何気ない11日

今日は金曜日。

普段の生活は延長線のまま

止まるところを知らない。

学校に行く準備をしながら

ちらとTwitterを確認する。


みんな様々動いていて、

日常が垣間見えた。

あぁ、みんな別々の日常があるんだなって

当たり前のことをよく思う。

みんな違う生活をしていて

1から10まで一緒の生活している人なんて

いないとは分かっている。

けれどよくよく思ってみれば

みんな違う生活をしてるって

凄いことのような気がする。

みんな違う場所に行って、

みんな違うものを食べて、

みんな違う歩幅で歩く。


花奏「変なの。」


ニュースとひとコーナーでやっていた

動物の変顔の画面を見ながらそう呟く。

動物も人間に似て変顔するんだなと

ぼんやり思いながら制服の袖に腕を通した。

変なの、と呟いたその文字列は

みんな違う事に関してか

動物の変顔か、将又その両方か

判別はつかないままだった。

今日は父さんの方が遅く家を出る。

どうやらそのまま出張らしい。

簡単なこと…それこそ皿洗いとかは

済ませておいたけれど、

洗濯や他の家事は何もしていない。

父さんには家出る前に何をしていて欲しいか

書き置きでも残しておこう。


花奏「…あれ?」


いつもあるところにメモ用紙がない。

こういう時に限ってなくて

どうでもいい時こそいつもの場所にいる。

本当何故なんだか。

探せばそりゃ出てくるだろうが、

学校に行く時間も迫っているので

あんまりこんな事に割きたくない。

どうしようかな。

そう思っている間に

ニュースは動物のコーナーを終え

天気予報へと内容は移り変わっていた。


花奏「あ。」


普段は行かない物置部屋に行くと

ニュースキャスターの声は

どんどん遠のいていき、

しまいには何を言っているんだか

うまく聞き取れなくなっていた。

そして棚の中にあった

少し黄ばんだ付箋の束。

元々はただの白かったんだろうが、

日が経つにつれ酸素と仲良く

なってしまったのだろう。


花奏「なんかあの時のメモみたいやな。」


宝箱の中に入っていた、

人で例えるなら80歳くらいのメモ用紙。

そこに書かれた謎の文字列。

そして最後の宝箱へのヒント。


そういえばあの宝箱の中にあった

メモの数々は結局何の言葉だったんだろうか。

唯一完全に何を指し示しているか分かったのは

「伊瀬谷真帆路は生きている」という

言葉の書かれたメモのみ。

後は抽象的で何に対して言っているのか

全くもって見当がつかない。

けれどひとつわかってるとはいえ

理解は何ひとつできていない。


だって私は真帆路先輩が

亡くなったと言う知らせを聞いた。

その上葬儀にも参列した。

もう動かなくなった彼女を

この目で確と見た。

あれが夢だなんて思えない。

それに真帆路先輩は元々今私の通っている

高校にいたのだけれど、

彼女が高校3年の時に自殺した。

当時の歩は高校1年だから

もしかしたら先生たちから

話があったかもしれない。

先生たちから話はなくとも

少なからず学校中で噂にはなっていただろう。


そんな彼女が生きているというのだ。

嘘だとはわかっていても

淡い期待に心を寄せてしまう。


花奏「…ちゃうちゃう、こんな考えるためにメモ探したんやなかった。」


さっさと付箋を1枚剥がした後、

近くにあった鉛筆で

がりがりと筆跡を残す。

これはやったからこれをしておいてほしい。

大まかだが伝わるように。

そして最後には

「出張気をつけて、いってらっしゃい」

と添えた。


そうこうしているうちに

家を出なければならない時間は

刻々と迫っていた。

持ち物を大雑把に確認する。

そして制服を1度整え直して

ポケットに例のものがあるか否か

確かめるためにそっとスカートに触れる。


花奏「うん、あるな。」


先輩からもらったストラップ。

毛糸で作られたもので、

所謂あみぐるみというもの。

過去に燃やされてしまって

青いイルカだったものは今では

ほぼ真っ黒だけれど、

それでも透明な袋に

ストラップを入れ持ち歩いていた。

今でも身近に先輩を感じれる気がしたから。


花奏「よおし、行くか。」


靴を履き、つま先をトントンと

リズミカルに鳴らすと

外で小学生が奇声を上げた。

タイミングがいいなんて

遠くで思いながら

私は1度家の方へと振り返る。


花奏「行ってきまーす。」


返事はなく、聞こえてきたのは

父さんの特大な音量のいびきだけ。

ぐっすり眠っているようなので

このまま10時頃までは

寝かせておいてあげよう。

昨日も昨日で頑張っていたようだし。


そうして夏祭りの気を帯びた

ストラップを踊らせ、

家を後にしたのだった。


学校に着くや否や

見知った顔に声をかけた。

すると、眠そうだった湊は

ぱあっと明るい顔をして

私に声をかけ返してくれたのだった。


湊「花奏ちゃんおはよう。」


花奏「おはよー。なあなあ、今日の英語って宿題あったっけ?」


湊「あったあった。しかも当てられるやつ!」


花奏「ほんまかいや。やっべ急いでやらな。」


湊「それくらい見せるよ、ほれ写しちゃいな。」


花奏「えっ、湊が宿題やってんの?」


湊「馬鹿にしないでいただきたい、気が向くときは向くんだから。」


花奏「ありえへんわ、明日雪やで。」


湊「だったら関東地方の初雪は貰ったね。1位だよ1位。」


私も私で変な例えをすることがあるとは

自負しているが、湊も湊だと思う。

所々変なのだ。

いい意味で周りとは違うとも

取れるだろう、きっと。


湊「ま、見せる見せる。ちゃちゃっと写しちゃいな。」


花奏「ほんま助かるわー!ありがとうな。」


湊「あってる保証はないけどねー。」


花奏「ええんや。凌げるってのが大きいねん。」


昨日はぼんやりとしていたせいで

宿題のことを完全に忘れていた。

結局昨晩は家に帰ってから

机の元に行って勉強しようとはするも

ペンが持てずうつ伏せていた。

1年間頑張った、と

ただ感傷に浸っているだけ。

そんな、夜に漬け込まれる日くらい

あってもいいだろうと

自分を甘やかした結果

今日痛い目を見ていた。


今までこの高校での宿題をし忘れる

なんて事はなかったと記憶している。

随分と傷が顔を出しているのだなと

自嘲した事は自分の中だけに留めておこう。

朝、時間が有れば歩のところへ

顔出しに行こうと思ったが

昨日の感傷からはまだ抜け出せず

課題も課題でだいぶ大変なので

行けそうにない。


かしかしと耳に擦れる音。

写している間に時間はあっという間に過ぎ、

何とか終わったものの芯も時間さえも

擦り切れていた。


花奏「ありがと、めっちゃ助かったわ。」


湊「いいのいいの。また今度ジュース1本奢って。」


花奏「アンパンマンジュースでええな?」


湊「えーやだー。あはは。」


楽しく笑ってくれるもんだから

私も思わず声を出して笑ってしまう。

要望は無糖の午後の紅茶だと言うので

昼休みだか来週だかには

買ってお詫びをすることにしよう。

そんな話をしているうちに

教室には人が溢れかえっており、

終いにはチャイムまで鳴り始めた。


席に座ったままでいるも彼女は後ろの席。

先生がまだきていないのもあって

肩をとんとんと叩かれる。

何かと思って振り返れば

にんまりと目元を細めた顔があった。

机の上にだらんと上体を

寝かせている体制で、

なんだかこっちまで気が抜けた。


湊「間に合ってよかったねー。」


花奏「お陰様で。」


湊「ふふん、もっと崇め奉り給え。」


花奏「やっぱ牛乳とかにしたろかいな。」


湊「牛乳、中学の頃からは飲めないのー。」


花奏「へえ、そうやったんか。」


湊「嫌がらせ反対ー!」


花奏「もー分かっとるって、無糖な無糖。」


湊「よろしい。」


今回は私が奢る番だが

普段は逆のことが多い。

彼女は宿題をしない常習犯であり、

よく宿題を見せてとお願いされる。

その度お菓子をひとつ分けてくれて

申し訳なく思っていたのだが、

本人は

「いいからいいから、気持ち受け取っといて」

と軽く流すのだ。

2、3ヶ月に1回くらいの

よくわからないタイミングで

飲み物を忘れる彼女なので、

その度私からお返しという形で

飲み物を奢っていた。

ほんと、彼女が宿題をやってきているなんて

明日はきっと雪だ。

変な事が起こりそう。


「席座れー。」


低く渋い男性の声が教室の

壁という壁に跳ね返り生徒たちの元へ届く。

声の主は先生だと

その刹那はっと分かった。

まだ席を立っていた数人の生徒は

綺麗に散っていき

自分の場所へと戻っていった。

学校ならではの号令がなされる中、

湊の欠伸が不意にも私の耳を掴んだ。

空は雲が多めだが、

雨が降っていないだけマシだろう。

夕方の帰る頃に

降らなかったらいいけれど。


先生「連絡事項です。今日の放課後から夜あたりにかけて警備員が校内回るからなー。最近中高生を狙った殺傷事件が多いので、その対策です、と。…そうだな、部活生とかすれ違ったら挨拶するようにー。」


