何気ない12日

花奏「……………ぅー…。」


ぴぴっ。

脇からその音が鳴ったのを確認してから

そうっと抜き出す。

38.6℃。

その数字が全てだった。

熱である。

朝起きてみると明らかに普段とは違った

身体の怠さが感じられ、

体温計に手を伸ばしてみたところこのさまだ。

ああ、もう。

手を動かすのさえ辛い。

今日は何もかもを捨てて

寝転ぶことしか出来無さそうだった。


花奏「…昨日の夕立のせいやろうなー…。」


ぐーっと寝転がりながら

背伸びをしても全くすっきりしない。

それどころか体の重さを知り

尚更怠さが増すように思われた。


結局昨日は全速力で走って

最寄り駅まで行ったものの、

全身は絶え間なく雨に打たれていたもので

濡れ鼠になっていた。

幸い鞄の中身は雨の被害を受けず、

けろりとした顔のまま。

制服は仕方なく洗濯に回し

父さんはいないが為にご飯も適当。

夜ご飯は余っていた

にんじんのサラダだけしか

食べていない気がする。

朝もお腹は空かず、

水だけで胸いっぱいだった。

冷たいものが胃を通る感覚。

体内をずたずたに刺すかの如く潤していった。


花奏「…はぁ。」


私1人だけがここにいた。

家にいた。

久しぶりに孤独感に襲われる。

暫くは父さんの出張もなかったからかな。

歩も受験勉強があるし、と思うと

無闇な連絡も取りづらくなってしまった。

ごろんと寝返りを打ってスマホに手を伸ばす。

美月に謝罪の旨を伝えなきゃ。

その動作すら苦しいと思う節さえあるほど。

熱が出るってこんなんだったっけと

記憶を探してみるもあまり鮮明には

思い出せなかった。

小さい頃インフルエンザになった時くらいで。

それも小さかったが故殆ど覚えてなかった。


ふと画面を開くと時間は結構経っていて。

あと数分後には美月が家を出るであろう

時間となっていた。

いろいろ準備とかしていただろう。

申し訳なさは募るばかりだが

今だけは体調が故、気怠さの方が勝る。


花奏『ごめん、今日行けそうにない』


そんな端的なメッセージを残すと

たまたまスマホをいじっていたのか

ぽん、と既読の文字が瞬時に浮かぶ。


美月『分かった。何かあった?』


花奏『熱出たんよ。ごめんな』


美月『そんな日もあるわ。無理せずね。お大事に。また来週あたり予定が合えば行かない?』


花奏『そうする』


思考が回らない。

辛さのあまり日本語はぼろぼろだが

要件が伝わったのならよかったと思い

美月の返事を待たずにスマホを放る。

充電器に繋げておきたいな。

昨晩はほぼ適当に済ませ楽した結果

バッテリー残量は僅かだと

赤色が知らせてきていた。

けれど視界がぼんやりする。

まだ寝足りないのかな。

…と、それ以前に熱じゃないか。

熱だからか寝足りないのか

朦朧とする意識の中でぴこぴこと指を動かす。


花奏『美月ほんとごめん』


そこで送信ボタンを押して以降の記憶は

私にはなかった。





***





ぴーんぽーん。

遠くから私を呼ぶのはそんな音。

意識は朦朧とした中で、

自分が熱であることも

どんな服を着ていたかも忘れ

玄関の方へ向かう。

ふらふらとよたつく足元には

頼りない床の軋む声。

宅急便だろうか。

何か頼んだっけ。

そっか、父さんの荷物かな。

くらいまで考えたところで

思考はショートしてしまい、

後の道のりは何も考えられずに

玄関まで歩いていた。


花奏「……はーい。」


精一杯の明るい声を出してみると

喉に痰が絡み掠れた声しか出なかった。

玄関先にある鏡には

一応外に出ても大丈夫そうな部屋着が見えた。

咳払いを数回する。

判子は靴箱にあったような。

そう思いながらを戸を開けた。


梨菜「わ、大丈夫!?」


花奏「梨菜…?」


そこにはいるはずのない彼女と

高くに登ったままの陽があった。

何か用事だろうか、

思い当たる節がないままきょとんとしていると

梨菜は袋を前に突き出した。


梨菜「お見舞いに来たの!花奏ちゃんが熱出したって聞いたから。」


花奏「そうなん。態々ありがとうな。」


言葉尻に覇気がまるでなく、

にへらと弱々しく笑うと

梨菜は困ったように眉を下げていた。


梨菜「ううん、全然いいんだよ。たまたま近くにいたからお見舞いにって思ったの。」


袋を差し出してくれるものだから

何も考えられない頭は

素直に受け取ることしかできない。

さっと中身を見ると

ゼリーだとかプリンだとか

喉を通りやすいものが多々あった。

そして冷たい飲み物が少し。


花奏「ほんまありがとうな。」


梨菜「気にしないで。辛いところ玄関まで来させちゃってごめんね。」


花奏「んーん。そんなー」


言葉は分散して姿を消すと共に

体がぐにゃりと曲がってしまったのか

視点が一気に下がる。

勢いよく膝をついてしまったようで

一瞬何にも感じないと思えば

熱が轟々と唸り出す。

けれど痛みよりも力が入らないことに

驚いてしまって言葉も出ない。

しゃか、と手元でレジ袋が鳴く。

不幸中の幸いか、足の下敷きには

ならなかった様子。


梨菜「か、花奏ちゃん!?」


花奏「あはは…大丈」


梨菜「駄目だよ。今、家に親御さんは?」


花奏「…おらん、けど…。」


梨菜「布団まで連れてくよ、いい?」


花奏「え…大丈夫やって、自分で」


梨菜「また倒れたら困るもん!ごめんね、家入るよ。」


梨菜は半ばどころか完全に無理矢理

家へと押し入り、

私の手からお見舞いの品を外した。

それから私の腋の下に手を滑らせ、

せーのという掛け声と同時に

ぐっと上へ引き上げられる。

お陰で何とか立つことはできたものの、

やはりふらついてしまう。

頭痛も治るどころか

酷くなっているようにさえ感じる。


梨菜「どっち?」


花奏「ん……あっち…。」


梨菜「分かった。お邪魔します。」


ひと言そう断った後、

私の部屋を目指し迷わず進む。

梨菜は私より1つ歳は下だけれど、

姉ということもあるからか

幾分もしっかりしているように見えた。

天真爛漫で、でもこう真剣な顔を

真横から見ていると凛々しくて。

しっかりしてるなって。

私とは全然違うなって思った。

ああもう、頭が回らない。

体を彼女に委ねたまま

ふらりふらりと朽ちかけた床を踏む。

大体この家に来た人は

床が軋むことに怯えてたり

驚いたりは多少するのだが

梨菜はそんな表情なんて

これっぽっちも見せずに

私を支えたまま歩いていた。


梨菜「花奏ちゃん、横になって…布団かけるからね?」


花奏「ごめん…本当にごめんな…。」


梨菜「ありがとう1つで許してあげる。」


花奏「…うん…ありがと…。」


梨菜「うんっ!買ってきたもの冷蔵庫に入れとくね!」


梨菜は私を寝転がし

布団をかけた後どたどたと

玄関の方へかけていった。

何か梨菜にお茶とか出さなきゃ。

今の自分の状態を知ってか知らずか

そんな事を思った後、

すぐに意識は闇の中へ

潜っていくのを感じた。

また、昏睡に凭れて…。





***





「話しかけないで。」

「は?」

「分かんないから聞いてるだけ。」

「小津町。」


何故か、歩の声が反芻して聞こえる。

ここはどこなのだろう?

真っ暗。

真っ暗?

目を閉じている気がするような。

…疑問を感じてそっと目を開ける。


花奏『…学校?』


そう。

学校だった。

けれど私には1つ確信があった。

これは夢だっていう確信。

夢を見てると気づける夢を見るのは

何度かあったが、

ここまで鮮明なものは初めてで

なんとも奇妙で落ち着かない気分だった。

ベランダから見える青々とした空は

両手を広げ私を呼んでいるようにも見えた。

清々しい気分で1つ大きく息を吸う。


歩「ねぇ。」


花奏『…?』


返事をしようとして振り向くと、

歩の隣には既に「私」がいる。

「私」がいたのだ。

私自身は第三者視点なのだとそこで思い知る。

ぐるりと周りを見渡すと

机が乱立していて、

なんだかヤンキーが多数いる学校を思わせた。

そのうちの1つの席に歩は座り、

彼女の真前に「私」がいた。

いつもの休み時間の時のよう。

歩は怠そうに肘をつき、

嫌々ながらに話を聞いてくれるのだ。

視界に入る「私」を含めた2人からは

私のことは見えていないらしい。


歩「なんで私だったわけ?」


花奏「どういうこと?」


歩「…なんで私にだけこんなに突っかかってくるの。他にも、2、3年や1年の奴もいたでしょ。」


花奏「突っかかってくるなんて言い方の悪い……ま、それは置いといて…だから、なんで私か…って?」


歩「…そ。」


花奏「せやな…ひと言で言うなれば…恩人だから。」


相当昔にした会話だった気がする。

懐かしい。

そんな感情に塗れていく。


全ての始まりはTwitterがおかしくなった事。

日に日にフォローしている人の欄が

増えていく中で最後の方に

追加されたのが歩だった。

再会を果たしてすぐは、

この人が恩人だということに気づいたけれど

どうにも人柄が違うように映ったんだっけ。

それでも歩と仲良くなりたくて

ただひたすらにがむしゃらに話しかけて

付き纏うようになって。

今思えばストーカーやメンヘラと思われても

おかしくないくらい

歩にべったりくっついてた。

歩も歩で当たり前な反応というか、

嫌がる素振りはそこそこに見せていた。

けれど本当に嫌がってはいなかっただろうし、

悪態を吐きながらも私に付き合ってくれた。

その後もいろいろな不可解に苛まれ。

いろいろな光景が鮮明に脳裏に浮かぶ。


その中で苗字だけれど

呼んでくれるようになって、

いつの間にか夕ご飯を

一緒に食べる仲になった。

共に勉強することも多くなった。

今やいなくちゃいけない大切な存在。

友達以上恋人未満と言うのだろうか。

正直言葉で表せないくらい大切になっていた。

彼女のいない生活なんて考えられずにいた。

だから卒業という言葉が怖くて。

本来なら私も卒業する年だが

退学してる等の影響で一緒には卒業出来ない。

その後の生活がどうなるのか

全く想像できない。

それほどにまで、大切になってた。


そんな回想をしてるうちに

目の前にいる2人の会話は進んでいた様子。

そういえば昨日もそんな事考えていたっけ。

最近は過去に思いを馳せてばかり。


歩「小津町。」


花奏「なーんや?」


歩「私ーー」


ゔー。

ゔー。

ちかちかと点滅したのち、

その理想的な時間は微睡と共に溶けていった。





***





ゔー。

ゔー。


花奏「……ぅ…。」


夢を見ていた。

不思議な夢。

でも、ただの過去といえば過去だけど。

全てをはっきりと覚えているわけではないが

断片的に情景が浮かんだ。

夢らしくとても幻想的で

夢らしくなく生々しい夢だった。

そんな感想を抱いてた。


何で私は目覚めたんだろう。

そうして目をぐるぐるとしていると

時計が目に入る。

午後5時半くらい。

結構寝てしまっていたらしい。

過眠症を引き起こしてしまったのかと思うほど。

一瞬驚くも今日は休日なのを思い出して

少々ほっとした。

そういえば美月と今日買い物行く予定を

ドタキャンしてしまったことへの謝罪を

伝えたか否かが思い出せない。

起き上がるのさえ辛くて、

すぐに眠ってしまった記憶が色濃い。

…あれ。

その後梨菜がきたんだっけ。

それすら夢だったのだろうか。


花奏「うぅ…。」


朝よりは幾分もマシになったが

まだ体は快調ではないらしく、

上体を起こすと頭が鳴った。

思えばどこかでスマホの唸り声が聞こえる。

ふと騒音を掻き鳴らす画面を見ると

まさに美月の名前。

やはり今日はやめておくというのを

伝え忘れていたのだろうか。

ひやりと汗が背に滲む。

美月はずっと待っていたのではないか。

それもトーク画面を見れば解決する事。

体はこの感情についてこなくて

のろのろとしたスピードしか出せない。

一先ず不安は置いておき、

お叱りの電話だろうなと

のんびり受話器のマークを押した。


花奏「もしもし?ごめんな、みつ」


美月『…!花奏、花奏っ花奏ぇっ…!』


花奏「えっ…?」


乱れた呼吸にふと

胸を締め付けられる思いが湧く。

美月の声は涙声で恐ろしいほどに震えていて

この世の何を見たら

そんな声を出すのかと思うほど。

それほど彼女は怯えているようだった。


美月『かなっ…ご、ごめんなさっ、ごめっ…!』


ぐず、と鼻を啜る音がした。

どうやらひどく取り乱しているらしい。

ここまで取り乱す彼女を

目の当たりにした事はないからか

自分の中にも酷く動揺の色が窺えた。

頭痛や怠さといった不純物は

居場所をなくしてしまった。


花奏「大丈夫、大丈夫やから今どこにいるか教えて?」


すぐに飛び起きて電話をスピーカーにし

着替えを始める。

頭痛とか諸々今は考えの外にいて、

とりあえず体は動くってことは分かった。

近場なら走って行くくらい出来るだろう。


美月『いま、ぃ、まっ…花奏、花奏っごめん、ごめんなさいぃ…』


花奏「…っ。」


何があったの?

何があったらこんな。

美月は私への謝罪をひたすらに口にしていた。

どうして?

それがまず浮かんでしまった。

悲痛。

声だけで胸が痛む。


花奏「大丈夫だよ、美月。周りに誰かいる?」


現状を知りたい。

その一心で美月に問う。

いくら大丈夫だと声をかけても

取り乱してしまった上対面じゃない以上

伝わらないことが多い。

そうとは知りつつも落ち着くようにと願って

言葉を投げかけてしまう。


美月『まわ、り、はっ…んずっ…み、んなぃっ…いる。』


花奏「みんなおるんやね?うん、分かったよ。」


急ぎつつも出来るだけ優しく言葉を渡す。

みんながいる事には安心した。

みんなとはいえ家族なのか

それとも梨菜や波流達なのか。

どちらにせよ誰かはいるという事。

…ならば。

ならばどうして美月に声をかけてあげないのか。

すぅ、と背筋が凍るも、

電話越しで何やらざわざわとした

とても濃度の薄い喧騒は聞こえた気がした。

どこか人の集まるところにいるのだろうか。

しかしそれもすぐに止んでしまう。


嫌な想像が駆け巡る。

何があったの。

何が怖いの。

これは確実にドッキリなんて

生優しいものではないことくらい

とっくのとうに分かっている。


用意が終わって玄関に立つ。

もう出れる。

スマホはスピーカーを止め耳にあてて

がちゃっと鍵を開ける。


花奏「今からそっち行くからね。…美月、みんなもどこに」


美月『ど、こ…………ょ……ぃ………。』


車が通ったからだろうか。

しっかり聞き取れなくて。

自分自身焦る気持ちが募ってか

乱雑に鍵を閉めていた。

かつんと勢いよく乾いた音。


花奏「ごめん、もう1回言ってほしい。」


美月『ぁ……びょ、ういん…病院っ…!』


花奏「…病院?」


美月『ぁぅ、ごめん花奏っ…ごめんなさいっ、ぁ…ぁ、あたしのせ、ぃでっ』


花奏「美月のせいじゃないよ、大丈夫だから。」


病院。

学校の近くにある大きなところだろうか。

大きいだけあって多くの患者さんが

そこに集まるからという理由だけで

その病院に的を絞った。

合っていなかったらまた連絡を…

でも、間に合わないとか

そういうことが起こってしまったら。

間に合わないってなんだ。

誰かが怪我したくらいじゃないのか。

それにしては美月は取り乱しすぎではないか。

いつの間にか走ったまま

いろいろ考えが駆け巡る。

巡って。

巡った先に。

ぱっと美月の声がしなくなった。


花奏「…!?美月、美月っ!」


『もしもし、花奏けぇ?』


花奏「……麗香…!」


麗香『…。』


麗香は何故か押し黙ってしまって。

奥から美月の嗚咽が聞こえてきた。

それにまた胸を抉られるような気持ちになる。

さっきの麗香の声だって

平然を保っているような雰囲気を醸しつつも

どこか喉の奥で引っかかるような、

そんな違和感が爪を立てる。


花奏「ね、ねぇ、麗香教えて。」


聞いてはいけないと誰かが

どこかで警鐘を鳴らす。

きこえてる。

きこえてるんだよ。

でも、聞かなくちゃいけない気がして。

というより聞かないと納得ができなくて。


花奏「何が起こったの。」


麗香『……歩先輩が』


歩。

その言葉に、がむしゃらに

動かしていた足が止まる。

走っていた足が。

…ふと、どこに向かえばいいのか

分からなくなる。

横で車が通る。

横断歩道までもう少しだった。


麗香『…歩先輩が、亡くなった………っ。』


その言葉だけ。

それだけが大きく聞こえた。

はっきりと鮮明に聞こえた。

嫌なほど残響して聞こえた。


歩が、死んだ…?

ふと。

不意に。

何故か。


目の前が。





***





息をしてたのか分からないほど

ひたすらに走って

麗香が教えてくれた病院についた頃。

霊安室に彼女はいた。

吐き気を催すほどぞっと背筋が冷えた。

霊安室には台があって

白布で何か隠されており、

周りには泣きつく美月の姿と

声を押し殺して泣くみんなの姿。

数人はまだ到着していないのか

欠けているように見えた。

親御さんすら仕事があったのか

まだ到着してないみたいで。


美月「うわあぁあああぁっ…ああぁあぁっ…。」


美月がこんなにも声を上げて泣くところを

見たことがなかった。

誰かに話しかけられた気がしたけれど

一切私の耳には届かなかった。

心配する旨だっただろうか。

それすら分からない。

辿々しくそれに近づいて、顔を…

顔を、見ようとはした。

けど嫌なほど手が震えて、

なんだか気持ち悪くて現実味がなくて。

…。

…。

ぁ…。

短く声が漏れた気がした。

…。

…出来なかった。

したくなかった。

確認したらそれが最後の様な気がして。

歩が死んだと認めるってことの様な気がして。

私はただただ立ち尽くすだけ。

何にもせず、耳は機能せず、

ただ浅く呼吸するだけ。

過呼吸にならなかっただけよかっただろう。

何故だろう。

何故か、涙すら伝わなかった。


美月「ぇぐっ……うああぁあぁっ…。」


美月の痛々しい泣き声だけが

空虚な一室に満ちていた。

その音だけが嫌なほどずっと残響していた。

ただそれだけだった。











花奏「……………ぅー…。」


ぴぴっ。

脇からその音が鳴ったのを確認してから

そうっと抜き出す。

38.6℃。

その数字が全てだった。

熱である。

朝起きてみると明らかに普段とは違った

身体の怠さが感じられ、

体温計に手を伸ばしてみたところこのさまだ。

ああ、もう。

手を動かすのさえ辛い。

今日は何もかもを捨てて

寝転ぶことしか出来無さそうだった。


花奏「…昨日の夕立のせいやろうなー…。」


ぐーっと寝転がりながら

背伸びをしても全くすっきりしない。

それどころか体の重さを知り

尚更怠さが増すように思われた。


結局昨日は全速力で走って

最寄り駅まで行ったものの

全身は絶え間なく雨に打たれていたもので

濡れ鼠になっていた。

幸い鞄の中身は雨の被害を受けず、

けろりとした顔のまま。

制服は仕方なく洗濯に回し

父さんはいないが為にご飯も適当。

夜ご飯は余っていた

にんじんのサラダだけしか

食べていない気がする。

朝もお腹は空かず、

水だけで胸いっぱいだった。

冷たいものが胃を通る感覚。

体内をずたずたに刺すかの如く潤していった。


花奏「…はぁ。」


私1人だけがここにいた。

家にいた。

久しぶりに孤独感に襲われる。

暫くは父さんの出張もなかったからかいな。

歩も受験勉強があるし、と思うと

無闇は連絡も取りづらくなってしまった。

ごろんと寝返りを打ってスマホに手を伸ばす。

美月に謝罪の旨を伝えなきゃ。

その動作すら苦しいと思う節さえあるほど。

こんな熱とか体調不良さえ久しぶり。

熱が出るってこんなんだったっけと

記憶を探してみるもあまり鮮明には

思い出せなかった。


思い出せなかった…?

いつだろうか。

同じくらい怠くてきつかった日が

ないとは断言できなかった。

いつだっけ。

小さい頃インフルエンザになった時の事?

…小さかったから殆ど

覚えてないだけだろう。

きっと何か夢の記憶やらなにやらと

混ざってるだけ。

最近夢を見ることが多かったから

きっとそうに違いない。


ふと画面を開くと時間は結構経っていて。

あと数分後には美月が家を出るであろう

時間となっていた。

いろいろ準備とかしていただろう。

申し訳なさは募るばかりだが

今だけは体調が故気怠さの方が勝る。


花奏『ごめん、今日行けそうにない』


そんな端的なメッセージを残すと

たまたまスマホをいじっていたのか

ぽん、と既読の文字が瞬時に浮かぶ。


美月『分かった。何かあった?』


花奏『熱出たんよ。ごめんな』


美月『そんな日もあるわ。無理せずね。お大事に。また来週あたり予定が合えば行かない?』


花奏『そうする』


思考が回らない。

辛さがあまり日本語はぼろぼろだが

要件が伝わったのならよかったと思い

美月の返事を待たずにスマホを放る。

充電器繋げときたいな。

昨晩はほぼ適当に済ませ楽した結果

バッテリー残量は僅かだと

赤色が知らせてきていた。

けれど視界がぼんやりする。

まだ寝足りないのかな。

…と、それ以前に熱じゃないか。

熱だからか寝足りないのか

朦朧とする意識の中でぴこぴこと指を動かす。


花奏『美月ほんとごめん』


そこで送信ボタンを押して以降の記憶は

私にはなかった。





***





ぴーんぽーん。

遠くから私を呼ぶのはそんな音。

意識は朦朧とした中で、

自分が熱であることも

どんな服を着ていたかも忘れ

玄関の方へ向かう。

ふらふらとよたつく足元には

頼りない床の軋む声。

宅急便だろうか。

何か頼んだっけ。

そっか、父さんの荷物かな。

くらいまで考えたところで

思考はショートしてしまい、

後の道のりは何も考えられずに

玄関まで歩いていた。


花奏「……はーい。」


精一杯の明るい声を出してみると

喉に痰が絡み掠れた声しか出なかった。

玄関先にある鏡には

一応外に出ても大丈夫そうな部屋着が見えた。

咳払いを数回して扉を開ける。

判子は靴箱になったような。

そう思いながらを戸を開ける。


梨菜「わ、大丈夫!?」


花奏「梨菜…?」


そこにはいるはずのない彼女と

高くに登ったままの陽があった。

何か用事だろうか、

思い当たる節がないままきょとんとしていると

梨菜は袋を前に突き出した。


梨菜「お見舞いに来たの!花奏ちゃんが熱出したって聞いたから。」


花奏「そうなん。態々ありがとうな。」


言葉尻に覇気がまるでなく、

にへらと弱々しく笑うと

梨菜は困ったように眉を下げていた。


梨菜「ううん、全然いいの。たまたま近くにいたからお見舞いにって思ったの。」


袋を差し出してくれるものだから

何も考えられない頭は

素直に受け取ることしかできない。

さっと中身を見ると

ゼリーだとかプリンだとか

喉を通りやすいものが多々あった。

そして冷たい飲み物が少し。


花奏「ほんまありがとうな。」


梨菜「気にしないで。辛いところ玄関まで来させちゃってごめんね。」


花奏「んーん。そんなー」


言葉は分散して姿を消すと共に

体がぐにゃりと曲がってしまったのか

視点が一気に下がる。

勢いよく膝をついてしまったようで

一瞬何にも感じないと思えば

熱が轟々と唸り出す。

けれど痛みよりも力が入らない…。

…。

…。

…?

これ、前も何処かで見たような気がする。

正夢ってやつかな。

しゃか、と手元でレジ袋が鳴く。

不幸中の幸いか、足の下敷きには

ならなかった様子。


梨菜「か、花奏ちゃん!?」


花奏「あはは…大丈」


梨菜「駄目だよ。今家に親御さんは?」


花奏「…おらん、けど…。」


梨菜「布団まで連れてくよ、いい?」


花奏「え…大丈夫やって、自分で」


梨菜「また倒れたら困るもん!ごめんね、家入るよ。」


梨菜は半ばどころか完全に無理矢理

家へと押し入り、

私の手からお見舞いの品を外した。

それから私の腋の下に手を滑らせ、

せーのという掛け声と同時に

ぐっと上へ引き上げられる。

お陰で何とか立つことはできたものの、

やはりふらついてしまう。

頭痛も治るどころか

酷くなっているようにさえ感じる。


梨菜「どっち?」


花奏「ん……あっち…。」


梨菜「分かった。お邪魔します。」


ひと言そう断った後、

私の部屋を目指し迷わず進む。

梨菜は私より1つ歳は下だけれど、

姉ということもあるからか

幾分もしっかりしているように見えた。

天真爛漫で、でもこう真剣な顔を

真横から見ていると凛々しくて。

しっかりしてるなって。

私とは全然違うなって思った。

ああもう、頭が回らない。

体を彼女に委ねたまま

ふらりふらりと朽ちかけた床を踏む。

大体この家に来た人は

床が軋むことに怯えてたり

驚いたりは多少するのだが

梨菜はそんな表情なんて

これっぽっちも見せずに

私を支えたまま歩くの。


梨菜「花奏ちゃん、横になって…布団かけるからね?」


花奏「ごめん…本当にごめんな…。」


梨菜「ありがとう1つで許してあげる。」


花奏「…うん…ありがとな…。」


梨菜「うんっ!買ってきたもの冷蔵庫に入れとくね!」


梨菜は私を横に寝転がし

布団をかけた後どたどたと

玄関の方へかけていった。

何か梨菜にお茶とか出さなきゃ。

今の自分の状態を知ってか知らずか

そんな事を思った後、

すぐに意識は闇の中へ

潜っていくのを感じた。

また、昏睡に凭れて…。





***





「話しかけないで。」

「は?」

「分かんないから聞いてるだけ。」

「小津町。」


何故か、歩の声が反芻して聞こえる。

ここはどこなのだろう?

真っ暗。

真っ暗?

目を閉じている気がするような。

…疑問を感じてそっと目を開ける。


花奏『…学校?』


そう。

学校だった。

けれど私には1つ確信があった。

これは夢だっていう確信。

夢を見てると気づける夢を見るのは

何度かあったが、

ここまで鮮明なものは初めてで

なんとも奇妙で落ち着かない気分だった。

ベランダから見える青々とした空は

両手を広げ私を呼んでいるようにも見えた。

清々しい気分で1つ大きく息を吸う。


歩「ねぇ。」


花奏『…?』


返事をしようとして振り向くと、

歩の隣には既に「私」がいる。

「私」がいたのだ。

私自身は第三者視点なのだとそこで思い知る。

ぐるりと周りを見渡すと

机が乱立していて、

なんだかヤンキーが多数いる学校を思わせた。

そのうちの1つの席に歩は座り、

彼女の真前に「私」がいた。

いつもの休み時間の時のよう。

歩は怠そうに肘をつき、

嫌々ながらに話を聞いてくれるのだ。

視界に入る「私」を含めた2人からは

私のことは見えていないらしい。


歩「なんで私だったわけ?」


花奏「どういうこと?」


歩「…なんで私にだけこんなに突っかかってくるの。他にも、2、3年や1年の奴もいたでしょ。」


花奏「突っかかってくるなんて言い方の悪い……ま、それは置いといて…だから、なんで私か…って?」


歩「…そ。」


花奏「せやな…ひと言で言うなれば…恩人だから。」


相当昔にした会話だった気がする。

懐かしい。

そんな感情に塗れていく。


全ての始まりはTwitterがおかしくなった事。

日に日にフォローしている人の欄が

増えていく中で最後の方に

追加されたのが歩だった。

再会を果たしてすぐは、

この人が恩人だということに気づいたけれど

どうにも人柄が違うように映ったんだっけ。

それでも歩と仲良くなりたくて

ただひたすらにがむしゃらに話しかけて

付き纏うようになって。

今思えばストーカーやメンヘラと思われても

おかしくないくらい

歩にべったりくっついてた。

歩も歩で当たり前な反応というか、

嫌がる素振りはそこそこに見せていた。

けれど本当に嫌がってはいなかっただろうし、

悪態を吐きながらも私に付き合ってくれた。

その後もいろいろな不可解に苛まれ。

いろいろな光景が鮮明に脳裏に浮かぶ。


その中で苗字だけれど

呼んでくれるようになって、

いつの間にか夕ご飯を

一緒に食べる仲になった。

共に勉強することも多くなった。

今やいなくちゃいけない大切な存在。

友達以上恋人未満と言うのだろうか。

正直言葉で表せないくらい大切になっていた。

彼女のいない生活なんて考えられずにいた。

だから卒業という言葉が怖くて。

本来なら私も卒業する年だが

退学してる等の影響で一緒には卒業出来ない。

その後の生活がどうなるのか

全く想像できない。

それほどにまで、大切になってた。


そんな回想をしてるうちに

目の前にいる2人の会話は進んでいた様子。

そういえば昨日もそんな事考えていたっけ。

最近は過去に思いを馳せてばかり。


歩「小津町。」


花奏「なーんや?」


歩「私ーー」


ゔー。

ゔー。

ちかちかと点滅したのち、

その理想的な時間は微睡と共に溶けていった。





***





ゔー。

ゔー。


花奏「……ぅ…。」


夢を見ていた。

不思議な夢。

でも、ただの過去といえば過去だけど。

全てをはっきりと覚えているわけではないが

断片的に情景が浮かんだ。

夢らしくとても幻想的で

夢らしくない生々しい夢だった。

そんな感想を抱いてた。


何で私は目覚めたんだろう。

そうして目をぐるぐるとしていると

時計が目に入る。

午後5時半くらい。

5時、半。

…。

…結構寝てしまっていたらしい。

過眠症を引き起こして

しまったのかと思うほど。

一瞬驚くも今日は休日なのを思い出して

少々ほっとした。

そういえば美月と今日買い物行く予定を

ドタキャンしてしまったことへの謝罪を

伝えたか否かが思い出せない。

起き上がるのさえ辛くて、

すぐに眠ってしまった記憶が色濃い。

…あれ。

その後梨菜がきたんだっけ。

それすら夢だったのだろうか。


花奏「うぅ…。」


朝よりは幾分もマシになったが

まだ体は快調ではないらしく、

上体を起こすと頭が鳴った。

思えばどこかでスマホの唸り声が聞こえる。

ふと騒音を掻き鳴らす画面を見ると

まさに美月の名前。

やはり今日はやめておくというのを

伝え忘れていたのだろうか。

ひやりと汗が背に滲む。

美月はずっと待っていたのではないか。

それもトーク画面を見れば解決する事。

体はこの感情についてこなくて

のろのろとしたスピードしか出せない。

一先ず不安は置いておき、

お叱りの電話だろうなと

のんびり受話器のマークを押した。


花奏「もしもし?ごめんな、みつ」


美月『…!花奏、花奏っ花奏ぇっ…!』


花奏「えっ…?」


乱れた呼吸にふと

胸を締め付けられる思いが湧く。

美月の声は涙声で恐ろしいほどに震えていて

この世の何を見たら

そんな声を出すのかと思うほど。

それほど彼女は怯えているようだった。

怯えて、怯えて。

この悲痛さには覚えがあった。

覚えが、あったんだ。


美月『かなっ…ご、ごめんなさっ、ごめっ…!』


ぐずって鼻を啜る音がした。

どうやらひどく取り乱しているらしい。

ここまで酷くなる彼女を

目の当たりにした事はないはずなのに

記憶にはあるの。


これ、何処かで。


すうっと体温がひいていき、

変な汗が背を伝う。

頭痛や怠さといった不純物は

居場所をなくしてしまった。


花奏「大丈夫、大丈夫やから今どこにいるか教えて?」


すぐに飛び起きて電話をスピーカーにし

着替えを始める。

頭痛とか諸々今は考えの外にいて、

とりあえず体は動くってことは分かった。

近場なら走って行くくらい出来るだろう。


美月『いま、ぃ、まっ…花奏、花奏っごめん、ごめんなさいぃ…』


花奏「…っ。」


何があったの?

何があったらこんな。

美月は私への謝罪をひたすらに口にしていた。

どうして?

それがまず浮かんでしまった。

悲痛。

声だけで胸が痛む。


花奏「大丈夫だよ、美月。周りに誰かいる?」


現状を知りたい。

その一心で美月に問う。

いくら大丈夫だと声をかけても

取り乱してしまった上対面じゃない以上

伝わらないことが多い。

そうとは知りつつも落ち着くようにと願って

言葉を投げかけてしまう。


美月『まわ、り、はっ…んずっ…み、んなぃっ…いる。』


花奏「みんなおるんやね?うん、分かったよ。」


自分の中で違和感が波打ちつつも

出来るだけ優しく言葉を渡す。

みんながいる事には安心した。

みんなとはいえ家族なのか

それとも梨菜や波流達なのか。

どちらにせよ誰かはいるという事。

…ならば。

ならばどうして美月に声をかけてあげないのか。

すぅ、と背筋が凍るも、

電話越しで何やらざわざわとした

とても濃度の薄い喧騒は聞こえた気がした。

どこか人の集まるところにいるのだろうか。

しかしそれもすぐに止んでしまう。


嫌な想像が駆け巡る。

何かあったんだっけ。

何か怖いんだっけ。

これは確実にドッキリなんて

生優しいものではないことくらい

とっくのとうに分かっている。

私にとっても美月にとっても。


用意が終わって玄関に立つ。

もう出ることはできる。

スマホはスピーカーを止め耳にあてて

がちゃっと鍵を開ける。

嫌な予感がする。

嫌な、とてつもなく嫌な。


花奏「今からそっち行くからね。…美月、みんなもどこに」


美月『ど、こ…………ょ……ぃ………。』


車が通ったからだろうか。

しっかり聞き取れなくて。

自分自身焦る気持ちが募ってか

乱雑に鍵を閉めていた。

かつんと勢いよく乾いた音。


花奏「ごめん、もう一回言ってほしい。」


美月『ぁ……びょ、ういん…病院っ…!』


花奏「…病院?」


美月『ぁぅ、ごめん花奏っ…ごめんなさいっ、ぁ…ぁ、あたしのせ、ぃでっ』


花奏「美月のせいじゃないよ、大丈夫だから。」


病院。

学校の近くにある大きなところだろうか。

大きいだけあって多くの患者さんが

そこに集まるからという理由だけで

その病院に的を絞った。

合っていなかったらまた連絡を…

でも、間に合わないとか…。

間に合わないって、なんだ。

何にだ。

私は、何かに間に合わなかったから

今こう思っているの?


巡って。

巡った先に。

ぱっと美月の声がしなくなった。


花奏「…!?美月、美月っ!」


『もしもし、花奏けぇ?』


花奏「……麗香…!」


麗香『…。』


麗香は何故か押し黙ってしまって。

奥から美月の嗚咽が聞こえてきた。

それにまた胸を抉られるような気持ちになる。

さっきの麗香の声だって

平然を保っているような雰囲気を醸しつつも

どこか喉の奥で引っかかるような、

そんな違和感が爪を立てる。

…違う。

違和感はそれだけじゃない。


花奏「ね、ねぇ、麗香教えて。」


聞いてはいけないと誰かが

どこかで警鐘を鳴らす。

聞こえてる。

聞こえてるんだよ。

でも、聞かなくちゃいけない気がして。

というより聞かないと納得ができなくて。


花奏「何が起こったの。」


麗香『……歩先輩が』


歩。

その言葉に、がむしゃらに

動かしていた足が止まる。

走っていた足が。

…ふと、どこに向かえばいいのか

分からなくなる。

横で車が通る。

横断歩道までもう少しだった。


麗香『…歩先輩が、亡くなった………っ。』


その言葉だけ。

それだけが大きく聞こえた。

はっきりと鮮明に聞こえた。

嫌なほど残響して聞こえた。


歩が、死んだ…?

死ん……。


…。

…。

…っ……。

…。

……死んだ。

…。

死ん、だ。

…。

…。

死んだんだ。

…。

そうだ。

…。

…。


…。

そ、うだ。

…そうだ。

そうだ。

そうだ。

そうだったじゃないか。

歩は今日、死んだんだ。

どうして今の今まで忘れていたの。

どうして思い出せなかった。

どうしていつも通りに、

前回と同じ通りに過ごしてしまったの。

どうして途中で気づけなかった。

どうして時々の違和感を放置した。

どうして、どうして。

どうして。


花奏「……はっ………は…。」


走った後だからかな。

呼吸が落ち着かず浅いところでぶれたまま。

だらんと垂れた腕。

その先に持ったままのスマホからは

麗香の呼ぶ声が聞こえた。

必死に叫ぶように私を呼んでるの。

けど。

…それを無視して電話を切った。

今は聞きたくない。

今は。


思い出した。

歩は今日亡くなった。

理由は交通事故。

私の家にまで来ようとしたところ

車が突っ込み美月を庇って轢かれたんだ。

そして気づけばお通夜は終わってて

私は思うがままに外をふらついて。

海に行って、図書館に行って、

そして廃れたマンションのような

建物へと足を運んで。

…そこで、変な機械があったんだ。

タイムマシン…だったのだろうか。


スマホを確認すると、

間違いなく11月12日の文字。

現に今、過去へ戻ってきている。

戻ってきているのだ。

そんなはずはない。

現実的じゃない。

嘘だ。

そう思っても、事実が口を塞いでくる。

これは現実だよって。

歩が生きる未来を。

…。

…やり直しが、出来る。

出来てしまう。


花奏「……戻、らなきゃ。」


私は踵を返し、病院に行くのは諦めた。

亡くなったともう断言されたのだ。

行っても、また認めたくなくて

逃げてくるだけ。

しない理由は探せば探すほど出てくるもので、

自分が心底嫌になりかけた。


確か歩が事故に遭ったのは

彼女の実家近くの横断歩道だった。

その近くに例の廃ビルは

あった記憶がある。

思えば事故のあった交差点とは

徒歩5分だか10分くらいしか

変わらないのではないだろうか。

今いる私の家からは

2駅行った先のところ。

走って駅まで行き、

前回とは違って意識のしっかりしたまま

不均衡な現実に揺られ動く。


花奏「…っ。」


待ってて。

私が歩を助けるから。

そう強く思うたび、

自分の手を握りしめてしまう。

爪が食い込むことに気が付けないまま

2駅の間はあっという間に埋まった。

履き慣れた学校用のスニーカーは

勢いよくコンクリートを蹴る。

細かな石らが飛ばされるも

そんなのはお構いなし。

今は行くべきところがあるのだ。


まだ夕暮れ、しかし夜も迫る頃。

遠くからは子供の遊ぶ声が聞こえる。

そうだ。

今日は土曜日だもの。

遊んでいる子供だって多々いたことだろう。


花奏「…ここだ。」


夕陽が私を責め立てる中、

私は目的地についていた。

昨日とは乗って来た電車の方向が違ったため

内心記憶を頼りに進むことには

不安があったが何とかたどり着けた。


ちらと周りを見回し、

邪魔が入らないことを確認する。

誰もいないと分かり、

素早く敷地内を移動した。

瓦礫の床を駆け、

ひび割れた階段を登った。

そして最上階で待つ、謎の機械。

舞っている虫の影。

相変わらずここにあったのだ。


…いつからあったのだろう。

いつからあるのだろう。

それは甚だ疑問ではあるものの

今は重要ではない。


花奏「……助ける。」


ひと言、決意を胸に

躊躇なく機械の中へと入る。

やはり『小津町花奏』の文字と

『01202211111025』の数字。


花奏「…?」


こんなに1って多かったっけ。

あれ、2が多いのか?

