第一幕
第一場面:サンドリヨンの屋敷、客間
あたりの景色が目に入るようになると、どこかの屋敷の一室であることが分かった。一見豪華な様子だが、少し目を凝らせば掃除が行き届いていないことに気がつくだろう。人の住む気配が薄い。屋敷の大きさに見合わず、やけに静まり返っている。そこに、靴が床を蹴る音が二つ。一つは悠々と、もう一つがそれを追うように早い音を鳴らす。ドアが開いた。
先ほど見た女性が部屋に入ってくる。品の良いドレスをまとった女性だ。髪や肌からひどく疲れた印象を受けるが、その表情は気高く、眼は鋭い。
後から足早に彼女を追いかけて入ってきた娘もまた、先ほど見た者だった。美しいドレスを着た若い女性。その娘は先に来た女性に比べると、随分と子どもじみた様子であった。そのうえ、先ほどの様子とは打って変わっておどおどしてみえる。
「どうしてそんなことを言うの?そんなにお母様には私が役立たずに見えているのかしら。」
落ち着かない様子の娘は、自分のほうを見もしない女性に抑えた声で尋ねた。ようやく振り返った女性、お母様と呼ばれた彼女は、その問いにひどく優しい声でこたえる。
「貴方のためよ。この家の娘はお前よりも、品性も、知性も、それに家事も裁縫も……何もかもが上なの。貴方は何もあの子に勝てないのよ。分かるでしょう?あの娘と仲良くして並んで立ちでもすれば、世間に比べられるわ。」
優しい声は強張った表情と不釣り合いでむしろ恐ろしい。その様子に娘はますます表情を固くし、彼女の表情に残っていた困惑と悲しみは静かな怒りへと集約されていく。
「貴方の言う通りにする方が、よっぽど比べられることになるわよ。何故分かってくれないの?それとも分かった上で、貴方は私を更に貶めようとしているのかしら、夫人。」
他人行儀に言い捨てた娘に、夫人は目を吊り上げる。吐き出された声は決して大きくなかったが、怒鳴りつけるように、ひどく尖っていた。
「黙りなさい、出来損ない!この家は私たちよりよっぽどお金持ちなんだよ。これはお前のための結婚なのよ、それが分からないのかい?」
そこまで言ってから夫人は一度言葉を止めて、深く息を吐いた。
「お願い、大人しく私の言うとおりにしていて頂戴。」
声の調子はまた猫撫で声に戻っている。頬を撫でた夫人の手を払い除けて、娘は母親を睨みつけた。
「貴方っていつもそうね、お母様。いいえ……お父様が死んでからますます、って言った方が良いかしら。」
「貴方のためよ!貴方が、父親がいないことで辛い思いをしないように!」
「見え透いた嘘をつかないでよ。」
激昂する夫人とは対照的に、少女は落ち着いて言葉を続けた。乾いた笑いを含んだ声は、少し震えている。
「私のためと言いながら、気にしているのは貴方の世間体でしょう。それはお父様が死ぬ前からずっと。料理だって掃除だって、知りたがった私の意志をはねのけて、良家の娘には必要ないなんて言ったのはお母様じゃない。女が知識をつける必要なんかない、とも。」
「黙りなさい。」
少女は下を向いて、一度唇を舐めた。息を吸う音が、聞こえる。
「それが……今更、何?出来損ない?」
「黙りなさい、聞こえなかったのかい!」
「お父様が死んでから、お母様はどんどんおかしくなっているわ!」
娘の叫び声に、夫人は目を見開いた。その表情が徐々に凪いで、場にそぐわぬ優雅な笑みを浮かべる。娘がたじろいだ。夫人が微笑む。
「何を言っているの?貴方のお父様は死んでいないわ。」
「……え?」
彼女の言葉の意味が分からなかったのか、少女は眉を寄せた。何を馬鹿なことを、とばかりに彼女の表情が疑問に染まる。彼女が問い返すより先に、夫人が口を開いた。
「貴方のお父様はもう、死んだあの人ではない。」
優しい声で告げられたその言葉に、少女は息を呑んだ。目の前にいるのが初めて会った者であるかのように、彼女は数歩、己の母親から離れる。
束の間の沈黙を、三つ目の足音が破った。ドアが開いて、少女が一人部屋に現れる。物語の始まりに、中央に座っていた少女。先ほど自ら主人公と名乗った彼女はその時の襤褸とは異なり、愛らしいドレスに身を包んでいた。先にいた娘よりも少し歳下に見える。
「こんにちは。貴方がカラーね。」
優しげに声をかけた夫人に、はじめから部屋にいた少女――彼女は今入ってきた「主人公」から見れば、姉、と呼ぶべきか――は片眉を上げた。カラー、と呼ばれた娘は微笑んで頷く。
「これから私が貴方の母になるわ。」
その言葉に先ほどの夫人の発言を思い出したのか、姉が思い切り顔を顰める。何か言おうと彼女は口を開いたが、結局何も言わずにただ息を吐いた。カラーにはカラーの母親がいるはずだ、と思ったのかもしれない。姉に死んだ父親がいるように。呼び名の使い方は本人が決めれば良い、と夫人へ苦言を呈することは、きっと姉には難しい。
「こんにちは、お母様。」
カラーはお手本のような笑顔で微笑んだ。誰も彼女のことを嫌いにならないだろう、と思うに十分な笑み。
「それからこの子が私の娘よ。貴方の姉ね。」
母と名乗りながら、夫人は姉を「この子が私の娘だ」と紹介する。確かな線引き。嫌な顔一つせずに、カラーは姉にも微笑んだ。
「こんにちは、お姉様。」
姉はこたえない。いや、どうこたえるべきか悩んでいるのかもしれない。夫人は素知らぬ顔で頬に手を当てた。
「あら、この子ったら長旅に疲れてしまったのかしら。ねぇ、何か飲み物を頂ける?休めばきっと話も弾むわ。」
「分かりました、お母様。すぐにお持ちしますね。」
評判通りと言うべきか、カラーは行儀の良い返事をして部屋を出ていく。夫人が鼻を鳴らした。
「噂通り、気の利く娘のようね。しかしまぁ、品のないこと。」
使用人は元から仕事をしていなかったのかしら、と夫人が笑う。つい先日まで数多の使用人に囲まれて暮らしてきた娘だというのに、いっそ不思議なほど従順だ、と。黙り込んでいた娘が馬鹿馬鹿しいと呟いて椅子を引いた。
「お茶を入れるのに慣れているくらい、自分のことを自分でするんだったら自然なことでしょう。来客のおもてなしのできる『よく出来た娘さん』じゃない。」
「……お前は少し彼女のしおらしさを見習ったらどうだい?口答えの多い子だね。」
「嫌なことを嫌って言って何が悪いのかしら。」
「お黙り。私は正しいことをしているのよ。」
「貴方にとっては正しいことなのかもね。」
「文句があるのかい?言いたいことがあるなら、はっきりおっしゃい!」
夫人の声に、部屋の空気が張りつめる。気だるげに顔を上げた姉は、もうさして母親の気分を気にしていないようだった。少し上げた口角は、ともすれば夫人を馬鹿にしているようにも見える。その姿は始めに見た姿に近い。
「お母様、私は貴方にとっての何かしら?」
「大切な娘に決まっているでしょう。」
その答えに姉は笑みを深めた。呆れたように首を傾ける。
「じゃあ貴方にとって娘っていうのは、アクセサリーか何かなのね。」
ガン、と鈍い音が響く。揺れたテーブルに手を置いていた姉は、驚いたように身を引いた。テーブルに手を叩きつけたまま夫人が口を開く。
「物乞いをしたくないなら私に従いなさい。」
低く、小さな声。今までのどれよりも大きく響いたそれに、姉は返事をせずに瞬いた。座ったままの彼女に近づいて、夫人がその肩に手を置く。
「私に残ったのは貴方だけなの、分かる?貴方には幸せになって欲しいと思うのは当然じゃない。私のために貴方をよく見せたいと思っているわけじゃないの、貴方のためなのよ?」