つん、と背中に刺激を感じて

若干顔を後ろに寄せる。


湊「物騒だね。」


花奏「やな。」


小声で返事をすると

それ以降湊から言葉はなかった。


生徒達は続けて静かに耳を澄ませたまま、

将又聞かずに別のことをしたまま

朝のホームルームの時間は過ぎ去っていった。





***





うとうとしてたらしい。

はっと目を開くと先生がかつかつと

黒板に物を書いている。


花奏「…!」


まずい、ノートがほぼ白い。

びーっと伸ばされた薄い黒線は

直ちに消しゴムに消されていく。

電車内でうたた寝してしまった時特有の

謎にどきどきとした感覚に襲われる。

早く板書しなきゃと思いシャーペンを握るも。

かつん。

思わず机にシャーペンを転がしてしまって

教室にぱっと響き渡る。

でも、それを気にする人はいなくて

かか、かっというノートと黒芯が擦れる音。

学生の特許とも言えるのかも。

脳内はごたごたに音を立てながら

表面ではただ板書を進めていた。


花奏「…?」


黒板に一部繋がらない箇所がある。

寝ている間に消されてしまったらしい。

後で湊に見せてもらおう。

昨日から今日にかけて

とてもではないが変だな、と我ながらも思う。

いつも通りにいかないもどかしさと

そんな日もあるという寛容さが

混ざりそうで混ざらずに

水と油のように綺麗に分割されている。

そのせいで気持ち悪さは

増しているようにも思えた。

そう思った刹那、終わりを告げる鐘。

今日の2時間目が終わる合図だった。





***





湊「花奏ちゃん寝てたね、珍しい。」


花奏「ありゃーバレてたか。」


湊「席後ろだし流石にね。」


花奏「あはは、そりゃそうか。」


湊「寝顔が見れなかったのが残念っすねー。」


花奏「絶対見せたないわ。」


授業を終え後ろに座っている

湊と少し会話をする。

やはりというか、うたた寝してたことを

指摘されてしまった。

えへへ、と笑うことしかできない。


湊「にしてもほんっと珍しいじゃん。」


花奏「あぁー、寝ちゃったこと?」


湊「うん。花奏ちゃんが授業で寝たところを見るのは初めてかも。ってかそもそも授業中の爆睡は初じゃない?」


花奏「爆睡て。確かに寝てたけども。」


湊「明日、雪降るでしょー。」


花奏「それは大袈裟やって。湊が宿題やってくる方が珍しいやん。」


湊「なら珍しいの2乗ね。明日は吹雪だ。」


花奏「なんやそれ。」


湊「じゃなきゃ元取れないって。」


人差し指で机を擦り付けている湊。

相変わらず上半身は机と仲良し。

何をやっているのかと思えば

消しかすに圧をかけて形を変えているらしい。

時々真っ黒な消しかすが見えた。

元が取れないとはいえ

そもそも何に対してだろう。

私達が珍しい事をしたってことに

対しての代償的なものって話だろうか。

天気側が代償を払うってどういう事だ…。

やはり彼女の突飛な発想力には

ついていけないところがありつつも

自分を振り返ってみる。


花奏「まぁでも、確かにあんま寝ることないかもなぁ。」


高校生は2回目ということもあり

お父さんにはだいぶ負担をかけている。

それを承知の上なので

もしかしたら何処かでしっかりと勉強を

しなければならないと

思っているのかもしれない。

高校生としては持っていて当然というか

持つべき感情だと思ってきたけれど、

私は過去が過去な上尚そう思うのかも。

思えば1回も授業中には

寝た事なかった気がする。

合間合間の休み時間に伏せて

軽く寝ることはよくあったけれど。


花奏「なんか疲れとったんかなぁ。」


湊「ちゃんと寝た?」


花奏「うん、しっかりと7時間。」


湊「健康すぎるくらい。」


花奏「そうなんよ。」


湊「因みにうちは9時間。」


花奏「聞いてないし寝過ぎや。」


湊「眠かったんだもん。至福だったよ。」


花奏「幸せのことこの上ないやろうに。」


湊「まさにその通り。ま、今日もしっかり休んでくれよん。」


花奏「うん、そうするわ。湊も休む時しっかり休みなね。」


湊「勿論。無理できないってかしたくない性格なもんで。」


湊は手遊びがてら

両手をぐーぱーしていた。

湊は平均か、

それより少し高いくらいの身長だが

私と比べてしまうと10cm程は差がある。

だらけている姿勢ということもあり

不貞腐れた子どものよう。

どこか可愛げあるようにも見えてしまう。

湊だからそんな事はないけど。

それを本人に言ったら

むすっとした顔で見られ…

おや、今もそんな顔で見られてる。


花奏「…なん?」


湊「今絶対小さい子供みたいって思ったっしょ。」


花奏「なんで分かったんや…。」


湊「口元緩んでた。」


花奏「マスクしてるのに見えるかいや。」


湊「うち千里眼持ち。」


花奏「観察眼持ちの間違いやろ。」


湊「夢がないなあ。」


花奏「うーん…ま、素直も考えようやな。」


湊「長所だから気にしなくていいんじゃない?」


花奏「あはは、ありがと。」


癖でつい人の頭を撫でた。

湊の髪はふわふわしてて、

指にほどよく絡んできた。

湊はというと満更でもない顔をしていて

どことなく嬉しいというのは伝わっていた。


その後はいつも通り授業を受け、

休み時間には歩のところに行くも

いつも通りやんややんや言われて。

愛咲は歩にだる絡みしに行って

結局こっぴどく追い返されていた。

今日はぼんやりと外を見て過ごすこともなく

時間が経っていることを

不意に忘れてしまう日々。

そしたらいつの間にか今日が終わる。

授業が全て終わり、

帰りのホームルームが終わった段階で

スマホの消音モードを辞める。

これだって習慣になってしまった。


花奏「…あ、卵なかったかも。」


帰りの準備をしつつ

家の冷蔵庫の中を想起してみると

そんな気がしてならない。

朝卵焼き作った時に

使い切ったんじゃなかったっけ。

湊は既に部活なり遊びになり行き

教室にはいなかった。

毎回いの一番に飛び出していくのだ。

焦っているのか楽しみなのか知らないが

普段あれだけマイペースなのに

なんでそこだけはせっかちなのだろうと

いつも不思議に思う。


今日は帰りにスーパーに寄りたいな。

って思うと今日は歩の元へ行くのは

おやすみといったところだろう。

別にいつも約束して会っているわけではないが

何となく会ってる日は多かった気がする。

すれ違うことも勿論あった。

私が教室に行っても歩がいなかったり

将又その逆もあったり。

最近歩は放課後教室や図書室で

勉強してから帰ることが多い。


肩に鞄をかけ、教室に残った

普段仲良くしてくれてる別の子に

ばいばいとひと言かける。

一緒にいがちなのは湊だけど

他2、3人とも程よく友好関係があった。

2年前から大きく変わったもんだ。


花奏「うわ、降りそうやな。」


玄関で靴を履き替え

外を一望してからの第一声がそれだった。

折り畳み傘、持ってきてただろうか。

冷たくなった金具を引き

鞄の中身を確認するも

教科書としか顔を合わせられない。


仕方ない。

そう割り切って外へと踏み出す。

固いコンクリートの感触が足裏を劈く。

校門を出てほんの数歩進んだところで

ととんととんと機械音が存在を証明し出した。

唐突にその音と出会ったものだから

驚いて1度立ち止まる。

そうだ。

さっき自分で音が鳴るように

設定し直したんじゃないか。

音が鳴るのはLINEだけ。

みんなに何かあった時に気づけるように。


花奏「……何かあったんかな。」


勿論くだらない話をする時にも

LINEは動いているが、

真剣な話し合いの時に動くことも多々ある。

半々といった確率だろう。

今回も、もしかしたら何かあったのではないか。

そう思うと気が気でなくなって

冷たくなったスマホを手に取る。

歩きスマホは流石に危ないので

一端路ばたに身を寄せた。


花奏「…。」


嫌な心臓の響き方をしていると分かる。

雨が降っているわけでもないのに

手はしっとりと無機物を温める。

毎回LINEを開くときは

これ程にまで緊張してしまうのだ。

画面には。


美月『明日予定がなかったら歩の誕プレ買いに行きましょ?』


と、美月らしく簡潔に纏められた文章が

規則正しく丁寧に並んでいた。


花奏「そっか。」


急なお誘いかと思えば

歩の誕生日は11月15日だったと不意に過る。

後4日で彼女は18歳になるらしい。

私と全く同じ歳になるらしい。

やはり時間は無情にも疾く走り去っていたと

今もまた改めて感じていた。


誕生日プレゼント、かあ。

歩は何が好きなんだろうか。

何度も家に突撃し何時間も

一緒に過ごしてはいるけれど

歩のことはまだまだ未知数。

そもそも歩が進んでこれが好きだと

声にしたことがあっただろうか。

何となくしているとか

することがないからしているだけ、とか。

バイトや生活に関しては

そういった言い回しをよくしている。

ああ、全然彼女の事を

知れていなかったのだなと

ほんの少しだけ肩を落とす。


美月へ勿論という趣旨の内容を

送り返そうとした時のこと。


…とつ。


ととん。

画面を歪ませた何か。


花奏「…雨?」


手のひらを上に向けて確かめる。

そこには雨粒は乗らず

ぴと、と頬を伝う水滴。

今日は天気予報を

見てすらいなかったんだっけ。

見たものは動物の変顔のみだったと

はっきりと思い出せる。

スマホを眺む間にびっしりと

分厚い雲に覆われていた。


ぼんやりと空を眺めていると突如

比にならないほどの大雨が私を襲う。

食われるかと思うほど強い雨。

ゲリラ豪雨というやつだろうか。

夕立というやつだろうか。

こんな時に限って

折り畳み傘はおろか何もない。

スマホから通知の音がしようとも無視して

走っていれば間に合っただろうか。

…いや、距離的に

確実に間に合ってなかったな。

そもそもまるまるしたら、とか

まるまるだったらなんて

起こるはずないのに。


花奏「やべっ、走らな。」


美月への返事は後回しにして

鞄にスマホを突っ込み走り出す。

夕闇に追われ、夕立に襲われ、

逃げるように帰路を辿った。

卵は家に帰ってもう1度出るか

いっそのこと明日にしよう。

しち、しちと靴の裏が

コンクリートに染み付いた。











うとうとしてたらしい。

はっと目を開くと先生がかつかつと

黒板に物を書いている。


花奏「…!」


まずい、ノートがほぼ白い。

びーっと伸ばされた薄い黒線は

直ちに消しゴムに消されていく。

電車内でうたた寝してしまった時特有の

謎にどきどきとした感覚に襲われる。

早く板書しなきゃと思いシャーペンを握るも。

かつん。

思わず机にシャーペンを転がしてしまって

教室にぱっと響き渡る。

でも、それを気にする人はいなくて

かか、かっというノートと黒芯が擦れる音。

学生の特許とも言えるのかも。

脳内はごたごたに音を立てながら

表面ではただ板書を進めていた。


花奏「…?」


黒板に一部繋がらない箇所がある。

寝ている間に消されてしまったらしい。

後で湊に見せてもらおう。

昨日から今日にかけて

とてもではないが変だな、と我ながらも思う。

いつも通りにいかないもどかしさと

そんな日もあるという寛容さが

混ざりそうで混ざらずに

水と油のように綺麗に分割されている。

そのせいで気持ち悪さは

増しているようにも思えた。

そう思った刹那、終わりを告げる鐘。

今日の2時間目が終わる合図だった。





***





湊「花奏ちゃん寝てたね、珍しい。」


花奏「ありゃーバレてたか。」


湊「席後ろだし流石にね。」


花奏「あはは、そりゃそうか。」


湊「寝顔が見れなかったのが残念っすねー。」


花奏「絶対見せたないわ。」


授業を終え後ろに座っている

湊と少し会話をする。

やはりというか、うたた寝してたことを

指摘されてしまった。

えへへ、と笑うことしかできない。


湊「にしてもほんっと珍しいじゃん。」


花奏「あぁー、寝ちゃったこと?」


湊「うん。花奏ちゃんが授業で寝たところを見るのは初めてかも。ってかそもそも授業中の爆睡は初じゃない?」


花奏「爆睡て。確かに寝てたけども。」


湊「明日、雪降るでしょー。」


花奏「それは大袈裟やって。湊が宿題やってくる方が珍しいやん。」


湊「なら珍しいの2乗ね。明日は吹雪だ。」


花奏「なんやそれ。」


湊「じゃなきゃ元取れないって。」


人差し指で机を擦り付けている湊。

相変わらず上半身は机と仲良し。

何をやっているのかと思えば

消しかすに圧をかけて形を変えているらしい。

時々真っ黒な消しかすが見えた。

元が取れないとはいえ

そもそも何に対してだろう。

私達が珍しい事をしたってことに

対しての代償的なものって話だろうか。

天気側が代償を払うってどういう事だ…。

やはり彼女の突飛な発想力には

ついていけないところがありつつも

自分を振り返ってみる。


花奏「まぁでも、確かにあんま寝ることないかもなぁ。」


高校生は2回目ということもあり

お父さんにはだいぶ負担をかけている。

それを承知の上なので

もしかしたら何処かでしっかりと勉強を

しなければならないと

思っているのかもしれない。

高校生としては持っていて当然というか

持つべき感情だと思ってきたけれど、

私は過去が過去な上尚そう思うのかも。

思えば1回も授業中には

寝た事なかった気がする。

合間合間の休み時間に伏せて

軽く寝ることはよくあったけれど。


花奏「なんか疲れとったんかなぁ。」


湊「ちゃんと寝た?」


花奏「うん、しっかりと7時間。」


湊「健康すぎるくらい。」


花奏「そうなんよ。」


湊「因みにうちは9時間。」


花奏「聞いてないし寝過ぎや。」


湊「眠かったんだもん。至福だったよ。」


花奏「幸せのことこの上ないやろうに。」


湊「まさにその通り。ま、今日もしっかり休んでくれよん。」


花奏「うん、そうするわ。湊も休む時しっかり休みなね。」


湊「勿論。無理できないってかしたくない性格なもんで。」


湊は手遊びがてら

両手をぐーぱーしていた。

湊は平均か、

それより少し高いくらいの身長だが

私と比べてしまうと10cm程は差がある。

だらけている姿勢ということもあり

不貞腐れた子どものよう。

どこか可愛げあるようにも見えてしまう。

湊だからそんな事はないけど。

それを本人に言ったら

むすっとした顔で見られ…

おや、今もそんな顔で見られてる。


花奏「…なん?」


湊「今絶対小さい子供みたいって思ったっしょ。」


花奏「なんで分かったんや…。」


湊「口元緩んでた。」


花奏「マスクしてるのに見えるかいや。」


湊「うち千里眼持ち。」


花奏「観察眼持ちの間違いやろ。」


湊「夢がないなあ。」


花奏「うーん…ま、素直も考えようやな。」


湊「長所だから気にしなくていいんじゃない?」


花奏「あはは、ありがと。」


癖でつい人の頭を撫でた。

湊の髪はふわふわしてて、

指にほどよく絡んできた。

湊はというと満更でもない顔をしていて

どことなく嬉しいというのは伝わっていた。


その後はいつも通り授業を受け、

休み時間には歩のところに行くも

いつも通りやんややんや言われて。

愛咲は歩にだる絡みしに行って

結局こっぴどく追い返されていた。

今日はぼんやりと外を見て過ごすこともなく

時間が経っていることを

不意に忘れてしまう日々。

そしたらいつの間にか今日が終わる。

授業が全て終わり、

帰りのホームルームが終わった段階で

スマホの消音モードを辞める。

これだって習慣になってしまった。


花奏「…あ、卵なかったかも。」


帰りの準備をしつつ

家の冷蔵庫の中を想起してみると

そんな気がしてならない。

朝卵焼き作った時に

使い切ったんじゃなかったっけ。

湊は既に部活なり遊びになり行き

教室にはいなかった。

毎回いの一番に飛び出していくのだ。

焦っているのか楽しみなのか知らないが

普段あれだけマイペースなのに

なんでそこだけはせっかちなのだろうと

いつも不思議に思う。


今日は帰りにスーパーに寄りたいな。

って思うと今日は歩の元へ行くのは

おやすみといったところだろう。

別にいつも約束して会っているわけではないが

何となく会ってる日は多かった気がする。

すれ違うことも勿論あった。

私が教室に行っても歩がいなかったり

将又その逆もあったり。

最近歩は放課後教室や図書室で

勉強してから帰ることが多い。


肩に鞄をかけ、教室に残った

普段仲良くしてくれてる別の子に

ばいばいとひと言かける。

一緒にいがちなのは湊だけど

他2、3人とも程よく友好関係があった。

2年前から大きく変わったもんだ。


花奏「うわ、降りそうやな。」


玄関で靴を履き替え

外を一望してからの第一声がそれだった。

折り畳み傘、持ってきてただろうか。

冷たくなった金具を引き

鞄の中身を確認するも

教科書としか顔を合わせられない。


仕方ない。

そう割り切って外へと踏み出す。

固いコンクリートの感触が足裏を劈く。

校門を出てほんの数歩進んだところで

ととんととんと機械音が存在を証明し出した。

唐突にその音と出会ったものだから

驚いて1度立ち止まる。

そうだ。

さっき自分で音が鳴るように

設定し直したんじゃないか。

音が鳴るのはLINEだけ。

みんなに何かあった時に気づけるように。


花奏「……何かあったんかな。」


勿論くだらない話をする時にも

LINEは動いているが、

真剣な話し合いの時に動くことも多々ある。

半々といった確率だろう。

今回も、もしかしたら何かあったのではないか。

そう思うと気が気でなくなって

冷たくなったスマホを手に取る。

歩きスマホは流石に危ないので

一端路ばたに身を寄せた。


花奏「…。」


嫌な心臓の響き方をしていると分かる。

雨が降っているわけでもないのに

手はしっとりと無機物を温める。

毎回LINEを開くときは

これ程にまで緊張してしまうのだ。

画面には。


美月『明日予定がなかったら歩の誕プレ買いに行きましょ?』


と、美月らしく簡潔に纏められた文章が

規則正しく丁寧に並んでいた。


花奏「そっか。」


急なお誘いかと思えば

歩の誕生日は11月15日だったと不意に過る。

後4日で彼女は18歳になるらしい。

私と全く同じ歳になるらしい。

やはり時間は無情にも疾く走り去っていたと

今もまた改めて感じていた。


誕生日プレゼント、かあ。

歩は何が好きなんだろうか。

何度も家に突撃し何時間も

一緒に過ごしてはいるけれど

歩のことはまだまだ未知数。

そもそも歩が進んでこれが好きだと

声にしたことがあっただろうか。

何となくしているとか

することがないからしているだけ、とか。

バイトや生活に関しては

そういった言い回しをよくしている。

ああ、全然彼女の事を

知れていなかったのだなと

ほんの少しだけ肩を落とす。


美月へ勿論という趣旨の内容を

送り返そうとした時のこと。


…とつ。


ととん。

画面を歪ませた何か。


花奏「…雨?」


手のひらを上に向けて確かめる。

そこには雨粒は乗らず

ぴと、と頬を伝う水滴。

今日は天気予報を

見てすらいなかったんだっけ。

見たものは動物の変顔のみだったと

はっきりと思い出せる。

スマホを眺む間にびっしりと

分厚い雲に覆われていた。


ぼんやりと空を眺めていると突如

比にならないほどの大雨が私を襲う。

食われるかと思うほど強い雨。

ゲリラ豪雨というやつだろうか。

夕立というやつだろうか。

こんな時に限って

折り畳み傘はおろか何もない。

スマホから通知の音がしようとも無視して

走っていれば間に合っただろうか。

…いや、距離的に

確実に間に合ってなかったな。

そもそもまるまるしたら、とか

まるまるだったらなんて

起こるはずないのに。


花奏「やべっ、走らな。」


美月への返事は後回しにして

鞄にスマホを突っ込み走り出す。

夕闇に追われ、夕立に襲われ、

逃げるように帰路を辿った。

卵は家に帰ってもう1度出るか

いっそのこと明日にしよう。

しち、しちと靴の裏が

コンクリートに染み付いた。











うとうとしてたらしい。

はっと目を開くと先生がかつかつと

黒板に物を書いている。


花奏「…!」


まずい、ノートがほぼ白い。

びーっと伸ばされた薄い黒線は

直ちに消しゴムに消されていく。

電車内でうたた寝してしまった時特有の

謎にどきどきとした感覚に襲われる。

早く板書しなきゃと思いシャーペンを握るも。

かつん。

思わず机にシャーペンを転がしてしまって

教室にぱっと響き渡る。


花奏「…っ!?」


違う。

違う。

違うんだ。

私は見たことある。

この情景を知っている。

私は繰り返しているんだ。

そうだ。

思い出した。

今回は初めから思い出せた。

板書なんてどうでもいいんだ。

今は、今は歩を助ける方法を。


花奏「…。」


まずは整理しなきゃ。

ここから放課後まではとりあえずいいとして

歩をあの横断歩道から離せば

万事解決するのではないだろうか。

ということは、

私と美月は予定通り買い物に行き、

歩には実家に帰らないでもらう、とか。

そもそも今日から明日にかけての

みんなの予定がわからない。

思えばどうして梨菜が私の家に来たのかさえ

未だわかっていないままだ。

私の家から1番近いのは美月で、

梨菜は少し離れているはず。

学校の近くに家があると

言っていた気がするのだ。

それに美月は私との約束がなくなり、

明日は1日何も予定が

無いんじゃないのか。


…分からないことが多すぎるけれど、

まず1番は夕立にあたらず帰り

明日風邪をひかないことが先決かも知れない。

あの熱や怠さは外を歩けば

怪我するのではないかと思うほどの辛さだった。

それさえなければ私はだいぶ自由に動けるはず。

そしたら歩をきっと直ぐに

救い出すことはできるはずなの。


今後どうするかを思案していると

突如終わりを告げる鐘。

今日の2時間目が終わる合図だった。





***





肩をとんとんと突かれる。

後ろからだ。

…となると犯人は1人しかいない。


湊「ねぼすけさん、へーき?」


湊は相変わらず机にくっつくように

寝そべって話しかけていた。

繰り返されたこの会話。

前までの私は素直に楽しんで話せてたのに

今じゃそれどころではなく

不安ばかり異常に過剰に募ってゆく。


花奏「平気や。」


湊「花奏ちゃん寝てたね、珍しい。」


花奏「バレてたんやな。」


湊「席後ろだし流石にね。」


花奏「それもそっか。」


湊「寝顔が見れなかったのが残念っすねー。」


花奏「絶対見せたないわ。」


湊は自分の髪を指に巻き

するすると引っ張って解いていた。

少しぎこちない会話をする。

そう感じているのは私だけか。

やはりうたた寝してたことを指摘されて、

他の人からしたらただの変わらない

11月11日なのだと悟った。

えへへ、と笑ってみるも

うまく笑えているか分からない。


今は歩に会いたいと強く願う自分がいた。

また手をぎゅっと強く組む。


花奏「ごめん、ちょっと行ってくる。」


湊「ん?トイレー?」


花奏「ううん。別のとこ。」


湊「ほいほい。気をつけていってくるのじゃぞ。」


花奏「ん、ありがと。」


人差し指で机を擦り付けている湊。

相変わらず上半身は机と仲良し。

何をやっているのかと思えば

前回同様消しかすに圧をかけて

形を変えているらしい。

こちらに見向きもせず送り出してくれるのは

正直ありがたかった。

きっと今、私は酷い顔を

しているような気がしたから。


次の授業も10分後にあることだし

早歩きどころか走って歩の教室まで行く。

歩は生きているのだろうか。

生きているに決まっている。

だって歩が事故に遭うのは

明日なのだから。

歩に最後会ったのはいつだっけ。

思えば普通に11日と12日を

過ごしていたら歩と会ったのは

11日の昼休みだけだと気がつく。

私の感覚では1週間くらい会えていないような

感じがしているが、実際はそうでもない様子。


かたかたと床を踏み鳴らしてるうちに

目的の場所が視界に入る。

後ろの扉付近には数人屯していたが、

前の扉はすかすかだったので

そちらに体を寄せた。


花奏「歩っ!」


思ったより大きな声が

教室に響き渡ってしまい

生徒が何人もこちらを振り向く。

数秒こちらを向いた後、

興味を無くしたのかしんとした教室内にも

また話し声が復旧し出す。

その中で1人、視点を外さず

ずっと私を見つめている人がいた。


歩「…?」


歩本人だった。

歩は呼ばれたことに驚いたのか、

いつもついている肘の

その先の手は頬についていなかった。

きょとんとした瞳のまま

固まっている彼女。

私も然り。


歩が、いた。

その事実に思わず涙が出そうになる。

もし今歩と私しかこの場にいなかったら

間違いなく泣き出していた。

歩はじっと見つめたままで、

少し訝しげな顔している。

震える足を1歩踏み出す。

かつん、と足音が嫌なほど

反響して聞こえた。

歩はいつも通りずっと待ってくれていた。

待っててくれた。


いつものように歩の前に立ち

目を合わせてみる。


歩「…何か?」


あからさまに嫌ですと言わんばかりの

オーラを出している彼女は

いかにも歩らしくて。

ああ、歩だって。

歩が生きているんだって実感している。


花奏「いいや、何も。」


歩「は?きも。」


花奏「あはは、傷つくやん。」


歩「言ってろ。」


ああ、いつもの会話だ。

久しぶりのいつも通りだ。

歩がいるのがいつも通りで、

歩と話すのがいつも通りになっていた。

嬉しかった。

歩がいることが嬉しかった。


歩「んで、珍しいじゃん。授業の合間にくるの。」


花奏「まあね。来たくって。」


愛咲「おうおうおーう!花奏ーい!どうかしたのかー?」


どん、と視界が揺らいだのかと思えば

首に温もりが巻き出す。

ふと横を見ればにっかにかの笑顔をした

愛咲が肩を組んできていた。

そっか。

愛咲も歩と同じクラスだから

さっきの私の声も聞こえてただろう。

何かあったんじゃないかと思って

駆けつけてきたのかな。

それとも面白そうと思って来たのかな。

真意は分からなかったけれど

愛咲さんの笑顔は私の緊張や不安を

溶かすのに十分すぎるほどだった。


花奏「愛咲!…ううん、ただ来たかっただけやねん。」


愛咲「ひゅー、お熱いねぇー。」


歩「んなんじゃないから黙ってろ。」


愛咲「ええー?ちげーの?」


歩「馬鹿じゃないの?相変わらずうざ。」


愛咲「ぐふっ…大ダメージを負った…。麗香の毒舌は減ったと思えば三門は逆に酷くなっていってるよなー。」


大ダメージなんて言ってる割には

すぐにけろっとして腰に手を当て

威勢よく話し続けていた。

愛咲らしいな。

歩らしいな。

これが日常だったんだ。

幸せだったんだ。


歩「ってか小津町、授業間に合うの?」


愛咲「そーじゃん、移動教室とかねーのか?」


花奏「うん、自分の教室やから平気。…やけどそろそろ戻るな。」


愛咲「だなー。ちょっと遠めだしな!」


歩「ん。」


愛咲「また来な!」


花奏「…うん、そーするわ。」


じゃあまた、とひと言残して

歩と愛咲の前から背を向ける。

またね。

また。


この日常を守りたい。

無くしたくない。

亡くしたくない。

ぎゅっと手を握り締める。

みし、と鈍い音が鳴った。





***





その後はいつも通り授業を受け、

休み時間には歩のところに行くのはやめた。

もう会う気力がなかった。

決意を漲らせるには

ほんの数分で十分だった。

それよりあれ以上顔を合わせていると

涙が溢れて来そうだったから。

今日はぼんやりと外を見て

過ごすこともなく時間が経っていることを

不意に忘れてしまうなんてことはなかった。

そしたら今日はすぐに終わらず、

ずっとどうすればいいのか

考え続けていた。

とはいえそもそも情報量が少ないので

ほぼ無意味に悩んでいるだけにも映る。

授業が全て終わり、

帰りのホームルームが終わった段階で

スマホの消音モードを辞めた。

いつもの習慣はこんな時になってまで

私にまとわりついてしまっていたのか。


花奏「…まずは、雨に当たらない。」


呟きは誰にも届かないで、

私の耳にだけ残響する。

得体の知れない責任感が

私に重くのしかかる。


湊は変わらず既に部活なり遊びになり行き

教室にはいなかった。

毎回いの一番に飛び出していった。

肩に鞄をかけ、教室に残った

普段仲良くしてくれてる別の子に

ばいばいと駆け足でひと言かける。


花奏「…降りそうやんな。」


玄関で靴を履き替える前、

外を一望してからの第一声がそれだった。

どうして折り畳み傘を

持ってきていないのだろう。

朝の私の行動を悔やむも、

戻ってくるのは学校にいるところから。

そこはやり直しが効かないようだった。

冷たくなった金具を引かずとも

教科書としか顔を

合わせられないのは既知である。


傘は持っていない。

帰る方向が一緒で仲良い子という

条件で絞っても身近ではいない。

…愛咲や麗香は方向一緒だったっけ。

どうだっけ。

けれど2人で1つの傘を使ったところで

風から免れることはできるのだろうか。

少しでも違えば変わるのかな。

…なら、学校が閉まる時間まで

校内で待ってみるのも手か。

そう思い立って踵を返す。

あれがただの夕立ならすぐに過ぎ去るはず。


花奏「……ここでええかな。」


普段は来ない階層の空き教室。

移動教室とかの時に使われるんだろうけど、

私はまだ使ったことはなかった。

そこにある窓側の机に濡れていない鞄を

音が鳴らないように置く。

奥からは曇り出した空。


花奏「…スマホスマホ…。」


天気を調べたい。

何時に止むのだろうか。

もしも下校時間まで止まなかったら

また濡れ鼠になるしかないのだろうか。

とりあえず席について

画面を食い入るように覗く。

私の愛用している天気のアプリは

無情にも全て晴れとなっていて、

時々局地的な雨が急に降り出すかも。

…なんて曖昧なことが書いてあった。

小学生だか中学生だかの頃、

天気予報は100%

当たるわけではないと習ったが、

その不確定さをここまで

恨んだのは初めてだった。


完全下校時間まではまだ2、3時間ほどあり、

部活にも入ってない私は

どうしても暇を持て余すこととなった。

けれど、誰かと話す気にもなれない。

特に歩とは少し距離をおいていたい。

会ってしまうと心が複雑に

揺れ動いてしまう気がしたから。


少しゆっくりと考える時間が欲しい。

今その時間であると気づいた時には

机に伏せ目を閉じていた。


歩をあの横断歩道から離せばいい。

もしそれが不可能そうなら、

横断歩道に行く手前で足止めすればいい。

私は美月との約束をドタキャンしたら

梨菜が私の家に来て、美月は歩と会った。

歩は実家に帰ろうとしていてー


そこで不意に瞼の闇は

私の意識まで覆い始めた。





***





…。

…。

とんとんと肩を叩かれる。

誰だろう。

湊だろうか。

…あれ。

授業は終わったんだっけ。

私…どこで寝てたんだっけ。

記憶がうまく繋がらない。

寝起きですぐ目を擦り、

部屋の明るさに目を細める。


「あ、起きたー。」


のほほんとした声の主。

女の子のよう。

寝ていたことや誰かに起こされたことに

とんでもなく驚いて

肩がびくっと跳ね上がる。

視界も急に明瞭になり、

体の様々な機能が一気に覚醒した。

景色を見回すと見たことのない教室。

…そうだ。

私、空き教室で考えようとしてたら

寝てしまったんだっけ。


そして肩くらいまで伸びた外ハネの髪。

今の私より眠そうな瞳。

見たことのある制服だなと思えば

リボンの色を見るに同じ学年のよう。


「おはよーう。」


声もなんだか抜けていて

聞いていると眠くなってしまうような。

話し方もゆっくりだから

更に睡眠欲を誘発してくる。

なんだか見覚えがあるような気がしつつも

記憶のフックには何も引っかからない。


花奏「お、はようございます…。」


「眠いところごめんねぇ。」


花奏「え、いや…全然。」


彼女は鞄を持っていた。

これから帰るんだろうか。

私の横に突っ立っていたが、

そのまま私の前の席に鞄を置いた。

綿毛のようなストラップが目に入る。


「今日ね、この教室使うんだ。」


花奏「そうなんや、ごめん。すぐ出るわ。」


「ああ、大丈夫大丈夫。あと1時間くらいあるからねー。」


花奏「まあでも、早めに出るな。」


はっと時計を見ると

5時半くらいを指しており、

完全下校時間は6時だったのが過る。

さぁーっという音が耳を打つ。

それが頭の中で処理された時、

あぁ、駄目だったんだと瞬時に悟った。

雨は待っても止まなかった。

そのことに落胆しつつも

目の前にいるこの子へと視線を向ける。

というか、1時間後からこの教室と使うとは

一体なんの用途なのだろう。


花奏「この後何かあるん?」


「私、定時制なの。」


花奏「ああ、そうなんや。」


そういえば入学する時に

この学校には定時制があるみたいな話を

聞いた覚えがある。

定時制も私の進路の選択肢として

ひとつあったんだけど、

やっぱり昼間に同級生と過ごしてみたくて

辞めたんだった。

そのあたりを考慮するに6時という

完全下校時刻は全日制の学生用の校則だろう。


定時制の人たちがいるなら

まだ教室に居れるかも。

…とは考えたけれど、

もしこの後指導が入った後

今回で歩を助けられたなら

指導が入ったという事実は残る。

それに今は出張中の父さんを

心配させたくもない。

今日は仕方なく帰ることにしよう。

外を見ると、夕方の時よりは随分と

小降りになっている。

昨日よりは大丈夫だろう。


花奏「雨、結構降っとる?」


「ううんー、傘さすかどうか迷うくらいー。」


花奏「そっか、教えてくれたんめちゃくちゃ助かるわ。」


「いえいえー。もう帰るの?」


花奏「うん。そうしようかと思ってる。」


「りょーかいー。気をつけてねー。」


花奏「うん。ありがとうな。」


何故かまだ心臓は不定期に鳴り、

緊張していたのか逃げるように

その教室を去った。

なんともふわふわしている子だったな。

本来あるべき行動をとっていたら

あんなことは起こらなかった。

普段から色々な物事が

自分の選ぶ選択肢によって

大きく変わってしまうということに

改めて気づかされた。


花奏「…あ。」


階段を降り、靴箱に向かっている中で

そういえばあの子の名前を

聞いていなかったことを思い出す。

それに、会ったことがあるような

気がしたのも忘れていた。

そして、あの子と話している間は

歩が明日いなくなってしまうのを

いい意味で忘れていたと思う。

辛いことをほんの少しだけ軽くしてくれた。

そんな気がしただけ。


11月なだけあって外は6時前でも

もう真っ暗に等しい。

今雨が降ってるってことも

大いに関係してるだろうけど。

電柱は光さえなければ

完全に姿を隠してしまう。

靴箱の明かりに虫が集ることはなく、

その代わりに飢えた蜘蛛が

外へと繋がる扉の端に巣を作っていた。


花奏「…よし。」


しとしとと雨は降っているが、

前回よりはだいぶマシだ。

そう割り切って外へと踏み出す。

固いコンクリートの感触が足裏を劈く。

前回と同じだ。

1つ違うところがあるとすれば

踏み締める地面がぐしゅぐしゅに

顔を歪ませているということ。

校門を出てほんの数歩進んだところで

美月からLINEが来たんだっけ。

今回はきっと私が寝ている間に

通知が来ているはずだ。

家に帰ったら確認して、

私の体調が大丈夫そうであれば

了承の意を伝えておこう。

そして、早めに解散して

歩の実家の方向へと向かう。


もし今回のやり直しで最後だったら。

そう思うと怖くて仕方がない。

きっと美月と約束をしている場合ではないだろう。

けれど、歩の誕生日を祝いたいという

微かな願いも強く、

私の判断力ではどっちかを捨てるなんて

発想までには至らなかった。

至れなかった。


一端路ばたに身を寄せることなく

スマホから機械音もならず、

さりげなく降る雨には心底嫌気がさしながら

帰路を順調に辿っていた。

できる限り雨には当たりたくないのは

変わらないので、結局前回同様走っていて。

…ただ雨に当たりたくなかっただけなのか、

それとも何か焦っていたのか。

きっと両方だろう。


花奏「…。」


…とつ。

嫌な心臓の響き方をしていると分かる。

ととん。

地面を歪ませた張本人。


花奏「…なんでっ…?」


確かめずともわかる。

予兆なく1発強く私の頬を殴って来た雨。

体温が彼らに奪われてゆく。

夜ということもあり更に

気温は下がる中、

比にならないほどの大雨が私を襲いだす。

食われるかと思うほど強い雨。


どうして、今なの。

こんな時に限って、どうして。

もう少し早く起きていれば、

もう少し学校に残っていれば

こんなことは避けられたのだろうか。


花奏「…っ。」


雨を恨み、自分の行動を悔やみ走り出す。

夕闇に追われ、夕立に襲われ、

雨に好かれながら帰路を辿った。


しち、しちと靴の裏が

コンクリートに染み付き、

靴の跡が雨の痕を上書きしていった。











うとうとしてたらしい。

変わらず授業中だ。

ノートは白い。

線がびーっとだらしなく引いてある。

これだって同じだ。

いくら願おうとここからしか

再開できないらしい。


不意に、昨日の…

…というよりかは前回の情景が

脳裏にこびりついて離れてくれない。





°°°°°





右半身が酷く損傷していて、

流血が何処からかわからないが止まらない。

無意識か否か、口がぱくぱくと動いている。

余った左手を。

彼女の目の前に立って

縋り泣くこともできず見下ろすように

突っ立ったままの私に

歩、は。

歩は、左手を伸ばしていた。

かくかくと痙攣させながら。

粘度の高い液体をびっしりと塗ったくって。

擦り傷だらけの指で。

届かないのに、私へと。





°°°°°





花奏「…っ。」


吐き気、だろう。

夕立に当たったわけでもないのに

全身が体調不良を訴えてくるようで。

喉の奥で朝食べたものが

迫り上がってくる異物感。

けれど、勿論この時間は授業中。

先生のひとりぼっちな説明以外は

ろくに耳に届いていなかった。

先生の声だって届いたとしても

右から左へ流れていった。





°°°°°





かひゅー、ひゅー…と息が聞こえる。

虫の息。

…そんな言葉が頭を過る。

焦点は合っていないし、

目は撥ねられた時の衝撃か否か

真っ赤に充血してる。





°°°°°





授業中のせいか否か、

あの情景は過ぎらずにはいられなかった。


記憶に悩ませれ続けて耐えて

漸く2時限目の終わりの合図が鳴った。





***





湊「花奏ちゃん寝てたね、珍しい。」


花奏「…まあな。」


湊「席後ろだし流石に気づいちまったよ。」


花奏「…。」


湊「うち千里眼持ちだからね。」


花奏「そういや前も言っとったな、それ。」


湊「あれ、おんなじこと言ってた?」


きょとん、と目を丸くする湊。

まるで全てを見透かされて

驚いている犬のようだった。

何の話でその言葉が出たんだっけ。

マスクの下がどうこうみたいな

話だった気がする。


花奏「言ってなかったっけ。」


湊「今編み出した新作のはずが既出だったかー。芸人としては悔しい限り。」


花奏「…え?」


湊「そこは突っ込むべきでしょー。あんたの本業は学生だーって。」


花奏「…あ………そ、っか。」


そっか。

そうだ、思い出した。

千里眼云々の話は確か

私がうたた寝し終えて直ぐの

休み時間にあった出来事。

つまりたった今の時間で

あったはずの出来事だ。

湊からすれば初めての

この日のこの休み時間だ。

繰り返しを経ていつ何をしたのか、

どんな話をしたのか薄れだしている。

私からすれば少し前にあったことなのに

湊や周りからしたらそもそも

無かったことになったんだ。


湊「ちょっとちょっとー、そんな真面目にそっかーなんて言われたら困るでしょー。」


花奏「あはは…ごめんな。私も芸人やないから上手い返しが浮かばへん時だってあんねん。」


湊「なるへそ。納得。」


花奏「ならよかった。」


湊は相変わらず上半身と机は仲良し。

でも消しかすを机と指で潰すことはせず

じっとこっちを見て視線を外さない彼女。

それこそこっちが気まずくなり

視線を廊下の方へと移した。


湊「次の授業中丸先生だって。ちょいと面倒だね。」


花奏「そうやな。英語か次。」


湊「そうそう。当てられるよ、当てられちゃうよー?」


花奏「そういう湊が当たんねんで。」


湊「うわ、言い出しっぺの法則ってやつ?あーやだやだ。」


態とらしく寒いみたいな

ジェスチャーを取った後、

また机にべたーっと張り付く。


花奏「大丈夫やろ、今日宿題しとるんやし。」


湊「たしかに。戦闘準備は万全じゃ。」


花奏「戦闘って…戦いなんこれ?」


湊「生きる上で避けては通れない戦いだね。私にとっちゃ鎧着てなきゃ致命傷。」


花奏「勉強せいってことやな…。」


湊「うわーん。趣味だけに時間を割いていたいー。」


花奏「花の高校生活やん。3年間頑張ろうや。」


湊「勿論だよ。湊さんは高校に入ったからには半端にやめないのだ。」


花奏「お、ええやん。私も頑張らな。」


途端にしん、と私達の会話は終わった。

話題の区切れ目で静かになることは

これまでに幾度となくあったが、

ここまで顕著なのはなかなか無かった。

不思議と焦ってしまう。

湊はリラックスしすぎている程に

未だ干された洗濯物の体制。

そのままの体制でそのままの声で、

…いや、語るように、だろうか。

声が飛んできたのだ。


湊「何かあった?」


花奏「…え?」


湊「顔に出てるよ。考えてますーって文字。」


花奏「…マスクしてるのに分かりっこないやろ?」


目元だけで分かるものなのだろうか。

目は口ほどに物を言うと言うけれど。

…湊はそれでさっき

じっと私のことを見ていたのだろうか。

真実は知れないな。


湊「うち千里眼持ち。」


花奏「……せやな。持ってるな、千里眼。」


湊「おおー、認めてくれたかー。」


得意げに鼻を鳴らす湊は

上手にできたでしょ褒めてとねだる

大型犬のように映った。

そこまで顔に出ていただろうか。

…きっと、自分では知れないだけだろう。

自分では気づけないだけだろう。

多分酷い顔をしていたんだと思う。

じゃなきゃ湊はこんな言葉を発さない。

前回はそうだった。

私に見向きもせずただ適当に

送り出してくれたんだ。


…そっか。

前はこの短い時間で

歩のところに行ったんだっけ。

今は。





°°°°°





歩「………ぁ…………ぁ…ぇ…………ぁ…」





°°°°°





花奏「…っ。」


嫌なことばかり思い出してしまう。

辞めておこう。

今は辞めておこう。

じゃなきゃ、きっともたない。

…そんな甘えたことを脳内で口にする。


湊「無理にとは言わないよ。きつかったら次の授業さぼっちゃいな。」


花奏「あはは…いくらなんでも良くないやろ。」


湊「あはは、いいのいいの。必要なくとも時々さぼりな。休むことって必要だよ?」


花奏「よう寝る湊が言うんやから説得力しかないわ。」


湊「えっへへー。ま、無理せずね。」


花奏「ん。ありがとうな。」


少しばかり肩の力を抜いて、

湊の優しさに寄りかかってみる。

そのまま3時限目は始まり、

いつものように授業は続いた。





***





それから放課後になるまで

歩の教室には行かず

湊を始め教室の中で仲良くしている子達と

一緒に過ごしていた。

周りの人たちを見ているとよく思うのが、

歳に関係なくしっかりしている人は

沢山いるということ。

湊だってその1人だ。


湊は私が18歳であると

知っているかどうかは分からないが、

それ抜きでいい友人だと思う。

周りの子もそう。

空気を読むのが得意な子がいたり、

周りを引っ張るのが得意な子がいたり。

今日は知らない日を過ごそうと

現実から逃げるように息をした。

けれどどこかずっと息しづらい。

生きづらい。

引っかかっている。

あの生々しい記憶が。

ずっと、ずっと。

忘れちゃいけないと牙を立てて

肩なり脛なりを喰らってく。


…そういえば。

そう思って足元の方に視線を向ける。

脛、怪我したよね。

けれど勿論とでも言うように

足には特徴的な傷はなかった。


「はい、きりーつ。」


椅子にもたれ足元を見ていたせいで

よろけそうになりながら席を立つ。

地面が揺らいでいるような感覚が

襲ってくるも偶にある事だと

簡単に片付けた。


「きょーつけー。礼。」


通る男性の声で放課後になったと悟る。

そうだ。

今の今まで忘れようと背を向けていたせいで

今回をどうするか何も決めていなかった。

とりあえず雨を凌ぐ。

そう。

それが先決だ。

それから、美月との約束は後回しにしてでも

歩をあの交差点から離そう。

事故の起こる場所は分かった。

…分かった。

だから、あの場所から離せばいいんだ。

きゅっと握りしめた手が

無意識のうちに震えていた。

寒いわけじゃないのに。

何故か、なぜか。


湊「ねー、花奏ちゃん?」


花奏「ん?どうしたん。」


湊「湊さんがジュース1本奢ったげよーか?」


花奏「急に?それに確か…やけど私が奢るんやったろ?」


湊「そうだけどさ。ま、うちの気まぐれよ。利子付きで返しておくれ。」


花奏「ほんま気まぐれやな。」


湊「はははっ。利子は冗談として…飲み物どう?うちも飲みたい。」


花奏「ついてこいって言ってへん?」


湊「ついてきてー。」


花奏「言うたな。」


湊「ほれほれ、鞄持ってー。」


花奏「置いていかへんの?」


湊「うち鞄の中に夢と希望詰まってるタイプだから。」


花奏「聞いたことないタイプやそれ。」


湊「早よ行くぞよー。」


花奏「あ、待ってや!」


湊は私の話も良く聞かず

鞄を肩に担ぎぱーっと教室を飛び出す。

…多分、湊なりに気を遣ってくれてるんだろう。

それにまた心が痛む。

そんなに違うかな。

いつもの私じゃないかな。

教室内のみんなの話し声や

ころころ変わる天気だっていつも通りなのに。

ほっぺをぐいっと摘み、気合を入れ直す。


花奏「……ってー…。」


湊は今回の事件事故には

全くもって関係ないのだ。

心配させたくない。

心配かけたくない。

関係ない人にまで迷惑をかけるのは

違う気がしていた。


花奏「…よし。」


辛くても笑っていれば

きっと報われるから。

だから、無理にでも笑っていれば。

きっと。

今までそうだってから。

だから。

そんな希望的観測で鞄を肩にかけ

湊の後を追った。

教室を飛び出ると、

階段付近で湊が待機しているのが見えた。

ふと私が見えたのか大きく手を振っている。


湊「こっちー。」


花奏「はいはい。待ってな。」


湊「待たなーい。」


湊はふらふらと踊るように

階段を降りていってしまった。

鞄を肩に掛け直し再度走る体制をとる。

廊下には既に人が溢れており、

私らのクラスは遅めにホームルームが

終わったのだと気付かされた。

湊を追って階段を降り1階まで行くと

凍てつく寒さが体の末端を啄みだす。

小刻みに食うものだから

微妙な刺激が痛痒い。

それらを無視して靴箱前を通過する。


湊「とーおちゃーく。」


手を広げ飛行機のようなポーズを

披露している彼女。

ついていった先は何故か職員室前。

先生たちはまだ教室なり

職員室内なりにいるのか

人通りはほぼない。

その代わり生徒が数人。

部室の鍵を取りに来たのか

通る人は疎にいた。


花奏「なんでここなん?」


湊「自販機はある、机椅子もある。そして何より職員室からの暖か過ぎる空気をお裾分けしてもらえる。」


花奏「一石三鳥と。」


湊「そゆことー。」


手を腰にあて、良く見つけたでしょと

言わんばかりに目をきらきらさせている。

目は口ほどに物を言うんやなって

実感してしまった時だった。

湊は窓側の長机に座り鞄を雑に下ろした。

隣にお邪魔すると、

湊はいつの間にか財布を取り出し

ほぼ真横にあった自動販売機へと

吸い込まれるように行った。


湊「どれがいいどれがいい?」


花奏「急かさんといてや。」


湊「だって、もしタイムセール中だったらうちらもみくちゃにされて終わるよ?」


花奏「ここデパ地下でもスーパーでもないんよ。」


湊「と、取られちゃってもいいのかい…?」


花奏「多分最後の1個じゃないから大丈夫やで。」


湊「最後の1個だったらどうするよ!」


花奏「それは湊の千里眼で見てくれや。」


湊「うーん、ふむふむ…なるほど。」


花奏「見えた?」


湊「ポカリ君は殿だよーって言ってる。」


花奏「唯一のラストがポカリかいや。」


湊「運動部のマドンナだもんね。」


花奏「ポカリ君は喋らへんよ。」


湊「もー、夢ないなー。」


花奏「湊は妄想癖が過ぎるんや…。」


自動販売機に耳を押し当てていたあたり、

千里眼が何か分からなくなってきた。

千里「眼」とは。

やはり湊はどこか頭のネジが

飛んでしまっているんだろうなと

思わずにはいられなかった。

こんな変人だが観察力は

優れていると言えるだろう。

湊は財布を手にじっと

自動販売機を見つめている。

選ぶのに必死みたいだった。

私も並んでぴかぴかと光るボタンを

目で追っていた。


湊「どれにする?」


花奏「うーん、じゃあこれ。」


湊「水?本当に?」


花奏「ほんまに。」


湊「味っけあるものにしよーよ。」


花奏「甘いものとかってこと?」


湊「そーそー。ほら、抹茶オレ美味しそう。」


花奏「値が張るやろうに。ええて。」


湊「いーのって!気にしない気にしない。だって私、今度午後ティーの無糖奢ってもらうんだよ?」


花奏「でも」


湊「そ、れ、に。うちいつも小さいお菓子ちびっとに対してたまに花奏ちゃんに飲み物奢ってもらうじゃん?釣り合い取ろ取ろ?」


花奏「あー…うん、分かった。お言葉に甘えるで。」


湊「よしきた。抹茶飲めるかい?」


花奏「大好きや。」


湊「よし、けってーい。」


からんからんとお金を入れ、

光ったボタンを早急に押す。

早業すぎるもので、なんでそんなに

せっかちなのか不思議だった。

湊はよく、ここって急ぐところ…?

という場面で急いでいるイメージがある。

宿題とかはほぼやってこないのに

授業の開始時間2分前には

席についている、とか。

何かしら自分ルールがあるんだろう。


がたん。

気づいた時には抹茶オレは

視線の随分と下に無惨に転げていた。


湊「とっちゃいなとっちゃいなー。」


花奏「うん。ありがとうな。」


湊「お安い御用ってもんよ。」


花奏「湊はなんか飲むん?」


湊「それこそポカリ君でしょ。」


花奏「この後部活でもあるん?」


湊「んーん、今日は休みー。」


花奏「部活なしに普通に飲むんはきつない?」


湊「えー、そう?うちは全然いける。」


花奏「そうなんや。」


湊「ま、飲みきれなかったら明日部活あるし持ってくどん。」


変な語尾をつけたところで

彼女はまたお金を入れ直し、

留まり光った無機物を優しく押した。


がたん。

それと同時に留まり光っていたところに

ふわっと文字が浮かぶ。

「売り切れ」

そう、残されてあったのだ。

目をまん丸にしてこの文字を

見つめる自分が浮かんだ。

まるで他者視点のように

自分が見えたような気がした。


湊「ふんふふーん、ポカリ君ー。」


花奏「湊、見てみて!」


湊「ん?どうしたの鼻息荒げて。」


花奏「いいから、上!」


湊「何々ー。…え、まじ?」


気だるそうにポカリを取った後

のっそり立つ彼女。

そして、私と同じものを見た後、

自動販売機の前でぽかんと

口を開けてしまって動かない

彼女の姿が横目に入る。


花奏「まじや!」


湊「すっご、まじじゃん!現実じゃん!」


花奏「ほんまに最後の1本やん!」


湊「よっしゃー!今日ついてるー!やったやったー!」


ぱっと見えた文字に驚きを隠せないようで

きゃっきゃっと騒いで

跳び回り始めていた。

お互いに片手に飲み物を持ちながら

縁を描くように跳ね回る。

まるで子供が終わらないけんけんぱを

しているかのよう。

ここが職員室前だと言うことも忘れて

2人で構わずはしゃいだ。


この時また歩の事を忘れられた気がする。

久しぶりに思い詰めない時間。

思い詰めなくてよかった時間。

それが私には必要だったのかもしれない。

ただ、息抜いてばかりでは絶対に駄目だ。

明日、今度こそ絶対に、

絶対に助ける。

凄惨な場面が脳内でありありと描写されるも

今はみるみるうちに霞んでいった。

今は気にするな、と神様か何かが

言ってくれているんだろうか。


「そこ、ちょっと静かに。」


湊「あはは、あーごめんなさいー!」


花奏「すみません!」


「ここ騒ぐスペースじゃないから。勉強する人だって多いんだから気をつけなさい。ね、わかった?」


湊「はいー。以後気をつけますー!」


はしゃぎすぎるあまり職員室からは

中年の女性の先生が出てきて、

私達は注意をされてしまった。

湊はこういうのはされ慣れてるのか

言葉尻を眠たげに伸ばし返事をしていた。

いつも寝ていたり宿題を忘れたいするから

その分経験値を積んでいるのだろう。

…あんまりいいことではなさそうだけども。

先生はというとひと言私達に

釘を刺した後また部屋へと戻っていく。

未だにいらいらしているようで、

かつかつと足音を踏み鳴らし

馬のように威勢よく歩き去っていた。


湊「あー、もー、よく騒いだ騒いだー。」


花奏「騒ぎすぎやろほんま。」


湊「花奏ちゃんだって人のこと言えないでしょー?」


花奏「それはそうやけどさ。」


湊「やっぱうち持ってんのよ、千里眼。」


花奏「そうやな。信じるしかないわ。」


湊「だよねだよね。うちもそう思うもん。」


お互いだいぶ落ち着いて

泡だらけになった飲み物を手に席につく。

彼女はうんうん、と首を縦に振り、

ポカリを更に2、3回振って

キャップをかきかきと鳴らし開けていた。


私もそれに倣って蓋を開ける。

硬い音が鳴り終わった瞬間、

ふわっと香る和の匂い。

甘いのを買ってもらって

よかったのかもしれない。

こんだけ騒いだこともあってか

喉は甘いものを欲していた。

これも見越して抹茶オレを推奨してきたのかな。

そんなわけはないだろうけど、

もしそうだったらいよいよ怖い。

きっと将来は占い師でも

やったほうがいいだろう。


花奏「そういやなんで食堂にせんかったん?」


湊「んー、場所的にここの方が良くない?」


花奏「雰囲気的な?」


湊「え、むずその質問。何となくだよ何となく。」


花奏「そっか、そんなもんか。」


湊「てかここのおかげでラストポカリ取れたんだし!」


花奏「せやな。それを見越してここにしたんやもんな?」


湊「お、おう。勿論勿論。」


花奏「あはは、適当すぎやろ。」


湊「ばれちゃーしかちゃねー。」


ゆるゆるの滑舌のまま

また上半身は机に引っ付いていた。


以降、湊とはくだらない会話をした。

多分だけど、私があんまり

思い詰めたような顔をしていなかったから。

だからか否か、あの授業のここが

難しかったよねーだとか、

普段家で何してるのー、とか。

兄弟いたっけ?みたいな

普通ほぼ初対面でするような会話を

今更ながらに繰り広げていた。

思えば湊と1対1でこんなに

長く話したことはなくて。

当たり前だが長時間電話だってしたことない。

彼女の新たに知る面が多くて

純粋に面白い、なんて思った。


途中、スマホの音が鳴るが

鳴ったなと思うだけで思考の内にも入らない。

多分美月からだろう。

今まで通りならきっとそう。


湊とのなんてことない会話が

今じゃとてつもないほど心地よくて、

ずっと居続けたいなんて

夢に縋りたくなってしまう。

けれど、時間は無情にも過ぎ去るもの。

湊は会話の区切りがついたところで

スマホを取り出していた。


湊「お、なかなかいい時間だね。」


花奏「何時?」


湊「4時半過ぎ。」


花奏「1時間は話してたん?」


湊「みたいだね。あっちゅーま。」


花奏「ほんまにな。」


湊「抹茶オレ美味しかったかい?」


花奏「めっちゃ美味しかったわ。ありがとうな。」


湊「なんのこれしき。今度は無糖お願いね。」


花奏「任せーや。」


湊「お!頼もしいー!」


湊は何でこう私を誘って

話し始めたのかを忘れているふうに見える。

元気付けるため、だったのだと思うけど

「元気になったっぽいね」

みたいな事さえ言わず、

触れないでいてくれたのは

どこが嬉しかったし安心していた。

もう大丈夫かなって

本人の中でもひとつ落ち着いたのだろう。


湊「んじゃ、うちはちょっくらいくとこあるもんでー。」


花奏「え、用事?ごめん、話してしもうて」


湊「だーいじょーぶ大丈夫。夜学校に来る子とはなそーよって言っててね。」


花奏「ああ、定時制?」


湊「そーそー。うちの気分が乗らなきゃなかなか会えないからさー。」


花奏「完全に湊次第なんやな。」


湊「ま、相手の子も気まぐれで気分乗らないと早くこないのよ。」


花奏「似た性格なんか。」


湊「ま、そゆことー。」


そんなに緩い不安定な仲もあるのだなと

見方がまた少し変わってく。

そういえばこの後、だっけ。

定時制だと言っていたあの子も来る事だろう。

今は前より時間は早い。

今なら走っていけば雨に濡れずに

帰ることはできると思う。

いいタイミングだ、と内心口角は上がっていた。


お互い空のペットボトルと鞄を持ち、

すぐ近くのゴミ箱に空を捨てて

廊下に足音をうち鳴らした。

職員室前には質問に来ていた生徒を始め

生徒会役員やら何やら

色々な人が寄っていた。

そこから離れたせいで学校内が

絶え間なく無音に包まれているような、

そんな感覚へと呑まれてく。


また話していると

中途階段がある道へと差し掛かる。

隣を歩いていた彼女は足を止め、

いつしか私の後ろで

なんだか眠たげな瞳を向けていた。


湊「うちここ上がるんだわー。」


花奏「そっか。また来週な、湊。」


湊「おー。うちのLINEはいつでも寂しがりやだよん。」


花奏「はいはい。気ぃ向いたらな。」


湊「待ってるねー。んじゃまたー。」


からり。

準備できました、と言うように

リュックを背負い直し

1段飛ばしで階段を駆け上がっていった。

さすが、体力が有り余っとるんやな

…なんて他人事。

この1時間での会話の内容や

自販機で売り切れの文字を見た時を

思い出してしまい

ふふ、と笑みが溢れる。

6時間前が嘘のよう。


…けれど。

湊には気を遣わせてしまったし、

何より解決には一向に近づいていない。

ただ感情のその場凌ぎ。

炎天下の中木陰へと逃げ込んだだけ。

時間が経てば日の傾きも変わり

私のいる位置には焼くような日光が

届き出すことだろう。

1人になった瞬間にこうも考えてしまう。

一気に責任感や罪悪感が

にょきにょきと生えていく。


花奏「…今帰らな。」


泥に塗れた思考から何とか足を引き抜き

階段から離れ靴箱へと向かう。

向かおうとする。

…そうしようとした、その時。


「……小津町?」


落ち着いた声質が、

私の記憶をずたずたに裂いてゆく。

陰惨な影が咲いてゆく。


花奏「…っ!?」


どうして、ここで。

こんな時に。

今。

何で。


そう思わずにはいられなかった。


歩「今帰るとこ?」


花奏「あ……え、っと……あははー…そうなんよね。」


笑うのが下手。

もっと上手く繕って。


そう野次を飛ばす私の小人。

上手くいかない私の表情。

わら、えない。

どうしよう。


不意に霞む過去と今。

今は存在していない、ある予定の未来。





°°°°°





歩「………………ぁ…。」





°°°°°





歩「聞いてた?」


花奏「…え?」


歩「聞いてないね、その感じ。」


花奏「あ、はは…ごめんって。」


あのぐしゃぐしゃな過去が、

今の私を責めてくる。

そんなふうに感じてしまう。

ひん曲がった右側の手足、

赤く着色された動転した瞳、

かくかく震えた左手、

私に伸ばしてきた擦り傷だらけの指。


鮮明だ。

鮮明すぎるの。


歩「…あのさ…いつもと違うんだけど?何?」


花奏「そんなことないで?」


歩「急によそよそしい態度取られても不快なんだけど。」


花奏「それは………。」


いつもと違くはないよ。

同じだよ。

何もないよ。

…その、ひと言が出なかった。


どうしてそんなにも取り繕って

隠していたいのさ。

どうして。

そんなの、心配かけたくないから。

…答えは出ていても

どうして普通を装いたがるのか

不思議で不思議で仕方がない。


歩はきっといつものように

いつもの濃度で毒を吐いているだけ。

それだけなのに。

今は責め立てられているように感じる。

少しの間が空く間に

歩は何か言葉を発することもなく

奇妙な時間だけが流れていった。

焦るように口を開くも

吸う息が足りないの。


花奏「…ごめん、今日すぐ帰らないかんくて。」


歩「そ。」


花奏「……じゃ…また、な?」


歩「ん。また。」


出たのは掠れ震えた音。

相手の出方を伺うような、

ガタの出たコミュニケーション。


歩はどんな顔をしていただろう。

直視できないままに

私はその場から逃げ出した。

そう。

逃げ出してたんだ。

恐怖に襲われ彼女を遠ざけてしまった。

それほどまでに、

過去が今を喰らっている。

まるであの時のよう。

かえのアカウントが私を責めたて、

全てを認めた後の時のよう。





°°°°°





歩「あんたはそれで本当にいいわけ。」


花奏「…いいって。」


歩「…っ…あのさ、何が理由で認めてるんだか知らないけど、それが嘘ってくらい分かる。」


花奏「…。」


歩「嘘をついてまで守りたいものでもあんの?」


花奏「…。」


歩「どうにか言って。」


花奏「…本当だよ。」


歩「…っ。」


花奏「全部、本当だから」





°°°°°





急いで学校から出なきゃ。

半ば使命感に襲われて飛び出す。

空模様は小雨。

大丈夫。

大丈夫。

うん。

大丈夫だ。


花奏「…大丈夫。」


自己に暗示をかけ、

平然を取り戻すよう訴えかける。

未だ嘗てこんな動悸が落ち着かないことは

あっただろうか。

…きっとあった。

あったんだけど、今は思い出せない。

焦りが思考の邪魔をする。


どくどく。

どくどく。

変。

ひと言で片付けるなんて余りにも

雑だとは分かっているけれど、

冷静さが欠如した私には

丁寧さを求められても応えられなかった。


小雨の中、これ以上雨が

酷くならないことを祈り

無我夢中で走り抜ける。

閑静な住宅街、寂れた犬小屋。

そんなもの一切視界に入らず

ただ湿った地面を蹴り上げる。

間に合う。

大ぶりになる前に、きっと家まで。


花奏「はっ、はっ…はっ。」


思えばどうして雨を凌ぎたいんだっけ。

美月と買い物に行くためだっけ。

不意に浮かんだのは

美月のあの心底心配していた表情と

歩のさっきの不機嫌な顔。

歩…もうすぐ誕生日なんだ。

…本来ならばもうとっくの前に

すぎてしまったであろう誕生日。

今の私には祝える気はしなかった。

顔を見るとあの悲惨な光景が浮かぶ。

浮かんでしまうもの。

暫く歩と対面するのは

難しいんじゃないかとさえ感じてしまうの。


しち、しちと靴の裏が

コンクリートに染み付く中

雨を踏み締め泥を蹴った。











…。

学校だ。

紛れもなく、変わりなく。


教室内で、今は2時間目の終わり。

先生が頑張って

…否、慣れてしまって気だるげに

授業をしているのが見える。


少し前までうとうとしてたんだよね。

ノートにはびーっと引かれた

だらしない黒線。

消す気も起きず放置して、

板書する気も起きずペンを置く。

窓の外はまだ明るくて、

雲は敷かれていないの。

底のない空を見ても湧き出る感情は恨みだけ。


…。

助ける。


…とはいいつつも。

どこか心が折れそうで。

美月と歩を置いたまま、

しかも喧嘩したまま逃げ出したんだ。

どこまで私は卑怯者なんだろうと

嫌気しか差さない。


花奏「……。」


ため息すら付けず息を無意識に止めた時

2時間目の終わりを告げるチャイムが鳴った。





***





肩をとんとんと突かれる。

後ろから。

前回あれだけ気を遣わせて

結局なんにも解決できなかった事にも

引け目を感じ始めていた。


湊「ねぼすけさん、へーき?」


湊は相変わらず机にくっつくように

寝そべって話しかけていた。

繰り返されたこの会話。

繰り返してくれるいつも通り。

もう構わないで。

優しくしないで。

そんなふうに思ってしまう自分がいる。


花奏「ごめん、ちょっと体調悪いから次の授業休むわ。」


湊「ありゃ、大丈夫?」


花奏「うん。」


湊「次中丸先生の授業だね。」


花奏「…そっか。」


湊「ま、体調1番だよ。めんどっちい先生の授業サボれるラッキーくらいに思いなね。」


花奏「ありがとな。」


湊は何か言いたげなような気もしたが

席を立つ私にやんわり手を振ってくれた。

重力に逆らうのはきついと

言わんばかりの手の上がりよう。

ほとんど机から離れてなかった。


体調が悪いって言ったはいいものの

保健室に行く気にもならず

屋上へと繋がる階段で過ごした。

誰も来ない。

誰も注意を向けない。

そんな場所。


来た場所は屋上手前なだけあって

1番上の部分にはほんの少し

踊り場のようなスペースがあった。

そこに大の字に寝転がる。

砂が舞ってようが埃が待っていようが

関係なく床に背をつけた。

きっと汚くなってるだろう。

結った長い髪を胸の辺りにかき集めておく。


花奏「…伸びきったな。」


誰にも聞こえない呟きは

どこにも反射せず私の耳だけ受け取った。


突如、どこからか音がした。

既成音。

作られた音。

3時間目が始まった様子だった。


思えば騒がしかった学校は

しんと静まり返って

その代わり遠くから通る声が数個。

授業をしているんだろう。

湊からせっかく宿題を見せてもらったのに

結果無意味になってしまった。

湊の行為を前回も今日も

無駄にしてしまっていた。


ぱさぱさになった毛先を

指に搦めくるくると回す。

いつか誰かがやってたよね、この仕草。

歩だっけ、湊だっけ。


伊勢谷先輩に

「ポニーテールのままいて」

と言われて以降、

馬鹿みたいにずっと守り続けてきた。

それは単に彼女が亡くなって以後

唯一残る彼女の残火だったからと

いうのもあるだろう。

けど、1番はきっと慕っていた先輩に

ポニーテールが似合うと言われて

嬉しかっただけなんじゃないかな。

馬鹿みたい。

私は昔から馬鹿だった。

馬鹿真面目だった。

だから2年前は酷い環境下で

過ごす羽目になってしまった。

いつだって周りの環境は

自分のせいで良くも悪くもなったんだ。


…。


花奏「上手くいかへんもんやな…。」


今までの人生を振り返った結果だろうか。

幸せだと思っていたはずの日常の基盤は

簡単に緩いで揺らいでしまった。

とうにいつも通りは

崩れ去っていることに

気が付かない私がいた。





***





花奏「…。」


湊にも歩にも他のみんなにも

会う気が起きなくて

…いや、会う資格なんかなくて

ずっと屋上手前に篭っていた。

いつか人が来るんじゃないかって

初めは不安になっていたけれど、

6時間目が終わるまで

誰も来ることはなかった。

昼ごはんも食べないまま

ひたすら横になっていた。

担任の先生にはばれているんだろうか。

そしたら何か言われるのかな。

そんな思考回路は途切れていて、

諦めの念しか過ぎらない。

もう、授業はいいやって。


1人でいるはいいものの

罪の念ばかり嵩んでゆく。

思い返して、苦しんで。

過去に囚われて。

というよりもあって欲しくない

未来に首を絞められて。


…けれど。

前回を持ってして

逃げては行けないと強迫観念が襲う。

歩を見捨て亡くしたのなら

歩を救うまで逃げるな。

そう言われているような感覚。


花奏「…歩………。」


ぽろっと零れる彼女の名前。

名前を呼ぶことさえ億劫になる。


2回だ。

2回彼女の死を目の当たりにして

私は何を思えばいい?

何を感じればいい?

何をすればいい?


大丈夫なんて毒な言葉で

また感覚を麻痺させて。


腕時計を確認すると、

もうすぐで帰りのホームルームの時間だった。

これだけは出席しないと

不審がられるかな。

…けど、最悪ホームルームが終わってから

教室に行けば先生に会わず鞄は取りに行ける。


花奏「…。」


帰りのホームルームを未出席にした後

先生とあってしまうのは面倒だな。

先生がどこに居るとかまでは

流石に分からないし。

正直予測もあまりつかない。

と言うよりそこまで頭は回らない。

頭は、今は考えるということを

頑なにしてくれない。


諦めて教室まで歩く。

数人のすれ違う生徒達。

学年の違う、先輩達。

歩とだけはどうしても

邂逅したくなかった。


いつもの風景のはずだ。

他の人からしたら

ただの変わらない過ぎ去る日だ。

何の変哲もない、戻ってこない日だ。

ただの11月11日なんだ。

それがどうしようもなく

気持ち悪くて仕方がない。

気持ち悪いのは…きっと私の方。

繰り返している方がおかしいんだ。

なのに、何ともなく過ごしている

普通の人達の方が異常に見えた。

奥の方に自分の教室が見えてくる。

その中で見なれた影がひとつ。


教室前で湊は誰かを待っていたのか

ぼうっと突っ立ってるのが見えた。

私を見掛けるやいなや

ちょこちょこと小走りで

私の元まで寄ってくれて。


湊「お、花奏ちゃん。」


花奏「湊…。」


湊「ありゃりゃ、酷い顔してるじゃん。」


花奏「そんなことないやろ。」


湊「鏡みてから言ってみそ?」


そして何やらごそごそと

制服のポケットをいじった後、

手を開いてみ?と言われそのまま待っていた。

すると。


湊「はい。」


花奏「何、これ。」


湊「チョコと、あと湊さんお手製の手紙。」


花奏「…っ。」


ポケットから取り出された見慣れたお菓子。

いつも湊が持ち歩いていて、

ことある毎にくれる例のチョコだった。

手紙、だなんて言うけれど、

銀紙に包まれた小さなチョコに

付箋がぴっと貼ってあるだけ。


『無理せずいつでも頼ってちょ』


右端にはよく分からない

奇形の物体が描かれてある。

湊は確か画伯と言えるほどに

絵が下手なんだったっけ。

頑張って描いたのはわかるんだけど

どう頑張っても部屋の隅に取り巻く

綿埃のようにしか見えなかった。


たったひと言。

その優しさが嬉しかった。

今すぐにでも泣き出したかった。

その優しさに救われた。

湊に抱きついて弱音を吐露したかった。

私どうしたらいいか分からないって

本音をぶちまけて楽になりたかった。

その優しさが辛かった。

頼れない自分がいた。

それならいっそ罵倒してくれた方がマシだった。

いっそ殴って見捨ててくれた方が楽だった。


花奏「…ありがとな、湊。」


湊「いーんだよ、心の友よー。」


そう言うと私の首に腕を回し

するりと肩を組んで来た。

湊の身長じゃきついだろうに

背伸びをしてまで絡めてくる。


湊は2時間目が終わって以降

私が授業をサボったのは

ただの体調不良じゃないって

気づいてたんだろうな。

じゃなきゃこんなことしないよね。

やっぱり観察眼

…いや、千里眼を持ってるんだろうな。

…なんて。


それから帰りのホームルームは自然と始まり、

何か咎められることもなく自然と終わった。

起立、礼。

その先生の慣れきった挨拶だって

不自然さひとつもなく過ぎ去った。


湊「ちょいちょい、花奏ちゃん。」


湊は後ろから肩をつんつんと突き

私に声をかけていた。

いつもならすぐに教室から出るんにな。


湊「この後時間あるかい?よかったらお茶しないかい?」


花奏「あー…ごめん、すぐ帰らんと。」


湊「そっかー、残念丸。」


花奏「ごめんな。また今度埋め合わせするから。」


湊の優しさは十二分に知った。

私が少しでも辛そうな雰囲気を出すと

こうやって誘ってくれるもの。

口説き文句が毎回微妙に違っているのは

2時間目以後の私の行動のせいだろうか。

似てるけど違う。

そんな微々たる違和感が床で寝そべっている。

さっきまでの私みたいに、だらしなく。


今はただ歩に会いたくない一心で

教室を後にした。

このまま湊といてしまったら

歩に遭遇してしまったのを覚えてる。

まだ記憶に新しい。


少し前までは歩に会いたくて

仕方ないくらいだったはずなのに

こうも簡単に変わってしまうのか。


半ば早歩きで靴箱へ向かうと

やはり分厚い雲が空を覆っていた。

今から降りますよ、と

ご丁寧に忠告してくれているみたいに。

もうどうでも良くなった。

どうでもよく感じてしまった。

結局雨に少しでも当たれば

熱が出てしまうのは確定なんだ。

なら避けようとしたって

変わらないじゃんか。


花奏「…帰ろ。」


靴を履き替えてたったひと言。

傘を持たずして1歩、また1歩と

外の世界へ踏み出す。

限りなく鈍色へ向かう空。

ほんの早歩きも無意味になる。


とつ。

とと、つ。


鞄の表面を湿らした何か。

鬱陶しさを超し恨みにまで

なってしまった夕立への感情。

怒り、だろう。

それとも悲しみか。

それら全てを放って

寧ろ諦めてしまっているのか。


走らなきゃ。

…とは思いつつも

体がついてきてくれなくて。

校門を出て幾分かは走ったけれど、

不意に足が止まってしまった。


花奏「…。」


雨に打たれたまま、動けなくなった。

生徒たちは数人いたが、

折り畳み傘を差して道をゆく人が数多。

鞄なりブレザーなりを頭まで被って

雨を避けている人はぱっと見はいなかった。


人がいないところを歩きたい。

今はそんな気分で。


花奏「…こっち…やったっけ。」


記憶に身を任せ投げやりに歩き出す。

なんなら鞄も捨てて身ひとつで

軽くして歩きたかった。

けれどそんなことできるわけにもいかず。


確かだが住宅街に混じるように

道を辿っていけば

宝探しの時にお世話になった

コンビニがあるはず。

その道は生徒はほぼ通らず、

住民も疎だった気がする。

ましてや今日はこんな雨だ。

近くの駐車場に紛れていれば

誰にだって見つからないんじゃないか。


そう思っては駆けるように雨を踏む。

どうしてだろう。

雨に打たれるのは当たり前で、

今の私には雨に打たれている姿こそ

似合っているとさえ感じていた。

雨にずぶ濡れて1人でいる。

それが今のお前に似合ってるよと

雨は揶揄っている様に

私をひたすら殴り続けてくる。


繊細な雨の音とは程遠く

音の暴力とも言える中進むと

だんだんとお目当ての場所が見えてきた。


花奏「…。」


変わらない。

当たり前かもしれないけれど、

その当たり前が今となっては

奇妙にさえ思えてきた。

思った通り人はおらず、

コンビニ内ではレジ前で

スマホを弄る若い店員の姿。

店内にさえ人はほぼいないようだった。

駐車場には数台車が停まっているも

中に人影はなくて。

随分と朽ちかけた自動販売機の影に潜み、

コンビニや細い道路から

姿が見えないよう隠した。


少し寒い。

空は何故か薄暗いまま。

…あぁ、雨が降ってるからか。

微かに開いていた口の中に

雨粒が入って納得した。

渇きは満たされず

雨粒は単純に不味かった。


しゃがむ気にはなれなくて

立ったまま俯き目を閉じた。

今はこのままのほうが楽だった。

鞄は傍へ雑に寝転がし、

雨と十二分に戯れさせている。

ただ雨にあてられるしかなかった。


花奏「…。」


スマホにはもう美月から

連絡が来ていることだろう。

けど返信する気なんて微塵も起きない。

する気になれるわけない。

あんな怒りに満ちて、

怒りに身を任せたような

彼女を見てしまったら。


制服は勿論びしょ濡れで、

靴の中ではぐしゃぐしゃと

靴下が息巻いている。

無駄に長くに伸びた髪が

しっとりと頬に張り付いた。

ほんの少し風もあるみたい。

時間も分からない。

時計をを見る気にもなれない。

もう動きたくない。


一旦、目を閉じた。

深く深く眠るように。

長い間走ったり今立ったりしているせいか

足裏が妙にずきずきした。

それでもそのまま目を閉じて、

目の前の景色に一先ずさよならを告げる。

ざあざあと今更になって聞こえて来た

雨音に背中を預けて

眠るように時を過ごした。





***





…。

…。





***




…。

…。


…今、何時なのだろう。

目を閉じたままの視界で思う。

暗くなったら夜だ。

…その程度しかわからない。

日が出ていればまだ多少は

分かったかもしれないけれど

生憎の天気だ。

耳には憎い雨音だけが心地よく浸透した。


…その音響がふと変わる。

直に聞いていた音が

何か物体を通した音になる。

…私の頭に降る感覚が

それとともに消えてしまい

居なくなってしまった。

そこで漸く目をゆっくりと

眠っていたように開いた。

雨が降っているし昼も終盤だった為

暗がりが近いことだろうと思っていたが、

ついさっきまで目を閉じていたからか

外が眩しく見えた。

…私の前に、人。

その人は私に傘をさしているようだった。

…その人……。


愛咲「風邪、引いちまうぞ?」


花奏「…!」


愛咲…だった。

コンビニは近くにあるけれど

そんな簡単には見つけられないはず。

なのになんで。

どうしてこんなところでさえ

私を知っている人に出会ってしまうの。


花奏「…なんでなん…?」


愛咲「偶々この道通ったら見つけちまってさ。えへへ。」


花奏「…傘…いらん。…いらへん。」


彼女の手に直接触れるのは

なんだか気が引けたので

傘の柄を押して傘を戻す。

私に傘をさしていたせいで

愛咲は頭に水滴を被っていた。

私の触れた場所から

傘の柄を伝ってつうっと

愛咲の手に滴る。


愛咲「でも」


花奏「ほんまにいい。」


愛咲「じゃあ一緒に入ろーぜ?そんなら万事解決じゃあねーか?」


花奏「…いいから。」


…私がどれだけいらないと言って断っても

愛咲は聞き入れず私の隣にそっと佇み

傘の下を半分分けてくれた。

…久しぶりに雨から離れて

少し切ないような気もした。

私を責め立ててくる雨は

なぜか心地いいような気がしてしまっていた。


愛咲「ちょっとしか一緒にいれねーけど、話なら聞くこたぁできるぜぃ?」


花奏「…。」


俯くと、足元にはいつの間にか

水溜りが巣を作っている。

駐車場の砂も混じってしまったせいか

透明と言うには程遠い。

反射して私が映ることはなく

雨が着地したところに

波紋を広げるだけだった。


愛咲「鞄も制服もびしょ濡れじゃねーかよう。」


花奏「…。」


愛咲「…ってそんなテンションでもねーよな。」


私はうんともすんとも答えず

ただ下を見ていたら

愛咲はそう返していた。

やっと自分が雨に

打たれていたんだと自覚したのか

体がひんやりとし始めている。


花奏「……いつもこの道を通ってるん…?」


愛咲「いーや、気が向いたら通るだけ。」


花奏「…。」


愛咲「何かあったんだよな。」


花奏「…。」


優しい声色だった。

この声は受け入れていいんだって

体が勝手に判断している。

問い質すような聞き方じゃなくて

寄り添うような聞き方だったから

つい安心が一瞬滲んだ。


愛咲「うちの下の子達がさー、よく喧嘩するんだよう。最近は前に比べりゃあ少なくなったけど。」


ふと急にそんな話が聞こえた。

…そういえば愛咲は

妹や弟がいるんだっけ。

そうだった。

思ったよりちゃんと

お姉ちゃんしてる人なんだった。


愛咲「んで、どっちが何をしたかって聞くと大体相手が悪りーの一点張り。そういう時、うちはあえて何にもしない事が多いんだ。」


花奏「何にも…。」


愛咲「そう。…うーん、ってか、正確にいえば待ってるっていう方が正しいかもな。無理に聞き出すのってなんか、こうー…違げえじゃん?」


彼女は自分の頬を軽く掻きながら

困ったように笑ってそう言ってた。

私は…

私はどんな顔をしてたんだろう。


愛咲「何が言いてーかっていうとだな、言いたくなかったら言わなくてもいいよってこと。」


花奏「…。」


…唐突に兄妹の話をし始めて

何の関係があったのだろうかと

疑問に思っていたけれど、

どうやらそういう事らしかった。


愛咲「話をする事で悪化することもある、なんてどっかで言われたしなー。」


花奏「…そう、なんや。」


愛咲「おうおう!んだよぅ、うちの真面目モードは意外みたいな顔しよってからにぃー!」


花奏「だって意外やから…。」


愛咲「言うじゃねーか!このこのぅ!」


愛咲は何故か嬉しそうに

肘で突く素振りをした。

愛咲には類い稀なる謎の

真面目モードがあることは

前から一応は知っている。

けど、そんなに露呈することもなかった。

私が覚えているのは、

4月に初めて出会った時と

9月にかえというアカウントから

攻撃的な言葉が飛ばされ、

私が自分の過去について全てを話した時。

偶に現れる頼り甲斐のある部分。

それが今は顕著に表に出ていた。

そして初めて見る

姉としての姿がそこにあったような気がした。


愛咲「加えてさーうちがここらの道を通る理由、気分ってのは勿論あるけどもーひとつあるんだぜい。」


花奏「…理由……。」


愛咲「そー。愛咲さんにだって考えくらいありますー。ぶーぶー。」


本当に考えなどあるんだろうか、

と疑問を抱くも玉砕。

何処か、真っ直ぐ遠くを見て

肩を疎ませて言っていた。


愛咲「なんかな、人を疎外してるって言うか、人から離れている状態が心地いい時もあるんだよ。」


花奏「愛咲…。」


愛咲「おうよ。意外っしょ?ありゃ、そーでもねー感じ?」


花奏「愛咲が人から離れたい時とかあるんやな。」


愛咲「え、そんな超人だと思ってたのかよー!ちげーちげー。ど人間。んなずっと人といるなんて疲れちまうって。」


腰を屈めとんとんと拳を軽く打つ。

おばあちゃんのような

ポーズをとっている彼女は

どう見たって人懐っこい。

でもそんなふうに見える人でも

人付き合いが嫌になる時があるんだろう。


愛咲「だかーら、たまーにオンラインよりオフラインって時があるわけよ。」


花奏「スマホの話?」


愛咲「そーそー。たまーにだから。ここ大事だぜぃ?こー見えて愛咲さん、中々に人気だからよぅ。」


花奏「自分でいうかいや。」


愛咲「だっはは。自負してるって事で!」


連絡が来たらちゃんと早めに

返している、と言いたげだった。

傘の内側でととん、という

特異な音ともに雨特有の鼻を突く匂い。

だんだんと辺りに混じって空気と混ざって

何がなんだか分からなくなるくらい

原型を止めなくなっていく。

溷濁する。

その結果が私の足元にできた

水溜りのような気がした。


それからほんの少しの間

お互いに空白の時間を過ごした。

ひと言も発さず、

全てを雨に任せた時間。

…それに飽きてしまったのか

愛咲は口を開いてた。


愛咲「そーだ!」


花奏「…?」


愛咲「この傘あげるわ。愛咲さんからのクリスマスプレゼントー!」


花奏「え…?」


愛咲「だーかーら、プレゼントだぜい?ふぉっふぉー、メリークリスマース!」


花奏「でも、そしたら愛咲…」


愛咲「いーのいーの、すぐそこのコンビニに傘くらい売ってっしょ!」


花奏「それなら私が傘を買って帰る。」


愛咲「遠慮なんてするだけ無駄無駄。うちの家、晩御飯に唐揚げなんて出たら戦争してまで勝ち取るんだぜ?」


花奏「それとこれとはまた話がちゃうような。」


愛咲「んま、ビニールよりこれの方が頑丈じゃんか。今日少し風あるし念の為、な?」


花奏「…だからって…」


愛咲「礼を受け取るのも礼儀だぜい?」


花奏「…!」


…その言葉にはっとする。

確かにそうかもしれないと

妙に納得してしまう自分がいた。

それを察したのか愛咲はにこっと笑って

私に傘を押し付けて

コンビニの方へと走って行った。

私の手元にはそこそこ大きめな

パステルで水色の傘だけが残った。


花奏「…なんで。」


…私にこんな事をするんだろう?

なんで…?

春の頃から少しずつ仲良くなって

歩の教室に遊びに行ったら

時々愛咲とも遭遇して話して。

…たったそれだけで?

それだけの関係で?


その答えはどれだけ考えても

どれだけ待ってみても

分かることはなかった。

指すら擦りもせずただ浮遊している。

そんな状態が続くうちに

愛咲はビニール傘をさして

私のところに来てくれた。


愛咲「よーし、それでうちもおっけーっと!」


花奏「何で…。」


愛咲「ん?どーかしたか?」


花奏「何でここまでしてくれるん?」


愛咲「へ?」


素っ頓狂な声をひとつあげた後、

ぷ、だっははー!

といつもより快晴に笑うように

波を広げていった。


愛咲「あったりめーだろ!友達が困ってたら助けるっちゅーもんじゃね?」


花奏「それだけで…?」


愛咲「だけも何も…大事なことだと思うぜい?」


愛咲は珍しく正当なことを言っていて

普段との温度差があまりにもあることからか

随分とかっこよく見えた気がした。

真っ直ぐに助けるのは当たり前だと。

そう言える愛咲がかっこよく見えた。

助ける。

…そうよな。

助けるのは当たり前、か。

……。


愛咲「ま、自分を犠牲にし過ぎてまではやめといたほうがいいか。」


花奏「…。」


愛咲「あくまで持論だけどな!個人的意見ってやつよ。」


肩をぽんぽんと叩いてくる。

制服はびしょ濡れで

冷たくなっているはずなのに

愛咲は私の肩から手を退けても

水を振り落とすような仕草は

これひとつとしてしなかった。


花奏「…傘…ありがとうな。」


愛咲「いいってばようー。あんさ、めちゃくそ申し訳ねーんだけど、うち、そろそろ時間が厳しいから帰るな。」


花奏「うん。…分かった。」


愛咲「愛咲さんのLINEはいつでもがら空きだぜい?」


花奏「ん?それはええことなんか…?」


愛咲「おう、へーきへーき。うちが即既読つけるからな!こちとら現役陸上部だぞー!」


陸上部だから既読も早い

…と言いたいんだろうか。

何ら繋がってない気がしたが、

愛咲の事だからきっと

通知が来たら走って

スマホのある場所まで行って

来たメッセージを読むぜって事なんだと思う。


傘を差しながら屈伸し始めるあたり

どうやら走る気満々の様子。

雨の中なのに走って最寄り駅まで

行こうとしているらしい。

転んでしまう未来が

ぼんやりと輪郭をなぞった。

時間がないってことは彼女は高校3年生だし

やっぱり塾とかあるのだろうか。

あれ、愛咲は既に

受験を終えているんだっけ。

そんなことを思っていると、

じゃーな、風邪に気をつけるんだぞー?

