このまま家まで送るね?」


花奏「…。」


梨菜「ここからどのくらいだっけ。」


花奏「…。」


彼女は道端に身を寄せ、

私もそのまま手を引かれ

彼女の方へ連れて行かれた。

後ろでバイクが走り去る音がする。

今彼女の手を振り切って

道路へ身を投げてしまおうか。

…それでも根本解決にはならない。

戻るだけ。

…。


梨菜「…ここからだと…あ、そこの大通り曲がったらあとはほぼ一直線だね!」


花奏「…。」


梨菜「待たせてごめんね。じゃあ行こっか。」


花奏「…。」


明るく普通に振る舞っている梨菜が

心底気持ち悪く見えた。

繰り返しているんでしょ?

なのに嫌な顔も不安げな顔もすることなく

普段通り笑顔で。

気持ち悪かった。

作り物だと思った。


夜は酷く青く孤独が染み渡る。

1人で歩いている方が楽だったな。


梨菜はしきりに私へと話しかけてきた。

全てを無視していても

ずっと話しかけてくる。

それはもはや狂っているとも見える。

笑顔で只管楽しげに

今日こんなことがあったんだ、

最近この曲好きなんだ、と。

話題は尽きずに次々と出てくる。

彼女の人形になったようで

心底気分が悪かった。


梨菜「それでね。…って、家この辺だよね。」


花奏「…。」


梨菜「あ!あったあった。話してたら思ったよりも早かったね!」


花奏「…。」


梨菜「ねえ、花奏ちゃん。」


花奏「…。」


梨菜「あのね、少し話したいことあるからお家にあがってもいいかな…?」


花奏「……嫌や。」


梨菜「そういうわけにもいかないの。」


花奏「嫌。」


梨菜「花奏ちゃん…。」


しょぼんと見て分かるほど

肩を落としているのを見ても

何も情が湧かない。

泣くことも笑うことも出来なくなって

幾分か周期を経た。

感情はどこにいったんだろう。

梨菜を見ていると私のあの日々は上手く

出来ていなかった気がしてならない。

下手。

私のあの日々は無駄だったのかもしれない。

もしかしたら、元より梨菜に任せていたら

全てが上手くいったのかもしれない。

私の足掻きなんて無駄だったのかもしれない。


梨菜「ここは譲れないよ。」


花奏「…。」


梨菜「お願い。」


さっき病院で頭を下げていた時のように

深々とお辞儀をしていた。

そうされても私は彼女を

家に入れる気なんてなかった。

…けれど、私自身終わるためには、

……その為には、

彼女を止めなければならないわけで。

嫌でも何でも話し合う他

ないのかもしれない。


全てを諦めて家の中に入ると

否が応でも彼女はついてきた。

もう止めはしなかった。

彼女の意思は折れないだろうと

想像がついてしまうから。


家に帰るとお母さんの笑顔が見えた。

私、そっちにいけなかった。


梨菜「単刀直入に聞くね。花奏ちゃんは何回目の今日なの?」


花奏「…。」


またその質問か。

…と、心の中でため息をつく。

私も彼女も立ったままで。

夜の帳が下りて数時間。

眠るまで、戻るまでは

時間がかかりそうだった。


梨菜「…私、知りたいの。」


花奏「…。」


梨菜「花奏ちゃんが何で自殺しちゃうのかを知りたいの。」


花奏「…記憶にないな。」


梨菜「そんな事ないでしょ?…愛咲ちゃんや麗香ちゃんに聞いたよ。「繰り返してる」って口にしてたって。」


花奏「…。」


梨菜「ねぇ」


花奏「………あはは。」


酷く乾いた声。

表情筋は何ひとつ動いていないのが

自分でも分かってしまった。


梨菜「…花奏ちゃん。」


花奏「煩い、黙ってや。」


梨菜「…っ………あのね、私は助けたいの。」


花奏「……何言ってるん?」


梨菜「助けたいの、花奏ちゃんのこと!」


1歩。

躙り寄る梨菜の姿は

最早恐怖でしかなかった。


梨菜「夢だったのかもしれないけど、花奏ちゃんは私に話してくれたよね?」


花奏「…。」


梨菜「歩ちゃんが死ぬって。それをなかったことにする為にやり直して頑張ってるんだって。」


花奏「…。」


梨菜「ぼんやりとだけど、機械の話だって覚えてた。」


花奏「…話さなきゃよかったな。」


梨菜「…っ……。…でも、数回繰り返した私からの視点だと歩ちゃんは死なないの。」


花奏「………え…?」


梨菜「死ぬのは花奏ちゃんだけなの。」


そんなはずない。

歩は必ず…。


…。

…私が死んだから…?

やっぱり私がいなくなれば

歩は助かるの…?


梨菜「花奏ちゃんは意志を持っていろんな場所でいろんな方法で死んだ。」


花奏「…。」


梨菜「1番最初は機械の場所が分からなくて巻き戻すまでに3か月はかかった。」


花奏「…。」


梨菜「…知ってる?その時のみんなの顔。」


花奏「知るわけないやろ。」


梨菜「だよね。…見るに堪えなかったよ。特に歩ちゃんは塞ぎ込んじゃって…いついなくなってもおかしくないくらい不安定になってた。」


花奏「…っ…。」


梨菜「歩ちゃんだけじゃない。みんないつものように笑えなくなってた。そんなの嫌じゃん。やり直せるなら、今までが戻るなら戻したいじゃん。」


花奏「…。」


梨菜「…それで、ほぼ消えかかってた記憶を頼りに機械を探した。」


花奏「…。」


梨菜「…それで漸く見つけて戻ってきた。みんなが普通に笑ってるのを見て凄く嬉しかった。」


花奏「…。」


梨菜「それから私は花奏ちゃんを止めようと試行錯誤したけど、そもそも花奏ちゃんし死ぬ時間も場所もランダムで。」


花奏「…。」


梨菜「そこで思ったの。花奏ちゃんも記憶があるままなんじゃないかなって。」


花奏「…。」


梨菜「1度顔を合わせて話さなきゃ分かってくれないって思った。」


長々と話す彼女の目は

揺らぐことなく私を捉え続けた。

井草の匂いがする。

間違いなく私の家なのに、

何だかいつもとは違う空間に

いるような気がしてならない。


花奏「…何が言いたいん?」


梨菜「自殺しないで。」


花奏「…じゃあ殺して。」


梨菜「……っ…どうしてそこまで…。」


花奏「…。」


梨菜「…何が嫌だったの。」


花奏「…。」


梨菜「…何で死ぬ方法しかないと思いこむの…!」


花奏「…。」


梨菜「私じゃなくていい。歩ちゃんやみんな…頼れる人が周りに」


花奏「………殺してや。」


梨菜「…っ!」


花奏「…そんで、もう戻すのはやめて。」


梨菜「何で………っ。」


梨菜は悔しいのか

手をぐっと握りしめたあと、

刺すほど鋭い目つきで私を見やった。

何だろう。

やっぱり梨菜は何がしたいのか

よく分からなかった。


梨菜「…そんなの、出来ない。」


花奏「…。」


梨菜「大切な人を助けられるチャンスなのに、それを捨てられるほど私は大人じゃない!」


花奏「…!」


珍しく彼女が叫び訴えるものだから、

思わず落としていた視線が上がり

梨菜を見据えてしまった。

真っ直ぐな目。

良くも悪くも素直な目。

…あぁ。

私も最初はあぁだったのかな。

…。

…最初はよかったな。

初心、か。

どんな願いを抱いていたんだろう。


…。

歩を助けたい、だっけ。

歩が生きる明日が欲しい、だっけ。

ずっと隣に居たい、だっけ。

その全てだっけ。


梨菜「私は…私はもう、大切な人を亡くしたくない!」


花奏「何それ。」


何それ。

何それ。

何でそう思えるの。

私は何でそう

思えなくなっていったの。

いつから自分が死ぬことばかり考えて

それを目標にしていたの。


しかし、梨菜の話を聞いて

私が死んだ時現に歩は

生きていたと知り、

間違いではなかったんだと言い聞かせた。

…そう。

間違いじゃなかった。

正しかった。

正しかったんだ。

…。

…そう、誰かに認めて欲しかっただけだった。


花奏「…それが迷惑なんよ。」


梨菜「迷惑だろうと何だろうと、花奏ちゃんが生きてなきゃ嫌だ。」


花奏「なら歩は死んでええん…?」


梨菜「そんな事ひと言も言ってない。歩ちゃんも花奏ちゃんも生きる方を選ぶ。」


花奏「そんなのないで。」


梨菜「何でそう言い切れるの。」


花奏「沢山試しても駄目やったから。歩は必ず死んだんや。」


梨菜「沢山とは言っても全部試したわけじゃないでしょ。」


花奏「…っ。」


梨菜「私は諦めないから。」


綺麗事だ。

耳を貸すな。

それでも声は無情にも届き、

私は彼女と比較せずにはいられなかった。

私は駄目なんだ。

駄目だ。

すぐに諦めてしまった。

歩を何度も死なせておいて

最終的には何も感じなくなってしまった。

駄目なんだ。

私は無力だ。


…。

…もう、どうすればいいの。


梨菜「私は絶対、みんなが生きる未来を探す。」


繰り返した。

記憶を保持して繰り返した回数は

梨菜より多いとは思う。

それだけ歩の死を重ねた。

そしていつからか自分のことしか

見えなくなっていった。


歩を。

歩を助けたかったんだな、私。

今じゃ。

…。


梨菜「私の願いは花奏ちゃんに自殺をやめてもらうこと。」


花奏「…。」


梨菜「歩ちゃんのこと、私はまだあまり分からないけれどそれも止める。止めてみせる。」


花奏「…。」


梨菜「だから、もう忘れていいよ。」


私が死ぬこと、

歩を助けること。

その2つをイコールで結びつけて

固く固く縛った。

それを正しいと信じて疑わず。

疑わないように。


…その為にはやっぱり梨菜が

邪魔になる。


彼女に何も言わずに熟知する家の中を歩き、

台所へと向かった。

それから、シンク下の引き出しを開き

銀色に鈍く光る凶器を手に、

1度深呼吸をする。

相変わらず体は痛い。

変に冷や汗ばかり出て止まらない。

寒いがあまり手足の先は冷えているのに

体の芯は恐ろしく暑い。

狂気だ。

私はとっくのとうに狂ってしまってたんだ。

そう思うと気が楽になった。

何したって許される。

そんな気がしたから。


梨菜「花奏ちゃん…?」


暗がりの台所へ、

彼女が足音を立てず

忍び寄るのを感じる。


梨菜の言う通りに忘れたままで。

それでいいのだろうか。

歩は言ってた。

きっと私が何しても

どんなに酷いことをしても許すと思うって。

…いいのかな。

甘い誘惑だった。

このまま忘れてしまえば。

そう考えたことはなかった。


梨菜「えっ…ぇ…や、え…?」


花奏「…っ。」


少し離れた位置にいる彼女に

包丁の刃を向けた。

後退りする梨菜の姿。

背は壁についていて、

もうそれ以上下がれないところまで来ていた。

怖いんだろう。

私もだった。

この行為をすることで

愉快犯や森中のように

なってしまうのは怖かった。


大人になれない私は

こんな方法しかとれないのだ。


刃を、振り上げて。

…。


ぐっと力を入れた。


梨菜「…っ!?」


花奏「…ぃぁ゛…っ…。」


左手首に刺さる凶器。

とぼとぼと湧くように血が流れる。

森中との最悪な周期が

記憶の中でもやもやと存在感を増す。


忘れるな。

忘れちゃ駄目だ。

こんな甘い話にのっちゃいけない。

私は。

私は、幸せになっちゃいけない。

忘れちゃいけない。

一生背負うんだ。

この罪は決して簡単に

逃れていいものじゃない。

背負う。

この先生きるとしても死ぬにしても

背負うんだ。

こればかりは逃げていられない。

逃げられるもんか。

この痛みも吐き気も全て、

きっと今後一生ものだ。


死ぬ気満々でいたのに

生きるとしたらの例え話が

脳裏を掠めてゆく。

そこでふと、歩の発した

鋭い言葉が過ぎった。





°°°°°





歩「許さないから。」


花奏「…っ!」


歩「死ぬとか、そんなの絶対許さないからっ!」





°°°°°





花奏「……あ……は、は…。」


そうだ。

私、許されないんだ。

死ぬこと、許されないんだった。

あぁ。

あ、ぁ。

そっか。

…そっか。

そうだった…。

そう……ぁ…あぁ…。

死ねない…んだ。


あれだけ許すと言ってくれた歩が

唯一許さないと言ったんだ。

…当時は聞いてる

ふりをしてるだけだったのかな。

今になって実感する。

身に染みてゆく。

緩やかにきつくきつく

私を縛り出した。


いつもいつもあなたに救われて

いつもいつもあなたに苦しめられた。


その優しさが嬉しかった。

今すぐにでも泣き出したかった。

その優しさに救われた。

抱きついて弱音を吐露したかった。

私どうしたらいいか分からないって

本音をぶちまけて楽になりたかった。

その優しさが辛かった。

いっそ罵倒してくれた方がましだった。

いっそ殴って見捨ててくれた方が楽だった。

許してくれない方が楽だったと気づいた。


梨菜「花奏ちゃんっ!」


梨菜が慌てて駆け寄ってくる。

私、死ねないなら…

…やっぱりあの2日間に

閉じ込められるしかないんだね。

なら、梨菜はどうするべき…?

