9 一難去ってまた一難

 

 悪い予感というのは当たるものだ。しかも忙しく余裕のない時に限って、事件は起きる。


 とっぷりと日の暮れた会社をぼろぼろの体を引きずるようにして後にして、アパートの玄関に倒れ込むようにもたれかかった時スマホがピコン、という音を立てた。

 なんとか靴を脱ぎ、のろのろと鞄の中を探る。


 チカチカと点滅するスマホをのぞき込むと、拓人からのメッセージが届いていた。一瞬脳内がフリーズする。恐る恐る指でタッチすると、そこには明らかに拓人以外が書き込んだであろうメッセージが届いていた。


『拓人さんとのことで、あなたにお話があります。明日の夜七時にあなたの会社の前でお待ちしています』


 名前は書かれていない。一体誰だと思いつつも、おそらくメッセージの主は拓人の浮気相手なのだろうと察した。

 

 ずるずるとコートを脱ぐ気力もなく、その場にへたり込む。正直今は拓人の浮気相手とやりあう気力も体力もない。それに自分のアカウントでこんなメッセージを送ってきたことを、拓人は気がついているのだろうか。


 口から、重苦しい深い深いため息がこぼれた。


 翌日夜七時きっかりに、その主は姿を現した。


「友井灯里さんですよね。私、拓人さんと同じ会社の三原芽衣と言います。どうしてもあなたに一度会っておきたくて、呼び出しました」


 頭の天辺からつま先までじろりと一瞥され、ざわり、と背筋に嫌な感覚が走った。


「あの、私今仕事が立て込んでて仕事抜けてきてるので、話があるなら手短にお願いできますか?」


 揉め事は苦手だ。しかもこんな目立つ場所で騒がれでもしたらどんな噂が立つかわからない。できるだけ穏便に済ませたい。


「拓人さんが四年も付き合ってるっていうからどんな人かと思いましたけど、想像とちょっと違いますね。なんか、普通っていうか。どうしてあなたが拓人さんと付き合えたのか、不思議」


 いきなりのボディブローをくらい、こめかみがピクリと動いた。それは一体どういう意味なのかと問いただすべきだろうか、それともあえて無視するべきかと逡巡する。


 三原と名乗った女性は、いかにも箱入りで育てられたという感じのまるでファッション誌からそのまま抜け出てきたような出で立ちをしていた。ぱっちりと立ち上げたまつ毛に少し甘めのアイメイク、でもそこに光る目の中には挑戦的な自信がありありと滲んでいた。


「私、拓人さんに選ばれて当然だと思うんですよね。だって見た目も若さも私のほうが確実に上じゃないですか。あなたより私のほうが」

「……へぇぇ。それは、良かったですね」


 これは怒っていい場面なんだろう。が、こうも自信たっぷりに言われてしまうとついその自信がうらやましくもなる。それに好みの違いはあれど、確かに彼女の言う通り若さでは間違いなく負けているし、元々の顔立ちも外見を保つ努力も彼女のほうが上回っているのは納得せざるを得ない。


 が、当然のことながら初対面の人間にいきなりこんなことを言われて面白いわけがない。それに何が目的でここにきたのかは分からないが、もはや拓人とのことは自分とは無関係の出来事なのだ。


「私は拓人とはもう別れてますし、無関係なんです。あなたが私にマウント取るのは自由ですけど、私のいないところでやってくれますか? 忙しいんですよね、こうみえても」 


 今さら拓人が誰とどうなろうと知ったことではない。重役の娘だとか言っていたが、拓人がその気なら結婚でもなんでもすればいいのだ。

 ところが彼女は、眉間に少し皴を寄せると驚くべきことを言い始めた。


「拓人さん、結婚したくないって言うんですよね。それはあなたでも、私でも。純粋に結婚に興味も意義も感じないって。……でもそんなことどうだっていいんです。だって出世を考えたら私と結婚するのが一番近道なんだし、別に拓人さんを縛り付ける気なんてないですし。ただ私を選んでくれたらいいんです、形だけでも」


 一瞬何を言っているのかわからず、きょとんと彼女を見つめて黙り込んだ。


 一体彼女は何をしたいのだろう。拓人のことが好きで結婚したいがその邪魔を私がしていると誤解して、わざわざこんなところまで喧嘩を売りにやってきたのではないのだろうか。


 すらすらと訳の分からないことをよどみなく話す彼女に、うっすらと恐怖を覚えた。もしかしてこの子はあまり関わり合いにならないほうがいいかもしれない、と思った。どうも話が通じる気がしない。

 拓人は酔い潰されて既成事実を作られたと言っていたが、あれはあながち苦し紛れの嘘ではなかったのかもしれない。もっともそんな隙を作った拓人に非がなかったとは、到底思えないけれど。


「えっと、あなたが何をしにここへきたのかよくわかりませんが……。私はもう拓人とよりを戻す気は微塵もありませんし、あなたが拓人と結婚したいならすればいいんじゃないですか。それを決めるのは私じゃなく、あなたたちだと思うし……」


 それ以外にどんな答えができるというのか。もはや恋人でも友人でもない以上、こちらに口を出す権利も巻き込まれる義理もない。できたらもう放っておいてほしい。

 そもそもなぜ拓人が結婚したくないのかも私にだってわからないままなのだ。自分が結婚相手として不足があったから選ばれなかったのか、そもそも何か理由があって誰が相手でも結婚したくないだけだったのかも。どうして結婚したくないの? と聞けないまま私は別れたのだから。そしてそれは、未だ胸の中に大きな傷となって残っている。

 もう忘れたい。それが正直な気持ちだった。


「あなたは選ばれなかったんですよね、拓人さんに。でも私は選ばれるべきだと思うんです。それだけの努力もしてきたし、自信もありますし。そうは思いませんか?」


 じり、と間合いを詰められて一歩後ろに後ずさった。


 どこまでも真剣な曇りのない目がこちらをじっと見据えている。怖い、と思った。思わず助けを求めるかのように、周囲を見渡し、そして気がついた。


「灯里!」


 こちらにまっすぐに向かってくる見慣れた人影を視界の隅にとらえ、さらなる修羅場の幕開けに顔が引きつった。



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