11 本当に欲しいものは


 私の心は不思議なほどに凪いでいた。あんなにじくじくと痛かった胸の痛みも、もう感じない。ただもう終わってしまった不毛な恋と不器用でだめな自分に後悔と自嘲する気持ちだけが残っていた。


「選ぶとか選ばれるとか、そんなのおかしい。誰も人の価値なんてはかれないし、条件なんかで幸せも決められない。私は拓人に選ばれないのは自分にそれだけの価値がないからだと思って傷ついた。でもそれは間違いだった。勝手に私がそう思い込んだだけ」

「灯里……?」


 拓人の視線を感じながら、私は続ける。


「私は自分に自信がなくて、拓人に必要とされていると思えなくて不安になって、でも傷つきたくなくて自分を守りたかっただけ。だからどうして、って聞けなかった。ちゃんと拓人にそう聞けていたら、こんなふうにすれ違わなくて済んだのに」


 臆病で自分に自信がなくて、波風を立てて関係が悪くなるのが嫌われるのが怖くて、拓人の心を知ることも自分を知られることからも逃げていた。お互いに真っ直ぐな気持ちをぶつけ合って向き合うことが、最後までできなかった。

 でも最後くらい、ちゃんと気持ちを伝えて終わりにしたい。そう思った。たとえ、こんなに不毛な恋でも。


「あなただってただ上辺の条件だけでその人と結婚したかったわけじゃないんでしょう? ただ自分を好きだって、そばにいてほしいって思ってほしかったのに、自分を選んでもらえなくて傷ついたんじゃないの?」


 もし元婚約者に幸せそうな偽りの幸せを見せつけたところで、好きな相手とこれから結婚しようとする相手は何も感じないだろう。その事に気づいた時、余計に傷つくのはきっと彼女自身だ。


「私は……私はずっとあの人と結婚するんだって信じてきたの。本当に好きだったから、だから自分を必死に磨いてきたの。なのにある日突然どっかの女を連れてこられて、本当に好きな人ができたって。君も親に言われてじゃなく好きな人と結婚したほうがいいって」


 彼女がぽつりぽつりと話しだした。その声は弱々しく、頼りない。さっきまでの彼女とは別人のようだ。


「そんなことを言われて、どう返せば良かった? ああ、そうですか。おめでとうって笑えばいいの? それともみっともなく私は本気であなたが好きなんだって、すがりつけば良かった? 私は……私はただ選んでほしかっただけよ。ただ私を……」


 すすり泣く姿に周りを行き交う通行人たちからいぶかしげな視線が注がれるけれど、彼女はそれを気にすることもなくぽろぽろと涙をこぼし続ける。


 きっと本当に好きだったのだろう。親が決めたとか条件がどうのではなくて、相手のことがただ純粋に。なのにその気持ちも相手に伝わっていなかったどころか、他に好きな人ができたと去っていかれたのだ。傷つかないはずはない。誰でもいいから選んでほしかったわけじゃない。本当に好きだったから、その相手に選んでほしかっただけなのだ。


 彼女の目から落ちた大粒の涙が、アスファルトに染みを作った。


「君は大事なことを忘れてる。誰に選ばれようと俺を選んで無理矢理結婚しようと、君が欲しいものは手に入らない。君が本当に欲しかったのは好きな人の気持ちだろ? それは他の誰にも埋められない。傷ついたプライドも、報われない気持ちも。君の気持ちが先に進むまでは」


 拓人が静かな声で語りかける。それはまるで自分に言い聞かせているようにも聞こえたし、私に向けられているような気もした。


「もう帰ろう。送るよ。……灯里、今日はこんなことに巻き込んでごめん。本当に、ごめん。今度少しだけ話しをする時間をくれないか。最後くらいちゃんと、お互いの気持ちを話しておきたいんだ」


 私たちは確かにお互いに臆病で抱えている不安や悩みも打ち明けられなかった。だから壊れてしまった。けれど、そこに確かに愛情はあった。不毛な恋だったかもしれないけれど、間違いなく恋だった。それをこんなにもやもやとした不完全燃焼な気持ちを残したまま終わりにすることが悲しくて、このまま終わってしまっていいのかと立ち止まっていたのだ。