殺すべき?

生かすべき?

自分の感情が分からない。

迷子になったんだ。

私はいつからか

知らない世界にいて迷子になり、

赤子みたいにわんわんと

大声を上げて泣くことしか

出来なくなっていたんだ。


辺りが暗いせいで状況は把握しづらいが

梨菜の手が私に触れようとするのは

何とか見えた。


全ての選択肢を試すんだ。

そうなんでしよ?


手からこぼれかけた包丁を

再度確と握り直した。

寒気がするほど手中のそれは

異彩を放っている。

その伸びてくる手を目掛けて

凶器を、刃物を振り翳した。

目をこれでもかと言うほど

強く閉じて。

目を背けて。


…。

…。

…。

…。

…?

…。

…どう。

どう、なったのか。


…。


…。

…。


…。

ぁ…。


ぇ…?


何がどうなったのか

何ひとつさえ理解できないままに

後頭部に鋭い衝撃が走る。

え?

…え、どういう。

微かに目を開くと同時に

何か、腹部に違和感があった。


花奏「……………ぁ…」


あれ。

どうして倒れていて、

どうして天井を見上げているんだろう。

圧を感じる。

馬乗りされている。

更に腹部には強く違和感が働き出した。


花奏「か……あああぁあ゛あ゛ぁあ゛ぁっ……!?」


痛い、を超えてしまって

叫んでないと正気が保てないと

本能が判断した結果だった。

痛みを逃していないと死んでしまう。

そんな危機感が体を巡った。


足ががくがくと揺れている。

だらしなく涎が頬を伝う。

揺ら揺らと冷たい視線が

私を掴んで離さない。

あの時に似ている。

初めて刺されたあの時と。

梨菜の目つきは愉快犯と似ていた。


梨菜は構わず刃物を振り下ろし続けた。

何度も何度も。

恨みを持っているかのように。

何度も。


段々と霞む意識。

声を上げられる体ではなくなっていく。

歩はこんな感覚を何度も味わっていたのか。

…そりゃあ怖いや。


朦朧とする中微笑みかけた。

笑ってみた。

私に相応しいのはこういう結末だ。

幸せなんて欠片もない、

こんな不幸な現実が私にはお似合いだ。

私は救われちゃいけない。

幸せにはなっちゃいけないんだ。


ありがと、梨菜。

お陰で少し楽になった気がする。


梨菜「は、はっ……ぁ……っ。」


花奏「………ぁ……は、ぁ゛…ぃぁ……す、ぅ゛……ぉ………」


梨菜「ぁ、あ…花奏ちゃん、花奏ちゃんしっかりして、しっか」


この時間帯ならまだ歩は死んでない。

歩が生きる中、私は殺される。

悪くない気分だったな。











11月11日



…。

先生の声がする。

結局梨菜は私を殺したあの周期から

また随分と回数を経た。


伏せたままにこれからのことを考える。


私は歩に死んだら許さないと

言われたにも関わらず

何度もそうしようと試みていた。

その度に梨菜に邪魔をされた。

そのまま12日まで引っ張れば

歩は必ず亡くなった。

歩が死んだ時は主に私が巻き戻し、

私がいない時は勿論梨菜が戻している。

まるで共同作業をしているよう。

奇妙にも程がある。


それから、梨菜が私の元へ赴くことは

私のことを刺して以降ほぼなくなった。

元より本人直々の干渉という干渉は

なかったけれど。

そして干渉の仕方がそれとなく

変わっていた。

これまでは「私が死ぬから気にかけろ」

という内容だったが、

最近は「12日に私を遊びに誘って」

といったニュアンスだ。

普通の周期ではありえない事が起こる度、

誰かからいつもとは違った何かを言われる度

どんな指示が飛んだのか

聞くようにしていて正解だった。

ただ、そこに差があったからといって

私の行動も歩や梨菜の行動も

何ひとつ変わりなんてしなかった。


羽澄に誘われて海に

連れて行かれたことも有れば

麗香に誘われて

猫カフェに連れて行かれたこともある。

その全てを私はさも普通のように過ごす。

歩からの誘いだけは

どうしても心が拒絶してしまい

また久しく会っていない状態が続いていた。

梨菜の影響があり、

歩含め誰がどこにいるのか

把握しづらくなった。

そのために、無闇に廊下を歩く事すら

あまり出来なくなっている。


全てが梨菜の掌の上で

転がされている。


花奏「……。」


その時。

2限目の終わりを告げる

チャイムが鳴った。





***





湊「花奏ちゃん寝てたね、珍しい。」


花奏「…まあな。気づいてたんや?」


湊「席後ろだし流石にね。」


花奏「そりゃそうよな。」


湊「寝顔が見れなかったのが残念っすねー。」


花奏「…うん……。」


湊「ちょっとちょっとー。うち以上に残念そうで笑っちゃうよ。」


花奏「…。」


湊「どうした?考え事?」


花奏「まあ、結構大きな考え事やな。」


湊「ほう…?」


花奏「…。」


私が使える人。

…それこそ湊くらいだろうか。

湊だけは梨菜と何も接点のない人間だ。

「使える」なんて表現を

惜しみなく用いていることにぞっとした。

歩の死に関してもそう。

亡くなるではなく死ぬと

安易で敬意も感じない

言い回しをするようになった。

そんな自分が怖くなる。

…怖いふり、か。


湊「うち、力になれそうかい?」


花奏「…どうやろうな。」


湊「みくびってもらっちゃ困るよ。」


花奏「そんな意図はないて。」


湊「あはは、分かってるよ。じょーだんじょーだん。」


てしてしと軽く肩を叩かれる。

湊がこのテンションということは

私もそれなりにいつも通り風に

振る舞えているのだろう。


繰り返す日々。

使える駒。

互いの願い、目標。

それらを考慮して行動する。

まるでゲームのよう。

何度もやり直しが出来て

選択肢によって未来が変わる。

そんなゲーム。

現実なのに、そう思っては駄目なのに

十二分にこの日常に慣れてしまって

今更元の思考に戻すことは出来なかった。

時間は戻せても私の慣れてしまったこの頭は

決して戻ることはない。


湊「ちょいちょい。」


花奏「…ん?」


湊「真剣な顔しすぎ。そんなんじゃ顔しわっしわになっちゃうよ。」


花奏「どういうことなんや…。」


作り笑いすらほぼしなくなっても

湊は変わらず私に声をかけ続けた。

いつだかの周期以来

湊の事が怖くて近づかなかったけれど、

梨菜達を始め他の脅威が現れてから

彼女の脅威はそうでもないなと

思うようになった。

慣れって怖い。

きっと、心の底から

怖いとは思っていないけれど、

怖いという単語がしっくりくる。


湊に話しても次の周期では忘れる。

梨菜以外はそうだった。

毎回同じ言葉をかけてくる湊は

梨菜のように記憶が

残るタイプではないと思う。

勝手な予想でしかないが。

想像なんていくらでも出来る。

このクラスの中に繰り返している記憶が

ある人がいるかもしれない、等。

そんなことを考えていても仕方がないか。


花奏「なあ、湊。」


湊「ほ?」


花奏「昨日ゲームしててな、全然クリア出来ひんねん。」


湊「へー、花奏ちゃんゲームするんだ。意外かも。」


花奏「まあ、ちょっと気になってな。」


湊「それがクリア出来ないと。」


花奏「ちょっと知恵貸してくれへん?」


湊「え、頭使うタイプ?」


花奏「だいぶ。」


湊「まじかー。ま、話は聞こうか。」


きりっとかっこつけて足を組むと

机に両手で肘をつき手の甲に顎を乗せる。

どうやらこれが彼女にとっての

考えるモードらしかった。

程よくふざける湊はなんだか懐かしく、

楽しいと思いたくなる気持ちに蓋をした。


それから大まかに概要を話した。

あくまでゲームの話として。


まず、選択肢によって変わる物語である。

主人公はヒロインを助けたい。

ただ、何をしても助けられない。

主人公が諦めて自殺しようとしたところ、

主人公と同じように日々を

繰り返していると知っている

知り合いAが現れる。

そして昨日に戻される。

主人公が死んだ周期では

ヒロインは生きている。


主人公の願いは

ヒロインを助けること。

知り合いAの願いは

主人公の死を止めること。


その2人の願いを上手いこと収束させ

エンディングを迎えなければならない。


ざっくりとでしかないが、

そんなゲームだったと彼女に伝えた。

湊は当たり前のようにゲームの内容だと

思っているからか特に顔を顰めることなく

淡々と、時に相打ちをして聞いていた。


この時間に誰も来ないあたり、

梨菜は別の手を使って

私に干渉するつもりなんだろう。


湊「…なるほどねぇ。って、内容すんごい重過ぎてびっくりしちった。」


花奏「……確かに重いかもな。」


湊「何ていうの、鬱ゲーってやつ?湊さんはあんま得意じゃないから全く手を出さないんだよねー。」


花奏「想像つくわ。」


湊「それであんなに悩んだ顔してたのかー。確かに八方塞がり感あるもんね。」


花奏「湊やったらどうする?」


湊「うーん……。…うん、すぐに答え出せないや。」


花奏「…そうよな。そもそも訳分からんよな。」


湊「いや、そうじゃなくってね。」


花奏「…?」


湊「うちもちょっと考えたくなったからさ、次の中丸先生の授業中、覚えてるストーリーの流れをノートに書き出してくれない?」


花奏「え?」


湊「概要だけ聞いても難しくない?」


花奏「…どうなんやろ。」


湊「だってだってさ、例えば…そうだな、千と千尋の神隠しが選択肢ゲームだったとするよ?」


湊はいつもと変わらず

分かりづらそうな例えをあげた。

人差し指で机をなぞる。

その下には今回消しかすの姿はない。

微かに油脂が残った。


湊「女の子が変な世界に迷い込んで、そこから出たいっていう内容です。」


花奏「…?…うん。」


湊「それだけ聞いてさ、油屋に働くか働かないかーとか、ススワタリを踏むか踏まないかーとかって選べないじゃん?」


かつ。

彼女の爪が緩やかに机をひと叩き。

妙に映画について詳しいことから

何度か見ているのだろうと察しがつく。

ススワタリが一体何なのか

理解するまでに少しかかった。


花奏「…結局どういうことなん?」


湊「ほんの1部分だけ見てもより良さそうな判断はできないってこと。」


花奏「……なるほどな。」


湊「花奏ちゃんが本気で悩んでるもんだから、流石にその先気になるじゃんね。」


花奏「面白半分やな。」


湊「まあね。だってゲームなんでしょ?」


花奏「……うん。」


…ゲーム。

ただのゲーム。

そう言い表されると

言葉にできないほどの陰りと

憤りが浮かび上がってくる。

…。

今だけ。

今周期だけ我慢すればいいか。

…そもそも、何も感じる必要はないか。

怒るも悲しむも

全て無意味なものだから。


湊の上半身はやがて机と仲良しになり

机の隅に寄せていた消しかすを

人差し指で弄りだしていた。

それを冷静に見つめる私がそこにいた。





***





湊「いよーし、とーおちゃーく。」


花奏「何気に初めてやな。」


湊「ねー。わーもう靴までびちゃびちゃ。」


からからと戸を開き

彼女を家に招き入れる。


学校が終わってすぐ

何かから追われて逃げるように

家への帰路を辿った。

それは雨なのか梨菜なのか。


学校だと邪魔が入る可能性が

高いと判断したのだ。

今までがそうだった為、

今回この時間まで何も起こっていないことに

一種違和感を感じる。

同時に不気味さが増していた。

だが、雨は変わらず降ったことに

どこか安心している節がある。


湊「花奏ちゃんって洋風系の家に住んでると思ってた。お城ってことじゃなくてマンションってことね。」


花奏「そんな偏見あったんや。」


湊「イメージ?直感がびびっと言ってたんだけど、残念、違ったやー。」


湊は靴を脱ぎ

そのままの勢いで家の中に入ると

リビング手前で何故か棒立ちになっていた。

井草の匂い。

相変わらず鼻をつつく

独特な香りがそこに住み着いている。


花奏「どうしたん?」


湊「ん?いやー、何もないっすよーん。」


花奏「そう…?」


湊「手洗いうがいさせてちょ。あとタオル貸して欲しいな。洗面所ってこっちー?」


私が湊の元まで行くと

彼女ははっとして言葉を紡ぎ

リビングへ足を踏み出した。

何というか、彼女らしくない

ぎこちなさが見える。

何かと思って先ほどの湊の視線の先を追うと、

お母さんのお仏壇があった。

あぁ、だからか。

私にとって日常になってしまったひとつ。

この景色にも慣れてしまった。

お母さんからずっと

微笑みを向けられていることに

慣れてしまった。


それから彼女と簡単な話をしつつ

手洗い等を終え、

いつもは食卓として使っている

大きく背の低い机を挟んで互いに座る。

湊はというと、私が3限目に

出来る限り思い出して書き出した

今までの周期について記された紙を

取り出していた。


湊「よし、んじゃあ始めますか!」


花奏「うん。」


湊「まずね、一応ひと通りは目を通したんだけど…まー難しいことしてるねって感じ。」


花奏「難しい、か。」


湊「うん。クオリティが高いっていうか…え、そこに選択肢作ったの?ってくらい細かく作られてんじゃん?」


花奏「あー…そうかも。」


湊「まるで現実みたいだなってうちは思ったな。」


花奏「…せやな。」


湊「って、うちの感想聞きたい訳じゃないもんね。すまそすまそ。」


花奏「いや、全然ええんやで。」


湊「うちが思い付いたのはね…どこまで自由度のあるゲームか分かんないんだけど、何してもいいんだったらタイムマシン壊せばいいんじゃない?って思った。」


花奏「タイムマシンを壊す…?」


湊「そう。」


夥しい文字の量で埋め尽くされた紙を

数枚広げて彼女は言い放った。

壊す。

壊す…?

