23 宇迦之と食国


 鳴くのは虫か、それとも蚯蚓みみずか。

 じりじりと五月蠅うるさい程その音が響くのは、夜その物がまとわりつくような沈黙の重さを守っているからか。表のその気配は建付けの間隙より長邸の内へひたりひたりと打ち寄せ浸食する。その音に熊掌ゆうひの足音と気配は消され、夜の闇は姿を溶かす。

 目的の部屋へ至り叩扉こうひする。間もなく開扉され、部屋の主である東馬とうまが姿を見せた。東馬の目が熊掌の眉間で止まる。

「その額の傷はどうした」

「お構いなく」

 東馬は小さく嘆息してから「行くぞ」とうながした。指定された刻限より幾分早くはあったがつらしい。父は頭から墨一色の被衣かつぎを被っていた。白に近い髪を隠す為の物だろう。手に明かりの類も持つつもりがない。余程夜陰に乗じたいらしい。

 黄師こうしが村から離れている今が唯一の好機なのだと小声で父は言った。


「この時を逃せば、もう後がないのだ」


 父が導いたのはやはり保管小屋であった。戸を音も立てずに開け、するりと影のように忍び込む。内から施錠をすると、どろりとした闇が落ちた。そもそも窓一つしつらえられていない小屋の中は暗い。目が慣れるまで待つのかと思ったが、東馬は慣れた足取りで左奥へ向かい棚の前に立った。棚には常の通りに布を入れた籠が並べられている。

 東馬が目立たぬ場所にあった掛け金を外すと、容易たやすく棚は動いた。横に滑らせるように移動させると、その下に抜け穴がある。あの少年が通ってきたのはこれだったのだと合点がてんが行った。

 東馬は棚の一つに無造作に被衣かつぎを押し入れると、壁をまさぐり、手慣れた仕草で手燭に火を灯した。抜け穴は地下に向けて階段を伸ばしている。二人はそこから地へ降りた。

 階段を下り切ると一本の隧道が伸びていた。左右には格子が嵌められている。

「――これは、牢ですか?」

「そうだ。昔はよく使われたと聞くが、ここ近年は専ら儂等が密談に使うばかりだったな」

 儂等というのは、無論産に関わる事情に通じた者達の事だろう。ぴちょん、ぴちょん、と滴の垂れる音がする。僅かに腐臭と汚臭がした。と、奥から獣じみた唸り声がした。構わず進む父についてゆくと、格子の一つの内に見知った顔があった。熊掌の心の臓が殴られたように跳ねた。

「ち、父上」

 全身の毛穴から汗が噴き出るようだ。そこにいたのは蔓斑つるまだらで、奴は猿轡さるぐつわまされていた。

「あれは、あまりにむごいのでは」

「あまりに口汚いのでな。お前がここから出れば外させる」

 父はもう、そちらに目を向ける事すらしなかった。事も無げに言い放ちながら先へと進む。

 蔓斑は身動ぎしながら憎悪を込めた眼差しを熊掌に向ける。自分がここから出れば、と父が言うなら、奴の罵詈雑言はやはり己へ向けられたものなのだろう。悪意の眼差しに見送られながら、熊掌は東馬の後をやや急いて追った。

 二度三度、左右に折れながら隧道を渡り切ると、最奥さいおうには壁があった。そこは既に蔓斑がいる場所からは遠く離れている。すわこれからどうするのかと父を見守ると、東馬は板壁の一つを拳で突いた。どういう仕掛けか壁から板の片辺が僅かに浮き上がる。そこに指を入れると内側に丁番が仕掛けられているのか扉のように開き、中から天井にまでいたる竹梯子が引き出された。見上げれば扉らしきものがある。ここまで慎重にするものなのかと熊掌は言葉を失くした。