なんて微かな違和感を感じつつも、

私はすかさず白いボタンに

しっとりと手を這わせる。

手汗が酷かった。

乱れる呼吸を抑えつけようと圧迫するたび

より乱雑な塵が吐かれていった。


花奏「……っ。」


覚悟は決めた。

絶対に助けるんだ。

私だけに与えられた

この上ないチャンスなのだ。


一瞬の戸惑いと共に

白いボタンは沈んでいった。











花奏「…ほんま頭にくるな、これ…。」


ぴぴっ。

脇からその音が鳴ったのを確認してから

そうっと抜き出す。

38.6℃。

その数字が全てだった。

熱だ。

前回と全く変わりはない。

朝起きてみると明らかに普段とは違った

身体の怠さが感じられるのも一緒。

自分の体が思うように動かないのが

もどかしくて仕方がない。

手を動かすのさえ辛い。

それだって一緒だ。

このポテンシャルのまま

どうにかやり過ごすしかない。


花奏「…美月との買い物…行くか…。」


ふらふらとする体。

足に力を入れて支えるも

頭痛に舌を出される始末。

重力が何倍にもなって

私を食ってかかるようにのしかかっている。


昨日は全速力で走って

最寄り駅まで行ったものの

何も変えることができず

全身は絶え間なく雨に打たれていた。

鞄の中身なんて今はどうでもいい。

制服だって後でいい。

昨晩は胸がいっぱいで

ご飯は喉を通らなかった。

朝も体調のせいかお腹は空かず、

水すらも飲みたくなかった。

部屋の井草が心配するように

湿気った匂いを放り出すも、

今はありがたいとは思えなかった。


花奏「…は………はっ…。」


私1人だけがここにいた。

家にいた。

頭痛に頭を打たれ、

蹲りたくなりながらも洗面台に向かう。

髪を結い、出かける支度をするも

朝ごはんはやはり喉を通りそうにない。

電車の移動中で少しでも寝て、

体力を温存するようにしておこう。


手早く準備は済ませて、

美月との集合場所へと急いだ。

家にいると、それこそもう

起き上がって来れないような気がしたから。





***





美月「お待たせー…って、どうしたのよ!?」


花奏「あははー…なんか、ちょっと調子悪くてな。」


美月「ちょっとどころじゃないわよ!」


駅で待ち合わせ、

美月が私を見つけて走って来たや否や

すぐさまお咎めの言葉が刺さった。

美月は眉を下げ心配するような顔をしつつも

声を多少荒げて私を怒ってくれていた。

その事実にありがたいことだとは

分かっているものの、

今だけは少々きついものがある。


美月「今酷い顔してるわよ。」


花奏「あはは…分かっとるって。」


美月「分かってないからここに来てんでしょ。」


花奏「もー、大丈夫やってば。」


美月「大丈夫ってのは大丈夫じゃない人が言うものなのよ。」


花奏「そうかもしれんけど」


美月「体調が悪いのは仕方がないわ。延期しましょ、ね?」


花奏「ううん。」


美月「どうしてよ…?明らかに顔が白いじゃない。」


花奏「歩に渡すプレゼント買うんやろ?当日に祝いたいやん。」


美月「気持ちは分かるけど………分かったわ。当日は勿論祝う、けどプレゼントは後日また予定を合わせて買って渡す。それじゃ駄目?」


美月は冷静に妥協案を提案してくれた。

言いたいことはわかる。

分かるのだ。


だけど、美月は知らない。

今日起こるこれからのことを知らない。

もしもの話。

美月とこのまま夕方まで出かけたとして

歩と美月が会わなかったとする。

2人が会うことで歩くスピードが

変わっていたのならこのひとつだけで

歩は事故に遭わなくなるかもしれない。

どの可能性を拾うのか決めきれず、

あれがいいかも、

いやあっちの方がいいかもと

決めきれない私がいた。

このまま帰ると美月は歩に会うのだろうか。

それとも時間がずれたからそんなことは

なくなるのだろうか。


花奏「あのさ、美月。この後なんか用事あるん?」


美月「今はあたしが聞いてるんだけど?」


花奏「先答えてや。お願い。」


美月「用事…いいえ、今のところないわ。」


花奏「そうなんやな。」


ってことはほんとに偶々

美月が家を出て帰るタイミングで

歩と会ったっていうことだろう。

その偶然をずらせたなら

どれほどいいことか。


美月「ええ。だから今日は一旦解散しましょ。不安だし家までついていくわ。」


花奏「ううん。近いからってそんなええよ。」


美月に迷惑かけるわけにはいかない。

こういう場面になってよく思うが、

美月は判断力に優れていると感じる。

ふと美月と目が合う。

思い出すのは棺にしがみつき

声を上げて悲痛なまでに泣く姿。

電話の時の動揺と痛いくらいの謝罪の言葉。


美月「…ねぇ、花奏。」


美月はひと呼吸置いて、

私を諭すように静かに呼んだ。

しと。

雨が降ったような気がしたの。


美月「あなた、自分のことをもう少し大事になさい?」


花奏「自分を…。」


美月「そう。こうしなくちゃいけないなんて事は世の中そんなにないのよ。自分で作ってるだけ。」


花奏「…。」


そ……っか。

心の中で呟きを落とす。

…分かった。

きっと彼女は了承してくれず、

どれだけ願い出ても却下される。

出かけるには確実に私の体調が

万全でなくては進まない。

今までよくまともに話せていたなと

嘲り笑うように頭痛が酷くなる。

すぐ真横の壁に凭れるも

頭痛や怠さはなくなる事はなかった。

さっと私の肩や脇の下に手が入り、

支えるように圧を感じる。

…紛れもなく美月だった。


美月「ほら見なさい。こんなんじゃ歩けだってしないでしょ。」


花奏「…でも」


美月「でももだけども駄目。きつい言い方しなきゃ分かってくれない?」


花奏「…っ。」


もうひと押し、と思ったが

反発力が大きくなるだけで

なんら効果はなかった。

美月に言いくるめられ、

結果美月は私の家まで同伴し

今日は解散する流れとなった。

電車で並んで座るも

寝ることが出来ないほど辛い。

頭痛のせいかな。


美月は私に一切喋りかけることなく、

一切何かを問うわけでもなく

読書に耽っていた。

ゆらゆらと揺れるのが

更に追い討ちをかけてくる。

手をぐっと握りしめるも

痛みは和らがなかった。

ゆるりと揺れる互いの髪の毛は

擽ったさを誘う前に

嫌悪感を誘ってきていた。





***





電車を降り改札から出てすぐ、

美月は私の手を握った。

何の意図があるのかわからなかったが

それを考えれるほど余裕はなく、

覚束ない足取りで家路を辿る。


美月「こっちで合ってるわよね?」


花奏「…うん。」


美月の方が身長はだいぶ小さいから

側から見れば妹に連れられる姉のように

見られることだろう。

彼女は私の手を引き、

一刻でも早く且つ安全に

私の家まで行こうとしているのを感じた。

真剣そのもの。

まるで私の命がかかってるみたいに。

そんな大袈裟な。

どうしてここまでしてくれるんだろう。

前回の梨菜といい、

今回の美月といい。

どうして。


余念ばかり過っていると

突如として私の家が見えた。

今まで下を向いていたのかな。

美月に肩を優しく叩かれてふと我に返ったの。


美月「辛くない?着いたわよ。」


花奏「ありがとうな。…じゃあここで。」


美月「ええ。また何かあったらすぐ呼びなさいよ。」


花奏「うん。…態々送ってもらったんに何も出来んくてごめんな。」


美月「いいのよ。花奏の風邪が治るんならそれで。」


困った人、と言うように

肩をすくめて笑っていた。

ああ、本当に迷惑とも何とも

思っていないんだろうなって、

さっきの言葉は本心だろうなって感じて

心底安心できた。

大丈夫だって何となく分かった。


それから美月を見送ってから

家に入ろうと思ったが

それは美月が許してくれなくて、

先に家に入ることになった。

戸を閉める間際、

美月とまたねなんて言い合って。

これで変わったんじゃないかと

淡い期待を抱いてしまう。

何も変わっていないはずなのに

変わったはずだと信じたくなった。


髪だけ雑に解いて髪ゴムをその辺に放る。

閑静な時間に背を委ね布団に入ると、

みるみるうちにあたりが暗くなってゆく。

頭痛がする。

体は怠いし熱い気もする。

熱、朝何度あったんだっけ。

もう…覚えてなー





***





ぴーんぽーん。

遠くから私を呼ぶのはそんな音。

突如ひやっと背筋が凍り体温が下がる。

そして一気にどっどっと

心臓が鳴り出し血液は廻る。

ふらふらとよたつく足元には

頼りない床の軋む声。

梨菜だ。

前回通りだとこの時間、

午後の2時半頃…梨菜が来る。


花奏「……はーい。」


精一杯の明るい声なんて今は作れなくて。

真相を知ってしまったかのような

野太い声が出てしまう。

咳払いを数回して戸を開けた。


梨菜「わ、大丈夫!?」


花奏「そう、よな。」


梨菜「ん…?」


花奏「いや、こっちの話や。」


梨菜「そっか。…ならいいんだけど。」


そこにはいたのは彼女と

高くに登ったままの陽だった。

梨菜は決まって袋を持っており、

それを丁寧に前へ突き出した。


梨菜「これどうぞ。プリンとかゼリーとか食べやすいもの入ってるから。」


花奏「助かるわ。態々ありがとうな。」


かさかさと乾いた音をたて

手元でしっかりと皺に引っ付くビニール袋。

ビニール袋でさえお金がかかるのに…

態々申し訳ないという気持ちが募ってくる。

一先ず左腕にかけ、

梨菜との途中で

止まっていた会話へと再参加する。


梨菜「んーん、全然いいんだよ。私も偶々ここらへんにいてさ。せっかくならお見舞いに行こうって思って。」


花奏「そういや誰から私が体調悪いって聞いたん?」


そこだ。

今まで不明だった点の1つ。

何故梨菜が私の体調不良について

知っているのか。

きっと朝の段階では美月しか知らないはず。

となると美月からのルーツで

情報は流れているのだろうとは

大まかに予想できるが…。


梨菜「美月ちゃんだよ。Twitterで呟いてたの。花奏ちゃんが体調悪かったのに無理してたみたいなこと言ってたんだ。」


花奏「そうなんか。…美月には迷惑かけたな。」


梨菜「すごい心配してたよ。」


花奏「うん…そうよな。」


梨菜「それでね、美月ちゃん予定が急遽入っちゃったらしくて。本当はそれ、美月ちゃんが渡す予定だったんだ。」


花奏「…え?」


梨菜「…?どうかした?」


美月に急遽予定が入った。

その言葉が引っかかった。

その予定のせいで美月と歩は

出会ってしまうんじゃないか。

しかし、前回とは少しは違う。

前回の美月の外出理由は分からないけれど

今回とは訳違う可能性だってあるのだ。

そう。

前回の彼女に外出の訳を

聞くことなどもうできない。

全く同じ事を繰り返せば

知る事はできるだろうが、

そのために歩に苦しい思いをさせるのは

本望ではない。


花奏「今、美月ってどこにおるん。」


梨菜「それは私も分からないの。」


花奏「そう…やんな。」


梨菜「連絡してみる?」


花奏「え?」


その手があった。

あった…んだけれど、

美月の用事が何か分からない以上

連絡してしまっては申し訳ないという

考えが湧いてしまっては止まらない。

こういうところ、判断力が鈍いのだ。


花奏「ううん。ええよ。」


梨菜「そう?何だか深刻そうだったから。」


花奏「大丈夫や。それよりありがとな、梨菜。」


梨菜「全然。近くにいたしね!」


花奏「あはは、頼り甲斐あるわ。」


こんなに笑顔で蕩けているけれど

前までの梨菜を見ていたから

頼り甲斐があるように見えた。

しっかり姉なんだなってしみじみと。


…そういえば。

前回私の部屋にまで送ってくれた梨菜は

そのまま帰ったのだろうか。

鍵を開け放して。

けれど、美月からの電話の後鍵を開けて

家を出て行ったような覚えはある。

その時…梨菜はどこにいたんだろうか。

なんてことを思ったけれど、

遂に頭痛が悲鳴を上げる。

ずきずきと巣食う痛みは

くると分かっていても耐え難かった。


花奏「…う…。」


梨菜「大丈夫!?もう寝て花奏ちゃん。」


花奏「…うん、そうするわ。本当ありがとうな。」


そう断りを入れると、

梨菜はするりと玄関から出て

真っ直ぐこちらを向いた。

ここも違うんだって漠然と思う。

何が作用してこうなったんだろう?

私が今ここで大きくふらつかなかったから?

それが有力だろうけど…

…ああ、もう頭が回らないや。


花奏「じゃあね、また。」


梨菜「うん!お邪魔しました!」


丁寧に1つ小さくお辞儀をし、

梨菜はその場を去っていった。

かちり。

締め出すように戸の鍵を締め、

再度布団へ戻る。

スマホは充電器に繋ぎ、

アラームを大体3時半頃に設定した。

確か4時半頃に例の事件が起きたはず。

早めに交差点に着いて

張っていれば必ず会えるだろうと踏んでいた。

結局のところ、事故の目前で

止めることになりそうだった。


花奏「…っ。」


頭痛が止まない。

この風邪において1番の敵は

もしかしたら熱でも怠さでもなく

頭痛なのかもしれない。

…そう過った時にはもうー





***





花奏「はっ…!?」


突如として視界が開けるも、

またどっどっと心臓が煩くなり続ける。

寝坊した時の感覚に似ている。


今何時だ。

アラームは鳴ったのか。

記憶の限りだと鳴っていないけれど

どうなのだろうか。

幾分か辛さのなくなった体は

震えてながらスマホに手を伸ばす。

すっと映された白い数字。


『15:58』


花奏「…っ!?」


まずい。

3時半には起きているはずが

予定は大きく狂い4時の方が近くなっていた。

冷や汗がどっと出て、

脳内ではどうしよう、どうしようの繰り返し。

髪を縛る間もなく鍵を開け放して

家から飛び出ていたと分かったのは

電車の音が耳に届いてからだった。

スマホも持たず定期だけ持って

電車に飛ぶように乗った。


たった2駅だが、気が気でなく

いつもよりずっと長い間

乗っているような錯覚に陥る。

1時間は経ったのではないか、

なんて思ってしまうほどに。

こんな時、時間が止まったら

どれほどいいことか。

空想にまで手を出したところで

電車は遂に目的の駅に止まった。


前回の記憶を頼りにタイムマシンのある

廃墟の方へ向かう。

そのまま真っ直ぐ進めば

確か交差点があった。

…思えば、だ。

交差点なんて幾つもあるのだ。

その事実に今気がついてしまい、

走っている汗に加え気持ちの悪い滴が

顎や背中をつうっと伝う。

間に合わないんじゃないか。

そんな不安が心臓をこれでもかと言うほど

早く早く鼓動させる。


花奏「…嫌や…歩っ……!」


廃墟が見えた。

ここから歩の実家や美月の家が

ある方向へー


そう。

…。

そう、足を踏み切った時。


ぎー………が…っ…。


…遠く遠くで轟音をかき鳴らし

鈍い音を纏う何か。

…。

…いや、きっと違う。

違う。

違うはずなんだ。


直後、叫び声が耳に届く。

想像を絶するような金切り声。

何かを失ったような、そんな音。

嘘。

嘘だ。

嘘であってくれ。

お願い。

一生のお願いだ。

お願い。

歩を、助けて。


この性格の悪い轟音に

歩や美月は関わっていない事を願いながら

1歩1歩着実に近づいてゆく。

野次馬が増えてゆく。

進むたびに、だんだんと。


「もしもし。…はい。……救急ですー」


電話をしている人がいた。

警察に、だろうか。

頭は考えるのをやめてしまったらしく、

ただ見たりスマホを構えたりするだけの

人間らをかき分けて進んでく。

住宅街の中で少しだけ大きな交差点。

周りの家から出てきたのか、

エプロンをつけたままの女性や

学校から帰ってすぐのの高校生、

飾らない普段着の男性など様々。

皆の視線の先。


花奏「……っ!?」


頭の凹んだ車。

凄惨な赤。

急ブレーキの後。

咲いた肉片。

転がったままの人体。

ぼさぼさの髪。

泣きつく女の子。


関節は変な方向に曲がってた。

遠くからでもわかる。

肘だか膝だかが逆の方向に曲がってた。


花奏「………あ……………ゆ…?」


喉の奥が痰でくっつき

うまく呼吸ができない。

言葉だってあり得ないほど掠れている。

呟きは形にもならずガヤに掻き消された。


1歩。

また、1歩。


彼女の元へ。


ぱっ、と。

不意に腕を掴まれた。

腕を引かれた。

異常な止めようにふらりとよたつくも

足を地につけ、血につけ耐える。


「ちょっと、近づかないほうが」


花奏「やめて…!」


腕に精一杯、今入る力全てを使い

気味悪い手を振り解く。

知らない人に触られるのは

何故か今だけは気持ち悪くて仕方なかった。

それ以上に邪魔をするなと言う

怒りか何かが込み上げてきていた。


掠れてひと言さえ出なかった癖に

今だけこんなにはっきりと憎く出るの。

私の声がきっかけだろうか。

美月が、泣きついていた美月が

ばっとこちらを振り返る。


美月「か……かな、か…なでっ…!」


花奏「…っ。」


美月「歩が、わ、私のせいで…歩がっ!」


彼女の、未だに真実を受け入れられない顔。

そして美月が動いた事で

より顕に見えてしまった、歩自身。


歩。

これが歩だって言うの…?

歩…?


花奏「歩…?」


歩「………………ぁ…。」


花奏「……どう、し…たの…?」


受け入れられない。

こんな現実、嘘だ。

受け入れたくない。

それは私だっておんなじだよ。

こんな、な、の。

信じたく、ない。


右半身が酷く損傷していて、

流血が何処からかわからないが止まらない。

無意識か否か、口がぱくぱくと動いている。

余った左手を。

彼女の目の前に立って

縋り泣くこともできず見下ろすように

突っ立ったままの私に

歩、は。

歩は、左手を伸ばしていた。

かくかくと痙攣させながら。

粘度の低い液体をびっしりと塗ったくって。

擦り傷だらけの指で。

届かないのに、私へと。


花奏「…ぁ……あ…ゆ……っ…歩、歩っ!」


現実…だ。

現実か…?

分からない。

判断のつかないまま、

歩がまだ生きている事が

その時漸く頭に流れてきて。

急いで駆け寄り膝をつく。

彼女の前で。

昨日までの面影はなく

あるのは惨い情景だけ。


伸ばされたその手をしっかりと握る。

擦り傷は痛むだろう。

けど、けど、それ以上に

今逃してしまったらもう会えない気がした。

離さない。

絶対、この手は離さない。

血、だろうか。

ズボンに染み込んで膝に違和感を感じる。

甘い水音が耳を轢いてゆく。


歩「………ぁ…………ぁ…ぇ…………ぁ…」


花奏「何、歩、歩っ!…分かる?私やで、花奏やで?」


歩「……………ぃ…」


花奏「歩、大丈夫やから。すぐ救急車、きてくれるからっ!」


手をぎゅっと握る。

辛そうな顔なのは変わらない。

かひゅー、ひゅー…と息が聞こえる。

虫の息。

…そんな言葉が頭を過る。

焦点は合っていないし、

目は撥ねられた時の衝撃か否か

真っ赤に充血してる。

きっと見えてないんだ。

ここだよ。

ここにいるよ。

歩。

いるよ。


大丈夫。

助かる。

きっと。

大丈夫。

大丈夫だよ。


何度も何度も彼女へ言葉を送り続ける。

しかし、段々と歩からの

聞き取れない掠れた言葉さえ

なくなっていった。

1分も経ってない、と思う。

送っても返ってこなくなる感覚は

いつかの時…前回より前の時、

歩がいなくなって以後

LINEしたり電話したりした時の感覚に

異常なほどにそっくりだった。

恐怖が背中をよじ登る。

あの時の孤独感が、怖い。

怖い。

失いたくない。


握っている手が徐々に体温を手放していく。

もう、私よりも冷たいのではと思うほど。


歩「…………」


美月「歩っ!目を覚まして、歩っ!」


花奏「…っ!」


美月が歩の頬に手を添えた時だった。

だらん、と。

私の手中から冷たい異物は落ちていった。

するり。

ちた。

落ちた先はどす黒い水溜まりで。

私はその中に座り込んでいたのか、と

客観視できない私が言った。

擦り傷の目立つ左手は

みるみるうちに黒く染まってく。

ふと。

自分の手のひらを見ると

皺にくっついた命の抜け殻。

ぬめぬめする。

まだ、生きて…る…

…と、信じたい。

のに。


花奏「……。」


美月「歩っ!歩…歩っ…うあああぁぁああっ…!」


ああ。

…駄目、だったと。

直感がそう告げた。


花奏「起きてよ、歩。歩っ…歩、起きてや…。」


床に落ちた手を拾い上げ、

再度ぎゅっと強く握る。

骨が軋む音が聞こえるのでは

ないかというほどに。

冷たくなってゆく。

どれだけ私が温めても全然暖かくならない。

ならない。

…。

もう、手遅れ…だ。

嫌なほど現実が見えてしまっている。

予測して…否、知ってしまっているが故に

今…歩がいなくなったことを

認めかけてる自分がいる。


助けられなかった。

私がもうちょっと早くここに来てたら。

私が美月との約束を強行できていたら。

私が歩の帰省を止められていたなら。

後悔ばかり。

後悔のみの海で息継ぎすらできない。

涙は歩が息絶えたと感じた瞬間、

堰を切ったようにぼろぼろと溢れ出した。

透明は赤に混じるも

すぐ赤に染まって見えなくなった。


ごめん。

ごめんな。

痛いよな。

痛かったよな。

辛かったよな。

ごめんな。

ごめん、歩。

歩。

助けてあげられなくて、ごめんな。


びっこをひきながら

ひとつひとつ彼女に手渡してく。

言葉はもう、届かないのに。

決心がつかない。

ここを離れる決心が、できない。


美月「私のせ、いで…歩っ…ごめん、なっさい…ごめ……なさいっ…!」


美月のせいじゃない。

違うんだよ。

そう声をかけてあげれなかったのは

私の卑怯な性格のせいだろうか。

声をあげてなく彼女を慰めもできず

声をあげなくなった彼女を

救うこともできなかった。


それから救急車が来て

あたりが落ち着きを取り戻したかのような

仮面を被ったのは15分か30分くらい

経ったかどうかの頃。

救急車が来る音を察知して、

名残惜しいがずっと握っていた手を離す。

冷たい。

手を離しても外気温が

私を刺すように冷やしてくる。

美月はまだ大粒の涙を流しながら

もう動かない歩に縋っていた。


花奏「………ごめん。」


ひと言置き去りにして

その場を後にする。

逃げてきたようで吐き気がする。

美月も歩も全て置いてきて

私だけ助かろうとしているようで

気持ち悪くて仕方がない。

けれど。

…けど、戻らなきゃ。

こんな未来、あっちゃ駄目だ。

駄目だ。

服は血みどろのまま、

多少減った野次馬の間を抜け

一気に廃墟へとひた走る。


骨が悲鳴を上げている。

心臓が咽せている。

血液が足掻いている。

私は、生きてしまってる。


足がもう動かないと思っても

無理矢理動かし続けて、

心臓が変な動きをしていても

ひたすらに走り続けた。

廃墟が見えてすぐ人目を気にする間も無く

中に入り階段を駆け上がる。


花奏「い゛っ…。」


中途、階段で躓き脛を擦りむいた。

ズボンで見えないがそんな気がする。

ズボン自体紅色塗れで

血が出ているかどうかさえも確認できない。

けれど、こんな痛み

歩に比べたら比でもない。

こんなの、歩の痛みと比べたら何とでもない。

また足の裏に力を入れ

ひび割れた階段を蹴り上げる。


靴裏が最上階の床を叩いた。

もう、陽は沈みかけている。

赤を纏った奇妙な機械は

今回もここにあってくれた。


花奏「…助ける。」


絶対に。

絶対に助ける。

歩を、あんな目に遭わせない。

絶対。


初めて歩が死ぬ瞬間を目の当たりにして、

私の中の覚悟や決意は

今までにないほど煮え滾っていた。

周辺にある数字や文字には目がいかず。

悩んでる場合じゃない。

そんな時間、とうにない。


白いボタンを迷いもなく押した。

助けるため。

あなたの未来を守るため。











花奏「…何で…。」


ぴぴっ。

脇からその音が鳴ったのを確認してから

そうっと抜き出す。

37.7℃。

熱だ。

けど前より低い気がする。

前回は38℃は上回っていた記憶がある。

朝起きてみると明らかに普段とは違った

身体の怠さが感じられるのは一緒だが

前よりか幾分も調子はいい。

手を動かすのさえ多少は平気。

熱であることには変わりはないけれど

今までの苦痛を思えば軽いもんだった。


花奏「…雨に少しでもあたったら駄目なんやろうな。」


ぽつり。

雨かと思うほど細い呟きは

朽ちた家をつんと注射針のように刺す。

…が、勿論何も起こらない。

誰もいない、また私だけの時間。


夜ご飯や朝ごはんは

今までの周期より

微々たる程度だけど多く取れた。

きっと湊のおかげだろう。

昨日はお風呂もさっさと済ませ

美月からの連絡に明日は予定があるから

難しいと返事をしたあとすぐに床についた。


今日は何にもない。

そんな、周期。


今まで何回繰り返したんだっけ。

想起してみるも苦い記憶ばかり蘇る。

1回目は何も知らず、

2回目で思い出して

3回目で目の当たりにした。

もしかしたら私が

1回目だと思っている出来事は

実はさらに過去に繰り返されていた

なんてこともあり得てしまう。

そう考えるとぞっとする。

今までずっと忘れたまま

私は11月11日と12日を

繰り返していたのだろうか。


花奏「…大丈夫。」


また1つ、自分に声をかけるも

帰ってくるのは浅い呼吸だけだった。

きい、と家が鳴る。

古臭い匂いが鼻をつつく。

いつもと変わらないはずなのに

いつもとは全く違って

不気味に見えてくる。


花奏「…歩…を、止めな…。」


思考を口にするも、

どうすれば?が次に出てくる。

純粋に帰省を止めれば

済む話…だと思いたい。

昨日の今日で連絡をするのは

憚られる気が十二分にするけど、

それ以上に来て欲しい明日がある。

意を決して今までより断然軽い体で

歩へと文字を伝った。


か、と。

キッチンの方で乾いた音が歌声を上げた。


花奏『歩、今日予定ある?』


いきなり

「今日実家に帰るんでしょ?やめてほしい」

なんて言ったら

そもそもなんでその情報を知ってるの?

…となるのがオチだ。

数分考えた結果

この声かけが無難かもしれないと考えた。

数日前に、実家に帰ると

耳にしていたことなんて抜け落ちていると

気づけなかったのだ。


花奏「…そっか。すぐに返ってくるなんて保証ないわな。」


当たり前だ。

人それぞれ生活にはペースがある。

それを知っているはずなのに

今は焦りという化け物が

口を大きく開けているせいで

早く早くと希っていた。


…数分経っても通知ひとつ来ず、

すぐに話すことは無理だと

諦めの気持ちが過りだす。


花奏「…水……飲んで1回寝る…か…。」


いくら前回までと比べ体調はマシにしろ

熱があるといえば大いにあるのだ。

感覚の麻痺、慣れ。

私の好きではない言葉達が

脳細胞と戯れている。

嫌だな、と遠巻きに眺めて思うほど。


キッチンへ行くと、また

…か、と……。

…と音がする。

よくよく見てみれば錆びた蛇口から

1滴1滴絞り出すように

透明が流れ出ていた。

涙みたいに、ただ深々と。

きゅっと音が鳴るまで締めると

漸く涙は落ちなくなって。


花奏「…。」


大丈夫。

もう1度確と念じて

布団に潜りいつもの匂いに包まれた。





***





花奏「…。」


…。

…。

朝…。

…じゃ、ないか。

…昼、かな。

………どう、だろ。


時計を探し求めて手を伸ばすと

ぶつかったのは結局スマホ。

『11:35』。

そう、自信をありありと見せつけるように

主張してくる電子機器。


今回は時間を越さなかった。

それに1番安心出来た。

前のように過ぎてしまったら、

また守れなかったら、

またあの無惨な情景を

見なければならないのか。


いいや。

大丈夫。

今回で助ける。

助ける準場は整わせる。


思えば今回の場合

梨菜は私の家にくるんだろうか。

確か美月からTwitter伝に

梨菜まで届いたんじゃなかったっけ。

今回は美月との予定は

日程が合わないという理由で断ったし

熱が出たとTwitterで報告さえしていない。


花奏「…梨菜…来ん……やろう、な。」


寝起き声、掠れに掠れ

喉奥のがらがらした粒が吐き出される。

ふつ。

…スマホは息耐えたかのように

真っ暗に染まっていた。

あ、と思い再度起こしてやる。

そのままLINEを送っていたのを思い出し

急いでアプリを開いてみると、

歩の名前の横に赤いマークがついていた。

見てくれたんだ。

よかった。

返信時間を見てみれば

幸いにもついさっき。

10分程前の時間が表示されている。


花奏「…!」


歩『実家帰る』


絵文字も顔文字もびっくりマークさえ

使わないのは歩の特徴とも言えた。

部分部分でああ、歩だと実感しながら、

共に嫌悪に陥りながら

何とか返信を返す。

返事を送るだけで

息が切れるような麻痺。

恐怖、からだろうか。


花奏『今日実家に帰るのやめてくれへん?』


単刀直入に。

…それだけ。

迷っても迷っても、

気味悪く引き伸ばすよりは

要件をすぐに伝えた方がいいと判断してた。

歩なら、きっとそうだって予測して。

…否。

決めつけて、かな。


ととんととん。

送って直後にそんな機械音。


花奏「え…?」


歩『何で?』


そりゃそうよな。

自己完結している自分がいる。


爆速の疑問が投げかけられた。

そりゃそうだ。

私だって来週月曜日学校に行くななんて

言われたら何故と問わずにはいられない。

しかも理由を言えないなんて言われたら

尚更不信感を抱くもの。


理由、か。

率直に「歩が死ぬから」なんて言ったら

頭がおかしいと思われて終わりだろうし

何より気分が良くない。

不快感しかない。

自分が死ぬなんて理由、

嘘にしか聞こえないし

逆にはいそうですかなんて受け入れる人なんて

いないに等しいだろう。

どう切り返すか悩んでいると、

続けてととんと軽く響く。


歩『文字打つのだるいから電話かけていい?』


ばく、と1つ大きく心臓が動く。

どうしよう、どうすればいい。

それ以上にどうすべきか、と心が問う。

…助ける為。

あなたを、歩を救う為。

それなら答えは出てるんだ。

最初から選択肢なんてないんだ。


花奏『そうしよか』


歩『かけるよ』


既読とついてすぐ文字が投げられ、

今度はすぐに電話の通知が投げられた。

てん、てんてんてんてれれんてんー…


…ワンコール待ったあと、

決意を固め受話器を取るボタンに触れたのだ。

あのタイムマシンの白いボタンを

初めて押した時のような緊張感。

心臓の鼓動が聞こえるほどに

感情に押しつぶされそうになっていた。


歩『もしもし?』


花奏「お。聞こえてんで。」


歩『そう。よかった。』


歩はまだ家の中なのか、

騒々しい風の音や隊列を乱した車の音は

全く聞こえはしなかった。

次の言葉に詰まる。

焦りや不安と言った黒い感情だけが

雪のように積もってく。

口を開くも音を出せないでいると

機械を通して彼女の声が届いた。


歩『何かあった?』


花奏「…いや、なんもないで。」


歩『ふうん。』


花奏「…。」


歩『何で実家帰らないで欲しいの?』


花奏「えっと…それは…。」


歩『…。』


花奏「…ごめん、言えんくて。」


歩『あんたさ、昨日から歯切れ悪いし挙動不審だよね。』


花奏「そうかいや?」


歩『…はぁ。』


ため息1つ、耳元で伝う。

こそばゆさはなく、

不満がダイレクトに届くから

背筋がきゅうと縮まる思いがした。


歩『あんたが聞かれなきゃ答えないようなやつって事は分かってるんだけどさ、聞いても答えないならどうしようもないよ。』


花奏「…答えれへんこともあるんよ。」


歩『無理矢理はどこまでも通用しないから。』


花奏「歩にだって予定があるのは分かってる。それでも」


歩『それでも、言うことを聞けと?』


花奏「そんな上から言ってるんやないよ。」


歩『やんわり言ってくれてはいるけど同じ内容だからね?』


花奏「…っ。」


歩『ただただ今日の帰省を辞めろって話?』


花奏「そう。そういうことや。」


歩『へぇ。これから会えとかそういうのじゃなく?』


花奏「うん。」


歩『なにそれ、小津町らしくない。』


花奏「逆に帰省やめて会えって内容やったら私らしいんかいや。」


歩『多少は。でも他の予定を退けてまでそんなことするような人ではなさそうって思ってたけど?』


歩は多分怒ってるんだと思う。

淡々としたいつもの喋り口調に

呆れや何かそう言ったものが

乗っているような感じがした。


歩『あのさ、いくらなんでも無理なことはあるから。』


花奏「私やって引けんのや。」


歩『なら納得できる理由が欲しい。』


花奏「それは言えん…。」


適当に嘘でもついておけばいいものを、

言えないの一点張りで

通そうとする正直さには

自分でも反吐が出るほど呆れていた。

素直さなんて、短所にしかならない。

…なんて、今更か。


暫くはこの会話の攻防が続いたが

結局平行線のまま時間は経った。

歩も私も共に引けないまま。

歩にとって今回の帰省は

何かしら時間の制約があるらしく、

例の時間以外では出れないようで。

予想はつく。

だって、もうすぐ誕生日でしょ?

歩は家族を大切にしてるし

ご家族の方だって歩を大切にしているのが

ひと目見てとまでは言い難いが分かる。

多分だけれど、何処か店を予約してるとか

そういったことだろうと思う。

だから時間の融通はあまりきかないんだと。


歩『いい加減にしてくれない?』


平行線のまま話し合いをして

…否、話し合いにすらならず

お互い同じことを一方的に言っているだけの

拙い時間がずっと流れた。

どう頑張ってもお互い同じ事しか

出てこないの。

それに痺れを切らした歩は

声荒らげにそう啖呵を切った。


花奏「それは」


歩『なんか理由があるんだろうと思えば言えないの一点張りでしょ。』


花奏「だってそうとしかー」


歩『もう勝手にして。』


とつ。

まただ。

雨のような短い音。

そして途切れる息の音。

つー、つー。

時間にして大体5分から10分くらいの

短いものだったけれど

会話というにはあまりにも幼稚で。

…歩と話している中で初めて

楽しいとかそう言ったことを

何も感じなかった。


花奏「…。」


自分の熱で微量ながらに

温まったスマホを胸元に抱き寄せる。

あーあ。

…。


花奏「…喧嘩がしたかったわけやないのに。」


違うのに。

どうしてこうなるの。


…でもまだ。

まだ私にはやらなきゃいけないことがある。

苦い思いをしながらも

支度を整え出す。

かと言って例の時間は4時頃だったはずだから

まだ時間には余裕があるも

心は落ち着かないまま。


訳もなくお母さんの前に座って

じっとその顔を眺む。


花奏「…。」


また、大事な人をなくさないように。

なくさないことが可能なら

出来ることは何だってしたい。


また拳を握りしめていた。

爪が手のひらに食い込んで

深く深く跡を残したの。





***





花奏「…そろそろ行かな。」


電話後そのままじっとしていた時間が長く、

ただ机に向かっていた。

勉強をするわけでもなく、

何かメモを見るわけでもなく

時間を潰していた。

そこから何かを得る事はなく、

無意味に生きて。


花奏「…。」


定期券だけを持ち、電車に乗る。

前回ほど体調は酷くなかったからか

昼間は寝なくても何とか動ける程。

前回どれだけ酷かったんだと

自嘲するも何故だろう、

疲れてしまって笑いにすらならない。


2駅進み電車を降りて

廃墟のそばを通り交差点へと向かう。

きっと今の周期のままなら

美月と歩は出会って

話しながらくるんだろう。

ある程度予測は経つものの

ある未来を変えられる予測までは

脳内でちゃんと立てられない。

救える未来が見えない。

…後ろ向き、過ぎるか。


背を向き逃げようとばかりする自分を

押さえつけて現実を見せる。

このことを何度繰り返したことか。


花奏「…。」


例の交差点に着き、

近くのアパートの壁に背を寄せた。


何もない時間こそ考え事ばかり巡る。

嫌な妄想、嫌な現実ばかり

私の周りを取り巻き踊る。

足掻いても足掻いてもそこからは出れずに

しゃがみ込みながら奮い立たせるの。

大丈夫。

大丈夫だって。

…そんな惨めなことをずっと。


「…………………ょ………。」


「………………ぁー………………。」


…。

…いつの間にか目を閉じていたらしい。

ふと耳に届く話し声。

顔を上げると、見知らぬ女子学生が

体操服のまま帰路についていた。


花奏「……そんな時間…よな…。」


今、何時だろうか。

それを確認しようと

ポケットに手を伸ばすも

定期以外持ってきていないことに気がついた。

今回は前回と違って余裕があったんだから

持ってこればよかったのに。


花奏「………失敗したな…。」


「………ゃ……ぃ…?」


「…………?」


また遠くから声が聞こえる。

部活が終わって一斉に帰る時間なんかな。

そう思うと微笑ましい気がしてー


歩「なんでここに小津町がいるわけ。」


花奏「…っ!?」


美月「え、ちょっと…歩…?」


歩「なんで。」


突如として彼女の声が耳を劈くものだから

目を見開くも一瞬思考が停止した。

どうして。

…どうして。

問いが脳内を反芻するも

驚きのあまり口をぱくぱくと開くだけで

まともに音が出てくれなかった。


歩はというと不愉快オーラを全面に出していて

それに対し美月は状況が飲み込めずに

珍しくわたわたと取り乱していた。

…美月を見るに

歩は私との電話の内容を

話していなかったのだろうか…?