そしたらもう戻せないじゃないか。


花奏「…ヒロインの子を助けるのはやめるってこと?」


湊「というよりかは現実を見て生きるルートって感じ?」


花奏「それやと主人公の願いは叶わへんやん。」


湊「それもひとつのエンディングだけどね。」


花奏「それは…あんま見たくないねんけどな。」


湊「ううん…ま、そう言うだろうと思ったよん。」


花奏「…。」


湊「このヒロインの子、主人公が生きている限り絶対死ぬの?」


花奏「今のところそうやな。」


湊「本当に主人公が死ぬこととヒロインが生きることに因果はあるのかな。」


花奏「可能性は高いんやないかな。そういう仮定にして一旦考えてほしい。」


湊「ふむ。要望の多いストーリーだね。」


花奏「…。」


うーん、と唸りながら

机に広がる文字の海を眺む。

何回目にどの周期があったかなど

そこまで細かには覚えていなかったので、

順番はばらばらで覚えている限り

書き出してはみた。

所々、違う周期の内容が

一色単になって記されているかもしれない。

私にはもう、真か偽かは

判断できなくなっている。

繰り返し過ぎたんだ。


湊「てゆうか、何だっけ。知り合いのA?が動き始めた時点で詰んでるんじゃない?」


花奏「えっ…?」


湊「だって、Aが動くだけでこのお話はすんごい拗れるでしょ?」


花奏「…う、うん。」


湊「んで、予測不可能なことになっていく。」


花奏「…。」


湊「予測不可能が重なる割にはヒロインの死は変わらないんだね。」


首を捻る彼女の目は真剣で。

確かに、これだけ梨菜が動いて

様々な事が作用し

今までと違ったことが起きても

歩の死だけは不動の未来のまま。

ということは

梨菜でさえ変えられていない

何かの要素があるということ?

