7 真っ直ぐな告白


 今桐野はなんと言っただろうか。聞き間違いだろうか。そうだ、そうに違いない。疲れて気が抜けて、半分意識が眠りかけているのかもしれない。それで自分に都合のいい空耳なんかが聞こえてしまったに違いない。だって、今桐野は私に選ばれたいと言ったのだ。それは一体どういう意味なのか。


 信号がゆっくりと点滅し、青に変わった。静かに滑り出す車と、表情の変わらない桐野の横顔。沈黙が続く車内で、グギギ……ときしんだ音が鳴りそうなぎこちない動きで窓の外に視線を移す。

 何か言葉を返した方がいいのだろうと思いながらも、どう返せばいいのかわからずに息をのむ。


 次第に市街地が近づくにつれ、すれ違う車の数も増えてきた。もう深夜に差し掛かる時間帯でも、旅行者らしい県外ナンバーの車がそれなりに走っているようだ。


 あと二十分も走れば、駅に着く。そうしたらこの話題は何事もなかったようにスルーしてしまえるだろうか。それとも――。


 さっきまで居心地がいいと感じていたはずの車内の空気は、今はどこかピンと張り詰めたものに変わっていた。


「始発まであと五時間くらいありますね。駅の周辺には時間を潰せるような店はなさそうですし、駅前のホテルに部屋をとりましょうか。お互い汗と埃まみれですし」

「……あ、うん。そうだね。 確か駅前にビジネスホテルが何軒かあったから、探してみる」


 端から最終に間に合わないことは分かっていたし、泊まりになるのは想定内だった。それに始発までに品物のチェックも済ませておきたい。


「じゃあ先輩は宿を探しておいてもらえますか。レンタカーの返却手続きをしてくるので」


 まるでさっきの意味深な発言なんてなかったかのような自然さで、桐野はレンタカーを返しに離れていった。足元に積み上げられたいくつもの段ボールの横でそれをぼんやりと見送る。


「あっ、ホテル探さなきゃ!」


 慌ててスマホで近くのホテルの空きを調べ始める。観光シーズンではないのが幸いして、すんなりとシングルの部屋をふたつ確保できたことに安堵した。近くにコンビニもあるから、そこで夜食や着替えを買えばいいだろう。


「おまたせしました。宿、どうでした?」

「すぐそこのホテルに取れたよ。とりあえず荷物運ぼっか」


 ホテルへ荷物を運び終えると、ひとまず各自部屋に荷物をおいて二人でコンビニに買い出しに向かう。品物のチェックが終わるまでは、まだ解散というわけにはいかない。

 ひとまず桐野の部屋に品物を広げて、数や不備などをチェックする。


「二年前の品にしては保存状態が良くて助かりましたね。一部外箱にちょっと汚れがありますけど、元々外箱は必要ないですから」

「本当、助かった……。それにこれが同じ関東で良かったよね。もっと遠方だったら本当に納期を延ばしてもらうよりなかったかもしれない」


 すべてのチェックを終え、ささやかな祝杯をあげる。コンビニで買ってきた缶チューハイと乾き物という味気ないものではあったけれど、ひと仕事終えた後のお酒はやはりおいしい。


「本当にお疲れ様でした」

「うん。桐野くんは長時間の慣れない山道、お疲れ様。ありがとう」


 喉元を通り過ぎる冷たいしゅわしゅわとした爽快さに、思わず安堵の息が零れた。桐野の顔にも安堵の色が見える。無理もない。初めて走る夜の山道なのだ。いくら田舎道に慣れているとは言っても神経を使っただろう。

 あまり長居しては睡眠時間が短くなってしまうと、残りのチューハイをぐいと飲み干し、腰を上げた。


「じゃあ、明日の朝は五時半にロビーで集合ね。今日は本当にお疲れ様。ゆっくり休んでね。……おやすみなさい」


 どこか逃げるように、そそくさと部屋を立ち去ろうと背中を向けた時。


「灯里さん」


 再び下の名前で呼びかけられて、ドアノブに手をかけたまま固まった。なんとなく振り向いて自分の顔を見られたくない気がして、そのままの姿勢で「なぁに?」と答える。


「車の中で言ったこと、冗談じゃないですから。本気でそう思ってます。あなたに選んでほしい。選ばれる男になりたいとずっと思ってました。動物園に誘ったのは忘れてもいいです。でもそう思っているってことだけ、覚えていてもらえますか?」


 声はどこまでも真摯な響きを伴っていて、とても無視はできなかった。ゆっくりとノブにかけたままの手をおろし桐野の方へと向き直る。


「それってどういう意味なのか聞いても、いい……?」


 選ぶとか選ばないとか、必要とか必要じゃないとか。恋の話をしているのか、それとも別の話をしているのか。私がついあんなことを口走ったのは、拓人とのうまくいかない恋をずっと引きずって考え込んでいたからだ。でも桐野が一体何を思って選ばれたいと言ったのか、あの言葉だけではわからない。


「あなたが好きです。友井灯里さん。……仕事の上でも目標にしていますし、一人の男としてもあなたが好きです」


 それはどこまでも真っ直ぐな、揺らぎのない曇りない告白だった。こんなに真っ直ぐに好意をぶつけられたことは、生まれてはじめてだった。


 真っ直ぐすぎて息ができない、でも同時にそんな真っ直ぐさが桐野らしいとも思った。


「……わ、私は」


 こんなふうに真っ直ぐに想定外の相手から好意をぶつけられたら、どう返すのが正解なんだろう。桐野と自分がどうにかなるなんて、これまで本当にただの一度も考えたことがなかったのだ。年下だからとか後輩だからとかそんな理由以前に、私には拓人という存在が曲がりなりにもずっといたのだから。


 ぐるぐるとテンプレのような返事と、いやそんな型通りの言葉で返すわけにはいかないという思いとが頭の中を巡る。


「言ったでしょう? 今は僕がそう思っているということだけ覚えておいてって。返事はいりません……今はまだ。だって灯里さん、長く付き合っていた人と別れたばかりですよね。弱ってる隙につけ込むような真似、する気はないので」

「えっ? なんで、知って……」


 なぜ桐野が知っているのかと慌てふためいた。


「ずっと見ていればそのくらいわかります。好きな人のことくらい」

「……す、すすすす好きな、人」


 いちいち動揺が態度にわかりやすく出てしまう。桐野は少し笑って首を振った。


「いつも通りにしていてください。いや、もちろん意識はして欲しいですけど気持ちに応えなきゃとか身構えないでいて欲しいんです。灯里さんがその気になるように、ちゃんとこっちを振り向かせてみせるんで。それまで返事は保留で」


 そう言って桐野はニヤリと笑った。


 その顔が、今まで見たこともないほど余裕ありげにでもどこか憎々しく見えたのは気のせいだろうか。これは私を手のひらで転がす気満々なのか、それとも私の心がそう見せているだけなのか。何にしてもうろたえているのは自分だけというこの状況に、もはや口をぱくぱく金魚のように動かすしかできない。


「……おやすみなさい。灯里さん。また明日」


 ぽんぽんと頭を子どものようにあやすように叩かれ、部屋を押し出される。呆然としたまま手には飲み終えたチューハイの缶を握りしめたまま自分の部屋に戻り、ベッドに突っ伏した。


「な……何なの。一体、これはどういう……」


 心と頭が沸騰しそうに熱を持っている。でもなぜかそれは少しだけ心地よくて、久しぶりに感じる高揚感とどうしていいのかわからない動揺とにいっぱいいっぱいになりながら、悶絶するしかなかった。


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