第7話 雨男
「はあ、はあ……」
つぐみは駆ける。果てのないトンネルの中を、なにかから逃げるように。
時折、走りながら後ろを振り返る。額に玉の汗が浮かべ、もがくように息を吸う。体力の限界。足がもつれる。
「つぐみさん! 超新星爆発まで、0.02秒です!」
突如響きわたった不吉な警告。ここでいったん時を戻す。
世界の終わりから遡ること十二時間前、つぐみは事務所にいた。
駅前から徒歩五分の場所にある幽幻探偵社には、頼雅、蓮次、つぐみが出社している。
頼雅は朝からネットパトロール。蓮次は神隠し事件の資料をまとめるのに飽きてソファーで横になり、つぐみは頼雅の肩ごしにパソコンを覗いている。
「誹謗、中傷、僻み、嫉み。実に醜いのう。儂からすればうぬらの方がよっぽど怪異じゃ」
「スマホがあれば誰でも王になれるからな。お前は王になりたくないのか、つぐみ」
「儂はすでに王よ。見ておれ」
意気揚々、蓮次の方に歩いたと思うと、揺さぶって起こす。
「おい、契約を履行しろ。アイスもってくるのだ」
「んあー、わかったよ」
蓮次はあくび混じりで冷蔵庫に向かい、のろのろとアイスを運んできた。
「どうじゃ。儂が命じるとこいつはアイスを持ってくるぞ。全人類がいずれこうなる。震えて待て!」
「あ、うん……、こわいこわい。仕事しよ」
頼雅は生返事をしてにPCに目を戻す。
つぐみは蓮次と協力して怪異を払ったが、代償も大きかった。停電には上からクレームが入ったし、よからぬものに目をつけられる可能性もある。頼雅は気が休まる暇がない。
「そういえばさ、社長とつぐみちゃんってどういう関係なの」
蓮次がポットでお湯を沸かしながら探りを入れた。
「どういう関係って見たまんまだが」
「いや、答えになってないって。ふつうの怪異はアイス食ったり、人に懐いたりしないでしょ」
蓮次の疑問に頼雅は煙たそうな顔をする。彼にとって触れられたくない問題だった。
「事務所のトイレットペーパー切らしてたな。つぐみ、買ってきてくれるか。余ったらお菓子買っていいから」
「ほんとか、頼雅! 行ってくる」
つぐみは深く考えず、飛び出していった。
頼雅は、蓮次の煎れてくれたコーヒーに口をつける。苦い過去に思いを馳せるように眉間に皺を刻んだ。
「というか、本当になにもないが」
「いやいや、そんな意味深な顔で言っても説得力ないよ。両親の復讐とか、実はつぐみちゃんは人間で、元に戻すために戦ってるとかじゃないの!?」
「お前の期待するようなドラマティックな話はない。休憩は終わりだ。仕事に戻れ」
蓮次は渋々、自分のデスクに戻った。
他人に自慢できる面白い話はない。つまらない話は山ほどある。頼雅は、いずれつぐみを殺さなければならない。
空に厚い雲がかかり、冷たい風が街路を掃く。天気の変わり目の下、つぐみは歩いている。
「ドーナッツか、ケーキか、それが問題じゃ。絡め手で、あんみつ。迷うのう」
当初の目的を忘れ、己の楽しみに没頭する。コンビニに入るなり、探すのはスイーツだ。新作を見つけては胸が躍る。衝動のままシュークリームを手に取ろうとした矢先、他人の手とぶつかった。
「失礼。お先にどうぞ」
マッシュルームカットの青年が、手を引っ込めた。眼鏡をかけた物腰の柔らかい男だ。かといって蓮次のように気取ったところはなく、謙虚さが滲んでいる。
「でもお前も食べたかったんじゃないのか」
棚のシュークリームは最後の一つだった。
「いえ。甘いものは好きじゃないです」
「? 誰かに頼まれたとかか?」
「ほんとは食べたいです」
少し気恥ずかしそうにうつむいた男に心動かされ、シュークリームを押しつける。
「いやあ、悪いですよ」
「今回だけじゃ。次はない。儂は突如カレーパンが食べたくなった。そういうことじゃ」
甘党のつぐみにとっては一大決心だ。同志に対して情が働いたのかもしれない。