 竹梯子を上り、二人は隧道を出た。天井の扉を押し開いて出たその先は小さな小屋の内であった。東馬は黙したまま小屋の外に出る。そこは屋外であった。

「ここは」

「西の宮だ」

「――村の「西の端」、ですか?」

 東馬は黙して首肯し、先へと進んだ。

 「西」に立ち入るのは初めてだった。見回せば、あばら家がまばらに建ち並んでいる。熊掌の記憶にある限り、ここにはもう二、三しか人がなかったはずだ。葉月の夜だと言うのに空気がしっとりと冷たい。邑の中心とはまるで違う質感に、知らず熊掌は自身の腕を撫でさすった。木々を避けつつ僅かな傾斜を下っている内に、やがて家々も姿を消した。

 林の中を進み続けていると、目前に道を半ば塞ぐような形で屹立する巨岩が現れた。その角を折れると、その先に思わぬ物を目にした。

 白く仄かに光る綿毛の花を敷き詰めた、開けた場所があった。その奥には一戸の邸があり、父はそこへと近付いて行った。熊掌もそれに従った。

 間近に見るそれは思いの外大きな邸であったが、無残な程にずたずたなすだれが戸口に掛けられていた。邸自体もやはり傷みが酷い。

 簾を手で持ち上げて東馬は中へ入った。熊掌もそれにならい続く。その先にあったものを目にして、熊掌は思わずしばたたいた。



 破れた天井から刺す薄青い光が浮かび上がらせるのは、寝殿しんでんであった。



 熊掌は困惑の吐息を漏らした。寝殿は豪奢であった。土間から数段上がると、広い板の舞台は欄干で囲われ、その中心の母屋はしとみを跳ね上げ御簾みすで隔て囲われている。邑長邸よりもはるかに優れた建物だ。それが「西」にある事は確かに異様だが、熊掌を最も困惑させたのは、その寝殿が明らかに外から見た邸の内に収まる規模のものではない事である。

「これは――」

「白玉の間とよく似ているだろう」

 東馬の言に熊掌は首肯する。白い玉様が安置されている祠は開扉を許されると内に吸い込まれる。これはもうそうとしか説明のしようがない。祠の内に入れるよう己が肉の身を圧縮され、どこか別の場所へ引き摺り込まれるような心地がするのだ。そしてその引き込まれた場所とここは、とても構造が似ていた。

 東馬は音もなく進み、段を上がるとひさしで膝を突いた。

「御母堂。参りました」

 御簾の奥から「どうぞ」と高く小さな声が応えた。「失礼いたします」と東馬は御簾を上げてその内に入る。共に来るよう促され、熊掌も恐る恐る進み入った。

 そこには、延べられた床に臥せったままの白髪の女性と、その傍らに昨夜熊掌を蔓斑つるまだらの魔手から救った少年がいた。幾分熊掌より若輩に見える。昨夜は黒髪だったはずだが、今の彼の髪は白髪だった。そして、その身には純白の水干を纏っていた。

 父が女性の傍らに座す。熊掌も倣いその隣に膝を折る。

「熊掌。御母堂と、御子だ。御子のお顔は存じ上げているな」

「――はい。薄くではありますが」

 視線を向けると、少年はふわりと笑んだ。とても懐かしそうな眼差しで。

「東馬。その子が次の長となる子なのですね」

 女性は、ゆっくりと体を起こそうと身動ぎを始めた。父と少年がそれを助ける。完全に出遅れてしまった。視線を奪われる程に彼女は儚く美しかった。その髪は白というより寧ろ白銀に近い。五尺はあろうかという長さが、その背に零れ落ちていた。白髪ではあるが、その容色は寧ろ自分と大差がないようにすら見えた。

 熊掌は我知らず、その場で叩頭していた。そうさせる何かが彼女には確かにあった。

ゆうと申します」

 女性は「頭を上げてください」と、微かな声でささやく。僅か視線を向けると、彼女の方がしとやかに頭を垂れた。伏せられた睫毛が長く、僅かに刺す光を受けてきらめいていた。

