第6話 Lung of coral (後編)
「なにを……、しているんだ……」
呆然と立ち尽くす蓮次を、つぐみが叱咤する。
「呆けている場合か! 大事なものを失うぞ」
つぐみの一声で我に返ったが、事態の把握は困難だった。
看護士は顔見知りだ。若いが責任感が強く、同僚、患者問わず信頼が篤い。彼も概ね、そう評価している。
それなのに、今の彼女は虚ろな顔で患者を害しようとしていた。
「珊瑚が奏でる波の音に、別の怪異が引き寄せられたようじゃ。あの右手を見よ」
つぐみの言うとおり、彼女の右手は醜く晴れ上がり、あちこちがひび割れている。
「感染……、いや憑依か。これが社長の言ってた怪異」
この一ヶ月、病院では不可解な事故が頻発している。幸い、まだ死者は出ていないが、いずれ大事になると見て頼雅は彼を派遣したのだ。
「なんにせよ四の五言ってられないね。吹き飛ばしてやる!」
相手が怪異と見るや、血の気が多い。切り札を出すのにも躊躇がなかった。
彼の目の前に甲冑姿の騎士が顕現する。右手に銃剣、左手には分厚い盾を構えている。兜についた赤い房飾りが風もないのに揺れていた。
通常、時間と空間の概念がない怪異に干渉する術はない。苦肉の策として編み出されたのは、自身の肉体を転写した幽体離脱の状態を作り出すこと。
彼らはそれをアストラルと呼んだ。
看護士に取り付いた怪異が、敵意を感じ取る。つぐみたちにのいる方に手のひらを向けた。指から手全体に裂け目がひろがり、痙攣する。裂け目の縁には、人間の歯のようなものが上下に揃っていた。
「なんかいやな感じだ。僕の後ろへ!」
警戒するがはやいか、裂け目から紫色の液体が放たれた。水鉄砲のような勢いのそれを、白騎士の楯が受け止める。はじかれた液体が壁につくと焦げ目がついた。
怪異は時間と空間を奪う。人間が食らえば致命傷だ。
白騎士は楯を構えながらじりじり近づくが、看護士は跳躍し、両手両足で天井にはりついた。空間の概念がない怪異には天地の区別がないのだ。
「その木偶人形はもっと素早く動けぬのか」
しびれを切らしたつぐみが催促した。
「白騎士は専守防衛に特化してるんだ。速い動きはできない。撃ち漏らしたら終わりだ。さて、どうするか」
彼は慎重だった。頼雅なら、手追いも人質も無視して戦い続けるだろう。つぐみは歯がゆい。
「ちっ、仕方ないのう。アイスにドーナツ追加じゃ!」
援護を買って出る。つぐみの髪が伸びて、看護士の足に絡みつく。天井からひきはがした。地面に落下したところを銃口が捉える。
「オーケー、これなら確実に逃さない」
銃弾がたたき込まれ、看護士の体が浮き上がる。ぐったりと横たわり動かなくなった。
アストラルにも時間は流れていないため、生身の人間を傷つける心配はない。
とどめを刺そうと銃剣を突き立てようとしたが、一瞬早く手首が分離した。壁をすり抜け見えなくなった。
「あー! もたもたしてるから逃げられたではないか」
「うるさい。その人を頼む。僕は姉さんを見てくるから」
蓮次はそそくさと姉の様子を確認しにいった。つぐみは看護士の元にしゃがみこむ。
気絶しているだけでけがはないようだ。彼女は入り口で出会った看護士と同一人物だった。
「ご、めんなさ……、い」
かすかな唇の動きを、つぐみは読みとる。
「助けられなかった……、私のせい。私がちゃんとしていれば……」
後にわかったことだが、彼女の担当していた患者が数ヶ月前に亡くなっている。過失はなかったが、少なくない後悔が怪異の入り込む隙を与えたらしい。
「度し難い」
つぐみは冷ややかに鼻を鳴らした。
「人のできることなど、たかがしれておるではないか。それをいつまでもひきずりおって。運命を操ることなど、誰にもできぬ。それこそ怪異であってもな」
達観したつぐみの様子に、蓮次は息を飲む。単なる子供と侮っていたが、紛れもなく怪異なのだ。
つぐみは伸びた髪をかきながら病室を出る。
「どこへ?」
「決まっておる。道理を糺しに行くのだ」
手首だけに分離した怪異は、ふわふわと宙を漂い次の宿主を探していた。
市街地には様々な弱みを持った人間がいる。獲物には困らないはずだった。
「よお、遅かったのお」
ビルの屋上に立てられた鳥居の上につぐみは座っていた。お供えものの饅頭を頬張る。
「ギギッ……!?」
歯ぎしりするような不快な音を立て、怪異は停止した。つぐみの威圧感に押されそれ以上動けない。
「お主は悪くないよ。単純に運がなかった。賽の目は選べぬものな。そこで悪いんじゃが……」
柏手のように、強く掌を打ちならす。
「消えてくれ」
それだけで、煙のように怪異はこの世界から消滅した。大きな力場が展開されたせいで強烈な電磁波が起こり、当たりは停電。車のクラクションが渦をなす。
「やや! やりすぎた。頼雅に怒られる。はあ……、割にあわんぞ」
案の定、頼雅にはこっぴどくしかられたが病院の異変は収まった。
蓮次の姉に怪我はなかったが、珊瑚を取り除くことはできなかった。癒着が強く、今のつぐみでは丸飲みしかできない。
「いずれアイスの功徳を積めば、飲みくだせるであろう。それに、あの珊瑚は害を与える存在ではない。気長に待て」
蓮次の落胆は深かったが、容易い解決があるとも思っていなかった。これまでも期待と失望を繰り返し、なんとか踏み止まってきたのだ。
「はあ……」
病室でため息をつくと、件の看護士の注意を引いた。彼女は怪異取り付かれた後遺症もなく、精力的に勤務に励んでいる。
「なにかお悩みごとですか?」
「あ、いや……」
蓮次は言いよどむ。怪異に関する悩みなど話せるわけがない。当たり障りのない会話を選ぶ。
「いつもよくやってくれてますよね。姉の体がこわばらないようにマッサージしてくれたり、体を拭いてくれたり。あなたには感謝してます」
姉は穏やかな顔で眠っている。彼女も感謝しているはずだと、蓮次は思った。
ふと看護士を見やると、頬を涙が伝っていた。
「あ、すみません……、お見苦しいものを。なんだか改めて人に感謝される仕事っていいなって。自画自賛じゃないですけど」
「わかりますよ。その点、僕なんか酒呑むのが仕事だから誇っていいものか」
「星野宮さんに癒されてる方もきっといらっしゃいます。癒し……、大事ですよね。私もたまには癒されたいな」
「それならぜひ一度お店に。サービスしますので」
「あはは……、私、今度結婚するんです。もう少し早くお誘い頂いたら遊びに行ったのに。残念ですー」
さわやかスマイルで営業をかけるも、うまくかわされた。ちなみに相手は医師だそう。蓮次は深追いせずに切り上げる。
駐車場でつぐみが待っている。車のボンネットに寝そべっていた。
「遅かったな。アイスおごれ。ドーナツもじゃ」
「はいはい。お姫様」
蓮次は今一度、病院の建物を見上げる。
(こういう仕事も悪くないな)
そう思えるくらいには、探偵社の仕事に馴染んでいた。
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