第2話 俺の推しはコンビニのレジカウンターの中の人


「めんつゆと牛乳、買ってこい」


部屋のドアが衝撃音とともに当然開いたかと思えば、金髪ロングヘアをひとつにまとめた母親が有無を言わせぬ口調で命令してきた。


親には見せ難い本を読んでいた俺は、ベッドの下にそれを滑り込ませる。


「はい、よろこんで!」


変に詮索されないよう、気持ちのいい受け答えを心がけた。そうしたら、部屋が突然ドラマで見たような飲み屋に変身した。


俺は上下スウェット姿のまま、速やかに1階へ降りると、素足を靴に突っ込んで玄関を飛び出した。


足取りは軽かった。喜んで買い出しに出たのには、いかがわしい本を読んでいた事実を隠すほかに、もう1つ理由があった。


家から5分の位置にあるコンビニへは、あっという間にたどり着いた。


入店を知らせるチャイムが鳴り響く。俺はレジ付近に積まれたカゴを取りながら、レジカウンターの中に篠崎しのざきさんが立っていることを確認した。


めんつゆも牛乳も、スーパーで買うほうが絶対に安い。けれど俺は、あえてこのコンビニで買うことにしていた。


俺が喜んで出かけてきたもう1つの理由。


それは、篠崎さんに会えるからだ。


頼まれて使った金額は母親に請求できるシステム(もはや経費)なので、俺は一銭も使わずしてコンビニで買い物ができるこの絶好の機会を待ち望んでいた。


篠崎さんにこの場所で出会ってからというもの、うちのめんつゆは老舗企業の商品からコンビニブランドの商品に変わった。


どこどこの調味料で味が変わるとか変わらないとかに家族全員が無頓着なおかげで、長年使っていた商品からポッと出のものに入れ替わってもまるで気にせず使っていた。


こうしてすっかり我が家の定番となったコンビニブランドのめんつゆと牛乳(これは大手メーカーのものを引き続き買っている)をカゴに入れ、篠崎さんが待つレジへと向かった。


レジの手前にある『ここでお待ちください』という足型の位置で一旦停止し、左右に1台ずつ並んでいるレジが空くのを待った。俺はこのポジションをと呼んでいる。


篠崎さんが担当しているレジは俺から見て右側だ。


もし先におっさん店長(通いすぎたおかげでたまにアイス奢ってくれる)が担当している左側のレジが空いてしまったら、あの陶器のように繊細で白い指先からお釣りを受け取ることは叶わない。


それではこのコンビニに来た意味がない。意味がないのだ。


会えただけでもマシ。そう思えなくもないが、それでは俺の野望はいつまでも未達成なままだ。


俺はここに立って思っていることがある。


“篠崎さんのレジが先に空いたら食事に誘おう”と。


全商品のバーコードが読み終わる。合計金額が提示される。支払い方法が確認される。ここで現金派かクレジットカード派かで運命が決まるといってもいい。が、篠崎さんのレジの客も、おっさん店長のレジの客もどちらも現金を選択した。まだ、勝敗は見えない。


おっさん店長のレジの客が小銭を出し終えたとき、篠崎さん側の客はまだ財布を漁っていた。加えて、おっさん店長の手際のよさが光る。


―もはやここまでかっ


そう思った矢先のことだった。


「あれ、856円ですよ。857円出されてますけど、よろしいですか」


おっさん店長が、客が出した金額の微々たる多さに気が付き、確認した。


その一瞬の隙を突いて、篠崎さんのレジの客が小銭を出し切る。それからスーパーの袋を持ち上げると、ガムやグミコーナーの誘惑には目もくれず、いっきに出入り口にゴールイン。


ヒューヒューッ

パチパチパチパチッ


俺の脳内で歓声と拍手が沸き起こる。


「どうぞ」


思わず先にゴールインした客の勇姿に見入っていた俺に、篠崎さんが手を挙げてレジが空いたとの合図を送ってくれた。それは紛れもなく俺だけに送ってくれた合図だった。


下心などないただの客を装い、たまたま空いたほうのレジに来ましたという顔で、篠崎さんが立っているレジカウンターの前に移動した。


今日も彼女の胸には「篠崎」と書かれた名前プレートが輝いている。それを見ていると、初めてレジを担当してもらったときのことを思い出すのだ。



あれは忘れもしない高校2年の夏。


珍しい味のガリガリ君がツイッターで話題になり、売り切れる前に友達と急いで買いに走った。


学校付近に点在するコンビニはすでに全滅で、夕方になって家の近くのコンビニにダメ元で探しに入ると、ガリガリ君ではなく篠崎さんがいた。


ポニーテールに結ばれた髪は柔らかい栗色を帯び、夏場でも汗ばむ様子のないふんわりとした肌は雪ウサギのように白かった。なんというか、彼女が立っている場所だけが明るく見えた。


ガリガリ君はやっぱりここにも在庫はなく、けれどどうしても篠崎さんのレジに並びたかった俺はハーゲンダッツを買った。予定よりも随分と高く付いてしまった。


が、その甲斐あって、出会った初日に篠崎さんの声を聞くことができた。


「これ、おいしいですよ」


世界には、空気がきれいすぎて視力がよくなったように感じられる国があるという。俺はこのとき、まさにその国にいた。


目にかかっていた曇ったフィルターが取り払われ、ぱっと明るくなる。彼女の声は夏の暑さも日々の苦行も、すべてを浄化してくれるような響きがあった。


何より、分け隔てなく話しかけられる社交性と、取り扱っている商品の魅力をきちんと知っている彼女に、俺はすっかりハマってしまった。



懐かしさに浸っていると、2品しかなかったためにバーコードの読み取りはあっさり終わっていた。現金しか持ち合わせていない俺は、食事に誘う心の準備をすべく、出来るだけゆっくりと小銭を出した。


普段なら100円出してお釣りを貰えばいいか、となるところを、この場では1円単位で揃えた。けれど、まだ覚悟は決まらない。


「あ」


俺の声に篠崎さんが顔を上げる。


「どうかしましたか?」


「あ、あ、やっぱりアメリカンドック追加で」


「おひとつでいいですか?」


「はい……」


篠崎さんがアメリカンドックを袋に入れてくれている最中、俺の手の中は汗で湿度200%くらいになっていた。


改めて小銭を払う。機械から出てきたレシートを篠崎さんが手渡してきた。


俺は口を開きかける。篠崎さんはそんな些細な動作にも気が付いて、きょとんとした顔で俺のリアクションを待ってくれていた。


「あの」


篠崎さんが突然口を開いた。


俺は咄嗟に「すみませんっ」と謝り商品が入っている袋を掴むと、もう彼女の顔も見ずに逃げ出した。


帰路に着いた俺はうなだれていた顔を上げて、いつものようにつぶやく。


「まあ、明日でいっか」


高校2年の夏に出会い、今日まで食事に誘えていないのは、やっぱりこの口グセが原因だった。


見上げた空の半分はすでに夜の色に染まっていた。


ほら、空だって明日が来る準備を始めている。


いつまでも過ぎた今日を惜しんだところで仕方ないだろう。

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