歩の背負う大きめのリュックは

風が流れてもびくともしなくて。


花奏「理由は言えへんって。」


歩「別に私と会うためとかじゃないんでしょ?何なの、付き纏う真似までして。」


花奏「少しでいいからここでー」


歩「さっさとどっかいって。」


美月「ちょっと歩、その態度は失礼じゃない!」


花奏「歩、待って!」


歩「…。」


歩は私の話を1ミリたりとも受け入れてくれず

マンションを抜けた先へと

進んでしまう彼女。

美月はというと歩に叱りながら

置いていかれないように隣へくっついて。

駄目。

行ったら駄目。

その一心で歩の腕を掴む。

離さないように、って。

長袖。

温く体温が伝う。


花奏「歩っ!」


歩「やめてっ!」


花奏「お願い待って!」


美月「少しくらい話を聞きましょ?理不尽だわ。」


歩「理不尽なのはどっち。」


きっ…と私を睨む視線は

完全に敵対心に燃えていて。

こうしたかったわけじゃないのに。

そう過っては不安が押し寄せる。

この後起こるであろう出来事が

口を開けて待っているのが見える。


車がいくつか通る中、

信号はふと緑へ変わった。

いつだ。

いつのタイミングだっけ。


花奏「少しでいい、聞い」


歩「煩い、離せって。」


焦りか否か。

無理矢理彼女を引き寄せた。

が、歩は足にこれでもかと力を入れて

私の掴む腕を掴み返す。

わたわたしている美月の姿は

もうほとんど視界には入ってこなかった。


花奏「ぐ…っ。」


みし。

爪が食い込む音がした。

本気で嫌がっているのは

何度か見たことあるが

ここまでじゃなかっただろう。

痛さが故反射的に離してしまった。

反射的に手が離れる。

離れー

まだ真っ青に顔を染めた信号が目に入った。


反動。

反動で。


美月「…っ!?歩危ないっ!」


歩「えっ…ー」


ぎいぃぃぃぃいっていう異質な音。

自分の息が脳いっぱいに広がって

音がほとんど聞こえなくなる。

視界がほんの少しずれる。

…。

…え……?


何かを叫んだと思う誰かの声と

ぎいぃぃぃぃいっていう…音の残骸。

それから、がしゃあという

何かに当たった音。

少し経って、鈍くぶつかる重い音。


音。

…あぁ、音。

聞こえてる。

…よね…?


美月「…ぁ…歩っ!」


花奏「………………ぇ…?」


美月「歩っ!しっかりして、歩うぅっ!」


身長の小さい美月は四肢を目一杯動かして

ぐしゃぐしゃに絡まった何かへ

一直線に走っていく。

今。

…今、何が起こった…?


…私、

私、何をしでかした……?

私、今、何をした…?


花奏「ぁ……ぇっ…あ、ゆ…。」


息を十分に吸っていないせいで

息継ぎを挟みながら声をかける。

けど、私はその場から動けなくて。

声なんて届いてるわけない。

声に、なってたのかな…?

歩…?

嘘、だよね?


暑い。

暑くて腕を捲ってみる。

これだって現実逃避だ。


花奏「…………。」


爪痕が、残ってる。

部分によっては血が滲んでいて、

側から見ると痛々しい。


「おいおい、事故かよ…?」


「え、やばいやばい!」


「見てあれ。」


偶々居合わせた人達が

狂ったように一斉にスマホを取り出す。

私の隣までに近づいた人の

ホーム画面が不意に目に入る。


『16:24』。


再び美月と歩に目を向けるも

なんだか上手く捉えられない。


美月「花奏!救急車っ!」


花奏「………みつ」


美月「いいから早く!」


花奏「…!」


美月「歩、しっかりしなさいよ!起きてて、歩っ!」


前見た時はこうだったっけ。

また違った気がする。

美月は怒りやら何やら混ざり濁った感情を

私に直接ぶつけていた。

物凄い剣幕で捲し立てた後

必死に、命を削るように

歩へ声をかけ続けて。


自分の手元を眺める。

かたかたと小刻みに震えていた。

前の歩みたいに、目に見えるほどに。


私が。

私が、歩を殺した…?

私がやってしまったのも同義なんじゃないか?

反動で。

反射で。

そんなの言い訳に過ぎない。

私がやったんだ。

私が…。


花奏「…………………あ……ゆ…?」


美月「歩!ねぇ、しっかりして!」


大声で叫ぶ美月の声は

とんでもなく震えていた。

とんでもなく。


足が動かない。

罪悪感が足の裏に根を張って

まともに動いてくれないの。

動きたくても、どうしても出来なくて。


美月「歩っ!歩ってば!」


近くで電話をする人の声がする。

もしもし、救急です、と。

それは私の耳を通り越して

きっと美月に届いたことだろう。

美月はしっかりと歩の手を握っていた。

左手。

あの時は私が掴んでいた手。


私のせい、だ。

私が何とかしなきゃ。

私が助けるんだ。

私がけじめをつけなきゃ。

私が。

私が。


私の得意ではない責任感という言葉は

覆うように肩に触れてくる。

逃げないようにと足を掴んでくる。

責任に雁字搦めになって、

脳はその場を逃げるようにと

警告が出される。

その甘い考えに乗っ取られるかの如く

私は美月と歩に背を向けた。

事故から目を背けた。


美月「どこ行くのよ。」


花奏「…。」


美月「何とかいいなさいよ。ねぇっ!」


花奏「…っ。」


言えること。

探しても探しても

うんともすんとも言えない。

そんな気力も資格も私には無い。

…あぁ。

でもたったひとつ言わなきゃ。

…言わなきゃいけないこと、あったや。


花奏「…ごめん。」


美月「花奏、待って!」


その言葉を最後に私は

いつもの廃墟にまで息を切らして走り続けた。

事故を目撃してた人なのか分からないけど

通りすがる人たちの視線が

いつも以上に痛い気がした。

責め立ててくるような錯覚を覚えた。

そんな錯覚に怯えた。


足の裏が痛い。

さっき足の裏に張っていた根を

無理やりに引きちぎって

ここまで来たからだろうな。


私のせいだ。


その言葉は深く深く

私の根幹を食らって言うのだ。

意志を持っているかのように、

私に向かってお前がやった、って。


ぼろぼろの建物の前に着く。

またか、と思うと同時に

もう繰り返したくな、い…って。

もう辞めたいなんて弱音が

口から零れかける。


花奏「…駄目…や……。」


駄目。

駄目なんだ。


花奏「歩を…助けるんや…絶対、絶対…っ。」


私が殺してしまってしまったも同然。

その罪悪感は意識をも呑み

弱音を飲み込ませてくる。

もう逃げるな。

逃げても欲しい未来はない。

お前がやったんだ。

お前が何とかしろ。

そう、言われているようで。


駆け足で階段をあがる。

足まで震えてしまっているせいで

まともに立つことすら難しい。

だけど1歩ずつ進んで、進んで。

上がって。

登って。

待ち構えている、奇妙な固形。

私を救い私を苦しめる未来へ繋ぐもの。


花奏「……。」


美月は追っては来なかった。

歩の傍にずっと居続けたんだろう。

ずっと。


…。

…。

…もう、いい。

考えるのは辞めだ。


花奏「…絶対助ける…。」


呪いのようにぶつぶつと繰り返し

機械へ1歩踏み入れる。

白いボタン。

電子文字で

『03202211111025』。

『小津町花奏』と記された紙。

何行かにわたる注意書き。


何度か見た。

何度か。

たった数回。

それだけのはずなのに、

十分すぎる回数だった。

人間が学んでしまうには十分すぎた。


白いボタンに手を這わせる。

冷たい。

じんわりと私の熱が無機物を伝う。

ボタンに力を込めて、

願いを決意を全て込めて。


ー押した。











花奏「…そりゃそうよな。」


ぴぴっ。

もう体温計なんて使わなくても

体のだるさや頭痛の程度で

熱があるのは分かっていた。

相変わらず38℃越え。

そりゃああれだけの雨に打たれれば

誰だってそうなるだろう。


頭痛。

吐き気、体調不良。

それらは今日を

捨てていい理由にはならない。

体調が悪いからなんだ。

動けるだろう?

そう言われているようで。


花奏「美月からの連絡…見てないな。」


毎回通りなら昨日の時点で

連絡が来ているはずだが、

そもそも気力がなくて見ていない。

きっとお怒りのメッセージくらい

きているだろう。


もう歩とは喧嘩したくない。

もう2度とあんな終わり方したくない。

もう2度と…。

…そう考えているあたり

また失敗してもやり直せる、

大丈夫だと言っているみたいで

何だか嫌気がさした。

尊い命だと忘れかけているような。

生き返るのが当たり前かのような。

そんな大きな違和感が私の肩を

ぐっと掴んで爪が食い入るほどに

力を加えてくる。


花奏「…。」


もう4回目だか5回目だかまで

繰り返している。

正直なところ、気が滅入っていた。

まだまだ試行錯誤の余地はあるが、

事実はともかく心がついていかなかった。

重い使命感にのしかかられてるくせして

体が動こうと思っても動いてくれない。

動かせない。

動かしたくない。

どちらかなんて分からないけれど、

頭はがんがんと唸るような声を上げた。


花奏「………ど…うしよ…。」


どうしよう。

…どうしたらいいんだろう。

喧嘩をせずに帰省を無くす。

…それが出来ればベストなんだろうけど

今の心持ちじゃ出来ない気がしてならない。

前回の体調の良さを持ってしても

あの結果だったのだから。


あれこれ考えるうちに時間は経ち、

いつの間にか朝日が登りきっていた。

そう言えば昨日、ご飯は食べたんだっけ。

…いや、水だけだったかな。

朝も続けて食べる気になんてなれず

また布団に潜ってまた考えて。


花奏「…愛咲。」


ふと、昨日の出来事が浮かぶ。

優しく寄り添うように掛けてくれた

話したくなったら話してという言葉。


視野が狭いだけじゃないか。

もっと他に、歩を助ける方法は

あるんじゃないだろうか。

けど、今の状態じゃ恐ろしく

頭は回らなかった。


花奏「……。」


LINE。

…そうだ。

愛咲に聞いてみよう。

彼女だったらどうするのか。

きっと必要とあらば彼女は

しっかりと真面目に答えてくれる。

そう、信じて。


花奏『相談したいことがある』


すこん、と清々しい送信音。

歩に送った文章を思い出す。

現状を見すえて送ったはずが

現状を打ち壊すのみとなってしまった。

もしも。

もしも、あの電話の時に

本当のことを言っていたのなら

どうなっていたのだろう。

歩本人に、歩が死ぬと伝えたら。

…そしたら、もっと逆上してただろうか。

それとも納得したのだろうか。

想像したところで手元には

冬になりかけた寒さで冷えるスマホだけ。

シュミレーションしたって現実は

変わらないままだった。


時間が戻ってやり直せるなら。

そんなことが出来るなら

どれほどいいことか。

羨ましさに駆られながらも後悔しないために

今が1番大切で楽しいんだと

言い聞かせながら生きてきた。

が、実際はどうだ。

やり直して、したい未来に出来ただろうか。


すぼ。


LINEの画面を開きっぱなしにしてたらしく、

即既読を付けてしまう。

愛咲の既読速度より早かっただろうな。


愛咲『どんとこーい!どーした?』


文面から彼女の声が想像できてしまうあたり

愛咲の快活さが窺えた。


花奏『もしも友達が交通事故で亡くなるって知ってたら愛咲は助ける?』


愛咲『ほ?』


相談内容の意図が読み解けなかったのか

それだけ送られてきて数分経った。

相談があると言われて

聞いてみればこれだ。

私にこの事が起こっているって

誰でも察せてしまうに違いない。

愛咲も混乱してることだろうに。

と思った刹那また、すぼ、と音が鳴る。


愛咲『そりゃもち!』


考えた結果分からず、

とりあえず困ってたら助けるといった

解釈で返答しているように感じた。

愛咲らしいといえば愛咲らしい。


花奏『助ける時さ、どうやって助ける?』


愛咲『方法?』


花奏『うん』


愛咲『車を破壊する』


花奏『訴えられるやん』


やはり、と言ってはなんだが

私とは発想の方向が大きくかけはなれていた。

確かにそれが1番の解決策だろう。


けど、もしそれで歩に降りかかる災難を

避けることが出来たとして

車を壊したという事実が残るのは

慰謝料云々を考えると

父さんに大きな迷惑がかかるから困る。

人に迷惑をかけずに

ただ何事もなく免れることは

出来ないのだろうか。


愛咲『警察沙汰駄目かよー』


花奏『穏便にって出来る?』


愛咲『うーんむずくね?新手のパズルゲーム以上に頭使うううう』


花奏『私も考えとるんやけど浮かばんくて』


愛咲『分かった、交通事故に遭わなきゃいいんしょ?』


花奏『そう』


愛咲『んじゃその事故現場に居なきゃいーんじゃね?』


花奏『そうなんやけど、それが難しくって』


愛咲『えー無理やりとかのパワープレイゴリ押し太郎じゃいけねーのかよー』


花奏『厳しいと思う』


愛咲『えーーーー純粋に室内にいりゃいい気するけどなー』


花奏「…ん?」


室内。

その単語がやけに引っかかった。

室内にいればまずは

交通事故に遭う確率は悉く減る。


…そもそも家じゃなくていいんじゃないか。


ばち、と何かが繋がったような感覚が

背筋を駆けていった。

そうだ。

室内ならいいんだ。

慌てて文字を打ったせいで

何度か誤字を繰り返した後、

漸く送りたい文書が並んだ。


花奏『ありがとう、解決するかもしれへん』


愛咲『うおおまじか!なんか役に立ってっかわかんねーけどよかったぜー!!!』


花奏「…愛咲には感謝せな。」


言葉と共に画面を閉じる。

真っ暗闇には自分のぼさぼさした髪の毛と

やつれているようにも見える顔が映っていた。

スマホが手から零れ、1度天を仰ぐ。

木材の天井だ。

木目まではっきりと見える。

古い家だ。


…。

よし。


心を決めて再度

スマホの画面を無理に光らせて、

LINEから歩とのトークを開いた。


まだ、生きている。

彼女は生きている。

送っても返事が来るんだ。

あの時のように、

いつかのあの時のように

返ってこないなんてことは起こらない。

そうだ。


花奏「…大丈夫。」


花奏『歩今日暇?』


そう言えば前はこの後すぐには

返事は返ってこなくて、

1度仮眠をとったら丁度良かったんだっけ。

水も飲む気になれず、また布団に包まる。

11月となれば手足の先が冷えて仕方がない。

寒いからかな。

体がかたかたと震えていた。





***





ぴーんぽーん。

遠くから私を呼ぶのはそんな音。

意識は朦朧とした中で、

次第に視界は明快になってゆく。


花奏「…え……?」


布団を跳ね除けると、

ぐっしょりと背中が濡れていたのに気づいた。

いや。

それ以上に。

どうして…?

動揺は隠せず、玄関まで行けない。

今回は美月に何も連絡してないはずじゃ。


「…………花奏ちゃん居ますかー?」


花奏「…!……今行く。」


相手に届いたか否かは定かではないが

強かに返事をする。

ふらふらとよたつく足元には

頼りない床の軋む声。

どうして。

こんなルートもあるの?

何が作用した?

くらいまで考えたところで

思考はショートしてしまい、

後の道のりは何も考えられずに

玄関まで歩いていた。

緊張が走る。


花奏「……はーい。」


喉に痰が絡み掠れた声しか出ないのは

前々からわかっている。

咳払いを数回して扉を開けた。


梨菜「わ、大丈夫!?」


花奏「…梨菜……なんで…。」


そこにはいるはずのない彼女と

高くに登ったままの陽があった。

何事だ。

居るはずはないんだ。

だって前にはいなかったじゃんか。

どうして。

どうして?

そんな思いが強まるばかり。


梨菜「えっと…美月ちゃんが物凄く心配してたの。それで私、偶この辺にいたから美月ちゃんの代わりに様子を見にきたんだ。」


花奏「…美月は用事?」


梨菜「え?あ、うん。そうみたい。」


花奏「…そっ…か。」


確か梨菜が来るのは

午後の2時くらいじゃなかっただろうか。

正確な時間までは覚えてない。

唯一記憶に確と刻まれているのは

『16:24』という数字のみ。


思ったより寝すぎてしまったらしい。

歩、まだ家を出ていないといいけれど。


梨菜「花奏ちゃん、そんな顔してたっけ。」


花奏「…?」


梨菜「…あ、え、聞こえてた…?」


花奏「思いっきり。」


梨菜「ごめん!こっちの話で…。てか花奏ちゃん顔色悪いよ?」


花奏「ちょっと体調悪いんよ。」


梨菜「そ、そうなの!?玄関まで来させちゃってごめんっ!すぐ出るね。お大事にね!」


梨菜は駆け足にそういうと

ばたばたと音を立てて

家から去っていった。

私が体調が悪いっていう前情報がなかったから

お見舞いという名目ではなかったらしい。

美月の心配性の結果が

今の出来事に繋がったのか。

どっちにしろ梨菜が何故か

この辺にいるのは変わらずじまい。


…さっきの梨菜の言う

そんな顔してたっけ…というのは

多分体調が悪いせいで暗く見えたのだろう。

実際顔色が悪いなんて言われたし。

その違和感だったんだろうな。

そう思うことにして再度布団へ向かった。


布団に潜らずにとりあえず座り、

スマホの画面をつける。

時刻は2時半。

LINEには歩から2時間程前に

メッセージが届いていて。


歩『実家帰る』


変わらず、この文章。

そりゃそうか。

変わった方が変なんだ。

何かが作用してしまった結果だ。


花奏『実家帰る前に少しだけ図書館で勉強せーへん?』


すこん、と快晴のような音。

そう、室内ならいい。

それなら歩を遊びではないけれど

誘ってしまえばいい。

それが考えついたひとつの案だった。

出来れば16時半あたりまで

図書館にいれたらいいんだけど。

少し無理を言ってでも

この時間を乗り越えることができれば。

そんな淡い期待を胸にじっと

待ち続けていると、

5分ほど経った頃に通知の音。


歩『いいよ。けど夜までは無理。』


急に誘われているにも関わらず

普通に了承するあたり

歩のフットワークの軽さが窺える。

彼女は割と臨機応援な行動をとるのが

上手だなって思う。

バイト先が居酒屋と本屋だからか

自分の家がお店だからか

将又別の理由かは分からないけれど、

どこかで培った能力なのだろう。


花奏『ありがと!何時までいけるん?』


歩『4時位』


花奏『4時半まで一緒におれへん?』


前は、ここが通らなかった。

無理に事実を言った結果、

その素直さは仇となった。

きっと今回も駄目だろうな。

そう、諦めていた。


歩『別にいいよ』


花奏「…えっ……?」


思わぬ返事に素っ頓狂な声が漏れ出る。

本当に?

本人へそう問い返したかったが、

そのひと言が出ずに画面に触れる

指にもストップがかかる。


そしたら、前回は何故。

思い返していると、

歩は前怒り立っていたから

対応に応じなかった…という線が

1番有効に思えた。

そりゃあ訳も分からない条件を

鵜呑みにするほど歩も馬鹿じゃない。

そう思うと納得してしまう自分がいる。


歩『何時から行ける?』


花奏『いつもんところには3時20分にはつける。』


歩『おっけ。じゃその時間に集合で。』


花奏『急いで準備する。』


そこまで送ると、すぼ、と

なんとも質素なスタンプが送られてきた。

たった1時間程度しか居られないのに

嫌な素振りもなく了承してくれたのだ。

多分、歩は素でこれなんだと思う。

1時間だろうと全然構わないらしい。

今回は通り道であることは

1つ理由だと思う。

歩の実家は図書館のある駅を

通過する形になる。

だから気軽に行けるというのもあるんだろう。

けどきっとそれだけじゃない。

歩自身やっぱりフットワークが

異常なほどに軽いのだ。


春の頃はどうだっけ。

ここまで快くすんなりと

「いいよ」なんて言ってくれたっけ。


そう思う間もない事を思い出し、

すぐさま準備を整え出した。

体調は朝よりもほどほどに良くなっていて

頭痛も多少は引いた気がした。

歩のおかげかなとすら感じる。

今は不思議と歩に会いたいなんて

思ってしまっていた。

きっと寝ぼけてるだけだ。

きっとそうだ。





***





花奏「ごめん、お待たせ。」


歩「ん、全然。」


歩は外が寒くなってきたにも関わらず

図書館前でスマホを弄って待っていた。

外套は昼間ならまだいらないが

朝晩の冷え込みは想像以上になっている。

彼女の服装も今日は厚めのパーカー。

相変わらず無彩色を好む傾向にあるみたい。


いつもと変わらない歩がいた。

歩が、いた。

その事実が今になって降りかかってくる。

さっきまで会いたいと思っていたはずが

今では多少心苦しい。

手をきゅっと袖の中に隠した。


歩「じゃ、行こ。」


花奏「せやな。」


歩「化学しか持ってきてないから。」


花奏「やる気満々やん。」


歩「教えてくれるって言質取ったしね。」


花奏「あー…そやったな。」


その言質を取られた日というのも

私に取ってはもうだいぶ前の話に思えた。

いつだっけ。

あれは10日の事だっけ。

何回か昨日と今日を繰り返していたせいで

時間の間隔は曖昧。

更に高熱のせいで寝てばっかりのことも多く

尚更時間感は狂っているように思えた。


歩「てか、顔色悪くない?」


花奏「…。…そうかいや?」


歩「うん。なんか白い気がする。」


花奏「ええやん美白で。」


歩「は?はいはい真っ白美人ですねー。」


花奏「なぁーんでキレとるんよー。」


歩「キレてない。」


花奏「…あはは、もー困ったなぁー。」


つい、楽しげながら本音が漏れた。

上手い返しが見つからない。

なんだか、疲れている気がした。


…そうだ。

思えばご飯、ずっと食べてなかった。

そりゃあ力が入らないのも当たり前か。

昨日の昼すら食べてないんだから

丸々24時間は確実に物を食べてない。


そんな事を考えてるうちに

歩はするりと図書館に入っていく。

ガラス戸のせいで、

彼女がアルコールで手を

湿らせているのが見えた。

私も続こうと扉の前まで来たのに

急に足がぴた、と止まってしまい、

手を伸ばしかけるも

その手は本当に伸ばしていいのかと

自問が始まってしまう。


ふっ、と黒い影が過ぎった気がした。

気づくと真っ黒な服を着た男性が

私を抜かして消毒もせず

図書館に吸い込まれるように入っていった。

ウィーン、と閉じかかったガラス戸は

私を察知しまた開く。

ふと、綺麗に反射。

潤っている目がこちらを捉えた。


歩「どうしたの?」


花奏「…ううん。靴の中に小石入ってて気持ち悪いなーって思ってん。」


歩「いいじゃん。相棒にでもしたら?」


花奏「意地悪な事言わんでやー。」


歩「ふっ。」


鼻で笑いくしゃっと目元を細めた後、

歩はすぐに背中を向けた。

小さな背中だった。


歩「行こ。小津町。」


パーカーに埋もれた手は

小さく子招きしていた。





***





歩「んでここは?」


花奏「モル濃度使うんよ。」


歩「あそっか。」


かしかし。ひそひそ。

図書館の1番奥の席で鳴る

シャーペンの芯が身を削る音。

小声ながらに伝える音波。

休日の弛んだ図書館。


近くには児童向けの本が並んでおり、

休日ということもあってか

いつも以上に繁盛している。

子供同士で時に集り

ミッケやなぞなぞを

楽しんでいる様子が窺えた。

他にも絵本をじっと読む小さい子や

母親と同じ本を眺める子供。

そこから視線を外せば

ずらりと小説を始め多くの本が立ち並ぶ。

思うままに本を手に取り

立ちながら眺む人、1度座る人。


不意に美月の顔が浮かぶ。

そういえば今回の周期では

1回も連絡を返してないことに気がついた。

本がある、本好きは美月

…と言った具合に連想していたら

そんな結末に繋がっていた。

けれど、今更焦ってもしょうがないと

自分に言い聞かせる。

美月だったら座って本を吟味するだろうな

…なんて考えて。


歩「聞いてる?」


花奏「ん?あぁごめん、聞いてへんかった。」


歩「だろうね。そんな感じした。」


花奏「んで、なんて?」


歩「今何時?」


花奏「今は…。」


腕時計を確認すると

『16:13』と主張された。

もうこんな時間か、とどくり。

心臓がひとつ大きく波打った。


花奏「…。」


歩「…?何時?」


花奏「あ、ごめん。4時15分くらい。」


歩「そ。ならまだ行ける。」


花奏「次難題やし時間かかるから今度でもええんちゃう?」


歩「嫌。」


花奏「意地っ張り。」


歩「あんたが言うか。」


花奏「そりゃこっちのセリフやで…。」


想定の時間まではあと少し。

今回は室内だから大丈夫。

大丈夫。

…だよね?


ここは図書館の端の方ながらも

壁の裏側は確か他所の家とかだった気がする。

大丈夫。

車は来ない。

心配しないで。

自分で自分を落ち着かせながら、

不安に駆られながら

歩の直向きな姿に目をやる。


歩「絶対15分で片付ける。」


花奏「よし、のった。」


歩のその折れない芯に

心を打たれたのか知らないが

難題に取り組むことになった。

彼女はほんと、諦めないんだなって

その時に改めて思わされた。

いつだってそうだったと思う。

これと決めたら突き進む。

頑張るのは当たり前って

正々堂々正面から言える人。

不器用だから誤解を与えやすいし

素直じゃないから突き出る言葉は棘が多いけど

それはきっと、

正面から向かっている事の裏返し。

その真っ直ぐな目が私を捉えて

離してくれなかった。

いつからか、ずっと。


10秒経つ、1分経つ、3分経つ。

事ある毎に時計を確認してしまう。

もう終わったはずの出来事に

つい注意を向けてしまう。

どうしてもあの光景が、

凄惨な未来が過ぎってしまう。

残酷な過去が巣食ってしまう。


いつからか私の手は止まっていて、

小刻みに震えていた。

冬の日に外に出て迷子になり

帰れなくなってしまった子供みたいに。


歩「…小津町?」


花奏「なんや?」


歩「大丈夫?」


顔を覗き込むように傾げる彼女。

どれだけ虚勢を張っていても

体はどうにも正直すぎた。


そうだ。

私、今日熱出てたんだっけ。

だからか。

そう、自己完結して。


花奏「うん、平」


「きゃあああああっ!?」


突如。

…突如森閑な図書館に響き渡る絶叫。

それは子供達が遊びで出すような声ではなく

本気で何かを恐れている声。

図書館にいる人らが一斉に

声の方へと振り向く。

皆硬直してしまって動きが見えない。


そこには。

真っ黒な服を着た男、

そして傍には尻餅をついた

小学生くらいの女の子。

母親らしき女性。

男の片手には、ぎらぎらと白光りする刃物。

刃、物。


直感が告げてた。

狙いは歩だ、って。


歩「…っ!?」


花奏「歩、こっち!」


もう嫌だ。

もう嫌。

嘘だ。

違う。

違ってくれ。

お願い。

お願い。


こんな事実、無くなれ。

こんな未来、変わって。

お願い。


どんなに心内で懇願した事だろう。


椅子に座っていたにも関わらず

歩の手を引き全ての荷物を差し置いて

図書館の出口へと足を必死に動かした。

辺りも騒然とし始め

多くの人が出口へと駆け込み出す。

図書館員は何をしているのか、

周りはほぼ視界が開けず

ただ歩の手を握って走った。


歩「ーー!ー…!」


歩が、何か言っている気がした。

けどそんなの耳に届かない。

1番大切な人の声が届かなかかった。


どうして。

室内なら逃れられるんじゃないの。

事故に遭わなきゃ歩は死なない。

そうじゃないの?


まだ歩が死ぬって決まったわけじゃないのに

私の頭の中では暗闇に突進していた。

もう、確信を得ていた。

もう分かりきっていた。

5回目だもの。

5回。


それでも、諦めたくなかった。

心のどこかでは諦めてたんだと思う。

けど違うって。

助けられるって。

現実から目を背けて自分を奮い立たせて、

感覚を麻痺させて立ち向かうしかない。

それしかないから。

まだ、私は狂ってない。

違う。

まだ。

まだ、大丈夫。

まだ平気。


ふと。

足元が揺らぎバランスを崩す。

倒れこそはしなかったが、

数秒足が止まってしまった。

あれ。

なんで動かない?

どうして?


また、歩が何か言っている気がした。

耳鳴りのせいで何にも届かない。


後ろを振り返ると、

黒が迫ってきていた。

夜になる。

もうすぐ、夜だった。


男は1歩踏み出し、

歩を目掛けて1振り。


歩「ーーーぁぐっ…!?」


花奏「ぁ……」


音のない世界に揺らいだ彼女の奇声、

音もなく刺さってしまった白。

音を立てて笑い出す黒。


あーあ。

違う。

違う。

私の脳内は否定を続けてる。

その否定は認められるべき。

何に対しての否定か。

そんなの、もう私だって分からない。

正解を教えて。


明日への正解を教えて。


花奏「歩っ!」


がむしゃらに男に殴りかかった。

まだ助かる。

大丈夫。

そんな言葉回しばかりで、

考えるよりも先に動いていた。


急な事。

変にスローモーションに見えた。

男は私に右肩を殴られたにも関わらず

にんまりと不適な笑みを浮かべながら

迷わず歩から刃物を抜く。

また、奇妙な嬌声が聞こえたところで

視界の隅にのたうち回る何かが映った。

それが彼女だとは思いたくなかった。

違う。

違う、って思ってた。


周りは止めにも入らず

ただ出口へと駆けていくだけだった。


体がふらつく。

そうだ。

私、今日熱出てたんだっけ。

だからか。

そう、自己完結して。


ふ、と。

左の脇腹に、違和感。

違和、感。


花奏「………………ぇっ…?」


男は迷いなく、刃物を抜いた。

抜いたんだ。

私の左脇腹から無理やり。


理解できない上力が入らず

男に掴みかかっていたはずの手は

呆気なく離れて。

床に打ち付けられて尚

状況が飲み込めずにいた。

お腹が冷たい。

腰が、変に冷たく感じる。


なんで、なんだろうね。


突如、堰を切ったように

血液が轟々と唸り出した。

あー…

刺された、んだって分かってすぐ。


花奏「か……あああぁあ゛あ゛ぁあ゛ぁっ……!?」


痛い、を超えてしまって

叫んでないと正気が保てないと

本能が判断した結果だった。

痛みを逃していないと死んでしまう。

そんな危機感が体を巡った。


足ががくがくと揺れている。

だらしなく涎が頬を伝う。

脇腹に手をあてがうも尚更苦痛は増すばかり。


歩「小津ま」


声がただ漏れた。

ふ、と無意識に涙が伝った。


男は構わず歩に刃物を振り下ろし続けた。

何度も何度も。

恨みを持っているかのように。

何度も。


歩が、私が何をしたの。

何でこんな事になっているの。


理不尽に耐えられず、

運命は変えられず

床を這いながら歩に近づく。

寝頃がってただ咽んだままでいられるか。

まだ。

まだだ。

歩は諦めなかったじゃんか。

勉強へひたむくさっきまでの

彼女の横顔が脳裏に色濃く浮かぶ。

目と鼻の先にいるはずの歩に左手を伸ばす。

びり、と腰が悲鳴をあげ、

ぐじんと爪の先まで痛みが伝う。


す、と。


伸ばした左手の甲に、

垂直に立つ柄が見えた。

絵のようだった。

まるで。


花奏「はぐっ……!?」


か、か。

そんな切れた呼吸音が脳で反芻する。

これは私の呼吸音?

誰の?

酸素が足りないのか視界がぐらりと歪んだ。


歪んだ線が蔓延る中、

黒靄は仕切りに楽しげに

手を振りかざしていたっけ。


それからの意識は殆どない。

きっと辺りは地獄絵図。

多分だけど、それから私は動くことが

出来なくなったんだと思う。

もう、痛いことを恐れて

彼女に手を伸ばせなくなったんだと思う。

気づけば男はいなくて、

図書館は再度森閑な場所へと戻っていった。


最後に、ぼやけた視界に映った輪郭。

彼女と、歩と額を寄せ合って

ぐずぐずになった左手で頭を寄せて。

私は何て言ったんだろう。


お泊まり会の時ですら

こんなに近づいたことはなかったな。











何も変わらなかった。











思い出したことがある。

どうして歩を助けようとしているのか。

何故私には彼女が必要なのか。

思い出したことがある。

歩自身の言葉の優しさを。

歩自身にあるはずの未来を。


それでも。


それでも何も変わらなかった。











昨日は結局保健室で

残りの時間を過ごした。

脇腹の痛みは時間を経ると

嘘だったかのように引いていった。


お弁当なんてとっくの前に

喉を通ることなんて忘れていて、

食べる気力なんてとうの昔に失せていた。

しかし、昼まで保健室にいたら

昼食は食べろと言われるだろうと思って

早退することを選んだ。


荷物をとりに教室に戻った時

湊のあの真剣かつ心配を含む眼差しが

私の事を見送っていて、

逃げるように背を向けた。

湊の事が怖かった。

見透かされているようで怖くなった。

こんな態度をとった私に対して彼女は

「お大事に」と切なげに口にしていたっけ。

昼に学校を出ることは初めてで、

晴れだか曇りだか見分けのつかない

空だったことは記憶に新しい。


なのに、最寄駅から家までの

ほんの短い距離で雨が降った。

細い細い雨だった。


何も、変わらなかった。

何も変わらない日になった。











何も変わらなかった。

変わるわけがなかった。











花奏「…。」


朝だ。

小鳥の囀りが聞こえる。

理想的な目覚め方を夢見たが

夢は叶わず最悪な目覚めだった。

いつも通りの悪夢と共に迎えた今日。

どうすれば気づいたら朝なんてことに

なるんだろうか。


花奏「…長かった…な…。」


夜が長い。

最近はずっとそうだ。

明けないのではないかと思うほど

夜は暗く雨は止まない。

夜中になって漸く

水音は退き出して、

これでもかと言うほどの静寂が訪れる。


隣ではまだ心地よさそうに眠る

麗香の姿があった。


徐にスマホに手を伸ばし

LINEを開いてみると、

やはり美月からの連絡があった。

朝6時。

まだ若干ながら暗がりの中、

早急に美月へ返事を返した。


『返事遅くなってごめん。今日でよければ行こうや。』


こんな状況になっていても

文面ではそれらしき兆候はまるでない。

文字だけじゃ伝わらないのだ。

当たり前だ。


花奏「……。」


今日はきっと長くなる。

長い1日だ。

ずっとずっと前からこの1日に寄り添ってきた。

突き放されてきた。

今回はどうなるんだろう。


麗香には声をかけずに

この場から消え去ってしまいたかったが、

何せ学校にいるが故に憚られてしまう。

仕方ないと肩を落とし、

彼女を起こすことにした。


花奏「…起きて。」


麗香「……んぅ。朝…?」


花奏「そう。」


麗香「…ふぁ………は…はっ……。」


寝転がったまま奇怪なポーズで

背伸びをしながら欠伸をする彼女は

まるで野生の猫のよう。

ひと言声をかけて肩を揺すっただけなのに

自然と起きたあたり、

驚くほど寝起きがいいのだろう。


麗香「…ん…花奏はいつ起きたけぇ?」


花奏「今。」


麗香「そっかぁ……もう出るけぇ?」


花奏「うん。1回帰る。」


麗香「そうけぇ。随分と早い帰宅で。」


花奏「……。」


凹んだ鞄はそのままに

ひとまず立って麗香から離れ、

できる限りの埃を払い落とした。

叩いても叩いても落ちてくる微細な塵は

落としきることなんてできず、

途中で諦めて手をはたいた。

それから簡単に制服を整えて

鞄を肩にかけた時だった。


麗香「ねぇ。」


花奏「…ん?」


麗香「何で学校に居座りたかったけぇ?家には誰もいないって言ってたし…会いたくない人でも来る予定だったけぇ?」


花奏「……雨に当たりたくなかった。」


麗香「本当にそんな理由で?」


花奏「うん。」


麗香「…はぁ…理解できないけぇ。」


花奏「……。」


理解出来るわけないんだから

しようとしなくていいのに。


花奏「じゃあ」


麗香「待って。」


ここから出ようと例の段ボールの山へ

近づこうと1歩踏み出したのに、

凛と麗香の澄む声が聞こえて

私の足を静止させた。


花奏「……何。」


麗香「そんな不機嫌そうな顔しなくても。」


花奏「…。」


麗香「朝ごはん、しっかり食べること。分かったけぇ?」


花奏「…お人好し。」


麗香「花奏にそう言われるなんて心外けぇ。」


麗香はどんな顔をしていたのだろうか。

振り返ることなく部屋の隅へ行き、

窓の鍵を開け放った。

馬鹿になるほどの日差しが

随分と斜めから刺さってくる。


朝だ。

明日が来てしまった。

恐怖でしかない今日だ。


窓枠に足をかけ、

無駄に勢いをつけて外へ踏み出した。

彼女を置いて逃げるように学校を去った。





***





10時手前。

私服に着替えて横浜駅で待ち合わせ。

6時頃に返事をしたと言うのに

美月は起きていたらしく

とんでもない速度で返信が来た。

それから何時に集合するかを

決めようとなったのだが、

昼過ぎ頃には解散して

歩の元へ向かいたかった為、

午前の集合にしてもらった。


くぅ、と切ない音が

群衆の騒音にかき消された。


花奏「…朝ごはん…食べてないや……。」


意図して食べなかったわけではないが

そもそも食べる習慣がなくなっていた為

すっかり忘れてしまっていた。

麗香が言っていたんだっけ。

聞いてないつもりでも

意外と耳に入ってるもんだな。


「花奏?」


すぐ隣から疑問を飛ばされる。

気づけば身長の低い美月が

背で手を組み覗き込むように

私のことを見ていた。

一瞬ぎょっと目を見開いた後、

肩の力を抜いて私の前へすっと立つ。


花奏「……あぁ、美月。」


美月「おはよう。」


花奏「うん、おはよう。朝からごめんな。」


美月「いいのよ。用事も済んだことだしね。」


花奏「用事あったん?」


美月「えぇ。波流のところに少し。」


花奏「悪いことしたな…ごめんな。」


美月「だから、すぐ終わる用事だったから大丈夫よ。」


花奏「ほんまに?」


美月「本当に。少しご飯をお裾分けして貰いに行っただけだから。」


わざわざ多少距離のある

波流の家までご飯のお裾分けを

貰いに行くことがあるだろうかと

疑問に思ったけれど、

バドミントンペアとして仲良くなれば

そんなこともあるのかもしれないと

大目に見て適当に流しておいた。

それから少しして、吸血鬼の話を思い出す。

ご飯をお裾分けとは

血を分けてもらったということでは

ないのだろうかとよぎった。

頭はうまく回ってくれなくて

ぼうっとしていることが増えた気がする。


美月「さ、今日はどこに行こうかしらね。」


ふわふわと浮かぶように揺らぐ

綺麗にハーフアップに纏められた髪。

対して私は1分も経ず結んだ

雑ないつものポニーテール。

なんだか久しぶりに美月に

会えたような感覚がした。

最後にあったのはいつだっただろうか。

梨菜は割と高頻度で出会う。

愛咲や麗香は会おうと思えば会える。

美月や波流、羽澄とは

思えばほぼ出会っていないような気がした。

どこかしらの選択肢を取れば

出会うことになるのだろうか。

反して湊とはどうしても

毎回顔をあわせている。

それは仕方のないことだけど。


文面ではない彼女と対面し、

なんとも言えない緊張が走った。

記憶の中で、美月は棺に縋るように泣きつき、

ある時は怒り任せに私を責め立てる歩を

宥めていた姿が霞む。


美月「…?どうしたの、早く行きましょ?」


花奏「そうやね。ごめんごめん。」


美月「いいのよ。何かあてはある?」


花奏「…そういえばないな。」


美月「じゃあいろいろとお店を回ってみて考えましょうか。」


花奏「美月は何にするか決めてるん?」


美月「大体はね。けど、他に良さそうなものがあればそっちにしようかなって考えてるわ。」


花奏「おっけ。お店はあんまり知らへんから美月についてくわ。」


美月「はいはい。仕方ないわね。」


ひょこひょこと子ウサギみたく

跳ねるように歩き出す後ろ姿。

本当に楽しみにしていたのだろう。

私は美月みたいに楽しんで買い物するなんて

今後ずっと出来ないかもしれない。

漸く風邪をひかず辿り着いた今日に

希望なんて見出せずにいた。

選択肢が無数に増えたのだ。

雨に当たらず迎える今日が来たことで

出来ることが限りなく増えてしまったのだ。

それを喜べるほどの心は持ち合わせてない。

どこかに落としてしまった。


暫く2人で歩き、

良さそうな雑貨屋や服屋、

家具系の店など幅広を巡った。

美月と2人きりでいるのは

それこそ熱を出していたのに

無理矢理買い物に出かけようと

した時以来ではないか。

その後の周期にもあったっけ。

ちょっとした時間に

一緒にいる事はあったような覚えもあるが、

ここまで濃密な時間を経るのは

久しぶりと言うには十分過ぎた。


美月「へぇ、ここ良さそうじゃない?」


花奏「おしゃれやね。」


美月「私、少し見てくるわ。」


花奏「そっか。じゃあ私は反対側のお店におるな。」


美月「えぇ、分かったわ。」


美月は木を基調とした

アンティークっぽい系統の小物が多い

お洒落な雑貨屋に足をのばした。

後ろ姿が見えなくなるまで何となく見送り、

宣言通り反対側のお店に寄った。

アクセサリー屋のようで

指輪やらピアスやイヤリングやら、

私とはほぼ無縁なものばかりが並ぶ。

値段は程よくお手頃で

手は届くといえば届くものが多い。


花奏「…。」


本当は考える時間が欲しかっただけ。

その為に美月と離れたかっただけだった。

品物の陳列する棚の前で

ふと立ち止まってしまう。


まず、誕生日プレゼントは何がいいだろうか。

そもそも私があげていいのだろうか。

…15日は来ないのに。

……1度は祝いたいな。

歩に日頃の感謝を伝えたい。

いつも助けてくれてありがとうって。


沢山助けられた。

初めて出会った時、

宝探しの時から夏祭りの時、

夏明けの時、雨の時。

ずっとずっと私を救ってくれたのは歩だった。

その感謝を伝えたい。

その方法でしか私は何も返せない。

何も。

何も返せない。

返せてない。


そうだ。

私、歩に何もしてあげられてないや。


花奏「…何がええかな。」


歩は1人暮らしだし

何か生活に役立つものがいいかな。

キッチン用品とか?