と声がしてはっと顔を上げる。

…頭に水滴が落ちることはなかった。


花奏「…傘、ありがとう。」


ちりんちりんと自転車のベルの音が

どこからが聞こえた。

こんな大雨に自転車に乗っているのか。

私の声はその音と雨の音に

掻き消されたと思ったが

走っていく後ろ姿は片方の手をあげていた。

…届いた、のかな。


とつん、とん。

傘、が手元にあった。

今傘の中にいるはずなのに

私はびしょ濡れだから周りから見たら

不思議に思われる事だろう。

けどそんなのは関係なく

ただの疑問と焦燥感と安心感が織り交ざり

雲より深い灰へと濁っていった。


しち、しちと靴の裏の水溜まりが

浅い呼吸をする中、

初めて雨に当たらない今日を迎えた。











ふと目が覚めた。

視界は急に光を入れたせいで

ほんの少し揺らいでいる。

目が開きづらい。

ずっと暗かったんだから

それはそうかもしれないけれど。


2限目が終わる。

後5分。

もう1度頭を腕の中に埋めた。

眠ったままでいたかった。

なら戻らなければいい話。

きっとそう。

そうなんだろうけど、

もう逃げたら駄目だと言われ続け

身動きが取れなくなりつつあった。

重度の使命感や責任感、

罪悪感に雁字搦めにされた私には

選択肢などなかった。


花奏「……。」


あれから何回も繰り返した。

感覚で言うと10回は超えている。

正確な数を数えるのは

6回や7回くらいから辞めてしまった。


何度も試行錯誤した。

繰り返した。

参っていた。

道手立てが分からなかった。

教えて欲しかった。

明日への進み方を教えて欲しかった。

普段何気なくくるはずの明日が

来ないとなったら誰もが

明日を探しに出かけるだろう。

明日を欲すだろう。


明日が欲しい。

未来が。

歩や周りのみんなが生きている明日が欲しい。

それだけでいい。

それだけが欲しい。

幸せが、欲しい。


花奏「…。」


すう、はあと息が漏れる。

何回も試行錯誤した。

最終の下校時刻まで待ち

外をずっと眺めていても

雨は片時も止むことなく

少しだろうが必ず当たった。

翌日は必ず微々だろうと熱が出た。

必ず美月に出かけへ誘われた。

誘いを断り、歩をあの交差点から離すと

美月は必ず亡くなった。

そして歩も必ず亡くなった。

歩に関しては交差点から離し

室内や室外共に様々なところにいたとしても

必ず亡くなったんだ。

男はどこからともなくやってきて

歩を楽しそうに刺しては捕まった。

色々な方法で男から歩を守ろうとしても

返り討ちに遭うときは

必ず左の脇腹を刺された。

刺されて搬送されれば大体2週間は

必ず病院から出れなかった。


繰り返す中で分かったことがあった。

入院してしまえば

今日に戻ってくるまでに2、3週間程の

不必要な休養がある事。

戻ってしまえば怪我なんてないことになる。

搬送されるだけ意味がなかった。

以後、怪我をしても出来るだけ

歩いて廃墟まで向かった。

刺された後電車に乗って急いだはいいものの

乗客や駅員に止められ

救急車に乗せられた記憶がある。

だから苦痛に耐え激痛に狼狽え

廃墟まで歩いて行った。

何度も。何度も。

そして、男は確実に歩だけを狙い

歩を何かしらでつけているのだと考えた。

男好みの容姿だったのか何だか知らない。

盗聴器やら何やらで歩の居場所を

特定しているかも知らない。

ただ、どこにいても奴は居た。

刃物を持って悪意と共にやって来た。


ぴり、と。

刺されてもないはずの脇腹が痛んだ。

どうして。

どうして、だろう。

ひやりと背筋を気味の悪い汗が伝う。


その時、2限目の終わりを

告げるチャイムが鳴った。





***





つん、と伏せている私の背中に感触。

湊だ。

まず初めに心配の旨が伝えられる。

返答は私の態度や顔色、

選ぶ言葉によって微々たる変化がある。

それから、私が教室を出るとか

次の授業をサボるとか言えば

不安げな目つきをしながらも

止める事なく行ってこいと言ってくれる。


…それだって全て分かってる。

それほどまでに繰り返した。

飽きてしまう程に

この11日と12日を見ていたんだ。


どうすれば歩を助けられるのか。

そんな考えはとうの昔に廃れてしまった。

最近は投げやりにがむしゃらに

ただ1つ前の周期と

何か1つだけでも違えばいいやと

考えるようになっていた。

全部を変えようが1つを変えようが

向かう結末は1つなんだ。

収束してしまうのだ。

そんなの、足掻いたって一緒じゃんか。

無駄、じゃないか。


花奏「……っ。」


湊「花奏ちゃん、手、力入れすぎ。」


花奏「……。」


湊は珍しく自席から離れ

私の隣に突っ立っていたらしく、

声のかかる向きが違った。

湊に言われてその事に気づき、

咄嗟に爪を立てるのを辞めた。

掌には爪痕が深めに残っている事だろう。


無駄。

そんなふうに思いたくなかった。

私の努力が無駄になるのは

別にどうでもよかった。

ただ、歩自身の死が無駄になる事は

どうしても嫌だった。

歩を助けられなかった、

歩を死なせてしまった、

歩を殺してしまったと言う罪悪感が

重なれば重なるほど

どんどん逃れられなくなっていった。


湊「…次の授業、一緒にサボっちまお?」


花奏「…。」


湊「だって次中丸先生でしょ?いいよいいよ、1回くらい」


花奏「…もう、ええよ。」


湊「え?」


中丸先生の授業なら

既に何度も何度も休んだ。

無断欠席した。

逆に言えば、何回かは全く同じ授業を受けた。

湊が珍しくやってきたと言う宿題は

どこが間違っていて

どこが合っていたかさえ

ほぼ記憶している。

…それくらい、繰り返した。


花奏「…もう……構わんで。」


湊「花奏ちゃ」


花奏「お願い。」


顔を上げず目線も合わさず、

湊に言葉だけを向けた。

言葉の針だけを手向けた。

彼女はどんな顔をしてたんだろう。

最後のポカリを手にして

笑っていたのが遠い昔のよう。

実際にその姿を見たのはいつだったろう。

3回は入院したから

2ヶ月は前じゃないだろうか。

実際には6時間後の話なのに。

まだ、11月か。

いつまで11月だ。


湊「…分かった。迷惑かけちゃってごめんね。」


花奏「…。」


迷惑じゃない。

寧ろありがたい事。

ありがたい事なんだ。

それは理解している。

…。


…理解してるはずなのに、

ありがたいと感じれなくなっていた。

その優しさは当たり前だと

麻痺してしまっていた。

その柔らかな言葉1つ1つが

鬱陶しくなり始めていた。

人間は慣れてしまう。

匂いも出来事も何もかも。

醜い。

自分が憎かった。


ぐ、とまた手に力が入っていた。

それに気づかないまま

私は教室を飛び出して

いつもの屋上へ続く階段に身を潜めた。





***





6限目の終わりを知らせる合図が鳴った。

それと同時に喧騒一色になる校内。

今まで教室に戻る日が多かったけれど

今日はいいや。

今回はいいや。

その代わり1度ここを離れ、

校内の隅の教室を散策した。

使われていない用具室のような部屋がないか。

そこで一晩越せないか。

そんな期待を込めて。


悪い評判を背負う事になっても

どうでも良くなっていた。

全て投げ出しかけていた。

炭酸の抜けたサイダーのよう。

活気も覇気もなにもない。


普段は歩かない学校の隅の方へ、

隅の方へと進む旅。

進む度異国に踏み込んでいるような

奇妙で不安で朧げな感覚。

1度歩に連れられて

問い詰められたことはあったものの、

トラウマとは化していなかった。

そこで見かける顔見知りは

とてつもなく安心するもんで。

…。

安心、してしまったんだ。


花奏「…。」


麗香「…あれ、珍しいお客さんけぇ。にぃ?」


よく見つけたね、と楽しげに

行き止まりでにんまり笑う彼女。

校舎の構造上、左右の端に曲がり角があり

そこに2、3つ程の教室がある。

扉を開き部屋のひとつへ入ろうとした姿。

春の頃から比べて肩につくくらいには

伸びている髪の毛。

私だってきっと、少し伸びたんだろうな。


麗香「…花奏?」


花奏「ああ、ごめん。何もない。」


麗香「らしくないけぇ。どうしたけぇ。」


花奏「どこ行っても知ってる人に会うなあ思っててん。」


麗香「へぇ…?」


私が近寄らない事に疑問を感じたのか否か

麗香は私の元に歩み寄り手を引いた。

と、とん。

長く直線である廊下から

私は姿を眩ました。

角を曲がれば本当に

この学校には人が通っているのかと

疑いたくなるような埃っぽさ。

濃度の低い騒ぎ声が聞こえるおかげで

ここは現実だと踏みとどまっていた。


麗香「何でこっちまで来たけぇ?」


花奏「何でって…学内で誰もこうへんところを探してたんや。」


麗香「ふうん。」


腑に落ちない、といった様子で

鼻をすんと鳴らす。

猫のような仕草。

ひょいひょいと奥へ誘うように

手を掴んだまま進んでゆく。

私はなすすべもなく連れて行かれた

…と言うよりかは反抗する意思がなかった。

疲れ切ってしまったのか

身を任せるのが楽だった。


麗香「理由も理由な上折角だし、見られたからには黙らせるけぇ。」


花奏「え、何のこ」


麗香「いいからまずここに入るけぇ。」


手を引かれたと思ったら

今度はくるりと背中側に回られ

ぐいぐい押して来た。

転びそうになりながらもされるがまま、

そのまま1つの朽ちかけた教室に

押し込められたのだ。

麗香も続いて教室に入り、

今度は素早く私の前に回った。

途端、とたんと扉が唸っていた。


室内はやはり埃っぽいが

廊下ほどではなかった。

人が普段から過ごしているのか

いないのか、丁度境界くらいだろう。

机が真ん中に1つあり、

囲むように椅子が4つ。

正面に格子付きの小さな小さな窓がある以外

壁は背の高い棚で埋まっていた。

床には何かの資料だろうか、

紙が積まれている。

教室、と言うには狭すぎた。

これではまだ6畳の部屋の方が

広く見えるだろう。


花奏「…えっと……」


麗香「ここのことは内緒けぇ。にぃ?」


花奏「は、はぁ…。」


麗香「ここ、今使われてない部屋けぇ。教室を分断してるせいでこんな狭いんだって。」


机を指でなぞる彼女。

西日のさす部屋のようで

陽は今は床の端くれと戯れている。


麗香「たーまたま鍵が壊れてて入れるのを見つけてしまったけぇ。」


にしし、とぶかぶかのパーカーで

口元を隠し笑い声。


麗香「誰も来ないけぇ。にぃ?」


花奏「…!」


麗香「あて、サボりたい時とかはよくここにいるけぇ。」


花奏「…麗香も授業サボるんやな。」


麗香「んー…授業というより愛咲先輩との会話けぇ。」


花奏「あぁー…。」


麗香「捕まったら終わりだけぇ。」


花奏「やろうな。」


麗香「だから、休み時間はここに籠ることが時々あるけぇ。」


花奏「…そっか。今も来てるもんな。」


麗香「うん。」


がらがらと軽い音を立てながら椅子を引く割に

音もなく座る彼女。

陽の光のせいで若干ながら埃が輝く。

それを気にする様子もなく

足を組んで背もたれに思いっきり寄りかかった。

なんだか麗香の新たな一面が見れた気がした。

麗香は今も尚計り知れないところが多い。

ミステリアスな雰囲気は

いつまでも麗香の周りを漂っている。


麗香「花奏も座るけぇ。」


花奏「私はええよ。」


麗香「そう言わず。」


花奏「ううん、ほんまに。」


麗香「意地っ張りけぇ。」


花奏「今は立っときたい気分やねん。」


麗香「なら仕方ないけぇ。」


少し前までは私の事を苦手意識していたのか

全くといっていいほどに喋らなかったのに

今じゃ1対1でこんな狭い空間で

言葉を交わし合っている。


だから正直私のお見舞いに

来てくれたのは意外だった。

私が過去のことを話したからだろうか。

あの時も率先して

動いてくれたのは麗香だった。


麗香「っていうか、あて「も」サボるんだなーとかいってるあたり花奏はサボってるけぇ?」


花奏「授業?」


麗香「勿論。」


花奏「…何回もな。」


麗香「わあ、不良けぇ。にしし。」


今はこう楽しげに笑っているが、

前までの色彩は風化してないためか

現在の何もないはずの状態でさえ

本当に笑っているのだろうかと疑ってしまう。


何回か入院し麗香が訪れる度

だんだん彼女の表情が

見れるようになっていった。

よくよく見れば、彼女は眉間に皺を寄せ

惨憺たる風景を思い起こしたかのような

苦い苦い顔をしているのだ。

きっと思い起こされているのは

愛咲や羽澄の状態、

そして他のみんなの事が主だろう。

意外だと思った。

変な話だが人間なんだなって

その時思えたんだ。

そんな記憶があった。


花奏「…私がこの場所の事知ってよかったん?」


麗香「ん?」


花奏「だって、私の事苦手やったろ?」


麗香「そんなの、前の話けぇ。」


そんなの、と一蹴し

足は痺れたのか組み直していた。

ふぅーと長く一息吐き、

とん、と肘を付く。

その手に頬をくっつけた。

嫌なほど歩と重なった。


麗香「花奏は結構引きずるタイプけぇ?」


花奏「…分からへん。」


麗香「にしし。そんな真面目に考えなくても。」


花奏「…あはは…せやな。」


相変わらず下手な笑い方。

貼り付けたような笑顔、渇いた声。

麗香の猫のような鋭い目つきが

私を捉えている事に気づいた。

しっかりと私を掴んで離さない。

かと思えばふらりと視線を

格子窓の方へ伸ばした。


よく見てみれば窓の淵には

小さいながら時計が飾ってあった。

キッチンタイマー程度の

とてつもなく小さな。


麗香「帰りのホームルーム、そろそろけぇ。」


花奏「そんな時間なんやね。」


麗香「うん。愛咲先輩は流石に戻ったと思うしあては教室に戻るけぇ。」


机から体を引き剥がし

ほんの少しばかり勢いをつけて

椅子から腰を離す。

かたこと。

椅子は揺れ、満足そうだった。


麗香「花奏はすぐ戻るけぇ?」


花奏「…教室近いしあと1分ここにおるわ。」


麗香「ここ、お気に入りけぇ?」


花奏「割とええな。」


麗香「にしし。愛咲先輩には絶対口外禁止けぇ。」


花奏「分かった分かった。」


この秘密であろう場所を

共有できたことが嬉しかったのか

麗香は終始言葉尻が跳ねるようだった。

そのままスキップでもするんじゃないか。

しかし麗香に限って勿論そんな事はなく、

扉から出る時には小さく手を振っていた。

反射的に返すも、

顔は笑ってなかっただろうな。

麗香は気づかなかったのか

扉を静かに閉めて足音も立てず

気配を消してしまった。


花奏「…。」


1人。

埃と戯れる。

埃も誇りすらも散ってゆく。


花奏「…。」


ここ。

…かな。


一晩、ここで過ごしてみよう。


花奏「…。」


1人になった途端脳はショートしてしまい、

今までの周期の結末が

映画の予告版のように華麗に移り変わる。

けたけたと笑う男の声は

常に耳に留まり続けた。


ぴり。


姿勢が悪かったんだろうか。

左の脇腹が痛んだ。





***





それからは誰も来なかった。

格子窓の外は着々と暗さを手に入れ、

今では豹変しきっている。

昼の面影はどこへやら。


私はというと、椅子に座るのは疲れて

床の紙束の近くで体操座りをしていた。

そっちの方が臀部は痛くなるし

辛いと批判されるだろうが、

私はここの方が落ち着いた。

収まりが良かった。

スカートに埃がくっつき

くしゃくしゃになってるくらいが丁度いい。


花奏「…。」


資料を徐に手に取る。

手ぐせなのか、紙の縁を

爪と肌の間に挟んで遊んでしまう。

内容は、生徒会集会のメモのよう。


そういえば麗香は生徒会に入ったんだっけ。

だからこんな隅にある

存在している事すら知らなかった教室を

知っていたのかもしれない。

何かの拍子にここへ来たんだろう。

そしたら案の定鍵が壊れているときた。

うってつけ。

麗香はにたりと不敵な笑みを浮かべたのかな。


そこまで空想して、頭が疲れた。

飲み物はある。

今回も昼ご飯を食べていなかったから

一応食料もある。

ただ、両方とも今は

摂取しようとは思わなかった。


花奏「……はぁ…。」


意図せず息が漏れる。

次はどうすればいいんだろう。


室内での試行は戻るまでに

時間がかかりすぎるから

正直もうしたくない。

するとしても私の家や

例の廃屋の近くにしたい。

刺された後に手足を引き摺って

何駅も歩くのはとんでもなく苦痛なのだ。

痛みに耐え、耐えられるはずもなく

途中で行き倒れて病院送り。

…なんてこともあった。

とんだ出血量だ。

よくあれで歩こうなんて思えるよな。

自分でも馬鹿らしく思えた。


と、考えると廃屋近くか起点の交差点。

美月も助けると考えると

交差点の方が融通が効く?

そもそもこの時点においての

融通ってなんだ?


花奏「…そもそも2人同時に助けるとか出来るんかな。」


浮かんでしまった疑問を壁に投げつける。

散乱した書類に、シミの付いた床に。

あぁ。

言葉にしてしまった。

やってしまった。

その瞬間大きな現実が

私を押し潰そうとしている図が

鮮明に見えてしまった。


2人。

歩と、美月。

美月は何とかなるんじゃないか。

…と思いたかった。

最終地点を交差点以外の場所で

数回過ごしたが、美月は交差点で死ぬのだ。

交差点近くに寄ると歩は死に美月は助かる。

交差点から離れると両方死ぬ。

その場合、私は怪我を負う。

実際のところあんな重症負わずに済むだろう。

私が歩を見捨てて逃げれば、の話だが。


そんなことは出来るわけなかった。

散々歩には辛い思いをさせて

私だけ逃げるなんてそんな虫のいいこと

許されるはずがなかった。


眠たい。

眠ってしまおうか。

けれど眠ったところでどうなる。

悪夢を見るのみ。

悪夢、というよりかは過去の回想が

勝手ながらに行われてしまうのだ。

つまるところ、休息という休息は

暫くの間取れていなかった。


私は血濡れた図書館の床の上に

ただ何をすることもなく立っている。

そして周りを見渡せばー


がたん。


花奏「…っ!?」


はっ、とした。

誰も来ない。

麗香がそう豪語していたにもよらず

漏れ染みてゆく黄色の光が

真っ暗だった部屋へ許可なく侵攻してくる。

麗香とは違い豪快な開け方。

漸く自分がいたところは

こんなにも暗いところだったのかと

驚嘆しながらも、

今はそれどころじゃないと自分を鼓舞した。

したところで何だ。


「……おぉ!びっくりした…何してるんだ。」


現れたのは恰幅のいい男。

細身じゃないためか例のけたけた笑う声が

無意識に再生されずに済んだ。

帽子や服装に見覚えがあると思えば、

交通整備をしているおじさんのような

見た目をしていた。

…先生ではなさそう。

見たことない顔だった。


どうしてこんなに冷静なんだろう。

いや、冷静ぶってるんだろう。

自分が不思議でならなかった。


花奏「…。」


ああ。

あ、あ。

駄目だったんだな。

と、ひと言。


「もう遅いから帰りなさい。」


花奏「何時ですか。」


「23時を回ったところだ。定時制の生徒も下校したぞ。」


花奏「…そうですか。」


やはり学校に留まることは出来ないのか。

自分の受け答えの下手さにさえ

どうにも腹立たしい何かを感じる。

下手くそ。

下手くそ、下手くそ。

卑下しても卑下しても止まらず、

こんなものでは駄目だ、

足らない、と感覚が畝っている。


生きた心地がしなかった。

ずっと前からだろうか。

しかし、今日は特段と生きていなかった。


私は渋々鞄を背負い、

罪を確と背負い警備員の横を抜ける。

警備員。

その単語にはっとした。





°°°°°





先生「連絡事項です。今日の放課後から夜あたりにかけて警備員が校内回るからなー。最近中高生を狙った殺傷事件が多いので、その対策です、っと。…そうだな、部活生とかすれ違ったら挨拶するようにー。」





°°°°°




警備員。

そうだ。

遠い遠い記憶にあったじゃないか。

それから中高生を狙った殺傷事件。

これだって、そう。

歩が巻き込まれたのは、これだ。

私はあの時物騒だなーとか思って

他人事のように受け取っていた。

他人事だと思ってた。

自分の番になるなんて、

歩の番だなんて知る由もなかった。


「ほら、早く帰りなさい。先生には連絡しとくから。」


花奏「…。」


うんともすんとも返す気にはなれなかった。

全てが繋がってしまったように感じた今、

全てが不可能に感じてしまった。

救いようがない、

と理由もなく感じてしまったのだ。

返事をしたからどうなる。

この先の未来が変わるか?

変わったとして、それは歩が救われる未来か?

そんな確証どこにある。


思い知った。

私は今、答えのない問いを

解いているのに同義だと。


玄関まで警備員に連れられ

とぼとぼ歩いた。

歩くのだって億劫だ。

もう、無理な気がしたから。

外は雨だった。

小雨。

降ってるか降ってないか分からないくらいの。

視認できないくらいの細かな雨。


「雨か…傘は持ってるかい?」


花奏「…いえ。」


「そうか。そこで少し待ってなさい。」


花奏「…?」


ひと言、待ってろと伝えるや否や

足早に廊下を蹴り去っていった。

何事だろう。

先に報告でもするのだろうか。


すぐにでも玄関から出て

警備員の知らぬ間に抜け出してしまおうとは

考えたのだが、足が棒のよう。

うまく動いてくれない。

動く意思がない。

鞄を背負いなおすも他は動く気になれず

眠気に襲われる中突っ立っていたら

どたどた、と重い足音が聞こえてきた。

何かと思っていつの間にか

俯いていた顔を上げると、

11月には似つかわしくない程

額に汗を浮かべた先程の警備員が

肩で息をしながら立っていた。


「生徒さん、これ、使いなさい。」


差し出された右手には

真っ白とはかけ離れているビニール傘。

職員室とかから借りてきた

誰かの忘れ物だろうか。


花奏「…いいんですか。」


「勿論。ほら、早く家に帰ってあげなさい。ご家族さんが心配してるだろうから。」


父さんは出張でいないから

実際のところ私1人なんだけど、

反論する気も失せていて

静かに傘を受け取った。

それを見計らってか

警備員は「気をつけて」、

と声をかけてくれた後

またすぐに巡回へと戻っていった。


花奏「…。」


傘。

そういえばいつか、

愛咲に傘をもらったっけ。

返せなかったな。

返さなくていいって言われたんだっけ。

どうだっけ。


ばさ、と玄関口で開き、

そのまま外へ出る。

とと、と、とつと。

音響が今までと違う。

直に当たらない雨粒。

寧ろ今の状態の方が違和感がある。

雨に当たるのが当たり前。

制服はぐずぐずになって

靴の中まで水は侵入し

気持ち悪いなと感じながら帰る。

それが当たり前だった。

なのに。


踏み出す。

踏み出す、踏み出す、踏み出す。


それでも雨に当たらない。


おかしい、って思った。

おかしかった。

幸せを感じない。

嬉しくない。


暫く歩くとコンビニの方へ通ずる道と

規定の通学路との分岐点がお出ましになる。


花奏「……ふん、ふ、ふー…ふーん…。」


馬鹿みたいに鼻歌を溢した。

傘を投げ捨ててみようかとも考えた。

その時。


花奏「…っ!」


突如。

風は大きく腕を振ったのか

傘は音を立ててひっくり返る。

ご、と嫌な音のおまけつき。

投げ捨てるまでもなく、

投げ捨てる必要なんてどこにも無く

私はやはりこの道を辿るのだ。


しとしと。

頭やら肩やらを濡らす雨。

雨は鯨を象らず水滴を只管に

私へと当てつける。


おかしい。

おかしかった。

可笑しかったんだ。


花奏「……ふふっ。」


雨が体に当たり濡れ鼠になることに

安心して思わず笑みが溢れた。

可笑しかったんだ。

おかしかったんだ。

私はおかしくなっちゃったんだ。


しち、しちと靴の裏。

傘を道端に捨てた。

どうせ戻るんだから、何をしたって変わりない。

雨だって笑っていた。











2限目に起きる。

あー、この授業ももうすぐ終わる。

飴色に濁った色をしている掛け時計が

それを物語っていた。

そして湊が話しかけてくる。

面倒になっていつも屋上手前の

階段やら踊り場やらに寝そべる。

時間が経つのを待つ。

そして帰りのホームルームに出たら

また湊に話しかけられる。

だからホームルームが終わってから

教室に寄れば誰とも出会わずに済む。


前、学校に篭って居られないか

もう1度試した。

場所はここ、屋上手前。

けど見つかった。

そして歩は死んだ。

前回はどうだったっけ。

前々回は。

両方とも交差点にした覚えがある。

刺されたくなかったから。

痛いのは暫く嫌だったから逃げたのだ。


花奏「…。」


きーんこーん…。

帰りのホームルームが終わる音だろうか。

腕時計を確認すると既に午後3時。

なんだ、ホームルーム開始の時間か。


大の字にはなれないものの

それなりに手を広げて

リラックスした姿勢をとる。


上手くいかないな。

上手くいかないのが普通になってきた。

交差点に行けば歩は死ぬ、

それ以外のところだと

美月と歩双方が死ぬ。

交差点であれば事故死、

それ以外は殺される。

私は歩を助けようとすれば刺され

何もしなきゃ刺されなかった。

どこかの周期で意識が無くなるほど刺されたが

私はどう頑張っても死ななかった。

ぎりぎりのラインで生き残る。

そして彼女が、いなくなる。


花奏「……なんで逆にならへんの。」


逆に。

私が死んで歩が生き残る未来。

そんなものを望むようになっていた。

いつからか分からない。

ただ、なんとなく。

なんとなく、もう終わりたいなんて

思い始めていた。

ならこの日付に戻ってこないで

そのまま進めばいいじゃないか。

歩のいない日々を過ごせばいいだろうに。

そう、思われるんだろうな。


歩を何度も殺してしまっている以上、

助けなければ何の意味もないのだ。


歩は何度も苦しんだんだ。

何度も、何度も何度も。

苦しいなんて生半可な言葉では表せない。

そんな、痛みを。

それを全て無かったことに出来るか。

出来るわけがない。

そんなのを認めてしまったら

本来あるはずだった未来と

何も変わらない。

苦しませるだけ苦しませてやっぱなしだなんて

愉快犯にも程がある。

虫が良すぎる。

それこそあの殺人鬼と一緒だ。

森中と一緒だ。

そんなのじゃない。

違う。

違う。

私はそんなんじゃない。

だから、助けるまで続けるんだ。

きっと。


暫く手を広げ寝転がっていると

不意に眠気が襲ってきた。

ここ最近しっかり眠れた記憶がない。

しっかりご飯を食べた記憶だってない。

入院してる時は流石に少しは

口に入れたが生きてる心地はしなかった。

そもそもどのくらいの量を

摂取していたかさえ記憶にない。

覚えてないのだ。

色々な周期の記憶が混ざっていた。

こんなにまで繰り返したんだ。

繰り返してしまったんだ。

吐き気を感じた。

…それだけ。

いつも通りだ、こんなの。


何かを考えている気になりながら

結局ぼうっとしてるだけの時間は過ぎ

我に帰った時には1時間程経過していた。

帰りのホームルーム終了のチャイム、

鳴っていたっけ。

聞こえないくらいに

頭が動いてなかったんだろう。


花奏「…。」


はぁ。

心の中でため息をつき

その場で立って埃を払う。

さて、どうしよう。

帰ろうか。

帰るしかないか。

腹を括ったのか諦めたのか、

教室へとぼとぼと歩き出す。


廊下には部活生らが慌ただしく駆け抜けたり

先生が疲れた顔ですれ違ったりと

いつもと変わらぬ風景が

繰り広げられていた。


教室に行くと当たり前のように誰もいない。

湊もいない。

誰もいない。

適当に窓際の席につく。

自分の鞄は定位置に置き

床に足をついて音もなく佇んでいた。

今までの中でもどこかでは

見たことのある光景のはずだ。

なのに、どこか淋しくなった。

心細いと感じた。

そう思ってしまった。

何でかは分からない。

寂しさに襲われたのだ。


花奏「………………。」


歩。

最近、ちゃんと話せてないって、

そんな気がした。

何でだろう。

2日に1回くらいは会ってるのに。

ちゃんと話せてない。

ちゃんと、というよりは

楽しく何も考えず話せてない、かな。

最後に何も考えずただただその場の

幸せに浸って話せてたのはいつまでだろう。

懐かしい。

…懐かしいな。

あの時のようにまたどうでもいい話をして、

時に戯れて、時に真剣な話をして、

時に笑い合いたいな。


あーあ。


花奏「……寂しい……。」


口にすると尚更現実を

突きつけられているようで

心がきゅっ、と音を立てる。

痛い。

痛かった。

心だか心臓だか脳なんだか。

痛かった。

どこかしらが痛かった。


それに気づいてもどうにもできない。

どうにもできないところまで

きてしまったのだから。


寂しい。

寂しい、寂しい、寂しい。

今までずっとみんながいた。

みんなが隣にいてくれた。

歩がいてくれた。

歩に何度も相談に乗ってもらった。

歩と沢山の時間を過ごした。

今じゃ。

今じゃ…今…。


いない。

隣に、いない。


花奏「……っ。」


まだ死んだわけじゃない。

まだ死んでない。

なのにどうしてこんなに孤独なんだ。

行くとこ行くとこに誰かと会った。

見知らぬ定時制の子から湊、

愛咲、麗香、美月、梨菜、歩。

いろんな、いろんな人に支えられてた。

それに気づけなかった。

気づいても無視してた。

私は薄情者だ。


こ。


何かが折れる音がした。

心か。

こころ、か。

もう、立ち直れそうになかった。

ここまでやり直してきて何もなくなった。

今、遂に全てが無駄になってしまった。

私が1番恐れていた事態だった。


花奏「ぁ……あ…。」


ぎゅっ、と自分の胸ぐらを掴む。

このまま心臓なんて潰れてしまえ。

息なんて絶えてしまえ。

止まってしまえ。

命なんて終わってしまえ。

死んでしまえ。

死んでしまえ。


どうしてここまで思い詰めているのか。

思い詰められているのか

私には到底理解できなかった。

出来なかった。

何も分からなかった。


花奏「ふー……ふー…。」


服をくしゃくしゃにしながら掴んでるだけ。

なのにこんなにも痛い。

痛い。

痛い、痛い、痛い。

痛い。

…痛い。

いた、い。


花奏「……い、たい…。」


いたい。

居たい。

歩。

あ、ゆ。

歩。

そう、歩。

歩と。

歩と一緒に居たいだけ。

居たいだけ。


上手くいかないな。

上手くいかないもんだな。


諦め、ようか。

そうだ。

そうすれば終わる。

終わるじゃんか。


そんな邪念が過ぎった時。


「……小津町…?」


花奏「……。」


……。

…。

ば、か。


花奏「馬鹿っ……何で、何で今なんよ…っ。」


歩「…大丈夫?」


花奏「来んなや、来んで、来んで…!」


歩「…!」


花奏「もう、嫌や…。」


と。

とと。

足音が少ししたと思えば

遠くで止まったまま。


あーあ。

八つ当たりして何になる。

歩をさらに追い詰めて苦しめて

何になるっていうのだ。

寂しさが故?

そんなの許される訳ない。

怒りとか悔恨とか

ぐちゃぐちゃに織り混ざった感情の

吐き出し方が分からなかった。

汚い混合物を今、

大好きで助けたい、ずっと一緒に居たい

大切な彼女へ吐いたのだ。

吐いてしまったのだ。


嫌悪が止まらなかった。

どうすればいい。

さらに強く服を握りしめる。

だけど勿論何にもならない。

体にだって食い込まない。

服がしわしわになっているだけ。


このまま心臓なんて潰れる訳ない。

息なんて絶えるはずない。

止まるなんて有り得ない。


歩「馬鹿はあんたでしょーが。」


肩に強めの感触。

叩かれたのかと思うほどの強さ。

それにはっとして顔を上げると

見計らっていたのか

服を握っていた手を払った。


歩「力入りすぎ。」


花奏「……馬鹿。」


歩「だーかーらー、馬鹿はあんただっての。」


花奏「来んでって言ったやんか。」


歩「放って置けるとでも?」


花奏「…放ってや。」


歩「生憎、そこまで嫌な人間じゃないもんで。残念でした。」


肩からぱっと手を離したかと思うと

歩は私から距離を取った。

やっと、離してくれた。

放っておいてくれるんだ。

今だけ薄情になってくれるんだと

期待してしまった。

それほどまでに歩を信頼できなくなってた。


歩「小津町、早く帰るよ。」


花奏「……は?」


歩「は?じゃなくて。ほら、さっさと準備する。」


花奏「なんで」


歩「何で、もどうして、も今は要らない。はーい5ー、4ー…」


私から離れたかと思えば

鞄を背負い直しカウントを始める。

カウントダウンは私に取っては

最早恐怖でしかなかった。

明日の16:24までというタイムリミット。

カウントダウン。

今だって行われているのだ。

怖くて、怖くて仕方なくて

歩の誘いにまんまと乗ってしまい鞄を背負う。

歩は私の様子を横目で確認した後

小さく手招きして教室を後にした。


と。

とと。


さぁー。

さぁ、さぁー。


大雨だ。

そうだ、この時間は雨が強まってる時間だった。

いつこの事実を、未来を知ったんだっけ。


歩「うっわ。ひどい雨。」


花奏「……。」


歩「もう少し居座っとく?」


廊下で歩の声が跳ねる。

楽しそうに壁に反射して

私の耳にまで届く頃には

湿気を含みしとしととしていた。

6月、一緒に窓から雨が降るのを眺めたっけ。

あれ、あの時は雲が分厚かっただけだっけ。

それとも夢の中だっけ。

今本当なら2月くらいかな。

雪、降ったかな。

歩の受験は無事終わってる頃かな。


誕生日はもう、とっくの昔に去ったよね。

なのに私はまだ歩の誕生日まで

4日前でずっとずっと届かない。


歩「…小津町。」


花奏「……おめでと。」


歩「は?」


花奏「…ずっと、祝えてなかったから。」


歩「誕生日?まだだけど。」


花奏「知ってんで。15日やろ?」


歩「え、うん。」


花奏「知ってる。ちゃんと覚えてんで。」


色々忘れてしまった。

最初の周期のことやご飯の美味しさ、

安定した睡眠の心地よさ。

4月のこと、今ある幸せのこと、

歩がいる事の大切さすら今の今まで忘れている。

今も忘れてる。

思い出せない。

歩といる事の楽しさを思い出せない。

普通を思いだせない。

幸せの、何もない普通を思い出せない。

けれど11月15日が歩の誕生日だという事実は

ずっと頭の中に残ってる。

これだけずっと変わらずに

頭の中に残っていた。


歩「……そ。」


花奏「…あのさ。」


歩「何。」


花奏「……帰ろうや。」


歩「この雨の中?」


花奏「何ともないで。」


歩「正気?私絶対嫌なんだけど。」


花奏「濡れたって変わらんよ。」


歩「あんたは馬鹿だから風邪ひくね。」


花奏「…やな。風邪引くわ。」


歩「はーあ。素直なんだか強情なんだが分かんないね。」


歩は窓辺に寄りげんなりした顔をした後

ぴん、と固いはずのガラスに

でこぴんを食らわせていた。

窓ガラス側も今頃驚いているだろう。


そういえばこの鞄、

いつだか庭で乾かしたけれど意味なかったな。

乾いていたから意味なかった。


今はまだ湿っぽさのない鞄を背中で温めた。

生き物じゃないくせに私より生きてそうだった。


歩「傘持ってる?」


花奏「持ってへん。」


歩「私の持ってる折り畳みだけでいけそ?」


花奏「折れるで。」


歩「風なかったら行けるでしょ。雨には確実に濡れるけど。」


花奏「この雨の中帰るん?」


歩「帰ろっつったのはあんたでしょ。」


花奏「そうやけど、嫌やろ?」


歩「それでも小津町が帰るっていうんなら付き合う。今日は隣にいるって決めた。」


真っ直ぐ。

さっきまで窓の外を見て雨を眺めていたはずが

いつの間にかしっかりと私を見て離さなかった。

歩はいつもそう。

話す時は頬杖をついてそっぽを向き続けるのに

大事な時は絶対と

言っていいほど視線を外さない。

目を見てくる。

それに緊張してしまう。

圧を感じてしまう。

逃げ場がないって焦りを感じる。

焦ってた。

怖かった。

逃げ場がないことが怖かった。

やり直しが効かないこの今が怖かった。


歩「だから、帰る。」


花奏「……やっぱ馬鹿なんは歩の方や…。」


歩「そんなこと」


花奏「歩の方が、馬、鹿や………っ。」


ふと。

涙が溢れそうになった。


馬鹿なのは私の方だ。

歩の言う通りだ。

でも認めたくなかったのか知らないが

否定の言葉だけ出てきた。

彼女を、現実を、自分を。

…それらを全て否定する言葉だけの雨が

日時関係なく降り続けていた。


泣いたらだめだ。

泣く資格なんてないだろう。

いつからかそう言い聞かせている自分がいた。


歩「…。」


花奏「……帰ろう、な?」


歩「…分かった。」


それ以上言葉を放つことはなく

分かったとだけ耳に響いた。

それでいい。

それだけでよかった。

歩と2人で一緒の時間を

過ごせるだけでよかった。


廊下を抜け下駄箱へ向かう。

1年と3年では靴箱の場所が違うため、

より校門に近い側の靴箱で

待ち合わせようとなった。


歩「んじゃ、すぐそっち行くから。」


花奏「…うん。」


そんな、簡単な言葉を交わし合って

私はまた1人になる。

1人。

心地いい。

楽だ。

怖い。

寂しい。


とと、と。


ひとりぼっちの足音は

廊下で虚しく踊ってた。


今回。

今回、どうすればいいんだろう。

今までどうやって過ごしてたんだっけ。

今までどうやって繰り返してたんだっけ。

どんな心情で、どんな決意で。

どんな考えで動いてたんだっけ。


靴箱につき上靴を仕舞う。

外靴を取り出す。

なんて事ない所作のはずなのに

どうやって体を動かしていたのか

不意に分からなくなった。

どうにか思い出して靴を入れ替えて

きんきんに冷えた靴を履く。

それから土砂降りの空を眺められる様

靴箱に寄りかかりながらしゃがんだ。


きっと雨って泣いてるんじゃなくて

叫んでるだけのような気がした。

それが他人から見たら涙の様に映るだけで。

…なんて、訳わかんないや。


歩が、生きている。

今は生きている。

明日はどうやったら来るんだっけ。

どこからが明日なんだっけ。

明後日の迎え方が分からない。

明日の出会い方も分からない。

明日が来るのって普通なんだっけ。

どうして明日が来るのは

当たり前になっていたんだろう。

そんなの、そんなの異常だ。

毎日なんて事なく明日が来るのを分かっていて

「また明日」なんて気安く言う。

確証なんてないのに。

明日も生きているって約束されてないのに

何故か明日は来るって信じてた。

狂って信じてた。


明日が欲しい。

ただ何にもない明日が。


ずっと、ずっとずっとずっと渇望してた。

欲しがってた。

明日を。

普通を。

何もない日々を。

幸せを。


花奏「……。」


しゃがんだままうつ伏せた。

机に体重を預けて伏せる湊の姿が浮かんだ。

悪いことしちゃったな。

悪いことしちゃっているな。

特に最近。

…本当にそう思ってる?

どうせやり直す。

なかったことになる。

なら別にいいじゃんか。

…本当にそう思ってる?


悶々と同じことばかり考え直しては

同じ場所に辿り着いた。

わからないや。

どうしたらいいんだっけ。

それだけだった。

今更歩が死ぬ未来を受け入れて

何回も殺した歩の事を認めて

過ごすことなんてできない。

それは変わらなかった。

認めてなるものか。

大好きな歩を。

大好きなはずの歩を。

そんなの。


歩「…お待たせ。」


足音を鳴らさない様配慮していたのか

それとも私の耳が雨の音しか拾わなかったのか、

気づけば上から声が降ってきた。

何故だろう。

胸がきゅっと痛んだ。


歩「体調悪い?」


花奏「……んーん…。」


歩「そう。」


花奏「………。」


歩「大雨だけどさっきよりはマシかも。帰ろう?」


花奏「……うん。」


ゆっくり顔を上げると

外がだいぶ暗い顔をしてるせいか

室内が随分と眩しく感じた。

見上げると歩の顔が見えるも

逆光だからか仄暗い。


…私、この2日間に起こった事で

歩に謝った事あったっけ。


歩「ん。」


歩は手を差し伸べてくれた。

立てる?と言う代わりにん、のひと言だけ。

それでも意図は通じてた。

歩の鞄や袖口には大粒の雨が

降った痕跡が残っていて、

色が変わりきっている。

咄嗟に右手を伸ばして歩の手を掴んだ。

左手は何故か痛む気がしたから。


力を入れると引っ張り上げられる様に

その場に立った。

それから歩の傘の半分を貰う。

折り畳み傘且つこの雨の量ということもあり

1歩出ただけで肩はじとじとだった。


歩「久々じゃない?こんな雨なの。」


花奏「…。」


歩「空より酷い顔してるよ。」


花奏「…あはは、それ、誰かにも言われたな。」


歩「空より酷いって?」


花奏「うん、酷い顔してる、って。」


歩「でしょうね。誰から言われたの?」


花奏「…もう忘れた。」


歩「そっか。」


歩はこっちを見ることもなく

傘を握り腕を上げて隣を歩いていた。

身長差が故歩はちょっときつそうで。


花奏「…傘……」


歩「持ってくれない?」


花奏「あ、うん。」


歩「はい、頼んだ。」


花奏「…。」


歩「もうちょっと寄って。」


花奏「ごめん。」


歩「違う違う。あんたが外に出過ぎ。」


花奏「…私はええんよ。」


歩「は?いい加減にして。」


いい加減にして。

いつだかの記憶。

喧嘩した時、そんな感じのこと言ってたよね。

その周期は何で死んだんだっけ。

歩。

歩、歩。

歩。

…歩。

名前を呼びたくても呼べなくて。

喉の奥でつっかえてどうしても。


歩「馬鹿は風邪引くんだから優先的に傘使って。」


花奏「…いらんよ。」


歩「いる。」


花奏「…。」


歩「はぁ…なら私傘から出るから。」


花奏「なんで?」


歩「ね?そうなるでしょ?」


花奏「…。」


歩「寄って。」


ぐい、と袖を引っ張られる。

強すぎないあたり優しさが見えた。

…否。

ずっとだ。

ずっと優しさで接してくれているんだ。

歩は不器用にも程があるくらいに不器用で、

側から見たら言い方はだいぶきつい。

けど、歩は今だって優しかった。

それに暗い雰囲気になりすぎないよう

歩自身何ともないかのように

振る舞っているんだろう。

何ともない様に。


隣に歩がいた。

真隣。

ここまで近づいたことはあったっけ。

…あったね。

あったよね。

これ以上近くに。

額を寄せ合ってお互い満身創痍でさ。

夕暮れの佇む図書館で。

他の周期にも数回はあったよね。


歩「あんたってほんと身長高いよね。」


花奏「…高い方やな。」


歩「私の兄弟も身長高いんだ。」


花奏「そうなんやね。」


歩「あんたと同じ学年。どっちが高いだろうね。」


花奏「…分からへん。」


歩「それもそっか。」


花奏「…。」


歩「小津町って雨好きだっけ。」


花奏「…え?」


歩「え?だってこんな大雨の中帰るって言い出すから。」


花奏「…最近嫌いになったな。」


歩「私も雨は嫌い。」


花奏「…。」


歩「ってか嫌いってはっきりいうの珍しいじゃん。」


花奏「…そうかいや?」


歩「うん。聞いたことない。」


花奏「…私にも嫌いなもんくらいあるで。」


歩「花火の時でさえ嫌いとは断言しなかったのに。」


花奏「あんなの…たったの数回やから。」


歩「…火傷の話?」


花奏「……うん。」


歩「たったの数回さえあっちゃいけない事だと思うよ。」


ちた、ちた。

水音、足裏。

今回は珍しい事に2つの人工音。

歩がいた。


歩「あんたは自分を犠牲にしすぎ。そんでもってそれを受け入れすぎ。」


花奏「…。」


歩「…あのさ、ここで前言ってた条件とやらを使うべきじゃない?」


花奏「……条件…?」


条件。

その言葉には覚えがない。

周期内では聞いたことが無いと思う。

となればそもそも繰り返してしまう前の

記憶まで遡らないといけない。

周期で経た日数をざっくり思い返すと

もう3ヶ月以上は前のことだ。

思い出せる自信がなかった。


歩「忘れたの?」


花奏「…うん。」


歩「はーあ。覚えてた私が馬鹿みたい。」


心底残念、と言ってるみたいに

大きなため息をひとつ。

何の話だろう。

いつの話だろう。

条件?

何度思い返してもぴんとこなかった。

記憶に引っ掛からなかった。


歩「小津町さ、前に言ったの。「条件でいつか1回私の相談に乗ること」って。」


花奏「相、談…?」


歩「そ。なんだっけ。何の話をしてその流れになったんだかまでは覚えてないけど。」


ちらと隣を見ると遠くを眺む彼女の目。

そんなに前のことを

思い返しているのだろうか。

前。


歩「簡単な2択だけでもいいからさ、みたいなこと言って言ってた気もする。」


花奏「…………!」


浮かぶ秋空。

鮮明な雲の色。

相変わらず賑やかな教室内。

そうだ。

そうだった。

あったじゃんか。

確か私がこうして繰り返す前の日の記憶。






°°°°°





花奏「ならそのかわりに条件ひとつ。いつか1回だけでいいから私の相談に乗ること。」


歩「は?」


花奏「あ、今やないで。」


歩「いや、それは分かるけど何その条件。」


花奏「呑んでくれる?」


歩「簡単な2択とかなら。」


花奏「あはは、やった。」





°°°°°





花奏「……ぁ…った。」


歩「ん、思い出した?」


花奏「うん…う、ん。」


歩「いつか1回小津町の相談に乗ること…そのいつかってさ、今なんじゃないの?」


使い道、ここ以外ないでしょ?