そもそも梨菜は私の自殺を

止めようとしているだけで

対して歩の救助には

向かっていないと言える。


湊「……んー…。」


花奏「…。」


湊「はじめからが手っ取り早いんじゃない?」


花奏「はじめから、か。」


湊「そう。…あー、でも…ヒロインを助ける手立てが明確になってないと意味ないか。」


花奏「ヒロインを助けるには主人公が死ぬしかないとして…そうするとAが邪魔になる。」


湊「あーたまが痛い。卵が先か鶏が先かのあれみたい。」


花奏「…。」


湊「…あ、分かった!」


頭をぐりぐりと押していたかと思えば

急に声を上げるものだから、

驚きのあまり肩が跳ねる。

酷く家鳴りがした。


花奏「思い付いたん?」


湊「うん!卵か鶏かとは違って最初はあるもんね!」


花奏「…?」


湊「まず、はじめからにする。その時Aは何も知らないでしょ?」


花奏「はじめからならそうやな。」


湊「そして警察に「殺人犯に似た顔の人がいる」って通報、殺人犯の脅威は無くなったとする。」


花奏「そんな簡単にいくもんなん?」


湊「ま、仮定よ。んで、事故を起こす車はまたもや警察に「盗難車です」ってデマ電話をする。」


花奏「うん。」


湊「えっと…あれ、このままだとB死ぬ?」


花奏「…あー…そうかも?」


Bとは美月のこと。

紙面にはA〜EかFくらいまで

人物が書かれていて

ごちゃごちゃし人物把握が

しづらいにも関わらず

湊はぶつぶつと呟き

脳内を整理している様子。


湊「というより、殺人犯と車を止めた時点で解決しそうなのにそうはいかないんだ?」


花奏「うん。家の中で死ぬな。」


湊「なーんて残酷な結末だこと。」


花奏「…。」


湊「ってことはさ、1回は成功したんだね。」


花奏「え?」


湊「家の外の脅威から守るのには1回だけ成功してる。」


確かに、言われてみれば

あの1回だけ綺麗に死んだ。

歩は髪を散らして綺麗に。

外傷はなかったと思う。

きっと、シャワーヘッドが

ぶつかったことで心臓かどこかの器官が

機能不全を起こした結果

死んだんだと考えていた。

脳震盪か心臓震盪か。

心臓なら衝撃が加わっては

いけないタイミングがあるという。

1000分の15のタイミングで

衝撃が加わると心臓が痙攣。

そのまま心臓は止まるらしい。

あの周期では

そういった類の事故が起きたのだろう。


湊「このルートの時って特徴的な分岐あった?」


花奏「…いや…家から出てないとか…ぐらいちゃう?」





°°°°°





歩「眠い?」


花奏「ぅ、ん…。」


歩「寝ていいよ。」


花奏「………ぁゆ…は…」


歩「私?…んー……今日1日家にいようかな。買いたいものも用事もないし。」


花奏「……うん…。」


歩「眠そう。聞いてないでしょ。」


花奏「聞い……て、る…。」


歩「はい、ほら、布団入って。」





°°°°°





実際私は寝ていたし

家から出ていないかは定かではない。

しかし、歩があの状態の私を

置いておくとも想像しづらかった。

歩のことだ。

…それは、歩に求めすぎだろうか。


湊「じゃあ、殺人犯は家の前で待ってたのかもね。」


花奏「…?何でそれに繋がるん?」


湊「え?だってずっと家の中にいたんでしょー?」


花奏「うん。」


湊「車はまあ来る訳ないじゃん?残る脅威は殺人犯じゃん?」


花奏「うん。」


湊「でも犯人ってインターホン鳴らしにさえ来なかったみたいだし、部屋番号分からなかったパターンなのかなーって。」


優しく添えるように

その周期のことが記された部分を

指差していた。

湊の言いたいことは何となく理解できる。

犯人は家の前で待っていた。

しかし、部屋番号が分からなかったために

歩が出てくるまで待機。

結局彼女は家から出る機会がないままに

例の時間になってしまった。

…ということだろう。


湊「…って、話ずれちゃった。とりあえず車と殺人犯はそれでおっけーってことにして…Bには嘘ついて交差点から離す。」


花奏「なるほど。それこそどこかで時間決めて集合するとか?」


湊「そうだね。その方法って確かどっかで…えーっと…あ、あった。このルートで成功してるもんね。」


花奏「理屈的にはいけるはずなんよな。」


湊「うん。Aが何もしなければ。」


花奏「…そうやんな。」


湊「んで、後は簡単。タイムマシンを壊して自害。」


花奏「タイムマシンは壊すんやな。」


湊「じゃなきゃAは動くし、そうじゃなくともこのメモを見てる感じBからFもタイムマシンを見つける可能性、ありそうじゃない?」


花奏「……確かに。」


湊「タイムマシンを壊す前に最大限の危機回避はする。そして主人公は死に、ヒロインは生きる。」


花奏「良さそうな気がするな。」


湊「まあ、タイムマシン壊すからもう戻れないっていうすんごいプレッシャーはあるけどね。」


花奏「…。」


もう戻せない。

そっか。

その方法で失敗してしまったら

もしかしたら私をはじめ

歩、美月あたりのみんなも

死んで終わるという可能性がある。

失敗は出来ない。

たった1回きり。

けれど、その1回の前に

何度も試行することは出来る。

ひとつひとつ調査して検証し、

成功したんだ事例を組み合わせれば。


…梨菜という予測不可能な存在さえ

いなければこの案を取っていたのに。


それからもこうならどうか、

ああならどうかと話し合いを続けるも

全てを解決できるような

選択肢はなさそうで、

これと言った進展のないままに

時間は過ぎてゆく。

無限にある時間が

意味を持たずに進んでいく。

不死身の苦難や悩みを

知った気になっている自分がいた。


夜も遅くなっていたので

彼女には表面ながらにお礼を言い

家に帰ってもらうことにした。

湊は久々にこんな頭を使ったと言い

首からぐるりと頭を回していたっけ。

こき、こきと音が鳴らして

少しでも凝り固まった体を

解そうとしていた。

別れる時、駅まで送ろうとは思ったが、

マップを見れば分かると言われ

突っぱねられた。

ならいいか、と

ポイ捨てする時のような思考が止まらず、

玄関先で手を振る。

湊も健気に手を振っていた。

夜に沈む彼女の姿。

午前2時頃に歩と散歩したあの夜の記憶が

波のように押し寄せる。


花奏「…。」


歩のこと助けたいって

ずっと思っているはずなのに

いつからかそれが目的では

なくなっていた。

自分が死ぬことが第1に。

そして第2に歩を助けることへと変化した。

罪悪感も募っているはずなのに

いつからか麻痺して感じなくなった。

歩が死ぬのは当たり前になった。

歩は死ぬ。

私のせいで何度も死ぬ。

私は彼女へ手向けた死以上に

不幸にならなければいけない。

そう、とは考えている。

…はず。

そのはずなのに、

いまいち実感が湧かない。

…否。

慣れてしまって、分からない。





°°°°°





歩「私は、小津町と居れるだけで幸せだよ。」





°°°°°





間違いなく私も

歩と居られるだけで幸せだった。

そのはずだった。


花奏「…?」


今は。

今は、どうなのかな。











11月12日



何も変わらない日々から

着実に終わりへと向かえるよう

ひとつひとつ変えていくことにした。


まだ、何も変わらない。











11月11日



先生の声。

…。

11日。

終わらないと思った11月。

永遠に続くかと思った秋。


花奏「…。」


それも今日で

…今日で、っておかしいか。

今回で終わりだ。

今周期で本当に最後だ。


様々な選択肢の先を見て、

どれを組み合わせると良さそうか

只管に思考して試行した。


愉快犯は元々どこに居て

どのタイミングから

歩の家の近くにいるのか。

どこから来たのかは不明だったが、

12日の朝5時頃から

歩の家の近くにある駐車場に

張っている姿は捉えた。

そして歩が家から出ると

そのまま一定距離を保って尾行する。


愉快犯のことを通報したらどうなるか。

それこそ歩の家の前にいるところを

通報して様子を伺うと、

犯人は隠れたり大暴れしたりと

辺りは騒然としたが無事捕まっていた。

愉快犯が隠れたことで

やり過ごされた周期があったため、

どこに隠れられる可能性が

あるかもと伝えれば

確実に捕まることは実証済み。


車は盗難車だと伝えればどうなるか。

なんとこれは変わらなかった。

ドライバーの人が近道をするなり

車を飛ばしたりするなりして

同じ結末を辿るらしい。

盗難車だと通報しても

運転免許然り何か証明できれば

すぐに放してもらえたのだろう。


車を壊したらどうなるか。

捕まりかけたのですぐに自害。

捕まって収容、その他裁判まで発展すれば

戻るまでに時間がかかる。

その間にも様々な周期にて

試行したことを忘れそうで、

絶対にそうなるわけにはいかなかった。

あまり現実的ではなさそうだった為に

続きを見るのは諦めた。


タイムマシンは何時に来るのか。

例の廃墟でずっと待ってみたところ

ふと現れたのは午後4時15分だった。

歩が死ぬのは24分。

この差はなんだろうか。

それは分からないままだった。


梨菜を殺したらどうなるのか。

軽く叩く程度ならまだしも

殺す気でかかったときは

必ずカウンターにあった。

普段の彼女からは考えられない程の

恐ろしい剣幕で反抗できない力の強さに

ただ息絶えるだけ。

そして11日に戻す。

これは数回繰り返して

ひとつ感じたことがあった。

梨菜は何かしらトラウマを持っていて

パニックに似た状態に

なっているのではないか、と。

その結果がむしゃらに、

自分が生きる為に相手を殺すという

行動になっているのではないか。

ある一種リミッターが外れるというか。

それか単に火事場の馬鹿力だろう。


私が記憶のないふりをしたらどうだろう。

梨菜は歩が死んだ後

すぐには戻す行為をしなかった。

詳しいことは知らないが、

LINEの既読数を見るに

梨菜だけ気づいていないようだった。

きっと何か取り込み中だったのだろう。

だから歩が死ぬ事実は

知らないままだったのかもしれない。

梨菜が歩の死を確認する前に

私が戻すのだから。


その他にも試行して

失敗したら方法を変えて再度試行、

満足のいく結果になれば

すぐに死に戻り別の事柄の試行にあたる。

梨菜に私がしようとしていることを

ばらしたくなかった為、

各々の課題の結果が分かれば

死ぬようにしていた。

時々…どころかほぼずっと

梨菜達からの干渉はあったものの、

潜り抜けることが上手くなっていった。

しかし時に歩が死ぬ時間までに

死にきれないこともあり、

その時は私が戻した。

何周してもやはり歩の死だけは

変わることはなかった。

梨菜からしてみれば

何周しても私の死、そして戻ることだけは

変わることはなかった

…という風になるのだろうか。


花奏「…。」


今回で最後だ。

最初で最後の本番だ。

失敗は出来ない。

その事実に今のうちから心臓は

どくどくと脈打ち、

脇腹は絶え間なく痛み続ける。


今回で必ず私は死に

歩の生きる未来を残す。


その時。

2限目の終わりを告げる

チャイムが鳴った。





***





湊「花奏ちゃん寝てたね、珍しい。」


花奏「…ちょっと待ってな。」


湊「ん、はいよー。」


授業が終わって早々に

まずはLINEを開く。

この辺りは試行していない。

だからだろうか。

大きな不安が押し寄せる。

LINE等梨菜を動かす事柄は

試行してしまっては

対策される可能性がある。

だからあえて試さなかった。


未来のうち半分は確実に変えられる。

逆に言えば半分は不確実だが

変えられる可能性がある。

最後の周期という割には

一か八かやってみるしかない事が

あまりにも多過ぎた。

けれど出来ることはやったのだ。

後は、運任せ。


花奏「…。」


梨菜含めみんなへ

「明日の12日の16時に

成山ヶ丘高校前に集合してほしい」

と。

そして梨菜以外のみんなに

「梨菜が殺人犯に数日間つけられており

極度の不安を感じているせいで

まともではないことを言うかもしれない。

その時は梨菜のことを宥めてほしい」

と加えて伝える。

別途で歩には

「今日の夜私の家に泊まってほしい」

という旨を伝えた。


ひとまずここまでしておいて

様子を見ることにしよう。

もし万が一のことがあれば

タイムマシンを壊す手前で

留まればいいのだから。


湊「終わったー?」


花奏「もう少し待ってな。」


湊「あーい。うち構ってもらわないと死んでしまうよ。」


花奏「大丈夫、湊人間やから。」


湊「変化の術使ってるんだ。」


何か言っている湊を傍目に

筆箱からメモ用紙を取り出し

1行だけを残した。

たった1行。

明日、予定通りに事は進むだろうか。


湊「お、今度こそ終わった?」


花奏「うん。」


湊「なになに、スマホ弄ってたのって彼氏?」


花奏「んなわけないやろ。」


湊「えー、ありそうなのに。」


ぷくーっとふくれたのか

マスクが不自然に動く。

表情豊かだなと

1歩引いて観察していた。


それからは何事もなく授業を受ける。

よく当ててくる中丸先生の授業だって

担任の先生がだらだらと開く

帰りのホームルームだって

今日が最後なのだ。

そう思えばなんだか感慨深い。

ひとつひとつのことが、

一瞬一瞬の出来事が

愛おしく思えてくる。

おかしいよね。

全ては考え方や感じ方次第で

世界って見え方が全然違う。

毎日嫌になってたものさえ

最後だと思えば輝いて見え始める。


昼ごはんにも手をつけれればと思ったが

体も心も食べないことに慣れて

手をつけられなかった。

昼休みだけは用事があると嘯き

屋上手前でのんびりした。

この場所も最後だ。

タイムマシンを壊したらもう戻れない。

私の日常、人生は終わる。

この日々は漸く

繰り返さずに進み出す。


花奏「…。」


ご飯が美味しいって幸せだった。

歩に作ってもらったハンバーグ、

本当に美味しかったな。

懐かしい。

また食べたい。

それくらい、美味しかったはずだ。

空が綺麗って幸せだ。

晴れの日って素敵だった。

夏とかは日差しが強くて鬱陶しかったけど

雨よりは断然ましだもの。

よく眠れるって幸せだ。

悪夢を見ずに気づいたら朝だなんて

そんな幸せをよく見落としてたな。

夢を見ないほど熟睡できるって

とても凄いことだったんだ。

沢山話せるって幸せだ。

みんなと、家族と、歩と。

歩の家に泊まった周期や

森中に邂逅したあの周期があって

肌でひしひしと感じた。


…。

私は多分、幸せだった。

幸せを自分から手放さなきゃいけない。

馬鹿だ。

馬鹿なんだろう。

私は馬鹿なんだ。

歩の言ってた通り、

どうしようもないほどに。

私はこんな考え方しか出来ない。


今まで長いと感じていた

帰りのホームルームはあっという間に終わり

最後の号令を終える。

後ろの席を見やると

湊は既に鞄を肩にかけており

席から離れる寸前だった。


湊「んじゃね、花奏ちゃん。」


花奏「湊。」


湊「ほ?」


花奏「色々ありがとな。」


湊「なーに言ってんだい。今日の宿題のこと?」


宿題。

はて、何の話だっただろうか。

宿題…あぁ、湊に見せてもらったんだっけ。

中丸先生が当ててくるからって焦ってさ。

そんなことあったな。

いつの話だ、と吹き出しそうになる。


花奏「あー…そう、それ。」


湊「水臭いじゃん。いーんだよ、今度午後ティーの無糖奢ってくれるんでしょ?」


花奏「うん。」


湊「ならいいってことよ。」


花奏「じゃあ、私もいつか奢ってや。」


湊「いいよいいよ。何がいい?それこそアンパンマンジュース?」


花奏「うーん…抹茶オレがいいな。」


湊「甘いもんか!くわー、いいねぇ。なーんか喉乾いてきた。」


花奏「甘いの飲みたいんやったらポカリとかもええんちゃう?」


湊「あの甘さってちょっと違くない?ま、うちは部活なくても飲めるけどさ。」


花奏「売り切れる前に買わなな。」


湊「ん?そーんな、デパ地下のセールじゃないんだから大丈夫だってー。」