それをプレゼントで渡すのは

流石にどうかと思ってしまう。

役立つ…役立つ…。

便利グッズとかなら100均で十分になる。


不意にヘアグッズが多かったのを思い出す。

髪ゴムからウィッグスタンドとかまで様々。

でも私はそういう

髪やウィッグ関連の知識は疎い。

何が必要かも何も知らないし、

歩の家に何がないとかまでは分からない。

最近…それこそ3、4ヶ月くらいは

歩の家に行っていないから

もうどんな雰囲気だったかも危うい。

実際には先月あたりに1度は

行っているはずなのにな。


花奏「…。」


そして今回の周期のことだ。

今は美月と出かけている。

ただ、昼過ぎには解散するとなると

あの横断歩道にいる可能性は高い。

歩の最終位置を何処にするかにもよるけれど。

頭がこんがらがってくる。


歩が交差点で死ぬと

美月は生きてる。

車は歩に当たるから。

車が突っ込んでくる時、

美月は歩と一緒にいた。

きっと歩が交差点にいるときは

必ず美月もいたはず。


歩を交差点から離すと美月も歩も死ぬ。

歩は殺人犯に、美月は車に。

美月は必ずあの交差点から離れられず

歩は必ず死ぬのか。


今回美月と例の時間まで一緒にいられたなら

また話は別だろう。

交差点から美月を引き離す術は

もしかしたらここにあったのかもしれない。

歩に会いつつ美月は近くにいてもらう。

これが出来たなら。


…これが出来るかもしれないのは

今周期で雨に当たらなかったからだ。

もし雨に当たってしまったら

その時点で今の選択肢は消える。


一般としては15日にプレゼントを渡すのが

勿論セオリーなんだろうけれど、

私は今日しかなかった。

美月さえいいのであれば

2人で渡す事もできるだろうが、

美月はしないだろうな。

そもそも、何故態々呼び出して

今日渡さなきゃいけないのかという

理由を説明できない。

15日に本来ならば

学校で会うはずなのにどうして。

問い詰められても答えられない。

…なら、美月には何も言わずに

近くにはいてもらい、

歩を呼ぶのが1番だろうか。


…念のため、幾ら死にかけても

病院へ送られないようにする為に

廃墟前で16:24になるのを待った方が

いいかもしれない。

今回は交差点ではないが故

殺人犯に刺される可能性の方が

高いだろうから。


それこそ車に関しては

いつしか誰かが言っていたように

壊してしまうのもありかもしれない。

明日へ足を踏み出せるならそれでいい。

犯罪歴なんて今はどうでもよかった。

未来のことなんて考えられなかった。

誰が言っていたんだっけ、

車を壊したらいいって。

湊だっけ、愛咲だっけ…?


美月「花奏?」


花奏「え?」


美月「花奏、大丈夫?さっきから真剣に選んでるみたいだけど。」


ふと横から覗いた顔に驚き、

思わず肩がかくっとあがる。

心臓が摘まれたようにきゅっと音をあげた。


そっか。

アクセサリー屋の商品棚の前で

突っ立っていたんだっけ。

今周期の事を考えだしてから

プレゼントの事が頭から抜けていた。


花奏「あぁ、うん。どれにしようかなって悩んでしもうて。」


美月「そうよね。今のところ目星はついてる?」


花奏「えーっとな…。」


商品を全くと言っていいほど

見ていなかったので、

たった今アクセサリー達を正面から見やる。

ぱっと目の前にあったネックレスを指差し

誤魔化すように口を開いた。


花奏「これかな。後…どこかの棚にあったイヤリングとか。」


美月「いいじゃない。歩はあんまりこういうのって持ってなさそうだし、新鮮でいいと思うわ。」


花奏「…貰っても困るかな。」


美月「そんな事はないでしょうよ。花奏からのプレゼントだったら歩は大切にするわ。」


花奏「ほんまかいや。」


美月「あら、信用ないのね?」


花奏「そういうわけやないけど…。」


美月「花奏のいつもの考え方でいいと思うわよ。」


花奏「…いつものって?」


咄嗟に出てしまった疑問。

いつもの考え方ってどんな。

いつもって何。

私の普通って何処に行ったの。

一気な沸々と湧き上がる疑問達は

止まるところを知らずに

限りなく増え続けてしまう。


美月「そうね…歩は私の事好きだし何あげても喜ぶだろう!…みたいな底抜けに明るい考え方よ。」


花奏「そんなふうに見えてたん?」


美月「他の人はどうか知らないけれど、少なくとも私にはそう映ってるわ。」


花奏「…そっか。」


底抜けに明るい、か。

なんだか想像つかない。

最後に心の底から笑ったのはいつだかさえ

覚えていないような私が

明るいだなんて信じられなかった。


美月との会話はそこそこに

再度棚の方を眺める。

時間も割と迫っている事だし

決めなければならなさそう。

じっと見つめた後、

最初に焦って指差した

ネックレスにすることにした。

水色のような青のような色で

小さな惑星だか星だかのモチーフのついた

可愛らしいネックレス。

美月の意見を聞いてみるに

いいと思うと言ってくれたので

これにすることにした。


美月はもうプレゼントを買っていたようで、

よくよく見てみれば鞄がやや膨らんでいる。

お会計を済ました後彼女の元へ寄ると、

スマホをいじっている姿が目に入った。


花奏「お待たせ。」


美月「いいえ、全然待ってないわ。」


花奏「…ありがとうな。」


美月「何にも気にすることないわよ。」


花奏「そういえば美月は何買ったん?」


美月「ちょっとしたお洒落な照明と、あとタオルとか。」


花奏「結構買ったんやな。」


美月「今まで長年祝えていなかったもの。罪滅ぼしってわけじゃないけど…やっぱり今までの穴はどこかで埋めたいのよね。」


花奏「…そうやね。」


美月「花奏も良さげなのあってよかったわね。」


花奏「うん。美月がいいと思うって言ってくれたから決めれたんよ。」


美月「私の言葉なくたって決めてたわよ。」


花奏「…そうかな…?」


美月「そうよ。にしてもネックレスを選ぶなんて洒落たことするわね。」


花奏「え…?どういうこと?」


美月「ネックレスには「あなたのことを心から思ってる」とか、「ずっと一緒にいてほしい」っていう意味があって、想いを込めたプレゼントにぴったりなのよ。」


花奏「へぇ…知らんかった。」


美月「それでね、さっきのネックレスは宇宙とか星とかのモチーフだったじゃない?」


花奏「うん。」


美月「それの意味もまた素敵なの。さっき気になって調べたのよ。」


花奏「それでさっきスマホ触ってたん?」


美月「えぇ、そうなの。それでね、星モチーフのあるアクセサリーは身につける人に明るさとかを与えて、幸運を招く意味があるみたい。」


美月がスマホを触るなんて

珍しいと思っていたから、

謎が解明されたようですっきりとした。

暇さえあれば本を読み、

調べるときも本を使っているという

彼女に対しての勝手なイメージがあったのだ。


花奏「幸運…ね。」





°°°°°





歩「…幸せ…難しいよね。」


花奏「……。」


歩「いつの間にかなってるもんだと思うよ。幸せって。」


花奏「…なろうと思、って…なれる、もんやない…か。」


歩「なれるよ。あんたが今まで頑張ってきてこの高校入ったのだって幸せのひとつ。小津町自身が掴んだ幸せでしょ。」


花奏「……。」


歩「もっと簡単なことでもいいと思うよ。」


花奏「…簡単……って…。」


歩「ご飯が美味しい。空が綺麗。よく眠れた。沢山話せた。そんなのでもいいじゃん。」





°°°°°





もしも歩に何もない明日が来るなら。

その明日が幸せなら何でもいい。


そして欲を言って良いならば、

これからも歩と一緒にいたいな。

…なんて、そんなの許されるはずないか。


美月「良い買い物出来たわね。」


花奏「…うん、そうやな。」


振り向き笑いかける彼女に

ぎこちない作り笑いを

浮かべることしかできなかった。

良い買い物…そっか。

良いプレゼント、買えたのかな。


そんな思案に耽っていた時、

ささやかに電話のコール音が鳴った。

私のスマホからではなかった。


美月「…あ、私ね。ごめん、少し出て良いかしら?」


花奏「うん、勿論。」


急用の電話だと思ったのか、

すぐさま人の少ない通路の隅へと移動し

スマホのボタンを押した後

慌てるように耳に当てた。


声を潜めて話す美月のことなど見ず、

さっき購入したネックレスの事を

思い浮かべていた。

今日、渡すのか。

漸く歩の誕生日を祝えるのか。

正確には15日まで届かなかったけれど、

ひとつ感謝を伝えられたら。

…私は何してるんだろうか。

こんなことしてる暇があったら

歩を助ける方法を考えるべきだろうに。


暫くぼうっとしていたら電話を切ったのか

彼女はひとつ息を漏らしていた。

神妙な面持ちなものだから、

なんだか不吉な予感がする。


花奏「…何かあったん?」


美月「いえ、大したことじゃないわ。」


花奏「大したことじゃなくても教えてほしい。」


この出来事がきっと

あの時間に美月が交差点へ

向かってしまう理由なんだと悟った。

これをもし変えることができたなら。

そしたら。

歩は生きる…?


美月「パパの知り合いが倒れたんですって。家に誰もいなくて、さっき救急隊員が来て、今は自宅で安静にしているらしいの。それで、様子を見に行ってほしいみたいなのよ。」


花奏「大丈夫なん?」


美月「今出先とは伝えたけれど…弟達に任せるには頼りないし、パパとママ両方とも、今仕事中だから…あまり大丈夫ではないわね。」


花奏「……。」


これか。

だから美月は外に出ざるをえなくて、

しかも交差点を通らなければ

ならなかったのか。


そういえばいつだかの周期で

梨菜が何か言っていたのを思い出す。





°°°°°





花奏「今、美月ってどこにおるん。」


梨菜「それは私も分からないの。」


花奏「そう…やんな。」


梨菜「連絡してみる?」


花奏「え?」





°°°°°





あの時素直に聞いていれば

また全然違ったんだろうな。

今更なことに気がついて

後悔の層は増すばかり。


花奏「…じゃあ、解散しとこうや。時間もいい感じやし。」


本当に解散していいのか

不安ばかりが過ぎる。

今までだって幾度となく自分の選択に

不安を抱いてきたが、

最近はこの感覚を忘れていた。

久々に陥る穴の底。

このまま美月を野放しにしたら

結局交差点で撥ねられて終わりだ。


美月「いいの…?」


花奏「だってお互い目標は達成したやろ?」


美月「…まあ、確かにそうね。」


花奏「知り合いの方のこと心配やし、早めに行ってあげてな。」


美月「…ありがとう。ごめんなさい、花奏。」


花奏「全然ええんやって。また……。」


また…別の日に遊びにこれば

ええだけやから。

…それは流石に言えなかった。

私の「また今度」は

いつになるのかなんて分からないのだから。

そんな無責任なこと、

口にできるわけがなかった。


美月「…花奏…?」


花奏「へ?」


美月「へ?じゃなくて…今一瞬ぼうっとした?」


花奏「あ、あははー…ごめん、頭回ってなかったわ。」


美月「そんなことあるの?」


花奏「たまにあるんよ。ほら、早よ帰ろうや。」


美月「そうね。」


ふとショートしてしまった頭を再起動して、

2人で電車に乗り込んだ。

その時に、歩にLINEを送る。

「今日もし歩の実家の最寄駅に来ることがあったら、その最寄駅で待っていてほしい」

そんな旨のメッセージを送りつけた。

私の隣には読書をする美月。

4月頃、出会ってすぐの時も

このような風景だった気がする。

当時春服を着ていたのに

今では秋服を身につけている。

時間が経ってしまったんだな。

…時間、進まないもんだな。


花奏「…美月のお父さんの知り合いの家ってどこにあるん?」


美月「私の最寄駅から近いわよ。」


花奏「そんな近くなん?」


美月「えぇ。それこそ風車の回っている家って分かる?」


花奏「流石にそこまでは…。」


美月「そりゃそうよね…ごめんなさい。えっとね…私の家から15分歩いたくらいのところかしら。」


花奏「駅側?」


美月「な、何でそんなに知りたいのよ…?」


花奏「何となく気になってん。」


美月「そう…まあ、確かに駅寄りね。線路沿いとでもいうのかしら。」


花奏「へぇ。」


線路沿い。

駅寄りなら交差点は通らない。

あの交差点は美月の家に

とてつもなく近い位置にあったはず。

なら…大丈夫。

…本当に……?

…念には念をいれておかなきゃ

後悔する気がした。

こんな絶好のチャンスなんてもう早々ないよと

誰かに囁かれている気がする。


花奏「ならさ、もしその方の様子見が早めに終わったら、あの…廃墟みたいな家分かる?」


美月「草が生い茂っていて、2階か3階建くらいの…あの…壁とかにも蔓が巻き付いているところ?」


花奏「…!そう、そこで待ち合わせようや。」


美月「え…?どうして…」


花奏「15日の当日のこと、ちょっと相談しときたいねん。LINEやと面倒やし会って話しときたいなって。」


美月「別にいいわよ?」


花奏「ほんま?……そや、私夕方用事があって、4時半には電車乗りたいんやけどそれでもええ?」


美月「えぇ。流石に2時間くらいあれば十分だと思うわ。」


花奏「そっか。ありがとうな。」


すらすらと嘘が並べられていく。

その光景が自分でも恐ろしくなった。

私、いつからこんな

流れるように嘘を吐くようになったっけ。

…最初からか。

きっとそう。

最初から私はこういう人間だった。


廃墟の位置は

線路沿いではないけれど駅側。

あの交差点は通らなくて済む。

済むはず。

…はず。

無事でいてくれ。

お願いだから、

美月も歩も痛い思いをしないでほしい。

痛い思いなんて並大抵な言葉で

表せるはずがなかった。


花奏「…っ。」


今回は何か変わるんじゃないか。

そんな期待を膨らまさずには

いられなかった。

それと同時に選択肢が無限と思われるほど

広がってしまったことに

絶望するほかなかった。





***





花奏「…。」


それから私は1人でひと足先に

例の廃墟に向かった。

今の時間…3時頃から

あの機械はあるのか気になり

廃墟に侵入して確認したところ、

機械らしきかけらひとつさえなかった。

時間指定でここに来ているのだろうか。

機械の謎は解けないままだし

解けそうにもないとさえ感じる。

考えるだけ無駄のような、

そんな大きな何かが動いている。

直感はそう告げてやまなかった。


美月は連絡の通りに彼女のお父さんの

知り合いの家へ向かってから

結構な時間が過ぎ去った。

廃墟を確認した後は

することもなかったので、

駅周辺にあった椅子に座り

ぼんやりと思考を巡らせた。

否。

きっと考えてるふりをしただけだ。


4時が近づいてきた頃、

歩から連絡があった。


歩『もうすぐ着く』


そんな言葉が届いた。

数分後には電車が駅に

滑るように入り込んで行き、

人がぞろぞろと降りてくる中に

無彩色の私服で身を包む

彼女の姿が現れる。


花奏「…!」


こっちだよ。

そう言ったつもりが

口を開いたまま浅い浅い息が

微々ながら漏れただけだった。

本当に呼んでいいのか。

今していることは間違いではないか。

不安が、疑問が連なる中、

歩の方から私を見つけてくれた。


歩「あ、いた。」


花奏「歩…。」


てこてことリズムよく歩いてきて

私の座っていた椅子の元にまで来てくれた。

大きめの黒いリュックを背負う彼女は

どちらかと言うとリュックに

背負われているように見える。

いつも、いつも

見つけてくれるのは歩だった。


歩「ん。なんか休みの日に会うの久しぶりな感じする。」


花奏「そうかいや?」


歩「さあ。何となく。」


この口数の少なささえも

歩を象るもののひとつだ。

ひしひしと、今歩といるんだって

実感していた。

私も久しぶりな気がしてた。

何でだろう。

2日に1回は会っているはずのに。


花奏「荷物、多いな。」


歩「実家に帰ろうと思ってて。だから小津町が呼んでくれたのが今日でちょうどよかった。」


花奏「ならよかったや。」


今日実家に帰ることだって

随分と前から知っている。

初めての周期から

実にどのくらい時間が経ったのだろう。

喧嘩してからどのくらい経っただろう。


歩「何か用事?」


花奏「あ、そうそう。あんなー」


鞄の中を漁り、

ラッピングしてもらった袋を取り出す。

思ったよりもくしゃくしゃになっておらず、

なんとか人に手渡せるくらいの

綺麗さだといえるだろう。

その袋を見た瞬間、

歩は目をくりっと大きく見開いて

言葉なくただそれを見ていた。


花奏「…早いねんけど、誕生日プレゼント。」


歩「え…?ほんとに…?」


花奏「うん。誕生日おめでとう、歩。」


あぁ。

やっと伝えられた。

しっかりとあなたに正面向かって。

漸く。

…漸く。

辿り着かない15日に想いを馳せるのはやめ

今ある奈落の底のような

11日と12日を選んだ。

ある一種、私が諦めた証拠とも

言えるのかも知れない。


歩「開けていい?」


花奏「うん、開けて欲しい。歩も座ったら?」


歩「ん。そうする。」


すると、何の躊躇もなく真横に座ったのだ。

いつからこんなに距離が近くなったんだっけ。

いつから隣に躊躇いなく

来てくれるようになったの?


何故だか今だけは

歩が死ぬなんて夢の話に思えた。


ぶぉー、と電車がまた

駅の中へ舞い込んでくる。

そのせいか、ラッピングを開ける音は

そこまで気にならなかった。

ふと強めの風が吹く。

マスク越しだけれど、

ふわりと歩の香りがした。





°°°°°





歩「……小津町、ありがとう。」


本当、柄にもなく

歩さんはそっと抱きしめてくれた。

覚えてる。

だって彼女は人に触れられるのを

極端に嫌っていたはずだ。

だから、こんなことをするはずがないのに。

ぼろぼろと溢れては

止まるところを知らず、

歩さんの肩を濡らした。

鼻を啜れば、初めて彼女の香りを

直で吸ってしまった。

少し柑橘っぽいような香りだった。

やがて鼻は詰まっていき

何の匂いも分からなくなってゆく。





°°°°°





案外鼻は覚えているものなんだな。

すん、ともう1度鼻を鳴らした。

もう香りは届かなかった。


ラッピングを開き終えて、

私にとっては見覚えのある

ネックレスが顔を出す。

歩は雛鳥を抱えるように

大切そうに手のひらに広げていた。


歩「わっ…すごい綺麗…!」


花奏「ね、すごい綺麗やんな。」


歩「宇宙っぽい?星?惑星…?」


花奏「そんな感じのモチーフなんよ。」


歩「見て、光に反射させるとほんと綺麗…!」


子供のようにはしゃぐ歩は

空にネックレスの飾りの部分を翳した。

澄んだ青色が歩の肌にこぼれ落ちる。

この横顔を見れただけで

私は今まで頑張ってきて

よかったなんて思ってしまった。

まだ終わったわけではないのにね。


歩「つけていい?」


花奏「え…?そんな無理してつけんでええんに。」


歩「無理なんて何もしてないし、私がつけたいって思ってんの。」


花奏「歩はアクセサリーとかあんまりつけへんから、苦手やと思ってた。」


歩「苦手と思ってたのにこれ選んだの?意地悪?」


花奏「えっと…ちがっ」


歩「冗談だって。大丈夫、言いたいことは分かってるから。」


花奏「ほんまに分かってるんー?」


歩「うん。勿論。」


当たり前のように肯定してくれたのは

私のためなのか

それとも適当に返事をしただけなのか。

どちらにせよ嬉しい返事であることには

変わりはなかった。

歩は話しながらネックレスの金具部分を外し、

自分の首へ回して後ろで止めようとしていた。


歩「確かに私はあんまこういうのって身につけないけど…興味がないって言ったら嘘になる。」


花奏「そうなんや?」


歩「うん。1人暮らしで手が届きづらかったって言うのもあるし、何が似合うかわかんないし…って、やらない理由あげたらキリがないんだけど。」


花奏「じゃあ、ひとつきっかけになったんかな。」


歩「そうだね。小津町のおかげ。」


やや下を向きながら金具を止めるのに

苦戦しながらもそう溢してくれた。

違うよ。

全部歩のおかげだよ。


頭はまともに話を聞いていなかったのか

自分を否定する言葉ばかり浮かんだ。

それでも今、歩が喜んでくれているのが

とてつもなく嬉しかった。


歩「…あのさ、悪いんだけど後ろ、つけてくれない?」


花奏「え…私…?」


歩「以外いないでしょ。」


花奏「…そうやね。」


私が触れたら歩は消えてしまうのではないか。

そんな不安がいつの間にか

思考を支配していた。

だから、歩に自ら触れるのは

怖くて怖くて仕方がなかった。

けど、頼まれたからにはやるしかない。

そう腹を括り、

自分の荷物を置いて歩の後ろに回る。


歩「ん。お願い。」


花奏「うん。」


自分でも声がうわずって

緊張しているのが分かった。


歩はおろしていた髪を

軽く両手でまとめて

首の裏を露出させた。

もう11月だ。

まだ11月だ

首元が冷える前に

ささっとつけてしまおう。


さっき私が買ったばかりのネックレスを

歩の首の周りに這わし、

簡単につけ終わってしまう。


歩「ありがと。」


花奏「ううん。全然ええんよ。」


歩「いい感じ。どう?」


花奏「めっちゃええやん。歩、黒とか白の服が好きやからちょうど映えるかもね。」


歩「ね。いいアクセント。」


歩はネックレスをつけても尚

惑星のような飾りを

じっくりと見つめていた。

美月の言っていたことはこれだったのかな。

私からのプレゼントだったら

歩は大切にするという言葉の意味を

漸く理解できたような気がする。


花奏「…そろそろ実家の方行こっか?」


歩「あんたも来るの?」


花奏「途中までな。この辺で用事があんねん。」


歩「へぇ。じゃあ途中まで一緒に行こ。」


花奏「うん。」


歩から「一緒に」なんて単語が

出てくること自体珍しくて

思わず返事を忘れるところだった。

それに、歩がこうやって

誘ってくれることが何よりの幸せだった。

歩と一緒にいれることが幸せだった。


通行人や自転車に乗る人たちの

邪魔にならないように

隅によりながらも2列で歩く。

隣には歩がいた。

その幸せを噛み締める。

もうすぐ終わる幸せだから。


歩「朝だっけ、麗香から連絡が来たんだけどさ。」


花奏「…麗香から?」


歩「そう。」


花奏「……なんて?」


歩「オブラートに包むと、小津町の事気にかけてやれって。」


花奏「…。」


歩「だから、あんたから連絡が来た時びっくりした。」


花奏「そっか。」


歩「明日とか明後日に何かあったりするの?」


花奏「え、何で急に?」


歩「だって誕生日分かってて先にくれたんでしょ?」


花奏「うん。…まあ……。」


歩「法事とかあるのかなって思ってたけど、違う?」


花奏「…違うで。」


歩「そうなんだ。」


きっと歩なりに探りを

入れているのだと思う。

そうだよね。

だって明後日も明明後日も

私たちは学校で会える予定だから。


歩「じゃあ何で今日に?」


花奏「歩、教室の中とかでおめでとうって言って騒がれるの苦手かなって思って。」


そうか。

私は歩に対しても

最も簡単に嘘が言えるようになっていたのか。

嘘つきだ。

嘘つきだ、私。


歩「ん。そっか…。」


花奏「…。」


歩「小津町。」


花奏「なん?」


歩「何か困ったことがあったら言って。」


花奏「うん。分かってるって。」


歩「…信じていい?」


花奏「勿論や。」


不安がる歩の言葉ににこっと笑顔で返す。

安心していいよ。

困ったことはないよと言うように。


けれど、それを見透かしたのか

歩がより険しい顔つきになるのを

見逃さなかった。


駅を出て少し歩いたところで

見覚えのある後ろ姿を見つけた。

ハーフアップにしていて、

今日1日、目にした服装だ。


花奏「あ。美月ー!」


そう大きな声で呼びかけると

彼女ははっとしたように

勢いよく後ろを振り返った。

それから、私たちの方へと

駆け足で寄ってくる。

たった今様子見が終わったのだろう。

2時間ほどかかったのか、

随分長いこと時間を拘束されていた様子。


美月「花奏!歩もいるじゃない!」


花奏「あぁ、そうなんよ。たまたま駅で会うてん。」


歩「え?」


美月「あら、そうだったのね。」


歩「……ま、うん。」


歩は一瞬戸惑いながらも話を合わせてくれた。

やっぱり適応能力が高いのだと思い知った。

そこからは歩きながら話すことにして。


歩いてるうちに自然と私と美月が横に並び、

歩は後ろにつけていた。

何度か場所を変わろうと

それとなく動いてみたが、

結局交代はできなかった。

それこそ、私を後ろから

観察しているようにも取れて。


花奏「そういや、用事は終わったん?」


美月「えぇ、漸くね。」


歩「何してたの?」


美月「パパの知り合いが倒れて、ちょっとお手伝いに行ってたの。」


歩「面倒くさそう。」


美月「そんなこと言わないの。確かに人使いは荒かったけれど…。」


花奏「結構時間かかったんやね。」


美月「カーテンの付け替えとか買い出しとかまで頼まれちゃったのよ。」


歩「断ればいいのに。」


美月「流石に倒れた人にそんな酷なことは出来ないわ。」


歩「お人好し。」


美月「歩に言われたくないわよ。」


2人とも目元を細めて

楽しそうに会話をしているのが窺えた。

2人は元々喧嘩をしていて

ひと言さえ口を聞かなかったのに

今じゃこうして和解している。

それに安心感を覚えた。


そんな安心感は簡単に砕かれると

私はもう知っていた。

けど、知らないふりをしていたのかもしれない。

今日ばかりは普通の日が来ると

信じてみたかったのかもしれない。


美月「そういえば歩は何でここまで来たの?実家?」


歩「そう。呼びだされたの。」


花奏「そりゃ呼ぶやろうに。」


歩「うちの家は誕生日とかクリスマスに限らず、意外と行事ごとやるしね。」


花奏「豆まきとか?」


歩「それとか、柚湯、七草粥…。」


美月「あら、しっかりやってるのね。」


歩「お母さんがそういー……はが、か…っ!?」


美月「……えっ…?」


知っていた。

知っていて、止めなかった。

私は馬鹿だな。


歩の背後には見知らぬ

…否、見知った男が立っていた。

何回も見た。

何回も悪魔のような笑い方を見てきた。

狂ってる姿を見てきた。

あのけたけたと笑う声だって

何度も聞いてきた。

もう、聞き飽きるくらいには

聞いてきたんだ。


歩「ーぁぐ………はっ…?」


美月「歩、歩っ!」


美月がふと隣からいなくなる。

歩の背後にいる奴へ飛びかかろうと

地面を蹴り上げていた。


凄いな。

怖くないのかな。


美月「歩から離れなさいっ!」


歩「ゃ………い゛…っ。」


美月「離れてっ!」


歩「い゛…だい、ぃだい痛っ…!?」


美月「この」


私はただ突っ立って

冷たく眺めてるだけだった。

音もなくさっくりと

美月の体に何かが刺さっているのが見える。

お腹の部分に深く深く。


刃物を抜かれた後だからだろう、

歩が声にもならない悲鳴をあげている。

刃物って刺さった時も勿論痛いけれど、

抜かれた後が1番痛いよね。

じんわりと広がる激痛って

どれほど叫んでも逃げていかないから。


歩「あ゛ぁ゛あぁ゛あぁっっ!?」


美月「ぁゆ、ぁゆっ…!…ぁ、ぎっ…」


歩「はぁ゛……ぁ…はぁ゛…っ!?」


美月「歩…ぁ…っ、しっかりして!」


歩「ぁ゛あぅ…ゔあぁあぁぁっ…ぁゔあ゛っ…!」


美月「逃げて、逃げ…はゔ…ぁっ…!?」


前々から思っていたけれど、

この愉快犯は身体能力が高かった。

握力も強くて殴りかかっても

私は死にかけるだけだった。

それを何度も繰り返したせいで

無駄に学んでしまった。

こういう時くらい殴りかかろうという

考えが浮かべばよかったのに。


刃物を抜かれて蹲る美月。

お腹を抑えているのは辛うじて分かるが

出血量はどうなのだろう。

私には何が出来たんだろう。


歩「ぁ…ゃ…やめ゛っ」


それから歩に跨り、

刃物を天高く振り上げる。


歩「…い゛っ……た…すけ゛…っ」





°°°°°





愛咲「あったりめーだろ!友達が困ってたら助けるっちゅーもんじゃね?」


花奏「それだけで…?」


愛咲「だけも何も…大事なことだと思うぜい?」





°°°°°





困ってたら助けるのは

大事なことなの?





°°°°°





歩「そもそもあんたにどんな酷い事されても私、多分許すよ。」





°°°°°





ただ見ることしか出来ない私こと、

本当に許そうなんて思えるの?