そういった視線をひとつ

こちらに寄越してきた。

歩は。

歩は、いつもそう。

どうでもいいような会話を

ひとつひとつ丁寧に覚えている。

忘れていいものほど大切に。

日常を大切に。

私との、人との会話を大切にしている。

優しさなのか癖なのかまでは

私には区別がつかないけれど、

たった今心配してくれているのは

嫌と言うほどに伝わってきた。

伝わってきたから。


花奏「…傘、持つの変わってや。」


歩「は?今?」


花奏「お願い。」


歩「…ま、いいけど。」


焦っていたのか無理矢理のように

傘を押し付けた。

肩は既に水が溜まり始めていても

おかしくないだろう。

いや、まだかな。

どうだろう。

色は変わり切って濁っているのは

容易に視認出来た。


たった今心配してくれているのは

嫌と言うほどに伝わってきた。

伝わってきたから。

だから。


私は隣には居れないって、思った。


歩が転ばない程度に

背中を軽く押してやる。

するとよろけながら前のめりになるも

なんとか体制を保ち転ぶことはなかった。


さぁー。

雨が私をこれでもかと劈き出す。

そう。

そう、そう。

そうだ、これだよ。

私にふさわしいのはこんな残念な結果だ。


私は彼女の背を押した場からは

1歩も動けずに居た。

否、動かなかったんだ。


歩は体制を整えた後

きっ、と睨むように私を視線で刺してきた。


歩「ちょっと、小津」


花奏「相談。聞いてや。」


歩「先傘の中に入ってからにして。」


花奏「嫌や。なら話さへん。」


歩「何言って」


花奏「いいから。今くらい聞いてほしいねん。」


歩「後で沢山聞くから。」


彼女が寄る。

夜に惑わされかける。

その甘美な言葉に片足が浸るも我慢して

1歩、彼女から遠ざかる。

一緒にいちゃいけない。

私なんかが、歩といちゃいけない。

彼女には未来がある。

あんな残酷じゃない、

もっとずっと素敵な未来が。

それを私が壊している。

そうとしか思えなくなってきた。


歩「なんで…。」


花奏「今だけ。どうせ、忘れ…るから。」


歩「…。」


寂しい。

寂しいよ。

けど、彼女を突き放して、彼女を拒絶して

私は1人の2日間に戻る。

歩が生きる明日に辿り着くまで1人で戻る。

それがきっとあるべき周期。


だから。

最後の相談だって直感的に感じた。

歩に対する最後の相談。


花奏「……どう、やったら幸せに、なれるん…?」


歩「…っ!」


ざぁ、ざぁー。

雨がより一層強くなる。

私はいつか何時何分に前が強くなるとか

はっきりした時間を覚えてしまうほどに

繰り返すんだろうか。

そこまでは繰り返したくないな。


心地よく雨が浸透する。

折りたたみの傘をさしていた彼女は

目を見開いて私を眺めていた。


花奏「も、う…分か…らへん…。」


歩「…幸せ…難しいよね。」


花奏「……。」


歩「いつの間にかなってるもんだと思うよ。幸せって。」


花奏「…なろうと思、って…なれる、もんやない…か。」


歩「なれるよ。あんたが今まで頑張ってきてこの高校入ったのだって幸せのひとつ。小津町自身が掴んだ幸せでしょ。」


花奏「……。」


歩「もっと簡単なことでもいいと思うよ。」


花奏「…簡単……って…。」


歩「ご飯が美味しい。空が綺麗。よく眠れた。沢山話せた。そんなのでもいいじゃん。」


そんなのでもいいじゃん。

歩は肩をすくめて、

困ったように微笑んでいた。

初めて見た表情な気がした。

よくよく見れば彼女の肩も濡れそぼり

朽ちた色に成り下がっている。


少し前の私ならそんなことで

幸せを感じていたんだろう。

小さなことで幸せを感じられる

幸せな人間だったと思う。

でも今は生きてることすら幸せに感じない。

いつの間にか幸せになるどころか

いつの間にか幸せを忘れてしまった。

不幸に鈍らされたのだ。


もう分からない。

わからなかった。


大好きなはずだったあなたを

殺し続けて今ここに立っている事が

正しいのか幸せなのか

分からなくなっていた。


しとしとと雨が浸透していき、

鞄の中身は愚か骨の髄にまで水が

染み出しているのが伝う。


歩「……あのさ。…私は小津町と」


花奏「ごめん。」


咄嗟のこと。

彼女の話を遮るように、

また逃げるように声が漏れた。

本音だ。

きっと本音だった。


歩「それは、何に対して?」


花奏「……ご、めん…。」


歩「……。」


花奏「…………ご、め……な、さ………ぃっ…。」


歩「………。」


私には謝罪の言葉しかなかった。

今までたくさん苦しめてごめんなさい。

殺してごめんなさい。

助けられなくてごめんなさい。

迷惑かけてごめんなさい。

心配かけてごめんなさい。

一緒にいたいのにその思いとは反対に

怒らせるような事だってした。

何度も何度も殺した。

歩を苦しませた。


花奏「……ごめ、…ん…なさいっ………ご、めんっ……。」


歩「……っ。」


花奏「ごめんなさいぃっ…。」


いつからか。

下を向き手で顔を覆い、ねこ背になりながら

今までの分の懺悔をするように謝っていた。

雨だか涙だか分からない液体が

頬から頭から足まで流れ出す。

視界は真っ暗だった。

未来も真っ暗だった。

手で遮られた雨音の世界の中。


ふと。


花奏「…!」


首元を巻く、感触。

何が起きたのか分からなかった。

けれど動けないまま、

染む温かみを感じていたんだろう。

歩の腕、のようだった。


歩「私は、小津町と居れるだけで幸せだよ。」


身長差があるから、かな。

下に引かれるように抱きしめられてて。


歩「あんたが辛いなら隣にいる。」


花奏「……い、や。…嫌っ…」


歩「嫌でも何でも私が放っておけない。放っておきたくない。」


花奏「な、んで……っ!」


歩「何でも何も…あんたが今まで私にしてきてくれた事でしょ。」


花奏「…そんな、こ、と…してない…っ。」


歩「してた。本人の私が言うんだから間違いない。沢山救われた。」


花奏「何も、し、てな…い……っ!」


歩「小津町が本当に何もしてなかったんなら、今あんたにこんなことしてない。」


花奏「…っ。」


歩「無駄じゃないよ。全部。」


花奏「…ちが、う…。」


歩「…何が違うの?」


花奏「わ、たし…最低なこ、とをずっと」


歩「最低じゃないよ。」


花奏「ちがう、違う…!」


違う。

違うんだ。

違うんだよ。

顔から手を退け歩を引き剥がそうと

彼女の肩を押す。

離れて。

その優しさが辛いから。


けれど、彼女は更に力を強めるだけ。

首元から体温は離れてくれない。

力が入らない。

もう、疲れた。

ずっと心身共に疲れていたのだ。

きっと。

雨に打たれて冷静になって

漸く気づいてしまったのだ。

気づかなければよかったのだ。


歩「…あのね、私あんたにされたことの中で嫌って思うのはひとつもなかった。」


俯きながら彼女が離れるよう

肩を押していても

意味などないに等しかった。


歩「そもそもあんたにどんな酷い事されても私、多分許すよ。」


花奏「…っ。」


歩「強引だなって思うときは何度もあった。…ってかそればっかり。」


先が見えないほどの豪雨の中

彼女の声だけが耳に届く。

雨の音は今だけ静かに鎮座している。


花奏「ゃだ…いや、嫌っ…。」


歩「ちゃんと聞いて。」


花奏「嫌、私…わ、たしは」


歩「強引だけどあんたはいつも、私のこと気に掛けてたでしょ。」


花奏「違」


歩「違わない。大切にしてくれてるって嫌な程わかってた。」


何が言いたいの。

私は何もしていない。

なのに。


歩「だからこそ、あんたが1歩引いたところから関わってるのも、大切な事程言えないってのも知ってるつもり。」





°°°°°





歩「あんたってさ、あくまでも自分から話す事ってしないよね。」


花奏「そう?」


歩「そ。こっちから問い詰めて漸く答えてる感じする。…ってか今そう感じた。」


花奏「ふうん。」


歩「ま、そう思っただけ。」





°°°°°





私の過去を知って欲しくない。

その思いだってきっと

知られていたんだろう。


歩「今まであんたの頑張りも葛藤も過去も色々見てきた。」


ぐ、と更に彼女の腕に力が入る。

普段は棘のある言葉しか言わない歩が

今はこんな。

…今の私に対して優しく棘だらけの言葉を

投げかけてきていた。


歩「小津町のこと、ちゃんと見てるから。」


花奏「あ……ぅ…ぁ…」


歩「頑張ってるよ。小津町はいつも頑張ってる。私が見てる、気づいてる。」


彼女が私を抱き寄せると同時に

私は力が入らなくて

つい膝から呼吸を忘れた地面に膝をつき

溺れたコンクリートに心を寄せた。

それでも尚首元やら背中やらに

人間の体温が優しく付き纏っていて。

ぎゅって体を寄せられた。

視界の隅で逆さになりながら

揺れる折り畳み傘が見える。


きっと、雨だから。


歩「私、わかってるよ。だから大丈夫。」


これは紛れもなく

私が待ち望んでいた言葉だった。


こんなに大切な歩の事を

どうして何度も失くせたんだろう。

それで大丈夫なふりをしてきたんだろう。

どうして彼女を

信頼し続けられなかったんだろう。

どうして信じられなくなっていったんだろう。

どうして突き放すようなことを

しようだなんて考えちゃったんだろう。

どうして。

どうして歩はここまでしてくれるんだろう。

どうして抱きしめてくれてるんだろう。


ごめんなさい。


あなたの信頼に応えられなくて

ごめんなさい。


花奏「ご、めんっ…な、さぃ…っ…。」


歩「泣きたい時は思う存分泣けばいい。涙が枯れるまで泣いて、明日から頑張ればいい。だから小津町ー」


花奏「ぇ…ぅ……ぅん、う、んっ…。」


呼吸がうまくできない。

生きづらい。

息づらい。

それなのにたった今、

幸せだなんて思ってしまった私は

卑怯者だろうか。


ぎゅーっ、とさらにきつく距離を縮められた。

耳元で雨と息が交差する。

掠めて霞んで、くすぐったくて幸せだった。


歩「負けるな。」





°°°°°





「負けるな。」





°°°°°





2年前と同じ言葉のはずが

今日のはやけにか細く

強かに影を残していった。

雨の音が深く深く私を刺す。

刺す、刺す。

ずたずたになっても尚。

飛び降りようと心に決めて眺めた

あの教室からの景色が再生される。





°°°°°





歩「待って。」


「…。」



---



歩「そこ、先生たちが言うには出ちゃいけないらしいけど。」


花奏「…。」





°°°°°





そうだ、不意に思い出した。

明日だった。

歩と出会ったのは、明日。

11月12日だったな。


たったひと言。

その優しさが嬉しかった。

今すぐにでも泣き出したかった。

その優しさに救われた。

歩に抱きついて弱音を吐露したかった。

私どうしたらいいか分からないって

本音をぶちまけて楽になりたかった。

その優しさが辛かった。

頼れない自分がいた。

それならいっそ罵倒してくれた方がマシだった。

いっそ殴って見捨ててくれた方が楽だった。


雨の中、私の鼻は彼女の匂いを

しっかりと掴んで離さない。

安心した。

プレッシャーになってしまっていた。


私は散々泣き喚く中

しちしちと雨は

私達を悉く殴り劈いていった。

いつまでも彼女の体温は離れなかった。











花奏「…。」


…。

…。

時間が過ぎるのを待つだけ。


花奏「…。」


シャーペンだって落とさない。

びー、と伸びた黒い線も消さない。


花奏「…。」


先生の話なんて毛頭聞いていない。

運動場で体育をしていた人たちが

騒ぎながら戻ってくるのだって

なんら気にならない。


花奏「…。」


変わらない。

変わらない日常。

そう。

変わらなかった。

何もかも変わらなかった。


花奏「…。」


努力した。

した。

したと言っていいと思う。

これまでの10何回かの、

下手すれば20何回目かの今日と明日。

単純計算したって1ヶ月分は越してる。

しかも入院した等のイレギュラーもあって

2、3ヶ月はもう経っているだろうな。

4ヶ月目に入っただろうか。

どうなんだろう。


それでも。

それでも歩を助けたい。

あの雨の中私を抱き寄せて

「ちゃんと見ているから」と

言ってくれた彼女のことを信じたい。

きっとどこかで今も見てくれている。

いつかその頑張りを褒めて欲しいなんて

濁った考えが湧いた。

褒めて欲しいがためにやるんじゃないのに。

ただ助けたいだけ。

ただ当たり前のことをしているだけ。

それだけ。


花奏「…っ。」


なのに。

また脇腹が、心が痛い。

この日に、今日に戻ってきてしまえば

いくら前の周期で歩と近づいたって

なかったことになるのだ。

何にもなかったことに。


私だけが全てを知っている。

独壇場だった。

観客もいない中1人で淡々と

踊り続ける操り人形のよう。

歩を救うか私が諦めるか。

その白黒がつくまで私は。

私は。

1人、か。


花奏「…さ……みし、ぃ………か…。」


歩との雨中の話を経て

私の中に潜むこのどす黒い感情は

収まるどころか膨れ上がっているようだった。

それでも1人。

他の人を頼れない。

歩の言った通りだ。

私は友達に、仲間に親友に対して

大切な事程言えないんだ。


花奏「…。」


きーんこーん…。

その時、2限の終わりを

告げるチャイムが鳴った。





***





湊「花奏ちゃん寝てたね、珍しい。」


花奏「…なあ、湊。」


湊「ん?どうしたんだってばよ。」


花奏「…。」


2時間目が終わり各々が次の授業の準備や

将又どうでもいいことを話している。

徐に後ろの席から声がかかる。

ふと、湊の名前を読んでみた。

だからってどうにかなるわけではないが

これで未来は分岐したのかもしれない。

こんな些細なことの繰り返しなんだろうな、

人生って。


湊「なあによう、黙っちゃってー。」


花奏「うーん、なんか話そうと思ったんに忘れてしもたわ。」


湊「あーそれ、うちもよくやる。」


花奏「そうなんや。」


湊「うん。片手に醤油持ちながら空いた手で醤油探すのも一緒だよね。」


花奏「微妙に違うと思うで。」


湊「ありゃ、そうかい?」


花奏「あーでも、忘れてるのは一緒か。」


湊「おお、そうかいそうかい。」


ほんの少しばかりしょんぼりした

顔の彼女を見て

咄嗟に一緒だよねと答えれば、

湊はぱあっと明るくなって

納得したようにうんうんと頷いていた。


私から湊に話しかけたのって

いつぶりだっただろうか。

前の周期やその前だって

決意が煮えたぎるが余り

思考に思考を重ねたくて

結局屋上手前の階段へ篭っていた。

その時の湊の顔、どうだったっけ。

どんな顔をしていたっけ。

案外いつものように興味なさげだったかな。

それとも心配していたかな。

どうなのだろう。

もう同じ周期などないのだ。

もう同じ日など来ないのだ。

同じ日を繰り返しているはずが

いつも微々たる変化だろうか何だろうが

必ず変わった今日と明日になる。


授業の内容も起こってしまうイベントも

何もかも同じはずなのに

違った今日と明日を繰り返している。


湊「そういやさ、次の授業中丸先生だよ。どうするよ。」


花奏「どうするも何も…授業受ければええやん。今日宿題してきてるんやろ?」


湊「むう、そうだけどさ。なんかこう、心にくるものがあるじゃん。」


花奏「…?」


湊「当てられるかも、当てられるかも…わー当てられたー!みたいな。」


花奏「それって心にくるん?」


湊「唐突なものは心臓に悪いよ。地震雷火事親父とか。」


花奏「あー…。」


それと、事故…とか。

確かに私は今歩が死ぬことを知っている。

知っている上で色々行動を変えている。

今ここまで気持ち的に楽な気がするのは、

前程まで追い詰められていないのは

紛れもなくあの雨の日がきっかけだ。

歩と帰ったあの日のこと。

あの日からはもう既に

1週間程が経過してしまっただろうか。


その1週間だって変わらず歩を助けようとして

変わらず歩を救えなかった。


今、よぎってしまった。

こうやってゆったりと話すことさえ

歩からすれば憎いのではないか。

罪も同義なのではないか。

歩はちゃんと見てると言っていた。

今になって恐ろしくなり

耳鳴りがし出して心臓が縮む。


湊「…?花奏ちゃん大丈夫かい?」


花奏「えっ…?」


湊「地雷踏んじゃった…?」


花奏「あ、ううん。全然。ちょっと冷蔵庫の中身思い出してただけや。」


湊「なんだいそれは。何と家庭的な。」


花奏「あはは、そんなんやないって。」


今だけは。

今だけは逃げちゃだめだろうか。

湊との何も考えないでいい

この平穏を存分に味わっちゃだめだろうか。

許して欲しい。

今だけは。

こんな幸せを感じていたい。


なのに、心中に落ちる影の濃度は

益々高くなるばかり。

思い出してしまったが最後。

罪悪感の呼吸はまた再開してしまった。

束の間の休息だったんだろうな。


湊は鋭く観察をしながら

私と話しているようにも見えた。

湊には全て筒抜けなようで、

全てを見られているようでふと怖くなった。

私の犯した今までの過ちが

ばれているのではなかろうか。

ばれたら何故まずいのか。

何故。

それは分からなかった。


湊「そーだ、今日の放課後暇かい?」


花奏「ううん、ごめんな。」


湊「ありゃー残念丸。」


これはまたどこかで

聞いたことがあるような台詞を

机にぽとりと手向ける。

いつ聞いたんだっけ、残念丸だなんて。

湊は湊で変わらないままだから

持ってるワードセンスも勿論

そのままなわけで。

更新されない日々とは

こういうものなのかと悲しくなる。

こういうものだったと

今更ながらに改めて知る。


湊「どーしても駄目かい?」


花奏「また今度にしような。」


湊「うちは今じゃなきゃ意味がないと思ったけどなー。」


花奏「え?」


湊「今を全力で生きるタイプの湊さんは今だっ!…って思うのだよ。」


花奏「どういうこと?」


湊「花奏ちゃん、ちょっぴり顔つきが違うなーって。」


花奏「…そうかいや?」


湊「何となくね。うちの感。」


花奏「…。」


厄介だな。

けど、この苦しさを知ってほしい

気持ちも大いにある。

なんなら溢れ出そうだ。


辛いことがあったんだ。

大切な人が死んでしまうの。

それを阻止するために何度も何度も

同じ日を繰り返して、そして失敗するの。

彼女の死を何度も見ているの。

なのに私は何もできないの。

助けて。

そう。

そうだ。

助けて、と。

ひと言。

たったひと言を言いたかったんだ。


そこで点と点が線になったかのような

感覚が脳を伝う。

廊下では移動教室の為に歩く学生らの姿や

ただふざけ遊ぶ学生らの姿が流れる。

四季のようにあっという間に

人間は過ぎ去って見えなくなっていった。

それらは時間と日々と同じように

戻ってくるはずなどなかった。


湊「花奏ちゃん。」


花奏「んー?」


ふと湊の方へ顔を傾げると

ばっちり目があってしまう。

歩といい湊といい、

大切な時に視線を外さない人達ばかり

周りにいる気がする。

逃げ場がなくなってゆく。

直感で感じたことに畏怖し

思わず目を背けた。

不自然だっただろう。

側から見れば恋する男子学生のように

機敏だった自信さえある。

けど、そんな生温い優しい感情じゃない。

怖い。

怖いんだ。


湊「話せなさそうなら話さなくていいんだよ。」


花奏「…っ。」


湊「その代わりね、ひと言だけでもいいのさー。」


花奏「…。」


湊「例えばね、辛いーとか、苦しいーとか、さみしいー、とか。今日電話しよーとか一緒に帰ろーでもいいってわけよ。」


湊は珍しく

…否、何度もこうやって寄り添ってくれていた。

ひと言だけでも。

それこそ助けて、と。

それだけでもいいんだろう。

けど、けれど、これは私だけの問題だ。

私情だ。

だから巻き込みたくない。

巻き込みたくない。

話したってどうせ次の周期になれば

なかったことになる。

なら話したっていいのではないか?

そう、何度も思った。

しかし私は覚えている。

ずっとずっと覚えている。

その時の罪悪感が別途で募っていくのは

なんだか嫌だった。

もう背負いたくない。

それが素直な感想だった。


花奏「…ごめん。」


湊「謝らなくていーのに。」


花奏「だって…」


湊「だっても何も、どこに謝る理由があったのさー。湊さんにゃ見つけられなかったよー。」


ぐーっと背伸びをしながら

欠伸までしている。

言葉尻は随分とふやけてしまい

なんて言っているのか聞き取りづらかった。

関節のなる音が机に降る。

ひとしきり伸び切ったのかまた机と仲良し。

元の体制へ戻っていった。


花奏「…。」


湊「多分ね、細かいとこまで気にしすぎだよ。」


花奏「…。」


湊「世界は広いよー?人間って大体器大きいよー?」


花奏「やから大丈夫、と?」


湊「そゆことー。」


花奏「何も理由になってへんけど…」


湊「フィーリングでいーのだよー。海見てたら悩みなんてちっぽけに思えるってやつ。世界は広いし人間の器も広いよー。」


花奏「…よう分からんかったわ。」


湊「え!なんでー。湊さんショック・オブザ・ショックだー。」


目を見開いて本気で残念がった後

にんまりと目を細めているようだった。

湊の言っていることは半分本気で分からないが

半分はなんとなく分かった。

とりあえずは今悩んでることって

意外とそんなに重大なことじゃないかもよ?

…と言いたいんだと思う。

そして、人様に迷惑かけるななんていうけれど

支えあってこそ人間ってもんでしょ

…みたいなことが言いたいのかな。

湊節の聞いた言葉は

難解且つ深いものが多い気がした。

多分、私がこんな状態だからだろう。

普段の私だったなら

こんな話は出てこないはずだから。

…11月11日より前はそうだったから。


湊「無視せずね。次中丸先生だし嫌だったらサボっちゃいな。」


花奏「ありがとな。」


湊「いーのよいーのよ。どんとまかせなさい。」


花奏「そういや湊の宿題、間違ってるとこあったで。」


湊「え、まじ?どこどこ?」


花奏「えっとな、68ページのー」


今、私には辛いことが起きている。

歩がこの後死んでしまう。

なのに今できることをなんて思って

湊の間違っていた問題を指摘していた。

お門違いにも程がある。

けど、出来ることを。

今出来ることを積み重ねていけば

もしかしたら変わるかもしれない。

そんな淡い期待を抱いて。


湊はといえば、私が指摘したところの全てを

私の言った通りに修正していった。

これで湊はどこを当てられたとしても

間違いなく答えれるだろう。

…だから、なんだ。

これをしたからといって

歩の死ぬ未来は変わらないのに。


いつか過去のように

何も考えずにただ日々を過ごしてみたい。

それが今の私の願いだった。

いつからか根付いた願望だ。

欲だ。

なんとも独りよがりな欲だった。


湊「すんごい助かったよー。ありがとね。」


花奏「ええんやってこれくらい。」


湊「湊さんアンパンマンみたく最強になった気分だよ。」


花奏「顔濡れたら終わりやん。」


湊「弱点あってこそのヒーローでしょー。」


花奏「無敵派やないんや、意外。」


湊「チートヒーローもかっこいいっちゃいいけどさ、人間味ないじゃん?」


花奏「人間味…か。」


湊「やっぱ強くて弱い存在じゃないと応援しがいがないよね。」


花奏「そういうもんなん?」


湊「うち理論はそう。」


花奏「ふうん。」


私にはあまりよく分からない理論を

机やら椅子やら教室に広げた直後、

中丸先生の姿が見えた。

湊は明らかに嫌そうな顔をしていたけれど

この風景だって何度も見た。


変わった気になっていたけれど

何も変わらない11日だ。


何も、変わらない…。





°°°°°





花奏「見ての通りぼんやり。」


歩「ああ、ほんと見ての通りじゃん。」


花奏「今鼻で笑ったやろ?」


歩「ふっ。」


花奏「あー、わざとやん。」


歩「はいはい、わざとですー。」





°°°°°





何故、なのだろう。





°°°°°





歩「………ぁ…………ぁ…ぇ…………ぁ…」


花奏「何、歩、歩っ!…分かる?私やで、花奏やで?」


歩「……………ぃ…」


花奏「歩、大丈夫やから。すぐ救急車、きてくれるからっ!」





°°°°°





どうして。






°°°°°





花奏「それは」


歩『なんか理由があるんだろうと思えば言えないの一点張りでしょ。』


花奏「だってそうとしかー」


歩『もう勝手にして。』





°°°°°





どうして、上手くいかないんだろうな。





°°°°°





歩「てか、顔色悪くない?」


花奏「…っ。…そうかいや?」


歩「うん。なんか白い気がする。」


花奏「ええやん美白で。」


歩「は?はいはい真っ白美人ですねー。」


花奏「なぁーんでキレとるんよー。」


歩「キレてない。」


花奏「…あはは、もー困ったなぁー。」





°°°°°





今までの周期の悲惨なこと、

何気ない会話、歩の表情、声、気持ち。

何故今なのか。

次々と浮かんでしまっては

留まるところを知らないの。





°°°°°





歩「小津町のこと、ちゃんと見てるから。」


花奏「あ……ぅ…ぁ…」


歩「頑張ってるよ。小津町はいつも頑張ってる。私が見てる、気づいてる。」





°°°°°




あぁ。




°°°°°




「負けるな。」




°°°°°





花奏「…ごめん、湊。やっぱ授業抜けるわ。」


湊「え?あ、うん。それでいいと……。」


中丸先生が生徒達と

和気藹々と話している声が

霞がかって耳に届く。

狭間には学生同士の話が集まっていた。

ふと懐かしいような匂いが鼻をくすぐる。

これは湊の匂いだ。

懐かしいのか否かどうなんだろう。

前が見えない。

目にまつ毛が入ったのかな。

微妙に痛い。


ぱたっと止んでしまった湊の返事は

もう続くことはなく、

その代わりに彼女は私の手首を掴んだ。


湊「…花奏ちゃん、うちも行く。ほら、いこ。」


花奏「…えっ……?」


湊「いーからさ。ほれ、チョコは持った。」


ブレザーのポケットから

いつから忍ばせていたのか定かではない

銀紙に包まれたチョコを

ひとつちらりと見せてくれた。

コンビニで売っている箱タイプのチョコの

中身だけ持ち歩いている感じだろう。

甘く苦い香りがほんのり届いた気がする。


花奏「な、なんで湊まで」


湊「自分のこと、もうちょっと客観的に見てからいってけろ。」


花奏「…?」


湊「行こう。」


そうひと言放ったと思えば

私の手を無理矢理に引き

クラスメイトの目を引きながら

教室を後にした。

無理矢理に連れていかれているせいで

手首が千切れそうな感覚にまで陥る。

物凄く強い力で、絶対に私を離すまいと

考えていることが嫌でもわかる。

ふと、頬に違和感を感じた。

乾いて硬直していくような違和感だった。


湊「どーこいこっかな。2人になれる場所がいいよねー。」


花奏「…なら、ひとつ上の階で廊下をまっすぐ行ったところにいいとこあるで。それか屋上手前。」


湊「まあじ?んーじゃあ、前者の方に行こ行こ。案内してちょ。」


花奏「分かった。」


相変わらず優れた判断力で決めた後、

私はそっちの方向へ進んでいった。

かつていつかの周期で

麗香に教えてもらった穴場だ。

確か夜を過ごそうと思って失敗した場所。

校舎の隅に寄るほど喧騒は遠のき、

段々と校舎自体が古くなっているような

感覚が身に纏いだす。

不気味だった。

ただただ不気味だった。


湊「この突き当たりを?」


花奏「左。」


湊「の、1番奥?」


花奏「そう。左側な。」


湊「ここねー…怖すぎるでしょ!」


湊は扉を見るや否や

そう声を抑えつつも言っていた。

校舎が古い上この辺りは

改装していないのか

扉は錆び放題で酸化しまくっている。

不気味だし気味が悪い。

できれば近づきたくない場所とさえ

思ってしまう時があったくらいだ。

だけど、1番安心して居られる。

大声さえ出さなきゃ誰も来ないのだから。


湊か扉を開ける時、

運良くか悪くかチャイムが鳴った。

3時間目の始まる合図だ。


湊「ほれ、早く早く。」


手早く入った彼女から

小さく手招きをされる。

神隠しに合うような気持ちで教室に入り、

狭い狭い部屋へと入ったのち

後ろ手で扉を静かに閉めた。

久しぶりに戻ってきた。

麗香の顔や動きが浮かぶ。

あの猫のような目つきに

ふらっとどこかに行ってしまいそうな雰囲気。

あの時はどんな話をしたんだっけ。


手持ち無沙汰だったのか癖なのか、

頬を強めに拭うように擦った。

水分こそ付着しなかったものの

違和感だけがそこにあった。


湊「せーんまいね。」


花奏「でも立地はええで。」


湊「だねー。」


足元に紙が落ちていたのか

湊はぎこちなく足をばたつかせた後、

かつて麗香の座っていた椅子に

遠慮なく座った。

微かながらに埃が舞う。

あの日とは違った角度から

仄かに光が差し込んでいる。

秋だった。

まだ、秋だった。

また秋だった。


湊「にしてもさ、よくこんなところ見つけたね。」


花奏「前友達に教えてもらってん。この部屋は鍵壊れてるから入れるよって。」


湊「へぇ。そういえば花奏ちゃんってクラス以外でも結構繋がり持ってるよね。」


花奏「クラス以外…あぁ。」


多分だけど歩をはじめとする

様々な不可解な出来事に

関わることとなってしまったみんなのことを

指しているのだろうか。

そうでないのだろうか。

湊の意では少なくとも歩や麗香は

クラス以外での繋がりとして

含まれそうだけど。


湊「でもうちさ、花奏ちゃんがその人達と話してるところって今思えば見た事ない気がするんだよ。」


花奏「まあ、いつも私から歩やみんなの教室行くしな。」


湊「そっかそっか。片思いは大変だねー。」


花奏「放課後とかは向こうから来てくれたりするんやで。偶にやけど。」


最近はそんな事起こらなくなってしまった。

最近とはいえど11日以降というのが正しいか。


ぴい、と小鳥が鳴くと共に

風が勢いよく起立したかのように吹く。

学校の周りに植えられていた木が

一斉に喋り出した。

対して部屋の中の埃は

未だにほろほろ舞うか隅に蹲るのみ。


湊「あ、そうだ。チョコ食べる?」


花奏「ううん、いらへんよ。」


湊「いーからいーから。甘いもの摂ってたら辛いことも忘れるって。」


花奏「でも今は本当に」


湊「じゃあ持っとくだけ。ね?こんな沢山あってもポケットの中でふやけちゃうからさ。」


銀紙に包まれた小さなチョコをひとつ

掌に乗せてこちらに伸ばしていた。

受け取れ。

さもないとどうなるのか分かってるのか。

とまで聞こえてきそうな湊の眼光に屈して

恐る恐る手を伸ばした。


遠くから先生だか生徒だかの

声が聞こえる気がする。

音楽をやっているのだろうか。

リコーダーの音もしている気がした。


花奏「…じゃあありがたく貰うことにするわ。ありが」


湊「あのね。」


ぱし。

チョコを取ろうとした手は

チョコを間に挟むようにして

湊に手を握られてしまった。

冷たくなった銀紙の質感が鈍く掌に染む。

驚きのあまり手を引こうとしたが、

どこからこんな力が湧くのだろう、

また離せない程の強さで握ってくる。

彼女の手はチョコを包んでいた

銀紙より大層冷えていた。


花奏「…!」


湊「花奏ちゃん。」


花奏「…離して。」


湊「うちね、花奏ちゃんの力になりたいんだよ。」


花奏「それは分かって」


湊「分かってない。」


彼女は珍しく声を荒げて、

でも授業中ということを考慮してか

音量は物凄く小さく私を説得していた。

私に話しかけていた。

他の誰でもない私だけに。

冷たい湊の手とは対照的に

私の手はどんどん暖かくなっていった。

変に手汗まで出ているのがわかる。


湊「花奏ちゃんは今、自分がどんな心境でどんな状況にいて、どんな影響を受けているのか分かってない。」


花奏「な、何。どうしたん急に。」


湊「急じゃないよ。」


花奏「急やって。普段の湊ならこんなことせんやろ?」


湊「しなかったよ。花奏ちゃんが苦しくなかったならしなかった。」


花奏「いつ私がそんなこと言ったん。」


湊「言葉では言ってない。でも目がそう言ってる。」


花奏「湊は考えすぎやって。千里眼でも持ったん?」


湊「確かにうちは人一倍敏感なところはあるかも知れない。でも今の花奏ちゃんの状態が良くないことなんて誰でも分かるよ。」


花奏「誰でもて。」


湊「本当に気付いてないの?それともフリなの?」


花奏「な…んの話なん?」


湊はどこか遠回しに伝えている気もするけれど

それ以上に彼女がこんなにも

正面から言葉を投げかけていることに

驚きを隠せなかった。

いつもへらへらしていた彼女だ。

授業はある程度出席しているものの

ほぼ眠っている彼女が、だ。

普段は見ない姿だったからか

責められている気がしてならなかった。


湊は突如手をぱっと離し、

チョコがお互いの手から落ちた。

虚しく短く、部屋に響き渡るも

日々が変わるにはどうも足りなかった。


花奏「あっ…。」


慌てて貰ったチョコを拾うと

幸か不幸かチョコは

溶けても割れてもいなかった。

銀紙に包まれているし大丈夫。

そう思ってそそくさとポケットに突っ込む。


湊「落ちてないやつに変えるよ。ほら。」


花奏「ううん、ええんよ。」


湊「…そっか。」


湊は何を悟ったのか諦めたように呟いて、

新しく取り出していたお菓子を

元いた場所に仕舞っていた。


湊「…花奏ちゃんはさ、変わっちゃったの?」


花奏「…どういうことなん?」


湊「自分で気づけない程麻痺しちゃったの?」


花奏「さっきから訳分からん事ばっかり…何が言いたいん。」


湊「…。」


おかしい。

今日の彼女は…いや、

今回の、今周期の彼女は何かがおかしい。

何故。

何故なんだろう。


…飲み物を手にして

はしゃいでいた頃の湊とは大違いだ。

あの時の彼女の表情や声は

ほぼ薄れ切ってしまっている。


湊「さっき泣いてたんだよ。」


花奏「え?」


湊「泣いてたの、花奏ちゃんが。」


花奏「…私が?」


唐突な湊の言葉に

ふと息が止まる。

泣いていた?

私が?

いつ?


疑問は次々と浮かぶのに

答えばかりが浮かんでこない。

手持ち無沙汰だったのか癖なのか、

頬を強めに拭うように擦った。

もう違和感は殆どなく、

肌が摩擦して微々たる痛さのみ

頬に残ってしまった。


湊は。

湊の目は、怖かった。


湊「そうだよ。それで無理矢理だったけどうちも授業抜けたんだ。」


花奏「…。」


湊「花奏ちゃんを1人にしたら、それこそ消えちゃいそうな感じがしてさ。」


花奏「そんな事せえへんよ。」


湊「説得力がないんだよ。今だけは花奏ちゃんの言う大丈夫とかの言葉は信用できないな。」


花奏「…そう言われても」


湊「今までずっと気づけなくてごめんね。」


花奏「…。」


…。

違うよ。

違うんだよ湊。


そんな心の中の呟きは

感情の荒波に呑まれて消えていった。


湊「花奏ちゃんの事、なんでもわかってるつもりでいた。こういう性格なんだろうなとか、こういう時ああいう行動をするだろうなとか。」


花奏「湊…。」


湊「強い部分ばかり見せるもんだから鵜呑みにしちゃったみたい。」


花奏「…違う、ずっとやない。」


湊「…?」


花奏「ずっと…辛かったんやない…違う、違っ…。」





°°°°°





花奏「ゃだ…いや、嫌っ…。」


歩「ちゃんと聞いて。」


花奏「嫌、私…わ、たしは」


歩「強引だけどあんたはいつも、私のこと気に掛けてたでしょ。」


花奏「違」


歩「違わない。大切にしてくれてるって嫌な程わかってた。」





°°°°°





何を話しても歩との会話が

浮かび上がってくるのは何故だろう。

思い出すたびこんなにも

心が苦しくなるのは何故だろう。

ぎゅうと心臓が軋んで音をあげている。

痛い。

とてつもなく痛い。

脇腹も心も何もかも。

痛い。


花奏「ぁぐっ…!」


痛い。

脇腹が痛い。

刺されてもいないはずの部位が

今刺されたかのように

じんわりと痛みが侵食する。

遂に頭がおかしくなってしまったのか。


蘇ってしまう。

あの記憶らが脳を蝕んでゆく。

もうやめて。

もう離して。

もう私に付き纏わないで。

もう私達を自由にして。


湊「花奏ちゃんっ!?」


周りの机やら椅子やらの隊列を

崩すかのような勢いでふらつき、

突っ立っていたのに

いつの間にか視点は低くなっていた。

咄嗟に脇の下に腕を差し伸べられ

ゆっくりと床に膝をつくも

痛みが引くわけでもなかった。

しわのついた制服には

全くもって血など滲んでいない。

なのに。


湊「花奏ちゃん、しっかり!ねぇ…!」


花奏「痛い…ぃたっ…」


湊「どこが痛いのっ!?」


花奏「ぁ…いだい、いだ、いっ…。」


どこが、と問われているのは

耳に届いているのに

あの日々の叫喚だけが木霊して

湊の言葉の意味が理解できなかった。

痛い、痛いと繰り返しながら

血に塗れているはずの脇腹を

必死に抑えることしかできなくて。


痛い。

いた、い。

助けてほしい。

助けて。

ほろ、ほろ。

床に水滴がいくつか降った。

私はまだ雨漏りだとしか考えたくなくて

視界が歪んでいる事実から

また目を逸らした。


湊「辛かったら横になって!すぐ保健室の先生呼んでくるから待ってて!」


花奏「ゃだ…いづっ…や………いが、な…いでっ…」


湊「すぐ戻るから。」


湊は私の肩に手を置いて吠えるように強かに、

でもきっと優しくそう伝えた後、

ドアを豪快に開き足音だけを残して

どこかへ走り去ってしまった。


微かながらに湊のにおいが

走り去っていくような感覚がした。

ポケットからだろうか。

甘く苦そうなチョコの香りか

つんと鼻をつついていたっけ。


花奏「…い、かない…で………ぁ…歩っ…。」


気づけば彼女の名前を呼んでいた。

ついさっきこの部屋から出ていったのは

間違いなく高田湊だと分かっている。

分かっているにも関わらず

私はどうしようもなく歩を探していた。


花奏「…歩ぅ、っ……た…すけ、て………っ…。」


助けて。

そう言いたいのは

どう考えたって歩の方なのに。

誰もいないこんな部屋で、

こんな時に限って本当に言いたい言葉が

ぽろっと溢れるんだ。

どうしようもない程救えない。

自分も歩も何もかも。

助けてなんて言える権利ないだろう。

なのに救ってほしい。

私を11月11日と12日の狭間から

明日へ引っ張り出して欲しい。

誰かこの手を引いて欲しい。

でも。

でも、この事に巻き込まれないでいて欲しい。

こうなるのは私だけでいいから。

だから。


だから、なんだ。

望みすぎだ。


花奏「…ぃだい、いた、いぃっ…。」


助けの求め方を知らない私は

ただ湊が戻ってくるまで

脇腹を抑えて蹲るしかなかった。

秋の香る、埃っぽい部屋だった。











…。

………。


「ーーー。」

「ーーー。」


……。

……ひゅ。


「ーーー。」

「ーーー。」


………ひゅう…。

……ひゅ、かひゅ…っ。


「ーーー。」

「ーーー。」


…………はっ…。


湊「…花奏ちゃん……?」


花奏「………はっ…はっひゅぅ…っ!?…かっ…はっ、はっはっ…!」


…あれ。

なんで。

もう、風邪でも引いたのか。

まだのはず。

毎回、ふらふら。

今日は一段と酷いな。

そうだと思う。

視界がぼやける。

音が遠い。

近くにあった音が、

遠く遠くからぼやぼやと聞こえる。

なんで。

く、るしい。

苦しい。

ずっと、苦しい。

頭がきんきんと冷えてくる。

手が冷たい。

寒い。

苦しい、苦しい苦しい苦しい。


湊「花奏ちゃん…!?」


足に力が入らない。

ちゃんと椅子に座っているのかもわからない。

周りにいるはずの人達が見えない。

先生も黒板の文字も何もかも。

持ってたはずのシャーペンだって

どこかへいってしまった。

感覚がない。

感覚がない。

それがなんとも心地いいような気が

してしまったのはなんでだろうか。


湊「花奏ちゃん、花奏ちゃん!」


「だ、大丈夫!?」


「先生!小津町さんがー」


湊の声は辛うじて判断できるものの、

他の周りの人間の声は届かなかった。

だって1番近くの大切な人の声でさえ

届かないことが続いたんだから。

過去の周期に思いを馳せても

待ってる結末は変わらないというのに。

痛い。

苦しい。

助けて。

そんな簡単な言葉しか出てこない。

前はもっとまともに考えて行動して

しっかり歩を助けようと

努力していたはずなんだけどな。

いつからこうなっちゃったんだろう。


花奏「はっ……ひゅぅっ…ひぅ…かひゅっはっ、はっ…!」


訳の分からない音しか口から出なかった。

近く、近くから自分の

これでもかと思うほど気持ちの悪い

呼吸の音が鳴り響く。

頭の中で延々と繰り返されている。

外はどんな景色だっただろうか。

この2時間目の授業の初めの方は

どんな内容だったっけ。

額には脂汗が滲み、

不幸に蝕まれた健康な体は

11月とは思えないほどの熱気に包まれていた。

遠く、遠くから。

とっても遠くから、必死な音がした。


湊「花奏ちゃん、ゆっくり息を吐いて!」


そう、聞こえた。

幸か不幸か湊の声しか分からない。

毎回、2時間目が終わって休み時間に入ると

1番最初に聞く彼女の声。

周りが確認できない。

確認できないけれど、

確と彼女の声は届いていた。

最近の周期では暫く

彼女の事を蔑ろにしていたというのに、

たった今も助けてくれていた。


湊に問い詰められるように

2人で話したあの周期以来、

私は彼女と距離を置いていた。

話しかけられても下手に笑って流したり、

そもそも無視していたりと

いろいろな方法で彼女を傷つけた。

その度に向けられる鋭い眼光は

最早恐怖で体が震えるんじゃないかと

思うほど棘を帯びているように見えた。

それこそ私は問い詰められなければ

話をしないという性格を

見抜かれていたのであれば

最も妥当な行動だったんだ。

ただ、タイミングが悪かった。

私がこんな事に巻き込まれていなければ

観念して素直に助けを求められていただろう。

…いや。

歩が死ぬなんてことさえなければ

そもそも私はこんな気持ちになる今日は

こなかったんだ。


花奏「……はっ…ひゅぅ……ふぅ、はっ…ふ…」


湊「…うん…ゆっくりでいいからね…ゆっくり…。」


背中に手が添えられて、

とん、とんと一定のリズムで撫でられる。

その感覚はどうにもあるようで、

自然とこれに倣っていればいいのだと

判断していた。

湊は後ろの席だったよね。

授業中席を立ってまで

こっちにこなくていいんだよ。

もう私の事は放っておいていいんだよ。

と、どれだけ心の中で思ったとしても

口から出るのは浅く激しい呼吸だけだった。


あの日の強い言い方さえも

湊なりの優しさだってことは

分かっているにつもりだった。

つもりなだけ。


目の前が、ちょっとずつ現実に戻ってくる。

床が見えてくる。

耳が音を拾い出す。


花奏「……はっ…ひゅぅ……ふぅ、はっ…ふ……ぅー…ひゅう、はっ…ふぅ……っ!」


湊「そうそう、その調子。」


花奏「かひゅ…ふぅ……はっ、はっ……ふぅ…ふ…はっ…」


湊「はいて、はいて、ちょっと吸う…そうそう、うちの手の動きに合わせてね…。」


花奏「かひゅぅ……ふぅ、はっ……ふぅ…ふ…はっ…」


浅い浅い呼吸の中、

最近は何していたのかを思い出そうとしても

これといって思い出せない事に気がついた。

最初の周期だったり

途中記憶に色濃く残った、

…言い換えればトラウマとも言えるような、

そのような光景なら覚えている。

美月が棺に縋り付いて泣いているところだとか、

歩が車に撥ねられるのを

初めて見た時のことだとか、

図書館で愉快犯に初めて襲われた時だとか。

あとは滅多刺しにされたことも

記憶には根深く残っている。


けれど、最近はほぼ抜け落ちている気がした。

助けられない。

その事実だけは残っている。


先生「今保健室の先生呼んだからすぐ来てくれるはずです。」


湊「…ありがとうございます。花奏ちゃん、もう少し待てる?」


花奏「………ふぅ…はっ………ふぅ………っ…。」


私は、無力だ。

無力だ。

無力だ。


このまま息が止まればいいのに。

そう望んだのはいつだったか。

不意に思ってしまったのはいつからだったか。

今より少しだけ前向きに

生きていけたらいいのに。

生きていけたらいいのに?


そういえば

未だに化学の難問は解けてないままだったな。


湊「…だいぶ落ち着いた……?」


花奏「ひゅう……ふぅ………ぅ…うぅ…っ。」


湊「もう少しで保健室の先生、来るからね。」


未だに背中をさすってくれている彼女の手は

暖かかったんだろうと思う。

制服越しだから伝うに伝わなかった。

湊の声は寄り添うように優しくて

諦めたように落ち着いていた。

彼女なら将来看護師や介護士だって

似合うだろうな。


昼の広がる空は

いつも私の事を見下して嘲り笑っていた。


それから保健室の先生が来たのは

ほんの数分後のことだった。





***





また保健室に来ていた。

けれど、前とは来た時間帯が微妙に違うからか

前使ったベッドとは反対側の場所。

何度保健室にこれば気が済むのだろう。

何度病院に入れば気が済むんだろう。


入院してしまうと無駄に

時間がかかると学んで以降も

時々病院へ入る事があった。

死ぬと覚悟する程刺された時は

流石に自分の足で例の機械が

あるところまで歩けなかった。

あの時の傷跡、生々しい肉の色。

結構記憶に残っている。

脇腹はもちろんの事、手の甲、太もも、鳩尾。

…じり。

また脇腹が傷んでしまう。

歩が愉快犯に殺される前

少しでも庇う動きをすれば

必ず脇腹を第一に刺された。

必ず。


花奏「…。」


脇腹の痛みがあるのは

日常の一環と化してしまったが

これは一体何なのだろうか。

まだ刺されたわけでもないのに

刺された時と同等くらいの痛みが

襲ってくる時がある。

タイミングは様々で、

ランダムだと思っているけれど

実際どうだか真偽は定かではない。


このベッドは直前に誰かが使っていたのか、

それとも保健室独自の匂いなのか、

鼻の奥に残るような

特徴的で滲む匂いが香った。


周り一面白である絶望的な状況に身を任せ、

久しぶりにゆっくり寝てしまおうかなんて

邪念がよぎった時だった。

ひそひそと話し声がしたかと思えば

豪快な足音が近づいてくる。


「…小津町?」


しゃらら、という音と共に

ひとつの白が畳まれた。

空気が速やかに新しいものと

入れ替わっていくのが分かった。

瞬時に見えた黒髪に整った顔。

…どうしてきたのかな。


花奏「…………歩…。」


ポーカーフェイスなのか分からないが

相変わらず何を考えているのか

分からない顔をしていた。

眉を顰める彼女は嫌がっているようにも

不安がっているようにも取れる。

いつものあの面倒くさがっている雰囲気とは

違うんだろうなというのは見てとれた。

ただ、そこまでだった。


歩「…体調どう?」


花奏「……。」


どう。

体調、どうなんだろう。

大丈夫と言ったところで

嘘だとすぐばれるんじゃないか。

別にいいよね?

嘘だからなんだ。

散々嘘なんてついてきたでしょ?

なのに今更。


…違う。

嘘云々以前に

自分自身の体調が分からない。

良いのか悪いのか分からない。

分からなくなってたんだ。


今はまだ熱は出ていないんだよね?

だって雨に当たるのはこの後だから。

この後だっけ。

あれ?

もう雨に罵られてきたんだっけ。

制服干した?

…いや、前の周期では干してない。

暫く制服なんて干してないんじゃないか?

最後に干したのいつだっけ。

鞄から中身出した?

いいや、もう長いこと鞄の中身は

入れ替えていない。

卒業して通学鞄なんて

もう使わないものに成り果てたのではと

思えるほど変わっていない。

お弁当食べた?

ずっとずっと食べてない。

腐っていないいつも同じお弁当を

最後に眺めたのはいつだろう。

そもそもご飯食べた?

…。

入院していれば食べるしかないけれど、

病院を経ず機械まで辿り着けた時は

何も口に入れていなかった。

長いことそんな生活をしている。

父さんとお寿司食べたのっていつだっけ。

そもそもお寿司だったっけ。

父さんとも長い間顔を合わせてないな。

もうそろそろ会いたいとさえ

思ってしまうほどに。


…結局なんだっけ。

何を聞かれてたんだっけ。

体調、だったっけ。


返答に困っているところ、

どたどたと足音がしたと思ったら

こちらに音が近づいてきた。

結んでいた自分の髪の毛は

随分と自由に布団に舞っていて

視界の隅に映り込んでいた。

今、晴れていると良いな。

今日と明日の天気なんて分かりきっている癖に

そんな事を願ってしまっていた。

不意に見えた癖っ毛、

そして耳を劈くような通る声。


愛咲「花奏!大丈夫かよ!」


花奏「……う、ん。……まぁ…。」


愛咲「多分花奏のクラスの子がな、「花奏が過呼吸になって」って教えてくれたんだよぅ。」


私のクラスの子。

間違いなく湊だろう。

2人に伝えたのは彼女なのだと

勝手に決めつけている自分がいた。


とんとん、と愛咲に腕を軽く叩かれる。

私が横になっていたからだろう、

みんなが覗き込むような形で

顔を合わせるものだから

気持ち悪くなって私は顔を背けた。

シーツが顔を歪めている。

私が寝返りを打ったせいか。


花奏「…………そ…っか。」


歩「…。」


愛咲「花奏、何か悩み事とかあれば直ぐに言ってくれよな。愛咲さんが力になれることは少ないかもしんねーけど、いつでも花奏の味方だからな!」


過呼吸ひとつにどこまでの心配を

重ねているのかわからなかった。

やはり過呼吸ともなれば

ストレスからくるものなのだと

思われたのだろう。


歩「きつかったら学校早退しなね。」


花奏「…。」


歩「大丈夫、小津町なら。」


とん、と軽く肩を撫でるように

手を這わせた彼女。

それと同時に僅かながら

黒い髪が静かに揺れた気がした。

愛咲とは全く違った

慈愛に満ちたような手つきで。


その言葉は見放しているのではなくて、

私を信じているからこその言葉だった。

湊から何を聞いたのかは知らないが、

いつもの2人と違うことは

何となく肌で分かる。

妙に心配しすぎている気がしたのだ。

元からこうだったのかもしれないし

違ったのかもしれない。

分からない。

何か分かったことなんてあっただろうか。

何も分からない、で許されればいいのに。

なのに、この日々は

分からないなんて甘えた言葉で

終わってくれるわけがなかった。


歩「小津町。」


花奏「……。」


歩「…ごめん、何もない。」


愛咲「じゃあうちらそろそろ教室戻るわ。ゆっくり寝るんだぞ!」


歩「……お大事に。」


花奏「…。」


愛咲「じゃーな!」


愛咲さんの快活さな声は

保健室中に響き渡り、

私の耳にまでも確と届いていた。

背中を向けたままだったので

出ていく様子も2人の顔も見ていないけれど、

足音が遠ざかっていくのは分かった。

…。

再び静寂が訪れる。

静寂とは言えど、

誰かの呼吸の音が密かに聞こえた。

保健室の先生か他の利用者だろう。


花奏「………謝ることないのに。」


呟きをひとつ、柔らかなベッドに吸わせる。

謝るのは私の方だ。

なのに、なんで。

明らかに何かを言いかけてたが

何だったんだろう。

…もう、聞くことはできないだろうな。

私はその選択肢を捨てたんだ。

捨ててしまったんだ。

無意識ながらに、知らぬ間に。


ずき、と脇腹が痛むから

膝を抱え込み布団を上まで被った。

知らない人の匂いでいっぱいの肺は

居心地が悪そうに

浅く呼吸をするので精一杯だった。











花奏「……。」


授業は先ほど終わり、

もうすぐ湊から声がかかる頃。


過呼吸を起こして次の周期。

今思えば何故あんな事態になったのか

見当もつかないというのが本音だった。

ただ、最近の周期を振り返れば

11日での脇腹の痛みや

肺だか心臓だかが痛む事が

増えつつあるような気がする。

何もしていなくても痛む事が増えた。


そして相変わらず歩は死んだ。

殺人鬼か車が原因で死ぬ。

殺人鬼によって死ぬ時美月も変わらず死んだ。

美月をどれだけ交差点から引き離そうとしても

どうしても外せない用事を頼まれているのか、

絶対あの交差点を通るようだった。

そして梨菜は不定期に私の家へ立ち寄った。

Twitterで私の不調が呟かれた時には

忘れる事なくゼリーやプリンを持ってきた。

梨菜は私の家の近辺で

一体何をしているのだろう。

最初の周期からの謎だ。

そして、確か…だけど、

最初の方の周期で梨菜が私の家に上がった時、

ふと消えてなかったっけ。

美月からの電話で起きて、

慌てて家を出たんだけど

鍵ってどうしてたんだっけ…ってなって。

結局開いてたんだっけ

しまってたんだっけ。

周期を経る度にいつの記憶だったのか忘れ

元がわからなくなるまで混ざってゆく。


花奏「…はぁ。」


久しくため息をついた。

身体の力が抜けるのを感じたけれど、

何もすっきりとはしなかった。


湊「花奏ちゃん寝てたね、珍しい。」


花奏「…珍しいんか。」


湊「うん。ついでにため息なんてもっと珍しいかな。」


花奏「私のイメージどうなってるんや。」


湊「うーん…さあ?」


花奏「さあ、か。」


湊「そんなに失望しないでくれよーん。」


花奏「ごめん、ちょっと考え事しててん。」


湊「ありゃー、でーじょーぶそ?」


花奏「うん。小さい事やから平気。」


湊「そかそかー。困ったらいつでも頼ってちょ。」


花奏「そうするわ。ありがとうな。」


適当に目元を細めて

笑ってるふうに見せるも

湊には通用してなさそうな気がした。

前周期の優しい湊と

もっと前の周期の責められる恐怖を味わった

あの湊を見てきたから、

彼女自身のことが分からなくなっていた。

恐怖を覚えていたけれど、

前周期のあの暖かな手つきが

どうにも忘れられなくて

憎むに憎めなくなっている。

お母さんのことを思い出していた。

もう癌で随分と昔に亡くなってしまった

お母さんのことが浮かんでいた。


私がインフルエンザだか何かで寝込んだ時、

背中か肩を一定のリズムで

とんとんと優しく打ってくれた。

あの目、あの声、あの匂い。

大切な記憶なのに

段々と薄れていることに気づき、

背筋が震えるほどの寒気を感じた。

怖かった、のかな。


湊「チョコいるー?」


花奏「ううん、いらへん。」


湊「まあそう言わず」


花奏「いらんよ。」


がららと音を立てて席を立ち、

そのまま湊を置いて

またいつもの屋上手前へー

…。

…いや。


花奏「…向こうの教室にしよう。」


校舎隅のあの西日がきつく当たる教室。

あそこにしよう。

湊は最後なんて言ってたのか

全く聞いていなかったせいで

何も届かなかった。

もう私の心には届かなかった。





***





かちり。

真っ暗な視界に手向けられた音に

気がついた時には、既に風化してぼろぼろに

なっていた扉が半ば開いていた。

薄目を開くといつもとは違う視点の低さ、

そして違った風景、煙った床。

私、どこで何してたんだっけ。

あれ。

もう12日だっけ?

