23 宇迦之と食国
鳴くのは虫か、それとも
じりじりと
目的の部屋へ至り
「その額の傷はどうした」
「お構いなく」
東馬は小さく嘆息してから「行くぞ」と
「この時を逃せば、もう後がないのだ」
父が導いたのはやはり保管小屋であった。戸を音も立てずに開け、するりと影のように忍び込む。内から施錠をすると、どろりとした闇が落ちた。そもそも窓一つ
東馬が目立たぬ場所にあった掛け金を外すと、
東馬は棚の一つに無造作に
階段を下り切ると一本の隧道が伸びていた。左右には格子が嵌められている。
「――これは、牢ですか?」
「そうだ。昔はよく使われたと聞くが、ここ近年は専ら儂等が密談に使うばかりだったな」
儂等というのは、無論産に関わる事情に通じた者達の事だろう。ぴちょん、ぴちょん、と滴の垂れる音がする。僅かに腐臭と汚臭がした。と、奥から獣じみた唸り声がした。構わず進む父についてゆくと、格子の一つの内に見知った顔があった。熊掌の心の臓が殴られたように跳ねた。
「ち、父上」
全身の毛穴から汗が噴き出るようだ。そこにいたのは
「あれは、あまりに
「あまりに口汚いのでな。お前がここから出れば外させる」
父はもう、そちらに目を向ける事すらしなかった。事も無げに言い放ちながら先へと進む。
蔓斑は身動ぎしながら憎悪を込めた眼差しを熊掌に向ける。自分がここから出れば、と父が言うなら、奴の罵詈雑言はやはり己へ向けられたものなのだろう。悪意の眼差しに見送られながら、熊掌は東馬の後をやや急いて追った。
二度三度、左右に折れながら隧道を渡り切ると、
竹梯子を上り、二人は隧道を出た。天井の扉を押し開いて出たその先は小さな小屋の内であった。東馬は黙したまま小屋の外に出る。そこは屋外であった。
「ここは」
「西の宮だ」
「――村の「西の端」、ですか?」
東馬は黙して首肯し、先へと進んだ。
「西」に立ち入るのは初めてだった。見回せば、あばら家が
林の中を進み続けていると、目前に道を半ば塞ぐような形で屹立する巨岩が現れた。その角を折れると、その先に思わぬ物を目にした。
白く仄かに光る綿毛の花を敷き詰めた、開けた場所があった。その奥には一戸の邸があり、父はそこへと近付いて行った。熊掌もそれに従った。
間近に見るそれは思いの外大きな邸であったが、無残な程にずたずたな
簾を手で持ち上げて東馬は中へ入った。熊掌もそれに
破れた天井から刺す薄青い光が浮かび上がらせるのは、
熊掌は困惑の吐息を漏らした。寝殿は豪奢であった。土間から数段上がると、広い板の舞台は欄干で囲われ、その中心の母屋は
「これは――」
「白玉の間とよく似ているだろう」
東馬の言に熊掌は首肯する。白い玉様が安置されている祠は開扉を許されると内に吸い込まれる。これはもうそうとしか説明のしようがない。祠の内に入れるよう己が肉の身を圧縮され、どこか別の場所へ引き摺り込まれるような心地がするのだ。そしてその引き込まれた場所とここは、とても構造が似ていた。
東馬は音もなく進み、段を上がると
「御母堂。参りました」
御簾の奥から「どうぞ」と高く小さな声が応えた。「失礼いたします」と東馬は御簾を上げてその内に入る。共に来るよう促され、熊掌も恐る恐る進み入った。
そこには、延べられた床に臥せったままの白髪の女性と、その傍らに昨夜熊掌を
父が女性の傍らに座す。熊掌も倣いその隣に膝を折る。
「熊掌。御母堂と、御子だ。御子のお顔は存じ上げているな」
「――はい。薄くではありますが」
視線を向けると、少年はふわりと笑んだ。とても懐かしそうな眼差しで。
「東馬。その子が次の長となる子なのですね」
女性は、ゆっくりと体を起こそうと身動ぎを始めた。父と少年がそれを助ける。完全に出遅れてしまった。視線を奪われる程に彼女は儚く美しかった。その髪は白というより寧ろ白銀に近い。五尺はあろうかという長さが、その背に零れ落ちていた。白髪ではあるが、その容色は寧ろ自分と大差がないようにすら見えた。
熊掌は我知らず、その場で叩頭していた。そうさせる何かが彼女には確かにあった。
「
女性は「頭を上げてください」と、微かな声で
「
「これはわたくしの息子で、
少年――食国が、微か首肯して見せた。
「この子は生まれついて耳の聞こえが良くありません。完全に聞こえない訳ではありませんが、言葉が重なると理解が難しくなります。その分、口を読む事で
「し、承知いたしました」
「てまをかけて、すまない」
食国の言葉は、確かにどこかしらたどたどしかった。じっと見据える視線の意味を理解する。
「熊掌」
父に名を呼ばれ、「はい」と応える。
「我々
三人の視線が自然熊掌に集まる。ああこれは審判なのだ。真に己が覚悟を決めたのか、この面々は熊掌の心にその真偽を問うているのだ。
熊掌はぐっと拳を握りしめた。
「――わたくしは、邑を訪う商人が只の商人ではない事を先日初めて知りました。ここで生まれ、育ち、この先ここを治める任にあたらねばならないのに、この邑の真実を何も知らなかった。これでは邑を護れません。邑への責務を果たす為にも、どうか真実をご教授下さい」
「――知れば、もう後戻りはできませんよ」
「覚悟の上です」
「食国」
「はい」
母に呼ばれ、食国は首肯する。
「東馬。我が子にも、我等が事、伝えました」
父が僅か顔を固くした。
「――誠にございますか」
「ええ」
母は静かに目を伏せる。
「この子ももう十二分に育ちました。自身の置かれた立場を理解すべき時が来たのです。何より、本人がそれを知る事を求めました。ならば、わたくしはそれを明かさねばなりません」
「わたくし達は、今は亡き
「白朝、ですか」
「はい。白皇の在位は凡そ二百万。わたくしが御側に侍りましたのはその内一万にも満たない短いものでした」
「いっ……ちまん、ですか」
提示された歳月の長さに、熊掌は息を呑んだ。父が我々の事を短命種と称した理由が
「我々は本来身体を損傷致しません。病に
「
「月は、白皇の正室だったのです。在位はわたくしよりはるかに長く、白皇がその御位にお着き遊ばしてより百万程の時を経て迎えられたはずです」
「つまり、皇后という事ですか? 今の朝を治め我々を支配しているのは夫殺しの女帝であると?」
眉間を険しくした熊掌に、父が横から言葉を加えた。
「熊掌。夜見の民においては、性が雌雄に分かれる訳ではないのだ」
「――はい?」
混乱により思わず呆けた熊掌に対し、後の言葉を継いだのは宇迦之だった。
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