°°°°°





歩「小津町のこと、ちゃんと見てるから。」


花奏「あ……ぅ…ぁ…」


歩「頑張ってるよ。小津町はいつも頑張ってる。私が見てる、気づいてる。」





°°°°°




私は。

…私は。

今も許されない行動をしている。

なら、もう何したって同じだ。


美月「ぃ…や…。」


花奏「…っ!」


その時ふと自分の体が無意識のうちに動いた。

きっと、今までの行動を

学習してしまったが故だろう。

歩が刺された。

なら私も刺されなきゃ。

そんな学習をしてしまった。


ぱっと出た手で

振り下ろされる包丁の刃を

思いっきり握った後

そのままの勢いで地面を転げた。

それには流石の愉快犯も

歩からは離れざるを得ないほどの

衝撃だったらしい。


歩「ぁ……あ゛ぅ…こ、づま…!?」


花奏「…っ?」


初めてだ。

初めてのことに驚きを隠せなかった。


脇腹以外が先に傷つくのは

初めてのことだった。


だが手のひらには多量の血。

摩擦も生じたために

深く深く切り付けられた様子。

血さえ止まれば

白だか黄色だかの脂肪や筋肉が

見えてくることだろう。

この深さだったら

縫わなきゃいけなくなるだろうな。


何処かから悲鳴が聞こえた。

美月なのかもしれないし

歩かもしれない。

将又全く別の人、

それこそ通行人かもしれない。

その声が聞こえても尚

犯人は歩を殺すのを止めようとしなかった。


花奏「…そうよな。」


歩「はや、く…にげ、てぇ゛…!」


花奏「もう、後戻りできひんもんな。」


歩「に、げ」


花奏「だからいっそのことって…快楽に委ねたんやな。」


今も許されない行動をしている。

なら、もう何したって同じだ。

そんな考えが湧いたのだろう。

あぁ。

私はこいつと同じ考え方だったのか。


花奏「なぁ。」


私は近くにいる歩には

一切視線を向けずに

例の黒フードを被った男に話しかけた。

聞く耳など全く持っていないようで

また歩へと駆けてゆく。


花奏「待ってや…っ!」


犯人の腕を掴むとそのまま体を翻され、

予定調和の如く脇腹をさっくり。

そう。

これだよ。

これが正しい順路だ。


左の脇腹を刺された事実に

思わずにやけが止まらない。

ふと覗いたフードに隠れた素顔は

私の様子を見た刹那、

一瞬たじろいだ様に見えた。


花奏「ぃ゛…なあ、愉快犯…。」


こんな痛み、刺されなくとも

常時感じているせいで

刺されている事実に、痛みそのものに

鈍り出していた。

それに気づけなかった。

痛いものは痛い。

けれど、なんだかおかしいのだ。


脇腹を刺されたまま、

犯人の腕をしっかりと掴んで

私の体から刃物が抜けない様にする。

早く歩を殺そうとしているのか

刃物を抜こうと上下左右に

咄嗟に揺さぶってくる。

内臓をかき混ぜられているようで

気持ち悪くて痛くて仕方なかった。


花奏「……歩…殺すま、えに゛…私の事、殺しぃや…。」


歩「…っ!?」


美月「花奏、何言って」


花奏「死にた、い…んよ…なぁ…ぁ゛…っ。」


愉快犯の黒パーカーは

どんどんと私の手から滲みゆく血を

吸い取っていった。

今、こいつはどんな顔をしてるのだろう。

笑ったのだろうか。

恐れたんだろうか。


死にたい。

初めて言葉にした。

してしまった。

向き合わない様にしていた。

この感情が湧いていることから

目を背け続けてきた。

けれど、口にした瞬間

これは本心だと確信したのだ。

おかしい。

可笑しかった。

歩は何の罪もなく死ぬのに

歩を殺し続けている私は

延々と生きているのだから。

そんなの、おかしかった。





°°°°°





歩「小津町。」


花奏「なん?」


歩「何か困ったことがあったら言って。」


花奏「うん。分かってるって。」


歩「…信じていい?」


花奏「勿論や。」





°°°°°





信じてくれたのに、ごめんな。

私が歩を信じれへんくなってて、ごめん。

ごめんなさい。


花奏「……今回、こ、そ…しっか、り゛…殺してな…?」


痛い思いをするだけして

結局宙ぶらりんになるのだけは

もう勘弁してほしい。

歩は絶対死ぬ。

私は絶対生きる。

なら、ひとつを変えてしまえば。

絶対生きていた私が死んでしまったら。

そしたら歩はどうなるんだろう。

そこに因果があると決めつけて、

愉快犯の腕を握ったまま笑いかけた。


ほんの一瞬、犯人の動きが

止まったかと思えば、

私が気を抜いた瞬間に

刃物を勢いよく抜き去った。

それから何か心に決めたのか、

片手に白光りする凶器を構えた。

無論、私に向かって、だ。


漸く終わりが見えた。

この長い長い昨日と今日が

やっと終わるんだ。

嬉しかった。

とうの目標なんて忘れかけて

いつしか終わることだけを望んでた。

この憎い犯人によって

終わりを迎えられることだけが

唯一残念な点だけど。

でもそこまで高望みはできない。

もう、いいや。

そう思った時だった。


ふと。


花奏「……っ!?」


ふと、過る。

…過る、人影。


歩「…………ぁ゛…んぐ、ぁ……」


花奏「…ぇ……何で…?」


歩「ば………かぁ゛…っ…!」


私を突き飛ばしたと思えば舞う鮮血。

あぁ、もう駄目だ。

今回も駄目だったか。

失敗だ。


花奏「………歩…。」


歩「死なせな゛ぃ…ぜった」


ぐぶ、という水音が聞こえたかと思えば

転げた歩に再度跨り、

邪魔が入らないよう焦って

何度も突き刺す愉快犯の姿が目に入る。

何度も何度も突き刺して

終いにはいつものように笑い出す。

ここまでがテンプレート。

愉快犯はひとしきり歩を刺したあと

私と美月を一瞥し、刃物を捨てて逃げ去った。

残された私と美月はただ呆然とするのみ。

周りの人がわらわらと

集まり出していることに気がつくのは

まだ先のことだった。


あと少し時間が経てば警察やら救急車やらが

飛ぶように走ってくるだろう。

それまでにはあの廃墟に行かなきゃ。


でも。

久々に情が湧いた。


花奏「ありがと、歩。」


ぐずぐずになった髪の毛を

優しく整えるように撫でた。

もういなくなってしまったなら

消えてしまう心配もなく触れることが出来た。

ずるいかな。


美月「…かな、で…?」


花奏「ん?どうしたん?」


美月「歩は…?」


花奏「死んでるで。脈ないよ。」


美月「…!…そんな…嘘、よね?」


花奏「……。」


美月「…そんな、そん…なっ…。」


花奏「ごめんな、歩。また駄目やったよ。」


美月「なんで…な…そんな…落ち着いてるわけ…?」


花奏「歩が死んだんやで?そりゃこうなるやん。」


美月「あなた…お、かしい。おかしいわよ…っ!」


花奏「…そんなん前からやろ?」


美月「そんなことない…花奏は優しくて…それで」


花奏「私、変わっちゃったんよ。」


美月「何で…麗香の言ってたことってこれ…だったの…?」


花奏「また麗香かぁ…。」


美月「…さっき言ってたこと…死にたいってどういうこと…。」


花奏「そのままの意味や。」


美月「何で…何で相談してくれなかっ」


花奏「相談したところで忘れるやんか。私だけしか今までのことだって覚えてへんやろ?」


美月「……何のことを言ってるのよ…?忘れないわ。忘れないに決まってる。」


花奏「………この言葉、まんまと信じられたらよかってんけどな…。」


脇腹に手を添えて紅色の液体をぼとぼとと

迸らせながらその場を立った。

いつも綺麗に最後を

迎えさせてあげられないことに

段々と胸が痛んできた。

反面、助けられないことに

胸が痛むことは少なくなっていった。

脇腹は常に痛みを訴えてくるようになった。

変わっちゃった。

変わってしまった。

何もかも、全部。


それから近くに放られた

3人の血で浸された刃物を手に取る。


美月「…っ!?花奏、待って!」


花奏「…美月。」


未だにお腹を抱え込む美月の前に

しゃがんで丁寧に置いてあげると、

きょとんとした顔で

私の瞳を不安げに見つめていた。


花奏「…ほんまに、死んだら駄目なん?」


美月「っ!」


ばち。

そんな鈍い音が鳴ったと思えば

私の視界は揺らいでいて、

しゃがんでいた体勢からバランスを崩し

片手を硬いコンクリートについた。

…頬がひんやりとする。

美月に叩かれたようだった。


美月「ぁ…歩が救ってくれた命を…雑に扱うなっ!」


花奏「…あはは、ごめん。そうよな。」


刃物はそのままにすっと立ち上がり、

美月を置いて歩き出した。

何もないな。

ここには何も。


美月「待って…どこ行くのよ。」


花奏「…。」


美月「待ちなさいよ、ねぇっ!」


答えたって忘れるんだから意味がない。

忘れるわけがないなんて

そんな綺麗事を相手にできるほど

私は大人じゃなかった。

美月の言うことを全て無視し、

通る人々に白い目で見られながらも

あの機械の元へ行った。


そういえば歩の首元、

赤に塗れながらも

仄かに青く澄んでいたような。





°°°°°





歩「わっ…すごい綺麗…!」


花奏「ね、すごい綺麗やんな。」


歩「宇宙っぽい?星?惑星…?」


花奏「そんな感じのモチーフなんよ。」


歩「見て、光に反射させるとほんと綺麗…!」





°°°°°





ネックレスやブレスレット、イヤリング等の

プレゼントの意味。


ずっと一緒にいたい。


花奏「…………ぅぁ…っ。」


ずっと。





°°°°°





歩「確かに私はあんまこういうのって身につけないけど…興味がないって言ったら嘘になる。」


花奏「そうなんや?」


歩「うん。1人暮らしで手が届きづらかったって言うのもあるし、何が似合うかわかんないし…って、やらない理由あげたらキリがないんだけど。」


花奏「じゃあ、ひとつきっかけになったんかな。」


歩「そうだね。小津町のおかげ。」





°°°°°





花奏「……ぇぐっ………うあぁっ…。」


歩いているはずなのに

何故か息切れが酷くなる一方だった。

嗚咽が漏れていることの方が

脳内に残留して仕方がない。





°°°°°





歩「死なせな゛ぃ…ぜった」





°°°°°





急に正気が戻ってきたのか、

今までの比にならない程の

罪悪感が荒波のように押し寄せた。


花奏「んぐっ……はぁ、はぁっ…あぁぁあぅっ…!」


数人から声をかけられただろうか。

分からない。

いつの間にか廃墟の方へ歩いていて。


認めたくなかった。

歩が死んだなんて嘘だ。

違う。

でもさっき、ああもあっさり

歩は死んだと認めたじゃないか。

なのにどうしても今になって

その変わらない、変わるはずのない事実を

否定したくなったのだ。

こう思ったのは久しぶりだった。

最初の数回以来じゃないかな。

最近は歩の死が当たり前になってたんだ。

そう気づかされて胃酸が逆流する。


花奏「……はぁっ、はぁ……ぁゔっ…ぉぇっ…っ!」


ふらふらと壁に手をつき、

口の中の不快感をアスファルトに手放した。

とぽ、とぽと唾液と絡んでも

数滴しかこぼれ落ちない。

ご飯、暫く食べてないんだった。

麗香のくれたおにぎりの一部以外

口にした覚えがない。

吐き出されるものもないのだ。

喉が、口の中が焼けた感覚がする。


花奏「はっ…ひゅっ………っ。」


過呼吸を起こそうがなんだろうがもう。

もういないんだ。


花奏「ひゅぅっ……ひゅ、はっ…ぅうぁっ…!」


蹲りたい。

蹲って大声を上げて泣き出してしまいたい。

でも、そうしてももう…

…慰めてくれる人は、隣にいてくれる人は

もういない。

また。


花奏「……っ…あぁああぁあっ!」


1歩踏み出して。

地獄へと踏み出して。

1歩ずつ廃墟へ、昨日へ歩き出していた。


花奏「はぁぁぅっ……ぁっ…ひゅぅっ…あぁああぁっ…っ!」


奇妙な音を上げながら歩む。

今までで1番悪い期だ。

最悪な期だった。


廃墟に着くや否や

急に膝に力が入らなくなり、

階下で転がってしまった。

まずい。

もうすぐで意識が途切れると

そんな直感が脳内を走る。

何としても入院だけは阻止したくて、

赤子のように手足を使って

階段を這って登った。

砂やら石で服も傷口もぼろぼろで、

深く切り込みの入った掌には

幾つか小さな石が挟まり

その度に激痛が走る。


決死の思いで最上階に着くと

やはり例の機械が佇んでいた。

それが意味すること。

歩は、もう。


花奏「……ひぐっ………ぇうっ…ゔうぅっ…。」


声にならない声が漏れる。

腕をちぎられた獣のような声。

機械の元まで這い、ボタンを押すために

がたがたと震える膝で立つ。


『31202211111025』


久しく数字を確認してみても

何の意味かも分からない

相変わらずな羅列だった。


花奏「はっ、はぁっ…っ。」


死にたい、は言わない。

歩が助けてくれた命だから。


花奏「はっ…ぅ…。」


本当にこれを使うことが正義か?

本当にこれで間違ってないのか?

本当に歩を助けることは出来るの?


…けれど。

けれど、今辞めたら

歩の死が全て無駄になる。

それだけは避けたかった。

ずっとずっと昔から

それだは避けようと心に誓ってきた。


花奏「……ぁ…はは…。」


どうしようもなくて

乾いた笑いが込み上げた。

どうしよう。

どうすればよかったんだろう。

こんな時。

こんな時歩ならどうするだろう。

歩なら現実を受け止めて

しっかり前に進めたんだろうな。

過去ばかり見てる私と違って

あなたは未来へと向かえる人。


…そんなあなたを

やっぱりここで死なせたくない。

歩は私なんかより

生きるべき人だから。

命を大事にできる人だから。





°°°°°





花奏「………歩…。」


歩「死なせな゛ぃ…ぜった」





°°°°°





初心なんてとうの昔に忘れた。

歩も繰り返していたら

絶対死なせないなんて言葉

言わなくなっちゃうのかな。


廃墟は優しく見守るように、

将又突き放すように

閑静な住宅街に佇むのみ。

私には当たり前のように選択肢はなく、

例の機械に乗り込みボタンを押すだけ。


たった今隣に歩がいたなら。

その願いが叶うなら。


花奏「………助ける…。」


自殺願望は私の中に飲み込まれていった。

本音は2度と表には出さないでおこう。

私は普通の女の子。

死にたいとか、思ってない。

思ってない。


花奏「…助けるんだ、絶対助ける、助ける助ける助ける助ける助けるっ…たすけ、助けるっ…絶対、絶対。」


ぶつぶつと呪いのように紡がれた言葉。

それに続き脳内では暗示の数々。

…私は気づく事が出来なかった。


花奏「絶対助ける、助ける助ける助けるんだ…助ける、絶対助ける助けるんだ助ける、助ける…たすけ、る……たすけ…っ。」


最後にふとこぼれてしまった。

その言葉。

本音を…1度だけ吐いてもいいかな。

今なら誰も聞いてない。

だから。


花奏「…た、すけ………て…。」


その本音。

それに気づく前に

変わらず白いボタンを押すのだった。











変わらない朝。

変わらない熱。

変わらない日々。


花奏「…。」


食べられない日々。

眠れない日々。

痛み続ける日々。


花奏「…。」


美月からの連絡は放置。

やっぱり彼女は相談する以前に

全てを忘れ去っていた。

そりゃあそうだよね。

はなから信じていなかったけれど

心の中にもやもやが残る。

期待しかけたのかもしれない。


ここ最近の周期では

歩を助けようと動いているものの

歩自身と対面することが怖くなり、

会うのは控えていた。

学校は早退して湊とも話さず、

麗香や愛咲らともすら勿論話さない。

スマホで連絡を取って相手の行動を変え、

どうにか歩の生きる道を探していた。

すると、あの最悪な周期で得た

美月の情報が役に立っているのか、

歩を交差点から離しても

美月が死ぬことは少なくなった。

唯一の変わったことといえば

そのくらいだろうか。

美月の連絡を放置すると必ずー。


ぴーんぽーん。

そんな音が家中に鳴り響く。


いつもはどれだけ辛くても

玄関まで行くのだが、

今回はいいか。

もう、いいか。

いいや。


花奏「…。」


今の状態では

まともに喋ることも苦しい。

このきつさにも慣れたものだ。

寧ろいつだかのあの

体調が悪くならなかった周期の方が

おかしいのだから。

最悪の周期からまた何回か過ぎた。

10回はとうに過ぎただろうか。

だいぶ昔のことになっていった。

時間が経つ毎に記憶は混濁していく癖に

罪悪感はしっかりと積もったまま。

雨の音は耳の奥で鳴り続け、

彼女の嗚咽や苦しむ声は

夢の中でも鳴り止まずにいた。


逃げることが出来なくなって数周期。

どこに行けばいいのかすら

判断ができなくなっている。


花奏「…はぁ……。」


布団に潜ったまま寝返りをうつ。

窓が見えた。

狭い庭のようなスペースが

ぎりぎりながら見えた。

昼間だというのに

未だに布団に包まったままで。


もう1度寝てしまおうか。

そしたら…。

そしたら、また昨日へ戻りに行こう。


そう思った時だった。


花奏「…えっ…?」


人影が写ったのだ。

不審者…?

あの愉快犯か…?

…いや、そんなはずはない。

あいつは歩を追っているのだから

私のところには来るはずがない。


そう分かっていながらも

どくんと心臓が大きく跳ねる。

怖さが故か今までお供だった

かけ布団を蹴飛ばして

その場で立ってしまった。


今までこんなことなかった。

ずっと家の中にいた周期なんて

これまでにも数回はあった。

何が作用した?

どうして急に?

それらの疑問は答えられるはずもなく

只管待つことしか出来ず。


次の瞬間、ふと人が見えた。


花奏「…っ……梨菜…?」


梨菜は私の姿が見えるや否や

安心したようにひと息つき、

私に小さく手を振った。

初めて梨菜からの来訪を無視した。

すると心配して庭の方まで足を運び

安否を確認しに来るのか。

梨菜の行動は本当、読めないことだらけだ。


私は観念して玄関に向かい、

かちりと音を鳴らして鍵を開ける。

気だるげにゆっくりと戸を開くと

庭の方から駆け足で寄る梨菜の姿が見えた。


梨菜「急に来てごめんね!」


花奏「…どうしたん。」


梨菜「えっとね、美月ちゃんからー」


またこれか。

この会話を何度したことか。

聞き飽きてしまって

耳にすら入らない。

聞くだけ無駄だもの。

私は今、何をしているんだろう。

何がしたいんだろう。


花奏「…美月は用事やろ。」


梨菜「え?あ、うん。そうみたいだけど……ねぇ、花奏ちゃん。」


花奏「…ん?」


梨菜「花奏ちゃん、やっぱりそんな顔してなかったよね?」


花奏「…何言ってるん。」


梨菜「笑わずに聞いて。」


花奏「…?」


今までこんなことあったっけ?

相当前にも顔が違うだのどうこうと

言っていたような気がするけれど、

こんな断定的な言い方だっただろうか。

梨菜はひと呼吸置いた後、

意を決したような目つきで

私を刺すような眼差しで見つめてきた。


梨菜「私…私ね、今日を何回か見てるの。」


そう、ひと言呟いた。

ひと言。

たった、それだけ。

そして付け加えたの。


梨菜「……花奏ちゃんは何回目の今日なの…?」


花奏「………っ…!?」


あり得ない。

あり得なかった。

信じられなかった。

こんな事、今までなかった。

なかっただろう。

どうして急にこんなことが。


…そしたら、私の今までの行動も

記憶されている…ということ…?


花奏「ぁ…あ…っ……ごめ、ごめんなさいっ、ごめんな、さい…っ!」


梨菜「え…花奏ちゃん…?」


花奏「違うの、ちがっ…許しっ…許して…ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさっ…!」


梨菜「落ち着いて、花奏ちゃん!」


花奏「だっ…ぁゔっ…今までの、こと、知ってるんでしょっ…!」


梨菜「知らない!私何も分からないの。」


花奏「そんなの、嘘に決まって」


梨菜「本当なの。話を聞いて、花奏ちゃん!」


花奏「そんなはずない…!今までのこっ……ー」


あれ。

どうしてだろう。

視界が急に揺らいだ。

そうか。

あれ…?

私、今熱出てたんだっけ?


視界も思考も朦朧としだし、

全てが霞んだ先に、

歩の影を見た気がした。





***





「何か今日、小津町と初めて会った時の事思い出したから戻ってきたかった。」

「もう勝手にして。」

「それでも小津町が帰るっていうんなら付き合う。今日は隣にいるって決めた。」

「そうだね。小津町のおかげ。」


何故か、歩の声が反芻して聞こえる。

ここはどこなのだろう?

真っ暗。

真っ暗?

目を閉じている気がするような。

…疑問を感じてそっと目を開ける。


花奏『…学校。』


そう。

学校だった。

けれど私には1つ確信があった。

これは夢だっていう確信。

夢を見てると気づける夢を見るのは

何度かあったがここまで鮮明なものは

幾度となく見てきたつもりだ。

なんとも気持ち悪くて

落ち着かない気分だった。

ベランダから見える赤々とした空は

両手を広げ私を呼んでいるようにも見えた。

憎々しい気分で1つ大きく息を吸う。


歩「ねぇ。」


花奏『…?』


返事をしようとして振り向くと、

歩の隣には既に「私」がいる。

「私」がいたのだ。

私自身は第三者視点なのだとそこで思い知る。

ぐるりと周りを見渡すと

机が乱立していて、

なんだかヤンキーが多数いる学校を思わせた。

そのうちの1つの席に歩は、

…歩は、首から上がない状態で座り、

その真前に「私」がいた。

いつもの休み時間の時のよう。

そう、歩が鮮血に塗れていること以外は。

歩は怠そうに肘をつくことなく、

だらんと力なさげに話を聞いてくれるのだ。

視界に入る「私」を含めた二人からは

私のことは見えていないらしい。


歩「なんで私なの。」


花奏「…分からへんよ。」


歩「なにそれ。」


花奏「…っ。」


全ての始まりはTwitterがおかしくなった事。

日に日にフォローしている人の欄が

増えていく中で最後に

追加されたのが歩だった。

再会を果たしてすぐは、

この人が恩人だということに気づいたけど

どうにも人柄が違うように映ったんだっけ。

それでも歩と仲良くなりたくて

ただひたすらにがむしゃらに話しかけて

付き纏うようになって。

今思えばストーカーやメンヘラと思われても

おかしくないくらい

歩にべったりくっついてた。

歩も歩で当たり前な反応というか、

嫌がる素振りはそこそこに見せていた。

けれど本当に嫌がってはいなくて

悪態を吐きながらも私に付き合ってくれた。

その後もいろいろな不可解に苛まれ。

いろいろな光景が鮮明に脳裏に浮かぶ。


その中で苗字だけど呼んでくれるようになって、

いつの間にか夕ご飯を一緒に食べる仲になった。

今やいなくちゃいけない大切な存在。

…そうだったはずの存在。

正直言葉で表せないくらい大切になっていた。

なっていたはずだった。

彼女のいない生活なんて考えられずにいた。

今じゃ手に取るように

考えられるようになった。

だから卒業という言葉が怖くて。

本来なら私も卒業する年だが

退学してる等の影響で一緒には卒業出来ない。

そもそも卒業まで

辿り着けたならの話だけど。


そんな回想をしてるうちに

目の前にいる2人の会話は進んでいた様子。

最近は過去に思いを馳せてばかり。

未来なんて永劫見えないのかな。


歩「小津町。」


花奏「なーんや?」


歩「私、許さないから。」


ーーーゃん。

ーーーちゃん…。

ちかちかと点滅したのち、

その現実的な罪の意識は

微睡と共に溶けていくはずなどなかった。





***





花奏「はっ…はっ…!?」


嫌な夢を見た。

でも今回はましな部類だったな。

不幸中の幸いか。

浅く肩で息をしながら

とりあえず周りを見渡してみる。

和風の家、いつもの布団、

見えた窓の外、古びた障子。


家か。

私の家だ。

多分、そう。

高鳴る心臓の鼓動を落ち着かせようと

ひとつ大きく深呼吸をした。

深く息を吸ったのはいつぶりかな。

久しくこの行為をしたような。


梨菜「…あ、花奏ちゃん、起きた?」


私の部屋を覗くように

ふらっと現れた顔は、

髪をサイドテールに結ってある

いつもの梨菜だった。

ついさっきまで話していたのに、

遠い昔に会って以来だと勘違いしてしまう程

時間が経っている気がしている。


花奏「えっ…何で…」


梨菜「ごめんね。心配だったから勝手に家に上がって、花奏ちゃんが起きるまで待ってたの。」


花奏「そう、やったんや…ごめんな。」


梨菜「いいのいいの。私が急に突飛なこと言っちゃったのが原因だし。」


花奏「突飛な…あっ…。」


そうだ。

梨菜は、確か私に

「何回目の今日なのか」って

聞いてきたんだよね?

そんな言葉、繰り返してきた人間じゃなきゃ

そもそも出てこないと思う。

梨菜が何回か今日を見ているのも

事実…なのだろう。


花奏「…あのさ、梨菜の知ってる昨日と今日のこと…。」


梨菜「うん。それを話したくて待ってたんだ。」


花奏「……梨菜から見てどうなってるん。」


梨菜「私から見た昨日と今日は何もないんだよ。」


花奏「…は…?」


辛うじて昨日が何もない事には納得できる。

だって何もないのだから。

しかし今日も何もないとは

どういう事だろうか。


梨菜「ただ普通の1日なの。それに、今まで何回か繰り返したんだろうけど、私は記憶が曖昧で」


花奏「待って。繰り返したって分かってるのに曖昧ってどういうことなん?」


梨菜「なんていうんだろう…夢を見た後みたいな感じかな。何となく覚えてるけど時間が経つにつれて思い出せなくなっていく…みたいな。」


花奏「…そんなことになるんや。」


梨菜「忘れていくものだから、いつもデジャブをたまに感じるくらいの日常を送ってるの。日付も進んでるのに11日と12日にいつの間にか巻き戻ってるみたいな感じがしてて。」


梨菜の目つきは真剣そのもので、

嘘ではないんだろうなとは思う。

…そもそもこんな状況になってまで

嘘をつく理由がないというか。

脳内ではまだ雨の音がこびりついているせいか

今も尚雨が降っているような感覚がした。


梨菜「花奏ちゃんはどうなの?」


花奏「どうって…。」


梨菜「昨日と今日のこと、覚えてる?」


花奏「…っ……。」


言葉にされるとされるほど

胃がきりきりと痛む。

それ以上に、悲鳴を上げたくなるほど

脇腹が焼き切れていくような痛みが走る。

…現状を整理するためだ。

その為だ。

必要なことなんだ。

逃げちゃ駄目だ。


梨菜「…無理しないでね。」


花奏「ううん、大丈夫。…ちゃんと話すから…。」


梨菜「うん…。」


それからはゆっくりと時間をかけて、

昨日と今日が繰り返されていると

しっかり覚えている事。

けど繰り返す間に

忘れてしまった周期もある事。

今日、必ず歩が殺される事。

条件によって美月も死ぬ事。

繰り返しすぎて今が何回目の今日なのか

分からなくなっている事。

機械を使ったら昨日に巻き戻せること。

それらを全て伝えた。


話しているうちに段々と

梨菜の顔は曇っていき、

終いには眉を顰めて聞いていた。


梨菜「…そんなことが……。」


花奏「……。」


梨菜「辛かった…よね。」


花奏「…っ。」


私が欲しいのはそんな言葉じゃない。

同情なんていらない。

だってどんなに話し聞かせたって

私になれるわけじゃない。

私の苦しみなんて、歩の苦しみだって

梨菜には分からない。

あなたには分からない。

分からないでしょ。

分かるわけがないんだから。


だからこそ、歩の言葉は

私の体を刺すほど痛くて、

でも嬉しくてたまらなかった。

同情より理解を示してくれた事に

全てが報われた気がした。

…けれど実際のところ、

歩の言葉だったら全て

受け入れていただろうと思う。

例えそれが同情だったとしても。

歩なら。


花奏「…どうすればええんかな。」


梨菜「粗方の事は試したんでしょ?」


花奏「選択肢がありすぎて粗方と言えるのかどうか…。」


梨菜「そっか…。」


選択肢は無数にある。

どの言葉をどんなニュアンスで

話すかによっても

相手の行動は変わっていく。

分かりやすい例を挙げるならば湊だろう。

私の一文一句の音の違いによって

発される言葉が微妙に違ったり

将又唐突に異例の動きをしたりする。

無数だ。

たった2日間でこんなにも

違う未来が隠されているなんて

思っても見なかった。

普通の生活を送っているだけなら

私は気づかなかった。

歩も愛咲も麗香も美月も梨菜も

毎回違った行動をとるのだ。


そして今回だ。

梨菜は特定の動きをしない例外だと分かった。

言い方は悪いけれどCPUではないという事。

梨菜から見ても私はそうではないという事。

…?

待って。

私がCPUではないと気づいたのは

何でだったんだろうか。

だって梨菜からすれば記憶は朧げで

繰り返しているという意識も曖昧。

なのにどうして?


花奏「…何で私が繰り返してるかもって思ったん?」


梨菜「えっ…?…あぁ、だって目が違うんだもん。」


花奏「目…?」


梨菜「そう。雰囲気っていうのかな。今日は思い詰めてるどころの話じゃないくらい重い何かを背負ってるような…そんな目をしてたから。」


花奏「…そうなんや。」


梨菜「確信が持てたのは今回で漸くだったんだけどね。」


花奏「へぇ…今までは?」


梨菜「うーん…こんな顔してたっけ?…くらい。」





°°°°°





梨菜「花奏ちゃん、そんな顔してたっけ。」


花奏「…?」


梨菜「…あ、え、聞こえてた…?」


花奏「思いっきり。」


梨菜「ごめん!こっちの話で…。てか花奏ちゃん顔色悪いよ?」


花奏「ちょっと体調悪いんよ。」


梨菜「そ、そうなの!?玄関まで来させちゃってごめんっ!すぐ出るね。お大事にね!」





°°°°°





そんな会話が相当昔にあったのを思い出す。

前々から思ってはいたけど

ただ体調が悪いだけと思ってたのか。

…梨菜としては繰り返してる感覚が

しっかりとはないから、

その出来事すら最近のことだと

勘違いしてる…なんてこともありそうだな。


そんなに違ったかな。

他のみんなは違いに

気づいていないような気もしたけど。

…あぁ、でもいつか学校に篭った時は

流石に麗香と愛咲には筒抜けだったっけ。

他にもあったのだろう。

私が気づいていないだけで。


それから梨菜は一緒に

どうすればいいかを考えてくれたが、

これといって良さそうな案は

何ひとつ出てこなかった。

出てきたとしても既に試していたり、

現実味がなかったりと

欠けている部分が目立つ。

その間にも刻々と例の時間が

迫っている事に焦りを隠す事はできなかった。

焦るなんて今更すぎるのに。


梨菜「…うーん…じゃあどうすればいいんだろう。」


花奏「…。」


梨菜「いっそ息抜きしてみない?」


花奏「…え?」


梨菜「息が詰まっちゃって周りの選択肢が見えてないだけかも!ね、一旦外に出ようよ。」


花奏「え、でも…」


梨菜「大丈夫、ね!」


うきうきと話す彼女。

今更明るい気分になんて

なれっこないけれど、

一緒になって沈んでこないだけ

ちょっぴりありがたかったかもしれない。


梨菜「だから、外を歩くだけだけど行こう!」


花奏「…。」


梨菜「お散歩に付き合ってくれないかな…?」


付き合わせてるのは

間違いなく私の方なのに、

こういう言い回しができるあたり

大人だなと感じた。

私なんて18になってもまだ子供のまま。

大人になり損ったと

失望感に塗れてゆくばかり。


結局、服を着替えて身支度をした後

梨菜に連れられて外に出る事になった。

歩が死ぬ時間までは2時間弱程あり、

一応行動しようと思えば

出来るくらいの時間だ。

歩に会おうと思えば出来るくらいの。


外は嫌気が差すほど快晴で、

昨日の雨はどこに行ったのか

何度も恨みたくなった。

否、実際恨んでいた。

照りつけるような秋の日差しと

戯れるように楽しげに歩く梨菜。

この人はいつも陽の元に

いる人だと感じさせられる。


梨菜「ふんふふーん。私、元々散歩しててこっちまで来てたんだよ。」


花奏「…!」


梨菜「どうしたの、そんなはっとして…」


花奏「だからこの辺にいたんやね。」


梨菜「…?…そうだよ?」


花奏「何か用事でもあったん?」


梨菜「えっとね…私もちょっとだけ落ち込んでることがあって…それで適当にふらふら歩いてたの。」


そう言いながら

照れるように笑う彼女の姿。

梨菜も落ち込むことがあるんだ。

梨菜も人間なんだと

何故か改めて思い知る。


思えば今の今まで梨菜が

この近辺にいる理由を知らなかった。

美月から梨菜だけへと

私の様子を調べて欲しいだなんて

連絡をした訳ではないだろう。

私抜きのグループを作ったか

個人で皆に相談として送ったか。

別にそれは大した問題ではないけれど

いつだかの周期で

麗香が歩へと連絡していたのを思い出す。

何だっけ。

要約すると私に気を張っておけ

…みたいな内容だったと言っていた気がする。

今後もそういう私には分からないような形で

情報のやり取りがされるだろう。

そのことも頭に入れて

選択しろだなんて無理極まりない。

何しろ紙に整理した事を書いたとしても

次の周期には持っていけないんだから。


…いや、ひとつ方法があるかも知れない。

もしも廃墟にあるあの機械の中に

持って入ったらどうなるのか。

けれど戻った先はいつも教室。

…無理だろうか。

服が違う時点で

持ち越せないのは分かっている。

そもそもあのタイムマシン…と

紛いなりにも呼ぶとして、

それはどんな原理で動いているんだろう。

私の意識だけを過去に飛ばして…

…そしたら体は宙ぶらりん?

その先の世界線は?