花奏「そうやね。」


湊「それにうち、千里眼持ってるからどれが売り切れ手前なのかわかっちゃうもんね。」


目をかっ開くように

指で瞼を上下に開いていた。

デパ地下の話だったり千里眼の話だったり

抹茶やポカリの話だったり。

何となく話題に上がった覚えは

微々ながらにあったからか

デジャブを見た感覚に陥る。

この時間の空だって

このテンションの湊だって

何もかも全て見てきたはずが

全て新しいもののように見えてくる。


湊「って事で、うちは別のとこの用事済ませてくるね。」


花奏「うん。じゃあな。」


湊「あーいばいばーい。」


湊はいつでも元気で

ポケットからは甘いチョコの香りが

ほのかに漏れていた。

夏場は流石にチョコだと溶けて

制服が大変なことになるので、

メントス等別のを

ポケットに忍ばせていたっけ。

しかし、お弁当袋の中の

保冷が効いたところに

必ずと言っていいほど

チョコが眠っていた。

最後に口にすることは

叶わなかったけれど、

それは願いすぎだ。

欲張り過ぎ。


そう考えながら

今日使った教材をゆっくり

鞄の中へ詰めていたら

肩をとんと叩かれる。


振り向いてみると、

見覚えのある身長差。

艶やかな髪、くりっとした目。


歩「よ。」


花奏「…歩。」


歩「遅かったから来た。」


花奏「助かるわ、ありがとな。」


歩「悪いんだけど図書室寄っていい?」


花奏「勿論。何しに行くん?」


歩「昨日に過去問借りたはいいんだけど、学部違ったから借り直す。」


花奏「そっか。」


歩「そ。」


それだけ端的に返事をすると

歩はポケットからスマホを取り出して

素早く指を動かしていた。

現代人の王道と言っても

過言ではない佇まい。

見慣れた姿のはずなのに

改めてみると不思議な感覚がする。


歩「…何?」


花奏「何も。」


歩「は?きも。」


花奏「はーいはい、早よ行くで。」


歩「ん。」


適当に流すこの会話だって

大切な日常のひとピースだった。

それに気づいたのは

今日と明日を繰り返すようになったから。

そう思えばこの日々も

無駄ではなかった…

…なんて、思いたくなる。

記憶を美化することだけは

私の得意とする事だった。


歩と図書室に寄り、

その間私は興味すらない

最近話題の本やら新刊やらをぼけっと眺む。

美月は楽しいんだろうな。

昔の私ならあまり面白そうとは

思わなかっただろう。

今となっては面白そうだと思ってしまう。

大して興味はないのに。


歩「お待たせ。」


花奏「全然大丈夫や。お目当てのものあった?」


歩「うん。ラッキー。」


花奏「よかったやん。」


歩「ね。」


花奏「じゃあ帰ろか。」


業務事項かと思うほど

淡白な会話を飲み込んで廊下へと出てみると

外はとんでもなく酷い雨模様。

私の傘は相変わらず鞄の中にはない。


歩「…うわ。」


花奏「そうよな。」


歩「雨って知ってた?」


花奏「うーん…2時間目くらいから。」


歩「何それ。私折りたたみしかないんだけど。」


花奏「私傘もないで。」


歩「え、雨って知ってたんじゃないの?」


花奏「言うたやん。2時間目くらいからやって。」


歩「そういうこと?」


花奏「うん。」


歩「さっきまでそんな天気じゃなかったのに。」


花奏「やんな。」


歩「こんな土砂降りならすぐ去るかな。」


花奏「いいや…結構長く降るで。夜までは降ってる。」


歩「やば、だる。」


ぱぱっとスマホを取り出して

何かを検索している様子。

今後の天気の行方だろうか。

暫くすると唸りながら

スマホから目を離した。


歩「一応曇りのち雨だけど降水量が馬鹿ほど高い。」


花奏「そうなんや。」


歩「ほんとに夜まで降る?」


花奏「…私の勘ではな。」


歩「ふ、何だ予想か。」


花奏「天気予報も予想やん。」


歩「あれはちゃんと根拠があるでしょうに。」


私だって根拠はあるもん。

そうやって意地を張りたくなるも今は我慢。

…いや、明日までずっとか。

この論争の勝利は歩に手向けることにしよう。


歩「はぁ、家まで帰るのだるい。」


花奏「あー…そのまま来てもええけど服とかどうするん?」


歩「今日だけ貸して。」


花奏「…ええん?」


歩「往復面倒い。それに服の貸し借り、逆よりかはましじゃない?」


花奏「逆?」


歩「そ。私の服を小津町に貸すよりましって話。」


花奏「それは確かにな。」


歩「親御さんに事前に言わなくて平気?」


花奏「今日出張で居らへんねん。」


歩「そうなんだ。」


花奏「うん。直で来ても全然平気。」


歩「なら、直接でよろしく。」


にしっと目元を細めて

楽しそうに微笑む彼女は

雨雲なんて跳ね除けそうな、

そんな光がある気がした。

窓越しでも壮大な雨の大合奏が聴こえてくる。

よっぽどの大雨に当たっていたのだと

最後にして漸く気づく。


帰り際に職員室へ寄り、

誰も取りに来なかった

忘れ物の傘を1本貰い、

別々の傘をさして2人で帰った。

その間に例の如く

私の傘は折れたけれど。

歩は何だか楽しげに笑いながら

結局傘を半分分けてくれた。

家に着いたらまず

お風呂貸してと言いながら。


お互い程々に制服を濡らして電車に乗り込む。

明日、電車には再度乗るから

最後の機会ではないにしろ、

窓の外の移り変わる風景は

この世の終わりを見ているようで

寂れたものを感じた。

歩はというとまた

スマホに目を落としている。

ちらと勝手ながら覗いた感じでは

LINEを開いている様子。

家に帰ったらこのことについて

話があるだろうなと粗方予想がついた。


家に着くや否やお互い

ひたひたになった靴に新聞紙を詰め込み、

靴下を脱いで家に上がった。

歩は私の家に来たことがある為、

湊が来た時とは違って

私のお母さんのお仏壇を

特に気にしすぎることなく

手を合わせてから洗面所へ向かった。


花奏「…。」


そういう所作を見ていると

なんで言えばいいのだろう、

歩は人を大切にする人だなと思う。

簡略的な言葉で言えば大人だなと思った。

私もああなりたかった。

私も歩みたいになりたい。

そう思って今の高校への入学を

決めたことを思い出す。


花奏「お母さん、ただいま。」


私も珍しくお母さんにひと言伝えてみると、

いつもと変わらず微笑みかけてくれた。

いつも見守ってくれた。

若いままの姿。

時間が経っていないんだな。

今の私と同じ状況だ。


歩「ねえー、使っていいタオルってどれー?」


遠くから歩の声がした。

普段はこれを張らないから

大きめの声を聞くのは

叫ばれながら叩かれたのが最後。

あの時に比べれば

歩も相当大人しいことが分かる。

…逆か。

普段は割と大人しいからこそ

あの取り乱し方は際立っていたんだ。


心に余裕があるのか知らないが

ゆったりとした足取りで

彼女の元へ向かうと、

つま先立ちのまま待つ歩がいた。


花奏「何のポーズなん?」


歩「あんま拭く場所多くない方がいいと思って。」


花奏「足つけてええのに。」


歩「いや、自分で拭くのが面倒いだけ。それにあんたの家って畳や木だから染みるでしょ。」


花奏「今更やし気にせんでや。」


歩「それで床抜けても困るっての。」


タオルを適当に渡すと

髪から肩、スカート、足を拭いた後、

覚えている限りの家中の道筋を

辿りながら軽く濡れた部分の

床にタオルを添えた。

私もずぶ濡れたままここまで来たものだから

相当酷いことになっているはず。

彼女に後片付けを任せてしまったまま

私もタオルを手に取った。

慣れているので分からないが

きっと私の家の匂い。

すん、と鼻を鳴らしてみるも

ほんの微かに柔軟剤の香りが漂うだけ。

特有の匂いはなかった。


私も全身をあらかた拭いた後、

もうひとつ新しいタオルを手に

玄関先まで行く。

すると、歩は玄関近くの廊下で

ひと息ついているのが見えた。


花奏「ありがとうな。」


歩「あんた、何も考えず足ついてきたでしょ。」


花奏「まあ自分の家やし。」


歩「拭くの大変だったんだけど。」


花奏「ありがとって言ってるやん。ほら、鞄拭くからそれに免じて。な?」


歩「はいはい。ってかこのタオルで床拭いちゃったけどよかった?」


花奏「ええで。洗えば一緒。」


歩「そういうところは雑把なんだ。」


花奏「気にせえへん。」


歩「あんまついてないと思うけど、出来るだけ埃は払って洗濯んところ入れとくから。」


花奏「はーい、お願いな。」


ひた、ひたと素足が

木製の床から剥がれる時の

音が不気味に耳を浸食する。

それと同時にやはり雨の歌声。

ただの1周目の…

…普通の人生の中のとある1日なら

この雨だって楽しめただろうにな。


もう存在し得ない未来を想像しながら

彼女と私のひたひたに雨が染む

2つの鞄にタオルをあてた。

すると、歩の鞄にひとつ

キーホルダーが付いているのが見える。

夏の滲むキーホルダー。

夏祭りで取ったやつだ。

私が別の種類だが2つ取ったので

片方を歩に上げたんだっけ。

4月当初は何も飾られていない

質素な鞄だったと想起される。

大切に、大切にひとつだけ

今でもずっと飾りとして

つけてくれているようだった。


花奏「…。」


これを見ていると

いつだか昔に美月が言っていたことも

理解できる気がする。





°°°°°





花奏「これかな。後…どこかの棚にあったイヤリングとか。」


美月「いいじゃない。歩はあんまりこういうのって持ってなさそうだし、新鮮でいいと思うわ。」


花奏「…貰っても困るかな。」


美月「そんな事はないでしょうよ。花奏からのプレゼントだったら歩は大切にするわ。」


花奏「ほんまかいや。」


美月「あら、信用ないのね?」


花奏「そういうわけやないけど…。」





°°°°°





美月は周りを見るのに

長けていたのかもしれない。

様々な思い出を振り返りながら

鞄を拭き終える。

思い出。

振り返るほど出てくる。

けれど、もうあの周期のように

朝まで歩と話すことはない。

この無数と思われるほどに

出てくる思い出話は

私の中だけで繰り広げるのだ。


2つの鞄を肩にかけてリビングへ向かうと、

歩は既にハンガーへ制服の袖を通していた。

心を許しているのか自分勝手なのか、

次々と行動してゆく彼女。

歩らしい、としか形容出来なかった。


歩「あ、鞄ありがと。」


花奏「んーん。こちらこそ床ありがとうな。」


歩「はいはい。そうだ、ハンガー勝手に借りた。」


花奏「どこにあったやつなん?」


歩「洗濯機の近くにあったやつ。見つけたから使った。」


花奏「ああ、あれね。」


歩「使ってよかった?」


花奏「今更すぎるやろ。好きに使ってや。」


歩「ん。」


思えばこうやって

普通に…というよりかは

普通っぽく話すことが出来るのだって

歩のおかげだ。

いつだか喋れなくなった時があった。

立てなくなる時だってあった。

過呼吸もしたし、脇腹の激痛で気絶に

似たようなことが起きた時もあった。

色々あったな。

たった2日間のことなのに

大層長い時間を過ごしたように思える。


それからいつもと同じように

一緒に夜ご飯の支度をする。

残っている材料で何とかしたから

あまり豪勢とは言えないけれど。

歩曰くカップラーメンでも

いいと言っていたが、

何かひとつ作って一緒に食べたかった。

最後だもの。

どれだけ簡単なものでもいい。

何か一緒に作りたかった。


あるものを使って生姜焼きを作り食卓へ運ぶ。

そしていただきますと言って

お互いどうでもいいことを

話しながら食卓を囲う。

普段は父さんとこの風景を作るに

今日は歩だった。


お母さんにはいつでも会えるが

父さんには最後まで会えずじまい。

何かひと言くらい伝えたかったな。

一瞬だけでいいから顔だって見たかった。

叶わない願いだ。

欲張りすぎか。


いつしかご飯は食べ終わり

今度は私が食器を洗った。

今度はと言えど、

前の周期の話を思い出しているだけで。

なくなった未来の話だ。

ただただ私がお皿を洗っているだけ。

歩も手伝おうとしてきたが

絶対に譲らず、テレビでもつけて

ゆっくりしてもらうことにした。

渋々了承した顔だったな。


花奏「…。」


このぐらいの時間から雨は漸く退き始める。

窓を篠突く彼らの勢いは

段々と弱まっていった。


ふと。

違和感を感じた。

脇腹は痛むだけ。

手首や鳩尾、その他は同様。

何かと思えば胃だった。

ぐっと胃酸が上がってくるのを感じる。

無理して食べたけどそりゃ無理か。

彼女の前では普通を、

いつも通りを装っていたかったが

それもここまでらしい。


蛇口から溢れ出る水を

止める間も無くトイレへ駆け込む。

キッチンのシンクでも

一応は洗い流せるしよかったが、

洗い物をしていたし食料関係は多いし

何だか気が引けた。

明日の朝も使うことを考慮すれば

妥当な判断だったと思う。

もし使う未来の予定さえなければ

トイレにまで来なかった。


花奏「んぐっ……ぁぇっ…ぇっ…が、ぁっ…。」


気持ち悪い。

あぁ。

抜け出せないな。


胃酸は昔から変わらず

喉をずたずたに轢いてゆく。

この特有の異臭が苦手で

吐きたくはなかったけれど、

体も心も拒絶したみたい。


出来る限り声を押し殺して

歩が気づく前にと思ったが、

私が物凄い勢いで走って

トイレにまで来たからだろうか。

ぺたぺたと足音がした。


歩「…?」


トイレの扉を閉める間も無く

この状態になってしまったものだから、

歩には全部筒抜けてしまうだろう。

次、もしも次やり直す事態になれば

ここはひとつ、改善点だな。


歩「…っ!?小津町!」


彼女は変わらず駆けつけてくれた。

どんな時でも寄り添ってくれた。

馬鹿みたいに何度も励ましてくれた。

変わらないね。


花奏「ぁぅっ……ぇっ、え゛ぅっ…。」


歩「…大丈夫。」


花奏「はっ、はぁっ…はっ……ぁゔっ…ぅ…。」


彼女に顔なんて一切向けず

体の拒否反応に身を任せたままの私の背に

そっと手が添えられた。

そのままじんわりと体温が滲んだと思えば

ゆっくり、ゆっくりと

さすってくれているのが分かった。


歩「…ちょっと待ってて。」


すっと突如手が離れ

滲んだ体温は湿気た家中に

意図せず消えてしまう。

こうやって1人になるのか。

そりゃそうだ。

私は1人で居るのが正しいんだ。

酷いことをしたじゃないか。

今まで散々、歩を殺してきたんだ。

無かったことに出来るはずなんてない。

なくなった未来だろうと

私の記憶には永遠に残り続ける。

私にとっては過去だ。

変えることは出来ず

変わることもない過去なんだ。


これまでのことを気にせず

普通に話しているのがおかしいんだ。

今の状況がおかしいのだ。


自分の体の状態が悪い程

その事実を思い出させられる。

私を縛ってくれる痛みは

この過去を、事実を思い出させてくれた。

忘れないように。

忘れちゃいけないから。


緩やかにお腹の中のものを

吐き出していると、

とたとた、とまた足音。


歩「小津町、水持ってきた。」


私が座り込み項垂れる隣、

床へそっと水の入ったコップが置かれた。

喉が痛い。

乾いた咳が出る。

すると、僅かながらに

便器の中へ飛沫が飛ぶ。


歩「吐きたいだけ吐いた方がいいよ。水飲んだ方が吐きやすい時もあるみたい。」


そうひと言添えた後、

また背をゆっくりとさすり出す。


匂いだって光景だって

何もかも酷く気のいいものでは

ないはずなのに

彼女は何も言わずにそっと私の側に居続けた。

ずっと私の側に居続けた。


胃が落ち着き出したのは

それから数十分くらいは後のことだろうか。

残るお腹の異物感を拭えず

口元をべたべたに汚しながら

コップに口をつけ水を一気に飲み干す。

それがまた一気に気持ち悪くなる。

そして気の済むまで吐く。

それを繰り返した。


歩は私が水を飲み干すと

何も言わずに静かに離れ、

水を汲んでは近くに置き背中をさすった。

コップは同じだったのに

綺麗になっていたことから、

