第8話 届かぬ傘

 

 雨香る地面のにおいが鼻腔をくすぐる。つぐみは目を開けた。木製の椅子に座ったままの状態で、手足は縄で縛られている。


「お目覚めですね」


 ダウンコートを着た劉が身を屈めた。つぐみは彼を無視し、辺りに目を走らせる。


 石油ストーブ、窓は一カ所、風が強い。木製のテーブルにランプが置かれている。腹具合から二時間以上寝ていたとわかった。拉致されたことは言うまでもなく、脱出は今のところ難しい。


「ご足労いただいてすみません。気分はどうです」


「なにが目的じゃ。儂は煮ても焼いても食えぬぞ。それとも金か」


 つぐみがまくしたてると、劉はきょとんとした顔で固まった。

 

「つぐみさんはやはり面白いですね。人間のものさしを理解している。誰に教わりました? 頼雅、さんですか」


「あいつは関係ない。あんな奴は知るか」


 顔を劉は興味深そうにつぐみを眺めた。彼の目的は定かでないが、つぐもみを怪異と知ってさらったようだ。


 テーブルの上に水の入ったペットボトルがあり、つぐみは反射的に喉を鳴らした。


「飲んでください」


 つぐみは顔を背けるが、ペットボトルの口を押しつけられ無理矢理飲まされた。一気に流し込まれた水に溺れそうになる。顎を上げ、むせそうになりながらのみくだす。


「げほっ……、殺す気か」


「怪異はそんなに簡単に死なないでしょう。つぐみさんにはやってもらいたいことがあります」


 穏やかな物言いだが、異を唱えることを封じる強さがある。


「どうせつまらん願いじゃろ 悪いことは言わん。ネットにでも書いて満足しおとけ」


「秘めているだけではもったいないでしょう。人生は老いやすく短い。これはわかって頂けないかもしれませんが、私には叶えたい願いがあるのです」


「どんな」


 劉はつぐみの耳に口元を寄せた。


「宇宙の始まりを共に見ませんか、つぐみさん」



 頼雅と蓮次は車で市内を捜索していた 暗くなると雨足も強まり、ウインカーが勢いよく窓を叩く。


「全然みつかんねえ。帰るか。あいつにもそのうち一人になりたい時があるだろ」


 投げやりに天井を仰ぐ頼雅を、蓮次は横目でにらむ。


「本気で言ってんのか? どう考えても怪しいだろ。さらわれたんだよつぐみちゃんは」

 

 目撃証言と防犯カメラの映像から、つぐみが何者かの車に乗り込んだところまで判明している。

  

「仮にそうだったとしても、敵の目的がわからん。もう死んじまってるかもな、あいつ。王とかいってたくせに情けねえ」


 激昂した蓮次の拳が、頼雅の頬を直撃する。続けて殴られても、彼は微動だにしない。


「いい加減にしろ! あんたはそんなに薄情だったのか。ちくしょう。もうやめてやるよ、こんな会社」


「おお、やめろや。お前みたいな軟派野郎はここにはいらない。達者で暮らせ」


 売り言葉に買い言葉。激しい言い争いの結果、決別に至りそうだった。

 

 見切りをつけた蓮次の背後で、うめき声が聞こえる。


「……、こっから先は地獄だ。つぐみを拉致するなんてまともじゃねえ。深入りしても犠牲が増えるだけだろう。蓮次一人いたところで焼け石に水だ。最悪俺一人が死ねばすむしな」


 蓮次は歯を食いしばり、座りなおす。

 

「そこまで言われたら男が廃る。一応、探す気はあるんだね」


「まあな」


 頼雅は腫れた頬をさすりながら窓に目を向ける。


「雨が降るとガキの頃を思い出す。授業参観に親父が来ててくれないか期待しててよ。一度だって来てくれたことないのにな。結局あの日も来なかった。惨めな気持ちで下駄箱に行くと、誰かが傘を置いててくれた」


「社長のことだから、誰かの借りパクしただけでしょ」

 

「ちげえよ。誰かが置いてくれたんだ。つぐみにも傘を届けてやらないとな、俺たちで」


 頼雅は真顔だったが、蓮次は笑いを堪えるのに必死だった。

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