今何日だっけ。


「…!?」


ぼんやり今日のことを思い出していると、

ふと息を呑む音が上から聞こえた。

ああ。

私、床で寝てたのか。

目をゆっくりと開きつつ

そんな今更な事実に気づいていた。

制服に汚れがついてしまっただろうな。

でもそんなの今更か。

だって歩が死んだ時は

もっとずっと汚してたもの。

あれは私服だったっけ。

制服ではなかった気がするけれど。


「…誰……。」


花奏「…麗香やろ?」


麗香「……花奏けぇ?」


花奏「うん。」


顔を上げずに、机や椅子の足越しに見える

紙の束に向かって声を投げた。

きいいと錆びついた音を立てたと思えば、

静かにことりと鳴る。

多分扉を閉めたんだろうなとは思う。

彼女はどんな顔をしているんだろう。

前2人でここで会った時の

夜を楽しむ猫のような顔は

していないだろうな。


麗香「花奏もここのこと知ってたけぇ?」


花奏「…まぁな。」


麗香「へぇ。生徒会以外知らないと思ってたけぇ。」


花奏「…。」


麗香「せっかくあてだけの秘密基地みたいな感じになってたのに。ちょっと残念けぇ。」


にしし、と微かながら

諦めたような笑い声が届いた。

麗香から教えてもらった場所だというのに、

本人はいつだかの周期とは打って変わって

少しばかり嫌そうにしている気がする。

せっかくなら自分から

この場所を紹介したかったのだろうか。


こつ、こつと軽い足音がする。

まるで猫のよう。


麗香「んで、そこで何してるけぇ。」


机らの足越しに

彼女がしゃがんで目を合わせてくる。

私の真前に来てそうしないあたり

私を全体的に観察しようと

しているような気がして

なんだか気持ち悪く感じた。


見せ物じゃない。

私の苦しみは見せ物じゃない。

麗香自身そんな意図はないとは

分かっていても尚曲がって私の頭に届いていた。


花奏「なん…。」


麗香「寝てたけぇ?」


花奏「…そうやけど。」


麗香「授業は?」


花奏「さぼった。」


麗香「花奏が?珍しいけぇ。」


花奏「私のことなんやと思ってるん。」


麗香「馬鹿ほど真面目で完璧に見せたがる人間。」


花奏「…聞いてりゃいいとこ無いな。」


麗香「そこまでは言ってないけぇ。ものは捉えよう、短所だって長所けぇ。」


花奏「…。」


麗香「加えるなら愛想がある、かな。」


はぁ、とひとつため息を

床に転がした彼女はすっと立ち上がり、

私の視界からは消えてしまった。

そしてがらがらと椅子をひき、

そこに腰掛けたようだった。

華奢な足と椅子の足が見える。

私は相変わらず髪を胸元に纏め、

蹲るように小さくなって寝転がったまま。


麗香「ほんと、何があったけぇ。」


花奏「何も無い。」


麗香「それが嘘だってことくらいは誰だって分かるけぇ。」


花奏「だから何。」


麗香「相談ならいつでも聞くけぇ。にぃ?」


花奏「相談することなんて何もない。」


麗香「にしし。あーあ、酷い言われようけぇ。」


花奏「…。」


麗香はけたけたと楽しげに笑った。

何が楽しいのだろう。

それともこの場が暗くならないよう

あくまで楽観的に捉えているだけなのだろうか。

私はもう彼女の事を

信用できていないのかもしれない。

そもそも信用していなかったのかもしれない。

信用するってどうやってすればいいんだろう。

何を信用すればいいんだろう。

私は歩を助けたい。

なら、私は今何をしているの。


花奏「…今何時。」


麗香「そこに時計があるけぇ。にぃ?」


花奏「…。」


動きたく無い。

けれど、時間を確認するにはそれしかなかった。

少しだけ上体を起こせば

きっと窓の淵に置かれた

小さな時計は見えるはず。

そう思って手に力を入れようとした時だった。


花奏「…。」


動けなかった。

体が思うように動いてくれない。

硬直してしまったみたいに、

何ひとつ身動きが取れなかった。

紐で雁字搦めにされている訳でも

ボンドなどの粘着物で

固定されている訳でも無いのに。


…ただ、麗香がここにくるということは

きっと帰りのホームルームが近いということ。

今までの今日と明日の積み重ねから

答えを導き出すしかなかった。


花奏「……3時ぐらいか。」


麗香「合ってるけど…時計見てないのによく分かったけぇ。にぃ?」


花奏「…。」


麗香「ま、そこは全く重要じゃ無いけど。」


動かせない体のまま、

麗香が脚を組むのが見えた。

机に肘をついているのだろうか。

歩みたいなポーズをとっているのかな。


麗香「本当に相談は出来ないけぇ?」


花奏「…出来ひん。」


麗香「じゃあ、手伝えることはあるけぇ?」


花奏「…相談と何が違うん。」


麗香「全然違うけぇ。それこそご飯買ってこいって言うなら買ってくるけぇ。にぃ?」


花奏「…いらへん。」


麗香「例えばの話けぇ。」


花奏「…。」


麗香「あてに出来ること、あるけぇ?」


花奏「…。」


出来ること。

歩や美月を助けるのに出来ること。

明日、車と殺人鬼から

逃れることが出来ればいい。

殺人鬼は事前に逮捕するくらいしか

出来ないんじゃないだろうか。

そう考えて警察に電話をした周期があったが

想定通りまともに取り合ってくれなかった。

その時私がなんて言って電話したのか

全くもって覚えていはいけれど、

どこにいるのかが明確でないと

捕まえようがないと言われたんだったっけ。

それから、車に関しては

最近は美月を轢くことが多くなっている。

それ即ち歩は殺人鬼に殺されることが

多くなっているという事だった。

美月をあの場所から

引き離す事が必要なのだろうか。

なら明日それを…。


花奏「…。」


違う。

違った。

全ての元凶は雨だ。

そうだ。

雨が降るから1番最初の

あるべき周期から

大きくずれてしまっているんだ。

あるべき周期は私が風邪なんてひかず

美月とショッピングへ行き、

そして帰るというもの。

そのはずだ。


もしも。

もし、私が風邪をひかずに買い物へ行けて、

そしてそれが少し早めに終われば。

…そしたら、私は歩に明日、

誕生日プレゼントを贈ることが

出来るのだろうか。

ずっと繰り返してきた今日と明日。

1度も祝えていなかった彼女の誕生日。

どこかのタイミングで

おめでとうとは言った覚えがあるが、

ちゃんと祝えたかと問われると

そうとは言えなかった。

今回ならできるんじゃ無いか。

もしかしたら出来るんじゃ。

そんな淡く脆い期待に思いを馳せた。


花奏「…夜……。」


麗香「んー?」


花奏「夜、学校でひと晩過ごしたい。」


麗香「本気けぇ?」


花奏「うん。」


麗香「…だいたい予想はつくけど…何をしてほしいんだけぇ?」


花奏「ひと晩過ごせる場所を提供して欲しい。」


麗香「…ほんと、何考えてるんだか分からないけぇ。」


はぁ、とまたため息が

壁やら床やらに反射した。

古臭い本屋のような匂いのするこの部屋は

ため息なんてものをあっという間に吸い込み

より一層重たい空気が

場を支配していくように見えた。

ひとたまりもないほどの大きな不吉が

押し寄せてくるような感覚が身を迸り、

胸元に散る髪の束を汗の滲む手で

強く強く握った。

強く握ったところで髪は

軋む音を響かせるだけだったけれど。


麗香「ここじゃだめけぇ?」


花奏「鍵のかかるところがいい。」


麗香「へぇ。だからここはダメと。」


花奏「夜中、警備員が回ってくる。」


麗香「この部屋までけぇ?」


花奏「知らない。」


麗香「じゃあ大丈夫けぇ。こんな隅の薄汚いところにまで来ないけぇ。」


ふわふわと揺れる足が見えるも

近いのか遠いのか判断が鈍る。

楽しんでいるみたいに揺れている。

将又、赤子を眠らせる揺籠のように。


麗香は言葉を選ぶ事なく

ただ楽しんで遠回しに

問い詰めているような感じがした。

直感にしかすぎないけれど、

今の私ではそう感じる他なかった。


前々から麗香の考えることは理解に苦しんだ。

宝探しも面白くなさそうといいつつも

好奇心に突き動かされて行くと言い、

私を嫌ってたかと思えば

夏が秋頃だったかいつの間にか懐いていて、

私のお見舞いに来た時には

麗香らしからぬまじめな顔をした。

まるで人間のよう。

人間、か。

そうだ。

人間だ。

人間だった。

どこか麗香は同じ人間ではないと思ってた。


本当に麗香の言動は理解し難かったか?

普通の人と同じで理解できたんじゃないか。

理解しようとしてなかっただけじゃないか?


花奏「…鍵のかかる教室がいい。」


麗香「ふぅん、そうけぇ。」


かたん、と椅子を鳴らしたかと思えば

彼女の足はどうやら出口へと向かっていた。

もうすぐ帰りのホームルームが

始まる頃なのだろう。

やっぱり相談するだけ無駄だったのか。

答えもださず彼女は私の元を去るんだ。

そう思うと人なんて信用できない、

信用するだけ無駄だと

あの雨のように降ってくる。

いつからこんな考え方に

なってしまったんだろう。

何がきっかけだったんだろう。

なんで。

こうなりたかった訳じゃないのに。


麗香「また後で。」


花奏「………え…?」


麗香「ホームルーム終わったらまた来るけぇ。それまでに鍵のかかる場所を考えとくから、ここから動かず待ってるけぇ。にぃ?」


私は帰りのホームルームには

出席しないと踏んだんだろう。

優しい口調、鋭い目つきで

ここで待ってろと告げた後、

スキップをするように足軽に

埃を蹴飛ばして出ていった。

その姿を見て余韻などなく、

ただ目を瞑るだけだった。


今回はどうするのか?

まずは雨を凌ぐ。

それから、学校から直接

美月の元まで向かおうか。

歩のプレゼントを買って、

そのまま彼女に渡そう。

漸く歩の誕生日を祝うことができるんだ。

半永久的に届かない15日。

届かないのなら、今祝って仕舞えばいい。

漸く。

漸くだ。

喜んでくれるといいな。


私は自分のいる状況のおかしさになんて

とっくのとうに気づいていた。

それと同時に、自分の異変には

これっぽっちも気づけなかった。

脇腹の痛みや今起き上がれないのだって

いつかは治るものだと思っていた。





***





麗香「…お待たせしたけぇ。…って、本当に全く動いてないけぇ。」


からりからりと空気を鳴らす鞄。

荷物も諸々持ってきて

再度この部屋に立ち寄ったようだった。


麗香「さて、さっきの頼み事だけど。」


重い音を豪快に鳴らし、机と鞄が擦れゆく。

机の上へ雑に投げたようだった。

参考書や教科書が入っているであろう鞄は

衝撃に耐えられず凹んでいるだろう。


麗香「良さげな場所があるけぇ。」


花奏「……どこ。」


麗香「生徒会室けぇ。」


花奏「…生徒会室……。」


麗香「そうけぇ。あてが役員だから鍵の貸し借りは出来る、ちゃんと鍵はかかる。それに学校の中でも端の方にある。どうけぇ、いいとこけぇ。にぃ?」


花奏「何階なん。」


麗香「それも1階。隅の窓だけ開けて翌日出ることも可能。隅の方には使わない用品や段ボールが詰まってるから、翌日閉めとけば問題ないけぇ。」


花奏「……。」


……。

麗香が意気揚々と語るのを

瞳を閉じて聞いていたが、立地としては

素晴らしくいいのはよく伝わった。

そこであればきっと問題はないだろう。

ただ、鍵を開けられなければの話。

そこの前提を崩してしまったら

元も子もないのだろうけれど、

重要な点だと思う。

…そのはず。

頭はとうに回っていなかった。


花奏「……鍵がもし開けられたら?」


麗香「ああ、警備員が、けぇ?」


花奏「そう。」


麗香「端に段ボールが積まれてるから、女子高生2人くらい隠れられは出来ると思うけぇ。」


花奏「…そっか。」


麗香「どうけぇ。」


花奏「なんでそんな乗り気なん。」


麗香「…今はあてが聞いてたのに。ま、いいけど。」


再度がらがらと音を鳴らし、

勢いよく腰を下ろす彼女。

きい、と椅子が音をあげるも

勿論壊れることなどない。


麗香「だって夜の学校けぇ。わくわくするに決まってるけぇ。にぃ?」


花奏「……。」


麗香「さ、ここで少し時間を潰したら生徒会室に行くけぇ。」


花奏「鍵はどうするん。」


麗香「ん?主語が足りなくてわからないけぇ。」


花奏「…私たちが生徒会室に入って…でも鍵は返さないかんやろ?」


麗香「鍵の返却なら助っ人を呼んであるけぇ。ま、助っ人とはいえどあんまり頼りにならないけど。」


にしし。

麗香はいつの間にか私の前でも

笑顔を見せるようになっていた。

今じゃ机の裏側のせいで

彼女の顔は一切見えなかったが。

机の裏には剥がされさせた

商品説明のテープの跡があった。


こつ。

こつ、と。

彼女がテーブルを爪で突くような

細く拙い音がする。

一定のリズムで鳴るものほど

不快な音はないなと思った。





***





陽が傾き始め、いつの間にか西陽が姿を消し

仄暗さがこの部屋を支配し始めた時だった。

何時なのかは判断がつかないまま。


麗香「さ、そろそろ行くけぇ。」


花奏「…。」


さっきまでひとつとして会話はなかった中、

突如耳を埋める麗香の声。

眠る手前だった私は気怠げに瞼をこじ開けた。


麗香「ほら、起きるけぇ。」


花奏「……。」


麗香「寝てるけぇ?」


花奏「…起きてる。」


麗香「なら起きて」


花奏「…ごめん…手……貸して。」


何故だか震えてしまった声。

未だに体は思うように動いてくれず、

指1本すら思い通りに出来ない。

それこそ金縛りにでも

遭ってしまったかのような。


私の言葉を聞き、渋々と言ったところだろうか。

椅子から腰を上げて

かつかつと微かな靴音をお土産に

私の前まで来てくれた。


麗香「…体調でも悪いけぇ?」


花奏「……ううん。」


麗香「手を貸すだけじゃ起きれないけぇ。肩までぐっと手、伸ばすけぇ。」


自然と左側を上に寝転がっていた私の手を

王子様のように優しく取り、

左手を力強く引き肩にかけられた。

滲むような痛みがある気がしたけれど、

そんなのは気のせい。

気のせいでしかない。

だから、痛みを無視して彼女に体重を預けた。

久々に動いた体は鉛のように重く、

外の空気のように新鮮だった。


麗香「まず座るとこまで行くけぇ。いっせーのーせっ。」


掛け声と共に上体が引き上げられ、

私も手伝おうと頑張って腰の位置を変える。

麗香の手伝いもあり、

所謂お姉さん座りまで行けたところ、

そのまま立つ動作まで助けてもらい

何とか床から剥がれることに成功した。

まるで床の一部になってしまったかのような

錯覚さえ覚えていたのに、

今ではこんなに視点が高い。

私、人間だったんだって

改めて感じてしまう。


麗香「流石に何センチも身長の高い人を起こすのはきついけぇ。」


花奏「…ありがとうな。」


適当にぐー、ぱー、と繰り返すと、

錆びた自転車を漕ぐように

ぎこちなくだが動いていた。

続けると段々と滑らかな動きになっていき、

暫くして漸く人の手のようになった。

さっきまでは人間じゃなかったな。


麗香「鞄は?」


花奏「えっと…家…やなくて…教室に置きっぱ。」


麗香「じゃあ一緒に取りに行くけぇ。」


花奏「階段降りてからちょっと歩くし、階段のところで待っててや。」


麗香「んーん。1人には出来ないけぇ。」


花奏「…なんでなん。」


麗香「なんでってよく言えたもんだけぇ。今の自分の状態くらい客観視出来てから言って欲しいけぇ。」


にぃ?と、分かったか問うように、

また、釘を刺すように

彼女は私の目をじっと眺めた。

受け取り方を変えれば

睨んでいるとも取れるほど鋭い目つきだった。

否、実際に睨んでいたのではないか。

真偽は定かにならぬまま、

彼女は重たげな荷物を肩にかけ

垢と埃まみれの見窄らしい部屋を後にした。


廊下へ出て、階段を降り、私の教室へ行く。

いつだかの時に湊と歩いた道を

逆走するような形だった。

あの周期、湊とはどんな話をしたんだったか。

数周期だけ前の話のはずなのに

すっかり別の周期と混ざってしまって

記憶のフックにうまく引っかからない。

闇鍋からお目当ての具材のみ

引き上げようとしているようなものだ。

思い出せるのはいつだって

「寝てたね」から始まる日々と、

甘ったるくておかしくなりそうな

チョコの匂いだけ。


麗香「…結構雨降ってるけぇ。」


外を見ながら歩く彼女は

いつだかの歩を彷彿とさせた。

確かだけど、窓に向かって

でこぴんをしていたんだっけ。

傘をわけっこして帰って。

…あの温もりが忘れられなかった。

忘れたことや分からないことが

信じられない速度で増えてゆく中、

時々こうして思い出せるものがあった。

それらはどうしても

2度と手に入れられないものだった。

既に記憶の中だけのもの。

もう存在しない事実。


今はふらふらと楽しげな足取りで

隣を歩く麗香の姿があるだけ。

ラベンダーのような香りが

マスクを越して届いたが、

本当にその香りであってるのだろうか

疑問でならなかった。

マスクを間に挟んでいるせいで

匂いは捻じ曲げられているのではなかろうか。

…なんてどうでもいいか。


揺れる彼女の髪の毛を横目に

目標だった教室へ辿り着く。

私の鞄だけがぽつりと

床に転がっているのが

遠くから分かった。


花奏「…少し待ってて。」


麗香「はーい。」


麗香は流すように返事をすると

私を観察するように廊下の壁に凭れた。

最早監視されているような

圧迫感があったが、今は後。

そそくさと荷物をまとめ、

鞄を手にしたところで時計に目をやる。

5時半が近かった。

あれ。

なら、そろそろ定時制の子が

来る頃だろうか。

あの教室、どこだっけ。

適当に入ったんだっけ。

相当昔のことだから

そりゃあ覚えてないに決まってるか。


そこまで思考は巡ったのち麗香の元へ行くと、

安心したように目を細めて

私を迎え入れてくれた。

かつて口数の少なかった彼女は

よく目線や目つきのみで

情報を与えていたっけ。

不意に過去が過ぎったところで、

彼女は先導するように前に立ち

猫のように歩いてゆく。


麗香「こっちけぇ。職員室に行って鍵を借りてから向かうけぇ。」


花奏「…今日、仕事なかったん?」


麗香「今日はあての仕事はなかったから行ってないけぇ。それに、合唱祭や修学旅行諸々が終わってるしひと段落してるっぽいけぇ。」


花奏「…この先の行事って何かあったっけ。」


麗香「それこそ卒業式くらいしかないんじゃないけぇ?にぃ?」


花奏「…そっか。」


麗香「今年は行事ができてよかったけぇ。去年は夏やら冬やらにコロナが流行って、いろいろ縮小して行われたから。」


花奏「…。」


麗香「花奏ー。」


花奏「ん?」


麗香「…んーん、話聞いてるのかなって思って呼んだだけけぇ。」


花奏「…そう。」


麗香はそこまで話すと

諦めたように話題を振るのを辞め、

只管に歩くのみとなってしまった。

次の行事は卒業式、か。

そこまで辿り着ける日は来るのだろうか。

来たとしても隣に彼女はいるのだろうか。

気がかりだった。

未来は不安しかなく、

光なんて一筋も見えなかった。


職員室に鍵を取る間は部屋の前で待ち、

そこから更に後ろをついていき、

ついに着いたのが生徒会室。

だったが。


愛咲「…お、やっと来たかー!」


麗香「待たせてごめんけぇ。」


愛咲「ずぇーんぜんいーんだよぅ。それより何だって?麗香がうちに頼みたいことがあるんだってぇ?」


麗香「そうだけど…これは機密ミッションだから声を落として欲しいけぇ。」


愛咲「機密ミッションっ…!分かった…声は小さくする!」


確かに僅かながらは小さくなった音。

どうして愛咲がここにいるのかは

全く検討がつかなかった。

学校の隅、生徒会室。

そこにいた愛咲。

愛咲ほど生徒会室が似合わない生徒は

いないだろうな。


愛咲「…ってか花奏、どうしたんだよ。」


花奏「えっ…?」


愛咲「んだー?お弁当のおかずでも盗まれたかぁ?」


花奏「…。」


麗香「それは明日以降にでも話すけぇ。」


愛咲「そんなテンションじゃねぇよな。ごめん!」


花奏「…別に謝ることじゃ…。」


潔く頭を下げる彼女の特徴のある癖っ毛が

これでもかと言うほどに勢いよく宙を舞う。

どうして謝られてるんだろう。

謝るのは私の方なのに。


麗香「愛咲先輩に頼み事があるけぇ。」


愛咲「おぉ!待ってたぜ。どんな頼み事だ?」


声量を抑えながらも

麗香に頼られたことが嬉しいようで、

わくわくと腕を振りながら

次の言葉を待つ愛咲。

重要なことだとは分かっていても

どこか明るくしようと

無意識ながらに行動しているんだろう。


麗香「…大きな声じゃ言えないけど…あてらが生徒会室に入ったら鍵を職員室に返して欲しいけぇ。」


愛咲「…なるほど。っていいのか?」


麗香「今回だけ。お願いけぇ。」


愛咲「でもよぅ、それって…」


麗香「それから職員室に入って鍵を返すときは、「嶺さんは用事があるみたいで先に帰って、途中私が預かったので返しに来ました」とか言うけぇ。」


愛咲「そもそも鍵はなんて言って借りたんだ?」


麗香「今日塾で使う参考書を忘れたって言って借りたけぇ。しかも焦ってる気味に。」


愛咲「伏線はばっちり、か…ってことはうち主人公!?」


麗香「主人公…あー…そうけぇ。全ては愛咲先輩にかかってるけぇ。」


愛咲「うおお!盛り上がってきたな!」


愛咲がこれだけ声を上げていても

校舎の隅だからと言うこともあるのか

人の姿がほぼ見えない。

ちらと廊下の遠くに映る影があるとしても

下校するためにこちらなんて

見向きもせずどこかへ消えた。

麗香はもう1度事細かく愛咲に

指示したところで生徒会室の鍵を開けた。


麗香「鍵は内側からあてが閉める。先輩は返してきてほしいけぇ。」


愛咲「おうよ、任せな。うちら共犯な?」


麗香「そうけぇ。絶対口は割るな、けぇ。にぃ?」


愛咲「あーあ、ついにうちも不良かぁ。」


麗香「先輩はあてらのヒーローけぇ。」


愛咲「だっはは。そう言やぁ聞こえはいいけどな。」


麗香に背中を押されつつ

未知の教室に足を踏み入れた。

普通ならば入ることのない場所。

知らない世界へ来たような不思議な感覚が

足から腹にまで迫り上がってくる。


愛咲「じゃあ麗香、頼んだぞ。」


麗香「それはこっちのセリフけぇ。」


愛咲「あと花奏!」


元の声量で十分私に届くのに、

絶対に届けようとしているのか

微々ながら強くなった愛咲の波長。

書類の多く積まれた机から目を離し

彼女の方へ向いた時だった。

窓の外でびゅう、と強かに風が吹き、

木々が響めきだしたのだ。


愛咲「無理すんなよ。」





°°°°°





愛咲「あったりめーだろ!友達が困ってたら助けるっちゅーもんじゃね?」


花奏「それだけで…?」


愛咲「だけも何も…大事なことだと思うぜい?」





°°°°°





愛咲は見た目に反して案外真面目な人だから

こんなリスクのあるような、

かつ校則違反は犯さないと思っていたのに。


本当だ。

本当に助けてくれた。

あの日から愛咲は変わってなかった。

…否、あの日から何ひとつ進んでなかった。

変わりようがなかったんだ。





°°°°°





「力になれなかった」。

そんなことを言っていたとかなんとか。





°°°°°





花奏「……愛咲…。」


愛咲「じゃあな、また来週!」


麗香「またね。」


愛咲「おう!」


私が次に口を開く前に

愛咲は背を向け陸上部らしく

走り去ってしまった。

もう引退してしまったにも関わらず

軽快な足取りは変わらぬまま。

背を最後まで見届けたかったが、

麗香が扉を閉め鍵までかけた為に

あの癖っ毛を視界に

入れることは出来なかった。


麗香「口を滑らせなきゃいいけど。」


花奏「…。」


麗香「ねぇ、花奏。」


花奏「…ん?」


麗香「愛咲先輩も単純な馬鹿じゃないけぇ。」


花奏「…それは分かってるけど。」


麗香「…ふうん。……ならいいけぇ。」


不服そうにひと言溢した後、

電気もつけずに部屋の隅にある

山のような段ボールの方へ向かった。

壁との間にスペースを作ると、

こっちだと言うように手招きをした。


麗香「ぼうっと立ってないで早く。」


花奏「……あ…うん。」


麗香「先にここに入って。鞄はあてに貸して欲しいけぇ。」


麗香の言う通りに動き、

段ボールと壁の間の隙間に体育座りをした。

足を伸ばせそうにはなかったが、

2人とも胡座をかけるほどの

スペースはありそう。

ただ、掃除する時間などなかった為

スカートはより一層汚れ塗れだろう。

後から隣へ来た麗香は

その事など全く気にしていないのでは

ないかというほどの勢いで座り、

2人の通学鞄を縦に積んだ。

重そうな麗香の鞄が下、

多分軽い私の鞄が上で。

鞄の上から更に段ボールをひとつ

上手いこと立てかけたところで、

隣の彼女はふう、とひと息ついた。

それからスカートを軽く整え、

体操座りをしていた。


立てかけた段ボールは

私には見えないが

机やら何かに引っ掛かっているらしい。

随分と高さを保ったまま

安定して動かなくなっていた。


麗香「…お尻が痛くなるのは仕方がないけぇ。最悪、鞄を椅子にして座るけぇ。にぃ?」


花奏「…そうやな。」


麗香「親に連絡しなくていいけぇ?」


花奏「父さんは出張で家におらへんからいい。」


麗香「そうけぇ。」


花奏「麗香は?」


麗香「雨が酷くて友達の家に泊まるって言ったけぇ。そこは幼馴染と話を合わせてるけぇ。」


不思議と麗香と2人きりの空間。

大雨が背にある窓から音を漏らしてくる。

雨に濡れていない。

濡れていないのに震えが止まらなかった。

今更。

今更なのに。


麗香は気付いてか気付かずか

無視するように顔を背けた。





***





かちり。

そんな音が鳴った時、

私の視界は真っ暗だった。

隣からか細い呼吸の音。

私の呼吸の音は、どこ?


麗香「……しっ…。」


聞き取れるかどうかレベルの

息の擦れる音が聞こえた。

私はいつの間にか顔を埋めていたようで

視界は真っ暗だったらしい。


かちり…?

その音。

もしかして。


どくんと心臓が飛び跳ねる。

突如、血の巡りが一気に良くなり、

お尻が痛くなっていたことにさえ

気付いてしまったのだ。


きっと。

きっとあの警備員だ。

傘を何処かから持って渡してくれた、あの。


花奏「…。」


麗香「…。」


息を殺すってこういうことかと

身に染みて感じた。

前もこういうことがあったな。

いつの周期か忘れたけれど、

歩とこうやって図書館か部屋か

また別の場所で閉じこもって

殺人犯から逃げようとしたの。

バリケードを作ったとしても破られ

鍵を閉めていたとしても

窓を割って入ってきたけれど。


その周期じゃなかったっけ。

私が死ぬ直前まで刺されたのって。


花奏「…………ゅ…。」


ずき。

そんないつもの痛みが脇腹を突いた。


だめだ。

今は、駄目。

我慢しなきゃ。

我慢。

我慢を。


ふと人工の光の線がちらと映る。

そして鼻息のようなものも聞こえた。

…気がした。

鼻息はもしかしたら

麗香や私のものかもしれない。

判断がつかない。

つかない。


顔を埋めたまま、手に力を入れた。

いなくなりたい。

いなくなりたい。

雨なんて嫌いだ。

抜け出したい。

辞めてしまいたい。


どうしてだろう。

時にこうやって邪念が押し寄せるのかな。


暫く息を殺し続けて

思考を振り払おうという思考に取り憑かれた。

そして何分何時間経ったのか

ついに分からなくなってしまった時。


麗香「……花奏…もういいけぇ。」


花奏「……っ…?」


麗香「もう出てって数分経つけぇ。」


未だこそこそと耳を掠める程度の声が

心地よく感じた。

また人間を辞めていたような感覚。

全てが抜け落ちてしまって

抜け殻になったような。

なのに痛覚は残っている。

延々と続く痛み。

そこから救ってくれたのは彼女の声だった。


…歩もこうやって

名前で呼んでくれたらな。

その願いは叶いそうにないことは

想像するに容易い。


麗香「…今10時半くらいけぇ。定時制も終わって少ししたくらい。」


花奏「…。」


麗香「日付を超える前後くらいになれば、狭いここから移動して、逆に廊下側の壁とかに寄るけぇ。」


花奏「…死角?」


麗香「そうけぇ。そしたらあて、昼ごはんの余り物があるから食べるけぇ。にぃ?」


花奏「…私はいらへん。」


麗香「一口だけでいいけぇ。」


花奏「いらへんって。」


麗香「後1時間半もしたら変わるもんけぇ。」


花奏「麗香はお腹空かへんの?」


麗香「空いてる分には空いてるけど、夜ご飯食べずに塾行って帰ると11時ぐらいになる時もあるから、慣れてるけぇ。」


花奏「…そう。」


暗がりの中、未だしとしとと降る雨。

天気予報は大きく外れ、

ずっと降る地獄のような涙。


麗香「…あてが花奏の力になりたいって思ったのには理由があるけぇ。」


会話は終わり、また数時間

話さないのだろうと思っていた矢先

急に話しかけてくるものだから、

びく、と肩が浮いてしまう。

けれど、何事もなかったかのように

私は顔を埋めたまま

雨の音に耳を傾けた。


麗香「花奏は前にさ、過去のことを全てあてらに話してくれたことがあったけぇ。にぃ?」


花奏「…。」


麗香「その時に「自殺しかけた」って聞いて、親近感が湧いたんだけぇ。」


花奏「…。」


麗香「それまで愛嬌完璧人間で、馴れ馴れしくて嫌いだったけど、それにも理由があってちゃんと人間だったんだって思うようになった。」


花奏「…。」


麗香「そう思ったら親しみやすくなったけぇ。」


花奏「…だから助けようってなるん?」


麗香「仲良くなったと言っても差し支えないと思ってるけぇ。にしし。」


花奏「…そうなんかな。」


麗香「…今まであてが一方的に距離を置いてたけど、今はまるで逆だけぇ。」


花奏「…。」


麗香「…こんな気持ちになるのは流石に知らなかったけぇ。」


花奏「…。」


声を落として呟くせいで

妙に後悔のような色が滲んでいた。

ただ共感しただけじゃないか?

同じような過去の部分があった。

それだけで?

…愛咲が雨の中助けてくれた時も

同じように思ったんだっけ。

それだけで?

…って。

助けるのに理由はいらないんだろうな。

愛咲も麗香も。





***





…それからはまた話さない時間が続き、

次に話したのはそれこそ

日付を超える手前だった。

人気のなくなった学校は

幽霊の棲家のようにも見える。


段ボールの山から這い出て

お互い鞄を手に廊下側の壁に寄った後、

麗香は静かにお弁当を出していた。

お尻には板が入ったのかと勘違いするほど

脇腹とはまた違った痛みが住み着き

中々消えてくれない。

これでも胡座をかいたり

体操座りにしたりと体制は変えたのに。

私はただぼうっとして

また寝転がろうかと思った時だった。


麗香「はい。おにぎりあげるけぇ。」


花奏「えっ…?」


彼女の片手には、いつから用意していたのか

ラップに包まれたお手製のおにぎりがあった。

真っ暗なせいで具までは分からないが

ふりかけを混ぜ込んだもののように

見えなくもない。


麗香「あげるけぇ。」


花奏「いらへん。」


麗香「ひと口だけでいいけぇ。」


花奏「…私お弁当残ってる。」


麗香「昼もあの狭い部屋にいたけぇ?」


花奏「…。」


麗香「ほんとに何があったんだか。」


ぺりぺりとラップを剥がす音が

ありえないほど反響していた気がした。

物はたくさんあるのに人気がなく、

生きている心地のしない夜は

雨の独壇場だった。

その雨もそろそろ退場の時。

段々と無音へ近づく中、

届くのは麗香の息だけ。


麗香「はい、ひと口。」


花奏「…だから」


麗香「お米は美味しいけぇ。」


花奏「…。」


あのお寿司は美味しくなかった。

お米もお魚も美味しくなかった。


麗香「ま、あてはパン派だけど。」


花奏「…。」


麗香「ひと口食べたら許してあげるけぇ。黙るなり寝るなり好きにするけぇ。」


花奏「…食べへんかったら?」


麗香「口に突っ込む。」


花奏「そんな人やったっけ。」


麗香「どういう意味けぇ。」


花奏「そんな無理矢理にする人やったっけ。」


麗香「その言い方は好きじゃないけど…あてだってこの半年で変わったんだけぇ。多分、花奏も。」


花奏「…。」


麗香「…はい、早く。」


ん、とラップから脱皮したおにぎりが

口元に持っていかれる。


許して欲しい。

何から、誰からは問わず

ただ漠然と過った思考に従順になり、

お腹が空いていなかったが

麗香の言う通りひと口だけ食べることにした。

小さく口を開けると

彼女は黙っておにぎりを押し付けた。

歯に粘着質なものが当たり、

少し大きく口を開けて

米を数十粒口に含んだ。


麗香は満足したのか

私の口元からおにぎりを離し、

何も気にせず私が口をつけたところから

ぱくりと豪快に頬張っていた。


味、ないや。

やっぱりご飯って美味しくない。

いつから美味しくなくなったんだろう。

冷たくて歯に微々ながらくっつくあたり

さも柔らかいシリコンを食べているよう。

何のふりかけだったんだろう。

美味しさが分からないし

食べてないものを食べてるようで気持ち悪い。

もう、口にしたくはないな。


花奏「…。」


幸せ…。

…ご飯が美味しいのも本当に

幸せのひとつだったんだな。

私はもう幸せになれないのかな?


麗香「もうひと口くらいいるけぇ?」


花奏「…いらへん。」


麗香「……そう。」


花奏「…。」


麗香「…ゆっくり寝るけぇ。大丈夫。寝てれば明日は来るけぇ。」


花奏「…。」


彼女の言葉には耳を傾けず

凹ませた鞄を枕に横になった。

自然と左側が上で、髪は胸元に纏めて握る。

そして膝が肘とくっつくくらい

小さく小さく丸くなる。

現実から逃げるように。


明日が来るなんて

何も知らないから言えるんだ。











何も変わらない日々だった。











うとうとする。

目覚める。

おはよう、昨日。


目を開けずに眠る。

先生がかつかつと黒板に文字を書いている。


花奏「…。」


ノートがほぼ白いのは当たり前。

びーっと伸ばされた薄い黒線は消さずに放置。

電車内でうたた寝してしまった時特有の

謎にどきどきとした感覚に

襲われる事もなくなった。

板書しなきゃと思わなくなって早数十周期。

シャーペンは握らない。

だから机にシャーペンを転がす事もない。

落とした音が教室に響き渡る事もない。

どうせそれを気にする人もいない。

かか、かっというノートと

黒芯が擦れる音は毎回聞こえた。

学生の特許なんて聞き飽きた。


花奏「…。」


黒板に一部繋がらない箇所がある。

寝ている間に消されている。

もし明後日に生きることがあれば

湊に見せてもらおうか。

…やっぱいいや。

明後日に辿り着けることはない。


今日から明日にかけて

慣れてしまった奇怪な日常を繰り返す。

いつまでも終わらない地獄。

いっそ2年前に小さな町で

酷いいじめを受けていた時の方が

楽だったとまで感じる始末。

そう思った刹那、終わりを告げる鐘。

今日の2時間目が終わる合図だった。





***





湊「花奏ちゃん寝てたね、珍しい。」


花奏「…。」


湊「ありゃ、まだ寝てる?」


花奏「…。」


湊「花奏ちゃん、授業終わっ」


花奏「…早退するわ。」


湊「えっ…?」


花奏「今回も早退するから。」


湊にひと言は残すようになった。

理由はない、気分だ。

何かしら引っかかるところがあったらしい。

自分のことではないように感じているせいか

推測のようなものしか浮かばない。


最近は無意味に繰り返し

周期数は無闇に増えていった。

その都度疑問も増えていった。

私はどうして高校にいるんだろう。

どうして湊と話したんだろう。

どうして廊下を歩いているんだろう。

どうして早退するんだろう。

どうして寝るんだろう。

どうして明日は来るんだろう。

どうして変わらないんだろう。

どうして歩は死ぬんだろう。

どうして私は生きているんだろう。


生きていることそのものに

疑問を抱くようになっていた。

死にたいなんて思ってない。

違う。

私は普通の人だから。

けど、生きていることが

不思議で不思議でならなかった。


花奏「はぁ。」


結局宣言通り早退した。

理由なんて簡単につけれた。

脇腹は常に痛むし

呼吸だって安定しないことが増えた。

それを訴えればベッドで少しの間横になり

そのまま返してくれるのだって学んだ。

最近は心療内科系だったか何かの提案を

されるようになったけど私には必要ない。

いくら怪我しても傷ついても

今日に戻れば治るのだから。


帰る時はやはり、

最寄駅から家までの

ほんの短い距離で雨が降った。

細い細い雨だった。


花奏「……はぁ。」


しち、しちと靴の裏が

コンクリートに染み付くほどの雨は

これから降るのだ。











……。

…。

痛みが少ない。

戻って来たらしい。


花奏「…。」


結局、散々自分を切り付け

悶え苦しんだ後冷静になってみると、

やっぱり逃げるわけにはいかないなと思い

大阪の荷物を置いた家まで

真っ暗な道を静かに歩んだ。

幸いなことに誰ともすれ違わず、

リュックもその中身も

奪われていなかった。


そこから服を着替えたり、

持って来ていたタオルで

ひとまず傷をぐるぐると巻いてみた。

傷は大体凝血しており、

タオルを巻く段階で

瘡蓋とまではいかない塊が剥がれ、

再度流血する事も何度かあった。

首も同様にし、マフラーっぽくしておいた。

ここから遠く離れたバス停の近くに

公衆トイレがあった為、

そこで眉間の血は洗い流して。

それからぱっと視界に入る

傷口以外の汚れは落とした。


そしてバスに乗り込み

寝台列車で関東まで帰ったのだ。

車掌さんや周りの客には

相当変な目で見られたけれど、

入院するルートを辿らないだけましだ。

そう思えばこんなことなど

気にするに値しなかった。

電車が揺れるたびに

あちこちの傷が痛んだのは

あまり思い出したくないな。

朝方、覚束ない足取りで

廃墟の最寄駅に降り立った後、

迷うことなくそこへ向かった。

廃墟には朝日を受けずに

機械は立ちすくんでいた。

タオルを剥がそうとすると

傷口にくっついてしまって離れなかったので

そのままにしてボタンを押した。

お腹、空いていたのかな。

ごろごろと腹の虫が鳴いていた。


そこまでが前周期の話だった。

ボタンを押すまでずっと

スマホを確認していなかったから

本当に歩が死んだのか等

何も知らないが、今までの様子を見るに

死んでいて当たり前だろう。

事実を確認するまでもなかった。


湊「花奏ちゃん寝てたね、珍しい。」


花奏「…。」


湊「ありゃ、まだ寝てる?」


花奏「…。」


湊「花奏ちゃん、授業終わったよ。」


花奏「…。」


もしも。

もし、歩が許してくれるなら。

私が死ぬことを許してくれるのなら。

…私はそうしようと思っている。

終わりが見えた気がした。

長い長い地獄がやっと、やっと終わるような。

幸福感に満たされていくような、

そんな感覚で溢れてゆく。


湊「もー、起きてるんなら返事くらいしてくりょーい。」


つん、と伏せたままの背中に

僅かな刺激が加わる。

やめて。

今は放っておいて。

次の授業、サボるから。

何か言い返そうと思って上体を起こし、

湊の机へと視線を移した。

いつからか、彼女の目を見ることは

なくなっていたっけ。


花奏「…。」


…。

…あれ。

…あれ?


花奏「…。」


口は開いているはずなのにな。

おかしいな…?

今までこんなこと、1度もなかったのに。

何で…?

あれ…。


湊「うおお、急に起きてもびっくりするよー。」


花奏「…。」


湊「花奏ちゃん…?」


おかしい。

どうして。

ひと言でいいんだよ。

煩い、でも、何?…でも。

だったひと言。

ひと文字すら。

それすら…。

…それ、すら。


ふと焦点があっていないことに気がついた。

それどころじゃない。

違くて。

今は、気にすることじゃなくて。


湊「…?」


花奏「…。」


どうしよう。

どうしたらいいか分からなくて

その場を立ち、逃げるように

教室を後にしようとした。


一旦逃げ出してしまえば

何か分かることが、分かる、ことがー。


湊「ちょ、待ってよ!」


体が跳ね返ったように足が止まる。

やめて。

やめてよ。

掴まれた左腕は

前周期の痛みが僅かに流れ出す。


湊「ど、どうしちゃったの?急用?」


そう。

そうだよ。

そういうことにしておいて。

クラスの人が数人

視線を向けていることに気づきながらも

必死に何度も頷いた。


すぐさまこの状況から離れたかった。

皆が、ここにいる全ての人が、

私を責めているような気がした。

いらない。

お前はいらない。

そう、言われているような気が、して。


湊「そっか。…えと、ごめんね。引き止めちゃっ」


怖い。

どうしよう。

どうしよう。

どう、すれば。

湊の話も最後まで聞かず、

腕を大きく振って彼女の拘束を離れた。

離れた。

よかった。

よかった。

これで。

…よかった?


花奏「…っ。」


湊「…!」


湊と、久々に目があった。

怯えているような、責め立てているような。

…分からない。

分からなかった。

目的を思い出したのか、すぐに湊へ背を向け

保健室に寄るわけでもなく

学校から飛び出した。

飛び出した。

飛び出してしまった。

こんなこと今まで1度もしたことなかったのに。

リミッターが外れたのか。


雨は降っていない。

だってこの時間だもの。

当たり前だ。


どこへ行こう。

どこ。


すれ違う人々皆が

私を蔑むような目で見ていた。


歩。

歩、のところ。

そこに行こう。

そうだ。

歩に…会いに。

……。


花奏「…。」


…。

…全て、思いつきのまま

行動してしまった。

何してるんだろう。


何してるの。

何で話せないの。


疑問、不安、罪悪感。

全てが重石の如く

私の体に心に乗っかってくる。

歩の家に行ったって迷惑になるだけだ。

森中の言葉を間に受けたのか、

そんな思考にばかり陥る。


不安だ。

不安で仕方がない。

前の周期のこのぐらいの時間の頃、

こんな感情になっていなかったじゃないか。

何が変わってしまったの。

森中のせい?

…大まかに言えばそうだろうけど

実際は違うと思う。

森中は気づかせるきっかけになっただけ。

気づかせる。

そう。


私が今消えたいと思っていることに

気づかせてくれるひとつのきっかけに

なったにすぎないんだ。

きっかけは森中ではなく

歩やその他のみんなだった可能性もある。

偶々忌むべきあいつだっただけで。


花奏「はぁ、はっ…。」


いつの間にか走っていて、

コンビニのあたりを通ったところで

漸く頭が冷えて来た。

錯乱しかかっていた脳は

一旦の落ち着きを取り戻す。

歩の家に行くと言っても鞄も定期券も何もない。

言ってしまえば家にも入れない。

鍵だって学校に置いて来た鞄の中で眠っている。


…家にいれば学校の先生なり湊なり来て

容赦なく問い詰めてくるだろう。

憐れむような視線を向けて

無責任に問い詰めて。

聞くだけただだからって

私の気も事情も知らずに。

…それなら、まだ…。

…まだ、歩に会う方が…楽?

本当に?

楽って何?


花奏「はっ、あぅ……はっ…。」


また大きく1歩踏み出す。

歩の家まで行くとして

徒歩だとどのくらいかかるのだろうか。

陽が落ちる前に着けばいいけれど。


鞄も持たずこの時間帯に

制服姿で歩いている人間が珍しいのか、

通行人がやけに視線を

寄越してくるような気がする。

気になる。

気になる。

怖い。

そう思うだけで頭はまた

ごちゃごちゃと黒い線が絡まってゆく。

逃げるように。

ただ逃げるようにその場から

足を踏み出し続けた。





***





歩が帰ってくるまで3、4時間と

言ったところか。

やはり局地的な雨は私を追うように

ほんの少しだけ降った後、

すぐさま消えていった。

傘も持たずとぼとぼと歩くのみ。

このぐらいの雨なら傘はいらない。

この程度だから。

それに傘を持っていたって意味がない。

その傘は奪われるまたは壊れるから。


いつだかの周期では傘をどうにかして持って

夕立に当たらない方法だって探った。

何回も探った。

それでも何かしら事が起こって駄目だった。

コンビニで買えば折れて、

借りたものだとしても呆気なく強風に煽られ、

強風に打ち勝ったとしても

通った人に強引に盗られ、

盗られないよう強く持てば殴られだってした。

夕立には当たるしかないらしい。

その試行をしてる分、

私は歩をむげむげと殺していた。


花奏「…。」


横を通った人がちらと顔を向けた気がした。

そんなの気にしている暇なんてなかった。


もう限界だった。

とっくのとうに限界は感じていた。

でも見ないふりをして来た。

自分に大丈夫だと嘘を吐き続けていた。

気が滅入るどころの騒ぎじゃない。

それどころじゃなかった。

どうすればいいのか分からなかった。

だから歩の家に行こう…

…だなんてとんだお門違いなのは

私が重々承知している。

しているはずなのに。

私は彼女に顔向けできないのに。

なのに、なぜ足を進めているのだろう。


花奏「…。」


声さえ上がらなかった。

ざあざあと遠慮なく私を打った雨らは

この様子を楽しんでいるようにも見える。


最初の頃はこの雨を避けようと

必死になって探っていたっけ。

思えばあの時はまだ希望を持っていて

何もかもを捨てきれていなかったんだなって。

特に最初の方。

体調が悪いのに美月と出かけて

歩へのプレゼントを買いに行こうとして。

今思えば馬鹿みたい。

そんな全てを選んで

手元に残して置けるはずなんてなかったのに。

滑稽に見えた。

過去の私は滑稽だ。

なら今はどうなのか。

更に滑稽で醜くなった。


花奏「…。」


ようやくの思いで歩のマンションに辿り着く。

結局3、4時間程かかっただろうか。

途中で足が痛くなって、

休憩がてら靴を脱いでみれば

マメが出来ていた。

…けど、このくらいの痛み

何とでもなかった。

過去の私の比べれば。

今までの歩と比べれば何ともない。

彼女のマンションは相変わらず

質素に立ちすくんでいた。


いつかの周期で歩の家を張ってた事があって、

昼の1時半以降は歩の家のある階に

誰も通らない事を確認している。

次に通るのは夕方の5、6時頃。

…その時も私は歩を。

歩を。


花奏「………んぐっ…っ…。」


喉の奥が焼けたように痛かった。

胃酸だ。

胃酸が不意に上ってきていた。

昼ごはんも食べてないから

多分ただの胃液だけ。

けれど吐くわけにもいかず

ただただ喉の痛覚を働かせて蹲るのみだった。


花奏「……はっ…………っ…ぅ…。」


声が上がらない。

変な呻き声しか出ない。

今、きついのかな。

それすら感覚は麻痺して

分からなくなっていた。


寒い。

寒さが故震えが止まらない。

寝てもいいだろうか。

少しだけ。

少しだけ、休憩。

…休憩、していいのだろうか。

そんなことをしてる暇があったら

歩を救う方法を考えた方がいいのではないか。

…救う?

…というより、自分が終われる方法を

考えた方がいいのではないか。

どうしたら歩に許してもらえるのか。

そんな考えがぐるぐるループする。

けれども気づいた時には

私は歩の家の扉前で横になって蹲っていた。

残る体力の中結んでいた髪を下ろす。

真帆路先輩にお願いされたポニーテールを

何の躊躇いもなく解いてしまっていた。


花奏「…………。」


髪の毛で顔を隠すようにしたおかげか

首元があったかくていつしか

目も閉じて闇に依存した。





***





「……………っ!?」


あれ。

誰かの息遣いが聞こえた。

まだ歩が帰ってくる時間ではないはずだから

この階の人…だろうか。

でも、え…?

1時半に人が出たっきりで、

次来るのは夕方じゃ…?


今、何時なんだろう。

私、歩の家の前で横たわってるんだよね?