私が口をつけたとてつもなく汚れた部分を

洗ってくれていたようで。

私は彼女にどれだけの

迷惑をかければ気が済むんだ。

そう思っても今の私に出来ることは

ゆっくりでもいいから

吐き気を落ち着かせることだけ。


若干だが過呼吸になっているのが分かる。

ぜーはーと浅い呼吸をしながら時に咳き込み、

気の済むまで胃の中のものを吐き出した。


それから完全に落ち着いたのは

30分から1時間程経った頃。

べたべたになった口元を

何度も何度も水で濯いだ。

むせ返る異臭にうんざりする。

鉄分の多い匂いと

同じくらいに苦手な匂い。

私は散々嫌な顔をしていたが、

歩は顔色ひとつ変えず

その後も私の様子を見てくれた。

夜は更けていき、

明日が段々と迫っていることに

なかなか気が付かなかった。





***





歩「寝ないの?」


花奏「うん。」


歩「そ。体調は今どんな感じ?」


花奏「だいぶ楽になってきたで。」


歩「よかった。」


食卓を囲むも特に何もせず

壁を背にして座っていた。

私も彼女もお風呂を簡単に済ませ、

今は寝巻きを着ている。

裸足だと爪先が冷えてくる季節になった。

随分前から秋のまま。


歩はというといつだかの周期とは違い

ある程度重量のあった鞄から

使う教材を取り出し

勉強を始めていた。

化学の授業があったらしく、

手元には課題らしきプリントが

広げられている。

雨の音はフェードアウトして行き、

いつからか音の少ない世界になった。

気を紛らす為に小さい音で

テレビをつけっぱなしにしていると、

何度か見たことのある番組が放送されていた。


花奏「課題?」


歩「ん、そう。次回実験するから準備しとけって。」


花奏「この時期でも普通に実験あるんやね。」


歩「見た方が体験になるし覚えやすいのかも。」


花奏「先生も考えてるんや。」


歩「だと思う。化学反応によって色が変わるとかの範囲だから。」


花奏「あれかー…。覚えるの大変なやつやん。」


歩「覚えるのは流石に怠いから、パターンだけ理解して対応力で何とかしようと思ってる。」


花奏「頭いい人の思考回路や。」


歩「面倒くさがりなだけだよ。」


花奏「面倒くさがりって世界変えるで?」


歩「何言ってんだか。」


花奏「世の中便利グッズとかって面倒な事を回避したくて作られるやん。」


歩「確かに。スマホもか。」


花奏「1台で全部済むもんな。」


歩「うん。あー…だいぶ世界変わるね。」


プリントから目を離して

休憩がてら会話をしては

再度机に向かっていた。

私はと言うとその様子を

ただ意味もなく見つめるだけ。

途中、見られてると気が散るとは

言われてしまったが

元よりすることがないので、

何を言われてもそのままぼんやりし続けた。

すると、諦めたのか何も言うことなく

シャーペンを握るようになっていた。


からり。

シャーペンが机の上を転がる。

巻き戻して目覚めた時のよう。

シャーペンを転がした

あの時の甲高い音とは違い、

私の家の机が古いからか

野太い音が鳴った。


歩「…最悪、芯折れた。」


花奏「そんな日もあるで。」


歩「そんな日しかない。」


花奏「そうなん?」


歩「落としたら大体折れる。」


かちかち、とシャーペンの頭を

素早くノックしてとすぐさま

プリントへと擦られる芯。

テレビにもみ消されてしまいそうな程

この文字を連ねるか細い音が

心底心地いいと思えた。


歩「そういやあんたの家って平家だよね。」


花奏「うん。」


歩「建てたの?」


花奏「おばあちゃんがな。」


歩「あぁ。」


花奏「結構前に亡くなっとって、ずっと空き家やってん。父さんが老後済む予定にしてたらしいで。」


歩「あ、そうだったんだ。」


花奏「けど、町から逃げた先の籠り場所になってもうて、今もここで暮らしてんねん。」


歩「じゃあ小津町はこの家で暮らす予定はなかったんだ。」


花奏「そうやね。父さんが退職してる頃には流石に私も1人暮らししてたやろうし。」


歩「あんたなら1人暮らししても問題なさそうだよね。」





°°°°°




花奏「歩さん、1人暮らしかぁ。」


歩「しみじみ言わないで気持ち悪い。」


花奏「だって高3になってから急に家を出たなんて考えづらいし…普通に考えたら高1からやろ?」


歩「そう。」


花奏「高一から1人暮らしかぁ…。」


歩「今のあんたくらいの時にはここにいるって感じ。」


花奏「ん、あぁ…そっか。…んじゃ、私だって今からしようと思えば」


歩「あんたには無理。」


花奏「えー、何でやー!」





°°°°°





花奏「そうかいや?」


歩「ご飯作れりゃ十分。…よし。」


かち、と鳴らして芯をしまう。

そしてプリントの上に散る消しかすを

器用に集めてゴミ箱へ。

はらはらと降る塵。

気に留めることなく

プリントは仕舞われた。


彼女は、5、6月の時とは

真逆のことを言っていることに

気づいているのだろうか。

何が一体そう思わせたのだろう。

どうして私なら問題ないって思ったんだろう。


歩「はぁ、疲れた。」


花奏「お疲れ様。」


歩「そうだ。息抜きがてら聞きたいことがあるの。」


花奏「何や?」


歩「嶋原の事。何か大変らしいじゃん?」


座ったまま後ろに手をつき

くつろいだ姿勢のまま梨菜の話に移った。

正直どこまで嘘が貫けるか分からない。

もしばれたら巻き戻すのみ。

一か八か。

壊れかけた橋をいつまでも

渡り続けているような

不安感に襲われていた。


花奏「そうなんよ。」


歩「ストーカーだっけ?あれ、殺人犯?」


花奏「殺人犯やね。最近話題になってるやん?」


歩「うわ、何だっけそれ。なんか聞いたことはある。」


花奏「女子中高生を狙った殺人事件が多発しとるってやつ。」


歩「先生も言ってたかも。気をつけろって。」


花奏「それ。その犯人が梨菜に付き纏ってんねん。」


歩「何でそのストーカーが殺人犯って分かってんの?」


花奏「梨菜が顔見えたって。最近大きなニュースになってるし顔覚えてたんちゃう?」


歩「そんなはっきり見えるもん?」


花奏「私は話を聞いただけであって本人ちゃうから知らへんよ。」


歩「それもそっか。てか相談相手遊留じゃなかったんだね。」


花奏「最近親しいわけでもなさそうなんよ…でも話くらいしてるんちゃう?」


歩「そう?遊留知らなさそうだったじゃん。LINEのメッセージとか見てる感じ。」


花奏「全然LINE見てへんねん。」


歩「今見てみ。」


そう彼女に唆されて徐にLINEを開いてみる。

すると、何人からか個別で

LINEが来ていたり、

将又グループの方にメッセージが

飛んできていたりしていた。


まず、学校前に集まるのには

何の理由があるのか、

そして用事やら部活やらがあって

遅れそうだという連絡等様々。

個人では梨菜の件について

問われたり、何とかしたいねと

同情や協力するという旨がいくつか。

どれも返信する気にはなれなかった。

そしてとうの本人である

梨菜からもメッセージは来ていた。

既読をつけずにざっくりと

読んだところ、

「明日の集合時間に花奏ちゃんは

来ない予定なんじゃないか」

といった内容。

勿論行く予定はない。

そのまま返信せずに

スマホの画面を暗くする。


花奏「…ま、そうよな。」


歩「何かさ、梨菜はつけられてないって言ってるらしいって誰かが言ってたんだけど。」


花奏「混乱してるんと思う。」


歩「…あんたさ、前から嶋原のこと気にかけてたよね。」


花奏「…?」


歩「ほら、数日前だっけ。なんか話してたじゃん。」





°°°°°





花奏「あんな、梨菜の様子が変なんよ。」


歩「あー…嶋原?」


花奏「そうや。」



---



花奏「んで話戻すで。梨菜の事なんやけど。」


歩「変なんでしょ。」


花奏「そう。そこで何か手助け出来ひんかなって思ってるんよ。」


歩「手助け?」


花奏「そうや。」





°°°°°





確かあの時ただの直感でしかないが

梨菜に対して違和感を抱いたのだ。

ふと、私を殺しゆく彼女の

暗闇に現る顔が浮かんだ。


花奏「あぁ、あったかもな。」


歩「あの頃からおかしくなってたのかな。」


花奏「おかしくなってたって…」


歩「さぁ、私はあんま想像力豊かじゃないし分かんないけど。」


そう言い、鞄の中に

教材を仕舞い込んでゆく。

私の中学の頃のジャージを貸したが

少しぶかぶかのよう。

あの燃えた家から持ち出した

数少ない思い出品のひとつだった。

歩のサイズに合いそうなものが

このジャージくらいしかなく、

久々に奥底から取り出したんだっけ。

変な感覚だ。

中学の頃の体操服を

今、歩が着ているのだから。


歩「明日集まるのもその話?」


花奏「うん。何とかしたいねん。」


歩「警察は?」


花奏「1回見回ってもらったけど駄目やったって。」


歩「そうだよね。その時捕まってりゃもう事件は収束してるし。」


私の嘘は穴だらけだが

歩はあまり考えていないのか

ひとまずは納得したのか、

べたーっと床に伸びた。

所々畳は毛羽立っておりちくちくするはず。

だが、何も気になっていないのか

手を広げ天井を仰いだ。


今頃愉快犯は何をしているのだろう。

粛々と歩の家を張る

準備でもしているのだろうか。


歩は今私の家にいる。

ということは明日自由に行動しても

大体はいいということ。

歩が家に戻りさえしなければいいから。


花奏「明日さ、出かけへん?」


歩「え?」


花奏「やから、出かけよ?」


歩「集合するんじゃないの?」


花奏「その前にや。」


歩「何しに行くの。」


花奏「欲しいものがあんねん。横浜まで、ほんの少しでええから。」


歩「全然いいけど、服ないし一旦帰ってもいい?」


花奏「服くらい貸すて。パーカーはひとつくらいあった気ぃするし。」


歩「ふうん…。…ま、横浜で乗り換えて家行って、んでまた横浜ってのも面倒だしね。」


花奏「しかもその後学校行くしな。」


歩「うーわ、そうだった。何で学校にしたの、怠いじゃん。」


花奏「みんな集めるなら妥当やろうに。」


歩「まあ女子校組もうちの高校だったらそんなに遠くないけど。」


花奏「やろ?歩が1番遠くなるだけで。」


歩「1番最悪じゃん。」


花奏「ええやん、今日うちに泊まったんやし。だいぶ近いやん?」


歩「それは…うん。」


自分の非を認めたくない子供のように

一間開けた後頷く姿が見えた。

畳に散る髪は既にさらさらに乾かされている。

なのに雨の影響か畳は湿気っているよう。


歩「あ、そうだ小津町。」


花奏「ん?」


歩「化学教えて。問題集で分かんないやつあった。」


花奏「ええで。」


そう言って上体を起こし、

鞄を漁って取り出されたのは

見たことのある問題集。

図書館の匂いがふと香った気がした。

あの時15分で解けなかったままに

今まで引きずっていたんだった。

歩に化学を教える約束も

相当昔にしたことだから忘れかけていた。

人間って恐ろしい。

いくら大切な記憶でも

時間が経てば忘れてしまう。

そういう残酷な生き物なんだ。


お風呂や食事、

それから私が嘔吐してしまった等

意外にも時間は過ぎていたようで、

容易に日付は変わり

憎ましい12日へと進んだ。

彼女に解き方を教えていると

ついにあの問題と出会す。





°°°°°





花奏「…。」


歩「…?何時?」


花奏「あ、ごめん。4時15分くらい。」


歩「そ。ならまだ行ける。」


花奏「次難題やし時間かかるから今度でもええんちゃう?」


歩「嫌。」


花奏「意地っ張り。」


歩「あんたが言うか。」


花奏「そりゃこっちのセリフやで…。」



---



歩「絶対15分で片付ける。」


花奏「よし、のった。」





°°°°°





喧嘩した直後の周期だったっけ。

あまり覚えてないや。


歩「あー…次だるそう。」


花奏「うん、難問やね。」


歩「これ終わったら寝よう。」


花奏「そうしよか。」


歩「結構かかる?これ。」


花奏「そうやね…でも15分で解けるかやってみぃひん?」


歩「本気?今のところ最初に何すればいいかも分からないけど。」


花奏「ヒントは出すから。2つ前にやった問題とちょっと似ててなー」


そこからは時間と彼女の勝負だった。

私は歩から頼まれた時だけ

横からヒントを伝えると、

時に唸り時に閃いた声を上げ

問題に向かい合う。

そして20分程経った時、

ひとつの答えが紙に刻まれていた。


歩「…出来た。」


花奏「凄いやん、飲み込み早いな。」


歩「でも15分越したね。」


花奏「慣れたらそれぐらいすぐに解けるようになるで。」


歩「慣れればね。」


ふう、とひと息ついた頃には

夜中もいいところだった。

そして再度消しかすをゴミ箱へ捨てた後、

机の上を片し床につくことにした。

お客さん用の布団を取り出して

私の部屋へと持っていく。

隣り合わせになるようひき布団へ潜った。

目一杯に息を吸ってみるも

特に得るものはなかった。


歩はきっと2、3時間後に

目覚めるのだろう。

私はそれまでに眠れる気はしないな。

目を閉じてみると今までの、

そして今までになかったはずの

架空の周期の夢が無数に浮かんだ。

悪夢もここまで来ると

笑いが込み上げてきそうになる。

私もとっくにおかしく

なっていたのかもしれない。

気づかないうちに

変わっていったのかもしれない。

戻れないところまで

来ていたんだよ。

きっと。











11月12日



歩「土曜日だから流石に人多いね。」


花奏「なー。」


だいぶ前の周期で美月と訪れた横浜に

今日は歩と来ていた。

昨日、16時に学校前集合と伝えたからか

美月から誘われる事はなかった。


美月が父さんの知り合いの

様子を見にいくよう頼まれるのは

午後になってすぐの頃。

用事を終えた後学校に向かうので

あの交差点へ近づく事はない。

…梨菜が何もしなければ、だけど。

もし美月が学校にまで

辿り着くことができれば

あとは私が死ぬだけだ。


現在午後3時頃。

もっと早く家を出ることもできたが、

私が雨の影響で体調が優れないと

歩にばれてしまい、1度仮眠を挟んでから

横浜へ足を運ぶことになった。

朝と昼を兼ねたご飯を

口にしようとしたけれど、

昨日のように迷惑をかけてしまうかもと

考え出すと止まらず、

水を飲むことで精一杯だった。

出かけると言ったら

歩に猛反対されたけれど、

仮眠をとるという案で妥協してくれて。

こうして何とか買い物に

来れているのだった。


歩「んで、どこ行きたいんだっけ。」


花奏「えっと…どこやっけ。」


歩「あーあ、終わった。」


花奏「何となくの道とか見た目は覚えてんねん。」


歩「じゃあ記憶辿って歩いてみよう。」


花奏「…そうやな。」


歩「ん、任せた。」


あくまで彼女はついてきただけらしい。

貸した大きいサイズのパーカーに

手を突っ込んでいた。

鞄はというと学校でも使っている

リュック型の鞄を持ち運んでいた。

相変わらずの無彩色が目に留まる。


歩「後、何回も言うけど体調きつかったら言って。」


花奏「分かってるて。」


歩「どこまで信じていいんだか。」


歩は話しながらも

時々きらきらとした雑貨屋や

ストリート系の服が飾られたお店を見ては

興味なさげに顔を逸らす。

あんまり気にいるものは

なかったみたいだった。


何周期、何十周期も前のことなので

自信がないながらに進む。

こんなに多くの人がいたのか。

前に美月と来た時は

そこまで気は回らなかったな。

このごちゃごちゃと

絵の具を乱雑に塗ったくったような

喧騒、人の多さ、吐き気だって今日きりだ。

そう思うとやはり感動さえしてきてしまう。

変だな。

日常って思っていたよりも

楽しいものだらけだったのかもしれない。


何度か来たことのある横浜は

異様に輝いて見えた。


改札から歩とどうでもいいことを話しつつ

朽ちた記憶を頼りに足を動かす。

あの雑貨屋の前は通った気がする。

あれ、こんな食料品コーナーの

前なんて通過したっけ?