…考えるのは辞めておこう。

頭が痛い。

パラレルワールドといった類の話は

あまり得意ではなかった。

考えれば考えるほど海を手でかくだけで

隣の大陸へと行こうとするような

無意味なことに感じたから。


梨菜「さ、こっちこっち。」


電車に乗ることもなく

迷わず私の前を歩く彼女。

近所のはずなのに見たこともない

細い脇道を通り、時に薄暗い住居から

偶々外を覗いた人と目が合う。

その度に背筋を得体の知れないものが

ぞわぞわと迫り上がってくる。

梨菜はというと通り慣れているのか

それ一切気にすることなんてなかった。


るん、と1歩踏み出す先には

学校よりも遥かに長い階段。

奥に続くにつれ草木が生い茂る。

周りは相変わらず古びた民家が多いが、

草が整備されているのもあり

一気に陽が照っていた。

家からはそう遠くない。

この階段を上がれば

地域一帯は展望出来るのではないか。

そうとすら感じる階段を通り過ぎて

住宅街をふらり歩いた。


梨菜「んー。やっぱり外の空気はいいね。」


花奏「…そうやね。」


梨菜「…花奏ちゃんはさ、憎くて憎くて仕方ない人とかいる?」


花奏「………え…?」


梨菜「あ、急にごめんね。」


花奏「いや…全然。」


梨菜「気になったの。」


花奏「憎くて…んー、どうやろうね。」


梨菜「いないの?」


花奏「いないっていうか、嫌いだとか許せないだとか思う人はいるけど、憎くて仕方ないとまで言えるかどうか…。」


梨菜「優しいんだね。」


花奏「そんなんやないよ。」


梨菜「ううん、優しい。私は出来ない。」


花奏「梨菜はおるん?そういう人。」


梨菜「いるよ。今でもそれで頭がぐるぐるすることがあるの。」


花奏「…。」


梨菜「それで落ち込んじゃってて。あはは。」


花奏「そっか…。」


梨菜「もし全部の気持ちを閉じ込めておけなんて言われたら…そりゃあ…どうしたらいいか分からなくなっちゃうじゃん。」


梨菜の声が初めて落ち込んだ。

憎い相手。

浮かぶのは愉快犯の顔。


そして、気付きたくなかったが

肌で感じてしまったことがあった。

それは、梨菜の視線の冷たさだった。

何を見つめているのだろう、

自然の先には住宅街が広がるのみ。

目が違うとはこのことなのだろうと

不意によぎったのだった。


花奏「…梨菜?」


梨菜「なあに?」


花奏「いや、何もない。」


何かを聞くのが怖くてその言葉を引っ込める。

踏み込んではいけない一線であると

直感的に思ったのだ。

それ以降日常会話を繰り広げ、

何かしら周期に関して考えることはなかった。

梨菜も気を遣っているのか

繰り返す日々については

話題に出すことはなかった。


その後はいつものような日々を過ごし

いつものように助けることなんて叶わず

いつものように廃墟へと向かって

繰り返すしかなかった。











ふと。

思いついたことがある。

今までやっていなかった相当突飛なこと。

1度似たようなことはしたっけ。


今までの思い出の土地へ

足を運ぶこと。


前回は…

…とはいえど相当昔のことだけれど、

その時は海や図書館といった近場で済ませた。

今回は大阪まで行こう。

前に住んでいたあの辺鄙な町まで行こう。

どうせお金も時間も命も戻ってくるのだ。

あの時の地獄を思い返せば

今の地獄なんてそうでもないと

思い返すことができるかも知れない。


唐突に決めたことだから

今から新幹線に乗らなければならない。

確実に歩の死の時間には間に合わない。

それでもいいやと思い始めている私は

最早人間ではないのだろう。


花奏「…。」


日帰りを予定してはいるが

念の為一泊分の服や歯ブラシ、

フェイスタオルなどほんの少しの日用品を

そこらに放ってあったリュックに詰めた。

勿論ご飯は食べることなく昔に比べて随分と

不味くなった水道水を口に含む。

それから髪を雑にまとめ上げようとした。

…が。


花奏「………いいや…。」


ふぁさっと鳥が羽を折りたたむように

長い長い髪が宙を舞う。

確かポニーテールをし続けていたのは

真帆路先輩がずっとポニーテールを

して欲しいって言ってたからだっけ。

もういいよ。

したって意味ないんだから。

下ろした髪はもう1度ブラシをかけ

リュックを背負うという理由で

適当に右に流しておいた。


リュックを背に玄関先に立つ。

お金も十二分に持った。

家は既に誰も住んでいないようにも感じる。


父さんのいない家に住み続けて

最低2ヶ月は経っただろうか。


花奏「…。」


会いたいという気持ちさえ忘れ

1人でこの家に住んでいるのが

当たり前のようになっていた。

1人暮らしをしたら大変だろう。

熱が出ても誰も看病してくれない。

ご飯は買いに行かなきゃない。

日付の進まない1人暮らしでは

そんな苦労もなかったな。


花奏「…行ってきます。」


いってらっしゃい。

その言葉なしに家を後にする。

誰の優しさに触れる事なく電車に乗り込み、

新幹線へと乗り移っていった。


車窓では景色が流れていった。

煩わしさを感じたくなかったから

スマホは予め機内モードに設定。

勉強道具なんて以ての外、

本などと言った娯楽も置いてきた。

外を眺むのみ。

そういった落ち着いた時間が

私には必要だったのかも知れない。

息の詰まるような閉鎖的な日常。

そこから抜け出すためにも。


不定期に襲う揺れは

私の体の不調を

思い出させるには十分だった。


きり。

じり。

脇腹は絶え間なく痛むようになったまま

治ることはなくなっていた。





***





花奏「………ぁー……。」


喉の奥から掠れ切った音がした。

感慨深くなったのか

それともここに戻ってきたことに対して

呆れている自分がいるのか。


午後1時頃になって漸く

目的地であった大阪の山奥の町に足をつけた。

懐かしい。

そのひと言に尽きる。


バスから降り立ったこの地は

まるであの日以来時が進んでいない。

未だにあの腐ったような高校は

あれがさも普通だと思い込んで

暮らしているんだろうな。

虫の声がする。

山だからということもあるのだろう、

あちこちで虫の輪唱が絶えず聞こえて

賑やかすぎた。

反面、人はほぼおらず、

街の隅の方でバスを降りたからか

人1人さえ見当たらない。


花奏「…学生は学校やとして…他の人は何してるんやろうな。」


呟きをひとつ足元の石に吸わせ

そのまま足で蹴り飛ばした。


いろいろな思い出の土地へと

足を運んでいった。

暫く歩き回り、たどり着いたのは家だった。


花奏「…。」


久々、それこそ2年ぶりに

過去住んでいた一軒家へ訪れた。

その姿は似ても似つかない姿だった。


木造ではなかったために

構造がところどころ露出しているが

大部分は燃えてしまったのか

黒焦げになっている。

今でもなんとかどこが玄関で

どこがキッチンだったかは思い出せるけれど、

過去の風貌は悉くない。

キープアウトなどの

テープも貼っていなければ

その他注意を促すものが何ひとつなかった。

この町の一部になったんだろう。

忌むべき一部に。


私の記憶が正しければ、

父さんに過激ないじめのことを話して

その当日に家具は全て置いて

この町を出ることにした。

おばあちゃんの家が神奈川にあり、

そこは今誰も住んでいないと言って。

町から出る時、車の中から

後ろをじっと見つめていると

人影がちらついた。

その人影はきっと森中で、

手には…手には、ポリタンク。

油かガソリンだと直ぐに判断がついた。

私の家の方へ向かい

ポリタンクを持ち運ぶ森中。

やる事はひとつだろう。

森中が燃やしたのだ。


花奏「……ただいま…。」


あの頃から父さんは既に

仕事で忙しそうにしていたな。

帰ってただいまと口にしても

誰も返事なんかしてくれなかった。

それが当たり前になっていて

日常と化していったけれど、

どこか寂しさは拭えなかったんだと思う。


扉はないが故にそのまま

家の中へ入ってゆく。

靴を脱いでも靴下は真っ黒になるし

そもそも瓦礫が多くて危険だったから

靴はそのままに家に上がる。

階段等は流石に分かるのだが、

そちら側が特に損傷が酷かったらしく

登るのは危険極まりなさそうだった。


どうしてこの家がこのまま

残っているのか甚だ疑問だったが、

解体費用がかかることを思い出せば

すぐに納得がいった。

元々町以外で暮らしていて突如混入した異物。

そんな奴らの家なんて誰がお金を払ってまで

解体したいのだろうか。

…そういったところだろう。

この町はおかしかった。

狭い世界だった。

そう、狭すぎたんだ。


花奏「………。」


未だに焦げ臭さが残っている気がする。

トイレを覗けば黒い灰のようなものが

便器の中にこびりついて固まっている。

一部壁は残っているものの

悪霊が取り憑いているかのような

模様が染み付いており、

そこら中に大小様々な木の板が

転がり朽ちていた。

靴を脱がなくて正解だった。


ひと通り観察した後、比較的綺麗で周りからも

見られる心配のないであろう

部屋の一角に腰を下ろし膝を抱えた。

最後に通っていた高校に

足を運んでみたいのだが、今はまだ授業中。

学生らに会うのは良くないと

自然に判断を下していた。

私が今高校生をやり直して高1。

当時同い年だった奴らは今や高3。

受験期真っ只中らしい。

就職する人は多そうな雰囲気だけど

実際はどうなのだろう。


花奏「……あんな奴らが町出るとか…最悪…。」


町に高校までは建立されていても

大学は流石になかった。

という事は町から出て都市の大学に通うか

上京等するか、という話になってくる。

就職だってそうだ。

町中で大概就職先は見つかるだろうが

大手につきたいとなれば

町から出なければならない。

あんな奴らが世に放たれるなんて

反吐が出そうになる。


人が死にかけるようないじめは日常茶飯事。

学校側もそれを容認。

…というより学校でいじめがあると

頑なに認めない先生。

何度か目撃しているというのに

改善する余地なし。

私は余所者だったせいで

学校以外でも酷な眼差しを向けられたっけ。

気にしないようにしてたし

学校のことで手一杯だったから

そこまで気にはならなかったけど、

今思えばとてつもなく劣悪な環境。

そんな環境でも、まだ当時の方が

ましだったかもと思ってしまえるほどに

今の私の心は憔悴し切っていた。


膝を抱えたまま顔を伏せた。

ごく稀に通る車の音、虫の声、鳥の声。

耳を澄ませていなくても

聞こえてくる騒音は早々に無視して、

眠るように過去に思いを馳せた。





***





花奏「…。」


時間を忘れ痛みに耐え、

はっとして顔を上げた時には

綺麗な夕焼けの残骸が

朽ちた家の中に焼け付いているのが見えた。


花奏「…そろそろ…やな。」


自然とひとつ、方言で呟きを

落としてみて気づいた。

そうだ。

私、歩と初めて話した時以来

方言を練習して使い始めたんだっけ。

この嫌いな町の方言を。


花奏「……そろそろ…かな…。」


方言は使わない。

使うなんて気持ち悪い。


そう思った私は即座に言い直していた。

あいつらと同じ喋り方をするなんて

この町に染まってしまったみたいで

とことん嫌になる。


機内モードのままのスマホを見るに

時刻は5時手前。

とっくに歩はいなくなった。

機内モードを外せば多大な量のメッセージや

非通知が届くことだろう。

分かっていながらもそのまま画面の光を消す。

リュックはそのまま置いていこう。

もしもの話、高校にまだ誰か残っていたら

色々と物を物色されるかもしれない。

それこそ移動費が盗まれたら

神奈川に戻れなくなる。

貴重品は持ち歩くより隠し置いておく方が

この町では安全とさえ思えた。


私の部屋は2階だから

もう見る事は難しいよね。


何故か今になって過ぎった思想。

それから自分の左手首を見た。

お化粧をして隠していない為に

線になった傷跡が幾つも顔を出している。

そっと触れてみると凸凹していた。


花奏「……行こう…。」


手ぶらで何も持たずに家から出る。

出る時に周りを見渡しても

誰もいなかった事は幸いだった。

昔使っていた通学路を

当時の時の道順のまま歩く。

30分程だろうか、将又それ以上だろうか。

ゆっくりと気ままに景色を堪能する間に

例の高校が見えてきた。

時々学生らしき人とすれば違うも

見知らぬ人ばかりで安心する。

もしかしたら知り合いは

いたのかも知れないが、

私は気づく事が出来なかった。


高校に着くと断りなく敷地内へ入り、

学校の裏手にまわった。

現在私服ということもあり

校舎の中に入るのは流石に憚られる。

なら、何をしに来たのか。

そう問われれば何とも答え難い。


体育館裏の方へ回る。

もう部活は終了したのか知らないが

生徒1人さえ外にいなければ

体育科の中にも1人すらいない。


花奏「…。」


ここで何されたんだっけ。

制服をずたずたにされたような覚えもあれば

例の花火の件だったような気もする。

どこで何されたかだなんて

そんないちいち覚えている方が変か。


体育館裏の花壇を見やる。

手入れされていなかったようで

花々はちりちりに枯れ、

生きていた当時の輝きなどとうに失っていた。

可哀想に、と他人事のように

ひと言だけが頭を掠める。


「……?」


さく、さくり。

落ち葉の季節だったことを忘れかけていたが、

その音でまだ秋だったと認知する。

そしてその足音は私のものではなかったことも

勿論即座に察知した。


花奏「……。」


森中「…あれー…まだ生きてたんやー。」


花奏「…森中…。」


森中「え、何?名前覚えてくれてたん?」


鼻で笑い遇らうように

距離を置いて話しかけてきたそいつこそ

私を当時いじめていた主犯の

森中で間違いなかった。

1番会いたくない奴に会うなんて

本当、ついてないと思う。

ため息なんて吐いても吐ききれない。

もううんざりだ。

髪は切るのが面倒になったのか

下の方で適当に括られている。

2年の間が空いたのだ。

昔はセミロングくらいだったはずだと

回想の中の森中と重ねていた。


第1声が「生きてたんだ?」の時点で

普通の会話ではない事は確か。

きっと全て分かっている癖に。

私があの日逃げたことも、

生きていたことも。


森中「どう、今の生活。楽しんどるか?」


花奏「…。」


森中「無視はないやろ。久しぶりに会うてその態度?」


花奏「第1声が生きてたんだってのもどうかと思うけど。」


森中「生きてたんや、よかったねえっていう意味に決まってるやん。」


花奏「…。」


嘘。

ずけずけと相手のスペースに

無理矢理入ってくるのだって

全く変っちゃいない。

落ち葉を踏み鳴らし近づいてくるのを察した。

けれど、動く気にもなれず

ただ森中を睨みつけるだけ。


森中「何や、そんな目つきするようになったんや。」


花奏「…煙草臭い…吸ってる?」


森中「だったら何やねん。関係ないやろ?」


花奏「…。」


森中「お前も肩に根性焼きしてる癖によく言うわな。」


森中は心底心地よさそうに

けたけた笑うのみだった。

何故だか無性に腹が立つ。

森中が根性焼きと指すのは

手持ち花火で肩を焼き付けられた跡のことを

言っているのだとすぐに想像出来た。


森中「何で今更戻ってきたん?謝れって言いにきたん?」


花奏「違う。」


森中「じゃあ何なん?お前のお友達みーんな、お前の過去知っていなくなりでもしたか?」


花奏「何で…。」


森中「あ?」


花奏「…何で知ってるの。」


森中「本名でTwitterやってるとか、見つけてくださいって言ってるようなもんやろ。」


花奏「じゃあ、かえって名前のアカウントは…。」


森中「誰それ。」


花奏「…え?」


森中「そいつは知らへんな。ま、ええやんか、そんなどうでもいいこと。どうなん、みんなおらへんくなったか?」


花奏「みんなはそんな人じゃない。」


森中「へぇー。随分信頼してるんやね。うちらの時とは大違いやんけ。」


花奏「当たり前でしょ。」


さくり。

また1歩と森中が近づく。

そこそこに鼻の効く私は

確実に煙草の匂いを掴んでいった。

逃げたい。

早く帰ってしまいたい。

こいつとだけは本当に会いたくなかった。

だからこの時間にしたというのに。


日陰だけでなく世界全体が

暗くなりゆく時間の中、

人影は私とこいつのみ。


森中「ただの観光にでも来たんかいや?こんな土地に態々?なぁ?」


花奏「…何で学校にいたの。」


森中「無視かよ。ほんま偉い身分になったな。」


花奏「…。」


森中「学校があったからに決まってるやろ。」


花奏「……他の生徒がいない理由は何。」


森中「二者面談とか進路相談とかでほぼ午前帰りや。途中で学生に会うたんならそいつら面談終わりやな。」


花奏「…あっそ。」


森中「聞いた上でその返しか。なっとらんな。」


さく、さくり。

私の目の前まで来て

足を止めて私を見上げた。

そしてポケットへと

手がスライドしたかと思えば

ふと何か固形のものがちらつく。

強めの風が吹いたせいで

まとめた髪が自由に舞い、

同時に落ち葉も騒音を鳴らして

踊り狂い出した。


森中「またあのお楽しみの時間思い出したいんか?」


花奏「…。」


かち、かち、と首元で鳴る操作音。

容易に想像がつく。

いつだか森中らが私の腕を

無闇に遊びで傷つけるのに用いた

カッターだろう。

冷たい感触を首筋に張り付け、

森中らしくなく手加減しながら

ゆっくりと手前に引いた。


森中「お前みたいな異物な、この町にはいらんのや。」


花奏「………ぃ…ぅ…。」


森中「は?」


花奏「可哀想に。」


森中「あはは、言うようになったな。」


その刹那、頭に何かしらの感覚。

何かと思えばわしゃわしゃと

犬のように撫でる森中の手。

そして次の瞬間、はっきりと

首元に鋭い痛みが走る。

それと同時に脇腹や手の甲にも

電流が流れたような錯覚を覚えた。


急にカッターを引いたのだ。

そりゃあ血は流れるものか。

そうだった。

こいつは、この町の奴らは

殺すことに躊躇ないんだった。

それこそいじめのひとつとして

机の上に猫や鳥、犬の死体を

平然と置いてくる奴らだった。


首元を抑えて呻き声を上げ、

その場で蹲るように膝をつく。

首元を刺されたのは

今までの周期の中でまだ数回。

慣れてない痛みは慣れたものよりも

相当鮮度の良い痛み。

膝をついたからだろう。

地面が大層近くに見えた。

2年前と同じ風景の如く間近に。


森中「昔から何回も言ってんねんけど忘れてるみたいやからもう1回言ったるわ。聞き?」


花奏「…っ。」


がさつに前髪あたりを主に鷲掴み

ぐっと上を向かせ眉間に刃を当てた。

そこは目じゃないんだ。

目ぐらい簡単に刺されると思った。

あの愉快犯と同じように。

微量ながら躊躇ったのか判別はつかなかった。


森中「お前は居るだけ、喋るだけで周りを不幸にする奴やってこと忘れんなや。」


花奏「…!」


森中「お前の周りは不幸ばっかやろ。なぁ、全部お前のせい」


花奏「違う…。」


森中「何が違うん。お前がおらんかったらこの町も平穏を保てたんや。」


花奏「…町のことなんて知らない。」


森中「そうよな。たかが部外者やし。」


花奏「…。」


森中「迷惑してるで、周りの奴ら。別の場所に行っても困らせてんねやろうなぁ。」


花奏「そんなことっ…」


森中「ほんまにないって言えるか?」


花奏「…っ。」


森中「今1番仲ようしてるのは誰やったっけ。ほら、あいつ。歩くみたいな名前の奴。」


花奏「歩が何。」


森中「相当気に入っとるみたいやな。向こう、くっつかれて迷惑してるで。」


花奏「…何が分かるの。」


森中「そりゃあ分かるやろ。お前にくっつかれてええ気になる人間おらんからな。歩って奴も嫌々ながら付き合って、表ではそうでもないフリしてんねん。」


ばっと投げ捨てるように弧を描くものだから

首が無慈悲にもこき、っと鳴った。

勢い余って強く手を地についた。

それからカッターの刃も顔から離れたが、

微量ながら血が流れる。

あの日々は血が流れるのは

普通だったもんな。

懐かしい。

今も大して変わらない、か。


森中の言葉は嘘まみれで

信じる必要なんてないとは

頭では分かっている。

ただ、心が拒んでいた。

歩のことを信じればいいと分かっているのに、

歩を信じることができなくなっている。

迷惑してる。

そうだよね。

散々な目に合わせて、

現在だって死に追いやって

それを迷惑じゃないとどうしたら言えようか。


森中「あん時死んどきゃあよかったのにな。」


花奏「…っ!」


そう呟く彼女の目は酷く冷たかった。

人とは思えないほど。

私もあのような目をしていたのだろうか。

梨菜に言われたんだっけ。

目が違った、って。


あの時、この町から逃げずに

火事に遭いそのまま

死んでいればよかったのだろうか。

そしたら歩に再会もせず

私は今こんな目に遭わずに済んだのかな。

歩は、歩は死なずに済んだのかな…?


森中「お前、逃げたやろ。」


花奏「…やっぱり家を燃やしたの、って…。」


森中「知ってる癖に。」


逃げたと知った上であの家に火を放ったんだ。

おかしい。

普通じゃない。

普通じゃないのは私も一緒…?


森中「今殺してやろうか。」


花奏「…そんなの、願い下」


森中「こんだけ正面から言ってても分からへんねんな。」


花奏「は…?」


森中「生きてる価値がないって言ってんねん。お前は不幸をばら撒く害悪な存在や。居るだけ無駄。なぁ、分かるか?」


森中はしゃがみ、私と同じ目線になりながら

再度刃を向けた。

さっきとは違って少し距離を離しながら。

蔑むような目で私を見下していた。

2年前と全く同じ目つき。

変わらない。

何も変っちゃいない。


生きる価値、存在意義。

全てを否定されても

立ち上がれるような気力が欲しかった。

言い返せるほどの強さが欲しかった。

半ば諦めている自分がいる。

歩を無惨に殺し続ける私なんて

生きている意味など最早ないに等しい。

居るだけで不幸を撒いている。

そう言っても過言ではない。

森中の言うことが正しいと思ってしまう。

そう思う他なかった。


私はどうしたらよかったんだろう。

歩の死を受け入れて

そのまま歩のいない日常を

虚しく過ごしていたらよかったのかな。


ぺたん、とお尻を地につけ、

逃げる意思を示すのなんて辞めた。

手に落ち葉や土がくっついてくる。

日陰だったこともあり

湿り気が良く気持ち悪さが全身を襲った。


森中「なぁ。」


花奏「…。」


森中「昔からお前はすぐに逃げてたよな。」


花奏「…。」


森中「今回はもう逃げんなよ。」


花奏「…あはは…もう逃げれない…でしょ。」


こんなところまで来てしまったんだ。

こんなに繰り返してしまったんだ。

今更歩の死を受け入れて

逃げるなんてできるか。

…出来る、もん、か。

でも。

でももし欲を言っていいのであれば、

全てを投げ出して逃げてしまいたい。

辞めてしまいたい。

救うことを諦めてしまいたい。

全ての責任を捨てて

死んで、しまいたい。


…あれ。

私は普通で死にたいなんて

思ってないんじゃなかったの?


森中「殺したろうか。」


花奏「…!」


それは。

一種救いの言葉だった。


左手を乱雑に取られ、掌を上に向けられる。

薄く凹凸のある腕が

秋の夕日に微々ながら照り付けられて

明らかになってゆく。


あぁ。

私は、最後までこいつの言いなりか。

それは癪だな。

それだけは、少し嫌だな。


森中「傷、だいぶ残ってんねんな。汚っ。」


迷いなく傷の真上にカッターを構えて

ふと私の目を見やった。

冷たい、冷たい目。

本当に変わらない。

何ひとつ変わらない日々だった。

私だけは変わったと、

成長したと言ってやりたかった。

それを証明したかった。

こいつらとは違うと

見せつけてやりたい自分がいた。

いたんだ。

痛んだ。

居たんだ。


カッターを構えた森中の手を

上から掴んでやった。


森中「何や、無駄な足掻きでもす」


そのまま力を込めて。

私の手首により深く刺さるように

力を強く込めてそのまま引いた。

とく、とく。

あー…。

久しぶりに手首が痛む。

その部位が痛む。

痛い。

痛い、な。

間違いなく痛い。

私は生きている。

生きてしまっている。


森中「…っ!?」


森中は私の予期せぬ行動に

心底驚いたのか、

カッターをからりと地に落とし

私の手を振り払った。

落ち葉にじんわりと

私の血が滲んでいく、滲んでいく。


花奏「はっ…はっ…ぃ゛…。」


森中「お前、何やってんねや。」


何でこんなことしてるんだろう。

私は迷いを捨ててカッターを拾い上げた。

それから。

…躊躇いさえも振り払って

また深く手首を切る。


切る。


切る。


切る。


何度も、何度も。

それこそあの愉快犯を

彷彿とさせるように何度も。

肌が紅に塗れても、

服が液体を吸って重くなっても、

地面に黒く染みがついても、

それらを気にすることなく

ただだひたすらに、一心不乱に切り続けた。


私なんて居なくなってしまえ。

ここで何してるんだよ。

歩はまた死んだ。

居なくなった。

私がこんなとこに来ているせいで、

私が何もしなかったせいで。

私があなたの代わりに死ねたなら

どんなにいいことだろう。

居なくなってしまえ。

消えてしまえ。


きっと血が止まっていれば

数多の深い傷が見えるだろう。

それこそ骨ぎりぎりにまで

届いているのではないかというほどの。

そこまでは行かずとも

確実に普段見ない体の内部が

露出しているはずだ。

このまま心臓なんて止まってしまえ。

息なんて絶えてしまえ。

命なんて終わってしまえ。

死んでしまえ。

死んでしまえ。


どうしてここまで思い詰めているのか。

思い詰められているのか

私には到底理解できなかった。

出来なかった。

何も分からなかった。

分かっていないふりをしているだけ。

全て分かっている。

嘘を吐き続けた。

歩を始め色々な人に様々な嘘を吐いてきた。

1番は自分に嘘を吐き続けていたと

この時まで知らないまま生きて来てたんだ。


切って。


切って。


もっと、私が苦しみきるまでー


森中「離せやそれ!」


突如、カッターを持つ手を

強い力で押さえつけられたと思えば

脇腹に物凄い勢いで蹴りを入れられた。

世界が回転して頬にじっとりと何かの感触。

一瞬、私はどうなっているのか

分からなかった。

視界が段々と安定して来たと思えば

蹴られた痛みも加算され

脇腹が今までにないほど酷く痛む。


花奏「か、はっ、はっ…あ゛っ…!」


森中「うちの持ちもん汚すなや、気持ち悪い。」


花奏「ぃゔっ…い゛っ…ぃだっ…っ。」


森中「そうや。気持ち悪いねん。ずっと前から何にも変ってへん。」


花奏「は、はゔっ…っ!」


森中「病んでリスカして被害者ヅラ?自意識過剰も甚だしいわ。」


花奏「あ゛ぅぅ…た…ぅ゛……っ。」


森中「喋んなや。これ以上町を、他人を汚すなよ。さっさと死ねばよかったんやこんなやつ。」


横になった視野のまま。

目の前に転がる土や葉の着いた

酷く汚いカッターを拾い上げた。


森中「私が前科負う必要なさそうで安心したわ。勝手に自分で死ぬやろ、なぁ?」


花奏「た゛っ……ぅぇ…っ…ひゅ、ひゅうっ…。」


森中「嫌なもん見せられたもんや。ほんま気ぃ悪い。2度と町に来んな。」


浅い呼吸が脳内で反芻する。

それ、知ってる。

昔にも何度かやったもの。

軽い過呼吸、だろうか。

息が吸いづらい。

その上全身が痛い。

肺も、首も、腕も、腰も。

痛い。

痛くて仕方がない。


かさ、かさりと

音が遠ざかってゆく。

残ったのは吐き気のする煙草の匂いと

むせ返るような鉄の匂いだけ。


花奏「はゔぅっ……あ゛、ぅ…。」


つぅっと、眉間辺りから

血が流れた。

…のだと思う。

頬を横切ってそのまま地へ吸わせた。


花奏「ぁ゛……ぁ、ゆ゛ぅ…っ…。」


歩。

無意識のうちにその名前を口にしていた。

信じられない。

もうあなたのことを信じられない。

今までの慰めや励ましの言葉全て

嘘だったように思えてしまう。

本当は迷惑してたんだよね。

私は邪魔でしかなかったよね。

それでも、プレゼントをあげた後の

あの目の輝きを嘘だと思いたくなかった。


でも。

でも、もう信じられない。

どうしよう。

死んでしまいたい。

どうして私は毎回生きてしまうの。

このまま息絶えられたら。

…そしたら、歩は?

これまでのことから逃げるの?

それでいいの?

逃げていいの?

歩は許してくれるの?