姉の顔が歪んだ。姉の肩に置かれた夫人の指先が白く力んでいる。姉のドレスが、その中でぐしゃりと形を乱しているのが見えた。肩の痣は、人に見えなかろう。
「良い?あの子には、冷たくあたるのよ。」
「……分かったわ、お母様。」
姉の目に納得は見えなかった。それでも掴まれた肩をちらりと見てから、姉はハッキリと頷く。
戻ってきたカラーの足音に、夫人が手を離した。
「外面を取り繕うのはこんな時でも上手いのね。」
小さな声は夫人に届いたのか。夫人は姉のほうをちらとも見もしなかった。
「紅茶はお好きでしたか?」
「ええ。」
見事な仮面だ。カラーと仲良くするなと姉に言ったが、彼女自身はどうするつもりなのだろう。今のところ夫人は、カラーの前で「良い継母」の顔をしている、ように見えた。
席は二つ。姉が座っていなかった方の椅子に、夫人は当たり前のように腰かけた。カラーは何も言わずにその横に立って、ティーポットから紅茶を注いで二人に差し出す。渡されたカップに手を付けずに、夫人はカラーを見上げた。
「ああそうだわ。ねぇカラー、貴方、家事は出来て?」
突然の質問に、カラーは少し戸惑いを見せた。それでもすぐに頷いて、肯定の返事をする。
「は、はい。人並みには。」
「なら良かった!私の子も私も全く出来なくて。今日の夕食は貴方にお願いするわね。」
「それは……」
カラーは何かを言いかけて、少し目を泳がせる。束の間躊躇ったあと、彼女はおずおずと言葉を続けた。
「あの、数日前から使用人たちが居なくなってしまったのは……」
「あぁ、それね。私やお母様の家具を買うためにみんな解雇しちゃったんだって。」
姉が彼女の方を見ずにこたえた。カラーは彼女のほうを見て、困惑したまま聞き返した。
「全員、ですか。」
「そう。何も今日突然いなくなったわけじゃないでしょ。誰も戻ってこないわよ。」
異常に静まり返った屋敷。行き届いていない手入れ。
それが一時的なものではないと、カラーも薄々分かっていたのだろう、驚いたというよりは落胆した表情で、カラーはそうですか、と呟いた。
「聞いてないの?お父様、って随分と貴方を軽く見ているのね。」
お父様、という言葉に嫌に力が入っているのはわざとか。ようやくカラーの方を見て、姉は鼻で笑った。
「掃除や洗濯、料理なんかも、お前くらいお育ちが良きゃあ一人でも出来るでしょ……人並みにはさ。」
「お前、言葉が悪いよ!」
諫めているような言葉とは裏腹に、夫人は笑っている。
「使用人がいないのはそういうことなの。貴方一人で家事は出来る?」
「えっと……」
「出来ないの?」
表情は変わらず。しかし明らかに下がった夫人の声の温度に、カラーは束の間言葉を失った。姉は何も言わない。ただ、目の前のティーカップを睨むだけだ。カラーは諦めたように頷いた。
「いえ、その……はい、出来ます、お母様。」
「あとねぇカラー。貴方のお部屋、今日からは私の娘が使わせて貰うから。」
「部屋を?でもお母様、空き部屋ならたくさんありますわ。私の部屋でなくとも……」
「あら、貴方が使っている部屋が一番広いのよ?それに、どこの空き部屋も貴方には広すぎるでしょう?」
まるで気を使っているかのような言い回し。親切そうな声音で渡される毒を持った言葉の方が、明らかな暴言より余程胸を抉ることがある。
夫人の表情、声、全てが優しく、その言葉の毒は強い。
「大丈夫よ、カラー。貴方には屋根裏部屋があるわ。」
「そんな、あの部屋は物置で……!」
「今は空っぽなのだから、心配することはないわよ。」
ころころと笑う夫人は、まるで悪気のないように見えた。ただ薄く開いたその目の奥が、薄ら寒い。
「ああ、そうそう。夕食の前に掃除を済ませて頂戴ね。」
「あの、お母様……」
「なあに?」
「どうして、」
青い顔で何かを訴えようとしたカラーのその声を、夫人は聞かずに立ち上がる。カラーの声を遮るように叫んだ。
「あら、気が付かなかったわ!貴方この格好でお掃除したら、綺麗な服が汚れちゃうわ!今エプロンを持って来てあげる。」
微笑んで、夫人は部屋を去っていく。カラーは呆然と閉じたドアを見つめた。
「ねぇ。」
聞こえた声に、カラーは振り返った。テーブルに座ったまま頬杖をついて、姉がカラーを見つめている。カラーは慌てたように笑みをつくった。
「なんでしょう、お姉様。」
「最初に挨拶無視してごめんなさいね。ちょっと疲れていてさ。改めてよろしく。」
「はい、お姉様。これからよろしくお願いいたします。」
青い顔のまま微笑んで頷いたカラーに、姉は思い切り眉を寄せた。
「ねぇ、お前使用人に嫌われてでもいたの?それとも旦那様に?」
「は、い?えぇと、それはどういう、」
「なーんの文句も言わない、気味が悪いわ。だからお母様もつけあがるのよ。」
彼女は立ち上がってカラーに歩み寄る。カラーよりも、彼女はかなり小柄だった。揉み合いになれば姉が負けるだろうに、カラーは姉の剣幕に怯えたように目線を泳がせた。
「……それ、可愛いの、つけているわね。」
「え?」
目を細めて、姉がニィと笑った。彼女の手がカラーの手首に伸びる。カラーが腕に着けていたバングルを思い切り引いた彼女に、カラーは驚いて抵抗した。
「っ痛い、お姉様やめてください!」
「こんなもの掃除の邪魔でしょ。使用人には装飾品はいらないと思わない?」
姉はカラーから奪ったバングルを自分の腕にはめる。泣きそうな顔でこちらを見るカラーに片眉を上げてから、姉はカラーの髪飾りに手を伸ばした。髪飾りを引かれて、カラーはバランスを崩して床に腕をつく。
「お姉様、私の装飾品なら全てお渡ししますわ。だからどうか乱暴をしないで……」
「へぇ、まだ怒らないのね。でも正しいわ。そうしているうちは、貴方は絶対的な被害者になれるもの。」
笑い声を上げて、姉は手に持ったカラーの髪飾りを暖炉に放った。火が入っていない暖炉の燃え残りに、髪飾りが転がる。
「どうぞ、お取りになって?貴方のでしょ?」
カラーは少し戸惑ってから、立ち上がって暖炉に近づいた。拾おうと身体を暖炉に入れれば、灰と煤が彼女の顔と服に付く。ようやく髪飾りを拾い上げてカラーが身を起こせば、姉が彼女の全身に目線を走らせた。ふ、と堪えかねたとばかりに姉が笑い声を落とす。
「そうやって灰にまみれている方が、よっぽどお似合いじゃない。ねぇ、サンドリヨン?」
サンドリヨン。灰まみれの娘。
投げつけられた呼び名に、初めてカラーの目に敵意が宿った。姉がくすくすと笑い声をあげる。
「ずっとそうしてなさいよ、良い子のサンドリヨン。あら何、やっと怒った?折角の名前が気に入らないの?それとも顔が汚れるのがそんなに嫌だったのかしら。」
姉の笑い声は段々と大きくなった。縮こまるカラー、いや……サンドリヨンと呼ぼう。サンドリヨンを見ながら、彼女はひどく悲しげな目でケラケラと笑い続ける。笑いながらテーブルに残っていた手付かずのティーカップを手に取り、姉はそれをサンドリヨンの頭の上に持ち上げた。その動作はゆっくりとしていたが、サンドリヨンは動かない。
水音が響く。
「顔の灰は綺麗に落ちたわよ、これで満足?」
サンドリヨンはただ悔しそうに眼を床に落とした。髪から紅茶が垂れ落ちる。
「ちょっと、なんの騒ぎだい?」
戻ってきた母親の声にこたえずに、姉は手に持った空のティーカップをティーポットの残ったトレーに置いた。近づいてきた母親に聞こえるよう、歪んだ笑顔で囁く。
「お母様に言われた通りにやっているのよ。これで満足?」
夫人の返事を待たずに、姉は黙ったままのサンドリヨンを振り返る。