そうそう、この服屋は覚えてる。


脳内では今までの周期の思い出が

じわじわと迫り上がって来たところで

漸くあのアクセサリー屋を見つけた。

あの時、どんなプレゼントがいいのか

何ひとつぴんとこなくて

棒立ちしてたんだっけ。

美月がふと隣に寄って

いいんじゃないって言ってくれたのを

未だに覚えている。

よくあんな昔のことを

はっきり覚えているもんだ。


私がお店を見つけ突っ立っていると

袖口が緩く引かれた。


歩「ここ?」


花奏「うん、ここ。」


歩「そ。」


ひと言だけ口にすると

泳ぐようにすいすいと商品棚へ向かう。

今までのお店はこのように

吸い寄せられることはなかったのに。

袖口はもうきつくない。

私が夜中の散歩中袖を引いた時、

歩はどんな気持ちだったんだろう。


感慨に耽るのは程々に

あのネックレスがある棚へ一直進。

お目当てのものは当たり前の如く

そこにあった。

小さいけれど確と青く

惑星のようなモチーフが飾られている。

電灯の光を浴びて

さらに淡く仄かに光っていた。


花奏「…。」


それを優しく手に取って

すぐさまお会計へ。

お会計を済ませて歩を探すと

まだぼんやりと商品を見ていた。


歩「…あ、終わった?」


花奏「うん。」


歩「はっや。」


花奏「そうかいや?」


歩「だって5分も経ってないでしょ?」


花奏「あぁ…そうかもな。」


歩「ほんとに買うもの決まってたんだ。」


花奏「え、そこから疑われてたん?」


歩「だっていつも結構余所見する方じゃん。今日は道には迷ってたけど、全然視線移りませんって感じ。」


パーカーのポケットに両手を突っ込み

冷静にこちらを見つめる彼女は、

どこか私の違和感に

気づいているように見えた。

ばれたって、ばれなくったって

今日で最後だもの。


花奏「ま、買いたいもん買うたしどうする?寄りたいところある?」


歩「いや、ない。」


花奏「折角ここまで来たんやしとか思わんのや。」


歩「定期内だから別に。」


花奏「そっか。」


歩「あんたは?もう十分?」


花奏「うん。目標達成や。」


歩「ご飯どうする?」


花奏「あー…また昨日みたいになったら大変やし、食べへんでいいかな。」


歩「ん、そっか。じゃあそうしよ。」


花奏「ありがとな。」


歩「何を今更。」


花奏「歩はどうするん?」


歩「お腹空いたら適当にコンビニで買うよ。」


つーんと猫のように

私の側から離れていき、

アクセサリー屋を後にしていた。

その背を追って私も通路へと飛び出す。


とてつもなく多くの人が

この駅に遊びに来ている。

他にも仕事の人やただ通り道だけの人、

その他諸々大勢いる。

何気ない今日。

何気ない11月12日。

他の人にとってみれば

他の人同じように普通に過ぎ去る

1年のうちの1日でしかない。

けれど、私にとってみれば

全く違う1日だった。

普通って、いつも通りって

どれほど幸せなことか。

今なら分かる。

今になって分かった。


改札に入る手前、

歩がこちらを振り返った。

髪が空を舞う。


歩「ちょっとトイレ行ってきていい?」


花奏「勿論。鞄持つで。」


歩「そう?じゃあお願い。」


花奏「はーい。」


そう言われて鞄を預かると

特段急ぐこともなく歩いて行った。


花奏「…。」


その間に、ついさっき購入した

青い惑星の飾りがついたネックレスと

昨日の2限目後に用意した

どこにでもあるような

メモ紙を取り出す。

それからネックレスの入った

小さな紙袋のシールを

出来るだけ丁寧に剥がし、

メモ紙を入れてまた留めた。

ちらとトイレの方を見ても

まだ歩の姿は見えなかった。


人、人、人。

どこに行っても人工の音は絶えない。

耳だけには休息なんて

訪れるはずもなかった。


小さな紙袋を歩の鞄の

底の部分に隠すように仕舞う。

中の物を全て出さないと

見えてこないだろうというほどに。

そして何事もなかったように

スマホを取り出して

Twitterで予約投稿の準備をする。

時間は…。


花奏「16時24分…でいっか。」


必ず歩が死ぬ時間にひとつ。

そして15日にひとつ。

ほんの短く拙い文章だが

確実に届くのであればそれでいい。


歩「お待たせ。」


花奏「んーん。」


歩「鞄貸して。」


花奏「うん。」


私よりもだいぶ小さい手で

鞄の中を漁りハンカチを取り出していた。

鞄には昨日と変わらず

夏祭りで得たキーホルダーが

からりと音を立てて居座っている。

夏が恋しくなった。

何故だろう。

雨の音が聞こえてきた気がした。


歩と2人で電車に乗り込み

来た道を逆方向に辿る。

私の家の最寄駅から

更に数駅分超えれば学校の最寄り駅。

けれど、私は学校までは行かない。

私は自分の家の最寄駅で降り、

電車を変え廃墟まで行き

タイムマシンを壊す。

そして、死ぬ。


それが意味すること。

それは、今が歩と一緒にいれる

最後の時間ということだった。


歩「…。」


歩は相変わらずスマホを

片手で弄っていた。

寒いのか、もう片手は

ポケットの中にしまったまま。

俯いているせいで髪の毛が邪魔して

彼女の顔はあまり良く見えなかった。

それでいいんだろう。

今いつものあの逃がさないと

言わんばかりの目で見つめられても

おどおどとして慄くだけだから。


刻々と家の最寄駅が近づいてくる。

時間の流れがだんだんと

早くなっていく。

錯覚だ。

そうだと分かっていたとしても

私には止めることは出来ない。


花奏「…歩。」


歩「ん?」


花奏「ありがとうな。」


歩「…?何に対してか知らないけどどういたしまして。」


一瞬指の動きを止めた後、

またすぐ様動いていた。

彼女には感謝してもしきれない。

2年前に出会ってから

ずっと支えてもらっていた。

今日、私があなたの未来を

変えることができたのなら。

今までの恩返しが出来たのなら。

その為にこの人生を投げ捨てられるのなら。

…。

…多分、後悔はない。

そう思いたい。


花奏「あ、そうや。」


歩「何?」


花奏「家に忘れもんした。」


歩「は?取りに帰る時間なくない?」


花奏「今何時なん?」


歩「今っていうか…学校の最寄りに着くのは56分とか。んで、そこから歩くから既に遅刻だけど。」


花奏「そっか。歩先に行っててくれへん?」


歩「別にそれくらい待つよ。」


花奏「んーん。すぐ追いつくし先行っててや。」


歩「そう?でも…」


花奏「梨菜も来てるやろうし、逃げへんかちょっと見ててくれへん?」


歩「あー…そのため?」


花奏「それもあるし、純粋に間に合わへんしさ。」


歩「…ま、そこまでいうんだったら先行ってる。みんなにも小津町が遅れるって伝えとくから。」


花奏「助かるわ。」


その時、緩やかながらブレーキがかかり、

軽く歩の体重がかかる。

僅かに香る落ち着く匂い。

これも最後か。

意を決して席を立つ。

がたりと音を立てて

電車の扉は開かれた。


歩「じゃ、また後で。」


花奏「…っ。」


また、後で。

また明日。

その言葉が言えたら

どれほどよかったか。


喉まででかかった感情を

無理矢理に抑えつけ、

重たい頭を、回らない頭を使って

いい言い回しがないかを探す。

探すも、見つからなくて。


歩「…?」


花奏「…また、な。」


歩「んー。」


適当な返事を私に手渡し、

再度スマホへと視線を移す。

本当は見送りたい気持ちで

いっぱいだったけれど、

ここに立ち止まっていると

それこそ何も出来なくなってしまいそうで、

隠れるように1度階段を登った。

まもなく、車掌さんのアナウンスが

遠くから霞つつ聞こえ、

やがて電車が出発した音が聞こえた。


花奏「…っ。」


なんだろう。

今になって漸く

1人が寂しいことに気がついた。

そして1人は楽で、2人だと楽しくて。

でも、2人だともっと

寂しくなることを知った。


死ぬことが怖くなった。

願っていたことなのに、

何度も行ってきたことなのに。

1度は心を決めて、

戻ると知らず死んだのに。

変だな。


僅か数分後には、乗らなければならない

電車が目の前に姿を現しており、

出来るだけ足音が鳴らないように乗り込んだ。

休日のこの時間だからだろうか、

席はひとつおきに座られている。

気が気でないままに座らず外を眺めた。

ころころと変わる景色。

それすら大切な日常のひとつだった。


たった2駅のはずが

随分と長く感じた。

寝台列車の中から見た夜景が過る。


目的の駅に着いてからは

すぐにあの廃墟へ向かった。

確か、あの機械が出現するのは

午後4時15分。

もうすぐだ。

きっと今頃みんなは学校の前に集まって

私の事を待っている。

歩も。

嘘を吐く事なんて

何の造作もなかったはずが、

またねという嘘だけはやけに胸に響いた。


花奏「…。」


廃墟に着いて隅に座り、

暫くじっと何かを耐えるように待った。

息を殺していると

遠くから少年たちが

話している声が聞こえる。

「俺の方が強いカードを持ってる」

といった内容だった。

どうでもいいことなのにな。

昔の私ならきっと

尾を振るように人の話を

聞いていただろう。

今じゃ。

…比べても仕方はないというのに。


花奏「……ぁ。」


ぐらっと視界が揺れる。

体調の限界か。

そもそも雨のせいで熱や頭痛は勿論、

その他何かしらの影響で

吐き気やら脇腹の痛みやら

諸々支障が出ていた。

それなら、ここで倒れたって納得がいくな。

そうとは思ったけれど、ここで気を失ったら

もう同じ手は使えない。

今周期が最大のチャンスなんだ。

これを逃したら次は

いつになるか分からない。

これを逃したら

更に延々と歩を亡くさなきゃならない。

そんなの嫌だ。


歯を噛み締め、爪が食い入るまで

自らの手を握る。

お願い。

今だけ耐えて。

その願いが叶ったのか

酷く脳を支配していく耳鳴りも

ゆったりとなくなっていった。


花奏「…は、はっ…はぁっ…。」


大丈夫。

最後なんだから頑張れ。

マラソン大会のラストスパートを

彷彿とさせた。

ふと目の前には歪な機械。

15分になったようだった。


力が入らなくなりかけた足で

壁を頼りに立ち上がる。

そして機械の中に

1歩、また1歩と踏み入れた。

かこ、かこ。

音響が変わる。

過去、過去。

無数に折り重なった今までの周期。

私にとっては過去。

けれど、実際は亡くなった未来。

可能性の未来。

私がもしこの機械を使わなかったら

また別の、全く違った未来が

そこにあったんだろう。

後悔しかない。

後悔しかないけれど、

それでも歩を救えるなら。


メモ用紙を繋げて、

A4サイズくらいにしてある紙が

タイムマシンの中に貼り付けてある。

ぼろぼろだ。

風化して黄ばんでいる気がする。

光が、紙を仄かに照らしていた。

夕陽かと見紛う程に暖色で。

そこに浮かび上がる

油性ペンで書かれたような文字列。


花奏「…。」


『小津町花奏』


しっかりとそこに記されてあった。

ぞっとして1歩退くことも

うまく足が動いてくれないなんてことも

いつからかなくなった。


これは誰かの趣味で

造り上げられたものなんかじゃない。

これは意図的に私に向けて造られた何か。

それこそ不可解な出来事の一環。

まだ終わっていなかった。


花奏「…っ。」


固唾を飲み込む。

怖い。

これを壊したら2度と

失敗は許されない。

壊した後、どこかで

死ななければならない。

この廃墟から飛び降りても

生き残ってしまうことは確認済みだ。

近くに8階建のマンションがある。

あと数分あれば無事に辿り着けるだろう。


中に入ると、例のさっき見えた紙。

『小津町花奏』。

そして台のスペースに付属した

小さな電光掲示板のような物には

『113202211111025』。

ぱっと見何の数字なのか

まるでピンとこないままだった。

元より考えようなんて

寸分も思ってなかったな。

台の上にはまた紙があり、

飛ばないようにとセロハンテープで

上が止められていた。

近未来的なのかアナログ的なのか。

その紙には

『三門歩の生きる未来を』

と。

そう。

そのひと言だけ。


そして、注意書き。

『操作パネルにある白いボタンを押せば

指定の日時まで戻ります。

その他部品、ボタン等を押すと

2度と機能しなくなります。

ご了承ください。』


花奏「……。」


夢を見ずにはいられなかった。

歩の助かる未来を、

歩が生きている未来を見たい。

隣にいて欲しい。

隣にいたい。

それだけ。

たったそれだけの願い。


大切な人を失いたくない。

それだけ。