宇迦之うかのと申します。貴方達一族の皆には、長く助けられました」

 宇迦之うかのは、少年の方に僅か小首を傾げて見せた。

「これはわたくしの息子で、はく孫彌そんやと言います。字名あざな食国おすくに

 少年――食国が、微か首肯して見せた。

「この子は生まれついて耳の聞こえが良くありません。完全に聞こえない訳ではありませんが、言葉が重なると理解が難しくなります。その分、口を読む事でおぎないます」

「し、承知いたしました」

「てまをかけて、すまない」

 食国の言葉は、確かにどこかしらたどたどしかった。じっと見据える視線の意味を理解する。

「熊掌」

 父に名を呼ばれ、「はい」と応える。

「我々えいしゅうの邑長一族はこの五百年、代々身命を賭してお二人をお守りしてきた。しかし、長の子であるからという理由だけで、このお役目全う出来るものではない。お前が、お前の意志でこの任を受けると心に定めない限り到底成し得ないものだ。故に、今ここでお前の意志を問う」

 三人の視線が自然熊掌に集まる。ああこれは審判なのだ。真に己が覚悟を決めたのか、この面々は熊掌の心にその真偽を問うているのだ。

 熊掌はぐっと拳を握りしめた。

「――わたくしは、邑を訪う商人が只の商人ではない事を先日初めて知りました。ここで生まれ、育ち、この先ここを治める任にあたらねばならないのに、この邑の真実を何も知らなかった。これでは邑を護れません。邑への責務を果たす為にも、どうか真実をご教授下さい」

「――知れば、もう後戻りはできませんよ」

「覚悟の上です」

「食国」

「はい」

 母に呼ばれ、食国は首肯する。

「東馬。我が子にも、我等が事、伝えました」

 父が僅か顔を固くした。

「――誠にございますか」

「ええ」

 母は静かに目を伏せる。

「この子ももう十二分に育ちました。自身の置かれた立場を理解すべき時が来たのです。何より、本人がそれを知る事を求めました。ならば、わたくしはそれを明かさねばなりません」

 宇迦之うかのは、目をひた、と熊掌に据えた。

「わたくし達は、今は亡き国の民です。今この大いなる地は姮娥こうが国を名乗り、これをげっちょうが統べております。夜見は、このげつが簒奪を働いた為に滅びました。わたくしは先朝が統治者、はくこうの側室であり、これはそのはくちょう皇帝の血を引くただ一人のになります」

「白朝、ですか」

 宇迦之うかのは首肯する。

「はい。白皇の在位は凡そ二百万。わたくしが御側に侍りましたのはその内一万にも満たない短いものでした」


「いっ……ちまん、ですか」


 提示された歳月の長さに、熊掌は息を呑んだ。父が我々の事を短命種と称した理由がようやく理解される。これは全く種が異なる。

「我々は本来身体を損傷致しません。病にたおれる事もない。ですが、げつはどこでその報を得たのか、貴方方の祖から齎された死屍しし散華さんげの力が夜見の民の血肉を霧散すると突き止め、手中に収めたのです。月は――その力を以て自ら白皇の身を滅ぼしました。皇もまさか、自身の三交后さんこうごうが簒奪を働くとは思われなかったのです」

三交后さんこうごう、とは?」

「月は、白皇の正室だったのです。在位はわたくしよりはるかに長く、白皇がその御位にお着き遊ばしてより百万程の時を経て迎えられたはずです」

「つまり、皇后という事ですか? 今の朝を治め我々を支配しているのは夫殺しの女帝であると?」

 眉間を険しくした熊掌に、父が横から言葉を加えた。

「熊掌。夜見の民においては、性が雌雄に分かれる訳ではないのだ」


「――はい?」


 混乱により思わず呆けた熊掌に対し、後の言葉を継いだのは宇迦之だった。



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