「また後でね、サンドリヨン。その汚い床、拭いときなさいよ。」
そのままトレーを手に持って部屋を出ようとした彼女を、夫人が鋭い声で止める。
「貴方がやることじゃないって分かっているわよね?」
何を指しているかは明白だ。返事をせずに、姉はただため息をついてトレーをテーブルに戻した。そのまま黙って部屋を出て、ドアを閉める。後ろ手に閉めたドアを、姉はちらりと振り返った。
「私が止めるべきだと思う?でも、どうしろっていうのよ、近頃は名前を呼ばれたことすらないっていうのに。」
床に向かって呟いて、姉はかぶりを振る。こたえる者はいない。今度はドアを振り返らずに、姉は去っていった。
部屋に残った夫人は、紅茶で濡れたサンドリヨンの様子に何も言わずに、彼女に朗らかに話しかける。
「さてと、サンドリヨン。」
その名は少女のものでは無い。姉が言い放った蔑称を当たり前のように口にした夫人に、サンドリヨンはただ顔を上げるだけだ。
「長く住んでいるのだもの、掃除道具の位置くらいはもちろん分かるわよね?」
「……はい。」
「そうそう、エプロンだけじゃなくて、替えの服も用意したの。使用人が残していったものがあったのよ、これで汚れても大丈夫でしょう?ほら、少し大きいかもしれないけれど十分よね。」
残したと言うよりも、捨てられていたと言うほうが正しいような状態のそれ。夫人は変わらず優しげな笑みを浮かべている。サンドリヨンはただ、静かに夫人を見ていた。
「ここに置いておくから、着替えるのよ。着替え終わったら、お掃除をお願いね……返事は?」
「はい、お母様。」
頷いたサンドリヨンに微笑んで、夫人は部屋を出る。パタン、と閉じたドアを憎しみの篭った目で睨みつけて、サンドリヨンは吐き出すように呟いた。
「こんなの、ないわ……お母様が死んでから今までの生活だって、誰にも見向きもされてこなかったのに。」
濡れた髪をかきあげて、サンドリヨンは低く唸った。
「お父様が再婚した途端、お嬢様から使用人以下の扱いにまで落ちるだなんて!有り得ない、絶対に……」
束の間黙り込んでから、彼女は長く息を吐いて服とトレーを持ち上げる。濡れた手でドアを開ける彼女の顔からは綺麗に怒気が拭い去られ、もう怯えの色しか見えなかった。
第二場面:どこかの村、村人の家
「本当に、なんと礼を言えばいいのか分かりません。」
今まで聞いていた声とはまた違う声が聞こえる。振り返れば舞台は随分と質素な家に変わっていた。いや、小屋と言ったほうがいいかもしれない。先ほどまで眼前に広がっていた煌びやかさはみじんも残っておらず、ほとんど物がない。壁は剥がれかけていた。
言葉を発したのは痩せた男性だったようだ。とても嬉しそうに礼を言う彼にこたえたのは、やけに軽やかな声。
「私は日照りを予言しただけ。対策をしたのは貴方たちでしょう?」
彼の隣に立っていたのは、あの妖しい美しさをもつ、人ではない何かだ。女性のようにも男性のようにも見え、年齢すら瞬く度に変わって見える何か。隣に並ぶ男と比べるとより異質さが目立つ。
「それにお礼を言うのは私の方よ。ここの村の人がいなければ私は今もあの場に閉じ込められていた。」
微笑むそれに、村人は慌てたように首を横に振った。
「貴方を封じていたものを壊したのは、ほんの偶然です。感謝されることではありませんよ。」
「いいえ。感謝したいことは、私を自由にしてくれたことだけじゃないの。」
それはふわりとまとった服を揺らして村人の前に立つ。何かを思い出すように目を伏せてから、彼を見た。
「人間は皆、私のようなものを恐れると思っていたの。排されると、敵だと思っていた……受け入れてくれる人がいるなんて思っていなかったわ。偶然とはいえ封印を壊してくれた上に、弱っていたところを助けてくれたんだもの。お礼が出来て、私もとても嬉しいわ。」
「えぇ、本当に助かりました。貴方が日照りのことを教えてくれなければ、私たちも他の村のように飢えに苦しむことになっていたでしょう。」
その言葉を聞いて、それは少し表情を曇らせた。
「他の村には悪いことをしたかも知れないけれど。」
「でも、この村だけに教えてくれたからこそ、日照りの前から貧乏だったこの村にゆとりが出来たんです。日照りが起こらなかった場合よりも助かったくらいだ。本当に、貴方のおかげです。」
罪を感じる必要はない、と村人は頷く。そう、とそれは胸に手を当てた。
「貴方たちに恩返しが出来たなら良かったわ。さて、と。いろいろ落ち着いたみたいだし、私はそろそろお暇しようかしら。」
それの言葉に村人は眉を下げた。
「留まっていただいて構わないのに。歓迎いたしますよ。」
「いいえ、いつまでも留まっていては皆に悪いから。もう私の力も元に戻ったし、私も上手く生きていくわ。一人に慣れているの。」
それが軽やかに家のドアを引く。軋んだ音を後ろに聞きながら、それは家から出て数歩進んだ。名残惜し気に家を振り返り、首を振る。
「私に出来ることは未来を変えることだけだもの。」
呟いて、それは村の外に消えた。
第三場面:どこかの村、畑道
気づけば景色が少し移ろっていた。人の気配はなく、視界一面を枯れた植物が埋めていた。自然に生えたにしてはやけに規則正しい並びに、ここが畑であることが見て取れる。対照的に道端の雑草が青く茂っているのは、少しは雨が降ったためだろうか。
人の生活の跡はあるが、どれも時間が経っているように見えた。例えば、手押し車には蜘蛛の巣が張っている。それに人の足跡はどれも薄い。随分と長く畑には人が来ていないのかもしれなかった。
不意にどこかから、がさりと音がする。音のほうを見れば、枯れ草を振り回しながら、少年が一人とぼとぼと歩いていた。五、六歳ほどだろうか。時折しゃがみこみ、別の枯れ草を拾っては放り捨てている。何をしているのだろうか。
「これは?駄目だな……あ、あれ……も食べられそうにないし。」
食べ物を探しているらしかったが、あたりにあるのは雑草だけだ。少年は手押し車に両手をかけて、必死に身体を持ち上げた。覗き込んで、中が空であることに落胆の声を上げる。
「ちぇ、空っぽだ。」
少年はまた数歩進んで、雑草の中にある花を見て足を止めた。
「これ、食べられるかなぁ。」
少年の呟きに、突然返事が寄越される。
「こんにちは、お坊ちゃん。それは毒があるから食べない方が良いわよ。」
確かに誰もいなかったはずの場所。立っているのは、あの、人ではない何か。足音もしなかったが、少年は気にする様子もなく元気よく挨拶を返した。
「こんにちは!」
「あら、元気なお返事。」
それは笑って少年の頭を撫でてから、しゃがんで少年と目線を合わせた。よく見れば少年の頬は少しこけている。
「お坊ちゃん、お名前は?」
「ジョン!貴方はだあれ?」
「私は……そうねぇ、魔法使いよ。」
それは名乗らずにそうこたえて微笑んだ。ジョンと名乗った少年は特に気にする様子もなく、ふぅんと頷く。それ――名乗りに合わせて魔法使いと呼ぼう――はちょっと首を傾げてから、立ち上がってあたりを見回した。ジョンの他に人の気配はない。
「お坊ちゃんは一人でどうしたの?もしかして迷子?」
「迷子じゃないよ、僕、お家ないの。」
ジョンは少し俯いてこたえた。すぐに顔を上げて、明るい声で言う。
「あのね、僕のお父さんとお母さんはもういないんだ。僕を置いて、どっか行っちゃってさ。帰ってくるかなって思ったんだけど、逃げ出したんだってお隣のおじちゃんが言っていたから……お出かけってわけじゃないって僕にも分かった。だから、一人なんだ。」
