8 心にくすぶるもの


 時間が過ぎるのはあっという間だ。

 気づけばプロジェクトを明後日に控え、あの夜のときめきと動揺など幻だったかのように忙殺されていた。


 桐野からの告白に悶絶する暇もないくらい、物理的に仕事に負われて睡眠時間が足りない。目の下の隈が色濃くなっていく一方だ。


「もうダメ……。干からびる。もうホント無理なんだけど。高い美容液でも補えない……」


 都がデスクにだらしなく突っ伏して、半分白目を向いている。なまじ顔が整っているだけになんとも迫力がある。


「おーい、皆。お疲れさん! 本当無理させてすまん。この案件が終わったらうまい店で鍋でもごちそうするからなんとか踏みこたえてくれっ!」

「……課長ー。そんなこといっていいんすか? 仕事が終わったら一秒でも早く家に帰って奥さんと娘さんに癒やされたいんでしょ? ここのとこ二人の寝顔しか見てないーって嘆いてたじゃないですか」


 課長は自他共に認める愛妻家、そしてかわいい盛りの娘を持つ父親である。その子煩悩っぷりときたら、他部署でも有名だ。その課長にとって妻と娘との時間がまったく取れない今の状況は、拷問に等しいだろう。日に日にやつれていく課長と、毎日涙しながら愛妻弁当を味わって食べる姿はなんとも哀れだ。


「くっ……。確かにそれはそうだが。でもお前たちも大事な部下だからなぁ。ほんと、お前たちが文句も言わず頑張ってくれて俺は嬉しいよ」

「……課長ーっ!! 俺も課長が課長で嬉しいっすーっ!」


 疲れのせいか、皆が壊れている。もちろん私も含めて。


 ちらりと斜め前に視線を送るとちょうどこちらを向いていた桐野と視線がばっちり合って、慌てて目を伏せる。まさか目が合うとは思わなかった。桐野が口元を覆って小さく笑ったのが見えた。余裕ありげに見えて、なんだか悔しい。


「ふふふふふ。……いいんじゃないのぉ?」


 ふいに都に声をかけられて、ぱっと顔を向けた。


 都の顔には、なんともいえない笑みが浮かんでいた。


 あの夜のことは、まだ都にも話していない。正確に言えば話す暇もなかったのだけれど、返事をしなくていいといわれているし今説明しようにもどう言えばいいのかと迷ったのも事実だ。

 忙しさにかまけて桐野を強く意識せずに済んでいるのが、嬉しいのか悲しいのか。それでもやっぱり以前よりも桐野に目が行く回数は明らかに増えている。仕事絡みで話す時も、視線が合うとどうにもドキドキしてしまったりとやりにくさは否めない。が、どこかくすぐったく心が浮き立つ気がしないでもない。


「……何がよ」

「ふっふーん。都様に隠し通せるとでも本気で思ってんのぉ? 二人の間に漂う今までにない空気感、いいと思うよー。うんうん」


 都のニヤニヤ笑いと斜め向かいから感じる桐野の視線に、いたたまれなくなって両手で頬を覆い隠す。


 もし仮に桐野とどうにかなるなんてことがあったら、日常的にこんなからかいを含んだ視線に耐えねばならないのか不安になり、いや何を起きてもいないことを思い悩んでいるのかと自ら突っ込んでしまう。

 それを都がおもしろそうに眺めているのもまたなんともいえず、ため息が出る。


「違うの。そういうんじゃないから。いや、そうなんだけどそうじゃないのよ」

「は? 何言ってんの? 灯里」


 いや、だからと口ごもりながら、語るに落ちる。仕方なく小声で事の次第を都に伝えると、都は少し驚いた様子だった。都にしてみれば返事はまだ求めないという桐野の態度が意外だったらしい。


「気が長いっつうか、逆に自信があるのかないのか。ふうん、あいつがねぇ。ほぉー……」

「でも返事はいらないっていわれてもさ、どうにも意識しちゃうっていうか。今は仕事でバタバタしているからまだいいけど、この案件が終わったらやっぱり返事するべきかな?」


 返事はまだいいとは言っていたが、それは一体いつまでを指しているのか。まさかこのままずっと返事をしないまま放置というわけにもいかないだろうし。かといってじゃあなんて返事をするべきなのか、どう対応するのが正解なのかわからない。


「いやいや、正解とかべきとかさ。そういうことじゃなくてさ、あんたはどう答えたいのよ?」

「へ……?」


 都の口から盛大なため息がもれた。


「言ったでしょ? あんたが選ぶんだよって。自分の心に聞いてみればいいじゃない。欲しいか欲しくないか。触れたいか触れたくないか」

「ほっ! 欲しい? ……ふっ、触れ?」


 なんとも直情的な表現に、思わず声が大きくなった。いや、これはあれか。色気のある方の触れたいではなくて、ぶつかり稽古的な裸でぶつかる方だろうか。


 ふいに、あの日夜ホテルの部屋を引き上げる時に頭をなでられたことを思い出した。思った以上に大きな手と優しげに包み込むような手の平の感触に、ドキリとしたっけ。一気に顔に熱がこもるのが分かって、慌てて両手で顔を隠す。

 一体会社で何を考えているのかと、恥ずかしさに突っ伏した。


「悩みなさい、悩みなさい。うんと悩んで自分の気持ちを見つめて、気持ちに素直になったらよろしい。応援するよ!」


 そう言った都の言葉にはからかうような響きはまったく感じられなくて、ただ頑張れという激励の気持ちが滲んでいる。きっと都には、今にも大きく傾きそうなこの気持ちもお見通しなんだろう。


 でもどこか、このまま流されるように新しい恋をはじめていいのかとためらう。古い恋を忘れるには新しい恋をするのが一番だというけれど、私は拓人との恋を本当にちゃんと終わらせられたんだろうか。どこか不完全燃焼のまま、なんとなく終わりにしてしまってこのまま後悔はしないだろうか。


 そんな気持ちが、心の底でずっとくすぶっていた。

 そしてそんな私を追い立てるように、またも事件は起きようとしていたのだった。


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