その後、頼雅に頼まれた品を思い出せずにいると、レジでさっきの男が揉めていた。小銭を出すのに苦労している。彼の後ろに列ができていた。
つぐみが口を挟む。
「ええい、めんどうな奴。さっさとすませるのだ」
「あと十円なんですよ。どこかになかったかなあ」
焦る様子のない男を急かしたが結局お金は足らず、つぐみが十円を貸した。
「窮地を救って頂き、大変感謝します」
「儂の貸しは高いぞ。顔は覚えたからな」
男は平身低頭詫びを入れた。つぐみは虎視眈々、この機会を有効利用しようと考えていた。
静かな雨音が、アスファルトを叩き始める。つぐみがコンビニの駐車場で立ち尽くしていると、男が隣に並んだ。ふたり、鬱々と空を仰ぐ。
「私は雨男かもしれません。先ほどのお詫びもかねて雨宿りはどうです?」
駐車場に止まる黒いセダンを指す。普通なら警戒するところだが、つぐみは怪異だ。たとえなにかされても制圧できる。
車内はこぎれいで、ちり一つ落ちていない。ダッシュボードに香炉のようなものが置いてある。
つぐみは後部座席に座る。頼雅の頼まれごとを忘れて後ろめたい気持ちがある。まだ帰れない。
「あとちょっとで思い出す気がする。頼雅がいないと、頭にもやがかかったようで気持ち悪い」
運転席の男が振り返る。
「つぐみさんは、頼雅さんという方がお好きなんですね」
「好きとかじゃない! あいつとはなんというか、因縁が……、ところでお前はだれじゃ」
「申し遅れました。私は劉。中国からの留学生で、近くの大学に通ってます。専攻は天体物理学です」
天体物理学を専攻していると訊いても、つぐみにはちんぷんかんぷんだ。彼は留学生らしい。
「わざわざ異国の地の学校に通うとは物好きな」
「おや、つぐみさんは学校嫌いですか」
「嫌いもなにも、儂には必要ない。頼雅だけがいればいい」
劉が微笑んでいるのを見て、つぐみは低い声を出す。
「笑うなっ。殺すぞ」
「まあまあ、甘いものを食べて落ち着きましょう」
つぐみは買ったばかりのシュークリームの封を切る。劉はカフェオレのペットボトルを渡してくれた。
「こんなものでご機嫌を伺おうとしても、無駄じゃからな」
「ははは、そんなつもりは。私はあなたと仲良くなりたいだけです。雨、強くなってきましたね」
窓ガラスを叩く雨音が激しくなってきた。つぐみはあくびをかみ殺す。
「すぐ止むじゃろ。傘持ってこんかったし」
「つぐみさんは天気にもくわしいんですね。私も空を見上げることよくあります。面白いもの見つかることありますよ」
劉はつぐみの顎をむんずと掴んだ。
「たとえば、怪異の王とか」
狼藉を働かれても、つぐみの反応は鈍かった。瞼が下がり、手からお菓子の袋が落ちる。
「力場を破壊するほどの怪異、初めてです。少し私の実験につき合ってくれませんか。お手間は取らせません。すぐ終わります」
劉は無抵抗のつぐみを横たえ、車のエンジンをかけた。よからぬものは、既に狙いを定めていたのだ。
その頃、探偵社事務所では二人の男が言い争っていた。
「だから、黒のセーラー服はマストなんだって!」
「お前のマニアックな好みなんか知るか」
興奮する蓮次を後目に、頼雅は時計をにらんだ。
「あいつおせーな。いつまでかかってんだ。おつかいもまともにできねえのか。雨降ってきたし、傘届けてくるわ」
不満を漏らしながらも、頼雅はつぐみを迎えに行く。そのかいがいしい背中に、蓮次は笑いを禁じ得ない。
「なんだかんだ過保護じゃん。素直じゃないね」
つぐみの向かったコンビニは目と鼻の先だ。間もなくたどりついたが、つぐみの姿はない。
「どこに行ったんだ、あいつ」
煙草を買うついでに店員に訊いてみると、数時間前に似た人物を見たと教えてくれた。
コンビニの駐車場で煙草をふかす。苛立ちは拭えない。
「あの時と逆になっちまったな」
手の中の傘が重く感じる。雨はすでに上がっていた。
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