「そう……ここもひどい飢饉だったからね。備えがなければ無理もないわ。」
だんだんと尻すぼみになったジョンの答えに、魔法使いと名乗ったそれは眉を下げた。まわりを見渡して、荒れた畑を見る。
「仕方のないことなのだけれど。必要なことだったからね。」
「キキン、って何?」
村の人も言っていた、と少年が首を傾げる。言葉を選ぶように目を泳がせてから、魔法使いは口を開く。
「作物が……食べ物が取れなくて皆が困ることよ。これから大変だね、お坊ちゃん。」
「そうかな?」
「だって、お坊ちゃんはこれからどうするのよ。一人で暮らしていくんでしょう?」
魔法使いの質問に、ジョンは二、三度瞬く。ええとね、と少し考え込んでから、ジョンは笑顔でこたえた。
「お隣のおじちゃんは食べ物を探して来いって。僕一人ならきっと何とかなるってさ!」
だからきっと大丈夫だよ、とジョンが頷く。魔法使いの目に、申し訳なさのような色が浮かんだ。
「誰かの家には置いてもらえなかったの?」
「おじちゃんの所には置けないって言っていたよ。」
そこで言葉を切って、ジョンはちょっと首を傾げた。
「おじちゃん、何で泣いていたんだろうね。」
「……そのおじちゃんもきっと、自分のことで精一杯なのよ。本当は貴方を引き取ってあげたいんでしょうけど。」
魔法使いは憂いを帯びた顔で目を伏せた。ジョンはよく分からないといった表情でしばし魔法使いを見つめていたが、何か思いついたのか魔法使いの服の裾を引いた。
「魔法使いさんは?どこに行くの?」
「私?そうねぇ。特にあてはないわ。もう前にいた場所では目的も果たしてしまったし。次の居場所を探して歩いているところ。」
「ふぅん……ついてっちゃダメ?」
「ダメ。子どもの身体じゃ移動が多くて疲れちゃうわよ。」
「そっかぁ。」
苦笑いを浮かべて魔法使いがジョンの誘いを断る。残念そうに少年は眉を寄せたが、すぐに興味がそれたのか目を見開いた。
「ねぇ、魔法使いさんが持っているその棒は何?」
くい、ともう一度服を引いてジョンが魔法使いの手の中を指さす。手に持ったステッキのようなそれを、魔法使いは少年に見えやすいように持ち上げた。
「ああ、これね。私はね、これがあると魔法が楽に使えるのよ。いわゆる魔法使いの杖ってやつ。」
「魔法?それってなんだって出来るの?」
「えぇ、大体のことはね。」
魔法使いの言葉に、ジョンは目を輝かせた。
「じゃあさ、僕でも動物になったり、空を飛んだり、そうだ、王子様になれる?」
彼の言葉が予想外だったのか、魔法使いは目を見開いた。ジョンは期待に満ちた目で魔法使いを見つめる。
「王子様に、なりたいの?」
「うん!」
「どうして?」
「どうしてって……」
その疑問自体の意図が分からなかったらしく、ジョンは首を傾げた。当たり前じゃないか、とばかりに説明する。
「だってさ、王子様って、美味しい食べ物をたくさん食べられて、たくさんの人が言うことを聞いてくれるんでしょう?僕、聞いたことあるよ。ねぇ、出来る?」
ジョンの言葉に、魔法使いは苦しげな表情を浮かべた。少しの間の後、魔法使いは再びしゃがんで少年と目線を合わせる。
「出来……る、わよ。少し骨の折れることではあるでしょうけれど。」
「ほんとに?やった!やってみてよ、お願い!」
無邪気に嬉しげな声をあげて、ジョンが飛び跳ねた。魔法使いは首を横に振る。
「いいえ、だめ。やめておいたほうが良いわ。」
「どうして?」
ジョンが途端に目を潤ませた。魔法使いは黙って目を伏せる。言葉を選ぶように、魔法使いはぽつぽつと言葉を重ねた。
「だって、魔法でたくさんの人を騙すことになるのよ。例えば王様とかね。本当に王様の息子にはなれないから、王様にお坊ちゃんが自分の息子だって思い込ませなきゃならないわ。過去を変えることは出来ないの。」
魔法使いの言葉の意味が、いまいち分からなかったのだろう。少年は不満げに頬を膨らませた。
「でも、そうすれば僕はこの先、ずーっと元気に暮らせるよ?そうすれば村の人だって、おじちゃんだって困らないでしょ?」
魔法使いはただ首を横に振る。
「魔法に頼っちゃだめよ。」
「何で?」
「魔法なんて、幻なの。辻褄が合わなくなるたびに過去を誤魔化していれば、いつか襤褸が出るものよ。」
「でも……」
「駄目なものは駄目。この話はもうおしまい。」
年端もいかない少年相手に説得は難しいと踏んだのか、魔法使いはただきっぱりと言い切った。ジョンはまだ不満ありげだったが、しぶしぶといった様子で頷いた。
「分かったよ。」
その様子を見て、少し可哀想になったのだろう。魔法使いはジョンの機嫌を取らんとばかりに声色を明るくして尋ねる。
「他にお坊ちゃんのしたいことはないの?一個なら叶えてあげるわよ。」
魔法使いの提案に、ジョンが目を輝かせた。ちょっと待って、と言って少年は一生懸命悩み始める。魔法使いは彼が考え終わるのを微笑ましそうに待った。ジョンがぱっと顔を上げて、魔法使いをじっと見た。
「ねぇ、僕に一回で良いからその杖を貸してよ!」
「え?何がしたいの?」
「空を飛んでみたいんだよ。」
鳥みたいにさ、とジョンが両手をパタパタと動かした。
「あら、私がその魔法をかけてあげるわよ。」
ジョンは魔法使いの提案に、ふるふると首を横に振る。頬を膨らませて、彼は訴えた。
「自分でやってみたいんだよ。僕にはその杖は使えない?」
「誰にでも使えるけど……だからこそ危ないわよ。」
「すぐ返すから!ねぇお願い。」
魔法使いは少し躊躇ったようだった。しかし少年に邪気があるようには見えない。逡巡の末、魔法使いは微笑んだ。手に持った杖を、少年の前に差し出す。
「仕方ないわね。空を飛ぶだけよ?」
「うん!」
「じゃあ、どうぞ。」
「ありがとう、魔法使いさん!」
魔法使いが差し出した杖を、ジョンは嬉しそうに受け取る。杖をクルクルと回して眺め、少年は顔を上げて首を傾げた。
「どうやって使うの?」
「頭の中で、強く願って杖を振ってごらん。」
ジョンは杖と魔法使いを交互に見た。ひどく嬉しそうに笑ったその顔が、どこか歪んで見えた気がした。彼はギュッと目を瞑る。
「こうかな?」
ジョンが杖を振った瞬間、魔法使いは目を見開いた。呻きながら、魔法使いは頭を抱えてしゃがみ込む。ジョンが顔を輝かせた。まるで、そう、悪戯が成功したような顔で。
「う、あ……ちょ……と、なに……」
「やったぁ、上手くいった!ごめんね、魔法使いさん。僕、貴方が少しの間動けなくなりますように、ってお願いしたの。」
「駄目、よ、返して、」
「嫌だよ。僕、これでまたご飯が食べられるんだもの!」
ジョンはキャッキャと実に子どもらしい笑い声をあげた。それから、呻く魔法使いから離れようと走り出す。途中で立ち止まって、魔法使いを振り返った。
「本当にありがとうね、魔法使いさん!この杖、僕ちゃんと大切にするから!さようなら!」
ジョンは元気よくそう言って、杖を持ったまま走り去った。呻き続ける魔法使いを、その場に残して。
「あ、あぁ……情けなんてかけ、るんじゃなかった、う……飢えて、当然だ、人如きが……私に……!」
恨めし気な魔法使いの声だけが、誰もいない道に落ちる。もうジョンの背中は見えなくなっていた。
あたりが暗くなり魔法使いの姿が見えなくなっても、呪詛じみた呻きだけはいつまでも残り続けた。
第四場面:城、王子の執務室
ぱっと明かりがついた。次の舞台は室内のようだ。窓のない、本棚の置かれた部屋。おそらく執務室か書斎だろう。本棚も含め、置かれた家具は決して派手ではない。しかし、どれにも凝った装飾が施されているのが見える。