どうすれば。

どうしたら。


花奏「…た……ぅ゛け、て…っ。」


どうしたら救われるんだろう。











…。

またいつの間にか眠っていたらしい。

匂いがする。

歩の匂い。

…それから、何か焼いているような。

そんな匂い、音。


ばっと布団を勢いよく捲ると

カーテンが開かれていて

陽が刺すように照っている事に気がついた。

時計を確認すると9時と10時の間。

長いこと寝ていたみたい。


歩「あ、おはよ。」


花奏「……………ぁ…。」


あれ。

昨日、あれだけ話せたのに。

…喉が起きてないだけだろうか。

また、戻ってしまったのかな。


昨晩はあの後コンビニに行き、

ハムとお茶を買って寄り道せず帰宅した。

帰りはどうやって

歩の家まで来たのかを聞かれ、

徒歩で来たと答えたら

物凄く驚いていたっけ。

鞄も全て学校に置いてきて

逃げ出してきたって言ったら

「月曜日腹括って行かないとね」

と笑いながら言っていた。

スマホも全て学校に置いてきたし、

私の住所は学校側が抑えてるからといって

家に行ったとしても誰もいない。

父さんに連絡があっただろう。

でも私自身何も持ち歩いていないから

半ば行方不明扱いかもしれない。


歩には学校だけでも連絡しとけばと

提案はされたけれど、

明日の夕方まで待ってほしい事を伝えたら

迷いもなく「いいんじゃない」とひと言。


くう、とお腹が鳴る。

寝て起きたらお腹が空いていた。

いつぶりだ。

こんな感覚、懐かしすぎて

違和感すらある。


歩「すぐ出来るから。」


花奏「……ん、ぅ…………。」


歩って1人暮らしなんだ。

再確認するように脳内を過った。





***





それから朝昼兼のご飯を食べ、

今日は机を拭くのを手伝わさせてもらえた。

お皿を洗っている音がする。

昨日と同じ。

変わらず、同じ。


歩「そういえばさ、いつ家戻んの?月曜ここから行く?」


花奏「……ぁ…………あ、明日…には…。」


歩「そっか。」


花奏「ぁゆ、今日………。」


歩「ん?」


花奏「……きょ、う……歩、の予定………。」


歩「ないけど?」


花奏「……え、ぇ…?」


歩「…?」


花奏「だ、って…実家、に……」


歩「あぁ、いいのいいの。いつだって帰れるんだし。何なら平日の方が楽なの。学校と実家近いしさ。」


花奏「…………ほんま、に…?」


歩「うん。だから気にするだけ無駄だよ。」


こちらを一瞥して

またシンクへ向かう彼女。

無駄。

そこまで言われてしまっては

そもそも気にしようとすら思わなくなる。

私の行動全てを知っているかのように

言葉を並べられた。


私は机を拭き終わり、

歩が洗い物を終えたところで

再度深く睡魔が襲う。

ベッドの側面に背を寄せる。

最近…とはいえどこの体的には

通用しないが、最近の周期ではよく

寝れなかった日が続いた。

実質眠らず動き続けているのと同義程度の

心的疲労が溜まっていたのかもしれない。

その皺寄せが来たのか

こくりこくりと首から揺れた。


歩「眠い?」


花奏「ぅ、ん…。」


歩「寝ていいよ。」


花奏「………ぁゆ…は…」


歩「私?…んー……今日1日家にいようかな。買いたいものも用事もないし。」


花奏「……うん…。」


歩「眠そう。聞いてないでしょ。」


花奏「聞い……て、る…。」


歩「はい、ほら、布団入って。」


肩をとんとんと叩かれて渋々布団の中に入る。

何も言われなければラグの上で横になって

日に当たりながら猫のように

眠っていたことだろう。


歩「あんたってさ、ほんと聞き分けが良すぎるってくらいいいよね。」


花奏「そうかいや………?」


歩「うん。昨日の夜も声かけたら布団の中に入ってったし。」


花奏「うん…。」


歩「寝かけてたし少しくらい駄々捏ねても不思議じゃないのにさ。」


布団の中に体を沈める。

さっきまで暖ったはずが

リセットされており、

また温め直すところから

始めなければならなかった。


私は相変わらず髪を胸元に纏め、

体の左側が上を向くように

蹲るように小さくなって寝転がる。


歩「…おやすみ。」


花奏「……………おや……すみ…。」


広がる闇世界の中でふわっと頭に感触。

撫でられているような。…そんな気がした。





***





…。

…今、何時だろう。

布団の中が温過ぎて出たくない。

ずっと寒い思いをしていたから

今この幸せを逃したくない。

足をばたばたと泳いでいるように動かすと

ふわりと見知った香りが鼻に届いた。

懐かしい。

懐かしいな。

そして安心する。

あぁ、あなたがいるんだって思える。

そんな香り。


うっすらと目を開けると

一瞬見た覚えのない場所だと

判断して飛び起きた。

程よくスプリングの効いたベッドからも

覗いていた時計は

もう5時の近くを指している。

大切だった暖かさは

私の不注意な動きのせいで

どこかへ霞み消えてしまった。

朝なのかな、それとも夕方なのだろうか。

どちらにせよ眠りすぎていることは確か。


花奏「…………ゅ…?」


声が掠れて言葉を紡ぎ難い。

そんな中絞り出した数時間ぶりの声は、

乾燥してしまって喉の奥で

口内がくっついていたが故

微々たる波しか起こらなかった。

どうして私は歩の家で寝ていたんだっけ。

時計やらその他の家具、

そしてこのベッドの匂いから

歩の家だったと思い出した。

そこまでは良いんだけど。

昨日から散々甘えた上

今日もこんな時間まで

家に入り浸っていたのか。


花奏「…………ぁ…ゆ…?」


…返事はない。

ひと、ひとと水滴が蛇口から

強かにこぼれ落ちる音だけが

この家を支配していた。

時々隣の部屋に住んでいる人なのか、

どんと床が壁が鳴る。

集合住宅で住むならば

騒音とか多少の問題はどうしてもある。

だから、これは仕方のないこと。

歩の家に何度か遊びに行った時から

このような不定期な音は

部屋を襲ってきていたから。


花奏「…歩……ぁ…ゆ……っ!」


いくら呼んでも隣にはいなかった。

隣に来てくれなかった。

もう時間切れだよ。

自分から歩み寄らなかったから

こんな結果を招いたんだよ。

そう言われているような気がしてならなかった。


…まだ。

まだ、嘘だと信じたいんだ。


きっとこの5時は

いつもと違う5時だって、そう思いたい。

それでね、晩ごはんを一緒に食べるんだ。

昨日は私が1人で食べてしまったから

今日は一緒に、隣で。

朝ごはんの時のように。

それから何をしよう。

それこそ化学の難問は

まだ解けてないままだったし、

誕生日プレゼントは買えてないままだな。

他に、以前に2人との会話の中で

あれしたいね、これしたいねっていうのは

なかっただろうか。


花奏「…歩……どこ…?」


そんな妄想をでかでかと広げていても

頭では現実を理解していたんだろう。

布団からつま先の冷えた足を取り出し、

ラグのひかれた床につける。

人工物の毛が足裏を擽ったけれど

慣れてしまったのかどうでもよかった。

カーテンは閉じられていなくて

外は随分と赤かった。

昨日の雨を経て吹っ切れたかのように

自分を主張する太陽は沈みかかるも、

歩の部屋は日当たりの関係上

一切照らされていなかった。

そういえばこの部屋は

日当たりがいいんだっけ、悪いんだっけ。

朝日が差していたのは記憶に新しい。

夏に暑すぎって言って

エアコンをつけてた彼女の後ろ姿を

未だに覚えてる。

そんな日から、あの夏から

どれだけ時間が経ったのかな。

今、本当なら何月の何日だろう。

髪、もっと伸びてたのかな。


花奏「歩……ぁ………………」


歩。

もしさ。

もしもね。

こんな繰り返しの日々が、

昨日と今日が終わって。

昨日と今日が、終わったとして…

…それで、もしも明日が来たなら。


花奏「……っ…。」


もし、明日あなたと会えたら

私の髪を切って欲しい。

そうだな。

もうポニーテールは出来なくていいや。

ボブくらいがいいな。

それこそ歩より少し短いくらいの。

結べなくていいから、

ばっさりと切ってしまいたい。


それでね、また伸びたら

歩に切ってもらうんだ。


歩「…。」


花奏「……歩…。」


彼女はお風呂場で雑に寝転がっていた。

浴槽を洗おうとしていたのか

スポンジが転がっている。

少し時間が経ったようで、

スポンジについていたはずの泡は

どこかへ散布してしまった。

雑に転がるシャワーヘッドからは

水はほぼ滴り落ちていなかった。

そして謎の金具。

よくよく見てみればシャワーを固定する

部品のようにも見える。

これとともにシャワーヘッドまで

落ちてきたのだろうか。

何度も何度も2日間を繰り返して来たが、

艶やかな黒髪を床に撒き散らして

静かに眠る彼女の姿は初めて目にした。

こんなに綺麗に

亡くなっているのは初めて見た。

そう思うと今までの周期では

どれほど無惨に殺されていたのか

…否、殺していたのかと思う。

不意に笑いが込み上げてくるほどに

歩は綺麗に死んでいた。

確認しなくても分かる。

これだけは、この事実だけは

永遠に変わらなかったのだから。


花奏「歩、おやすみ。」


歩「…。」


音もなく寝転がる彼女の頭を撫でた。

丁寧にお手入れされていた髪は

手に絡まることなくって。

どうやったらこんなに綺麗なまま

保てるんだろうって

いつも不思議に思ってた。

歩の髪はいつも良い香りで、

それを目印に探しててさ。

けど所詮髪の香りだから空気に残らなくて、

酸素に溶けるように失せてゆく時

ちょっとだけ切なかったんだ。


前のこと。

相当前のことだけどさ。

私が頭を撫でたら嫌がってたよね。

触るな、きもい、って。

でももう嫌がらなくなっちゃった。

変な感じがした。

歩が歩ではなくなるって

こういうことをいっているのだろうか。

今から飛び起きて

やめろ触るなってくらい言ってくれないかな。

そんなこと、起こるわけないよね。

…起こったらいいのにな。


花奏「……床、痛いよな。ちょっと動かすで。」


彼女の背中、

それから膝裏に手を滑り込ませ

座った体制にして壁際へ寄らす。

けれどお風呂場では底冷えするだろうと思い、

もう1度力を入れてみる。

衣服越しだから歩は冷たくなっているのか

そうではないのかまだ分からなかった。


華奢な見た目だから軽いと思ってたけど

見た目よりもしっかり

人間らしく重量があった。

身長も小さいからもう少し軽いと

思ったんだけどな。

小さいなんて言ったら怒るかな。

でも実際のところ私が170cmくらいで

歩が150cmくらいだったから

20cmくらい差はあったんだ。

身長は小さいけど胸はあるよね。

その上美人さんなんだもん。

今だって綺麗に眠っててさ。

まつ毛長いなとか、

髪の毛が潤ってるなとか、

手足が白いなとか、

今になってまでそんなことを感じている。


花奏「……いくで、せーのっ。」


足腰に力を入れ直し、

気合を入れて体を持ち上げる。

動かなくなった彼女は重力に従順で

首がかくりと仰け反った。

それを戻せる手は余っておらず、

辛いだろうけどその姿勢のまま

お風呂場からゆっくりと出た。

あくまでどこにも彼女をぶつけないように

慎重に、慎重に運ぶ。

リビングに入りベッドの上へ

1度横になってもらって、

あたりにあるクッションをかき集めた。

そんな私の所作全てを

西陽はじっと見つめている。

でも、もう責められているとは感じなかった。


クッションを壁際にある程度並べたところで

歩をもう1度動かそうと

さっきの位置に手を入れた。

そしてスライドさせるように壁際へ連れ、

壁を背に腰掛けさせた。

もう力が入らないよね。

すぐに倒れそうになってしまったから

彼女を片手で支えたまま

あなたの隣を陣取る。

それから布団を被るの。

一緒の布団に潜るように。


花奏「体制きつない?…大丈夫?」


その答えはなく、

耐えきれなかったのか

こてんと私の肩に頭が傾いた。

艶やかとはいえど

さっきまで床に転がっていたせいで

髪は少しばかりぐしゃぐしゃだった。

彼女の口の中に髪が入りかけてたから

簡単に手櫛をして髪を逃した時、

ふと頬に触れてしまった。

どうしようもなく冷たくて、

手遅れだと分かるほどに冷たくなっていて。

…私はただ気づかないふりをした。

とっくに理解していた。

分かっていた。

ただ、気づかないふりをし続けていたの。


花奏「…よし、朝まで話そうや。な?」


歩「…。」


朝まで話していよう。

一緒に、今日の夜を一緒に。

そして一緒に明日を迎えよう。

私がずっと欲していた歩と迎える明日。

そこであなたと朝日を見たら

私は歩とお別れする。

決めたんだ。

きっと、今回の死因は

脳卒中とか心不全とか

体内部のものだったんだと思う。

じゃなきゃ流血もなしに死ねないだろうから。

シャワーヘッドが落ちて、

タイミングが悪く心不全、とかね。

これは私の予想だけど

…多分、私がいたら歩は

いなくなっちゃうんだろうな。

私がいなければ歩は生きていられると思うの。

だから、最期。

最期だね。

一緒にいられる最期の時間。


花奏「初めて会うた時のこと、覚えてる?」


歩「…。」


花奏「あの日、私自殺しようとしてたよな。」


歩「…。」


花奏「…懐かしいな。あのベランダからの景色まだ覚えてるもん。」


歩「…。」


あの日の景色は今でもよく覚えている。

夕方が近くなっていた時間帯で、

運動部員の声が遠くから疎に聞こえていた。

白かったはずのスニーカーは

町でのいじめのせいで

真っ黒になっててさ。

その頃は確か腕もぼろぼろだったの。

自分で薄く切ったこともあったし、

何より森中らに切られてたから。

こんな傷を特に隠しもしない

無防備さだったんだよ。

それで校内見学者を装ってたわけでもないけど

学校に侵入できちゃってさ。

今考えればあの高校は定時制の人もいたし、

その人達は制服がないから

あの時の私も定時制の生徒だと勘違いされて

難なく入れたんだろうなと思う。

とりあえず1番高い階に来て

適当に誰もいない隅の教室を選んだ。

すぐにベランダに出たはいいけど

飛び降りるのが怖くなっちゃって。

怖気付いてしまって

暫く外を眺めてたんだ。


花奏「この高校が真帆路先輩の通ってた高校かって感慨深くなってたなぁ。」


歩「…。」


真帆路先輩の通っていた学校を

少しだけでもいいから目に焼き付けておこう。

それからこの記憶と共に地へ飛ぼう。

そんなことを考えてたっけ。

私も真帆路先輩と同じ高校に通えていたら

あんな惨たらしい人生を歩まずに

済んだのかもしれないなって

後悔に後悔を重ねていた。


花奏「……ずっと外見てずっと考えてて。長い時間かけて漸く心が決まってん。」


歩「…。」


花奏「真っ黒になった靴も脱いでさ、よし飛び降りようと思った時やったんよ。」


歩「…。」


花奏「「待って」って急に声がしてな。」


歩「…。」


「待って」と。

私の足を止めたの。

振り返るほか何かをすることなんて出来なくて

声のする方へ視線を向けた。

そこに、歩がいた。

帰る前だったのかな、鞄を背負っていて

右手は癖なのか肩ベルトに添えてた。

私を見る目は驚きというよりも

何というか、冷静すぎていたっけ。

眉を顰めることなく

ただ声をかけただけみたいで。

そう思うと今では私のことを見て

顔を顰めるようになったよね。

保健室まで会いに来てくれた時とか

昨日私を家にあげる時だとか。

変わらないなんて思っていたけど

変わったよね。

変わったね、お互いに。


花奏「それから少しだけお話ししたよな。」


歩「…。」


花奏「当時は歩のことこれっぽっちも知らんかったし、正真正銘赤の他人やったけどな、歩が話してくれたから私も話してええんやって思えたんよ。」


歩「…。」


その時歩から聞いた話は

私にとっては衝撃的で。

歩自身、昔いじめを受けていたという話だった。

大切な友達だと思っていた子から

遊び半分でいじめられて以降

何も信じられなくなったあなたは、

今でも友達なんて作らないようにしていると

溢してたんだよ。

それでも生きている歩のことを

凄いなって素直に尊敬したの。

大事なことを曲げずに生きる歩が

とてつもなくかっこよく見えた。

私もこうなりたいって、

私も歩みたいに強く生きていたいって思った。

そして当時の私みたいに

命の道から外れようとしている人がいたら、

歩みたいに見て見ぬふりをせず

声をかけてあげられるような…

…そんな人になりたいって思ったんだ。


肩に凭れた歩の頭は

2度と勝手に上がることはない。

しばしば肩から

滑り落ちそうになるものだから、

その時は手で額を支えて

また肩に体重を預けさせた。

手ぐせかな。

歩の人差し指を握ったけれど、

間違いなんてなく冷たいままだった。


花奏「……あの時、止めてくれたんが歩でよかったな。」


歩「…。」


懐かしいね。

確かその日に関西弁話せるの

いいじゃんって言っていたよね。

どこに住んでるの、という話から

方言の話になっていってさ。

「私も転勤族で大阪に住んだことあったけど

方言の癖が強くて慣れなかった。」

なんて言ってた気がする。

それからエセでもいいからと

動画を見て勉強したのはいい思い出だな。


懐かしいね。

「負けるな」って言ってくれたんだよ。

目元が笑っていて、

あぁ、こんな優しい人もいたんだって

世の中を見直したんだっけ。

その言葉に元気付けられたよ。

その言葉があったから

この高校を受験しようと思ったし

歩ともっと一緒にいたいと思ったし、

何より少しだけ頑張って

生きていようって思えたんだよ。


思えばあの日から

歩は私の隣に座ってくれていたんだ。

2年前の日から変わらず

今もこうやって隣にいてくれていた。


花奏「歩。」


歩「…。」


花奏「ありがとうな。」


歩「…。」


花奏「ずっとずっと、今まで。沢山助けてくれてたよな。」


歩「…。」


花奏「沢山救われてたで…歩。」


歩「…。」


花奏「……ありがとう…。」


歩「…。」


花奏「…救われてた…んよ……ずっと。」


ぎゅ、と赤ちゃんみたいに

歩の人差し指だけを握る。

けど、歩は握り返してくれなかった。

彼女の人差し指は表面ばかり温くなり、

骨の髄までは温まりきらなかった。

私の手汗が歩の手の皺へ伝っているだろうな。


花奏「…その次に会えたのは今年の4月やったね。」


歩「…。」


正直私の感覚では今年と言えないけれど。

けど今は11月12日。

なら今年中だね。

時間、驚くほど全く進まなかったな。


花奏「Twitterのアカウントが変になってさ。そこに歩がおってびっくりしたんよ。」


歩「…。」


花奏「あ、でもその前に会うてたっけ。」


歩「…。」


花奏「ほら、私が入学して翌日かな、思い出の場所に行ったら歩がおってん。」


歩「…。」


花奏「まさかあの教室が今年の歩の教室になるなんてな。」


歩「…。」


花奏「…私、すごくびっくりしたんよ。また会えたって驚いたし、それ以上に嬉しくって。」


歩「…。」


もう会えないと腹を括っていた。

そんな人と再び会えたんだ。

嬉しい以外言葉が浮かばなかったのを

しっかりと記憶している。

けれど、嬉しい反面

どこか自殺しかけた日に出会った歩とは

何か違って見えたんだ。


それから宝探ししたよね。

1番最初の集合では歩はいなかった。

いくら誘っても頑なに断られた。

でもそれには理由があった。

当時は美月と歩は過去のことから

仲直り出来ていなかったから

何が何でも行きたくなかった。

行けなかったんだ。

そのこともまだ知らない時期。


けどある時を境に参加するようになって、

そして向かった先が

今何度も何度も行っている廃墟だった。

まさか今になって宝探しで見つけた宝が

関わってくるだなんて思ってもいなかったな。


花奏「それでさ、初めて私が歩の家に上がり込んだんよね。5月か6月くらいやったよね?」


歩「…。」


懐かしいね。

美容師を目指してるっていう話を聞いたのは

私が初めて歩の家に遠慮なくお邪魔した時。

一緒に晩御飯でも食べれたらと思って

前に美月から預かっていた

歩の年賀状を頼りに向かった。

けどその日彼女はバイトがあったらしく、

夜まで家の前で待ってたの。

夏前とはいえ夜だったから

相当冷えていた覚えがある。

コンビニで買った

レンジで温めて食べるタイプの

ハンバーグとお米、あとカット野菜を手に

じっと待ってたんだ。

結構覚えてるもんだな。

何の連絡も無く向かったものだから

歩は本当迷惑がってたのも覚えてる。

あの時は本当に嫌そうだった。

それからはちゃんと連絡してから

遠慮なく無理矢理お邪魔するようにしたんだ。

何度か一緒に晩御飯を食べて、

そして2回くらいだけ歩の家に泊まった。

繰り返しの日々は含めず2回

…だったと思う。

歩はいつからか反抗をやめて

…というより諦めて

すんなり家に入れてくれるようになったね。

昨日だってそう。

寧ろ自分から家に入れって言うものだから

一瞬耳を疑ったんだよ。


歩だからこそ無理矢理までして

仲良くなりたいって、

一緒にいたい、隣にいたいって思えた。

歩だからだよ。


花奏「あの時も歩が無茶を聞いてくれてありがとうな。」


歩「…。」


花奏「歩が折れてへんかったら、多分今の関係はなかったで。」


歩「…。」


花奏「…沢山許してもらってたんやね。」


歩「…。」


今更ながら歩の優しさに気付かされる。

どれほど私がわがままを言ってきていたのか

嫌でも理解させられる。

歩は子供っぽく話を聞かなくて

大人らしく判断をしていた。

ずっと前から、ずっと。

きっと私と会う前から。

彼女だからこそ出来たんだろう。


歩、ありがとう。

沢山の感謝を今、今伝えるね。

遅いよね。

気づくのも言葉にするのも遅いよね。

私ってばこういうところ馬鹿だよね。

歩の言う通り私の方が馬鹿だね。


花奏「ご飯一緒に食べるようになった頃かな。普通に教室にも遊びに行くようなったのは。」


歩「…。」


花奏「…歩ってば愛咲さんが絡むたび嫌そうな顔してたよな。」


歩「…。」


花奏「でも本当に嫌なわけじゃなくって…戯れてるっていうか。」


歩「…。」


花奏「居心地はよかったやんな。」


歩「…。」


数えきれないほどの時間を

彼女と過ごしてきた。

それこそ、不可解な出来事きっかけで

過ごす時間もあったけれど、

それ以上に自分達で集まって

話している時間の方が長かったと思う。

特に歩はそうだった。

いろいろなところに行った。

一緒に勉強もした。

歩と、あなたと一緒にいるのが

1番心地よかった。


指から手を離す。

じゃなきゃ歩の指がふやけてしまうから。

その代わり、彼女の頭に

自分の頭を寄せてみる。

こつんと固いものがあたると

歩の頭が肩から滑り落ちかけた。

バランス取るの、難しいな。

それでもなんとか上手くやって

頭を寄せ合ったの。


花奏「それ以降で大きなことといえば…みんなで夏祭りいったり手持ち花火をしたりしたよな。」


歩「…。」


花奏「…よく蝉の鳴く夏やったね。」


歩「…。」


花奏「……花火、歩のお陰で出来たんよ。」


蝉がわんわんと唸る夏。

浴衣こそ着なかったけど

みんなでわいわい騒いでさ。

それで1回目に見た花火は

大きな打ち上げ花火やったな。

私は過去のことを思い出したく無くて

その場から逃げたんだ。

そしたら麗香や歩が見つけてくれて、

寄り添ってくれたの。

でも何も言えなかった。

歩は。

歩は、どんな顔してたのだろう。

それこそ眉を顰めていたのかな。

あの表情をする時ってどんな時なんだろう。

思い返してみれば嫌がっている時と

私が無理して笑った時とかだったかな。

居た堪れないような気持ちに

なっていたのかな。

私に同情していたのかな。

どうなんだろう。

歩が生きている間に聞いておけばよかった。

あと、生きている間に

そんな顔しないでって伝えておけばよかった。


花奏「結局その日の花火は歩も見れてなかったんやないかな。ね?」


歩「…。」


花奏「それを案じてなんか分からへんけど、愛咲とかが手持ち花火でいいからしようぜって言い出したんよな。」


歩「…。」


花奏「…あん時ぞっとしたんよ。」


歩「…。」


花奏「んでね、内心歩はこのお誘いにのらんやろうと思ってた。」


歩「…。」


花奏「でも、すんなり受け入れちゃってさ。」


歩「…。」


花奏「もう逃げ場ないやんって勝手に落ち込んでたんやで。」


歩「…。」


大きな花火も勿論怖いけれど

1番怖いのは手持ち花火だった。

焼ける鋭い音を散布しながら

眩い光を放つそれらは見るのも

阻まれるほどに苦手だった。

過去、着火後の花火を肌にじっくりと

押し付けられたことがあったから。

今も体には火傷の跡が残っている。

私の体は火傷の跡やら

切り傷の跡やらで汚れてた。

傷だらけ。


夏夜、みんなで近くの公園に集まって

花火をすることになったよね。

その頃には美月と歩は

いつの間にか仲直りしてて

びっくりしたのを覚えてる。

歩がLINEのグループに入ったのだって

この時期だったはず。

歩の中で何かが変わったんだなって思うと

どこか嬉しくもあったし寂しくもあった。

歩はどんどん変わってしまう。

反面私はいつまでも過去に囚われて

今いる場所から進めないまま。

それも怖いことのひとつだった。

置いていかれるのが怖かった。

だから成長したくて

無理にでもみんなとの小さな

花火大会に参加したの。


花奏「2回目の花火大会、参加したはええけどやっぱり何も出来んくて…遠くにあった階段に座ってたんよね。」


歩「…。」


花奏「そしたら歩が隣に来てくれて…。」


歩「…。」


花奏「…。」


歩「…。」


花奏「…んで、蟻をでこぴんして飛ばしてさ。」


歩「…。」


花奏「花火…線香花火、持ってきてくれたやんな。」


歩「…。」


花奏「無理だったら蟻にでも食わせとけって言葉、まだ覚えてんで。」


歩「…。」


花奏「歩は覚えてたかな。」


歩「…。」


花奏「…花火、怖かったけどな…あの日の線香花火は綺麗やなって思えたよ。」


歩「…。」


花奏「……歩のおかげやで。」


歩「…。」


私が「歩のおかげだ」とか

「歩は恩人だ」とか言っても

いつも同じ言葉で返してきたよね。

「私は何もしてない、あんたが頑張っただけ」

…って、毎回毎回。

本音、だったんだなって

今になって漸く分かる。

最初は謙遜の言葉だと思った。

日本人あるあるのあれ。

私はそんなことしてないですよ、

恐れ多いです、みたいな。

でも違った。

歩は本気で自分は何もしてないと考えていて、

本気で私自身が頑張って

全てを変えてきたと思っていた。

そんなことない。

そんなのは違う。

違うのに。

歩のおかげで今まで頑張ってこれたのに。

歩のおかげなのに。

歩自身、自分を認められない部分が

あったのかもしれない。

それだってもう確かめようはないけれど。


歩がいたから高校受験を

もう1度しようと思えた。

歩がいたからあの町から出ようと

決心することが出来た。

歩がいたからどんな不可解な事が襲って来ても

私には居場所があると感じれた。

歩がいたから諦めずに

頑張ってこれた。

歩が隣にいてくれたから、

歩を助けようと頑張れた。

歩が隣にいてくれたから

生きようって思えた。


最早ここまで来たら依存かな。

しょうもなくってくすりと

笑みが溢れてしまう。

今日くらい許してほしい。

今日が終わればもう終わりだから。

明日の朝日と出会うまでだから。


花奏「…夏が明けてすぐの頃、かえってアカウントがいろいろ言ってきたよな。」


歩「…。」


花奏「「小津町花奏は18歳である」…とかさ。」


歩「…。」


花奏「今まで隠してたことが全てばれるのは本当に本当に怖かった。」


歩「…。」


花奏「…みんなを騙してたんやもん。…今まで通りにいられなくなるのが怖かった。」


歩「…。」


花奏「花火とか包丁とかいじめとか、その他のどんな事よりも…みんなに、歩に私の過去を知られるのが怖かった…。」


歩「…。」


花奏「………怖かった…な…。」


歩「…。」


あの日の歩の表情は今でも忘れない。

縋るような、けれど責めるような

言葉の羅列に物凄い剣幕で。

私、どうしたらええんか分からへんかった。

ただただごめんとしか呟けんくて。

それに対して歩は

更に口が強くなってさ。

結局私が折れてみんなの前で

今までのことを全部話したんよな。

もう終わったって思った。

今までの高校生活がどんなに楽しくて

幸せなものだったのか思い知った。

また1人になるんだって覚悟してた。

今思えば馬鹿だなって思う。

みんながそんなことで

離れるなんてことないのにね。

でも当時の私はまだみんなのことを

信頼できてなかったんやと思う。

歩も含め、まだ。

だから全てを話して以降

みんなが普通に今まで通りに

接してくれたこと、

物凄く驚いたのを覚えてる。

それから、とてつもなく安心して

涙が出るくらい嬉しくて

たまらなかったのだって覚えてる。


私、馬鹿だよね。

みんなにちゃんと正面から

向かったことはそれがはじめて。

いっつも距離を取ってたのは私の方だった。

だから信頼なんてできるはずがなかった。


花奏「でもみんな…受け入れてくれてすごく嬉しかった。」


歩「…。」


花奏「…中には私の事が悪く見えるようになった人もあるかもしれへん…。」


歩「…。」


花奏「でも…そうだとしても表面上だけでも普通に接してくれてて嬉しかった。」


歩「…。」


花奏「幸せやったよ。」


歩「…。」





°°°°°





花奏「……どう、やったら幸せに、なれるん…?」


歩「…っ!」



---



花奏「も、う…分か…らへん…。」


歩「…幸せ…難しいよね。」


花奏「……。」


歩「いつの間にかなってるもんだと思うよ。幸せって。」


花奏「…なろうと思、って…なれる、もんやない…か。」


歩「なれるよ。あんたが今まで頑張ってきてこの高校入ったのだって幸せのひとつ。小津町自身が掴んだ幸せでしょ。」


花奏「……。」


歩「もっと簡単なことでもいいと思うよ。」


花奏「…簡単……って…。」


歩「ご飯が美味しい。空が綺麗。よく眠れた。沢山話せた。そんなのでもいいじゃん。」





°°°°°





私は既に幸せだったんだ。

幸せになってたんだ。

だから、どれだけ幸せを探して

そうなろうったってなれっこなかった。

既になってたんだから。

もう幸せにはなれなかったんだ。

気づけなかったな。

あの時気づいていたらな。


ご飯が美味しいって幸せだ。

歩に作ってもらったハンバーグ、

本当に美味しかった。

また食べたい。

それくらい、美味しかったんだ。

空が綺麗って幸せだ。

晴れの日って素敵だった。

夏とかは日差しが強くて鬱陶しかったけど

雨よりは断然いいもの。

よく眠れるって幸せだ。

悪夢を見ずに気づいたら朝だなんて

そんな幸せをよく見落としてたな。

夢を見ないほど熟睡できるって

とても凄いことだったんだ。

沢山話せるって幸せだ。

みんなと、家族と、歩と。

昨日や前の周期があって肌で感じた。

私が話したところで皆は…

…歩は不幸になると思った。

でも、歩が話したいって、

そう言ってくれたから

私、今こんなに話してるよ。

話せてるよ。

歩と、話してるんだよ。

あなたと沢山話せるって幸せだったんだね。

同じ日々を繰り返す中で

いつしか歩と話すのは怖くなってた。

幸せを自分から手放していた。

馬鹿だね。

馬鹿だ。

私は馬鹿なんだ。

歩の言ってた通り、どうしようもないほどに。


花奏「それで気づいたらもう秋やで。…早かったな。」


歩「…。」


花奏「…出会ってから2年経って…私たち色々変わったね。」


歩「…。」


花奏「それぞれの考え方とかもそうやろうし、お互いの関係とかもさ。」


歩「…。」


花奏「…私、いつの間にか11日から出れへんくなったんよ。」


歩「…。」


花奏「…………いや…正確に言えば出れるな…あはは…。」


歩「…。」


こういう時、歩なら

「じゃあやめればいいじゃん」

とか

「無理してまですることないでしょ」

とか言ってくるんだろうな。

それこそ、そんな不安なんて

蟻に食わせとけって言うんだよ。

想像がつく。

想像がついちゃうほどに

歩のこと分かってたのかな。

まだまだ知らないことばかりだけど、

あなたが優しい人間だってことは

嫌なほど分かってるよ。

分かってる。


正確に言えばこのループする日々からは

抜け出すことは出来る。

しかも、最も簡単に。

ただ、私が歩を見捨てればの話だ。

私の努力が水の泡になるのは構わない。

けれど、歩の今までの苦しみが

なかったことになるのは許せなかった。

あれだけ苦しんだのに

1番最初と何も変わらないなんて

酷にも程がある。

それこそ愉快犯だ。

あの殺人鬼と同等だ。

そうはなりたくない。

なりたくない。

…前もこんなこと考えてたよね。

あれはいつだっけ。

いや、いつからだっけ。

今もずっと、そう考えている。

繰り返すのをやめてしまいたい。

けれどやめてしまったら

今までのことはどうなる。

延々と自分に問い続けた問題も

今日で破棄することになるのかな。

ああ。

化学のあの難問と一緒だ。

結局答えを出せないまま放棄するんだ。


花奏「……なぁ、歩。」


歩「…。」


花奏「…私が、さ…11日と12日を繰り返してるって…気づいてた?」


歩「…。」


花奏「あ…はは…気づいてへんかったやろ…?……そう…よな…。」


歩「…。」


花奏「…っ。」


歩「…。」


ごめんなさい。

何度唱えたか分からないこの言葉を

もう1度心を込めて歩に渡す。

まだ、私にこんな気持ちが残ってたんだ。

歩の隣にいるのにさ、

隣にいてほしいななんて思っちゃうんだよ。

肩から彼女の頭が

また滑り落ちそうだったから、

片手を腰あたりに手を伸ばし

もう片手を後頭部に優しく当て、

ぎゅっと包み込むように抱きしめた。

だんだんと11月らしく冷えてゆく体は

人形みたいにぐねぐねしていて

想像以上に重かった。

かくんと歩の顎が肩に刺さるようにぶつかる。

かつ、と彼女の歯が鳴ったのが聞こえた。


花奏「………沢山…沢山、辛いこと…あったんよ…。」


歩「…。」


花奏「…今だけ…聞いててや。」


歩「…。」


花奏「何も…答えへんでいいから…。」


歩「…。」


骨が折れるんじゃないかと思うほど

強く抱きしめたとしても

返事は勿論こない。

でも…ひとりじゃない。

ひとりじゃないって思いたい。

歩は、ここにいる。

いるのに…な。


花奏「…………つら、かった…。」


歩「…。」


花奏「…歩………。」


歩「…。」


花奏「…歩……た…すけ、て…。」


歩「…。」


花奏「…助けて………もう…も、ぅ…いや……だ…ぁ…。」


歩「…。」


花奏「ぃや、だ………………歩……っ…。」


歩「…。」


花奏「…助…け、てぇっ………。」


歩「…。」


花奏「………ぁ…ゆっ………っ。」


歩「…。」


花奏「…ずっと、ずっとずっと、辛かった…辛かった…!」


歩「…。」


花奏「……歩が、ぁ…歩、がっ……死んじゃ、う…か、らっ……。」


歩「…。」


花奏「それ、をね……と、めようと…。」


歩「…。」


花奏「………がんば…ってたんよ…ずっと…っ。」


歩「…。」


花奏「…ひぐっ……助けられなくて…ご………ごめん…な…ぁ……っ。」


歩「…。」


花奏「大好きなの、にっ…ぐずっ…沢山、ごめ…ん、な…っ…。」


歩「…。」


花奏「………ずっと…待っ、て…ぇぅっ…んぐっ……。」


歩「…。」


花奏「…待っててくれ、てっ……ぁ…りがとう……。」


歩「…。」


花奏「は………んずっ…ぁ…り、がと………ぅ…っ。」


歩「…。」


大好きな歩を何度も自ら手をかけた。

自ら手をかけるに等しいことをした。

そんな自分が許せなかった。

ずっと自分を恨んでた。

今でもそう。

今でも、これからもきっと

ずっとそうするだろう。


いろいろなことがあったんだよ。

初めは確か、交通事故で亡くなったの。

私は寝てて、美月から電話が来て。

2週目もそうだっけ。

3週目から繰り返していることに気づいて

未来を変えようと足掻き出したんだっけね。

いつかの周期では歩と喧嘩したんだよ。

辛かった。

怒らせたいわけじゃなかったのにって

あの周期以降何度も後悔してる。

他の周期では愛咲に相談に乗ってもらったり

湊に物凄く心配されたり、

麗香と校舎隅の部屋に行ったり。

図書館で初めてあの愉快犯と出会ったこと、

それ以降ずっと付き纏うように

犯人と出会したことだって記憶に残ってる。

歩に誕生日プレゼントを渡したの、

たった1回だけだったな。

もっと来年も再来年も祝っていたかった。

昔私が住んでた大阪の町に行ったら

森中と会って私は何も

変わっていなかったんだって思い知らされた。

その間にも歩は次々と死んでゆくの。

そして昨日。

ハンバーグを作ってもらった。

歩、あなたに大好物のハンバーグを。

美味しかった。

1番美味しかった。

1番辛かった。

1番忘れたくない味だった。


もしさ。

私がいなくなって

歩が生きる世界になったとして、

それでもまだあの機械があったなら。

…歩は私の事、救おうとしてくれるかな?


花奏「……………ぁ………ゆぅ…っ。」


離したくない。

一緒にいたい。


私の願いはそれだけだった。

ずっとずっと、これだけだった。

一緒にいたい。

一緒に居れる明日が欲しい。

それだけだった。

明日が恋しい。

待ち望んでいた明日は

すぐそこまで来ていた。


それから夜が明けるまで

2人で話し続けた。

前こんなことあったよねって掘り下げて、

こんなこと面白かったよねとか

それが悲しかったな、とか。

1から10までをなぞるように話した。

そして、大半はこれから先何したいかを語った。


たくさん話そう。

しょうもないことで笑い合おう。

知らない場所に遊びに行こう。

料理のレパートリー増やしたいよね。

化学の難問、15分で片付けてやろうよ。

受験お疲れ様会しよう。

合格祝いしようね。

みんなで集まって写真撮りたいな。

卒業式、私泣いちゃうかも。

卒業してもみんなで集まろう。

みんなで海とか行こうか。

初めて集まった思い出の場所だから。

その頃には髪を切ってもらおうかな。

ヘアケアとか教えてほしい。

花見行こう。

桜並木を見に行くんだ。

夜桜でもいいね。

もっとお泊まり会もしたいな。

お泊まり会したらたこ焼きパーティーとかも

いつかはしてみたいよね。


そしたらもう夏になるよ。

花火、見に行こう。

今年は打ち上げ花火からは逃げちゃったから、

今度は歩やみんなとしっかり見てみたい。

綺麗だなって思えるようになりたいの。

線香花火も絶対やろう。

これだけは外せないよね。

夏の間に、花火の他にまた海にも行こう。

プールでもいいね。

バーベキューでもいいし。

何か夏っぽいことを片っ端からしていこう。

楽しみ尽くそう。

それから、美月や波流は試合あるだろうし

みんなで応援しにいこうね。


歩は来年大学生になってるんだもんね。

大学の話、聞きたいな。

オンラインが多いのかな?

大学内で授業が受けれるといいよね。

歩に友達出来るかな?

私が不安になっちゃった。

ちくちく言葉は控えめにね。


そして秋になったら紅葉を見に行こう。

大学の授業が詰まってなくて

余裕がありそうだったら

沢山遊びに行こう。

季節関係なく沢山の時間を歩と過ごしたい。

誕生日パーティーしよう。

来年はプレゼント何にしよう。

今から悩んじゃいそうだな。


クリスマスが近くなったら

イルミネーションを見に行きたい。

雪が降ったら雪遊びしよう。

雪合戦がいいかな。

でも手加減はしてほしい。

年が明けたら初詣に行こう。

年明けくらいはみんなで集まりたいよね。

おみくじ引いて、屋台が出てたら

食べ歩きとかしてさ。

愛咲あたり凧とか持ってきそうじゃない?

みんなで童心に帰って遊ぶの。

一緒に恵方巻きとか食べたいね。

私多分喋っちゃうと思う。

美味しいって。

初めて泊まった時に

黙って食べれないのって言われたの覚えてるよ。

私とは反対に歩はひたすらに

頬張ってそうだよね。


……そして、3月になったら

梨菜と波流、麗香が卒業して

私や歩、愛咲や羽澄は

もう20歳になる年がくる。

20歳になったらお酒飲もう。

家でもいいし外食でもいいしさ。

今までの話やこれからの話を肴に

慣れないお酒を口にしよう。

積もる話はきっと沢山あるから

お酒進んじゃうね。


ここまでの思いが募ると

流石に執着しすぎなんだと自分でも思う。

けど、最期くらい許してほしい。


大切なあなたへ。

ありがとう。


カーテンは閉じ忘れたままだったらしく、

朝日が投げやりに差し込んでくる。

なのに歩は温まることなく

今の今まで眠ったままだ。

もう起きない。

目を開けて話すことはない。

そんな13日だけど、

今日はきっといい日だ。

きっと今日も幸せだ。


花奏「……よし。」


私はもう泣かない。

一昨日沢山泣いたから。

歩の隣で沢山泣いたから、だから今日こそは、

ずっと目指していた明日が来た今日こそは

笑って歩とお別れしたいんだ。


歩から手をそっと離すと、

微かな温もりはあっという間に

空気に溶けてしまった。

聞いたことのあるような小鳥の囀りが

心地よく浸透する。


声は聞けないけれど、

冷たくなっても匂いは残っていた。

もしも次会えたなら、

まずは声を聞きたい。

その時は。


花奏「……花奏、って呼んでな。」


頭をひと撫ですると

やっぱり他の誰でもない歩の香りが漂った。

布団から足を投げ出し

久々に着いたラグは

昨晩と何ら変わりはなかった。

違ったのは日差しだけ。

私も歩も変わらずに。


それからベッドの真ん中に

出来るだけ綺麗に寝かせた。

とはいえ思うように動いてくれなくて

シーツはくしゃくしゃに顔を歪めてしまった。

歩は笑顔とも真顔とも言い難い表情のまま。

それでも今までと比べたら

とんでもないほどに綺麗だった。


最期。

最期にもう1度頭を撫でる。

やっぱり怒らないんだね。

ちょっと……ちょっとだけ寂しかった。

最期くらい歩らしく

嫌がって欲しかったな。


今ならあなたの隣で

心地よく永遠に眠れる気がした。


花奏「おはよう、歩。」


歩「…。」


花奏「おやすみ、歩。」


歩「…。」


花奏「……。」


歩「…。」


あなたに、何の変哲もなくて

つまらなすぎるくらい

普通の明日が来ますように。


花奏「……じゃあ、行ってくるな。」


とびっきりの笑顔で。

頬が攣ってしまうくらいの笑顔で。


花奏「ばいばい、歩。」


大切なあなたへ。

ありがとう。

ずっとずっと、大好きだよ。

幸せをくれてありがとう。

ありがとう。


手にかけたドアノブまで朝日は届かず

無機質らしく冷えたままだった。











花奏「……………ぅー…。」


ぴぴっ。

脇からその音が鳴ったのを確認してから

そうっと抜き出す。

38.6℃。

その数字が全てだった。

熱である。

朝起きてみると明らかに普段とは違った

身体の怠さが感じられ、

体温計に手を伸ばしてみたところこのさまだ。

ああ、もう。

手を動かすのさえ辛い。

今日は何もかもを捨てて

寝転ぶことしか出来無さそうだった。


花奏「…昨日の夕立のせいやろうなー…。」


ぐーっと寝転がりながら

背伸びをしても全くすっきりしない。

それどころか体の重さを知り

尚更怠さが増すように思われた。


結局昨日は全速力で走って

最寄り駅まで行ったものの

全身は絶え間なく雨に打たれていたもので

濡れ鼠になっていた。

幸い鞄の中身は雨の被害を受けず、

けろりとした顔のまま。

制服は仕方なく洗濯に回し

父さんはいないが為にご飯も適当。

夜ご飯は余っていた

にんじんのサラダだけしか

食べていない気がする。

朝もお腹は空かず、

水だけで胸いっぱいだった。

冷たいものが胃を通る感覚。

体内をずたずたに刺すかの如く潤していった。


花奏「…はぁ。」


私1人だけがここにいた。

家にいた。

久しぶりに孤独感に襲われる。

暫くは父さんの出張もなかったからかいな。

歩も受験勉強があるし、と思うと

無闇は連絡も取りづらくなってしまった。

ごろんと寝返りを打ってスマホに手を伸ばす。

美月に謝罪の旨を伝えなきゃ。

その動作すら苦しいと思う節さえあるほど。

こんな熱とか体調不良さえ久しぶり。

熱が出るってこんなんだったっけと

記憶を探してみるもあまり鮮明には

思い出せなかった。


思い出せなかった…?

いつだろうか。

同じくらい怠くてきつかった日が

ないとは断言できなかった。

いつだっけ。

小さい頃インフルエンザになった時の事?

…小さかったから殆ど

覚えてないだけだろう。

きっと何か夢の記憶やらなにやらと

混ざってるだけ。

最近夢を見ることが多かったから

きっとそうに違いない。


ふと画面を開くと時間は結構経っていて。

あと数分後には美月が家を出るであろう

時間となっていた。

いろいろ準備とかしていただろう。

申し訳なさは募るばかりだが

今だけは体調が故気怠さの方が勝る。


花奏『ごめん、今日行けそうにない』


そんな端的なメッセージを残すと

たまたまスマホをいじっていたのか

ぽん、と既読の文字が瞬時に浮かぶ。


美月『分かった。何かあった?』


花奏『熱出たんよ。ごめんな』


美月『そんな日もあるわ。無理せずね。お大事に。また来週あたり予定が合えば行かない?』


花奏『そうする』


思考が回らない。

辛さがあまり日本語はぼろぼろだが

要件が伝わったのならよかったと思い

美月の返事を待たずにスマホを放る。

充電器繋げときたいな。

昨晩はほぼ適当に済ませ楽した結果

バッテリー残量は僅かだと

赤色が知らせてきていた。

けれど視界がぼんやりする。

まだ寝足りないのかな。

…と、それ以前に熱じゃないか。

熱だからか寝足りないのか

朦朧とする意識の中でぴこぴこと指を動かす。


花奏『美月ほんとごめん』


そこで送信ボタンを押して以降の記憶は

私にはなかった。





***





ぴーんぽーん。

遠くから私を呼ぶのはそんな音。

意識は朦朧とした中で、

自分が熱であることも

どんな服を着ていたかも忘れ

玄関の方へ向かう。

ふらふらとよたつく足元には

頼りない床の軋む声。

宅急便だろうか。

何か頼んだっけ。

そっか、父さんの荷物かな。

くらいまで考えたところで

思考はショートしてしまい、

後の道のりは何も考えられずに

玄関まで歩いていた。


花奏「……はーい。」


精一杯の明るい声を出してみると

喉に痰が絡み掠れた声しか出なかった。

玄関先にある鏡には

一応外に出ても大丈夫そうな部屋着が見えた。

咳払いを数回して扉を開ける。

判子は靴箱になったような。

そう思いながらを戸を開ける。


梨菜「わ、大丈夫!?」


花奏「梨菜…?」


そこにはいるはずのない彼女と

高くに登ったままの陽があった。

何か用事だろうか、

思い当たる節がないままきょとんとしていると

梨菜は袋を前に突き出した。


梨菜「お見舞いに来たの!花奏ちゃんが熱出したって聞いたから。」


花奏「そうなん。態々ありがとうな。」


言葉尻に覇気がまるでなく、

にへらと弱々しく笑うと

梨菜は困ったように眉を下げていた。


梨菜「ううん、全然いいの。たまたま近くにいたからお見舞いにって思ったの。」


袋を差し出してくれるものだから

何も考えられない頭は

素直に受け取ることしかできない。

さっと中身を見ると

ゼリーだとかプリンだとか

喉を通りやすいものが多々あった。

そして冷たい飲み物が少し。


花奏「ほんまありがとうな。」


梨菜「気にしないで。辛いところ玄関まで来させちゃってごめんね。」


花奏「んーん。そんなー」


言葉は分散して姿を消すと共に

体がぐにゃりと曲がってしまったのか

視点が一気に下がる。

勢いよく膝をついてしまったようで

一瞬何にも感じないと思えば

熱が轟々と唸り出す。

けれど痛みよりも力が入らない…。

…。

…。

…?

これ、前も何処かで見たような気がする。

正夢ってやつかな。

しゃか、と手元でレジ袋が鳴く。

不幸中の幸いか、足の下敷きには

ならなかった様子。


梨菜「か、花奏ちゃん!?」


花奏「あはは…大丈」


梨菜「駄目だよ。今家に親御さんは?」


花奏「…おらん、けど…。」


梨菜「布団まで連れてくよ、いい?」


花奏「え…大丈夫やって、自分で」


梨菜「また倒れたら困るもん!ごめんね、家入るよ。」


梨菜は半ばどころか完全に無理矢理

家へと押し入り、

私の手からお見舞いの品を外した。

それから私の腋の下に手を滑らせ、

せーのという掛け声と同時に

ぐっと上へ引き上げられる。

お陰で何とか立つことはできたものの、

やはりふらついてしまう。

頭痛も治るどころか

酷くなっているようにさえ感じる。


梨菜「どっち?」


花奏「ん……あっち…。」


梨菜「分かった。お邪魔します。」


ひと言そう断った後、

私の部屋を目指し迷わず進む。

梨菜は私より1つ歳は下だけれど、

姉ということもあるからか

幾分もしっかりしているように見えた。

天真爛漫で、でもこう真剣な顔を

真横から見ていると凛々しくて。

しっかりしてるなって。

私とは全然違うなって思った。

ああもう、頭が回らない。

体を彼女に委ねたまま

ふらりふらりと朽ちかけた床を踏む。

大体この家に来た人は

床が軋むことに怯えてたり

驚いたりは多少するのだが

梨菜はそんな表情なんて

これっぽっちも見せずに

私を支えたまま歩くの。


梨菜「花奏ちゃん、横になって…布団かけるからね?」


花奏「ごめん…本当にごめんな…。」


梨菜「ありがとう1つで許してあげる。」


花奏「…うん…ありがとな…。」


梨菜「うんっ!買ってきたもの冷蔵庫に入れとくね!」


梨菜は私を横に寝転がし

布団をかけた後どたどたと

玄関の方へかけていった。

何か梨菜にお茶とか出さなきゃ。

今の自分の状態を知ってか知らずか

そんな事を思った後、

すぐに意識は闇の中へ

潜っていくのを感じた。

また、昏睡に凭れて…。





***





「話しかけないで。」

「は?」

「分かんないから聞いてるだけ。」

「小津町。」


何故か、歩の声が反芻して聞こえる。

ここはどこなのだろう?

真っ暗。

真っ暗?

目を閉じている気がするような。

…疑問を感じてそっと目を開ける。


花奏『…学校?』


そう。

学校だった。

けれど私には1つ確信があった。

これは夢だっていう確信。

夢を見てると気づける夢を見るのは

何度かあったが、

ここまで鮮明なものは初めてで

なんとも奇妙で落ち着かない気分だった。

ベランダから見える青々とした空は

両手を広げ私を呼んでいるようにも見えた。

清々しい気分で1つ大きく息を吸う。


歩「ねぇ。」


花奏『…?』


返事をしようとして振り向くと、

歩の隣には既に「私」がいる。

「私」がいたのだ。

私自身は第三者視点なのだとそこで思い知る。

ぐるりと周りを見渡すと

机が乱立していて、

なんだかヤンキーが多数いる学校を思わせた。

そのうちの1つの席に歩は座り、

彼女の真前に「私」がいた。

いつもの休み時間の時のよう。

歩は怠そうに肘をつき、

嫌々ながらに話を聞いてくれるのだ。

視界に入る「私」を含めた2人からは

私のことは見えていないらしい。


歩「なんで私だったわけ?」


花奏「どういうこと?」


歩「…なんで私にだけこんなに突っかかってくるの。他にも、2、3年や1年の奴もいたでしょ。」


花奏「突っかかってくるなんて言い方の悪い……ま、それは置いといて…だから、なんで私か…って?」


歩「…そ。」


花奏「せやな…ひと言で言うなれば…恩人だから。」


相当昔にした会話だった気がする。

懐かしい。

そんな感情に塗れていく。


全ての始まりはTwitterがおかしくなった事。

日に日にフォローしている人の欄が

増えていく中で最後の方に

追加されたのが歩だった。

再会を果たしてすぐは、

この人が恩人だということに気づいたけれど

どうにも人柄が違うように映ったんだっけ。

それでも歩と仲良くなりたくて

ただひたすらにがむしゃらに話しかけて

付き纏うようになって。

今思えばストーカーやメンヘラと思われても

おかしくないくらい

歩にべったりくっついてた。

歩も歩で当たり前な反応というか、

嫌がる素振りはそこそこに見せていた。

けれど本当に嫌がってはいなかっただろうし、

悪態を吐きながらも私に付き合ってくれた。

その後もいろいろな不可解に苛まれ。

いろいろな光景が鮮明に脳裏に浮かぶ。


その中で苗字だけれど

呼んでくれるようになって、

いつの間にか夕ご飯を

一緒に食べる仲になった。

共に勉強することも多くなった。

今やいなくちゃいけない大切な存在。

友達以上恋人未満と言うのだろうか。

正直言葉で表せないくらい大切になっていた。

彼女のいない生活なんて考えられずにいた。

だから卒業という言葉が怖くて。

本来なら私も卒業する年だが

退学してる等の影響で一緒には卒業出来ない。

その後の生活がどうなるのか

全く想像できない。

それほどにまで、大切になってた。


そんな回想をしてるうちに

目の前にいる2人の会話は進んでいた様子。

そういえば昨日もそんな事考えていたっけ。

最近は過去に思いを馳せてばかり。


歩「小津町。」


花奏「なーんや?」


歩「私ーー」


ゔー。

ゔー。

ちかちかと点滅したのち、

その理想的な時間は微睡と共に溶けていった。





***





ゔー。

ゔー。


花奏「……ぅ…。」


夢を見ていた。

不思議な夢。

でも、ただの過去といえば過去だけど。

全てをはっきりと覚えているわけではないが

断片的に情景が浮かんだ。

夢らしくとても幻想的で

夢らしくない生々しい夢だった。

そんな感想を抱いてた。


何で私は目覚めたんだろう。

そうして目をぐるぐるとしていると

時計が目に入る。

午後5時半くらい。

5時、半。

…。

…結構寝てしまっていたらしい。

過眠症を引き起こして

しまったのかと思うほど。

一瞬驚くも今日は休日なのを思い出して

少々ほっとした。

そういえば美月と今日買い物行く予定を

ドタキャンしてしまったことへの謝罪を

伝えたか否かが思い出せない。

起き上がるのさえ辛くて、

すぐに眠ってしまった記憶が色濃い。

…あれ。

その後梨菜がきたんだっけ。

それすら夢だったのだろうか。


花奏「うぅ…。」


朝よりは幾分もマシになったが

まだ体は快調ではないらしく、

上体を起こすと頭が鳴った。

思えばどこかでスマホの唸り声が聞こえる。

ふと騒音を掻き鳴らす画面を見ると

まさに美月の名前。

やはり今日はやめておくというのを

伝え忘れていたのだろうか。

ひやりと汗が背に滲む。

美月はずっと待っていたのではないか。

それもトーク画面を見れば解決する事。

体はこの感情についてこなくて

のろのろとしたスピードしか出せない。

一先ず不安は置いておき、

お叱りの電話だろうなと

のんびり受話器のマークを押した。


花奏「もしもし?ごめんな、みつ」


美月『…!花奏、花奏っ花奏ぇっ…!』


花奏「えっ…?」


乱れた呼吸にふと

胸を締め付けられる思いが湧く。

美月の声は涙声で恐ろしいほどに震えていて

この世の何を見たら

そんな声を出すのかと思うほど。

それほど彼女は怯えているようだった。

怯えて、怯えて。

この悲痛さには覚えがあった。

覚えが、あったんだ。


美月『かなっ…ご、ごめんなさっ、ごめっ…!』


ぐずって鼻を啜る音がした。

どうやらひどく取り乱しているらしい。

ここまで酷くなる彼女を

目の当たりにした事はないはずなのに

記憶にはあるの。


これ、何処かで。


すうっと体温がひいていき、

変な汗が背を伝う。

頭痛や怠さといった不純物は

居場所をなくしてしまった。


花奏「大丈夫、大丈夫やから今どこにいるか教えて?」


すぐに飛び起きて電話をスピーカーにし

着替えを始める。

頭痛とか諸々今は考えの外にいて、

とりあえず体は動くってことは分かった。

近場なら走って行くくらい出来るだろう。


美月『いま、ぃ、まっ…花奏、花奏っごめん、ごめんなさいぃ…』


花奏「…っ。」


何があったの?