 先へ進めない理由が、すとんという音を立ててようやく理解できた気がした。そしてそれはきっと拓人も同じ気持ちなのだろうと思った。


 私はまるで言葉が喉の奥で詰まったようで、ただ無言でこくり、と頷いた。


 小さくどこか寂しげな笑みを浮かべて、拓人と彼女は静かに去っていった。私は一人その二人の遠ざかる後ろ姿を見つめて、立ち尽くしていた。


 デスクに戻り、残っていた仕事を淡々と片付ける。隣で都が何か言いたげな顔でちらちらとこちらを伺っていたけれど、無言を貫いた。口を開いてしまったら、泣いてしまいそうだったから。都も私のそんな様子に何も言わなかったし、その気遣いがありがたかった。


「今日はこれで終了、かな。……灯里は? もう少し残ってく?」


 都の声に心配の色が滲む。


「……ううん。もう少しとも思ったけど、やっぱ帰るわ。明日はいよいよプロジェクト当日だしね。しっかり睡眠も取っておかないと」

「そうだよね! うん、じゃあ一緒に帰ろ。帰りにさ、フラペチーノおごっちゃる! ね」


 あえて何も聞かず、でも元気づけようと明るく振る舞う都に半分泣き笑いのような笑みを返す。もう少し、もう少し頑張れば好きなだけ落ち込める。好きなだけ泣いてもいいし、好きなだけ考え込んでもいい。でも今だけ、もう少しだけ泣かずにいたい。


「頑張ろうね、明日。皆でここまでなんとかこぎつけたんだもん。絶対に成功させたいの、このプロジェクト。皆の力で良い結果を出したい」

「うん! そうだそうだ! 大丈夫よ。準備も抜かりないし、皆やれることは十分にやってきたんだから。あとは度胸よ」


 都の明るさに救われながら、私は拳を握りしめた。大切にしたいのは恋だけじゃない。仕事だって好きだし、私にとっては大切なのだ。今は拓人のことも心でうずく切ない思いも隅に追いやって、明日に集中する。そう自分に言い聞かせて、プロジェクト当日を迎えたのだった。




◇◇◇◇◇


 鏡の前で、ぱしんと頬を叩く。チリッとした軽い痛みに顔を歪めながら、にっこりと笑顔を作ってみる。


「……うん! 大丈夫。きっとうまくいく。いってきます!」


 誰もいないアパートの部屋に明るく挨拶をして、強い足取りで家を出る。今日はいよいよプロジェクト本番だ。ここまで企画段階も含めたら約一年もの時間をかけて用意してきた案件だ。重役たちの期待も高く、この案件がうまくいけば今後大口の案件もきっと取りやすくなるはずだ。見えないプレッシャーに、少しだけ腰が引ける。


 会社に着くと、すでにメンバーのほぼ全員が揃っていた。気合を入れるために買い込んできた栄養ドリンクを、袋から取り出し一人ひとりに声をかけながら配る。どの顔も緊張感と不安で固い。


「大丈夫よ。皆でここまで準備してきたんだもの。うまくいく。リラックスしていこうね」


 最後の一本を、桐野に手渡す。


「今日まで本当にお疲れ様。今日はよろしくね、桐野くん。サポート、期待してる」


 わざと発破をかけるような言葉に、その端正な顔に驚きの色が浮かんでそしてにやりとした不敵な笑みが浮かんだ。桐野の性格的に、こういった方がやる気になるはずだ。


「もちろん。任せてください」


 那須高原での一件以来、特にあの日のことについて話す機会はなかった。その暇がなかったせいもあるけれど、このプロジェクトが終わるまでは簡単に答えを出したくないと思ったのだ。真っ直ぐな気持ちを伝えてくれた桐野に、私も真っ直ぐな気持ちで自分の正直な気持ちを伝えたいと思ったから。

 でも桐野があの日いってくれた言葉は、少なからず私の背中を押してくれていた。ちゃんと頑張りを見ていてくれる人がいる。時に苦しみ失敗しながらでもその背中を追いかけてくれる人がいる。それは、自分の自信につながっていた。


 私は頑張れる。もっと何かできる。それは仕事とか恋愛とか特定のことに限ったことじゃなくて、私自身をしっかりと支えてくれる目には見えないけれどとても大切な何か。自分を支えてくれる何かだ。


「よし! じゃあ今日は皆よろしくお願いしますっ。固くなりすぎす、楽しもうね!」

「はいっ! お願いします」

「おうっ!」

「よっしゃ! その意気だ」


 そうして長い一日は、始まった。



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