10 選ばれたい理由
「灯里!」
久しぶりに会う拓人は、少し痩せて疲れて見えた。蒼白な顔でこちらに駆け寄ってくるその姿に、彼女が弾かれたように声のした方を振り向き、きっと時間をかけて丁寧にコテで巻いたであろうくるりとカールした髪が肩口で跳ねた。
嬉々として顔を輝かせる彼女を見事に無視して、拓人はこちらに頭を下げた。
「灯里……、すまない。迷惑をかけて。……三原さん、ここで一体何を? 勝手に人のスマホを盗み見た挙句明かりに勝手にメッセージまで送って、その上会社の前まで押しかけるなんて一体どういうつもりだ」
拓人が怒りを隠そうともせず、声を荒げた。こんなふうに感情をむき出しにするところを初めて見た。それとは対照的に、彼女はにっこりと微笑んだ。
「拓人さんがはっきりしてくれないから、私が会いに来たんです。拓人さんが結婚したくない理由が灯里さんに未練があるからかもと思って、それを確かめに」
拓人の顔に、げんなりとした表情が浮かんだ。
「勝手なことをしないでくれ。お前……いや、三原さんには関係ないだろう。とにかくもうこいつを巻き込まないでくれ。俺たちはもう……終わったんだ」
名字で呼んでいるところをみても、きっと二人は恋人関係ですらないのだろう。彼女が一方的に拓人を気に入り、強引に結婚を迫っているというところだろうか。
「だってこうでもしないと拓人さん、私と結婚してくれないでしょう? 別に他に女を作っても構わないし、縛り付ける気なんてありませんよ。私はただあなたに妻として選んでほしいだけなんです。そうすれば対外的に私は幸せでいられるので」
彼女の言葉にも表情にも、どこまでも迷いはない。でも支離滅裂だ。
首を傾げる私をよそに、拓人は苛立ちを含んだため息をついた。
「三原さんは、婚約者に一方的に婚約を破棄されてプライドが傷ついただけだろう。その腹いせに適当な男と結婚して自分が先に捨てたんだと周りに思わせたいだけだろう。そんなくだらないことのために、俺を利用しないでくれ!」
「……婚約破棄?」
聞き慣れない言葉に、思わず反応してしまう。
聞けば、彼女は親の決めた婚約相手から他に好きな人ができたと先頃捨てられたばかりなのだという。誰もがうらやむような婚約者にもう不要とばかりに捨てられたことで、これまで親の力でなんでも手に入れてきた彼女のプライドはいたく傷ついたらしい。それで元婚約者の結婚が整う前に自分が先に他の男と結婚し、自分が先に捨てたのだと体裁を整えたかったようだ。その白羽の矢が拓人に立ったというわけだ。確かに外見も申し分ないし、仕事も有能と評判の拓人ならば、見た目の釣り合いは取れるだろうから。
なんとも失礼ではた迷惑な話だ。そんなことのために拓人は浮気したと疑われ、挙句の果てに私たちは別れたのか。もちろん拓人にまったく非がなかったわけではないだろうし、私たちの恋は遅かれ早かれ壊れていただろうけれど。
「だって私は選ばれる価値があるもの。そうでしょう? 私と結婚すれば出世は確実だし見た目だって悪くないつもりよ。なのにどうして私を選ばないの? 少なくとも、私は灯里さんより好条件でしょう? なのにどうして?」
焦れるように彼女が叫んだ。
「俺は君を好きでもないし、君の存在も必要としていないんだ。でも灯里は……。俺が結婚したくなかったのは、灯里を思ってなかったわけでも必要なかったわけでもない。ただ俺が、俺が逃げ腰だっただけなんだ。この先の人生に、踏み込むのも踏み込まれるのも怖かっただけなんだ……」
その言葉に、私は言葉を失った。
ずっと胸の底でもやもやと渦巻いていた暗いものが、すうっと薄れていくような気がした。必要とはされていた。愛されてもいた。ただ拓人が結婚を頑なに拒否していたのは何か別の理由があって、私にその価値がないから選ばれなかったわけじゃない。そう思ったら、肩に入っていた力と胸の底にずっとじくじく広がっていた痛みが消えて行く気がした。
拓人とぴたり、と視線が合いそのまま見つめ合う。そんな私たちに、怒りの表情を浮かべて彼女が割って入った。
「結婚なんて所詮形式的なものでしょ。利害が一致すればそれでいいじゃない。男女の愛情なんてどうせ長続きしないわ。どんなに好きになったっていつかは冷めて他に目がいくのよ。だったら利用価値のある方を選べばいいじゃない。シンプルな話でしょう?」
強い口調とは裏腹に、彼女の目に先ほどまで浮かんでいた熱量が一気に冷めたように見えた。まるで自分にそれでいいんだと、それしかないんだと言い聞かせているみたいに。
誰かに選ばれたい。必要とされたい。そうすれば自分の不安も解消されて、プライドも満たされる。でもそれは本当に心を満たしてくれるんだろうか。目に見える条件や形で選ばれても、本当にそれで幸せでいられるんだろうか。
「だから私を選んで。私はあなたを選ぶし、あなたも私を選んで利用すればいい」
彼女はまるで吐き捨てるように言葉を放った。それはとても痛々しくて、とても生々しい叫びだった。そして彼女は私と同じだとも思った。
「選ぶとか選ばれるとか、誰かに自分の価値を評価してもらうような気持ちじゃ、満たされないんだと思う」
気がつけばそんな言葉が口からもれていた。
「私も拓人に選ばれたかったの。結婚するだけの価値のある存在だって言ってほしかった。でもそれはただ不安から逃げたかっただけ。わかりやすい形を整えれば、本当は愛されてないんじゃないかとかいつか別れるんじゃないかって不安を感じずに済むと思ったから」
私は確かに拓人のことが好きだった。分かりづらい愛情の片鱗がのぞくたび嬉しくて、もっと自分の方を向いてほしくて、だから一緒にいたかった。けれど、私はどこかで間違えてしまったのだ。不安になって、愛情のためじゃなく自分が楽になるために結婚を利用しようとした。拓人に結婚を拒否されて傷ついたのは、好きな気持ちを否定されたからじゃない。自分の価値を否定された気がしたからだ。
なんて私はずるいんだろう。なんて臆病で意気地なしで、利己的なんだろう。不安なら、愛されていることを確かめたいなら、声に出して聞けば良かったのだ。互いの心に踏み込むことも、自分の心を相手に見せることも怖がったりせずに。
でも私も拓人も、臆病風に吹かれて相手に踏み込むこともできず、本当の自分の気持ちからも目の前の相手からも逃げ出したのだ。
「不毛だね。私と拓人も、そしてあなたも」
何度恋をしても、どうして本当の気持ちには気付けないんだろう。どうして大切なものをこうも簡単に見失って間違ってしまうんだろう。
「不毛……? 何よ、それ。私をあなたたちと一緒にしないでよ……。むかつく」
彼女の表情からは、怒りの色はもう消えていた。その代わりに、今にも泣き出しそうな迷子の子どものような顔をしていた。
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