それだけだったはずだった。


腹を括ろう。

1回軽く自分の頬を叩く。

何度も何度も背を殴られたのを思い出した。


そして、白いボタン以外の

訳の分からないボタンを押した。

レバーも引いてみた。

白いボタンを押す以外の何かしらの

操作を乱雑に行ってみる。

すると、ぼんやりと仄暗い室内を

微力ながらに灯していた光が

緩やかに消えていった。

けれど、小さな

電光掲示板のような物に記された

『113202211111025』

という数列だけは残ったまま。


花奏「……終わった…?」


試しに白いボタンを押してみる。

怖かったのか

目をぎゅっと閉じていて、

指先は恐ろしく震えていた。

…。

…。

…。

…。

…。


…先生の声は聞こえない。

学生の特許である

あのシャープペンシルの芯が

ノートに擦れる音さえ耳には届かない。


ゆっくりと視界を開けてみる。

すると、変わらず煤汚れた廃墟に

スクラップをつぎはぎ合わせたような

機械の中にいた。

遠くではまだ子供たちが

遊ぶ声がする。

戻らない。

戻らないんだ。

終わったんだ。

ここからはもう失敗は出来ない。

自分で逃げる道を捨てたんだ。


花奏「…。」


鞄を近くに投げ捨て

すぐさま機械から飛び出し、

転げる勢いで階段を降りる。

恐怖は勿論あった。

失敗出来ないという恐怖。

やり直しができない人生の方が

私にとっては異色に映っていた。

そんな人生を今までよく

送ってこれたものだ。

怖い、怖い。

けれどそれ以上に嬉しかった。

終われることが嬉しかった。

12日から逃げ出せることが嬉しかった。

明日が。

…。

私にはないけれど、

歩に明日が来ることが嬉しかった。


…。

…嬉しかったはずだ。


「花奏ちゃん!」


廃墟を1階まで降りたところだった。

見覚えのある影が2つ。

ここで立ち止まっていたら

例の時間までに私が死ぬのは

叶わなくなってしまう。

あのマンション程に高くなければ

私の死は叶わない。


なのに。


梨菜「花奏ちゃん待って!」


歩「…。」


花奏「…っ…。」


歩がいた。

歩が。

ものすごく不貞腐れたような

顔をしているけれど、間違いなく歩だった。

歩にもう1度会えたことが

嬉しかったなんて思ってしまう。

最早病気だ。

見下しながら蟻を蹴飛ばす時のように

私を眺める私がいる。


私の前に立ちはだかる2人は

まるでこの先には行かせまいと

通せんぼをしている様子。

こんな時でも、否、こんな時だからこそ

梨菜は邪魔してくるんだ。


梨菜「やめて。」


花奏「…。」


梨菜「死なないで。」


彼女の一方的な言葉は

今まで通り一切曲ることなく私を刺して行く。

どうやったらこんな生き方が出来るのかな。

素直な疑問が浮かぶ。


花奏「歩は事情知ってるん?」


歩「…それとなく聞いたけど、信じてはない。」


花奏「そっか。なんて聞いたん?」


歩「……あんたが死のうとしてる…みたいな。嶋原が適当なこと言ってるだけだと思うけど。」


梨菜「適当じゃない。本当に」


花奏「あはは、死なへんて。」


梨菜「…そんなの、信用なんない。」


花奏「まあ…梨菜からしたらそうやろうな。」


歩「どういうこと?」


花奏「強迫観念って言うんやっけ。こうしなきゃ殺される…とかそういう考えに陥ってるだけやねん。」


梨菜「違う。私の言ってる事全部分かってるでしょ。」


梨菜は食ってかかるように私の肩を掴んだ。

そのまま殺されるかと思うほどの

鋭い眼光が私を捉える。

時間は刻々と過ぎ、

間に合わないかもしれないという

不安が徐々に膨らむ。

手には無意識のうちに汗が迸っていた。


梨菜「ねえ、今回何でこんな変則的な事をしてるの。」


花奏「何言ってるん?混乱してるんとちゃう?」


梨菜「そりゃするよ。だって、今回の花奏ちゃんは何か変だから。」


花奏「変なのは梨菜やろ。」


梨菜「何言ってるの。」


歩「…なるほどね。」


梨菜「歩ちゃんも何か言ってよ!」


歩「…。」


梨菜「歩ちゃんっ!」


歩「嶋原、一旦落ち着いて。」


凛と沈む声が廃墟に空に響いた。

歩がここにくるのは

それこそ春以来だろうか。


梨菜「…!花奏ちゃんはおかしかったでしょ。昨日から不可解な事ばかり連ねてたでしょ?」


歩「昨日からずっと小津町といたけど、体調が悪そうなくらいで特に何もなかった。」


梨菜「…!何で信じてくれないの。」


歩「信じてないっていうか…小津町の言ってる事を信じたいだけ。」


梨菜「歩ちゃん、ちゃんと客観的に見て。今止めないと花奏ちゃんが」


歩「小津町はそんなことしない。」


梨菜「…っ!」


花奏「…。」


歩「小津町は死なない。自分でもそう言ってたでしょ。」


特段かっこつけるわけでも

いい人ぶるわけでもなく、

ただただ自分の意見を言っただけ。

歩が何を考えているのか

とっくに箱の中へ消えてしまった。

信頼されていることに

違和感を常に感じていた。

今でも。

今でも、歩が何故ここにいるのか

不思議でたまらない。

私が辛い時はいつでも駆けつけてきてくれた。


花奏「梨菜。」


梨菜の耳に少しばかり顔を寄せる。

そして私は歩に聞こえないくらいの、

目の前にいる梨菜にしか

聞こえないくらいの声量で耳打ちをした。


花奏「機械、壊した。」


梨菜「…っ!?」


花奏「やから私はもう死なへん。」


梨菜「逆でしょ。」


花奏「…?」


梨菜「だからこそ死ぬんでしょ!」


ぱっと大声を上げる彼女。

肩がびくっとあがるも

こんなのただの脅しだと

気持ちを入れ替える。

どうしよう。

時間がすり減って行く。


花奏「やれることは全部やってん。もう必要ないんや。」


梨菜「そんなはず…壊したこと自体嘘なんでしょ…?」


花奏「んーん。嘘やない。上の階見に行ってみ?」


梨菜「絶対逃げるでしょ。」


歩「…はぁ…。そんなに不安なら私がここで小津町と待ってる。それじゃ駄目なの?」


梨菜「花奏ちゃんは逃げるよ。」


歩「何を根拠に言ってんだか。」


梨菜「本当にそうなの。今までだってそうだったから!」


歩「…早く見にいってきたら?なんか上にあんでしょ。それで少し頭冷やしてきて。」


梨菜「…っ!歩ちゃん、ことの大変さが分かってないよね?」


歩「今ひしひしと感じてる。」


花奏「…梨菜。私どこにも行かれへんから、確認してき。」


梨菜「……っ…。」


肩を突き放すように離し、

きっ、と鋭く睨み付けた後

梨菜は走って瓦礫の残骸が棲む

風化した階段を駆け上がった。

刹那、しんとした空気が

廃墟ごと冷やしていく。


歩「…なんか、異常だね。」


花奏「だいぶ重症なんよ。」


歩「ね。これ、医療機関に罹った方がいいんじゃない?私たちだけじゃ無理。」


花奏「…その話をしたくて集まってもらうつもりやったんやけどな。」


ととと、と上から音がする。

焦って駆け上がっているのだろう。

何をそんなに慌てているのか。

急いだって結果は変わらないというのに。


改めて歩の方を見ると、

日陰のせいであまり表情は見えなかった。

何となくだが面倒だと

言わんばかりの目つきをしているような。


歩「てか、何でここにいたわけ?家に行ったんじゃなかったの?」


花奏「家に行った後、梨菜がここに来るかもと思って念の為待っててん。」


歩「へえ。嶋原もあんたのとこ行くとか言ってここの場所だって1発で当ててたけど。」


花奏「そう…。」


歩「何が見えてんだか。」


花奏「…まあ、今はそれくらいにしとこうや。」


歩「ん。」


時間はないというのに

恐ろしく冷静になっていた。

あれだ。

寝坊したけれど

遅刻することが確定しているが故に

逆に余裕になってしまうような。

あの現象にそっくりだ。


歩「そういや鞄は?」


花奏「あぁ…上に置いてきたんやった。」


歩「馬鹿じゃん。」


花奏「あはは…取りに行かなな。」


歩「嶋原いるだろうけど大丈夫?やけに小津町に噛みついてきてたけど。」


花奏「うーん…どうやろな。一応一緒に来てくれへん?」


歩「えーだる。」


花奏「お願いやって。一生のお願い。」


歩「こんなとこで使うな。」


花奏「今が使い所やろ。」


歩「は?あんたも大概変。」


はあ、と大きくため息をついた後、

私の横をするりと抜ける。

ふわりと。

…また、あの香りが漂った。

その背中を追ってふと振り返る。


歩「早く行こ。」


花奏「…待って。」


彼女の袖を引いてみる。

歩はというと不思議そうな顔をして

私のことを見上げていた。

彼女は至って平然で、

梨菜の素振りを見ても

驚きすぎることなく普段通り。

ポーカーフェイスなのか

元々深くは考えない方なのか。

そこまでは最後まで分からなかった。


歩「何?」


花奏「…えっと…。」


引き止めたはいいものの

何ひとつとして言葉が出てこない。

ここで変な事を口走ってしまえば

梨菜の言っていることが

真実味を帯びてきてしまう。

何か。

何かないだろうか。

…どれだけ頭の中を漁り探しても

これといって出てこなかった。


歩「不安?」


花奏「…えっ…?」


歩「何か今酷い顔してたし、不安なのかなって。」


花奏「…。」


歩「そりゃあ嶋原のあの変わりようを見たらそうなるよね。私も流石に怖くなったし。」


花奏「そうなん…?」


歩「怖いに決まってんでしょ。」


花奏「歩にも怖いものってあるんや。」


歩「当たり前。」


袖は引かれたままに顔をそっぽに向ける。

この所作ひとつひとつが

今になっては惜しく感じた。


歩「だからこそ、あんたが梨菜のことを解決したいって思ってここまで行動出来るのは凄いと思ってる。」


花奏「…。」


歩「私はなるべく小津町を信じてる。馬鹿なこと言ったら叩くけど。」


花奏「簡単に想像できるわ。」


歩「それはそれでむかつく。」


花奏「なんやそれ。」


ふと。

袖から手を離す。

もういいよ。

もう、信じなくていいよ。

信じなくて。


…。

信じてくれてたなんて

…嬉しかったな。


歩「きつかったら言って。昨日のこともあるし。」


花奏「…うん。ありがとうな。」


歩「ん。」


廃墟の階段に足をかけ

こちらを窺う彼女がそこにいた。

野生に猫が脳内で描かれる。


歩「さっさと行こ。」


いつも通り遇らうような

冷たい声は廃墟の壁を伝って

私の元まで来た。

…来た、けれど。

……。

…それを受け取ることは出来ない。


花奏「…歩。」


歩「もー…何なの。」


花奏「色々ありがとうな。」


歩「分かったっての。先行くよ。」


一瞬、彼女が背を向ける。

それが合図だと悟ってすぐ

足は動き出していた。

廃墟の外へ。

そして歩道へ。

時間は何時か分からない。

ただ、24分になっていないことは確か。


今までゆっくりと流れていたはずの時は

急速に進みを早めた。

マンションは間に合わない。

エレベーターに乗る時間等

含めたら確実に駄目。

そのマンション程の高さがないと

飛び降りはまず難しい。


…となると殺してもらうか

それとも事故か。


事故か。

なら。


そのまま足を全力で動かし、

間に合うよう心の中で

何度も願いながら走る。

24分までに私が死ねなければ

歩が死ぬ可能性が高い。

…可能性ではない。

事実だ。

未来だ。

そんなの嫌だ。

嫌だ。

もう戻せないんだ。


何悠長に話していたんだ。

そんな事をして失敗したら

どうするんだ。

…けど。

けれど、最後に話せてよかった。

もっともっと話していたかった。

欲と後悔が混ざりに混ざって

嗚咽がどうしようもなく漏れた。


事故。

最初の歩の時と死に方は一緒だ。

美月はいない。

学校前で待っているはずだから。

だから。


走っていると例の横断歩道が見えてきて

徐々に、徐々に近づいてくる。


もう少し。

少し頑張れば。


足はもう疲れ切り、何故動いているのか

不思議なほどだった。

はっ、はっ…と脳が気持ちの悪い

息の波に揺れている。

脇腹だって手首だって全て何もかもが痛い。

走るのをやめてしまいたい。

でも。

でも…。


歩の生きる明日があるなら。


花奏「…っ!」


大きく足を踏み込み、青信号へ飛び出した。

真隣には何度も見てきたあの車。

ぎりぎりで間に合った…のかな。


夜に溶けていきそうなほど儚く笑う

歩の顔が浮かぶ。

これが走馬灯なのだろう。

間に合っていますように。

一生のお願いだった。


歩に何もない幸せな明日が、

明日が。

…来ますように。


そう、祈ってー。

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