ペンの走る音に目を向ければ、青年が一人机に向かっていることに気がつくだろう。軍服を着た若い男性だ。その服、背格好は物語の始まりに目にしたものと同じであった。そしてそれ以上に、彼の顔には既視感があった。なにしろその顔は、先ほどの少年とどこか似通っていたのだから。
ノックの音が響き、ドアが開く。青年が顔を上げた。
「あぁ、お前か。いつもご苦労、何用だ?」
「王子、やーっぱりダメでした。ありゃあもう陛下はテコでも動きませんよ。」
片手を振りながら入室してきた男性は、王子、と呼ばれた青年とよく似たデザインの軍服を着ていた。しかし、彼のそれは王子のものより飾りが質素だ。歳は王子よりひとまわり程上に見えた。王子に対し随分と親しげな様子だ。しかし、その親しさの中にも明らかに彼を敬う様子が見て取れる。宮廷仕えの軍人であろう。
「舞踏会の件ですが、やはり陛下に中止の意向はないようです。王子の意向をお伝えしたのですが、陛下ときたら『どうせあの阿呆息子には姫の選び方も分かるまい!』と聞く耳をまーったく持たず……おっと失礼!」
「ふふ。いい、いい、気にするな。別に誰が聞いている訳では無いのだから。流石付き合いが長いだけあって、父上の話し口に良く似ているじゃないか。耳元で聞こえるようだよ。」
くすくす笑う王子に、王の口真似をした男性は口を抑えたままつられたように笑う。ごまかすように一つ咳払いをして、彼は改めて言葉を続けた。
「兎に角、はい、舞踏会は絶対に開催するし、そこで殿下に姫を選んでもらうと言っておりました。これ以上の交渉は下手をすると私の首が吹っ飛びかねませんので、もう王子も諦めていただけませんか。」
「そうか、父上ならそう言うだろうと思ってはいたが……参ったな。もう舞踏会の予定日まで日もない、諦めて当日上手く誤魔化すことにするか。」
「程々にして下さいよ。殿下のお戯れが過ぎると、叱られるのはこの私をはじめ殿下の部下たちなのですから。」
己の首を抑えた部下に、王子はニィと笑って保証はしないと言った。部下はわざとらしくため息を吐く。
「それにしても、父上もしつこい。妃くらい面倒を見られずとも自分でなんとかするというのに。」
「陛下はきっとまだ王子のことを、庭を駆け回っていたやんちゃ坊主のままだと思っていらっしゃるのですよ。私が出会った十年前から比べたって、王子は随分とご成長なされた。それくらい私にも分かるというのに。」
やれやれと首を横に振る部下を見て、王子はまた少し笑った。少しぎこちない笑みに見える。
「昔からお前には手間をかけたな。それに、あのころの教師たちにも。随分と品のない子どもだったと今なら分かる。」
「やだなぁ、六つの子どもなんて皆あぁですよ。まぁ陛下は王子の教育を始めるのがちょっと遅かったですね……これ、内緒ですよ。」
本当に首が飛びます、と部下は苦笑いを浮かべた。
「同意するよ。知識を詰め込むのは些か大変だった。」
「でも、結果的にこれほどご立派になられたのですから、教師たちだって鼻が高いと思いますよ。」
懐かしむように目を細めた部下に、王子は目を伏せた。
「なら、良いのだが。」
「しかし……お言葉ながら王子、何故そんなに結婚に乗り気ではないのですか?もちろん、御自身でお選びになりたいという気持ちは分かります。ただ、一度とはいえ御相手とも実際に言葉を交わして選ぶことを許されているのですし、そんなに暗くなることは無いように思えるのですが。」
部下の疑問に、王子は束の間答えに詰まった。眉を下げて、言葉を選ぶようにこたえる。
「まだ自分が一人前であると思えないのだ。妻を持つような器量が、私には無いように思えてならない。」
「またまた、ご謙遜を!」
部下はわざとらしく目を見開いて手を振った。
「昨年の日照りを貴方が予想してくれたから、我が国が難所を乗り越えられたようなものじゃないですか。」
「……過去に学んだだけさ。」
「過去、ですか?」
「十年前の日照りは知っているだろう?あの時我が国の東部がひどい被害を受ける中、一つだけ貯蔵を徹底して助かった村があったことを知っているか?」
「あぁ!物語にもなっていますよね。妖精に助けられた村。村に日照りのことを前もって予期した者が来たとか。」
どこまで本当か知りませんけど、と続けた部下に、王子は苦笑いを浮かべた。もちろん伝承のようなものではなく記録からだが、と付け足してこたえる。
「あの村のやり方を真似ただけだ。おかげで、食糧不足の国に高く輸出することも出来た。日照りが来るかもしれぬと備えておくことが出来たのは、過去の飢饉を知ったからに過ぎない。私の実力ではないさ。」
「何をおっしゃりますか。過去から知見を得られること自体が、王子の実力を物語っているってもんですよ。」
王子はこたえずに、ただ肩を竦めた。ご自身に厳しいですねぇ、と言いながら部下は手に持った書類を王子の机の上に並べる。
「しかしまぁ、致し方ないとはいえ皮肉なものですね。今回我が国は日照りでむしろ儲かったようなものなのですから。」
「……物の数が減れば価値が上がる。そして、希少になった物を持っていた者は益を得る。食料などの必需品は尚のこと。自然なことだが、些か残酷なことよな。」
王子はこたえて、かぶりを振った。
「他所のことまで心配すれば身が滅ぶ。まずは我が国の中でも打撃を受けた、他国からの趣向品を扱っていた貿易商たちのことを考えよう。昨年の日照りの景況で、己で身を滅ぼした者もいると聞いている。」
「おっしゃる通りで。」
書類を王子の机に一通り広げて、部下は最後に一枚の紙を王子に差し出した。
「これ、国民に配られる例の招待状です。一応お目通しを。」
「あぁ。まぁ、見たところで変えようもないのだろうがな。」
「そうおっしゃらずに。」
城の鐘が響いた。部下は驚いたように窓の外を見てから、眉を下げる。
「おっといけない、長話をしてしまいました。私は戻りますね。王子も根を詰め過ぎぬよう。」
「あぁ、また後でな。ご苦労。」
部下が部屋を出ていった。王子はしばし招待状を眺めていたが、それを机に放って大きくため息をついた。
「自分で起こす災害の予言は難しくない、かぁ。過去に学んだと言っても、きっと君が思っているようなことじゃないんだよなぁ。」
ドアに向かって、王子が呟く。その声は先ほどまでのものとは打って変わって弱々しい。彼が手を伸ばしたソードベルトには、剣と共にあの杖が掛けられていた。
「僕は一体どこに向かっているんだろうか……」
王子の言葉に返事をするものは、そこにはもう、誰もいない。机に突っ伏す王子の姿は、じきに暗闇に呑まれた。
第五場面:サンドリヨンの屋敷
再び舞台はサンドリヨンたちの住まう屋敷に戻ったようだ。夫人たちが屋敷に来てから何日か経ったのだろうか、屋敷からはますます人の気配が薄まったように思えた。
使用人の服に袖を通し、サンドリヨンが屋敷の中をパタパタと走り回っているのが見える。慣れた手つきで掃除をこなしているようだ。
ノックの音が響いて、サンドリヨンは掃除の手を止めた。慌てて屋敷のエントランスまで駆けていって、彼女はドアを引いた。ドアの外には、先ほどの王子の部下と同じ軍服を着た男性が立っていた。おそらく彼も王家に仕えている者だろう。
「どなたですか?」
「城からの使いです。こちらをお届けに。」
城からの使いは肩にかけた鞄から封筒を一つ取り出した。
「あら、ありがとうございます。」
「それでは!」
