ハンカチを取り出して、素早く右手を覆う。検索機のタッチパネルに触れたら、指先が緑色に湿ったのだ。雨に濡れた手のまま、多くの人が画面に触れたからだろう。これは、図書館の中でも手袋をつけておくべきかもしれない。思わずため息が出る。暑い。

 ともあれ、ようやく本の森にたどり着けた。安堵と興奮でそわそわする。検索機を使うのは諦めたが、海外ミステリーの棚を見ていたら、簡単に目的の作家の並びにたどり着けた。3冊抜き取って席へ持っていく。図書館ではコーヒーが飲めないのが残念だが、家とは比べ物にならない量の本に囲まれている。本の森、森といえば緑、緑といえば・・。


「じゃ、私は予約していた本を受け取りますので」

 女とは図書館の入り口で別れた。全身緑だが、髪は健康的な栗色だ。図書館以外で見かけたことが無い。身につける緑が鮮やかすぎて、顔の印象はぼやけていた。一体、普段は何をしているんだろう。


「そんなことはいいんだ」

 柄にもなくひとり言を口にして、本を開いた。古いインクの匂いが心地いい。



 気が付くと、3時間経っていた。図書館で読むのはこれまでにして、まだ続く梅雨に備えて借りられるだけ借りて帰ろう。そのために大きなリュックを背負ってきたのだ。席を立つと、女が数メートル離れた場所で本棚を物色しているのが見えた。まだいたのか。しかし、立ち寄っただけでも、つい本棚を彷徨って結局長時間いることになるのは図書館あるあるだ。男はうんうんと頷いて受付へ歩いた。

 

受付は出入り口からほど近い。ガラス張りの自動ドアから見える外は、まだびしょぬれだ。

 帰りは家に入れば人目に触れることはないのだし、傘だけさして急いで帰ろう。

「ちょっと、これ忘れてるわよ」

 手続きを終えて、外に出たところで後ろから女の声が聞こえてきた。振り向くと、女はワンピースのすそを揺らしながらこちらに走って来るところだった。やはり若い。走り方が少女のそれだ。あっという間に男の目の前に来て、手袋を差しだして来た。しまった、読書の最中、いい加減じゃまになってテーブルに置いていたのを、忘れていたのだ。

「すみません。わざわざどうも」

「ふふ、帰りはあのカッパ着ないのね」

「めんどうなので」


 その時、さあっと風がふいた。男はしまったと傘を開こうとするが、間に合わない。風と一緒に無数の雨粒が、屋根の下に立つ2人に当たる。

「手袋どうも、では失礼します」

 男は片手で雨を浴びた顔を覆い、もう片方の手で女から手袋をもぎ取った。どこがどれくらい緑色になっているか、わかったもんじゃない。早くこの場を離れよう。

 しかし、女は逃がさなかった。男が引っ込める手を追いかけるように、ぴょんと距離を詰めたかと思うと、両手で男の頬を包み込んだ。

「まあ、なんて綺麗な緑色」

 彼女は髪だけでなく、瞳も栗色だった。男と顔を見合わせて、その瞳はキラキラと輝いている。男はあっけにとられて、隠すのも忘れて立ちすくんでしまう。女は気まぐれに手を放すと「そうね、またね」と笑い、颯爽と立ち去って行った。

 

遠ざかる緑色の後ろ姿をしばし眺め、ようやく男は我に返った。傘で顔を隠して、足早に家に帰る。



 温めなおしたチョココーヒーを前に、男はぼうっと立ち尽くしていた。この数時間で、自分がすっかり生まれ変わってしまったような、不可思議な感覚に陥っていたのだ。自分が何に落ち込み、何に心が躍るのかが、変わってしまったように思う。

 マグカップに伸ばした手を、無意識に頬へ持っていく。家に着いてすぐ鏡を見ると、顔の半分が緑色に染まっていた。首も、点々と緑に染まっている。女はこの顔を見て、宝石を見たような歓声を上げたのだ。


 頬を両手で包まれるなんて、とてつもなく久しぶりだ。こんな風に触れてきたのは、母親くらい・・。男は驚いた。母親の顔が詳しく思い出せなくなっている。雨が降る外を見て引きつらせていたのは、顔のどの部分だったか・・・?

 男は力なく椅子に腰を落とし、ため息をついた。美しい緑が彩る、あの女の顔が頭から離れない。子供のように無邪気な表情だった。そんなに緑色が好きなのか。格好を見れば、一目瞭然か。

 触れられた頬がほてって、頭が少しくらくらする。男は窓辺に目をやり、びしょ濡れの外を眺めた。


 次に彼女に会う時も、雨が降っていれば良い。


おわり

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緑色に濡れる 向井みの @mumukai30

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