何があったらこんな。

美月は私への謝罪をひたすらに口にしていた。

どうして?

それがまず浮かんでしまった。

悲痛。

声だけで胸が痛む。


花奏「大丈夫だよ、美月。周りに誰かいる?」


現状を知りたい。

その一心で美月に問う。

いくら大丈夫だと声をかけても

取り乱してしまった上対面じゃない以上

伝わらないことが多い。

そうとは知りつつも落ち着くようにと願って

言葉を投げかけてしまう。


美月『まわ、り、はっ…んずっ…み、んなぃっ…いる。』


花奏「みんなおるんやね?うん、分かったよ。」


自分の中で違和感が波打ちつつも

出来るだけ優しく言葉を渡す。

みんながいる事には安心した。

みんなとはいえ家族なのか

それとも梨菜や波流達なのか。

どちらにせよ誰かはいるという事。

…ならば。

ならばどうして美月に声をかけてあげないのか。

すぅ、と背筋が凍るも、

電話越しで何やらざわざわとした

とても濃度の薄い喧騒は聞こえた気がした。

どこか人の集まるところにいるのだろうか。

しかしそれもすぐに止んでしまう。


嫌な想像が駆け巡る。

何かあったんだっけ。

何か怖いんだっけ。

これは確実にドッキリなんて

生優しいものではないことくらい

とっくのとうに分かっている。

私にとっても美月にとっても。


用意が終わって玄関に立つ。

もう出ることはできる。

スマホはスピーカーを止め耳にあてて

がちゃっと鍵を開ける。

嫌な予感がする。

嫌な、とてつもなく嫌な。


花奏「今からそっち行くからね。…美月、みんなもどこに」


美月『ど、こ…………ょ……ぃ………。』


車が通ったからだろうか。

しっかり聞き取れなくて。

自分自身焦る気持ちが募ってか

乱雑に鍵を閉めていた。

かつんと勢いよく乾いた音。


花奏「ごめん、もう一回言ってほしい。」


美月『ぁ……びょ、ういん…病院っ…!』


花奏「…病院?」


美月『ぁぅ、ごめん花奏っ…ごめんなさいっ、ぁ…ぁ、あたしのせ、ぃでっ』


花奏「美月のせいじゃないよ、大丈夫だから。」


病院。

学校の近くにある大きなところだろうか。

大きいだけあって多くの患者さんが

そこに集まるからという理由だけで

その病院に的を絞った。

合っていなかったらまた連絡を…

でも、間に合わないとか…。

間に合わないって、なんだ。

何にだ。

私は、何かに間に合わなかったから

今こう思っているの?


巡って。

巡った先に。

ぱっと美月の声がしなくなった。


花奏「…!?美月、美月っ!」


『もしもし、花奏けぇ?』


花奏「……麗香…!」


麗香『…。』


麗香は何故か押し黙ってしまって。

奥から美月の嗚咽が聞こえてきた。

それにまた胸を抉られるような気持ちになる。

さっきの麗香の声だって

平然を保っているような雰囲気を醸しつつも

どこか喉の奥で引っかかるような、

そんな違和感が爪を立てる。

…違う。

違和感はそれだけじゃない。


花奏「ね、ねぇ、麗香教えて。」


聞いてはいけないと誰かが

どこかで警鐘を鳴らす。

聞こえてる。

聞こえてるんだよ。

でも、聞かなくちゃいけない気がして。

というより聞かないと納得ができなくて。


花奏「何が起こったの。」


麗香『……歩先輩が』


歩。

その言葉に、がむしゃらに

動かしていた足が止まる。

走っていた足が。

…ふと、どこに向かえばいいのか

分からなくなる。

横で車が通る。

横断歩道までもう少しだった。


麗香『…歩先輩が、亡くなった………っ。』


その言葉だけ。

それだけが大きく聞こえた。

はっきりと鮮明に聞こえた。

嫌なほど残響して聞こえた。


歩が、死んだ…?

死ん……。





°°°°°





歩「…おやすみ。」





°°°°°





花奏「……っ!?」


…ぁ……。

あ、れ……。


…。

…。

…っ……。

…。

……死んだ。

…。

死ん、だ。

…。

…。

死んだんだ。





°°°°°





真帆路先生やお母さんに

会えるのかな。





°°°°°





死んだ、はず。

…。

…。

…。

なんで?


何で。

終わったんじゃなかったの…?


花奏「……ぇ…えっ…?」


麗香『…混乱するのは分かるけぇ。……今から言う病院に』


花奏「何で…生きてるん…?」


麗香『はっ…?』


ありえない。

戻っている。

戻っているのだ。

戻って…。

慌てて電話を切り、

スマホのホーム画面を表示する。

ほんのりと眩む。

日付は、11月12日。


花奏「…っ!」


歩は今日、死んだんだ。

どうして今の今まで忘れていたの。

どうして思い出せなかった。

どうしていつも通りに、

最初と同じ通りに過ごしてしまった。

どうして途中で気づけなかった。

どうして時々の違和感を放置した。

どうして、どうして。

どうして。

どうして、戻った。


花奏「……はっ………は…。」


死んだ。

また。

また、歩が死んだ。

私だって。

私だって死んだはずだ。

この日へと戻るために

廃墟へ辿った記憶なんて

前の周期には一切ない。

ない。

そう。

ないのだ。


じりりと脇腹が痛む。

さっきまで痛まなかったのに

どうして急に。

激痛の走る腰を抑えて

声を上げないようにと蹲る。

普段気にしていなかった小石が

やけに大きく見えた。


何故?

何故、戻っているの?

明日は来なかったの?

どうして。

どうして?


花奏「……ぁ…歩っ…?」


私はまた彼女を…。

…。

…。


戻ろう。

歩が死んだら元も子もない。

歩が生きているところまで戻して

もう1度死んでみよう。

何が作用しているのか確認しよう。

そうしなければ。

…そうしなきゃ。


…私は死ぬことすら

許されない可能性が出てきてしまう。


何もかも信じられなくて

もう1度スマホの画面を確認しても

間違いなく11月12日の文字。

現に今、歩が死んだと知らせを受けた。

戻ってきているのだ。

戻ってくるはずがない。

ないのに、事実が口を塞いでくる。

今は12日だって。


花奏「……戻、らなきゃ。」


私は踵を返し、病院に行くのは諦めた。

亡くなったともう断言されたのだ。

行っても、また認めたくなくて

逃げてくるだけ。

しない理由は探せば探すほど出てくるもので、

自分が心底嫌になりかけた。


花奏「…っ。」


このパターンなら

歩は交通事故で死んだのだろう。

綺麗に亡くなっていた時の歩を思い返す。

血に塗れていなくて、

今までの凄惨なものに比べたら

相当綺麗なままで。


…ふと。

恐ろしい想像が

頭の中で浮かんだ。


私、自分が死んでから

何回戻っているのだろう。

何回目で気づいたのだろう…?

もしかしたら気づかない間にも

何度も繰り返していたのかもしれない。

今日を。

最悪な12日を。

そして忘れて、

また今日を繰り返す。

そんなことがあったのかもしれない。


自分の手を握りしめる。

爪が食い込むことに気が付けないまま

2駅の間はあっという間に埋まった。

履き慣れた学校用のスニーカーは

勢いよくコンクリートを蹴る。

細かな石らが飛ばされるも

そんなのはお構いなし。

今は行くべきところがあるのだ。


まだ夕暮れ、しかし夜も迫る頃。

遠くからは子供の遊ぶ声が聞こえる。

そうだ。

今日は土曜日だもの。

遊んでいる子供だって多々いたことだろう。


花奏「…。」


夕陽は、西日は間違いなく

私を責め立てている。


邪魔など入らないことは

今までのことで確認済み。

今までのこと…。

…全て、思い出していた。

何故忘れていたのかが不思議なくらいだ。


瓦礫の床を駆け、

ひび割れた階段を登った。

そして最上階で待つ、謎の機械。

舞っている虫の影。

相変わらずここにあったのだ。


…いつからあったのだろう。

いつからあるのだろう。

いつだかの周期で

早めにここについた時があったが、

その時はまだ何もなかった記憶がある。


花奏「……何で…。」


疑問と葛藤を胸に

躊躇なく機械の中へと入る。

『小津町花奏』の文字と

『51202211111025』の数字。


花奏「…?」


こんな数字の並びだったっけ。

最初の数字は5ではなかった気は

大いにするけれど。

なんて確とした違和感を感じつつも、

私はすかさず白いボタンに

しっとりと手を這わせる。

手汗が酷かった。

乱れる呼吸を抑えつけようと圧迫するたび

より乱雑な塵が吐かれていった。


花奏「……戻る、そして1度死ぬ。…それでも戻るようであれば理由と対策を考えなきゃ…。」


確実に歩を救って、確実に私が死ぬように。

その為に、戻すのだ。

歩の生きている昨日へと迷いなく戻るんだ。


白いボタンを、押した。











何も変わらない日々から

着実に終わりへと向かえるよう

ひとつひとつ変えていくことにした。


まだ、何も変わらない。











歩「土曜日だから流石に人多いね。」


花奏「なー。」


だいぶ前の周期で美月と訪れた横浜に

今日は歩と来ていた。

昨日、16時に学校前集合と伝えたからか

美月から誘われる事はなかった。


家の中で歩が席を外した時に

警察にも電話をしてある。

今頃歩の家の前で一悶着ある頃だろう。


美月が父さんの知り合いの

様子を見にいくよう頼まれるのは

午後になってすぐの頃。

用事を終えた後学校に向かうので

あの交差点へ近づく事はない。

…梨菜が何もしなければ、だけど。

もし美月が学校にまで

辿り着くことができれば

あとは私が死ぬだけだ。


現在午後3時頃。

もっと早く家を出ることもできたが、

私が雨の影響で体調が優れないと

歩にばれてしまい、1度仮眠を挟んでから

横浜へ足を運ぶことになった。

朝と昼を兼ねたご飯を

口にしようとしたけれど、

昨日のように迷惑をかけてしまうかもと

考え出すと止まらず、

水を飲むことで精一杯だった。

出かけると言ったら

歩に猛反対されたけれど、

仮眠をとるという案で妥協してくれて。

こうして何とか買い物に

来れているのだった。


歩「んで、どこ行きたいんだっけ。」


花奏「えっと…どこやっけ。」


歩「あーあ、終わった。」


花奏「何となくの道とか見た目は覚えてんねん。」


歩「じゃあ記憶辿って歩いてみよう。」


花奏「…そうやな。」


歩「ん、任せた。」


あくまで彼女はついてきただけらしい。

貸した大きいサイズのパーカーに

手を突っ込んでいた。

鞄はというと学校でも使っている

リュック型の鞄を持ち運んでいた。

相変わらずの無彩色が目に留まる。


歩「後、何回も言うけど体調きつかったら言って。」


花奏「分かってるて。」


歩「どこまで信じていいんだか。」


歩は話しながらも

時々きらきらとした雑貨屋や

ストリート系の服が飾られたお店を見ては

興味なさげに顔を逸らす。

あんまり気にいるものは

なかったみたいだった。


何周期、何十周期も前のことなので

自信がないながらに進む。

こんなに多くの人がいたのか。

前に美月と来た時は

そこまで気は回らなかったな。

このごちゃごちゃと

絵の具を乱雑に塗ったくったような

喧騒、人の多さ、吐き気だって今日きりだ。

そう思うとやはり感動さえしてきてしまう。

変だな。

日常って思っていたよりも

楽しいものだらけだったのかもしれない。


何度か来たことのある横浜は

異様に輝いて見えた。


改札から歩とどうでもいいことを話しつつ

朽ちた記憶を頼りに足を動かす。

あの雑貨屋の前は通った気がする。

あれ、こんな食料品コーナーの

前なんて通過したっけ?

そうそう、この服屋は覚えてる。


脳内では今までの周期の思い出が

じわじわと迫り上がって来たところで

漸くあのアクセサリー屋を見つけた。

あの時、どんなプレゼントがいいのか

何ひとつぴんとこなくて

棒立ちしてたんだっけ。

美月がふと隣に寄って

いいんじゃないって言ってくれたのを

未だに覚えている。

よくあんな昔のことを

はっきり覚えているもんだ。


私がお店を見つけ突っ立っていると

袖口が緩く引かれた。


歩「ここ?」


花奏「うん、ここ。」


歩「そ。」


ひと言だけ口にすると

泳ぐようにすいすいと商品棚へ向かう。

今までのお店はこのように

吸い寄せられることはなかったのに。

袖口はもうきつくない。

私が夜中の散歩中袖を引いた時、

歩はどんな気持ちだったんだろう。


感慨に耽るのは程々に

あのネックレスがある棚へ一直進。

お目当てのものは当たり前の如く

そこにあった。

小さいけれど確と青く

惑星のようなモチーフが飾られている。

電灯の光を浴びて

さらに淡く仄かに光っていた。


花奏「…。」


それを優しく手に取って

すぐさまお会計へ。

お会計を済ませて歩を探すと

まだぼんやりと商品を見ていた。


歩「…あ、終わった?」


花奏「うん。」


歩「はっや。」


花奏「そうかいや?」


歩「だって5分も経ってないでしょ?」


花奏「あぁ…そうかもな。」


歩「ほんとに買うもの決まってたんだ。」


花奏「え、そこから疑われてたん?」


歩「だっていつも結構余所見する方じゃん。今日は道には迷ってたけど、全然視線移りませんって感じ。」


パーカーのポケットに両手を突っ込み

冷静にこちらを見つめる彼女は、

どこか私の違和感に

気づいているように見えた。

ばれたって、ばれなくったって

今日で最後だもの。


花奏「ま、買いたいもん買うたしどうする?寄りたいところある?」


歩「いや、ない。」


花奏「折角ここまで来たんやしとか思わんのや。」


歩「定期内だから別に。」


花奏「そっか。」


歩「あんたは?もう十分?」


花奏「うん。目標達成や。」


歩「ご飯どうする?」


花奏「あー…また昨日みたいになったら大変やし、食べへんでいいかな。」


歩「ん、そっか。じゃあそうしよ。」


花奏「ありがとな。」


歩「何を今更。」


花奏「歩はどうするん?」


歩「お腹空いたら適当にコンビニで買うよ。」


つーんと猫のように

私の側から離れていき、

アクセサリー屋を後にしていた。

その背を追って私も通路へと飛び出す。


とてつもなく多くの人が

この駅に遊びに来ている。

他にも仕事の人やただ通り道だけの人、

その他諸々大勢いる。

何気ない今日。

何気ない11月12日。

他の人にとってみれば

他の人同じように普通に過ぎ去る

1年のうちの1日でしかない。

けれど、私にとってみれば

全く違う1日だった。

普通って、いつも通りって

どれほど幸せなことか。

今なら分かる。

今になって分かった。


改札に入る手前、

歩がこちらを振り返った。

髪が空を舞う。


歩「ちょっとトイレ行ってきていい?」


花奏「勿論。鞄持つで。」


歩「そう?じゃあお願い。」


花奏「はーい。」


そう言われて鞄を預かると

特段急ぐこともなく歩いて行った。


花奏「…。」


その間に、ついさっき購入した

青い惑星の飾りがついたネックレスと

昨日の2限目後に用意した

どこにでもあるような

メモ紙を取り出す。

それからネックレスの入った

小さな紙袋のシールを

出来るだけ丁寧に剥がし、

メモ紙を入れてまた留めた。

ちらとトイレの方を見ても

まだ歩の姿は見えなかった。


人、人、人。

どこに行っても人工の音は絶えない。

耳だけには休息なんて

訪れるはずもなかった。


小さな紙袋を歩の鞄の

底の部分に隠すように仕舞う。

中の物を全て出さないと

見えてこないだろうというほどに。

そして何事もなかったように

スマホを取り出して

Twitterで予約投稿の準備をする。

時間は…。


花奏「16時24分…でいっか。」


必ず歩が死ぬ時間にひとつ。

そして15日にひとつ。

ほんの短く拙い文章だが

確実に届くのであればそれでいい。


歩「お待たせ。」


花奏「んーん。」


歩「鞄貸して。」


花奏「うん。」


私よりもだいぶ小さい手で

鞄の中を漁りハンカチを取り出していた。

鞄には昨日と変わらず

夏祭りで得たキーホルダーが

からりと音を立てて居座っている。

夏が恋しくなった。

何故だろう。

雨の音が聞こえてきた気がした。


歩と2人で電車に乗り込み

来た道を逆方向に辿る。

私の家の最寄駅から

更に数駅分超えれば学校の最寄り駅。

けれど、私は学校までは行かない。

私は自分の家の最寄駅で降り、

電車を変え廃墟まで行き

タイムマシンを壊す。

そして、死ぬ。


それが意味すること。

それは、今が歩と一緒にいれる

最後の時間ということだった。


歩「…。」


歩は相変わらずスマホを

片手で弄っていた。

寒いのか、もう片手は

ポケットの中にしまったまま。

俯いているせいで髪の毛が邪魔して

彼女の顔はあまり良く見えなかった。

それでいいんだろう。

今いつものあの逃がさないと

言わんばかりの目で見つめられても

おどおどとして慄くだけだから。


刻々と家の最寄駅が近づいてくる。

時間の流れがだんだんと

早くなっていく。

錯覚だ。

そうだと分かっていたとしても

私には止めることは出来ない。


花奏「…歩。」


歩「ん?」


花奏「ありがとうな。」


歩「…?何に対してか知らないけどどういたしまして。」


一瞬指の動きを止めた後、

またすぐ様動いていた。

彼女には感謝してもしきれない。

2年前に出会ってから

ずっと支えてもらっていた。

今日、私があなたの未来を

変えることができたのなら。

今までの恩返しが出来たのなら。

その為にこの人生を投げ捨てられるのなら。

…。

…多分、後悔はない。

そう思いたい。


花奏「あ、そうや。」


歩「何?」


花奏「家に忘れもんした。」


歩「は?取りに帰る時間なくない?」


花奏「今何時なん?」


歩「今っていうか…学校の最寄りに着くのは56分とか。んで、そこから歩くから既に遅刻だけど。」


花奏「そっか。歩先に行っててくれへん?」


歩「別にそれくらい待つよ。」


花奏「んーん。すぐ追いつくし先行っててや。」


歩「そう?でも…」


花奏「梨菜も来てるやろうし、逃げへんかちょっと見ててくれへん?」


歩「あー…そのため?」


花奏「それもあるし、純粋に間に合わへんしさ。」


歩「…ま、そこまでいうんだったら先行ってる。みんなにも小津町が遅れるって伝えとくから。」


花奏「助かるわ。」


その時、緩やかながらブレーキがかかり、

軽く歩の体重がかかる。

僅かに香る落ち着く匂い。

これも最後か。

意を決して席を立つ。

がたりと音を立てて

電車の扉は開かれた。


歩「じゃ、また後で。」


花奏「…っ。」


また、後で。

また明日。

その言葉が言えたら

どれほどよかったか。


喉まででかかった感情を

無理矢理に抑えつけ、

重たい頭を、回らない頭を使って

いい言い回しがないかを探す。

探すも、見つからなくて。


歩「…?」


花奏「…また、な。」


歩「んー。」


適当な返事を私に手渡し、

再度スマホへと視線を移す。

本当は見送りたい気持ちで

いっぱいだったけれど、

ここに立ち止まっていると

それこそ何も出来なくなってしまいそうで、

隠れるように1度階段を登った。

まもなく、車掌さんのアナウンスが

遠くから霞つつ聞こえ、

やがて電車が出発した音が聞こえた。


花奏「…っ。」


なんだろう。

今になって漸く

1人が寂しいことに気がついた。

そして1人は楽で、2人だと楽しくて。

でも、2人だともっと

寂しくなることを知った。


死ぬことが怖くなった。

願っていたことなのに、

何度も行ってきたことなのに。

1度は心を決めて、

戻ると知らず死んだのに。

変だな。


僅か数分後には、乗らなければならない

電車が目の前に姿を現しており、

出来るだけ足音が鳴らないように乗り込んだ。

休日のこの時間だからだろうか、

席はひとつおきに座られている。

気が気でないままに座らず外を眺めた。

ころころと変わる景色。

それすら大切な日常のひとつだった。


たった2駅のはずが

随分と長く感じた。

寝台列車の中から見た夜景が過る。


目的の駅に着いてからは

すぐにあの廃墟へ向かった。

確か、あの機械が出現するのは

午後4時15分。

もうすぐだ。

きっと今頃みんなは学校の前に集まって

私の事を待っている。

歩も。

嘘を吐く事なんて

何の造作もなかったはずが、

またねという嘘だけはやけに胸に響いた。


花奏「…。」


廃墟に着いて隅に座り、

暫くじっと何かを耐えるように待った。

息を殺していると

遠くから少年たちが

話している声が聞こえる。

「俺の方が強いカードを持ってる」

といった内容だった。

どうでもいいことなのにな。

昔の私ならきっと

尾を振るように人の話を

聞いていただろう。

今じゃ。

…比べても仕方はないというのに。


花奏「……ぁ。」


ぐらっと視界が揺れる。

体調の限界か。

そもそも雨のせいで熱や頭痛は勿論、

その他何かしらの影響で

吐き気やら脇腹の痛みやら

諸々支障が出ていた。

それなら、ここで倒れたって納得がいくな。

そうとは思ったけれど、ここで気を失ったら

もう同じ手は使えない。

今周期が最大のチャンスなんだ。

これを逃したら次は

いつになるか分からない。

これを逃したら

更に延々と歩を亡くさなきゃならない。

そんなの嫌だ。


歯を噛み締め、爪が食い入るまで

自らの手を握る。

お願い。

今だけ耐えて。

その願いが叶ったのか

酷く脳を支配していく耳鳴りも

ゆったりとなくなっていった。


花奏「…は、はっ…はぁっ…。」


大丈夫。

最後なんだから頑張れ。

マラソン大会のラストスパートを

彷彿とさせた。

ふと目の前には歪な機械。

15分になったようだった。


力が入らなくなりかけた足で

壁を頼りに立ち上がる。

そして機械の中に

1歩、また1歩と踏み入れた。

かこ、かこ。

音響が変わる。

過去、過去。

無数に折り重なった今までの周期。

私にとっては過去。

けれど、実際は亡くなった未来。

可能性の未来。

私がもしこの機械を使わなかったら

また別の、全く違った未来が

そこにあったんだろう。

後悔しかない。

後悔しかないけれど、

それでも歩を救えるなら。


メモ用紙を繋げて、

A4サイズくらいにしてある紙が

タイムマシンの中に貼り付けてある。

ぼろぼろだ。

風化して黄ばんでいる気がする。

光が、紙を仄かに照らしていた。

夕陽かと見紛う程に暖色で。

そこに浮かび上がる

油性ペンで書かれたような文字列。


花奏「…。」


『小津町花奏』


しっかりとそこに記されてあった。

ぞっとして1歩退くことも

うまく足が動いてくれないなんてことも

いつからかなくなった。


これは誰かの趣味で

造り上げられたものなんかじゃない。

これは意図的に私に向けて造られた何か。

それこそ不可解な出来事の一環。

まだ終わっていなかった。


花奏「…っ。」


固唾を飲み込む。

怖い。

これを壊したら2度と

失敗は許されない。

壊した後、どこかで

死ななければならない。

この廃墟から飛び降りても

生き残ってしまうことは確認済みだ。

近くに8階建のマンションがある。

あと数分あれば無事に辿り着けるだろう。


中に入ると、例のさっき見えた紙。

『小津町花奏』。

そして台のスペースに付属した

小さな電光掲示板のような物には

『113202211111025』。

ぱっと見何の数字なのか

まるでピンとこないままだった。

元より考えようなんて

寸分も思ってなかったな。

台の上にはまた紙があり、

飛ばないようにとセロハンテープで

上が止められていた。

近未来的なのかアナログ的なのか。

その紙には

『三門歩の生きる未来を』

と。

そう。

そのひと言だけ。


そして、注意書き。

『操作パネルにある白いボタンを押せば

指定の日時まで戻ります。

その他部品、ボタン等を押すと

2度と機能しなくなります。

ご了承ください。』


花奏「……。」


夢を見ずにはいられなかった。

歩の助かる未来を、

歩が生きている未来を見たい。

隣にいて欲しい。

隣にいたい。

それだけ。

たったそれだけの願い。


大切な人を失いたくない。

それだけ。


それだけだったはずだった。


腹を括ろう。

1回軽く自分の頬を叩く。

何度も何度も背を殴られたのを思い出した。


そして、白いボタン以外の

訳の分からないボタンを押した。

レバーも引いてみた。

白いボタンを押す以外の何かしらの

操作を乱雑に行ってみる。

すると、ぼんやりと仄暗い室内を

微力ながらに灯していた光が

緩やかに消えていった。

けれど、小さな

電光掲示板のような物に記された

『113202211111025』

という数列だけは残ったまま。


花奏「……終わった…?」


試しに白いボタンを押してみる。

怖かったのか

目をぎゅっと閉じていて、

指先は恐ろしく震えていた。

…。

…。

…。

…。

…。


…先生の声は聞こえない。

学生の特許である

あのシャープペンシルの芯が

ノートに擦れる音さえ耳には届かない。


ゆっくりと視界を開けてみる。

すると、変わらず煤汚れた廃墟に

スクラップをつぎはぎ合わせたような

機械の中にいた。

遠くではまだ子供たちが

遊ぶ声がする。

戻らない。

戻らないんだ。

終わったんだ。

ここからはもう失敗は出来ない。

自分で逃げる道を捨てたんだ。


花奏「…。」


鞄を近くに投げ捨て

すぐさま機械から飛び出し、

転げる勢いで階段を降りる。

恐怖は勿論あった。

失敗出来ないという恐怖。

やり直しができない人生の方が

私にとっては異色に映っていた。

そんな人生を今までよく

送ってこれたものだ。

怖い、怖い。

けれどそれ以上に嬉しかった。

終われることが嬉しかった。

12日から逃げ出せることが嬉しかった。

明日が。

…。

私にはないけれど、

歩に明日が来ることが嬉しかった。


…。

…嬉しかったはずだ。


「花奏ちゃん!」


廃墟を1階まで降りたところだった。

見覚えのある影が2つ。

ここで立ち止まっていたら

例の時間までに私が死ぬのは

叶わなくなってしまう。

あのマンション程に高くなければ

私の死は叶わない。


なのに。


梨菜「花奏ちゃん待って!」


歩「…。」


花奏「…っ…。」


歩がいた。

歩が。

ものすごく不貞腐れたような

顔をしているけれど、間違いなく歩だった。

歩にもう1度会えたことが

嬉しかったなんて思ってしまう。

最早病気だ。

見下しながら蟻を蹴飛ばす時のように

私を眺める私がいる。


私の前に立ちはだかる2人は

まるでこの先には行かせまいと

通せんぼをしている様子。

こんな時でも、否、こんな時だからこそ

梨菜は邪魔してくるんだ。


梨菜「やめて。」


花奏「…。」


梨菜「死なないで。」


彼女の一方的な言葉は

今まで通り一切曲ることなく私を刺して行く。

どうやったらこんな生き方が出来るのかな。

素直な疑問が浮かぶ。


花奏「歩は事情知ってるん?」


歩「…それとなく聞いたけど、信じてはない。」


花奏「そっか。なんて聞いたん?」


歩「……あんたが死のうとしてる…みたいな。嶋原が適当なこと言ってるだけだと思うけど。」


梨菜「適当じゃない。本当に」


花奏「あはは、死なへんて。」


梨菜「…そんなの、信用なんない。」


花奏「まあ…梨菜からしたらそうやろうな。」


歩「どういうこと?」


花奏「強迫観念って言うんやっけ。こうしなきゃ殺される…とかそういう考えに陥ってるだけやねん。」


梨菜「違う。私の言ってる事全部分かってるでしょ。」


梨菜は食ってかかるように私の肩を掴んだ。

そのまま殺されるかと思うほどの

鋭い眼光が私を捉える。

時間は刻々と過ぎ、

間に合わないかもしれないという

不安が徐々に膨らむ。

手には無意識のうちに汗が迸っていた。


梨菜「ねえ、今回何でこんな変則的な事をしてるの。」


花奏「何言ってるん?混乱してるんとちゃう?」


梨菜「そりゃするよ。だって、今回の花奏ちゃんは何か変だから。」


花奏「変なのは梨菜やろ。」


梨菜「何言ってるの。」


歩「…なるほどね。」


梨菜「歩ちゃんも何か言ってよ!」


歩「…。」


梨菜「歩ちゃんっ!」


歩「嶋原、一旦落ち着いて。」


凛と沈む声が廃墟に空に響いた。

歩がここにくるのは

それこそ春以来だろうか。


梨菜「…!花奏ちゃんはおかしかったでしょ。昨日から不可解な事ばかり連ねてたでしょ?」


歩「昨日からずっと小津町といたけど、体調が悪そうなくらいで特に何もなかった。」


梨菜「…!何で信じてくれないの。」


歩「信じてないっていうか…小津町の言ってる事を信じたいだけ。」


梨菜「歩ちゃん、ちゃんと客観的に見て。今止めないと花奏ちゃんが」


歩「小津町はそんなことしない。」


梨菜「…っ!」


花奏「…。」


歩「小津町は死なない。自分でもそう言ってたでしょ。」


特段かっこつけるわけでも

いい人ぶるわけでもなく、

ただただ自分の意見を言っただけ。

歩が何を考えているのか

とっくに箱の中へ消えてしまった。

信頼されていることに

違和感を常に感じていた。

今でも。

今でも、歩が何故ここにいるのか

不思議でたまらない。

私が辛い時はいつでも駆けつけてきてくれた。


花奏「梨菜。」


梨菜の耳に少しばかり顔を寄せる。

そして私は歩に聞こえないくらいの、

目の前にいる梨菜にしか

聞こえないくらいの声量で耳打ちをした。


花奏「機械、壊した。」


梨菜「…っ!?」


花奏「やから私はもう死なへん。」


梨菜「逆でしょ。」


花奏「…?」


梨菜「だからこそ死ぬんでしょ!」


ぱっと大声を上げる彼女。

肩がびくっとあがるも

こんなのただの脅しだと

気持ちを入れ替える。

どうしよう。

時間がすり減って行く。


花奏「やれることは全部やってん。もう必要ないんや。」


梨菜「そんなはず…壊したこと自体嘘なんでしょ…?」


花奏「んーん。嘘やない。上の階見に行ってみ?」


梨菜「絶対逃げるでしょ。」


歩「…はぁ…。そんなに不安なら私がここで小津町と待ってる。それじゃ駄目なの?」


梨菜「花奏ちゃんは逃げるよ。」


歩「何を根拠に言ってんだか。」


梨菜「本当にそうなの。今までだってそうだったから!」


歩「…早く見にいってきたら?なんか上にあんでしょ。それで少し頭冷やしてきて。」


梨菜「…っ!歩ちゃん、ことの大変さが分かってないよね?」


歩「今ひしひしと感じてる。」


花奏「…梨菜。私どこにも行かれへんから、確認してき。」


梨菜「……っ…。」


肩を突き放すように離し、

きっ、と鋭く睨み付けた後

梨菜は走って瓦礫の残骸が棲む

風化した階段を駆け上がった。

刹那、しんとした空気が

廃墟ごと冷やしていく。


歩「…なんか、異常だね。」


花奏「だいぶ重症なんよ。」


歩「ね。これ、医療機関に罹った方がいいんじゃない?私たちだけじゃ無理。」


花奏「…その話をしたくて集まってもらうつもりやったんやけどな。」


ととと、と上から音がする。

焦って駆け上がっているのだろう。

何をそんなに慌てているのか。

急いだって結果は変わらないというのに。


改めて歩の方を見ると、

日陰のせいであまり表情は見えなかった。

何となくだが面倒だと

言わんばかりの目つきをしているような。


歩「てか、何でここにいたわけ?家に行ったんじゃなかったの?」


花奏「家に行った後、梨菜がここに来るかもと思って念の為待っててん。」


歩「へえ。嶋原もあんたのとこ行くとか言ってここの場所だって1発で当ててたけど。」


花奏「そう…。」


歩「何が見えてんだか。」


花奏「…まあ、今はそれくらいにしとこうや。」


歩「ん。」


時間はないというのに

恐ろしく冷静になっていた。

あれだ。

寝坊したけれど

遅刻することが確定しているが故に

逆に余裕になってしまうような。

あの現象にそっくりだ。


歩「そういや鞄は?」


花奏「あぁ…上に置いてきたんやった。」


歩「馬鹿じゃん。」


花奏「あはは…取りに行かなな。」


歩「嶋原いるだろうけど大丈夫?やけに小津町に噛みついてきてたけど。」


花奏「うーん…どうやろな。一応一緒に来てくれへん?」


歩「えーだる。」


花奏「お願いやって。一生のお願い。」


歩「こんなとこで使うな。」


花奏「今が使い所やろ。」


歩「は?あんたも大概変。」


はあ、と大きくため息をついた後、

私の横をするりと抜ける。

ふわりと。

…また、あの香りが漂った。

その背中を追ってふと振り返る。


歩「早く行こ。」


花奏「…待って。」


彼女の袖を引いてみる。

歩はというと不思議そうな顔をして

私のことを見上げていた。

彼女は至って平然で、

梨菜の素振りを見ても

驚きすぎることなく普段通り。

ポーカーフェイスなのか

元々深くは考えない方なのか。

そこまでは最後まで分からなかった。


歩「何?」


花奏「…えっと…。」


引き止めたはいいものの

何ひとつとして言葉が出てこない。

ここで変な事を口走ってしまえば

梨菜の言っていることが

真実味を帯びてきてしまう。

何か。

何かないだろうか。

…どれだけ頭の中を漁り探しても

これといって出てこなかった。


歩「不安?」


花奏「…えっ…?」


歩「何か今酷い顔してたし、不安なのかなって。」


花奏「…。」


歩「そりゃあ嶋原のあの変わりようを見たらそうなるよね。私も流石に怖くなったし。」


花奏「そうなん…?」


歩「怖いに決まってんでしょ。」


花奏「歩にも怖いものってあるんや。」


歩「当たり前。」


袖は引かれたままに顔をそっぽに向ける。

この所作ひとつひとつが

今になっては惜しく感じた。


歩「だからこそ、あんたが梨菜のことを解決したいって思ってここまで行動出来るのは凄いと思ってる。」


花奏「…。」


歩「私はなるべく小津町を信じてる。馬鹿なこと言ったら叩くけど。」


花奏「簡単に想像できるわ。」


歩「それはそれでむかつく。」


花奏「なんやそれ。」


ふと。

袖から手を離す。

もういいよ。

もう、信じなくていいよ。

信じなくて。


…。

信じてくれてたなんて

…嬉しかったな。


歩「きつかったら言って。昨日のこともあるし。」


花奏「…うん。ありがとうな。」


歩「ん。」


廃墟の階段に足をかけ

こちらを窺う彼女がそこにいた。

野生に猫が脳内で描かれる。


歩「さっさと行こ。」


いつも通り遇らうような

冷たい声は廃墟の壁を伝って

私の元まで来た。

…来た、けれど。

……。

…それを受け取ることは出来ない。


花奏「…歩。」


歩「もー…何なの。」


花奏「色々ありがとうな。」


歩「分かったっての。先行くよ。」


一瞬、彼女が背を向ける。

それが合図だと悟ってすぐ

足は動き出していた。

廃墟の外へ。

そして歩道へ。

時間は何時か分からない。

ただ、24分になっていないことは確か。


今までゆっくりと流れていたはずの時は

急速に進みを早めた。

マンションは間に合わない。

エレベーターに乗る時間等

含めたら確実に駄目。

そのマンション程の高さがないと

飛び降りはまず難しい。


…となると殺してもらうか

それとも事故か。


事故か。

なら。


そのまま足を全力で動かし、

間に合うよう心の中で

何度も願いながら走る。

24分までに私が死ねなければ

歩が死ぬ可能性が高い。

…可能性ではない。

事実だ。

未来だ。

そんなの嫌だ。

嫌だ。

もう戻せないんだ。


何悠長に話していたんだ。

そんな事をして失敗したら

どうするんだ。

…けど。

けれど、最後に話せてよかった。

もっともっと話していたかった。

欲と後悔が混ざりに混ざって

嗚咽がどうしようもなく漏れた。


事故。

最初の歩の時と死に方は一緒だ。

美月はいない。

学校前で待っているはずだから。

だから。


走っていると例の横断歩道が見えてきて

徐々に、徐々に近づいてくる。


もう少し。

少し頑張れば。


足はもう疲れ切り、何故動いているのか

不思議なほどだった。

はっ、はっ…と脳が気持ちの悪い

息の波に揺れている。

脇腹だって手首だって全て何もかもが痛い。

走るのをやめてしまいたい。

でも。

でも…。


歩の生きる明日があるなら。


花奏「…っ!」


大きく足を踏み込み、青信号へ飛び出した。

真隣には何度も見てきたあの車。

ぎりぎりで間に合った…のかな。


夜に溶けていきそうなほど儚く笑う

歩の顔が浮かぶ。

これが走馬灯なのだろう。

間に合っていますように。

一生のお願いだった。


歩に何もない幸せな明日が、

明日が。

…来ますように。


そう、祈ってー。

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