封筒を手渡して、城からの使いはくるりとサンドリヨンに背を向けた。ブーツの音を響かせて去っていく使いをしばし見送ってから、サンドリヨンは手元の封筒に目を落とす。真っ白で、外からは何も読み取れなかった。蝋封のされたそれを、サンドリヨンが開けることは許されないに違いない。
億劫そうにため息をついてから、サンドリヨンは屋敷の階段を上がる。ドアの前で立ち止まって、彼女はドアを強くノックした。
「お母様、お手紙です。」
「入りなさい。」
サンドリヨンがドアを開け、腰掛けていた夫人の側まで近寄る。差し出された手紙を黙って取って、夫人は封を切った。手紙を開きながらサンドリヨンに尋ねる。
「誰から?」
「城からの使い、と。」
「あら、何かあったのかしら。」
夫人は紙を広げ、しばしそれに目を通す。
「良いお知らせでしたか。何かあれば、お父様にお手紙を出しますが。」
「いいえ、あの人に心配をかけるようなことは何も無いよ。ただの招待状さ。」
「何か催しが?」
「お前には関係ないことだよ。掃除にお戻り。」
サンドリヨンは一礼して、部屋から出ようとした。夫人がサンドリヨンの後ろ姿に声をかける。
「あぁいや、そうだね、やっぱりあの人に手紙をお願いしようかね。」
「はい?何と書けばよろしいでしょうか。」
足を止めて尋ねれば、夫人が手紙に目を落としながら伝言の内容をしばし考える。
「王が開く舞踏会にこの家も招待されたのよ。だから恥のないように新しいドレスを仕立てると、手紙を出して伝えておいておくれ。」
「……はい、お母様。」
微笑んで、サンドリヨンは今度こそ部屋を出た。廊下を進んでいると、途中のドアが開いて姉が部屋から出てきたところと行き会う。一瞬しまった、という表情が姉に過ったようにも見えた。
「あら、掃除は終わったの?」
「いえお姉様、今は別の用事をお母様から言いつかったので掃除は中断しております。お父様にお手紙を出すために便箋を取りに行くところですわ。」
「あぁそう。何かあったの?」
「お城で舞踏会が開かれるそうです。」
それが、とばかりに姉が小さく首を傾げた。お姉様も御呼ばれしたのですよ、とサンドリヨンが言葉を続ける。
「舞踏会のためのドレスを仕立てることをお父様に伝えるように言いつかったのです。そうだ、ですからきっと近いうちに新しいドレスを作れますよ、お姉様。」
サンドリヨンの言葉に、姉は眉を寄せた。
「お前は?」
「え?」
サンドリヨンに聞き返されて、姉が思いきり聞かなきゃ良かった、という顔をした。ぞんざいに質問を言い直す。
「お前も、舞踏会に行きたくなったりしないの?まぁ、お母様が許すとは思わないけど。」
「御冗談を、お姉様。私が行くなんてめっそうもありませんわ。」
小首を傾げたサンドリヨンに、姉は呆れたようなため息をついた。それから、ふいと意地悪な表情になって腕を組む。
「ああ、その通りだね。だって灰被りなんかが舞踏会にいたら、皆の笑いものですものね。」
「そうですよ、お姉様。」
サンドリヨンはころころと笑った。それを見て、姉は何も言わずに彼女の横を通り抜けようとする。
ふと思い立ったようにサンドリヨンを振り返って、旦那様は舞踏会の前に帰ってくるかしらと尋ねた。サンドリヨンが首を傾げると、姉は片眉を持ち上げる。
「旦那様がここにいれば、お前もドレスくらい貰えるだろうに。あの人のたまの遠出と舞踏会が被るなんてついてないわねぇ、サンドリヨン。」
声音は尖っていたが、姉の目はどこか寂し気だ。サンドリヨンと話す時、彼女はよくこういう表情をしているように思う。
「いいえ、お姉様。お姉様もお父様とお会いしたでしょう?お父様は出かける前も、私よりお母様のお言葉を信用していましたから……きっといらっしゃっても、あまり変わりありませんわ。」
にこりと笑って言い切ったサンドリヨンに、姉は瞠目したようだった。ただ、すぐに興味なさげな顔に戻って肩を竦める。
「あ、そ。味方なしって訳ね。」
サンドリヨンはただニコニコとしている。きっと、それが姉を苛立たせているのだろう。もしかしたらサンドリヨンもそれを分かっているのかもしれない。
「手紙、書き終わったらお母様に見せてから出すのよ。」
「はい、お姉様。そうします。」
ひらりと手を振って、姉はサンドリヨンと反対方向に歩いて行った。その背を少し眺めてから、サンドリヨンは歩き出した。
その背が見えなくなる前に、あたりは暗くなった。
第六場面:どこかの屋敷
照明がついて次に見えたのは、また室内のようであった。一見先ほどの屋敷と似通っているが、こちらの方が余程手入れが行き届いている。ただ同時に、やや質素なのも見て取れた。
部屋の中央近くに置かれた品の良いテーブルに、少女が一人腰掛けて本を読んでいる。よく見ればそれはサンドリヨンの姉であった。穏やかな顔で本のページを捲る姿は、先ほどまで見ていた少女と同じ人物であるとは信じ難い。
しばらくして響いた革靴の音に、彼女は顔を上げた。
「なぁダリア。ちょっと、良いかい。」
現れた身なりの良い男性は、姉、つまりダリアと呼び掛けられた少女にどこか似ている。
「どうしたの、お父様。」
お父様、と彼女は抵抗なく男性に呼び掛けた。これは彼女の記憶だろうか。まだ、彼女の父親が生きていた頃の。
「あぁ……最近仕事が立て込んでいて、お前と話すことも減っていたからな。なに、最近、どうだ。」
「っふふ、何それ。こういう時ばかり口下手になるのね。」
座れば、とダリアは自分の正面の椅子を指し示した。頷いて男性は彼女の前に腰掛ける。ダリアは手に持っていた本を閉じて、少し身を乗り出した。
「お父様こそ、最近調子が優れないようだけれど。取引先はやっぱり駄目そう?」
「お前が心配することじゃないさ。」
「でもね、お父様。もしも私に縁談が来なければ、家を継ぐのは女の私なのよ。この意味、分かるでしょ。」
彼女の言葉に、父親は少し目線を落とした。考え込むようにしばし黙ったあと、彼はゆっくりと口を開く。
「日照りの影響は大きい。我が国は王族の方々が上手いこと立ち回ってくれたが、隣国はそうはいかなかったようだ。今はとてもじゃないが、工芸品の方まで手が回っていないようだよ。」
「この後が大変そうね。貿易商、しかも贅沢品を扱っていた以上、緊急時に取引が蔑ろにされる可能性は考えておくべきだったかも……いえ、ごめんなさい。私が言うことじゃないわね。」
半ば独り言のように呟いてから、ダリアは謝罪の言葉を付け足した。父親はゆっくりと首を横に振る。
「本当に賢い子だよ、ダリアは。息子でなかったことが惜しい。」
「お母様はそれが嫌みたい。お父様も、良家の娘には……女にはこんなもの必要ないと思う?」
ダリアが指の背で本の表紙を叩いた。父親が束の間、目を伏せる。
「……知識は、誰にとっても生きる上で重要な武器になる。止めやしないよ。」
彼の言葉に、ダリアは少し目を細めた。何か言いたげにダリアの口元が動いたが、結局彼女は何も言わずに背もたれに体重を預ける。父親はダリアの様子を見つめてから、ふいとその彼女の手元の本を見た。
「本は好きかい。」
「まぁ、ね。でもお父様、私も分かっているの。きっと一生これが役立つことなんてないわよ。結婚してしまえば、きっとどんな武器も無用の長物になるわ。」
父親はこたえない。しばしの沈黙。
「妙な、ことを聞くようだが。」
「なぁに?」
父親は言葉に悩んでいるようだった。唇を舐めてから、少し震える声で尋ねる。
「賢いお前に、ひとつ聞いておきたいんだ。」
「私でよければ誠心誠意こたえるわ、お父様。」