「…小津町……ねぇ、小津町っ!」


あぁ、待ち侘びていた。

歩に呼ばれるのを待ち望んでた。

その声でずっと呼ばれたかった。

肩に触れられた。

きっと。

そんな感触。

まだ目を閉じていたから

真偽は定かではないけど。

でも、この声は歩のもの。


歩「…!」


寒かった。

寂しかった。

辛かった。

沢山話したいことはあるけど

全部話せないままなんだ。


歩。

私、話したいことがあるの。


歩「小津町起きてっ!」


今なら。

今このまま死んでしまえたら。

そんなに幸せなことはないな。

たった今、消えれますように。

そんな願いを込めてまだ目を開かなかった。


歩「…!…ちょっとごめん、触るよ!」


髪を丁寧に優しく退け、

顎の付け根の方に

ずっと手が伸びてくる。

びく、と僅かながらに体が跳ねる。

11月とは思えないほど指先は冷えていた。

首を絞めるのかつ思いきや軽く抑えらただけ。

と、と、と。

自分の脈が脳まで響く。

脈を確認していたのかな。


歩「…待って、今すぐ家開けるから。」


がち、かこん。

それでようやく我に帰る。

そうだ。

今は歩の家の前で横になっていて。

もう彼女には迷惑をかけたくない。

ここから去らなきゃ。

そうしないと。

そう思った時のこと。


花奏「……………ぅ…。」


歩「小津町っ!」


起きなきゃ。

そう思って体を少し動かしたら、

腰だか腕だかに激痛が走り

思わず呻き声が上がった。

それを聞きつけた歩は

急いで私の元に駆け寄ったからか

開きかかっていたドアが1度閉まる。

どん、と壁のある音を設けて。


歩「小津町、立てる?」


花奏「…………っ…。」


上体をゆっくりと起こし、

目をゆっくり、開いた。

ただ、床を見るように。

彼女から目を逸らした。

目を合わせたくなかった。


歩「……っ!?」


一瞬、歩の動きが止まった。

肩に触れるあなたの体温が

辛くて、でも愛おしくて。


歩「肩かすから、家入って。」


花奏「……。」


…。

…そこまでしなくていいんだよ。

放っておいていいんだよ。

これ以上迷惑かけるわけにはいかないし。

そう思うと私の体は

鉛のように全く動かなくて。

それを見兼ねたのか、歩は私の片腕を

自分の首に引っ掛けた。


待ってよ。

やめてよ。


口にしたかった言葉は出ず、

口を微かに開くだけ。

寒かったのか、ふるりと

歩が微々ながら震えたのを感じた。

歩は私を先に家に入れて、

そして私から離れたあと

自分の鞄を取って家に入れた。

がこん。

そんな風にして私たちは籠城に篭る。

歩は、私へと当たり前のように言った。


歩「早く濡れた服脱いで、洗濯するから。あと先お風呂入ってあったまってよ。」


花奏「……。」


歩「小津町……?」


ずっと俯いていたまま

玄関に立ち尽くしていた。

帰らなきゃ。

そう思って玄関の扉に向かい、

ドアノブに手をかけた。

私、ここにいたら駄目なんだ。

歩を傷つけてしまう。

だから。


…ここから逃げなきゃと思ったのに、

歩は逃してくれなかった。

そうだ。

前々からそうだった。

歩は逃してくれなかった。


歩「ねぇ。」


ドアノブにかけた手を掴まれ引かれ、

半ば強制的に彼女の方を向いた。

向かざるを得なかった。

バランスを崩しそうになりながらも

なんとか耐える。

ふと。

ふと、綺麗な目がこちらを見据えていた。

目が合って、しまった。


歩「…今日泊まっていって。放っておけない。」


そんなこと言わないで。

どうしよう。

私、ここに来ちゃいけなかったんだ。


いつだかの時と同じように

自分の胸ぐらを精一杯掴んで

制服をくしゃくしゃにして蹲る。

苦しい。

苦しいかった。

泣いてるとも取れるような変な嗚咽が溢れた。


花奏「………………っ………ぅ…。」


歩「……。」


あなたの優しさが

ぐさぐさと心を突き刺していた。

この感情を離そうにも離せなくて

私は抱きしめ返すしかなかった。

この気持ちの名前はなんだ。

罪悪感か。

それとも別の何かなのか。


私は歩に会ってはいけなかった。

いけなかったのに、

顔を合わせた上家に入れてもらって

しかも歩の近くにいるなんて

どうしようもなく

救いようのない人間だと思った。

悟った。

それでも私は自分に弱くて

歩に頼ってしまっている。

それが嫌だった。

嫌いだった。

嫌いなんて言葉では言い表せないほどの

自責の念が積まれていた。


歩「……大丈夫。」


花奏「……っ。」


歩「…気休めの言葉でしかないと思うけど…多分、今の小津町には必要だと思うから。」


ぽんぽんと頭を撫でられる。

長い髪を下ろして

そのままに蹲ったものだから

玄関の床に無惨に広がっているのが分かる。

迷惑な筈なのに彼女は。

彼女は、拒むことも、なく。

寧ろ受け入れて、くれて。


花奏「………………はっ………ぅ…っ。」


それでも。

いくら自責があったとしても

自分が憎くて仕方がなくても

辛くても、苦しくても嗚咽のみが溢れ出て

涙なんて一切流れなかった。

ただただ気持ちが悪い呻き声が

私の耳に歯形を残すばかり。


いつまで経っても

その場を立てないでいる中、

見兼ねたのか歩はそっと手を引いてくれた。

ずっと蹲っている訳にもいかず、

彼女によって立たざるを得なくて。

大切に閉じ込めていた体温が

すうっと消えて行く。


歩「お風呂、入っておいで。」


花奏「……。」


歩「服は用意しとくから。前泊まったときに少し置いて行ったでしょ?あれ。」


花奏「……。」


歩「風邪ひいちゃうと嫌だから。」


髪をさわっと撫でられる。

私は。

私は、そうされる資格なんてないのに。

歩を殺して、ばっかりで。

なのに。

なんでそんなに優しくするの。

私はどうしようもなくて、

声も出さず頷くことしか出来なかった。


これまでで1番苦しい時間になるだろうなと

何となく察してしまった。

あれよあれよと彼女に誘導され

気がつけば浴室にいた。

自己を肯定する思考が全て流れるようにと

願ってシャワーを頭から被る。

暖かかった。

温度差が故熱いのか否か

一瞬分からなかったが、

すぐに順応してゆく。

だんだんと体は温まっていったのか

悴んで動かなかった手も

だいぶ自由が効いてきた。


花奏「……。」


口を聞けるはずがない。

だってその資格がないのだから。

本来なら会うことすらしてはいけないのに。

歩に会う資格なんて。


花奏「……。」


次。

……次。

今期…。

どうしたら。

私は彼女を殺さないためにはどうしたら。

…違う。

どうしたら、彼女を殺さず

自分が居なくなれるのか。


いつからか繰り返して

生き残ることが幸せではなく、

全てを終えて消えてしまうことが

幸せだと信じて疑わなくなっていた。


花奏「…。」





°°°°°





歩「死なせな゛ぃ…ぜった」





°°°°°





花奏「……はっ…っ…。」


凄惨な状況が脳裏をずたずたに引き裂いた。

喉が鳴った気がした。

だめだ、それどころじゃない。

歩を、歩を助けるんだ。

歩をもう苦しめないように。

もう、もう。

もう。

…もう、無理だな。


花奏「はひゅっ…、はっ………はぁっ…!」


視界が一気に揺らいだ。

そんなことをしてる暇じゃないのに。

いや、もういいのかな。

苦しむだけ苦しんで

そしていなくなれるのなら。

でももし消えれなかったら。

歩だけ消えてしまうなら

私は、また。

私は歩と一緒にいてはいけないのに。

一緒にいたら、だって歩が。

歩が。


こと、ごんこっ…。

何の音なのかわからないけど、

シャワーは変わらず

私を刺しているのは分かった。

今まで散々揶揄うように降って来た

あの雨のように。

絶えず、絶えず。


花奏「…はっ、はぁっ………ひゅ…はっ…!」


息が吸えない。

それでも涙なんて出なかった。

ただ苦しいだけだった。

それ以上に歩は。

歩、はまた、ま、た。


歩「小津町っ!?」


座って蹲り胸元を押さえてた私に

これでもかというほど降りかかる水を

あっという間にきゅっと止めていた。

髪の毛に含まれていた水が

一気に居場所をなくしだらしなく落ちて行く。

あぁ、また迷惑をかけたんだ。

歩は1人暮らしだから

水道代とか気にしているのに。

私は。

それに彼女に心配をかけて。

迷惑を。


花奏「は、はっ……はゅ、ひゅぅっ…!」


ばさっと上から何かが降る。

綺麗に肩にかけられて、

その上から背中をとんとんと優しく這う。


歩「大丈夫だよ、小津町。」


花奏「ひゅ、ひゅぅー………はっ…ぅ…うぅっ…。」


歩「そうそう、その調子。」


とんとん、とぎこちないけれど

落ち着くペースで背をなぞるものだから

あぁ、このタイミングで

呼吸すればいいんだって

本能は分かっていたみたいで。

湊の時より酷く視界が滲んだ。


花奏「…ひゅ、…ふぅっ、はっ、は、……ふ、ひゅ…。」


歩「うん、偉い偉い。」


花奏「……ひゅぅ………すぅ、ひゅ……はぅ…。」


歩「大丈夫。私がいるから。」


意図してかせずか

私からは判断はつかないけれど

歩がいる、その事実に安心して首を締められた。

明日には私が歩を消してしまう。

殺してしまう。

いや、そうならないようにするんじゃないか。

するんだ。

する。

する、の。

…。


決意と迷いが常に交錯する。

また、形容できない感情が

目まぐるしく渦を巻いていく。

歯ががたがたとなっていた。

それが歩にも聞こえていたのか、

聞こえていなかったかは分からない。


歩「……大丈夫だよ。花奏のせいじゃない。」


花奏「………ぅー…っ…はぅ…っ…。」


私のせい、なのだ。

何回も彼女を殺しているのは私なのだ。

なのに。

知らないから、だろう。

歩はそう言ってた。

また、呻き声しか出なくて。

会話する権利なんてないから。

声は、出ないから。


少しの間そうした後、

またそうっと離れていった。

また、離れた。

でも顔を上げて切ない顔をして乞うことは

出来るはずもなかった。

まだ蹲り続けるだけだった。


歩「ご飯作ってるから、着替えてこっちきてね。」


花奏「…。」


歩「ドア、あけとく?」


花奏「…。」


小さく、こくんと頷いていた。

咄嗟に歩の姿が確認できていればそれでいいと

判断していた。


歩「うん、わかった。早めに着替えなよ、それこそ本当に風邪ひくから。」


花奏「…。」


また、項垂れたままひとつ頷きを落とす。

風邪なら、ひくことは決まっている。

もう抗えない部分なのだ。

だから今更どうしようとどうにもならない。

…のは知っているのに、歩に言われたからか

1歩ゆっくりと立ち上がって

歩が用意してくれた服に手を伸ばした。

歩は私が着替えるところで

ふと背中を向けすぐそこの

キッチンの火をつけていた。


私が安心する様に、だろうか。

比較的後ろ姿は確認できる位置で

歩は作業していた。

気を遣わせているのだろう。

そう思うたびに胸が苦しくて

時折ひゅうと息が漏れる。

でももう迷惑をかけるわけにはいかなくて

なんとか踏ん張って堪えた。

彼女は私が着替えていることを考慮して

こちらを見ることは一切なかった。

着替え終わって出ようとすると

不意に歩が通せんぼをしてきた。


歩「髪、乾かしたら?」


花奏「…。」


首を横に振った。

風邪をひくのは、

熱が出るのは変わらないんなら

これ以上迷惑はかけてられないと思ったから。

でももし明日失敗したら元に戻る。

失敗しないように、失敗………。

そう考えたらまた震えが止まらなくて。


歩「…そう……私が乾かそうか?」


花奏「………。」


それこそ手を煩わせるよね。

よね?

あぁ、頭が回らない。

なのにまだがんがんと痛みは回る。

少し立ち止まった後

私は彼女の言葉に甘えて

そっとドライヤーを手に取っていた。


側からすれば今の私は

相当面倒くさいと分かっている。

ただ勝手に病んで人に依存して

迷惑をかけるだけの存在というのは

頭の隅では理解している。

限界だとかどうとか言っていようが

そんなの一切関係ない。

だって唯一欲しい結果が

何1つないのだから。

増えていくのは罪だけ。

歩の死のみ。

それだけが積まれていく。


髪を乾かしていても気が気でなくて

ふと肩に何かが触れて顔を上げると、

すっとドライヤーを取られてしまった。


歩「前、向いてて。」


花奏「…っ。」


何から何までしてもらって

迷惑をかけている、迷惑しかかけていない。

そのことばかりが頭を汚染していく。

ざくざくと切り込みを入れられる。


歩「ぼーっとしてたみたいだから。」


花奏「…。」


歩「ほら、こっちの方だけ乾いてる。」


花奏「……。」


歩は手慣れて髪を乾かしていってた。

わしゃわしゃと程よく髪をかき回された。

それと同時に思想も回されているような

気にさえなった。

森中の撫で方とは似ても似つかないほど

暖かくて優しいものだった。


歩「…余計な事してたらごめん。」


花奏「……っ。」


そんな事ないって、

私の方こそ迷惑ばかりかけて

ごめんって言いたかった。

言いたかったのに口は震えるだけで

音を発してくれない。

迷惑ばかりかけている、

それだけで済むのか?

私はそれ以上の事をしている。

しているのだ。

私の罪はどうやったら拭えるのだろうか。


少しの間、時間が過ぎた。

髪は早くもさらさらと空を舞っていて

歩の手櫛でも難なく通り過ぎるほど。


花奏「…。」


歩「……ねぇ、小津町。」


猫撫で声のようなものを彼女は溢す。

いつもきっぱりと嫌なものは嫌と

突っぱねる彼女からしてみれば

とても異様な光景だった。


歩「……ハンバーグ作ってるんだけどもう少し時間がかかりそうなの。待てる?」


…もしかしたら本当は違う事を

言おうとしたのかもしれない。

私に何かを聞こうとしたのかもしれない。

けど歩はひとつ固唾を飲み込んで

別のことを口にしてくれていた。

気を遣わせてるんだって思い知った。

歩は好意でやってくれてる…のかな。

分からない。

彼女を根本から信用できなくなっていたことに

今更改めて気づき吐き気を催した。

けれど喉が焼けるような感覚だけで。

それだけ。

胃液以外出てこなかった。


歩「…小津町っ!?」


かちかち、とドライヤーを切って

私の顔を覗き込むように歩は動いてた。

けれど髪の毛を下ろしてたからか

彼女の顔を見ずに済んだ。

よかったって、それだけが浮かんで。

胃液はざらざらと喉を轢いて

ゆっくりとまた奥へ戻っていく。

何回も唾液を飲んだ。


歩「っ……。」


花奏「……。」


歩が悲壮感に溢れた声を出すたびに

私のせいだってばかり。

私のせいで。

私の、せい。





°°°°°





歩「…幸せ…難しいよね。」


花奏「……。」


歩「いつの間にかなってるもんだと思うよ。幸せって。」


花奏「…なろうと思、って…なれる、もんやない…か。」


歩「なれるよ。あんたが今まで頑張ってきてこの高校入ったのだって幸せのひとつ。小津町自身が掴んだ幸せでしょ。」


花奏「……。」


歩「もっと簡単なことでもいいと思うよ。」


花奏「…簡単……って…。」


歩「ご飯が美味しい。空が綺麗。よく眠れた。沢山話せた。そんなのでもいいじゃん。」





°°°°°





じゃあ、私が今手一杯に持っている

この現状は一体何?


花奏「……っ…ひゅ………。」


歩「……!」


もう、何回繰り返しただろう。

何回あの凄惨を目の当たりにしただろう。

何回あの凄惨を耳にしただろう。

何回喉が鳴っただろう。

何回彼女を苦しめただろう。

何回歩を、歩を。


歩「今考えてること、全部忘れて!」


歩がぐるっと私の肩を持って

半回転ほどさせた。

そこで、ばちっと目があってしまった。

歩は。

歩は、なんだか。


歩「……っ!」


…泣きそうな顔をしてた。

あぁ、どうしよう。

どうすれば。

なんて考えていたら腰に手を回された。

ぎゅって暖かさが滲む。


花奏「……ひゅぅ…………ぅ…。」


ぐっと呼吸を抑える。

じゃないと彼女が心配するから。

全く落ち着かないまま息を止めてた。

すると心臓なり肺なりが

気味の悪い挙動をしていることが分かった。


花奏「…はっ、はっうぅっ…ひゅ、ひゅぅっ……!」


変な声が出た。

少し我慢したらさっきより不均衡で

歪な息が漏れた。


歩「ゆっくり息して。ゆっくり。」


腰に回された手の内の片方が

またさっきのように

とんとんと背中を叩く。

ゆっくり。

ゆっくり息を。


歩「それで、一旦今後ろめたく思っている事を全部忘れて。」


花奏「……ひゅぅ、ひゅ……はぅ…っ……ひゅー…。」


歩「………お願い。」


その声はあまりにも切なくて

喉が切れそうで芯が溶けそうで。

今ある事を忘れる。

そんな事、出来るのだろうか。

出来ない。

出来るはずがない。

だって忘れたら、忘れたら。


歩は一旦と言っていたにも関わらず

私の脳はそれさえ拒むようになっていた。

忘れてしまっては思い出せなくなるような

強迫観念に脅かされていた。

もう、誰も何も私の罪を解くものは

ないのだと悟ってしまうほどに。


それでもひとまずは息を落ち着けることに

意識を向ける。

ゆっくり、ゆっくり。

歩の叩いてくれているペースに合わせて。

まずそうしないと歩を悲しませるから。

迷惑かけるから。


花奏「……ふゅ…ひゅう……………ぅ…。」


歩「うん、上手上手。」


花奏「……ひゅ……………………ぅ…。」


ゆっくり、ゆっくり。

息は落ち着いていた気がした。

安心した。

同時に嫌悪に陥る。

落ち着くと嫌悪し、

過呼吸で上手く息が吸えない時は

何も考えずに済んでることに

気づいてしまった。

後者の方が楽なんじゃないかとも。


少しの間、そのままゆっくりと

背中を叩いてくれていた。

息が落ち着いても、まだゆっくりと。

眠くなってしまいそうなほど

時が流れた気がした後、

不意にまた体温が離れていく。

それが愛おしくて悲しくて安心した。

感情はぐるぐると目まぐるしく移ろいだ。


歩「ご飯、食べれそう?」


花奏「……。」


分からない。

分からないけれど頭は縦に振っていた。

そういえば、最後にものを

食べたのはいつだっけ。

最近の周期では当たり前のように

昼ごはんから食べていない、

食べられるわけがないから。

最近ものを食べたという記憶がなかった。

この体自身は朝に食べているけれど、

心持ち的には、もうどれくらい経ったのか。


歩「…そっか、よかった。」


花奏「…。」


歩「部屋で待ってて。寝ててもいいから。」


花奏「……。」


私はただ項垂れるように

頷くことしか出来なかった。

寝ててもいい、か。

快眠したのだっていつ以来ないのだろう。

いつ眠ったって、うたた寝でさえ

あの、事故の画面が。

悪夢のような現実が。

…いや、今思い出しちゃいけない。

だめだ。

歩が、心配する。

歩が。

……。


歩「……小津町。」


いつから彼女は私の事を苗字で

呼んでくれるようになったんだっけ。

昔はあんた、としか呼ばれなくて。

いつからこんなに大事になったんだっけ。

いつから殺したくないと

思うようになったんだっけ。

いつから殺し続けているんだっけ。


歩「…1度、休憩したら?」


花奏「……。」


歩「私は何にも知らないから苦しめる事を言ってるのかもしれない。」


花奏「…。」


歩「けど、そんなになるまで頑張ってるなら休憩したって報われるはずだよ……?」


報われる……?

…それがわかるのは歩が明日を無事に

生きてくれたときだけ。

その時だけ、漸く分かる。

無駄じゃなかった、って。

休憩が意味するのは歩の重なる死だけ。

それをよしと出来る訳がない。

そんな訳がない。


歩「……話したくなったらいつでも聞くから。」


花奏「……っ。」


歩は。

…歩は、居た堪れないと

言わんばかりの表情を滲ませてやまなかった。





***





それからふと気づけば座っていて、

目の前には机があって、

その上にはハンバーグとお米があった。

出来立てなのか湯気が上っている。


何をしていたっけ、と思えばずっと

今期をどうするかを考えていた事を思い出す。

今期はイレギュラーだ。

今までにない法則だ。

体験したことのない選択肢だった。

この選択がある事で

更に分岐が増えたと言う事に

絶望を感じるほかないとも思った。

逆に救う道があるのかも知れないとも…

…もう、あまりそうとは思えなくなってた。

まだ救える気でいることの方が

おかしいのだ。

私はおかしいんだ。

普通じゃなかった。


歩「いいよ、いつでも好きな時に食べて。冷めたらあっためるから。」


キッチンで洗い物をしているのか、

さーさーという特有の水音が聞こえた。

歩は、食べないのだろうか。

なんて隅で考えていると、

私の心の声が漏れてたのように降ってきた声。


歩「私、後で食べるから。」


いいのだろうか。

本人がいいと言っているだろう。

この葛藤も虚しく私のお腹は

くるくると奇妙に音を立てるだけ。

自分が人間である事が嫌になるような気がした。


お箸を、手に取ってた。

なぜかその手は震えていて、

ハンバーグを割るのだって時間がかかった。

なんでこんなに怖いのか分からなかった。


花奏「…………。」


ひと口。

含んでいた。


花奏「……。」


ほかほかしてた。

そういえば、初めて歩の家に来た時、

一緒にハンバーグを食べたっけ。

それ以降何回目か歩の家に来た時は

一緒に作ったんだよね。

ハンバーグ。

その時は確か歩の家の味に合わせて。

だから。

だから、懐かしい味がした。


花奏「……はむっ…。」


お米を飲むように少量だけ掻き込んだ。

ただただ暖かかった。

懐かしかった。

美味しかった。


花奏「んむ…………はむ……。」


これが、食べたかったんだって。

久しぶりに食べたご飯は

あり得ないくらい美味しくて。

いつだか食べたお寿司やおにぎりとは訳が違う。

美味しい。

ご飯が美味しかった。


花奏「……ぁむっ…ん、む…っ。」


最近は特に胃液しか通らなかった喉が

今は食べ物を通していた。

あの嫌で苦しい

ざらざらとした不快感はなくて、

すうっと喉の奥に流れてく。

喉が焼ける感覚がない。


花奏「……ん、む………ぐずっ……っ。」


何日ぶり…なんてものでは表せない、

何週間も何ヶ月も食べた記憶はなかった。

そんな、何ヶ月ぶりのご飯だった。

その分歩を亡くしてきたんだ。

そんな歩が作ってくれたご飯を

今私は食べているんだ。


花奏「…はん………ぅうっ…ずっ…んむっ…。」


いつの間にか、今まで何が起こっても

流れなくなっていた涙が

堰を切ったようにぼろぼろと流れてた。

食べかけのハンバーグの上に

何滴か落ちたかもしれない。

ぐちゃぐちゃになりながら

無我夢中に目の前にあるご飯を頬張ってた。


花奏「…ひぐっ………っ…んむっ……。」


視界は歪んでて、もう何が何だか

分からないほどだったけれど、

それでも、ひたすらに口にものを入れた。


花奏「はむっ………ずっ……んんぅっ…うぅ…。」


拭う事を忘れたまま。

時間なんて進まないでほしい。

今がずっと続いてほしい。

その願いに反して目の前にあるご飯は

だんだんと減っていくばかり。


花奏「…っ…うぅっ…ぐずっ………ひぐっ…っ。」


歩と、一緒にいたい。

一緒にいたい。


その時だった。

ぽん、と頭に感触があって。


歩「………頑張ったね。」





°°°°°





歩「…よく頑張った。」





°°°°°





それだけ。

それが全てだった。

お箸は自然に止まって

ただ、涙と時間が流れてた。

口の中がからっぽになって。

でも、手が動かなくて。

不意にお箸を机の上に置いてた。


花奏「…ぅううっ……うわあああぁっ…っ。」


みっともなく、声を上げるだけ。

それでも歩は。


歩「…。」


何にも言わずに横から抱きしめてくれた。

何にも言わず、ただ抱きしめてくれた。

歩はそこにいた。

歩が、歩が。


花奏「うああぁあぁぁっ…ぐずっ…ああぁあっ…!」


何にも気にせずに

ただただ声を上げるだけ。

赤ちゃんと同等の事を無意味にしているだけ。

まるで無力な子供のよう。

腕を捻れば泣いてしまうような程。

歩の肩をぽとぽとと頬を伝って濡らしてく。

それでも歩は気にせずに

またゆっくりと背中をさすってくれる。


歩「………いいよ。」


何が、とは言わなかった。

けれどいいんだって漠然と捉えてた。


花奏「うああああっ…ああぁぁっ…ひぐっ…うわあああぁぁああぁっ…!」


どうしてそこまでしてくれるの。

どうしてそんなに優しいの。

私は何にも出来ていないのに。

私は何度も殺しているのに。

もしも。

もしも歩が今の私のしでかしている事を

知ってしまったならば何と言うだろう。

私を虐げるだろうか。

それとも。


歩「…うん………うん……。」


こうやって受け止めてしまうのだろうか。

ここまできたら虐げられる方が楽だった。

貴女の優しさが辛かった。

今こうやって

抱きしめられてることが辛かった。


涙は長いこと止まらなくて。

その間もずっと

歩の手がまだ私の背をなぞる。

私を象ってくれている。


歩「…今まで色々あった事を無理矢理聞き出そうとは思ってない。」


花奏「んっ……ひぐっ…あぁああぁっ…。」


歩「もしかしたら花奏を苦しめる事を言うかもしれないけどね………声に出していいんだよ。」


花奏「ぐずっ…ううぅぅうぁっ……っ。」


力なく頭を振った。

だめなんだよ。

だめなんだ。

口を聞いちゃいけないんだ。

私はそもそも今こうやって

歩に抱きしめられること自体

あってはならないことなのに。

人間として扱われている事さえ

不思議と言っても過言ではないのに。

なのに。


歩「……いいんだよ。」


花奏「ひぐっ……あぁぅっ………んぐっ…。」


歩「いいんだよ、声に出して…私に吐き出してもいいんだよ。」


花奏「ぐっ…うああぁっ……ひゅっ…うあぁああっ。」


一瞬喉が鳴った。

自分でも少し驚いて硬直してしまうけれど

私を覆ってくれる体温のおかげで

全然気に留めずにすんだ。


歩に吐き出す。

それこそだめだと思った。

だから、首を振った。

今まで以上に強く振った。

でも歩は私の後頭部に手を添えて

ぎゅっとしてくれた。

首が振れない程にぎゅっと。


歩「私本人が言ってるからいいの。」


花奏「ひぐっ…んぐっ…ああぁあぁっ、あうぁうあぁっ…!」


歩がいいと言っても…そう言ってくれても、

強迫観念に雁字搦めにされた私には

ぱっと歩に話す事は出来なかった。


歩「……私は小津町が思い詰めることなく過ごせれたらいいなって思う。」


花奏「…ああぁあぅ…あぁぁぁぁっ…ぅぐっ…。」


歩「あんたはどうでもいいことまで背負いがちなところがあるから。」


すっ。

1回だけ、手癖なのかなんなのか

私の背中をさすってくれた。


歩「だからきっと…小津町のせいじゃない。」


そんなはずない。

そんなはずないんだ。

私は。

私は何を。

ぽろって。

何にも考えずに溢れてた。


花奏「……あぁああぁっ…んく、んぐっ……ご、め……な、さ………ぃ…。」


歩「……!」


私には謝罪の言葉しかなかった。

今までたくさん苦しめてごめんなさい。

殺してごめんなさい。

助けられなくてごめんなさい。

迷惑かけてごめんなさい。

心配かけてごめんなさい。

一緒にいたいのにその思いとは反対に

怒らせるような事だってした。

何度も何度も殺した。

歩を苦しませた。


花奏「……ごめ、ひぐっ…ん…なさいっ………ご、めんっ……ひぐっ。」


歩「……っ。」


花奏「ごめんなさいぃっ……あぁああぁっ…うあああぁぁあぁっ…!」


歩「…謝らないで。」


花奏「あぁぁああっ…あぁうあぁぁぁああぁあっ…。」


歩「花奏のせいじゃないから…だから謝らなくていい。…自分を責めないであげて……っ。」


責めないでいる事はもう出来なかった。

もう出来ない。

何回も、何回も歩を無残な姿にさせて

それで今更…今も尚、

自分を許す事はできない。

後頭部に手を添えられているけれど、

無理に少しだけ動かした。

…横に、振った。

出来ないって。

それはしちゃだめなんだって。

自分のした事を許してしまう事は

歩を今まで何回も殺してきて正解だって

認めちゃう気がしたから。

だから。


歩「…っ…………………ごめんね…。」


歩の手に、ちょっと力が入った気がした。

どうして歩が謝るの。

何で。

何でなの。

私はそうさせたかったわけじゃない。

やめてよ。

違うの。

謝るのは私なの。

私の方。

でも、もう謝るなって。

歩、に…言われて。


花奏「ぅ…ぐずっ……うああぁああぁっ…ひぐっ……ああぁぅぁあぁうぁっ…!」


歩「……っ。」


また、声を上げて泣くだけだった。





***





暫くしてゆっくりゆっくりと

涙が止まっていき、

残ったご飯をかきこんだ。

お皿を洗うくらいはしようと思ったが

それすら歩に阻まれ、

結局ベッドの縁に背を預けて

ぼうっとするだけだった。


小さい子供のように指遊びをしてみる。

兎の影絵を作ってみたり、

影絵ではなく蛙みたいなものを作ってみたり。

でもすぐ飽きて手を離す。

自分の体温が散布していき、

ほんのりと冷気が掌に乗る。

窓から冷気が押し寄せる。

まるで海のよう。


花奏「…。」


目元を拭ってみる。

もうからからに乾いていて

涙はもう出なさそうだった。

目が腫れている感じがする。

あれだけ大泣きすればそりゃそうか。

いつ以来だろう。

泣いたのもご飯を食べたのも。

泣いたのは雨の中歩と話した

あの時以来だろうか、

ご飯は麗香からもらったおにぎりを

口にしたあの時以来だろうか、

それとも病院食だったか。

双方とも随分昔のことだと思う。

あぁ。

ご飯、美味しかった。

また食べたいな。


今ならぐっすりと眠れそうな気がした。

悪夢なんて見ずに

眠って起きれるような気がしてた。


歩は洗い物が終わると

ささっとお風呂に入りに姿を消した。

シャワーの音が微かに聞こえる。

日常だ。

多分、これが幸せだ。

こんな幸せ、私が享受しちゃ駄目だな。


きゅっと自分の手を結んだ。

固く固く、逸れないように。





***





ふと。

香りがする。

懐かしい香り。

安心する匂い。


私…。

…そっか。

歩の家にいたんだっけ。

私今、眠ってた?

眠ってたんだとしたら

私は悪夢を一切見ずに

起きるところまで辿り着けたということ。

そんなこと、あるんだ。


真っ暗な世界から逃れるために

目を少しずつ開くと

視界に風景が広がりだす。

いつの間にか布団に潜っていたようで、

深く深く息を吸うと

脇腹が痺れると同時に

歩の匂いがすうっと香った。

恐る恐る目を開けてみると、

机に向かって何かを書いている彼女の姿。

勉強かな。

そうだよね。

受験期だもんね。

…私の相手をしてる暇なんかないのに。


もうここを出ていこう。

朝なのか夜なのかまるで分からないが

出ていかなくちゃ。

そんな使命感に襲われる反面、

体は素早く動かなかった。

布団の擦れる音がする。


歩「…ん、起こしちゃった?」


花奏「…。」


ふるふると首を振る。

起こされたどころか快眠したところ。

そう、伝えられる術がない。

歩はショートスリーパーなこともあり

いつものように布団に潜らず

何かしら手を動かしていた。


歩「まだ夜中だからもう1回寝たら?」


花奏「…。」


歩「…寝れないの?」


花奏「…。」


全ての問いかけに首を振る。

考えること自体が面倒になって来ていた。

けれど、ここに来た理由を思い返す。

そうだ。

許してもらうために…。

…全て終わっていいか。

今までの凄惨な事実を

なかったことにしていいのか。

それを問う、為に。


とりあえずベッドから出て

ベッドを背にさっきのように座る。

ここで寝落ちてしまったのだろうか。


歩「どうしたの?」


花奏「…。」


歩「…何かして欲しいことでもある?」


花奏「…。」


歩「…そんな質問ばっかされても困るよね。」


花奏「…。」


困らないよ。

寧ろ嬉しい。

気遣ってくれるのが分かるから。

だから、嬉しいのに苦しい。

首は横に振っておいた。

髪の毛が目に入りかかるも

目を閉じたおかげで入らなかった。


歩「さっきよりもましな目してる。」


花奏「…。」


歩は何か書く手を止めてから

私に向き合い話をしてくれていた。

止めなくていいのに。

勉強中でしょ?


そう思って机を改めて覗くと

どうやら参考書は広がっておらず、

小さめのノートがひとつ

机を占領しているだけだった。

私の視線に気づいたようで

彼女もそれを見やる。

ここからじゃ流石に

なんて書いてあるかまでは読めなかった。


歩「あぁ、これね。日記書いてんの。」


花奏「…。」


歩「今まで小津町が泊まってきた時にもこうやって書いてたの。知ってた?」


知らなかった。

私が寝ている間やお風呂に入っている間など

目を盗んで書いていたのかな。

首を横に振った。


歩「だろうね。毎日日記書いてんの。」


そうひと言添えると静かにノートを閉じて

部屋にある棚にしまった。

そこには幾つか、

背表紙が違ったり同じだったりする

小さめのノートが林立していて、

今まで生きてきた証が

そこに積まれているのだと知る。


歩は生きているんだ。

今、こうやって。

隣で。


歩「流石に見られるのは恥ずかしいからね。」


花奏「…。」


歩「何しよっか。」


花奏「…。」


歩「散歩でもする?」


今出来ることって何だろうか。

浮かばない。

浮かばなかったから、首を縦に振ってみた。


夜は冷時計を確認すると

2時頃を指している。

真夜中のようだった。


歩「よし、じゃあ行こ。コート貸したげる。流石に夜は冷えるし。」


花奏「…。」


歩「…きょうだいのやつがひとつあったはずだから。そんな顔しないで。」


私、どんな顔してたんだろう?

確かに歩のサイズのものは

私には入りそうにないなとは思ったけれど。


そしてやっぱり歩は

信じられないほどフットワークが軽いなと

思うばかりだった。





***





外の空気は針のようで

息を吸うたびに肺を刺激する。

いつかの周期では

夜な夜な廃墟へと歩いたこともあったな。

あの時は2駅分程歩いた。

今回では軽く5駅は超えた。

もしかしたら10駅も超えているかも。

歩の家までの道のりはだいぶ遠かった。


靴の裏で小石が踊る。

コンクリートに照る街灯の光は心許無く

私たちに影を作るだけ。

側に雑草が申し訳程度に生えている。


歩の髪が揺れる。

邪魔になるからと家を出る直前に

まとめていたっけ。

結べるほどに長くなっていた。

いつの間に。

でも、いつからか

ずっとその長さだった。


全ての周期の過ごした時間を足したら

一体どのくらいになっていたのだろうか。

3ヶ月?

4ヶ月?

半年?

1年?