「……例えば、砂糖を運んでいる蟻がいるとするだろう。」
父親の真意が分からないのだろう、ダリアは少し戸惑ったような顔で頷いた。父親が続ける。
「それを踏み潰して殺すことと、砂糖を蹴って取り上げること、お前はどっちの方が残酷だと思う?」
奇妙な質問。ダリアは少し上を見て、考え込む。そうね、と小さな声で呟いてから彼女は父親を見た。
「どっちも残酷だと思うけれど。でも、まだ砂糖を取り上げる方がマシなんじゃないかしら。潰れてしまえばそこでおしまいだけれど、砂糖を無くすだけなら次の砂糖を探すことが出来るでしょ。」
「……そうかい。」
「人によるかもね。えぇと、人というよりこの場合は蟻による?でも蟻ってどの程度物を考えているのかしら。」
首を傾げる娘の頭を、父親は数度優しく撫でた。なぁにいきなり、とダリアが眉を下げる。
「ありがとう。少しすっきりしたよ。」
「そう?なら良いのだけれど。」
「お前の考えが聞けて良かった。やはり私とお前とでは、また考えも異なるんだね。」
父親が部屋を出ていくのをしばし不思議そうに眺めてから、ダリアは読書を再開した。少しして、やはり父親の様子が気になったのかダリアは立ち上がる。
彼女は部屋を出て、屋敷の中を歩いた。すれ違う使用人たちに声をかけながら進み、彼女は一つのドアの前で立ち止まる。ノックの音が響いた。沈黙。
「……お父様?」
返事はない。
彼女がドアを引いて中を覗くと、彼女の父親が机に突っ伏していた。机に広がった本と書類、そこに不釣り合いなワインボトル。手に握られたグラスの中には、少しの赤ワイン。
「お父様?執務室で寝るなんて不用心よ。疲れていらっしゃるなら……」
言葉の続きは、音にならなかった。軽く揺すってもピクリともしない様子に、ダリアが肩にかけた少し力を込めたその時。
無抵抗に傾いた父親の身体に、ダリアは慌てて身を引いて避ける。受け止められないことは分かっていたのだろう。机にグラスが転がって、赤黒い液体が広がる。ガシャンと何かが音を立てても、父親は動かない。
「お父様?」
彼は動かない。少しの身じろぎも、ない。
大きな音に驚いたのか、使用人たちが部屋に入ってきた。いくつか上がる悲鳴。ダリアはただ立ち尽くしている。
父親が運び出される。ダリアはまだ、立ち尽くしている。夫人が入ってきて、ダリアを抱き寄せた。
「私が全部何とかするからね、ダリア。何不自由ない暮らしをさせてやる。だからお前は、お前は私の前からいなくなるんじゃないよ……!」
泣き叫ぶ夫人に抱かれながら、ダリアはただ、空になった椅子を見つめている。じきに、使用人たちが夫人をダリアから引き離して去っていった。
彼女は一人部屋に残って、空の椅子を見た。
「砂糖を運んでいる蟻を踏み潰して殺すことと、砂糖を蹴って取り上げること……」
彼女に声をかけるものはいない。もう誰もいない椅子に、彼女は語りかける。
「……貴方にとっては砂糖を取り上げる方が残酷だったのね、お父様。」
彼女はそう呟いてから、顔を覆って崩れ落ちた。泣き声一つ上げずに。段々と彼女だけを残してあたりは暗くなり、最後には何も見えなくなった。
第七場面:サンドリヨンの屋敷、姉の部屋
「舞踏会が近いのに、お姉様はあまり楽しそうになさらないのね。」
サンドリヨンが姉の髪を梳かしながら尋ねるのが見えた。ここは姉の部屋だろうか、大きなドレッサーやベッド、クローゼットが目に入る。もしここが姉の部屋であるとすれば、元はサンドリヨンの部屋だった場所ということになる。
「良いから、手を動かしなさいよ。」
「ごめんなさい、お姉様。」
ドレッサーの鏡の前に座った姉は、サンドリヨンの質問にこたえずに不機嫌そうな声を出した。サンドリヨンは慌てて口を噤んで、姉の髪を結ぶことに集中しようとする。
少しの間の後、こたえる気がないように見えた姉が不意に口を開いた。
「この舞踏会ってさ、きっと王子様が花嫁を探すために開いたのよ。」
「花嫁、ですか?舞踏会で?」
「そんな気がする、ってだけなんだけどね。確かなことじゃないわ。でも招待状にわざわざ『年頃の娘は全員出席させること』って書いてあるんだもの、そう考えたくなるのが自然じゃない?」
サンドリヨンは頷いた。サンドリヨン自身は招待状を見ていないだろうが、もしそう書いてあったというのならば確かに不自然な文であった。頷いてから、サンドリヨンはおずおずと姉に尋ねる。
「そもそも、王様にお子さんって生まれていたのですか?王子様が生まれた、という知らせを聞いた覚えが、私にはないのですが。」
「あら、お前知らなかったの?確か……王子が六歳の時に初めて発表されたの。十年前になるのかしら?」
こたえてから、姉は小さく笑った。なるべく頭を動かさぬようにしているようだった。髪を結うサンドリヨンへの配慮だろうか。
「とは言っても、私だって彼と同じくらいの年だから、その話をしっかり理解したのはもっと後だけれどね。お前なんて五つくらいじゃないの?」
「十年前でしたら、そうなりますわね。」
サンドリヨンが頷いたのを鏡越しに見て、姉はじゃあ当時は知らなくても不思議じゃないわね、と返した。
「ま、生まれてからしばらくはその存在を隠されていたわけだから……生まれたっていう知らせがなかったのは正しいわね。」
「王子様がいらっしゃると、今まで知りませんでしたわ。」
「とんだ箱入り娘なのねぇ、貴方。」
小馬鹿にしたように言った姉に、サンドリヨンは懐かしむように少し目を細めた。
「母とばかり話していましたから。母は、思えば少し世間離れしていました。」
「そう。」
姉の目が気まずげに泳いだ。サンドリヨンは黙って姉の髪を編み込んでいる。しばし沈黙が下りたが、姉が何か思い出したように瞬いて口を開いた。
「でも流石に、同じ頃の飢饉は覚えているんじゃない?」
サンドリヨンが頷く。
「えぇ。この間の日照りとは違って、十年前の日照りはこの国も大変だった地域が多かったと聞きました。」
一瞬、姉が大きく目を見開いた。怒りに似た色がその目に過る。でもそれは、本当に少しの間だった。
「……良かった、それも知らないならどうしようかと思ったわよ。」
いつも通りの調子で姉はそうこたえ、少し調子を落として続ける。
「昔の日照りは、この国でも苦しんだ村が出た。でもこの間の日照りは、この国の貴族の多くがむしろ得をしたらしいわね。被害が出たのは一部の貿易商くらい。貴方のところは得をした家じゃないの?」
「……どうでしょうか。母の病気がもうひどく、医者代がかさんでおりましたから。」
「そう。儲けたところで、死の前には人は平等に無力なのかしらね。」
短くこたえて、姉は黙り込んだ。サンドリヨンが終わりましたと髪から手を離してから、にこりと姉に微笑みかける。
「舞踏会、お姉様ならきっと王子様のお妃になれますわ。」
「適当なことを。 端からもっと良い所のお嬢様しか見ないわよ。ほとんどの客は人数合わせみたいなものでしょ。多いに越したことはないってところかしら。」
笑って姉はひらひらと腕を振った。
「それに、私は別に特別王子様の妃になりたいとも思わないし。」
サンドリヨンは驚いたように数度瞬いた。返答が予想外だったらしい。
「そうなんですか?」
「話したこともない男と結婚することに変わりはないでしょう?とんでもない馬鹿じゃないなら誰でも良いわよ。」
姉が立ち上がって伸びをした。彼女がサンドリヨンの方を振り返る。
「好き合うとまで言わなくても、せめて信頼した相手と結婚できれば良いのにね。そう思わない?」
「私は……」
「……ま、貴方には関係ないか。お掃除よろしくね、変なところ触らないでよ。」
サンドリヨンが返事に迷っているのを見て、姉は肩を竦めた。立ち上がった彼女に、サンドリヨンが頷いてから小首を傾げた。
「お姉様、花瓶のお水は替えておきますか?」
「あぁそれ?ううん、そのままでいいわよ。今朝替えたし。」
部屋の真ん中に置かれた花瓶には、真っ赤な花が飾られている。たくさんの小さな花弁が、何重かの円を描くようにびっしりと開いていた。
「綺麗な花ですね。」
「でしょう?でも毒があるんですって。触ってかぶれたことはないけど……ま、触れたいなら何かタオルでも使いなさい。」
結局、姉はこうやってサンドリヨンを思いやるようなことを口にする。だからだろうか、思い切ったようにサンドリヨンが声をかけた。
「ねぇ、お姉様のあの黄色いドレス、貸して下さいませんか?最近お召しになってないでしょう。」
「まぁサンドリヨン、舞踏会に行きたくなったの?」
姉は少し迷いをみせた。結局サンドリヨンと目を合わせずに、半ば吐き捨てるように断る。
「やめておきなさいよ、本当に笑い物になってしまうわよ。」
「ごめんなさい、つい……私はお城暮らし、憧れるなと思ってしまったんです。」
胸の前で手を握って頭を垂れるサンドリヨンを見て、姉はわざとらしくため息をついた。
「箱入り娘らしい考えね。まぁ、選ばれてしまえば嫌も何もないし。偶然か何かで私が王子の妃に選ばれたら、お前を侍女として連れてってあげるわ。」
「本当ですか。」
「お城暮らし出来るじゃない。良いでしょう。」
きっと、姉はサンドリヨンの望む「お城暮らし」がそれで実現しないことを理解しているのだろう。そして、サンドリヨンがこの言葉になんと返すかも、きっと予想がついている。
「楽しみにしています。」
いつも通りお手本のように微笑んだサンドリヨンに、姉は目を伏せる。部屋を出ようと数歩歩いてから、彼女は何かを思い出したように足を止めてサンドリヨンを振り返った。
「……砂糖を運んでいる蟻がいるとするでしょ?」
「蟻、ですか?あの、道を這っている?」
「そう、あの蟻。それを踏み潰して殺すことと、砂糖を蹴って取り上げること、お前はどっちの方が残酷だと思う?」
「え?」
サンドリヨンが櫛を握ったまま首を傾げた。姉は疲れたように、馬鹿にしたように、へらりと笑った。サンドリヨンがその姉の表情を見て、戸惑いを浮かべる。姉はそれ以上説明しなかった。
「何でもないわ。忘れて。」
バタン。ドアが閉まる。残されたサンドリヨンは、姉の言葉を反芻するようにしばらく閉じたドアを見つめていた。
第八場面:サンドリヨンの屋敷、どこかの部屋
しばらくそうしてドアを眺めていたサンドリヨンは、ふと思い立ったように部屋を見回した。しばし彼女は何かを思い出すようにただ部屋を眺めていたが、じきにゆっくりと目を閉じた。
元は彼女の部屋であったであろう部屋が、ぐるぐると姿を変えていく。
次に彼女が目を開けた時、サンドリヨンは大きなベッドの横に立っていた。ベッドには夫人と同じくらいの年に見える女性が横たわっている。しかし顔色がひどく悪く、一目で病人と分かるほどだった。
「お母様。」
ベッドに横たわるのは、今まで彼女にそう呼ばれていた相手ではない。ならばこれは、彼女の過去の記憶だろうか。彼女は女性に優しく話しかける。その笑顔は、今までのそれより余程柔らかい。
「お話って何かしら。」
女性は何か話そうとしたが、咳に阻まれた。痛々しい音に、娘は眉を寄せる。
「無理をなさらないで。何も今日じゃなくてもいいわ、調子が良い時にお話してくれればいいのよ。私ならいつでもお見舞いに来ることが出来るんだから。」
「いいえ。今伝えなきゃならないのよ、カラー。」
カラーの言葉に、女性は否と返してまた咳をした。何とか息を整えて、小さな声でカラーに語りかける。
「私はもう貴方と共に過ごせる時間があまりないのよ。だから今のうちに愛する貴方に伝えておきたいことがあるの。」
「……大丈夫よ。お父様も使用人たちもお母様を治す方法を探しているわ。だからそんなことを仰らないで。」
女性は首を横に振った。カラーは俯いて、分かっているわ、と小さくこたえた。また、咳の音が部屋に響く。
「ねぇカラー。私がいなくなっても、いつも思いやりのある子でいるのよ。それだけ約束して。そうすればきっと、貴方は幸せに暮らせるわ。」
女性の手がカラーの頬を撫でる。
「いつも思いやりのある子でいれば、皆が、貴方を愛してくれる筈よ。」
そう言ってから、女性はひどく咳き込んだ。医者や使用人たちが駆けつけ、カラーは押し出されるようにベッドから離れた。
最後に部屋に顔を出した男性を見上げて、カラーは尋ねる。
「お父様、お母様は……もう、助からないの?」
父親はさっと顔色を変えた。何かを言おうと息を吸って、結局、何度かただ息を吐く。
「縁起でもないことを、言うんじゃない。」
父親はそう短く喘ぐようにこたえて、妻のベッドに駆け寄った。
慌ただしく人が行き来していた。医者が、使用人が、出入りする。彼らが手に持つものは食事と薬から次第に薬だけに、そして何もなくなる。
女性が運び出された。
部屋に残ったのはカラーと彼女の父親だけだ。
カラーは黙って父親を見上げた。たくさんの声が、あちこちから慌ただしく聞こえる。部屋の中は対照的に静かだった。父親はしばらく戸惑いを乗せて彼女を見つめていたが、黙って首を横に振るとカラーに言葉もかけずに背を向ける。
「きっと、私が余計なことを言ったからだと思っているのね。私のせいでお母様が死んだと。」
父親はカラーの言葉に返事をせずに部屋を出て行った。カラー一人が部屋に残される。
「誰かのせいにしてしまえば楽だってことは、私もよく知っているわ。何か理由が、あるはずだと。そう思いたいのよ。そうでしょう、お父様。」
閉じたドアに呟いてから、カラーは目を閉じる。まわりの喧騒が消えた。
「儲けたところで、死の前には人は平等に無力、なのに。」
景色がまわる。サンドリヨンは、姉の部屋で一人ゆっくりと目を開いた。過去の影はもうない。
「……そうよ、お姉様の言う通り。」
サンドリヨンは、姉の髪を結っている間は脇に避けていた掃除道具を掴んだ。どこか妙に明るい声で、彼女は歌うように続ける。
「あんなにお母様を救おうとお金をつぎ込んだお父様に残ったのは、残りの充分なお金と、さして面倒を見たことも無い、縁起の悪い一人娘だけなのだもの。」
手慣れた様子で棚の埃を掃いながら、彼女は笑っているとも泣いているともつかない表情を浮かべた。
「でも、死ぬまでの間愛されるために必要なものはある。」
彼女は宙を睨んでハッキリと言葉を紡ぐ。歌うように、己に言い聞かせるように。
「舞踏会、ええ、行きますとも。なんとしてでも行くわ。だってドレスさえあれば、王子の妃になるチャンスなのでしょう?」
サンドリヨンは掃除道具を手に持ったまま、部屋を見回した。
「きっと、このみじめな生活から逃れられる。」
そう噛みしめるように言って、彼女は宙に向かって頷く。
「大丈夫よ、お母様。私、ちゃんと思いやりのある良い子の顔が出来ているから。」
一度言葉を切ってから、サンドリヨンが目を伏せてほとんど音にならない声で囁いた。
「ちゃんと誰かに、愛されるから。」
返事をするものは、いない。それきり黙り込んで掃除に取り掛かったサンドリヨンの姿が、徐々に暗闇に消えていった。
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