1年とまでは流石に行っていないと思うが、

半年くらいだったらあり得るかもしれない。


歩「やっぱ冷えるね。」


花奏「…。」


歩「こころからコートひとつ貰っといてよかった。」


花奏「…。」


歩「あ、きょうだいがこころって名前なの。あいつも身長高いんだ。それこそ小津町と同じくらいに。」


花奏「…。」


歩「同じ学校で小津町と同じ学年なの。見たことない?」


花奏「…。」


歩「よくハーフアップしてるんだ。よければ仲良くしてやって。」


こころ…歩の妹さんらしい。

4月に歩の実家へと

足を運んだことを思い出す。

あの時は美月と一緒だったはず。

当時美月と歩は喧嘩してたよね。

懐かしい。


今になっていつからそんな呑気なことを

考えられるように

なっていたのか疑問に感じた。

私は周りを不幸にしてしまうのに。

居るだけ害悪な存在…なのに。


歩「このままコンビニ寄って明日の朝ごはん買ってこっか。」


花奏「…!」


嫌だ。

そう思った時には

ぱっと歩の袖を小さく引いていた。


あ、ぁ。

あ。

何やってるんだろう。

何してるの。

馬鹿。

…脳内でいくら罵倒の言葉の数々が

湧くように出てきたとしても

その手は離れることはなかった。

体と心が分離してしまったような

奇妙な感覚に溺れてゆく。


歩「…?」


花奏「…っ。」


歩「どうしたの。」


花奏「………………ぅ……。」


歩はただ黙って

私の顔を見据えていた。

静かで落ち着いている瞳と

しっかり目があった。

やめて。

こういう時だけ目を離さないというのは

いつ対面しても怖かった。

じっと見つめるの。

それは圧をかけているわけではなく

私は待つよという暗示。

分かってる。

分かってるけれど、

逃げたくて仕方がないと

心が拒否反応を起こしがち。


花奏「…………っ…。」


どうしよう。

困ってしまって袖を引いたまま

力なく笑って見せた。

精一杯の作り笑い。

これが成す意味なんて

あるのか分からないけれど。


歩「ちょっとはじに寄ろうか。」


花奏「…。」


袖から手を離すも手をしっかりと、

離さないようにと握られ

結局逃げられないまま、

近くにあったマンション横の椅子に

横並びで座る。

すると、私は逃げないと判断したのか

手を軽く解いてみせた。

歩は手を握るのを始め

スキンシップを取るのは苦手だったはず。

なのに今周期ではそんな素振りなく

…否。

きっと無理をして私を安心させていた。


ぷらんぷらんと彼女の足が揺れる。

影が伸びたり縮んだり。

街灯のある位置のせい。


歩「…あのさ、直球で聞くんだけど…話すの怖い?」


花奏「…。」


こくん。

縦に首を振った。


多分この感情は怖いんだと思う。

私が話したら、周りに迷惑がかかる。

不幸にする。

してしまう。

…って。


歩「…そっか。昨日の今日で何かあったんだね。」


花奏「…。」


そっか。

私、昨日は普通に話してたんだっけ。

昨日って言ったって

私からすると何ヶ月前の話だって感じだけど。

昨日何してたんだろう。

私は10日に何してたんだろう。

もう覚えてない。


記憶が砂時計の中の砂のように

さらさらと徐々に消えてゆく。

そんな感覚に浸ってゆく。


歩「なんか言われた?」


花奏「…。」


返答に困ったけれど、縦に首を振ってみる。

俯いたまま話を聞いていて、

髪の毛がいい具合に彼女との隔たりになり

歩の顔は見えなかったけれど、

ふと視線を落としたのが分かった。


ぷらんぷらんと揺らしていた足が止まる。

そしていつものように足を組んだ。

街が凪ぐ。

いつも以上に静かな夜だ。


歩「ん、そっか。」


花奏「…。」


歩「私はね、小津町と話すの楽しいよ。」


花奏「…。」


歩「何言っても返してくれてさ。時々私、ほんとにきついことも言った。なのに話しかけてくれた。」


花奏「…。」


歩「ずっと理解しようと近くにいてくれた。」


花奏「…っ。」


歩「誰が何と言おうと私は小津町と話してたいなって思う。」


歩は何とでもないように

さらっと言っていた。

もしかしたら多少の恥ずかしさは

あったのかもしれない。

けど、堂々と言ってくれる彼女は

いつもいつでもかっこよかった。


今日は晴れ。

空も雲はあまりないようで

星が微々ながら光っているのが

見えるだろう。


花奏「………ぁ…ゆ、の…」


歩「…!」


諦めたくない。

図書館で諦めず難問を解いていた

彼女の姿が過ぎった。


いつもいつもあなたに苦しめられて

いつもいつもあなたに救われた。


花奏「…歩…の…………ぅ……作っ、た…ご飯……が、いい……っ。」


歩「分かった。任せて。」


やけに嬉しそうな声が

吹き始めた夜風に混じって耳に馴染む。


ちらと髪を透かして歩の様子を窺うと、

彼女は少し笑っていたような。

笑ってた。

それが、私も嬉しかった。

いいんだ。

喋っていいんだ。

そう思わせてくれた。

微量ながらも心に安心が滲む。

歩はいつも私の手を引いて

真っ暗闇から引っ張り上げてくれた。


歩「なら…パンと卵はあるから…ハムだけ買って帰ろ。」


花奏「……。」


歩「少しずつでいいよ。焦る必要ないし。」


花奏「……ぅ、ん。」


椅子から立ち上がった後、

お尻についた僅かについた

砂や小石を払い落として

近所のコンビニへ向かった。

暗闇の中ぽつぽつと並んでいる街灯の真下。

影は2つ。

隣にはあなた。

紛れもなく歩が。


花奏「…わ、たし…。」


歩「…。」


花奏「私……歩、に………酷いこと、を…沢山してき、たの……。」


歩「…そう?全く。」


花奏「…っ。」


歩「そもそもあんたにどんな酷い事されても私、多分許すよ。」





°°°°°





歩「そもそもあんたにどんな酷い事されても私、多分許すよ。」





°°°°°





歩「強引だなって思うことは常にあったけど…でも、小津町にされたことの中で本気で嫌って思うのはひとつもなかった。」





°°°°°





歩「…あのね、私あんたにされたことの中で嫌って思うのはひとつもなかった。」



---



歩「強引だなって思うときは何度もあった。…ってかそればっかり。」





°°°°°





花奏「どんなに……酷い、事って………例えば…。」


…。

例えば。


花奏「…私が……ぁ…歩の事…殺した、と…っ…しても…?」


ふと。

隣を歩いていた彼女の足が止まる。

不安。

怖い。

助けて。

一気に感情は溢れて

目まぐるしく移り変わり、

彼女の影を追って振り返った。

街灯から少し外れた場所にいるせいで

彼女の顔はほぼ見えず、

どんな表情を浮かべているのか

一切と言っていいほど分からない。


歩「あんたはそんな事しないでしょ。」


花奏「…っ。」


歩「小津町が包丁持ちだして、自分の意思で私を滅多刺しにするとかそんな事起こんないから。」


花奏「何で…そう、言えるん……?」


歩「逆に私の事殺したいって思ったことあんの?」


この問いには必死に

否定の意を伝える為に大きく首を振った。

歩に乾かしてもらった髪が

空を切るように勢いよく揺れる。


思った事ない。

そんな事、1度も思った事なんてない。

歩に生きていて欲しかったから

こうやって何度も何度も

繰り返しているの。

違うの。

殺したかったわけじゃないの。

それを…。

…それを、知って欲しかったのかもしれない。

他の誰でもないあなたに。

歩に。


歩「でしょ?だからありえないの。そんな事態になる確率なんて0%だから。」


花奏「でも…っ」


歩「ないよ。」


花奏「っ…。」


歩「自ら手を下してないならきっと小津町自身が殺したって勘違いしてるだけ。あんたってそういう人じゃん。」


花奏「…!」


歩「余計なとこまで責任負うの。ほんと馬鹿。」


花奏「…。」


歩「でも本当に万が一、もし本当にそんな事が起こったとしても寧ろ小津町ならいいけどね。」


花奏「………ぇ、っ…?」


歩「知らないやつに殺されるだとか災害や事故なんかで死ぬより多分まし。」


花奏「……ぅ…嘘も…大概にして、や…?」


歩「嘘って思いたいならそれでいいけど。」


ぷい、と猫のように

そっぽを向いてしまった。

いつも通りだ。

あぁ。

いつもと変わらない日常だ。


歩「後老衰も嫌。何にも出来なくなってくのは流石に耐えらんない。」


花奏「でも…1番ええん…や、ない…の…?」


歩「特に最後2、3ヶ月は寝た切りになりそうじゃん。自分の変化に打ちひしがれたくない。」


花奏「う、ん…。」


歩「ご飯が美味しい。空が綺麗。よく眠れた。沢山話せた。そんな何ともない日が続くなら全然いいんだけど。」





°°°°°





歩「ご飯が美味しい。空が綺麗。よく眠れた。沢山話せた。そんなのでもいいじゃん。」





°°°°°





花奏「………歩……変わ、ら、へん…な。」


歩「そう?」


花奏「………ぅん…。」


同じ日。

11日と12日。

たった2日間。

人格なんて早々変わるものではない。

知っている。

だけど変わらないなと

思わずにはいられなかった。


歩「そうだ。」


花奏「…ん……?」


歩「ひと言だけ言わせて。」


街灯の下。

立ち尽くしたままに

車が1台通り過ぎてゆく。

特有の攻撃的な光。

寝台列車に乗ったのを思い出す。


歩「私は、小津町と居れるだけで幸せだよ。」





°°°°°





歩「私は、小津町と居れるだけで幸せだよ。」





°°°°°





変わらない。

本当、変わらないな。


歩「だから…負けるな、小津町。」





°°°°°





「負けるな」





°°°°°





はにかむあなたの顔は

夜に溶けていきそうなほど儚かった。

歩に何もない幸せな明日が、明日が。

…来ますように。











よし。

戻ってきた。

さて、この授業が終わったら

早々に飛び降りるとでもしよう。


漸く終わりなのか。

そう思うと繰り返していた日々も

愛おしくなってくる。

そんな間違った感覚が

波のように押し寄せる。


高校生活を諦めずにやり直して

本当によかったと思った。

最期に父さんに会えないのは残念だけど。


静かに目を閉じたままその時を待つ。

随分と長く感じた。

そして、2時限目の終わりを告げる

チャイムが鳴った。





***





湊「花奏ちゃん寝てたね、珍しい。」


花奏「…。」


湊はいつものように話しかけてくれる。

そう。

毎周期毎周期飽きずに

ずっと話しかけてくれた。

CPUと同じと考えれば

当たり前なのだろうけど。

けど、何故だか今は

感謝の気持ちでいっぱいだった。


花奏「あはは、寝てもうたわ。」


湊「ねー。初めてじゃない?」


花奏「そうかもしれへんな。」


会話する気はさらさらない。

もう、すぐにでも終わらせたい。

その気持ちは変わってないから。


花奏「ちょっといってくるな。」


湊「ん?トイレー?」


花奏「ううん。別のとこ。」


湊「ほいほい。気をつけていってくるのじゃぞ。」


花奏「ありがとな。またね、湊。」


湊「あーい。また10分後ね。」


健気に手を振って見送る彼女。

何も知らないって幸せだ。

きっと。

きっと幸せの時だってあるんだ。


私はそのまま階段を駆け上がり、

歩の教室の前を通って

特別教室のような、授業でしか

使われていない部屋へと足を運んだ。


歩の教室の前を通った時、

ふと視線を感じるような気がしたが、

他の生徒だろう。

そんな都合よく世の中回ってはいない。


からから。

誰もいない教室。

校舎の隅の方ということもあってか

生徒や先生達の喧騒が遠い。

孤独。

そんな単語が脳裏を掠めるけれど、

意味のないことだった。


花奏「…。」


机の合間を通り抜け、

静かに扉を開けた後

ベランダ部分へ足を踏み入れる。

ふわっと秋風が薫る。

11月真っ只中特有の

控えめなのに存在感を主張する香り。

あーあ。

秋だった。

ずっとずっと秋だった。


花奏「……それも最期…かぁ…。」


感慨深くなって外を眺めてしまうも

そんな暇はないと思い立つ。

最上階から眺む地面は遥かに遠くて。

真下は案の定コンクリート。

あぁ、よかった。


花奏「…よし。」


ひと言溢した後に手すり部分を跨ぎ

地面は遠く下にあるままに

水泳の背泳ぎを始める前のような体勢をとる。

手を離したら、終わりだな。


花奏「……。」


最期の、遺言のようなひと言は

もういらない、口にしない。

ただ心の中で思うことは沢山あった。

そんなに悪くない

人生だったんじゃないかな。

…嫌はことは散々あったけれど、

諦めずにこの高校に入学して

そして歩をはじめとしたみんなに出会えた。


刻々と記憶の美化が始まるものだから

嫌になって笑ってしまう。

そして唐突に手の力を緩めると、

背中に物凄く強い風が押し寄せた。

びゅうびゅうと耳元で鳴る。

周りの音が聞こえなくなる。

心臓はありえないほどに昂っていたと思う。


真帆路先生やお母さんに

会えるのかな。











うとうとしてたらしい。

はっと目を開くと先生がかつかつと

黒板に物を書いている。


花奏「…!」


まずい、ノートがほぼ白い。

びーっと伸ばされた薄い黒線は

直ちに消しゴムに消されていく。

電車内でうたた寝してしまった時特有の

謎にどきどきとした感覚に襲われる。

早く板書しなきゃと思いシャーペンを握るも。

かつん。

思わず机にシャーペンを転がしてしまって

教室にぱっと響き渡る。

でも、それを気にする人はいなくて

かか、かっというノートと黒芯が擦れる音。

学生の特許とも言えるのかも。

脳内はごたごたに音を立てながら

表面ではただ板書を進めていた。


花奏「…?」


黒板に一部繋がらない箇所がある。

寝ている間に消されてしまったらしい。

後で湊に見せてもらおう。

昨日から今日にかけて

とてもではないが変だな、と我ながらも思う。

いつも通りにいかないもどかしさと

そんな日もあるという寛容さが

混ざりそうで混ざらずに

水と油のように綺麗に分割されている。

そのせいで気持ち悪さは

増しているようにも思えた。

そう思った刹那、終わりを告げる鐘。

今日の2時間目が終わる合図だった。





***





湊「花奏ちゃん寝てたね、珍しい。」


花奏「ありゃーバレてたか。」


湊「席後ろだし流石にね。」


花奏「あはは、そりゃそうか。」


湊「寝顔が見れなかったのが残念っすねー。」


花奏「絶対見せたないわ。」


授業を終え後ろに座っている

湊と少し会話をする。

やはりというか、うたた寝してたことを

指摘されてしまった。

えへへ、と笑うことしかできない。


湊「にしてもほんっと珍しいじゃん。」


花奏「あぁー、寝ちゃったこと?」


湊「うん。花奏ちゃんが授業で寝たところを見るのは初めてかも。ってかそもそも授業中の爆睡は初じゃない?」


花奏「爆睡て。確かに寝てたけども。」


湊「明日、雪降るでしょー。」


花奏「それは大袈裟やって。湊が宿題やってくる方が珍しいやん。」


湊「なら珍しいの2乗ね。明日は吹雪だ。」


花奏「なんやそれ。」


湊「じゃなきゃ元取れないって。」


人差し指で机を擦り付けている湊。

相変わらず上半身は机と仲良し。

何をやっているのかと思えば

消しかすに圧をかけて形を変えているらしい。

時々真っ黒な消しかすが見えた。

元が取れないとはいえ

そもそも何に対してだろう。

私達が珍しい事をしたってことに

対しての代償的なものって話だろうか。

天気側が代償を払うってどういう事だ…。

やはり彼女の突飛な発想力には

ついていけないところがありつつも

自分を振り返ってみる。


花奏「まぁでも、確かにあんま寝ることないかもなぁ。」


高校生は2回目ということもあり

お父さんにはだいぶ負担をかけている。

それを承知の上なので

もしかしたら何処かでしっかりと勉強を

しなければならないと

思っているのかもしれない。

高校生としては持っていて当然というか

持つべき感情だと思ってきたけれど、

私は過去が過去な上尚そう思うのかも。

思えば1回も授業中には

寝た事なかった気がする。

合間合間の休み時間に伏せて

軽く寝ることはよくあったけれど。


花奏「なんか疲れとったんかなぁ。」


湊「ちゃんと寝た?」


花奏「うん、しっかりと7時間。」


湊「健康すぎるくらい。」


花奏「そうなんよ。」


湊「因みにうちは9時間。」


花奏「聞いてないし寝過ぎや。」


湊「眠かったんだもん。至福だったよ。」


花奏「幸せのことこの上ないやろうに。」


湊「まさにその通り。ま、今日もしっかり休んでくれよん。」


花奏「うん、そうするわ。湊も休む時しっかり休みなね。」


湊「勿論。無理できないってかしたくない性格なもんで。」


湊は手遊びがてら

両手をぐーぱーしていた。

湊は平均か、

それより少し高いくらいの身長だが

私と比べてしまうと10cm程は差がある。

だらけている姿勢ということもあり

不貞腐れた子どものよう。

どこか可愛げあるようにも見えてしまう。

湊だからそんな事はないけど。

それを本人に言ったら

むすっとした顔で見られ…

おや、今もそんな顔で見られてる。


花奏「…なん?」


湊「今絶対小さい子供みたいって思ったっしょ。」


花奏「なんで分かったんや…。」


湊「口元緩んでた。」


花奏「マスクしてるのに見えるかいや。」


湊「うち千里眼持ち。」


花奏「観察眼持ちの間違いやろ。」


湊「夢がないなあ。」


花奏「うーん…ま、素直も考えようやな。」


湊「長所だから気にしなくていいんじゃない?」


花奏「あはは、ありがと。」


癖でつい人の頭を撫でた。

湊の髪はふわふわしてて、

指にほどよく絡んできた。

湊はというと満更でもない顔をしていて

どことなく嬉しいというのは伝わっていた。


その後はいつも通り授業を受け、

休み時間には歩のところに行くも

いつも通りやんややんや言われて。

愛咲は歩にだる絡みしに行って

結局こっぴどく追い返されていた。

今日はぼんやりと外を見て過ごすこともなく

時間が経っていることを

不意に忘れてしまう日々。

そしたらいつの間にか今日が終わる。

授業が全て終わり、

帰りのホームルームが終わった段階で

スマホの消音モードを辞める。

これだって習慣になってしまった。


花奏「…あ、卵なかったかも。」


帰りの準備をしつつ

家の冷蔵庫の中を想起してみると

そんな気がしてならない。

朝卵焼き作った時に

使い切ったんじゃなかったっけ。

湊は既に部活なり遊びになり行き

教室にはいなかった。

毎回いの一番に飛び出していくのだ。

焦っているのか楽しみなのか知らないが

普段あれだけマイペースなのに

なんでそこだけはせっかちなのだろうと

いつも不思議に思う。


今日は帰りにスーパーに寄りたいな。

って思うと今日は歩の元へ行くのは

おやすみといったところだろう。

別にいつも約束して会っているわけではないが

何となく会ってる日は多かった気がする。

すれ違うことも勿論あった。

私が教室に行っても歩がいなかったり

将又その逆もあったり。

最近歩は放課後教室や図書室で

勉強してから帰ることが多い。


肩に鞄をかけ、教室に残った

普段仲良くしてくれてる別の子に

ばいばいとひと言かける。

一緒にいがちなのは湊だけど

他2、3人とも程よく友好関係があった。

2年前から大きく変わったもんだ。


花奏「うわ、降りそうやな。」


玄関で靴を履き替え

外を一望してからの第一声がそれだった。

折り畳み傘、持ってきてただろうか。

冷たくなった金具を引き

鞄の中身を確認するも

教科書としか顔を合わせられない。


仕方ない。

そう割り切って外へと踏み出す。

固いコンクリートの感触が足裏を劈く。

校門を出てほんの数歩進んだところで

ととんととんと機械音が存在を証明し出した。

唐突にその音と出会ったものだから

驚いて1度立ち止まる。

そうだ。

さっき自分で音が鳴るように

設定し直したんじゃないか。

音が鳴るのはLINEだけ。

みんなに何かあった時に気づけるように。


花奏「……何かあったんかな。」


勿論くだらない話をする時にも

LINEは動いているが、

真剣な話し合いの時に動くことも多々ある。

半々といった確率だろう。

今回も、もしかしたら何かあったのではないか。

そう思うと気が気でなくなって

冷たくなったスマホを手に取る。

歩きスマホは流石に危ないので

一端路ばたに身を寄せた。


花奏「…。」


嫌な心臓の響き方をしていると分かる。

雨が降っているわけでもないのに

手はしっとりと無機物を温める。

毎回LINEを開くときは

これ程にまで緊張してしまうのだ。

画面には。


美月『明日予定がなかったら歩の誕プレ買いに行きましょ?』


と、美月らしく簡潔に纏められた文章が

規則正しく丁寧に並んでいた。


花奏「そっか。」


急なお誘いかと思えば

歩の誕生日は11月15日だったと不意に過る。

後4日で彼女は18歳になるらしい。

私と全く同じ歳になるらしい。

やはり時間は無情にも疾く走り去っていたと

今もまた改めて感じていた。


誕生日プレゼント、かあ。

歩は何が好きなんだろうか。

何度も家に突撃し何時間も

一緒に過ごしてはいるけれど

歩のことはまだまだ未知数。

そもそも歩が進んでこれが好きだと

声にしたことがあっただろうか。

何となくしているとか

することがないからしているだけ、とか。

バイトや生活に関しては

そういった言い回しをよくしている。

ああ、全然彼女の事を

知れていなかったのだなと

ほんの少しだけ肩を落とす。


美月へ勿論という趣旨の内容を

送り返そうとした時のこと。


…とつ。


ととん。

画面を歪ませた何か。


花奏「…雨?」


手のひらを上に向けて確かめる。

そこには雨粒は乗らず

ぴと、と頬を伝う水滴。

今日は天気予報を

見てすらいなかったんだっけ。

見たものは動物の変顔のみだったと

はっきりと思い出せる。

スマホを眺む間にびっしりと

分厚い雲に覆われていた。


ぼんやりと空を眺めていると突如

比にならないほどの大雨が私を襲う。

食われるかと思うほど強い雨。

ゲリラ豪雨というやつだろうか。

夕立というやつだろうか。

こんな時に限って

折り畳み傘はおろか何もない。

スマホから通知の音がしようとも無視して

走っていれば間に合っただろうか。

…いや、距離的に

確実に間に合ってなかったな。

そもそもまるまるしたら、とか

まるまるだったらなんて

起こるはずないのに。


花奏「やべっ、走らな。」


美月への返事は後回しにして

鞄にスマホを突っ込み走り出す。

夕闇に追われ、夕立に襲われ、

逃げるように帰路を辿った。

卵は家に帰ってもう1度出るか

いっそのこと明日にしよう。

しち、しちと靴の裏が

コンクリートに染み付いた。











…。

先生の声がする。

顔を上げてみると、

間違いなく10:25を指した時計。

戻った。

戻ってきた。

記憶はある。

忘れていない。

大丈夫だ。

…大丈夫。


すぐに試そう。

休憩時間まで5分もかかる。

待ってる方が勿体ない。

どうせ戻ってくるなら

何したっていいだろう。


花奏「…。」


何も考えずに席を立つと

がらがらと大きな音を立てて

自分の椅子が机と離れた。

それに驚き多くの同級生や

先生までもが私を見やる。

そりゃそうだ。

授業中、先生が説明しているだけの時に

急に生徒が席を立つんだから。


先生「…?どうしましたか、えっと…小津」


先生が名簿表を確認したのを見て

今だと脳が信号を出した。

全てを捨てる勢いで走り

教室を扉を開いて後にする。

…。

湊だろうか。

先生だろうか。

私の事を呼ぶ声がした。

物凄く遠いところから、

呼ばれているような気がした。


花奏「ひゅぅ……はっ、はっ…っ。」


息が切れたって何だっていい。

階段を何段か飛ばして駆け上がり、

最上階まで来たところで空き教室を探す。

その間に歩の教室の前を通ってしまうな。

顔を合わせてしまうのだろうか。


そう不安に思っていたら

歩のいるはずである教室に差し掛かる。


…いないでほしい。

出来るのであればもう顔は合わせたくない。

それでも気になって教室を覗いた。


花奏「…。」


誰もいなかった。

移動教室だったのだろうか。

授業が終わって会いに行った時

いつものように席について

頬杖をついていたような記憶がある。

この時間に移動することは

まずなかった為に

今更ながらこの事実を知った。

知ったところでどうだ。

何も意味はないけれど。


後何分で授業は終わるのだろうか。

この教室が空いているなら好都合だった。


花奏「……?」


…遠くできゃっきゃと

女子高生らの燥ぐ声が聞こえる。

体育等の授業が終わって

教室へ戻っているのか。

と考えたけれど、

体育に限らず早めに終わったなら

校舎を歩いていても不思議ではない。

そろそろ2限目の終わりを告げる

チャイムが鳴ってしまう。

急がなきゃ。

そう思った時。


「おーい!」


花奏「…っ!?」


聞き覚えのある声。

聞いたことある。

そうだ。

この教室は歩のいる教室であると共に

愛咲のいる教室でもあったんだ。


愛咲「かーなでー!」


チャイムはまだ

鳴っていないのにも関わらず

大声で叫ぶ愛咲を多くの人が凝視しただろう。

遠くに彼女の姿が見えた瞬間、

冷や汗は止まるところを知らず

どっと流れてくる。

心臓はどくどくと煩く、

血の流れる音が聞こえていた。


ここで捕まるのは1番面倒な事になる。

そう悟った私は走って教室へ入り込み、

ベランダへと向かった。

慌てて鍵を開ける。

出なきゃ。

死ななきゃ。


けれど、どれだけ力を入れても

その窓は開くことがなく。

鍵を見返してみると

しっかりと閉まっていた。

鍵が空いていたと知らず

焦って1度閉めてしまった様子。

愛咲の声が聞こえる。

嫌だ。

嫌だ。

今度こそ鍵を開ける。

窓を開く。


愛咲「花奏ー!何か用」


花奏「来ないでっ!」


ひと言叫んだ時にはもう、

手すりに足をかけ登るも

バランスを崩した。


はら。

紅葉の綺麗な日だったんだ。

ベランダの外へ投げ出され、

否、自分で投げ出した。

落ちる寸前、愛咲の顔を

見ることはできなかった。

そんな焦って飛び降りることないのに。

私に冷たく言い放つ私がいた。











花奏「…おかしい。」


おかしい。

おかしいかった。

私はあの機械を使っていない。

だからこの日に戻ってくるはずはない。

なのに必ず戻ってくる。

死ねない。

生きることも出来ない。

八方塞がりとはこのことなのだろうと

改めて心に刻むことになった。


私は機械を使っていないのに

記憶を何とか保つ事が

出来るようになっていた。

死に戻るうちに忘れてはいけないと

強く思ったからだろうか。

同時に脇腹や手首を始め

様々な部位が今まで通り

痛みを訴えてくる。


あれから何度も試してみた。

何度も痛い思いをした。

飛び降りて戻るにしても

直前の鈍痛に一瞬浸って

あの時間に戻ってくる。

痛い事には変わりなかったが

一瞬で済むあたり

脇腹の痛みよりもましな気がした。

学校ではどの時間、

どの場所で飛び降りても駄目。

電車に轢かれても駄目。

薬や毒の類も駄目。

絶対戻ってくる。


刺される痛みを完全に知っているからこそ

自分を死ぬまで刺すことは

どうしても出来なかったし、

火に炙られるのも怖くて出来なかった。

その2つを除いて、

私が考えられる選択肢は

全て試していた。


死んでも戻ってくる。

これはきっと今までの歩の視点に

立っているのと同義だろう。

戻される。

本人は自覚なし。

私の場合は例外で

今までの周期を忘れずに

戻っている自覚だってあるけれど。

そうなれば浮かぶのはひとつ。

仮説を立てた。


誰かがあの機械を使っているとするならば。


そうならば戻っていることも納得は出来る。

どの場所にどの時間帯で死んでも

機械を使えばいいのだから

それらの条件は大して関係はない。

私の自殺を止めようと

誰かが必死に頑張っている。

そういうことではないか。

…もし本当にそうならば

誰が一体こんな事を。


花奏「…。」


誰かに後をつけられた記憶は

ないと言っても過言ではない。

普通、死ぬと分かっていたら

大胆に動いてきても

おかしくはないと思うけれど。


そもそも私自身

様々な時間、場所で死ぬものだから

対処が出来ないのだろうか。

それは大いにあるだろう。

歩の場合は時間と場所が決まっていたから

ある程度私も事前に構える事ができた。

それがなかったら手の打ちようはなかったな。


花奏「…。」


その時。

2限目の終わりを告げる

チャイムが鳴り響いた。





***





湊「花奏ちゃん寝てたね、珍しい。」


花奏「…。」


戻る。

戻る。

どうしたからいいのか分からない。

何をするにも気力が湧かない。

何をしたって無駄だと思い始めている。

何をしたって、死んだって、

歩は。

…。


湊「んあれ、花奏ちゃ」


花奏「…ごめん。」


湊「へ?」


無駄だ。

無駄なのだ。


もしも、私が死んだ後も

歩は死んでしまうのであれば。

私は確認のしようがないけれど、

そんな事実があるのなら。


…私は焦ってまた何度も何度も

歩の首に手にかけているのと

同じことではないのだろうか。


花奏「…っ。」


感情に任せ…

…感情なんて言えないほど

機能していないそれに任せ、席を立った。

授業中じゃなかったから

教室に響く音を気にする人もいなかった。


湊「トイレでも行くのかい?」


花奏「…。」


湊「…うちね、思うんだよ。次の授業サボってもいいかもなーって。」


花奏「…そうやな。」


湊「お?気が合うねえ。」


花奏「でも…ごめん。ついてきて欲しくはないな。」


湊「……花奏ちゃんってば千里眼でも持ってるのー?」


湊は笑い話に変えてくれたけど、

私はもう笑うことも出来なかった。

彼女の話を無視するように

そのまま背を向けて歩いた。

何で歩いているんだろう。

何で考えているんだろう。

泣くことも笑うことも

いつからか忘れてしまった。

凄惨な現実、凄惨な未来の記憶だけ

覚えているのに。


…。

こんな時に限って

歩が作ってくれた

ハンバーグの味が過る。

美味しかったな。

…。

…。

…。

また、眠れず食べれずの生活を

繰り返すようになっていた。

逆戻りだ。

何もかも。


花奏「…。」


いつもの最上階手前のところで

いつものように座る。

そして髪を手元に手繰り寄せ

ぎし、と音が鳴るほど強く握りしめた。

すると連動するかの如く体のあちこちが痛む。

痛い。

痛い。


…。

もう、やめたい。

やめた、い。

助けて。


花奏「…………た、すけ……て…。」


私の独り言はぽつり、

雨のように降ると

それきり脳から絶えず滴り

溢れてきていた。





***





…。

帰りのホームルームが終わる合図である

チャイムが鳴って、

また時間が経った。

一瞬けたたましくなったが

人は散っていったのか今では静かだ。

誰もいないみたいに。

時々遠く遠くから

女子高生の話し声や運動部らしき掛け声、

男子生徒の燥ぐ声が聞こえる。

日常だ。

他の人からしたら

何ら変わらないただの11日。

…。

いいな。

…私もそうやって過ごしたかった。

今からでも全て

忘れてしまえばいいのではないか。

…。

…でも、明日の歩の事故でどうせ思い出す。

変わらない。

変わらない日々。


胃酸が上るのを感じた。

何も食べてないのに。

変な体だ。


花奏「…。」


ここにいても何をしても意味がない。

帰る意味だってない。

何をするにも、本当の意味で

無駄になってしまった。

何を。

…何をすれば。

その考え方が間違っているのかな。

何をしなければどうなる…

その考え方にしたところで

結末は変わらない。


花奏「………ぁ……ゔっ…。」


誰か、誰でもいいから歩を助けて。


口に出せるなら出したかった。

話を聞いて欲しかった。

誰も頼れない。

誰も頼れないのに誰かに頼りたくて仕方ない。

隣に寄り添って背を撫でて、

今だけは同情でもいいから

優しい言葉が欲しい。

梨菜や湊を始めとする

みんなのことが信用できなかった。

信用…。

…歩のことも。


歩。

…隣にいて欲しかった。


痛いな。

何でこんな。

こんな目に。





***





花奏「…。」


痛みが治まりつつあるところで

体は勝手に歩き出していた。

どこに行こう。

頭ではそう考えているのだが、

迷うことなく彼女の、

歩のいる教室へと向かっていた。

2度と会わないと思っていたのに

こうやって期待を寄せて

向かってしまうあたり

どうにも自分を卑下してしまう。


花奏「…。」


ここだ。

何周か前にはここから

焦って飛び降りたっけ。

今日はゆっくり時間を使って、

2年前のやり直しが出来そうだ。


教室の中には誰もおらず、

窓もぴっしりと閉まっている。

からんと空虚な音が

聞こえてきそうなほどに

人の気配はなかった。


教室後方の窓を開く。

すると世界が開かれたかの如く

風は吹き荒れ髪を靡かせた。

運動部員の声が聞こえる。

かこん、と何かを打つ音から、

吹奏楽部だろうか、楽器を鳴らす音まで。


花奏「……。」


みんな生きているんだな。

生きていることに疑問を持たないんだな。

それが、それが羨ましいな。


この高校に入学したはいいものの

待ち受けていたものがこれか。

私、頑張ったのにな。


花奏「……。」


ベランダの手すりに腕を乗せ、

肘をついて外を眺めた。

あーあ。

あの日…2年前にもしも死んでいれば

きっと今頃こんな思いを

しなくてよかったのに。

あーあ。

…あー…あ。

器用な手先を持っても回る頭を持っても

歩1人すら救えず自分を殺せず。

この先どうすればいいんだろう。

そればかり。

そのことばかりが頭の中を蠢いて

脳の隅々まで食ってゆく。


かたん。

何かが落ちた音だろうか。

そう、思った。


「……小津町…?」


花奏「……。」


……。

…。

あれ。

このパターンだっけ?


花奏「……そ、か…。」


歩「…何してんの?」


花奏「…。」


歩「ねえ、小津町ー?聞こえてんでしょ。」


花奏「…。」


距離は遠いように感じる。

振り返ったら彼女がいる。

外は広くて限りなく灰色に近くなり、

雨はますます酷くなるばかり。

どこまでも続く空を見ては

今の私の立場と同じようでうんざりした。

どこまでも広がる選択肢。

それを想起させた。


歩「ねえって。」


真後ろ。

大きな音が聞こえたと思えば

背中を強めに叩かれる。

本人はそんな意識は

していないのだろうけれど。

びり。

脇腹ばかり痛む。

もうやめてよ。


歩「返事くらいしたらどう?」


花奏「…。」


歩「…?」


花奏「…。」


歩「小津町…?」


横に並び私の顔を覗くように

手すりから少々前のめりになっているのが

視界の隅に映る。

そのまま落ちたら危ないね。

もしも。

歩があの時間以外で死んだら

どうなるのだろうか。

…そんなの本末転倒か。

例の時間外で殺してどうする。

何の利がある。

歩には生きていて欲しい。

それが大前提だろうに。


歩「何かあった?」


花奏「……何も。」


歩「絶対何かあったじゃん。」


花奏「………。」


歩「昨日に続き今日もここに来るなんてどうしたの。」


花奏「…。」


私を覗くのはやめて

彼女もグラウンドの方を眺めた。

紅葉の季節だった。

色づく葉が綺麗に流れていく季節のままだった。


視界の隅で揺れ動く髪。

春の頃に比べたら伸びた方かな。

頬にぴたぴたと

雨が心地よく張り付いてくる。


花奏「…。」


歩「…別に無理に話せって訳じゃないけど、いつにも増して暗い顔してるから流石に気になった。」


花奏「…。」


私はこの半年間で

歩は嫌というほど優しい人だって知った。

だから、歩に見つかれば

簡単に逃してくれないことだって

前々から気づいていた。

見つけてくれるから。

あなたはいつも

私のことを見つけてくれた。

甘えたくなった。

今までの全てを話しても

茶化すか受け入れるかしてしまうと思う。

そして一緒になって考えてくれると思う。

それほどまでに優しい人だって

知ってしまっているから

いつからか会いたくなくなっていた。

歩に会ったら甘えてしまう。

この時間に甘えてしまう。

そして罪悪感を感じているふりをして

また元に戻すんだ。


隣にいなくていいんだよ。

私の事はもう忘れて。

そして、何もない平凡な日々を過ごして。


歩が生きている未来へ辿り着けるなら

私は不幸になってもいいから。


歩「……あのさ」


花奏「…死んでええ?」


歩「…………は…?」


花奏「だから、今ここで死んでええか聞いてるんよ。」


死んでも戻る。

無意味。

分かってる。

分かってる。

…けど、それ以外方法が分からない。

歩が必ず死に、私が必ず生きた。

それを覆すには私がいなくなればいい。

その発想から逃れられなかった。


歩「………いいって…言うと思ってんの…?」


花奏「……聞いただけや。」


歩「2度とそんな馬鹿なこと言わないで。」


花奏「…。」


分かった、とは言えなかった。

今後も一緒に付き合うことになる

感情、考え方だろうから。

ふう、とひと息湖の広い広い空に吐き出して

手すりを乗り越えようと

鉄棒をするようにジャンプした。

それだけで心臓がふわっとする。

今まで何度か味わった感覚だ。

そのままー


歩「……っ!?危ないっ!」


その声とともに視界が1回転。

そして頭やお尻などを強打し

一瞬1番下まで落ちたのかと思うも

珍しいことにまだ意識がある。

息を止める。

息を止めていても微かに

鼻の奥に香る匂い。

…そりゃあ隣にあなたがいれば

死に損なうことなんて分かりきっていたのに。


花奏「…ぃ…づぅっ…」


歩「馬鹿、馬鹿!何してんのっ!」


花奏「……っ。」


彼女に制服の襟を引かれて

転げたせいで空を見上げていた。

屋上の出っ張りに空は少し遮られている。

とつ。

とと、つ。

雨だ。

大雨だ。


雨は殴りかかるように

私を微々ながら打ちつけた。

何事もなかったように

とりあえず座った体制へと戻る。

じりり、じり。

酷く酷く痛む。

痛む。

こういう時どうしてたっけ。

ただ耐えているだけだっけ?


歩「許さないから。」


花奏「…っ!」


歩「死ぬとか、そんなの絶対許さないから。」


初めて聞いたかもしれない。

繰り返しの日々の中で

初めてこんな怒号を耳にした。

何でこんなに怒っているんだろう。

他に怒るべき周期って

沢山あったはずなのに。

どうして今周期で…?


ここじゃ…というよりかは

歩のいるところでは死ねないと悟り

その場を去らなきゃと思って

彼女に背を向け立とうとした。

したが、動けなかった。

まただ。

時々あるのだ。

ふと動けなくなってしまうことが。

背を向けたまま動かなくなった私に

何かと歩は叫び続けていたっけ。


どん、と、重く刺激が加わった。

何かと思えば

歩が背を叩いているらしかった。


歩「何でっ…。」


背中をずっと叩かれ続ける。

楽に死にたいのに痛ぶられる。

むしろこれがあるべき姿なのかもしれない。

延々と逃げ続けた結果だ。

怨恨のこもった殴り方だった。


花奏「痛いで。」


歩「これから死ぬんならっ、どれだけ叩いても殴ってもいいでしょうがっ!」


どん、と重たい音がした。

背中が、骨が軋む音がする。

痛い、と率直に思う。

痛い。

生きている。

だから痛い。


歩「馬鹿っ、馬鹿っ!」


花奏「…。」


歩「これだけやっても、まだわかんないわけ。」


花奏「分からへん。」


歩「…っ!」


分からない。

分かるわけがない。


歩「私は、あんたに死んでほしくないの。」


花奏「そんな酷なこと言わんでや。」


歩「言うに決まってる!酷だろうがなんだろうがこの先、あんたを止めなくて後悔する日なんて迎えたくないっ!」


花奏「エゴやん。」


歩「エゴだよ、それで何が悪いのっ!」


どん。

また重く骨へと響く。


歩「あんたがやめないなら、私、気が済むまで殴るか」


「ちょ…何してんだよ!」


突如聞こえてきた通る声。

もう全てが変わっている。

ぐちゃぐちゃだ。

今、ここにはいないはずじゃないの?


愛咲「やめろって三門!」


歩「だからっ…!」


愛咲「三門!」


私は背を向けたまま2人の方を見なかった。

見たって歩が酷い顔してるのも

愛咲が鬼のような形相なのも

手に取るように分かったから。


たし。

…と、強めの打音。


歩「…だから遠くに行かないで、小津町…っ。」


叩かれたのではなく、

振り上げた手を思いっきり受け止めた。

…そんなところだろうな。

背中には響くような低音は漏れなかった。

何だか寒いな。

寒いはずなのに冷や汗が

止まらなくなってきた。


歩「お願い…。」


泣かせたかったわけじゃない。

怒らせたかったわけじゃない。

ただ誰にも知られずに

ひっそりと死にたかっただけ。

最近考えることといえばこのことばかり。

繰り返して繰り返して

歩を亡くし続けて私は何がしたいんだ。

さっさと死んでしまいたい。

なのに死んでも戻ってくる。

どうすれば。

その繰り返し。

繰り返して繰り返して、逆戻り。


麗香「……何の騒ぎけぇ。」


羽澄「一旦歩が落ち着くまで花奏を外した方がいいと思います。」


花奏「…。」


愛咲「うちここに残るわ。花奏の事頼んでいいか?」


羽澄「はいであります!」


何故。

今、たった今この時間に

この高校のメンバーが揃うことなんてない。

ない。

あの雨の日は…

…雨の中歩と一緒に帰った周期では

こんなことなかった。

羽澄なんて恐ろしく久々に出会った。

会うはずがないのだ。


変わっている。

何もかも変わっている。

私以外に事実を、

今日と明日を変えようとしている人間がいる。

そしてその人が私の邪魔をしている。

その人が機械を使って戻している。

終わりのない日々へ私を閉じ込めている。


花奏「…。」


羽澄に軽く背を撫でられ肩を貸された。

力の抜けた膝は赤子のように覚束ない。

その足のまま歩の隣を通り抜けた。

初めてだらけの周期だった。


花奏「………。」


歩「……っ。」


何かひと言言えたらよかったんだろうけど

謝るなって言われて以降

ごめんなさいと言う選択肢は

綺麗に消え去っている。

なんて言えばいいんだろう。

…きっと何を話しても、何を口にしても

歩のことを困らせてしまう。

それこそ喋るだけで、

居るだけで不幸にしてしまう。


花奏「愛咲。」


愛咲「なんだ?」


花奏「ここに来たのは誰の指示なん?」


羽澄「花奏、早く行きますよ。」


花奏「聞いてからや。聞くぐらいええやろ。」


羽澄から腕を外し、

ふらつきながら近くにあった

ロッカーへ体重を寄せる。

麗香やら羽澄やらが不安げに

近寄ってきたがその事には目もくれずに。

随分と変な周期だな。


愛咲「…うちらは声が聞こえてきて、偶々」


花奏「そんなはずないよな?」


愛咲「何で決めつけるんだよ。」


花奏「愛咲達がここにおるはずないからや。誰かの指示がない限り、ここには歩しか来んやった。」


愛咲「知ってる風に言われたって」


花奏「知ってるんよ。」


愛咲「…。」


花奏「何回も見てきたんよ。繰り返してる中で1回もここに来ることはなかった。」


麗香「繰り返すって…何言ってるけぇ?」


花奏「…。」


何馬鹿なことを言っているんだ。

そんな視線をぶつけられた。

愛咲もそんな目をするんだ。

歩の近くにしゃがむ彼女は

どこか不安の滲む色をしていて、

あぁ、綺麗なんだなって思った。

繰り返しに慣れていない、

人を助けることが

当たり前だと思っているその目。

もう、私は無くしたけれど。


羽澄「いいから早く」


花奏「私の予想やと梨菜なんやけど、どうなん?」


愛咲「…っ!?」


徐々に開いてゆく目を見て、

良くも悪くも素直だと思った。

想像はつく。

私以外に記憶が朧げながらにあって

機械の存在も知っている人間。

私が唯一繰り返していることを話した人間。

CPUではない人間。

梨菜しかぱっと思いつかなかった。

違う行動を取ったのだ。

1人だけ、大まかには同じだろうと

全く違う言葉を使ってきた。

「何回目の今日なのか」って。


他のみんなの中で

繰り返している人がいたら

同じように干渉してくるだろうに。

梨菜以外いなかった。


花奏「梨菜から何て?」


愛咲「…っ。」


花奏「なんて言われたん。」


羽澄「もうやめてください!」


花奏「…梨菜に、私を止めろって?」


愛咲「それは…」


花奏「言えへんの?」


愛咲「…っ。」


羽澄「花な」


麗香「花奏が学校で自殺する可能性が高い、止めて欲しい。」


羽澄「…!…梨菜に言うなって言われてたじゃありませんか。」


麗香「隠したって無駄けぇ。花奏も馬鹿じゃないし、愛咲先輩ももう隠せないけぇ。」


花奏「…。」


歩が黙って俯くのを傍目に

麗香は少し俯いた。


隠す前提だったのか。

私が記憶を持ったまま戻った場合、

対策されないようにするためだろうか。

全てが変わったのは梨菜のせい。

梨菜が私の自殺をきっかけに

時間を巻き戻している。

何故。

私を救う為?


花奏「……なるほどなぁ…。」


…。

梨菜はどうやったら止められる?

…。

…梨菜を…殺す…?

そんなの、愉快犯と同じだ。

でもこの際どうでもいいのかな。

何をしても変わらない日々から

抜け出すためには

梨菜に手をかけて私も死ぬ。

それがいいのかな?

そんなんじゃ駄目だよね。

思い出して。

思い出せ。

刺される怖さを。

あの図書館での恐怖を。

あいつと…それに、森中と

一緒のことをするなんて。

…そんなの嫌だ。


花奏「…………ぁぐっ…!?」


じり、と比にならない程の

激痛が脇腹や手首を縛り付ける。

立っていられなくなり、

また視界が揺らぎ、

どこにいるのだか分からなくなる。


花奏「は、は…………ぁ゛…っ!?…えぁ゛っ…」


今までだって痛んでたじゃないか。

何今更芝居みたいなことやってるんだ。

でも本当に痛いの。

刺された時より遥かに、ずっと。


「花奏、おい花奏っ」


「先生呼んでくるけぇ!」


「…!しっかりするであります…花ー」


あ。

…。

………。

…ぁ。


もう、駄目かも。

視界がブラックアウトしてゆく。

音が遠のいてゆく。

これからもこのままこの日々を

進むことなく過ごすのかな。

そう思った時には

意識を手放していた。





***





「お大事になさってくださいね。」


花奏「…。」


梨菜「ありがとうございました。」


梨菜は律儀に深くお辞儀をして

私の手を引き病院を後にした。

私はどうやら倒れてしまったらしく、

その場にいたみんなは慌てて

病院へ連絡、そのまま運ばれたと。

梨菜からみんなに何かを伝えていたのか、

この場には私と彼女のみ。

2人だけで夜道を歩いていた。

雨は止んでいる時間のよう。

夜遅いことが予想される。


父さんは出張の影響で

すぐさま戻ってくることは出来なかった。

確か結構遠いところ、

それこそ地方の方への勤務だったはず。

そのため、保護者代理のような役割を

梨菜が担っていたんだろう。

代理が先生ではないあたり

梨菜が結構強く要望したのかな。


梨菜「倒れた時に怪我がなくてよかった。」


花奏「…。」


梨菜「このまま家まで送るね?」


花奏「…。」


梨菜「ここからどのくらいだっけ。」


花奏「…。」


彼女は道端に身を寄せ、

私もそのまま手を引かれ

彼女の方へ連れて行かれた。

後ろでバイクが走り去る音がする。

今彼女の手を振り切って

道路へ身を投げてしまおうか。

…それでも根本解決にはならない。

戻るだけ。

…。


梨菜「…ここからだと…あ、そこの大通り曲がったらあとはほぼ一直線だね!」


花奏「…。」


梨菜「待たせてごめんね。じゃあ行こっか。」


花奏「…。」


明るく普通に振る舞っている梨菜が

心底気持ち悪く見えた。

繰り返しているんでしょ?

なのに嫌な顔も不安げな顔もすることなく

普段通り笑顔で。

気持ち悪かった。

作り物だと思った。


夜は酷く青く孤独が染み渡る。

1人で歩いている方が楽だったな。


梨菜はしきりに私へと話しかけてきた。

全てを無視していても

ずっと話しかけてくる。

それはもはや狂っているとも見える。

笑顔で只管楽しげに

今日こんなことがあったんだ、

最近この曲好きなんだ、と。

話題は尽きずに次々と出てくる。

彼女の人形になったようで

心底気分が悪かった。


梨菜「それでね。…って、家この辺だよね。」


花奏「…。」


梨菜「あ!あったあった。話してたら思ったよりも早かったね!」


花奏「…。」


梨菜「ねえ、花奏ちゃん。」


花奏「…。」


梨菜「あのね、少し話したいことあるからお家にあがってもいいかな…?」


花奏「……嫌や。」


梨菜「そういうわけにもいかないの。」


花奏「嫌。」


梨菜「花奏ちゃん…。」


しょぼんと見て分かるほど

肩を落としているのを見ても

何も情が湧かない。

泣くことも笑うことも出来なくなって

幾分か周期を経た。

感情はどこにいったんだろう。

梨菜を見ていると私のあの日々は上手く

出来ていなかった気がしてならない。

下手。

私のあの日々は無駄だったのかもしれない。

もしかしたら、元より梨菜に任せていたら

全てが上手くいったのかもしれない。

私の足掻きなんて無駄だったのかもしれない。


梨菜「ここは譲れないよ。」


花奏「…。」


梨菜「お願い。」


さっき病院で頭を下げていた時のように

深々とお辞儀をしていた。

そうされても私は彼女を

家に入れる気なんてなかった。

…けれど、私自身終わるためには、

……その為には、

彼女を止めなければならないわけで。

嫌でも何でも話し合う他

ないのかもしれない。


全てを諦めて家の中に入ると

否が応でも彼女はついてきた。

もう止めはしなかった。

彼女の意思は折れないだろうと

想像がついてしまうから。


家に帰るとお母さんの笑顔が見えた。

私、そっちにいけなかった。


梨菜「単刀直入に聞くね。花奏ちゃんは何回目の今日なの?」


花奏「…。」


またその質問か。

…と、心の中でため息をつく。

私も彼女も立ったままで。

夜の帳が下りて数時間。

眠るまで、戻るまでは

時間がかかりそうだった。


梨菜「…私、知りたいの。」


花奏「…。」


梨菜「花奏ちゃんが何で自殺しちゃうのかを知りたいの。」


花奏「…記憶にないな。」


梨菜「そんな事ないでしょ?…愛咲ちゃんや麗香ちゃんに聞いたよ。「繰り返してる」って口にしてたって。」


花奏「…。」


梨菜「ねぇ」


花奏「………あはは。」


酷く乾いた声。

表情筋は何ひとつ動いていないのが

自分でも分かってしまった。


梨菜「…花奏ちゃん。」


花奏「煩い、黙ってや。」


梨菜「…っ………あのね、私は助けたいの。」


花奏「……何言ってるん?」


梨菜「助けたいの、花奏ちゃんのこと!」


1歩。

躙り寄る梨菜の姿は

最早恐怖でしかなかった。


梨菜「夢だったのかもしれないけど、花奏ちゃんは私に話してくれたよね?」


花奏「…。」


梨菜「歩ちゃんが死ぬって。それをなかったことにする為にやり直して頑張ってるんだって。」


花奏「…。」


梨菜「ぼんやりとだけど、機械の話だって覚えてた。」


花奏「…話さなきゃよかったな。」


梨菜「…っ……。…でも、数回繰り返した私からの視点だと歩ちゃんは死なないの。」


花奏「………え…?」


梨菜「死ぬのは花奏ちゃんだけなの。」


そんなはずない。

歩は必ず…。


…。

…私が死んだから…?

やっぱり私がいなくなれば

歩は助かるの…?


梨菜「花奏ちゃんは意志を持っていろんな場所でいろんな方法で死んだ。」


花奏「…。」


梨菜「1番最初は機械の場所が分からなくて巻き戻すまでに3か月はかかった。」


花奏「…。」


梨菜「…知ってる?その時のみんなの顔。」


花奏「知るわけないやろ。」


梨菜「だよね。…見るに堪えなかったよ。特に歩ちゃんは塞ぎ込んじゃって…いついなくなってもおかしくないくらい不安定になってた。」


花奏「…っ…。」


梨菜「歩ちゃんだけじゃない。みんないつものように笑えなくなってた。そんなの嫌じゃん。やり直せるなら、今までが戻るなら戻したいじゃん。」


花奏「…。」


梨菜「…それで、ほぼ消えかかってた記憶を頼りに機械を探した。」


花奏「…。」


梨菜「…それで漸く見つけて戻ってきた。みんなが普通に笑ってるのを見て凄く嬉しかった。」


花奏「…。」


梨菜「それから私は花奏ちゃんを止めようと試行錯誤したけど、そもそも花奏ちゃんし死ぬ時間も場所もランダムで。」


花奏「…。」


梨菜「そこで思ったの。花奏ちゃんも記憶があるままなんじゃないかなって。」


花奏「…。」


梨菜「1度顔を合わせて話さなきゃ分かってくれないって思った。」


長々と話す彼女の目は

揺らぐことなく私を捉え続けた。

井草の匂いがする。

間違いなく私の家なのに、

何だかいつもとは違う空間に

いるような気がしてならない。


花奏「…何が言いたいん?」


梨菜「自殺しないで。」


花奏「…じゃあ殺して。」


梨菜「……っ…どうしてそこまで…。」


花奏「…。」


梨菜「…何が嫌だったの。」


花奏「…。」


梨菜「…何で死ぬ方法しかないと思いこむの…!」


花奏「…。」


梨菜「私じゃなくていい。歩ちゃんやみんな…頼れる人が周りに」


花奏「………殺してや。」


梨菜「…っ!」


花奏「…そんで、もう戻すのはやめて。」


梨菜「何で………っ。」


梨菜は悔しいのか

手をぐっと握りしめたあと、

刺すほど鋭い目つきで私を見やった。

何だろう。

やっぱり梨菜は何がしたいのか

よく分からなかった。


梨菜「…そんなの、出来ない。」


花奏「…。」


梨菜「大切な人を助けられるチャンスなのに、それを捨てられるほど私は大人じゃない!」


花奏「…!」


珍しく彼女が叫び訴えるものだから、

思わず落としていた視線が上がり

梨菜を見据えてしまった。

真っ直ぐな目。

良くも悪くも素直な目。

…あぁ。

私も最初はあぁだったのかな。

…。

…最初はよかったな。

初心、か。

どんな願いを抱いていたんだろう。


…。

歩を助けたい、だっけ。

歩が生きる明日が欲しい、だっけ。

ずっと隣に居たい、だっけ。

その全てだっけ。


梨菜「私は…私はもう、大切な人を亡くしたくない!」


花奏「何それ。」


何それ。

何それ。

何でそう思えるの。

私は何でそう

思えなくなっていったの。

いつから自分が死ぬことばかり考えて

それを目標にしていたの。


しかし、梨菜の話を聞いて

私が死んだ時現に歩は

生きていたと知り、

間違いではなかったんだと言い聞かせた。

…そう。

間違いじゃなかった。

正しかった。

正しかったんだ。

…。

…そう、誰かに認めて欲しかっただけだった。


花奏「…それが迷惑なんよ。」


梨菜「迷惑だろうと何だろうと、花奏ちゃんが生きてなきゃ嫌だ。」


花奏「なら歩は死んでええん…?」


梨菜「そんな事ひと言も言ってない。歩ちゃんも花奏ちゃんも生きる方を選ぶ。」


花奏「そんなのないで。」


梨菜「何でそう言い切れるの。」


花奏「沢山試しても駄目やったから。歩は必ず死んだんや。」


梨菜「沢山とは言っても全部試したわけじゃないでしょ。」


花奏「…っ。」


梨菜「私は諦めないから。」


綺麗事だ。

耳を貸すな。

それでも声は無情にも届き、

私は彼女と比較せずにはいられなかった。

私は駄目なんだ。

駄目だ。

すぐに諦めてしまった。

歩を何度も死なせておいて

最終的には何も感じなくなってしまった。

駄目なんだ。

私は無力だ。


…。

…もう、どうすればいいの。


梨菜「私は絶対、みんなが生きる未来を探す。」


繰り返した。

記憶を保持して繰り返した回数は

梨菜より多いとは思う。

それだけ歩の死を重ねた。

そしていつからか自分のことしか

見えなくなっていった。


歩を。

歩を助けたかったんだな、私。

今じゃ。

…。


梨菜「私の願いは花奏ちゃんに自殺をやめてもらうこと。」


花奏「…。」


梨菜「歩ちゃんのこと、私はまだあまり分からないけれどそれも止める。止めてみせる。」


花奏「…。」


梨菜「だから、もう忘れていいよ。」


私が死ぬこと、

歩を助けること。

その2つをイコールで結びつけて

固く固く縛った。

それを正しいと信じて疑わず。

疑わないように。


…その為にはやっぱり梨菜が

邪魔になる。


彼女に何も言わずに熟知する家の中を歩き、

台所へと向かった。

それから、シンク下の引き出しを開き

銀色に鈍く光る凶器を手に、

1度深呼吸をする。

相変わらず体は痛い。

変に冷や汗ばかり出て止まらない。

寒いがあまり手足の先は冷えているのに

体の芯は恐ろしく暑い。

狂気だ。

私はとっくのとうに狂ってしまってたんだ。

そう思うと気が楽になった。

何したって許される。

そんな気がしたから。


梨菜「花奏ちゃん…?」


暗がりの台所へ、

彼女が足音を立てず

忍び寄るのを感じる。


梨菜の言う通りに忘れたままで。

それでいいのだろうか。

歩は言ってた。

きっと私が何しても

どんなに酷いことをしても許すと思うって。

…いいのかな。

甘い誘惑だった。

このまま忘れてしまえば。

そう考えたことはなかった。


梨菜「えっ…ぇ…や、え…?」


花奏「…っ。」


少し離れた位置にいる彼女に

包丁の刃を向けた。

後退りする梨菜の姿。

背は壁についていて、

もうそれ以上下がれないところまで来ていた。

怖いんだろう。

私もだった。

この行為をすることで

愉快犯や森中のように

なってしまうのは怖かった。


大人になれない私は

こんな方法しかとれないのだ。


刃を、振り上げて。

…。


ぐっと力を入れた。


梨菜「…っ!?」


花奏「…ぃぁ゛…っ…。」


左手首に刺さる凶器。

とぼとぼと湧くように血が流れる。

森中との最悪な周期が

記憶の中でもやもやと存在感を増す。


忘れるな。

忘れちゃ駄目だ。

こんな甘い話にのっちゃいけない。

私は。

私は、幸せになっちゃいけない。

忘れちゃいけない。

一生背負うんだ。

この罪は決して簡単に

逃れていいものじゃない。

背負う。

この先生きるとしても死ぬにしても

背負うんだ。

こればかりは逃げていられない。

逃げられるもんか。

この痛みも吐き気も全て、

きっと今後一生ものだ。


死ぬ気満々でいたのに

生きるとしたらの例え話が

脳裏を掠めてゆく。

そこでふと、歩の発した

鋭い言葉が過ぎった。





°°°°°





歩「許さないから。」


花奏「…っ!」


歩「死ぬとか、そんなの絶対許さないからっ!」





°°°°°





花奏「……あ……は、は…。」


そうだ。

私、許されないんだ。

死ぬこと、許されないんだった。

あぁ。

あ、ぁ。

そっか。

…そっか。

そうだった…。

そう……ぁ…あぁ…。

死ねない…んだ。


あれだけ許すと言ってくれた歩が

唯一許さないと言ったんだ。

…当時は聞いてる

ふりをしてるだけだったのかな。

今になって実感する。

身に染みてゆく。

緩やかにきつくきつく

私を縛り出した。


いつもいつもあなたに救われて

いつもいつもあなたに苦しめられた。


その優しさが嬉しかった。

今すぐにでも泣き出したかった。

その優しさに救われた。

抱きついて弱音を吐露したかった。

私どうしたらいいか分からないって

本音をぶちまけて楽になりたかった。

その優しさが辛かった。

いっそ罵倒してくれた方がましだった。

いっそ殴って見捨ててくれた方が楽だった。

許してくれない方が楽だったと気づいた。


梨菜「花奏ちゃんっ!」


梨菜が慌てて駆け寄ってくる。

私、死ねないなら…

…やっぱりあの2日間に

閉じ込められるしかないんだね。

なら、梨菜はどうするべき…?

殺すべき?

生かすべき?

自分の感情が分からない。

迷子になったんだ。

私はいつからか

知らない世界にいて迷子になり、

赤子みたいにわんわんと

大声を上げて泣くことしか

出来なくなっていたんだ。


辺りが暗いせいで状況は把握しづらいが

梨菜の手が私に触れようとするのは

何とか見えた。


全ての選択肢を試すんだ。

そうなんでしよ?


手からこぼれかけた包丁を

再度確と握り直した。

寒気がするほど手中のそれは

異彩を放っている。

その伸びてくる手を目掛けて

凶器を、刃物を振り翳した。

目をこれでもかと言うほど

強く閉じて。

目を背けて。


…。

…。

…。

…。

…?

…。

…どう。

どう、なったのか。


…。


…。

…。


…。

ぁ…。


ぇ…?


何がどうなったのか

何ひとつさえ理解できないままに

後頭部に鋭い衝撃が走る。

え?

…え、どういう。

微かに目を開くと同時に

何か、腹部に違和感があった。


花奏「……………ぁ…」


あれ。

どうして倒れていて、

どうして天井を見上げているんだろう。

圧を感じる。

馬乗りされている。

更に腹部には強く違和感が働き出した。


花奏「か……あああぁあ゛あ゛ぁあ゛ぁっ……!?」


痛い、を超えてしまって

叫んでないと正気が保てないと

本能が判断した結果だった。

痛みを逃していないと死んでしまう。

そんな危機感が体を巡った。


足ががくがくと揺れている。

だらしなく涎が頬を伝う。

揺ら揺らと冷たい視線が

私を掴んで離さない。

あの時に似ている。

初めて刺されたあの時と。

梨菜の目つきは愉快犯と似ていた。


梨菜は構わず刃物を振り下ろし続けた。

何度も何度も。

恨みを持っているかのように。

何度も。


段々と霞む意識。

声を上げられる体ではなくなっていく。

歩はこんな感覚を何度も味わっていたのか。

…そりゃあ怖いや。


朦朧とする中微笑みかけた。

笑ってみた。

私に相応しいのはこういう結末だ。

幸せなんて欠片もない、

こんな不幸な現実が私にはお似合いだ。

私は救われちゃいけない。

幸せにはなっちゃいけないんだ。


ありがと、梨菜。

お陰で少し楽になった気がする。


梨菜「は、はっ……ぁ……っ。」


花奏「………ぁ……は、ぁ゛…ぃぁ……す、ぅ゛……ぉ………」


梨菜「ぁ、あ…花奏ちゃん、花奏ちゃんしっかりして、しっか」


この時間帯ならまだ歩は死んでない。

歩が生きる中、私は殺される。

悪くない気分だったな。











…。

先生の声がする。

結局梨菜は私を殺したあの周期から

また随分と回数を経た。


伏せたままにこれからのことを考える。


私は歩に死んだら許さないと

言われたにも関わらず

何度もそうしようと試みていた。

その度に梨菜に邪魔をされた。

そのまま12日まで引っ張れば

歩は必ず亡くなった。

歩が死んだ時は主に私が巻き戻し、

私がいない時は勿論梨菜が戻している。

まるで共同作業をしているよう。

奇妙にも程がある。


それから、梨菜が私の元へ赴くことは

私のことを刺して以降ほぼなくなった。

元より本人直々の干渉という干渉は

なかったけれど。

そして干渉の仕方がそれとなく

変わっていた。

これまでは「私が死ぬから気にかけろ」

という内容だったが、

最近は「12日に私を遊びに誘って」

といったニュアンスだ。

普通の周期ではありえない事が起こる度、

誰かからいつもとは違った何かを言われる度

どんな指示が飛んだのか

聞くようにしていて正解だった。

ただ、そこに差があったからといって

私の行動も歩や梨菜の行動も

何ひとつ変わりなんてしなかった。


羽澄に誘われて海に

連れて行かれたことも有れば

麗香に誘われて

猫カフェに連れて行かれたこともある。

その全てを私はさも普通のように過ごす。

歩からの誘いだけは

どうしても心が拒絶してしまい

また久しく会っていない状態が続いていた。

梨菜の影響があり、

歩含め誰がどこにいるのか

把握しづらくなった。

そのために、無闇に廊下を歩く事すら

あまり出来なくなっている。


全てが梨菜の掌の上で

転がされている。


花奏「……。」


その時。

2限目の終わりを告げる

チャイムが鳴った。





***





湊「花奏ちゃん寝てたね、珍しい。」


花奏「…まあな。気づいてたんや?」


湊「席後ろだし流石にね。」


花奏「そりゃそうよな。」


湊「寝顔が見れなかったのが残念っすねー。」


花奏「…うん……。」


湊「ちょっとちょっとー。うち以上に残念そうで笑っちゃうよ。」


花奏「…。」


湊「どうした?考え事?」


花奏「まあ、結構大きな考え事やな。」


湊「ほう…?」


花奏「…。」


私が使える人。

…それこそ湊くらいだろうか。

湊だけは梨菜と何も接点のない人間だ。

「使える」なんて表現を

惜しみなく用いていることにぞっとした。

歩の死に関してもそう。

亡くなるではなく死ぬと

安易で敬意も感じない

言い回しをするようになった。

そんな自分が怖くなる。

…怖いふり、か。


湊「うち、力になれそうかい?」


花奏「…どうやろうな。」


湊「みくびってもらっちゃ困るよ。」


花奏「そんな意図はないて。」


湊「あはは、分かってるよ。じょーだんじょーだん。」


てしてしと軽く肩を叩かれる。

湊がこのテンションということは

私もそれなりにいつも通り風に

振る舞えているのだろう。


繰り返す日々。

使える駒。

互いの願い、目標。

それらを考慮して行動する。

まるでゲームのよう。

何度もやり直しが出来て

選択肢によって未来が変わる。

そんなゲーム。

現実なのに、そう思っては駄目なのに

十二分にこの日常に慣れてしまって

今更元の思考に戻すことは出来なかった。

時間は戻せても私の慣れてしまったこの頭は

決して戻ることはない。


湊「ちょいちょい。」


花奏「…ん?」


湊「真剣な顔しすぎ。そんなんじゃ顔しわっしわになっちゃうよ。」


花奏「どういうことなんや…。」


作り笑いすらほぼしなくなっても

湊は変わらず私に声をかけ続けた。

いつだかの周期以来

湊の事が怖くて近づかなかったけれど、

梨菜達を始め他の脅威が現れてから

彼女の脅威はそうでもないなと

思うようになった。

慣れって怖い。

きっと、心の底から

怖いとは思っていないけれど、

怖いという単語がしっくりくる。


湊に話しても次の周期では忘れる。

梨菜以外はそうだった。

毎回同じ言葉をかけてくる湊は

梨菜のように記憶が

残るタイプではないと思う。

勝手な予想でしかないが。

想像なんていくらでも出来る。

このクラスの中に繰り返している記憶が

ある人がいるかもしれない、等。

そんなことを考えていても仕方がないか。


花奏「なあ、湊。」


湊「ほ?」


花奏「昨日ゲームしててな、全然クリア出来ひんねん。」


湊「へー、花奏ちゃんゲームするんだ。意外かも。」


花奏「まあ、ちょっと気になってな。」


湊「それがクリア出来ないと。」


花奏「ちょっと知恵貸してくれへん?」


湊「え、頭使うタイプ?」


花奏「だいぶ。」


湊「まじかー。ま、話は聞こうか。」


きりっとかっこつけて足を組むと

机に両手で肘をつき手の甲に顎を乗せる。

どうやらこれが彼女にとっての

考えるモードらしかった。

程よくふざける湊はなんだか懐かしく、

楽しいと思いたくなる気持ちに蓋をした。


それから大まかに概要を話した。

あくまでゲームの話として。


まず、選択肢によって変わる物語である。

主人公はヒロインを助けたい。

ただ、何をしても助けられない。

主人公が諦めて自殺しようとしたところ、

主人公と同じように日々を

繰り返していると知っている

知り合いAが現れる。

そして昨日に戻される。

主人公が死んだ周期では

ヒロインは生きている。


主人公の願いは

ヒロインを助けること。

知り合いAの願いは

主人公の死を止めること。


その2人の願いを上手いこと収束させ

エンディングを迎えなければならない。


ざっくりとでしかないが、

そんなゲームだったと彼女に伝えた。

湊は当たり前のようにゲームの内容だと

思っているからか特に顔を顰めることなく

淡々と、時に相打ちをして聞いていた。


この時間に誰も来ないあたり、

梨菜は別の手を使って

私に干渉するつもりなんだろう。


湊「…なるほどねぇ。って、内容すんごい重過ぎてびっくりしちった。」


花奏「……確かに重いかもな。」


湊「何ていうの、鬱ゲーってやつ?湊さんはあんま得意じゃないから全く手を出さないんだよねー。」


花奏「想像つくわ。」


湊「それであんなに悩んだ顔してたのかー。確かに八方塞がり感あるもんね。」


花奏「湊やったらどうする?」


湊「うーん……。…うん、すぐに答え出せないや。」


花奏「…そうよな。そもそも訳分からんよな。」


湊「いや、そうじゃなくってね。」


花奏「…?」


湊「うちもちょっと考えたくなったからさ、次の中丸先生の授業中、覚えてるストーリーの流れをノートに書き出してくれない?」


花奏「え?」


湊「概要だけ聞いても難しくない?」


花奏「…どうなんやろ。」


湊「だってだってさ、例えば…そうだな、千と千尋の神隠しが選択肢ゲームだったとするよ?」


湊はいつもと変わらず

分かりづらそうな例えをあげた。

人差し指で机をなぞる。

その下には今回消しかすの姿はない。

微かに油脂が残った。


湊「女の子が変な世界に迷い込んで、そこから出たいっていう内容です。」


花奏「…?…うん。」


湊「それだけ聞いてさ、油屋に働くか働かないかーとか、ススワタリを踏むか踏まないかーとかって選べないじゃん?」


かつ。

彼女の爪が緩やかに机をひと叩き。

妙に映画について詳しいことから

何度か見ているのだろうと察しがつく。

ススワタリが一体何なのか

理解するまでに少しかかった。


花奏「…結局どういうことなん?」


湊「ほんの1部分だけ見てもより良さそうな判断はできないってこと。」


花奏「……なるほどな。」


湊「花奏ちゃんが本気で悩んでるもんだから、流石にその先気になるじゃんね。」


花奏「面白半分やな。」


湊「まあね。だってゲームなんでしょ?」


花奏「……うん。」


…ゲーム。

ただのゲーム。

そう言い表されると

言葉にできないほどの陰りと

憤りが浮かび上がってくる。

…。

今だけ。

今周期だけ我慢すればいいか。

…そもそも、何も感じる必要はないか。

怒るも悲しむも

全て無意味なものだから。


湊の上半身はやがて机と仲良しになり

机の隅に寄せていた消しかすを

人差し指で弄りだしていた。

それを冷静に見つめる私がそこにいた。





***





湊「いよーし、とーおちゃーく。」


花奏「何気に初めてやな。」


湊「ねー。わーもう靴までびちゃびちゃ。」


からからと戸を開き

彼女を家に招き入れる。


学校が終わってすぐ

何かから追われて逃げるように

家への帰路を辿った。

それは雨なのか梨菜なのか。


学校だと邪魔が入る可能性が

高いと判断したのだ。

今までがそうだった為、

今回この時間まで何も起こっていないことに

一種違和感を感じる。

同時に不気味さが増していた。

だが、雨は変わらず降ったことに

どこか安心している節がある。


湊「花奏ちゃんって洋風系の家に住んでると思ってた。お城ってことじゃなくてマンションってことね。」


花奏「そんな偏見あったんや。」


湊「イメージ?直感がびびっと言ってたんだけど、残念、違ったやー。」


湊は靴を脱ぎ

そのままの勢いで家の中に入ると

リビング手前で何故か棒立ちになっていた。

井草の匂い。

相変わらず鼻をつつく

独特な香りがそこに住み着いている。


花奏「どうしたん?」


湊「ん?いやー、何もないっすよーん。」


花奏「そう…?」


湊「手洗いうがいさせてちょ。あとタオル貸して欲しいな。洗面所ってこっちー?」


私が湊の元まで行くと

彼女ははっとして言葉を紡ぎ

リビングへ足を踏み出した。

何というか、彼女らしくない

ぎこちなさが見える。

何かと思って先ほどの湊の視線の先を追うと、

お母さんのお仏壇があった。

あぁ、だからか。

私にとって日常になってしまったひとつ。

この景色にも慣れてしまった。

お母さんからずっと

微笑みを向けられていることに

慣れてしまった。


それから彼女と簡単な話をしつつ

手洗い等を終え、

いつもは食卓として使っている

大きく背の低い机を挟んで互いに座る。

湊はというと、私が3限目に

出来る限り思い出して書き出した

今までの周期について記された紙を

取り出していた。


湊「よし、んじゃあ始めますか!」


花奏「うん。」


湊「まずね、一応ひと通りは目を通したんだけど…まー難しいことしてるねって感じ。」


花奏「難しい、か。」


湊「うん。クオリティが高いっていうか…え、そこに選択肢作ったの?ってくらい細かく作られてんじゃん?」


花奏「あー…そうかも。」


湊「まるで現実みたいだなってうちは思ったな。」


花奏「…せやな。」


湊「って、うちの感想聞きたい訳じゃないもんね。すまそすまそ。」


花奏「いや、全然ええんやで。」


湊「うちが思い付いたのはね…どこまで自由度のあるゲームか分かんないんだけど、何してもいいんだったらタイムマシン壊せばいいんじゃない?って思った。」


花奏「タイムマシンを壊す…?」


湊「そう。」


夥しい文字の量で埋め尽くされた紙を

数枚広げて彼女は言い放った。

壊す。

壊す…?

そしたらもう戻せないじゃないか。


花奏「…ヒロインの子を助けるのはやめるってこと?」


湊「というよりかは現実を見て生きるルートって感じ?」


花奏「それやと主人公の願いは叶わへんやん。」


湊「それもひとつのエンディングだけどね。」


花奏「それは…あんま見たくないねんけどな。」


湊「ううん…ま、そう言うだろうと思ったよん。」


花奏「…。」


湊「このヒロインの子、主人公が生きている限り絶対死ぬの?」


花奏「今のところそうやな。」


湊「本当に主人公が死ぬこととヒロインが生きることに因果はあるのかな。」


花奏「可能性は高いんやないかな。そういう仮定にして一旦考えてほしい。」


湊「ふむ。要望の多いストーリーだね。」


花奏「…。」


うーん、と唸りながら

机に広がる文字の海を眺む。

何回目にどの周期があったかなど

そこまで細かには覚えていなかったので、

順番はばらばらで覚えている限り

書き出してはみた。

所々、違う周期の内容が

一色単になって記されているかもしれない。

私にはもう、真か偽かは

判断できなくなっている。

繰り返し過ぎたんだ。


湊「てゆうか、何だっけ。知り合いのA?が動き始めた時点で詰んでるんじゃない?」


花奏「えっ…?」


湊「だって、Aが動くだけでこのお話はすんごい拗れるでしょ?」


花奏「…う、うん。」


湊「んで、予測不可能なことになっていく。」


花奏「…。」


湊「予測不可能が重なる割にはヒロインの死は変わらないんだね。」


首を捻る彼女の目は真剣で。

確かに、これだけ梨菜が動いて

様々な事が作用し

今までと違ったことが起きても

歩の死だけは不動の未来のまま。

ということは

梨菜でさえ変えられていない

何かの要素があるということ?

そもそも梨菜は私の自殺を

止めようとしているだけで

対して歩の救助には

向かっていないと言える。


湊「……んー…。」


花奏「…。」


湊「はじめからが手っ取り早いんじゃない?」


花奏「はじめから、か。」


湊「そう。…あー、でも…ヒロインを助ける手立てが明確になってないと意味ないか。」


花奏「ヒロインを助けるには主人公が死ぬしかないとして…そうするとAが邪魔になる。」


湊「あーたまが痛い。卵が先か鶏が先かのあれみたい。」


花奏「…。」


湊「…あ、分かった!」


頭をぐりぐりと押していたかと思えば

急に声を上げるものだから、

驚きのあまり肩が跳ねる。

酷く家鳴りがした。


花奏「思い付いたん?」


湊「うん!卵か鶏かとは違って最初はあるもんね!」


花奏「…?」


湊「まず、はじめからにする。その時Aは何も知らないでしょ?」


花奏「はじめからならそうやな。」


湊「そして警察に「殺人犯に似た顔の人がいる」って通報、殺人犯の脅威は無くなったとする。」


花奏「そんな簡単にいくもんなん?」


湊「ま、仮定よ。んで、事故を起こす車はまたもや警察に「盗難車です」ってデマ電話をする。」


花奏「うん。」


湊「えっと…あれ、このままだとB死ぬ?」


花奏「…あー…そうかも?」


Bとは美月のこと。

紙面にはA〜EかFくらいまで

人物が書かれていて

ごちゃごちゃし人物把握が

しづらいにも関わらず

湊はぶつぶつと呟き

脳内を整理している様子。


湊「というより、殺人犯と車を止めた時点で解決しそうなのにそうはいかないんだ?」


花奏「うん。家の中で死ぬな。」


湊「なーんて残酷な結末だこと。」


花奏「…。」


湊「ってことはさ、1回は成功したんだね。」


花奏「え?」


湊「家の外の脅威から守るのには1回だけ成功してる。」


確かに、言われてみれば

あの1回だけ綺麗に死んだ。

歩は髪を散らして綺麗に。

外傷はなかったと思う。

きっと、シャワーヘッドが

ぶつかったことで心臓かどこかの器官が

機能不全を起こした結果

死んだんだと考えていた。

脳震盪か心臓震盪か。

心臓なら衝撃が加わっては

いけないタイミングがあるという。

1000分の15のタイミングで

衝撃が加わると心臓が痙攣。

そのまま心臓は止まるらしい。

あの周期では

そういった類の事故が起きたのだろう。


湊「このルートの時って特徴的な分岐あった?」


花奏「…いや…家から出てないとか…ぐらいちゃう?」





°°°°°





歩「眠い?」


花奏「ぅ、ん…。」


歩「寝ていいよ。」


花奏「………ぁゆ…は…」


歩「私?…んー……今日1日家にいようかな。買いたいものも用事もないし。」


花奏「……うん…。」


歩「眠そう。聞いてないでしょ。」


花奏「聞い……て、る…。」


歩「はい、ほら、布団入って。」





°°°°°





実際私は寝ていたし

家から出ていないかは定かではない。

しかし、歩があの状態の私を

置いておくとも想像しづらかった。

歩のことだ。

…それは、歩に求めすぎだろうか。


湊「じゃあ、殺人犯は家の前で待ってたのかもね。」


花奏「…?何でそれに繋がるん?」


湊「え?だってずっと家の中にいたんでしょー?」


花奏「うん。」


湊「車はまあ来る訳ないじゃん?残る脅威は殺人犯じゃん?」


花奏「うん。」


湊「でも犯人ってインターホン鳴らしにさえ来なかったみたいだし、部屋番号分からなかったパターンなのかなーって。」


優しく添えるように

その周期のことが記された部分を

指差していた。

湊の言いたいことは何となく理解できる。

犯人は家の前で待っていた。

しかし、部屋番号が分からなかったために

歩が出てくるまで待機。

結局彼女は家から出る機会がないままに

例の時間になってしまった。

…ということだろう。


湊「…って、話ずれちゃった。とりあえず車と殺人犯はそれでおっけーってことにして…Bには嘘ついて交差点から離す。」


花奏「なるほど。それこそどこかで時間決めて集合するとか?」


湊「そうだね。その方法って確かどっかで…えーっと…あ、あった。このルートで成功してるもんね。」


花奏「理屈的にはいけるはずなんよな。」


湊「うん。Aが何もしなければ。」


花奏「…そうやんな。」


湊「んで、後は簡単。タイムマシンを壊して自害。」


花奏「タイムマシンは壊すんやな。」


湊「じゃなきゃAは動くし、そうじゃなくともこのメモを見てる感じBからFもタイムマシンを見つける可能性、ありそうじゃない?」


花奏「……確かに。」


湊「タイムマシンを壊す前に最大限の危機回避はする。そして主人公は死に、ヒロインは生きる。」


花奏「良さそうな気がするな。」


湊「まあ、タイムマシン壊すからもう戻れないっていうすんごいプレッシャーはあるけどね。」


花奏「…。」


もう戻せない。

そっか。

その方法で失敗してしまったら

もしかしたら私をはじめ

歩、美月あたりのみんなも

死んで終わるという可能性がある。

失敗は出来ない。

たった1回きり。

けれど、その1回の前に

何度も試行することは出来る。

ひとつひとつ調査して検証し、

成功したんだ事例を組み合わせれば。


…梨菜という予測不可能な存在さえ

いなければこの案を取っていたのに。


それからもこうならどうか、

ああならどうかと話し合いを続けるも

全てを解決できるような

選択肢はなさそうで、

これと言った進展のないままに

時間は過ぎてゆく。

無限にある時間が

意味を持たずに進んでいく。

不死身の苦難や悩みを

知った気になっている自分がいた。


夜も遅くなっていたので

彼女には表面ながらにお礼を言い

家に帰ってもらうことにした。

湊は久々にこんな頭を使ったと言い

首からぐるりと頭を回していたっけ。

こき、こきと音が鳴らして

少しでも凝り固まった体を

解そうとしていた。

別れる時、駅まで送ろうとは思ったが、

マップを見れば分かると言われ

突っぱねられた。

ならいいか、と

ポイ捨てする時のような思考が止まらず、

玄関先で手を振る。

湊も健気に手を振っていた。

夜に沈む彼女の姿。

午前2時頃に歩と散歩したあの夜の記憶が

波のように押し寄せる。


花奏「…。」


歩のこと助けたいって

ずっと思っているはずなのに

いつからかそれが目的では

なくなっていた。

自分が死ぬことが第1に。

そして第2に歩を助けることへと変化した。

罪悪感も募っているはずなのに

いつからか麻痺して感じなくなった。

歩が死ぬのは当たり前になった。

歩は死ぬ。

私のせいで何度も死ぬ。

私は彼女へ手向けた死以上に

不幸にならなければいけない。

そう、とは考えている。

…はず。

そのはずなのに、

いまいち実感が湧かない。

…否。

慣れてしまって、分からない。





°°°°°





歩「私は、小津町と居れるだけで幸せだよ。」





°°°°°





間違いなく私も

歩と居られるだけで幸せだった。

そのはずだった。


花奏「…?」


今は。

今は、どうなのかな。











先生の声。

…。

11日。

終わらないと思った11月。

永遠に続くかと思った秋。


花奏「…。」


それも今日で

…今日で、っておかしいか。

今回で終わりだ。

今周期で本当に最後だ。


様々な選択肢の先を見て、

どれを組み合わせると良さそうか

只管に思考して試行した。


愉快犯は元々どこに居て

どのタイミングから

歩の家の近くにいるのか。

どこから来たのかは不明だったが、

12日の朝5時頃から

歩の家の近くにある駐車場に

張っている姿は捉えた。

そして歩が家から出ると

そのまま一定距離を保って尾行する。


愉快犯のことを通報したらどうなるか。

それこそ歩の家の前にいるところを

通報して様子を伺うと、

犯人は隠れたり大暴れしたりと

辺りは騒然としたが無事捕まっていた。

愉快犯が隠れたことで

やり過ごされた周期があったため、

どこに隠れられる可能性が

あるかもと伝えれば

確実に捕まることは実証済み。


車は盗難車だと伝えればどうなるか。

なんとこれは変わらなかった。

ドライバーの人が近道をするなり

車を飛ばしたりするなりして

同じ結末を辿るらしい。

盗難車だと通報しても

運転免許然り何か証明できれば

すぐに放してもらえたのだろう。


車を壊したらどうなるか。

捕まりかけたのですぐに自害。

捕まって収容、その他裁判まで発展すれば

戻るまでに時間がかかる。

その間にも様々な周期にて

試行したことを忘れそうで、

絶対にそうなるわけにはいかなかった。

あまり現実的ではなさそうだった為に

続きを見るのは諦めた。


タイムマシンは何時に来るのか。

例の廃墟でずっと待ってみたところ

ふと現れたのは午後4時15分だった。

歩が死ぬのは24分。

この差はなんだろうか。

それは分からないままだった。


梨菜を殺したらどうなるのか。

軽く叩く程度ならまだしも

殺す気でかかったときは

必ずカウンターにあった。

普段の彼女からは考えられない程の

恐ろしい剣幕で反抗できない力の強さに

ただ息絶えるだけ。

そして11日に戻す。

これは数回繰り返して

ひとつ感じたことがあった。

梨菜は何かしらトラウマを持っていて

パニックに似た状態に

なっているのではないか、と。

その結果がむしゃらに、

自分が生きる為に相手を殺すという

行動になっているのではないか。

ある一種リミッターが外れるというか。

それか単に火事場の馬鹿力だろう。


私が記憶のないふりをしたらどうだろう。

梨菜は歩が死んだ後

すぐには戻す行為をしなかった。

詳しいことは知らないが、

LINEの既読数を見るに

梨菜だけ気づいていないようだった。

きっと何か取り込み中だったのだろう。

だから歩が死ぬ事実は

知らないままだったのかもしれない。

梨菜が歩の死を確認する前に

私が戻すのだから。


その他にも試行して

失敗したら方法を変えて再度試行、

満足のいく結果になれば

すぐに死に戻り別の事柄の試行にあたる。

梨菜に私がしようとしていることを

ばらしたくなかった為、

各々の課題の結果が分かれば

死ぬようにしていた。

時々…どころかほぼずっと

梨菜達からの干渉はあったものの、

潜り抜けることが上手くなっていった。

しかし時に歩が死ぬ時間までに

死にきれないこともあり、

その時は私が戻した。

何周してもやはり歩の死だけは

変わることはなかった。

梨菜からしてみれば

何周しても私の死、そして戻ることだけは

変わることはなかった

…という風になるのだろうか。


花奏「…。」


今回で最後だ。

最初で最後の本番だ。

失敗は出来ない。

その事実に今のうちから心臓は

どくどくと脈打ち、

脇腹は絶え間なく痛み続ける。


今回で必ず私は死に

歩の生きる未来を残す。


その時。

2限目の終わりを告げる

チャイムが鳴った。





***





湊「花奏ちゃん寝てたね、珍しい。」


花奏「…ちょっと待ってな。」


湊「ん、はいよー。」


授業が終わって早々に

まずはLINEを開く。

この辺りは試行していない。

だからだろうか。

大きな不安が押し寄せる。

LINE等梨菜を動かす事柄は

試行してしまっては

対策される可能性がある。

だからあえて試さなかった。


未来のうち半分は確実に変えられる。

逆に言えば半分は不確実だが

変えられる可能性がある。

最後の周期という割には

一か八かやってみるしかない事が

あまりにも多過ぎた。

けれど出来ることはやったのだ。

後は、運任せ。


花奏「…。」


梨菜含めみんなへ

「明日の12日の16時に

成山ヶ丘高校前に集合してほしい」

と。

そして梨菜以外のみんなに

「梨菜が殺人犯に数日間つけられており

極度の不安を感じているせいで

まともではないことを言うかもしれない。

その時は梨菜のことを宥めてほしい」

と加えて伝える。

別途で歩には

「今日の夜私の家に泊まってほしい」

という旨を伝えた。


ひとまずここまでしておいて

様子を見ることにしよう。

もし万が一のことがあれば

タイムマシンを壊す手前で

留まればいいのだから。


湊「終わったー?」


花奏「もう少し待ってな。」


湊「あーい。うち構ってもらわないと死んでしまうよ。」


花奏「大丈夫、湊人間やから。」


湊「変化の術使ってるんだ。」


何か言っている湊を傍目に

筆箱からメモ用紙を取り出し

1行だけを残した。

たった1行。

明日、予定通りに事は進むだろうか。


湊「お、今度こそ終わった?」


花奏「うん。」


湊「なになに、スマホ弄ってたのって彼氏?」


花奏「んなわけないやろ。」


湊「えー、ありそうなのに。」


ぷくーっとふくれたのか

マスクが不自然に動く。

表情豊かだなと

1歩引いて観察していた。


それからは何事もなく授業を受ける。

よく当ててくる中丸先生の授業だって

担任の先生がだらだらと開く

帰りのホームルームだって

今日が最後なのだ。

そう思えばなんだか感慨深い。

ひとつひとつのことが、

一瞬一瞬の出来事が

愛おしく思えてくる。

おかしいよね。

全ては考え方や感じ方次第で

世界って見え方が全然違う。

毎日嫌になってたものさえ

最後だと思えば輝いて見え始める。


昼ごはんにも手をつけれればと思ったが

体も心も食べないことに慣れて

手をつけられなかった。

昼休みだけは用事があると嘯き

屋上手前でのんびりした。

この場所も最後だ。

タイムマシンを壊したらもう戻れない。

私の日常、人生は終わる。

この日々は漸く

繰り返さずに進み出す。


花奏「…。」


ご飯が美味しいって幸せだった。

歩に作ってもらったハンバーグ、

本当に美味しかったな。

懐かしい。

また食べたい。

それくらい、美味しかったはずだ。

空が綺麗って幸せだ。

晴れの日って素敵だった。

夏とかは日差しが強くて鬱陶しかったけど

雨よりは断然ましだもの。

よく眠れるって幸せだ。

悪夢を見ずに気づいたら朝だなんて

そんな幸せをよく見落としてたな。

夢を見ないほど熟睡できるって

とても凄いことだったんだ。

沢山話せるって幸せだ。

みんなと、家族と、歩と。

歩の家に泊まった周期や

森中に邂逅したあの周期があって

肌でひしひしと感じた。


…。

私は多分、幸せだった。

幸せを自分から手放さなきゃいけない。

馬鹿だ。

馬鹿なんだろう。

私は馬鹿なんだ。

歩の言ってた通り、

どうしようもないほどに。

私はこんな考え方しか出来ない。


今まで長いと感じていた

帰りのホームルームはあっという間に終わり

最後の号令を終える。

後ろの席を見やると

湊は既に鞄を肩にかけており

席から離れる寸前だった。


湊「んじゃね、花奏ちゃん。」


花奏「湊。」


湊「ほ?」


花奏「色々ありがとな。」


湊「なーに言ってんだい。今日の宿題のこと?」


宿題。

はて、何の話だっただろうか。

宿題…あぁ、湊に見せてもらったんだっけ。

中丸先生が当ててくるからって焦ってさ。

そんなことあったな。

いつの話だ、と吹き出しそうになる。


花奏「あー…そう、それ。」


湊「水臭いじゃん。いーんだよ、今度午後ティーの無糖奢ってくれるんでしょ?」


花奏「うん。」


湊「ならいいってことよ。」


花奏「じゃあ、私もいつか奢ってや。」


湊「いいよいいよ。何がいい?それこそアンパンマンジュース?」


花奏「うーん…抹茶オレがいいな。」


湊「甘いもんか!くわー、いいねぇ。なーんか喉乾いてきた。」


花奏「甘いの飲みたいんやったらポカリとかもええんちゃう?」


湊「あの甘さってちょっと違くない?ま、うちは部活なくても飲めるけどさ。」


花奏「売り切れる前に買わなな。」


湊「ん?そーんな、デパ地下のセールじゃないんだから大丈夫だってー。」


花奏「そうやね。」


湊「それにうち、千里眼持ってるからどれが売り切れ手前なのかわかっちゃうもんね。」


目をかっ開くように

指で瞼を上下に開いていた。

デパ地下の話だったり千里眼の話だったり

抹茶やポカリの話だったり。

何となく話題に上がった覚えは

微々ながらにあったからか

デジャブを見た感覚に陥る。

この時間の空だって

このテンションの湊だって

何もかも全て見てきたはずが

全て新しいもののように見えてくる。


湊「って事で、うちは別のとこの用事済ませてくるね。」


花奏「うん。じゃあな。」


湊「あーいばいばーい。」


湊はいつでも元気で

ポケットからは甘いチョコの香りが

ほのかに漏れていた。

夏場は流石にチョコだと溶けて

制服が大変なことになるので、

メントス等別のを

ポケットに忍ばせていたっけ。

しかし、お弁当袋の中の

保冷が効いたところに

必ずと言っていいほど

チョコが眠っていた。

最後に口にすることは

叶わなかったけれど、

それは願いすぎだ。

欲張り過ぎ。


そう考えながら

今日使った教材をゆっくり

鞄の中へ詰めていたら

肩をとんと叩かれる。


振り向いてみると、

見覚えのある身長差。

艶やかな髪、くりっとした目。


歩「よ。」


花奏「…歩。」


歩「遅かったから来た。」


花奏「助かるわ、ありがとな。」


歩「悪いんだけど図書室寄っていい?」


花奏「勿論。何しに行くん?」


歩「昨日に過去問借りたはいいんだけど、学部違ったから借り直す。」


花奏「そっか。」


歩「そ。」


それだけ端的に返事をすると

歩はポケットからスマホを取り出して

素早く指を動かしていた。

現代人の王道と言っても

過言ではない佇まい。

見慣れた姿のはずなのに

改めてみると不思議な感覚がする。


歩「…何?」


花奏「何も。」


歩「は?きも。」


花奏「はーいはい、早よ行くで。」


歩「ん。」


適当に流すこの会話だって

大切な日常のひとピースだった。

それに気づいたのは

今日と明日を繰り返すようになったから。

そう思えばこの日々も

無駄ではなかった…

…なんて、思いたくなる。

記憶を美化することだけは

私の得意とする事だった。


歩と図書室に寄り、

その間私は興味すらない

最近話題の本やら新刊やらをぼけっと眺む。

美月は楽しいんだろうな。

昔の私ならあまり面白そうとは

思わなかっただろう。

今となっては面白そうだと思ってしまう。

大して興味はないのに。


歩「お待たせ。」


花奏「全然大丈夫や。お目当てのものあった?」


歩「うん。ラッキー。」


花奏「よかったやん。」


歩「ね。」


花奏「じゃあ帰ろか。」


業務事項かと思うほど

淡白な会話を飲み込んで廊下へと出てみると

外はとんでもなく酷い雨模様。

私の傘は相変わらず鞄の中にはない。


歩「…うわ。」


花奏「そうよな。」


歩「雨って知ってた?」


花奏「うーん…2時間目くらいから。」


歩「何それ。私折りたたみしかないんだけど。」


花奏「私傘もないで。」


歩「え、雨って知ってたんじゃないの?」


花奏「言うたやん。2時間目くらいからやって。」


歩「そういうこと?」


花奏「うん。」


歩「さっきまでそんな天気じゃなかったのに。」


花奏「やんな。」


歩「こんな土砂降りならすぐ去るかな。」


花奏「いいや…結構長く降るで。夜までは降ってる。」


歩「やば、だる。」


ぱぱっとスマホを取り出して

何かを検索している様子。

今後の天気の行方だろうか。

暫くすると唸りながら

スマホから目を離した。


歩「一応曇りのち雨だけど降水量が馬鹿ほど高い。」


花奏「そうなんや。」


歩「ほんとに夜まで降る?」


花奏「…私の勘ではな。」


歩「ふ、何だ予想か。」


花奏「天気予報も予想やん。」


歩「あれはちゃんと根拠があるでしょうに。」


私だって根拠はあるもん。

そうやって意地を張りたくなるも今は我慢。

…いや、明日までずっとか。

この論争の勝利は歩に手向けることにしよう。


歩「はぁ、家まで帰るのだるい。」


花奏「あー…そのまま来てもええけど服とかどうするん?」


歩「今日だけ貸して。」


花奏「…ええん?」


歩「往復面倒い。それに服の貸し借り、逆よりかはましじゃない?」


花奏「逆?」


歩「そ。私の服を小津町に貸すよりましって話。」


花奏「それは確かにな。」


歩「親御さんに事前に言わなくて平気?」


花奏「今日出張で居らへんねん。」


歩「そうなんだ。」


花奏「うん。直で来ても全然平気。」


歩「なら、直接でよろしく。」


にしっと目元を細めて

楽しそうに微笑む彼女は

雨雲なんて跳ね除けそうな、

そんな光がある気がした。

窓越しでも壮大な雨の大合奏が聴こえてくる。

よっぽどの大雨に当たっていたのだと

最後にして漸く気づく。


帰り際に職員室へ寄り、

誰も取りに来なかった

忘れ物の傘を1本貰い、

別々の傘をさして2人で帰った。

その間に例の如く

私の傘は折れたけれど。

歩は何だか楽しげに笑いながら

結局傘を半分分けてくれた。

家に着いたらまず

お風呂貸してと言いながら。


お互い程々に制服を濡らして電車に乗り込む。

明日、電車には再度乗るから

最後の機会ではないにしろ、

窓の外の移り変わる風景は

この世の終わりを見ているようで

寂れたものを感じた。

歩はというとまた

スマホに目を落としている。

ちらと勝手ながら覗いた感じでは

LINEを開いている様子。

家に帰ったらこのことについて

話があるだろうなと粗方予想がついた。


家に着くや否やお互い

ひたひたになった靴に新聞紙を詰め込み、

靴下を脱いで家に上がった。

歩は私の家に来たことがある為、

湊が来た時とは違って

私のお母さんのお仏壇を

特に気にしすぎることなく

手を合わせてから洗面所へ向かった。


花奏「…。」


そういう所作を見ていると

なんで言えばいいのだろう、

歩は人を大切にする人だなと思う。

簡略的な言葉で言えば大人だなと思った。

私もああなりたかった。

私も歩みたいになりたい。

そう思って今の高校への入学を

決めたことを思い出す。


花奏「お母さん、ただいま。」


私も珍しくお母さんにひと言伝えてみると、

いつもと変わらず微笑みかけてくれた。

いつも見守ってくれた。

若いままの姿。

時間が経っていないんだな。

今の私と同じ状況だ。


歩「ねえー、使っていいタオルってどれー?」


遠くから歩の声がした。

普段はこれを張らないから

大きめの声を聞くのは

叫ばれながら叩かれたのが最後。

あの時に比べれば

歩も相当大人しいことが分かる。

…逆か。

普段は割と大人しいからこそ

あの取り乱し方は際立っていたんだ。


心に余裕があるのか知らないが

ゆったりとした足取りで

彼女の元へ向かうと、

つま先立ちのまま待つ歩がいた。


花奏「何のポーズなん?」


歩「あんま拭く場所多くない方がいいと思って。」


花奏「足つけてええのに。」


歩「いや、自分で拭くのが面倒いだけ。それにあんたの家って畳や木だから染みるでしょ。」


花奏「今更やし気にせんでや。」


歩「それで床抜けても困るっての。」


タオルを適当に渡すと

髪から肩、スカート、足を拭いた後、

覚えている限りの家中の道筋を

辿りながら軽く濡れた部分の

床にタオルを添えた。

私もずぶ濡れたままここまで来たものだから

相当酷いことになっているはず。

彼女に後片付けを任せてしまったまま

私もタオルを手に取った。

慣れているので分からないが

きっと私の家の匂い。

すん、と鼻を鳴らしてみるも

ほんの微かに柔軟剤の香りが漂うだけ。

特有の匂いはなかった。


私も全身をあらかた拭いた後、

もうひとつ新しいタオルを手に

玄関先まで行く。

すると、歩は玄関近くの廊下で

ひと息ついているのが見えた。


花奏「ありがとうな。」


歩「あんた、何も考えず足ついてきたでしょ。」


花奏「まあ自分の家やし。」


歩「拭くの大変だったんだけど。」


花奏「ありがとって言ってるやん。ほら、鞄拭くからそれに免じて。な?」


歩「はいはい。ってかこのタオルで床拭いちゃったけどよかった?」


花奏「ええで。洗えば一緒。」


歩「そういうところは雑把なんだ。」


花奏「気にせえへん。」


歩「あんまついてないと思うけど、出来るだけ埃は払って洗濯んところ入れとくから。」


花奏「はーい、お願いな。」


ひた、ひたと素足が

木製の床から剥がれる時の

音が不気味に耳を浸食する。

それと同時にやはり雨の歌声。

ただの1周目の…

…普通の人生の中のとある1日なら

この雨だって楽しめただろうにな。


もう存在し得ない未来を想像しながら

彼女と私のひたひたに雨が染む

2つの鞄にタオルをあてた。

すると、歩の鞄にひとつ

キーホルダーが付いているのが見える。

夏の滲むキーホルダー。

夏祭りで取ったやつだ。

私が別の種類だが2つ取ったので

片方を歩に上げたんだっけ。

4月当初は何も飾られていない

質素な鞄だったと想起される。

大切に、大切にひとつだけ

今でもずっと飾りとして

つけてくれているようだった。


花奏「…。」


これを見ていると

いつだか昔に美月が言っていたことも

理解できる気がする。





°°°°°





花奏「これかな。後…どこかの棚にあったイヤリングとか。」


美月「いいじゃない。歩はあんまりこういうのって持ってなさそうだし、新鮮でいいと思うわ。」


花奏「…貰っても困るかな。」


美月「そんな事はないでしょうよ。花奏からのプレゼントだったら歩は大切にするわ。」


花奏「ほんまかいや。」


美月「あら、信用ないのね?」


花奏「そういうわけやないけど…。」





°°°°°





美月は周りを見るのに

長けていたのかもしれない。

様々な思い出を振り返りながら

鞄を拭き終える。

思い出。

振り返るほど出てくる。

けれど、もうあの周期のように

朝まで歩と話すことはない。

この無数と思われるほどに

出てくる思い出話は

私の中だけで繰り広げるのだ。


2つの鞄を肩にかけてリビングへ向かうと、

歩は既にハンガーへ制服の袖を通していた。

心を許しているのか自分勝手なのか、

次々と行動してゆく彼女。

歩らしい、としか形容出来なかった。


歩「あ、鞄ありがと。」


花奏「んーん。こちらこそ床ありがとうな。」


歩「はいはい。そうだ、ハンガー勝手に借りた。」


花奏「どこにあったやつなん?」


歩「洗濯機の近くにあったやつ。見つけたから使った。」


花奏「ああ、あれね。」


歩「使ってよかった?」


花奏「今更すぎるやろ。好きに使ってや。」


歩「ん。」


思えばこうやって

普通に…というよりかは

普通っぽく話すことが出来るのだって

歩のおかげだ。

いつだか喋れなくなった時があった。

立てなくなる時だってあった。

過呼吸もしたし、脇腹の激痛で気絶に

似たようなことが起きた時もあった。

色々あったな。

たった2日間のことなのに

大層長い時間を過ごしたように思える。


それからいつもと同じように

一緒に夜ご飯の支度をする。

残っている材料で何とかしたから

あまり豪勢とは言えないけれど。

歩曰くカップラーメンでも

いいと言っていたが、

何かひとつ作って一緒に食べたかった。

最後だもの。

どれだけ簡単なものでもいい。

何か一緒に作りたかった。


あるものを使って生姜焼きを作り食卓へ運ぶ。

そしていただきますと言って

お互いどうでもいいことを

話しながら食卓を囲う。

普段は父さんとこの風景を作るに

今日は歩だった。


お母さんにはいつでも会えるが

父さんには最後まで会えずじまい。

何かひと言くらい伝えたかったな。

一瞬だけでいいから顔だって見たかった。

叶わない願いだ。

欲張りすぎか。


いつしかご飯は食べ終わり

今度は私が食器を洗った。

今度はと言えど、

前の周期の話を思い出しているだけで。

なくなった未来の話だ。

ただただ私がお皿を洗っているだけ。

歩も手伝おうとしてきたが

絶対に譲らず、テレビでもつけて

ゆっくりしてもらうことにした。

渋々了承した顔だったな。


花奏「…。」


このぐらいの時間から雨は漸く退き始める。

窓を篠突く彼らの勢いは

段々と弱まっていった。


ふと。

違和感を感じた。

脇腹は痛むだけ。

手首や鳩尾、その他は同様。

何かと思えば胃だった。

ぐっと胃酸が上がってくるのを感じる。

無理して食べたけどそりゃ無理か。

彼女の前では普通を、

いつも通りを装っていたかったが

それもここまでらしい。


蛇口から溢れ出る水を

止める間も無くトイレへ駆け込む。

キッチンのシンクでも

一応は洗い流せるしよかったが、

洗い物をしていたし食料関係は多いし

何だか気が引けた。

明日の朝も使うことを考慮すれば

妥当な判断だったと思う。

もし使う未来の予定さえなければ

トイレにまで来なかった。


花奏「んぐっ……ぁぇっ…ぇっ…が、ぁっ…。」


気持ち悪い。

あぁ。

抜け出せないな。


胃酸は昔から変わらず

喉をずたずたに轢いてゆく。

この特有の異臭が苦手で

吐きたくはなかったけれど、

体も心も拒絶したみたい。


出来る限り声を押し殺して

歩が気づく前にと思ったが、

私が物凄い勢いで走って

トイレにまで来たからだろうか。

ぺたぺたと足音がした。


歩「…?」


トイレの扉を閉める間も無く

この状態になってしまったものだから、

歩には全部筒抜けてしまうだろう。

次、もしも次やり直す事態になれば

ここはひとつ、改善点だな。


歩「…っ!?小津町!」


彼女は変わらず駆けつけてくれた。

どんな時でも寄り添ってくれた。

馬鹿みたいに何度も励ましてくれた。

変わらないね。


花奏「ぁぅっ……ぇっ、え゛ぅっ…。」


歩「…大丈夫。」


花奏「はっ、はぁっ…はっ……ぁゔっ…ぅ…。」


彼女に顔なんて一切向けず

体の拒否反応に身を任せたままの私の背に

そっと手が添えられた。

そのままじんわりと体温が滲んだと思えば

ゆっくり、ゆっくりと

さすってくれているのが分かった。


歩「…ちょっと待ってて。」


すっと突如手が離れ

滲んだ体温は湿気た家中に

意図せず消えてしまう。

こうやって1人になるのか。

そりゃそうだ。

私は1人で居るのが正しいんだ。

酷いことをしたじゃないか。

今まで散々、歩を殺してきたんだ。

無かったことに出来るはずなんてない。

なくなった未来だろうと

私の記憶には永遠に残り続ける。

私にとっては過去だ。

変えることは出来ず

変わることもない過去なんだ。


これまでのことを気にせず

普通に話しているのがおかしいんだ。

今の状況がおかしいのだ。


自分の体の状態が悪い程

その事実を思い出させられる。

私を縛ってくれる痛みは

この過去を、事実を思い出させてくれた。

忘れないように。

忘れちゃいけないから。


緩やかにお腹の中のものを

吐き出していると、

とたとた、とまた足音。


歩「小津町、水持ってきた。」


私が座り込み項垂れる隣、

床へそっと水の入ったコップが置かれた。

喉が痛い。

乾いた咳が出る。

すると、僅かながらに

便器の中へ飛沫が飛ぶ。


歩「吐きたいだけ吐いた方がいいよ。水飲んだ方が吐きやすい時もあるみたい。」


そうひと言添えた後、

また背をゆっくりとさすり出す。


匂いだって光景だって

何もかも酷く気のいいものでは

ないはずなのに

彼女は何も言わずにそっと私の側に居続けた。

ずっと私の側に居続けた。


胃が落ち着き出したのは

それから数十分くらいは後のことだろうか。

残るお腹の異物感を拭えず

口元をべたべたに汚しながら

コップに口をつけ水を一気に飲み干す。

それがまた一気に気持ち悪くなる。

そして気の済むまで吐く。

それを繰り返した。


歩は私が水を飲み干すと

何も言わずに静かに離れ、

水を汲んでは近くに置き背中をさすった。

コップは同じだったのに

綺麗になっていたことから、

私が口をつけたとてつもなく汚れた部分を

洗ってくれていたようで。

私は彼女にどれだけの

迷惑をかければ気が済むんだ。

そう思っても今の私に出来ることは

ゆっくりでもいいから

吐き気を落ち着かせることだけ。


若干だが過呼吸になっているのが分かる。

ぜーはーと浅い呼吸をしながら時に咳き込み、

気の済むまで胃の中のものを吐き出した。


それから完全に落ち着いたのは

30分から1時間程経った頃。

べたべたになった口元を

何度も何度も水で濯いだ。

むせ返る異臭にうんざりする。

鉄分の多い匂いと

同じくらいに苦手な匂い。

私は散々嫌な顔をしていたが、

歩は顔色ひとつ変えず

その後も私の様子を見てくれた。

夜は更けていき、

明日が段々と迫っていることに

なかなか気が付かなかった。





***





歩「寝ないの?」


花奏「うん。」


歩「そ。体調は今どんな感じ?」


花奏「だいぶ楽になってきたで。」


歩「よかった。」


食卓を囲むも特に何もせず

壁を背にして座っていた。

私も彼女もお風呂を簡単に済ませ、

今は寝巻きを着ている。

裸足だと爪先が冷えてくる季節になった。

随分前から秋のまま。


歩はというといつだかの周期とは違い

ある程度重量のあった鞄から

使う教材を取り出し

勉強を始めていた。

化学の授業があったらしく、

手元には課題らしきプリントが

広げられている。

雨の音はフェードアウトして行き、

いつからか音の少ない世界になった。

気を紛らす為に小さい音で

テレビをつけっぱなしにしていると、

何度か見たことのある番組が放送されていた。


花奏「課題?」


歩「ん、そう。次回実験するから準備しとけって。」


花奏「この時期でも普通に実験あるんやね。」


歩「見た方が体験になるし覚えやすいのかも。」


花奏「先生も考えてるんや。」


歩「だと思う。化学反応によって色が変わるとかの範囲だから。」


花奏「あれかー…。覚えるの大変なやつやん。」


歩「覚えるのは流石に怠いから、パターンだけ理解して対応力で何とかしようと思ってる。」


花奏「頭いい人の思考回路や。」


歩「面倒くさがりなだけだよ。」


花奏「面倒くさがりって世界変えるで?」


歩「何言ってんだか。」


花奏「世の中便利グッズとかって面倒な事を回避したくて作られるやん。」


歩「確かに。スマホもか。」


花奏「1台で全部済むもんな。」


歩「うん。あー…だいぶ世界変わるね。」


プリントから目を離して

休憩がてら会話をしては

再度机に向かっていた。

私はと言うとその様子を

ただ意味もなく見つめるだけ。

途中、見られてると気が散るとは

言われてしまったが

元よりすることがないので、

何を言われてもそのままぼんやりし続けた。

すると、諦めたのか何も言うことなく

シャーペンを握るようになっていた。


からり。

シャーペンが机の上を転がる。

巻き戻して目覚めた時のよう。

シャーペンを転がした

あの時の甲高い音とは違い、

私の家の机が古いからか

野太い音が鳴った。


歩「…最悪、芯折れた。」


花奏「そんな日もあるで。」


歩「そんな日しかない。」


花奏「そうなん?」


歩「落としたら大体折れる。」


かちかち、とシャーペンの頭を

素早くノックしてとすぐさま

プリントへと擦られる芯。

テレビにもみ消されてしまいそうな程

この文字を連ねるか細い音が

心底心地いいと思えた。


歩「そういやあんたの家って平家だよね。」


花奏「うん。」


歩「建てたの?」


花奏「おばあちゃんがな。」


歩「あぁ。」


花奏「結構前に亡くなっとって、ずっと空き家やってん。父さんが老後済む予定にしてたらしいで。」


歩「あ、そうだったんだ。」


花奏「けど、町から逃げた先の籠り場所になってもうて、今もここで暮らしてんねん。」


歩「じゃあ小津町はこの家で暮らす予定はなかったんだ。」


花奏「そうやね。父さんが退職してる頃には流石に私も1人暮らししてたやろうし。」


歩「あんたなら1人暮らししても問題なさそうだよね。」





°°°°°




花奏「歩さん、1人暮らしかぁ。」


歩「しみじみ言わないで気持ち悪い。」


花奏「だって高3になってから急に家を出たなんて考えづらいし…普通に考えたら高1からやろ?」


歩「そう。」


花奏「高一から1人暮らしかぁ…。」


歩「今のあんたくらいの時にはここにいるって感じ。」


花奏「ん、あぁ…そっか。…んじゃ、私だって今からしようと思えば」


歩「あんたには無理。」


花奏「えー、何でやー!」





°°°°°





花奏「そうかいや?」


歩「ご飯作れりゃ十分。…よし。」


かち、と鳴らして芯をしまう。

そしてプリントの上に散る消しかすを

器用に集めてゴミ箱へ。

はらはらと降る塵。

気に留めることなく

プリントは仕舞われた。


彼女は、5、6月の時とは

真逆のことを言っていることに

気づいているのだろうか。

何が一体そう思わせたのだろう。

どうして私なら問題ないって思ったんだろう。


歩「はぁ、疲れた。」


花奏「お疲れ様。」


歩「そうだ。息抜きがてら聞きたいことがあるの。」


花奏「何や?」


歩「嶋原の事。何か大変らしいじゃん?」


座ったまま後ろに手をつき

くつろいだ姿勢のまま梨菜の話に移った。

正直どこまで嘘が貫けるか分からない。

もしばれたら巻き戻すのみ。

一か八か。

壊れかけた橋をいつまでも

渡り続けているような

不安感に襲われていた。


花奏「そうなんよ。」


歩「ストーカーだっけ?あれ、殺人犯?」


花奏「殺人犯やね。最近話題になってるやん?」


歩「うわ、何だっけそれ。なんか聞いたことはある。」


花奏「女子中高生を狙った殺人事件が多発しとるってやつ。」


歩「先生も言ってたかも。気をつけろって。」


花奏「それ。その犯人が梨菜に付き纏ってんねん。」


歩「何でそのストーカーが殺人犯って分かってんの?」


花奏「梨菜が顔見えたって。最近大きなニュースになってるし顔覚えてたんちゃう?」


歩「そんなはっきり見えるもん?」


花奏「私は話を聞いただけであって本人ちゃうから知らへんよ。」


歩「それもそっか。てか相談相手遊留じゃなかったんだね。」


花奏「最近親しいわけでもなさそうなんよ…でも話くらいしてるんちゃう?」


歩「そう?遊留知らなさそうだったじゃん。LINEのメッセージとか見てる感じ。」


花奏「全然LINE見てへんねん。」


歩「今見てみ。」


そう彼女に唆されて徐にLINEを開いてみる。

すると、何人からか個別で

LINEが来ていたり、

将又グループの方にメッセージが

飛んできていたりしていた。


まず、学校前に集まるのには

何の理由があるのか、

そして用事やら部活やらがあって

遅れそうだという連絡等様々。

個人では梨菜の件について

問われたり、何とかしたいねと

同情や協力するという旨がいくつか。

どれも返信する気にはなれなかった。

そしてとうの本人である

梨菜からもメッセージは来ていた。

既読をつけずにざっくりと

読んだところ、

「明日の集合時間に花奏ちゃんは

来ない予定なんじゃないか」

といった内容。

勿論行く予定はない。

そのまま返信せずに

スマホの画面を暗くする。


花奏「…ま、そうよな。」


歩「何かさ、梨菜はつけられてないって言ってるらしいって誰かが言ってたんだけど。」


花奏「混乱してるんと思う。」


歩「…あんたさ、前から嶋原のこと気にかけてたよね。」


花奏「…?」


歩「ほら、数日前だっけ。なんか話してたじゃん。」





°°°°°





花奏「あんな、梨菜の様子が変なんよ。」


歩「あー…嶋原?」


花奏「そうや。」



---



花奏「んで話戻すで。梨菜の事なんやけど。」


歩「変なんでしょ。」


花奏「そう。そこで何か手助け出来ひんかなって思ってるんよ。」


歩「手助け?」


花奏「そうや。」





°°°°°





確かあの時ただの直感でしかないが

梨菜に対して違和感を抱いたのだ。

ふと、私を殺しゆく彼女の

暗闇に現る顔が浮かんだ。


花奏「あぁ、あったかもな。」


歩「あの頃からおかしくなってたのかな。」


花奏「おかしくなってたって…」


歩「さぁ、私はあんま想像力豊かじゃないし分かんないけど。」


そう言い、鞄の中に

教材を仕舞い込んでゆく。

私の中学の頃のジャージを貸したが

少しぶかぶかのよう。

あの燃えた家から持ち出した

数少ない思い出品のひとつだった。

歩のサイズに合いそうなものが

このジャージくらいしかなく、

久々に奥底から取り出したんだっけ。

変な感覚だ。

中学の頃の体操服を

今、歩が着ているのだから。


歩「明日集まるのもその話?」


花奏「うん。何とかしたいねん。」


歩「警察は?」


花奏「1回見回ってもらったけど駄目やったって。」


歩「そうだよね。その時捕まってりゃもう事件は収束してるし。」


私の嘘は穴だらけだが

歩はあまり考えていないのか

ひとまずは納得したのか、

べたーっと床に伸びた。

所々畳は毛羽立っておりちくちくするはず。

だが、何も気になっていないのか

手を広げ天井を仰いだ。


今頃愉快犯は何をしているのだろう。

粛々と歩の家を張る

準備でもしているのだろうか。


歩は今私の家にいる。

ということは明日自由に行動しても

大体はいいということ。

歩が家に戻りさえしなければいいから。


花奏「明日さ、出かけへん?」


歩「え?」


花奏「やから、出かけよ?」


歩「集合するんじゃないの?」


花奏「その前にや。」


歩「何しに行くの。」


花奏「欲しいものがあんねん。横浜まで、ほんの少しでええから。」


歩「全然いいけど、服ないし一旦帰ってもいい?」


花奏「服くらい貸すて。パーカーはひとつくらいあった気ぃするし。」


歩「ふうん…。…ま、横浜で乗り換えて家行って、んでまた横浜ってのも面倒だしね。」


花奏「しかもその後学校行くしな。」


歩「うーわ、そうだった。何で学校にしたの、怠いじゃん。」


花奏「みんな集めるなら妥当やろうに。」


歩「まあ女子校組もうちの高校だったらそんなに遠くないけど。」


花奏「やろ?歩が1番遠くなるだけで。」


歩「1番最悪じゃん。」


花奏「ええやん、今日うちに泊まったんやし。だいぶ近いやん?」


歩「それは…うん。」


自分の非を認めたくない子供のように

一間開けた後頷く姿が見えた。

畳に散る髪は既にさらさらに乾かされている。

なのに雨の影響か畳は湿気っているよう。


歩「あ、そうだ小津町。」


花奏「ん?」


歩「化学教えて。問題集で分かんないやつあった。」


花奏「ええで。」


そう言って上体を起こし、

鞄を漁って取り出されたのは

見たことのある問題集。

図書館の匂いがふと香った気がした。

あの時15分で解けなかったままに

今まで引きずっていたんだった。

歩に化学を教える約束も

相当昔にしたことだから忘れかけていた。

人間って恐ろしい。

いくら大切な記憶でも

時間が経てば忘れてしまう。

そういう残酷な生き物なんだ。


お風呂や食事、

それから私が嘔吐してしまった等

意外にも時間は過ぎていたようで、

容易に日付は変わり

憎ましい12日へと進んだ。

彼女に解き方を教えていると

ついにあの問題と出会す。





°°°°°





花奏「…。」


歩「…?何時?」


花奏「あ、ごめん。4時15分くらい。」


歩「そ。ならまだ行ける。」


花奏「次難題やし時間かかるから今度でもええんちゃう?」


歩「嫌。」


花奏「意地っ張り。」


歩「あんたが言うか。」


花奏「そりゃこっちのセリフやで…。」



---



歩「絶対15分で片付ける。」


花奏「よし、のった。」





°°°°°





喧嘩した直後の周期だったっけ。

あまり覚えてないや。


歩「あー…次だるそう。」


花奏「うん、難問やね。」


歩「これ終わったら寝よう。」


花奏「そうしよか。」


歩「結構かかる?これ。」


花奏「そうやね…でも15分で解けるかやってみぃひん?」


歩「本気?今のところ最初に何すればいいかも分からないけど。」


花奏「ヒントは出すから。2つ前にやった問題とちょっと似ててなー」


そこからは時間と彼女の勝負だった。

私は歩から頼まれた時だけ

横からヒントを伝えると、

時に唸り時に閃いた声を上げ

問題に向かい合う。

そして20分程経った時、

ひとつの答えが紙に刻まれていた。


歩「…出来た。」


花奏「凄いやん、飲み込み早いな。」


歩「でも15分越したね。」


花奏「慣れたらそれぐらいすぐに解けるようになるで。」


歩「慣れればね。」


ふう、とひと息ついた頃には

夜中もいいところだった。

そして再度消しかすをゴミ箱へ捨てた後、

机の上を片し床につくことにした。

お客さん用の布団を取り出して

私の部屋へと持っていく。

隣り合わせになるようひき布団へ潜った。

目一杯に息を吸ってみるも

特に得るものはなかった。


歩はきっと2、3時間後に

目覚めるのだろう。

私はそれまでに眠れる気はしないな。

目を閉じてみると今までの、

そして今までになかったはずの

架空の周期の夢が無数に浮かんだ。

悪夢もここまで来ると

笑いが込み上げてきそうになる。

私もとっくにおかしく

なっていたのかもしれない。

気づかないうちに

変わっていったのかもしれない。

戻れないところまで

来ていたんだよ。

きっと。

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