もっとも恐ろしいのは霧雨だ。あれは普通の雨粒よりはるかに軽いせいで、ほとんど空中を舞うように降っている。気が付かずその中を歩いて、全身がうっすら緑色になった経験がしばしば。幸い今日は強くも弱くもない、真っすぐ上から下へ降るお行儀の良い雨だ。


 男は、雨の日に外出しなければならない時用に揃えてある雨具を身にまとった。カッパを着て、ブーツにズボンのすそを入れて、防水スプレーをふんだんにかける。最後に大きなビニール傘をさしたら、完成だ。ちなみに荷物が雨に濡れると、それに触れる手が緑色になってしまうため、リュックはカッパの下にある。雨を嫌う亀の出来上がりだ。


 外は、カッパのフードごしに見ても灰色で、男は自分に当たる雨の音にドギマギしながら歩いた。雨の中を歩くなんて、めったにないのだ。図書館は徒歩15分ほどの場所にある。昨日読み終わったミステリー、あの作者の別の著書があればいいな。着いたら検索機を使ってみよう。苦しい。6月の暑さと湿気の中、カッパとブーツを着こんでいるから苦しい。


いいや、それだけじゃない。


 母が追いかけてくる。顔の下半分だけ、口元を引きつらせて追いかけてくる。


『おかあさん、なんで運動会いっちゃだめなの?』

『何言ってるの、明日は雨予報よ。ダメに決まってるでしょう』

『でもぼく、かけっこの練習がんばったんだよ』

『・・・・・・。家でお母さんと絵本を読みましょう』


 頭の後ろに母の引きつった口元が浮遊して追いかけてくる。男は足を速めた。

 早く本の森へ逃げ込みたい。森と言えば、緑。

「家に戻りなさい。化け物と思われるわよ」

 つまり母よ、あなたは雨に濡れた俺が化け物に見えているんだな?


 図書館までたどり着いた。人々が傘を閉じ畳む玄関前の屋根の下、男は必死でカッパを脱ぎ捨てる。暑くてたまらないのだ。元来、我慢は好きではない。濡れたカッパや傘に触れるために、手袋もつけている。早く片付けて、空調の効いた館内に入りたいよ。


「まあ、今日は荷物が多いのね」

 屈んで脱いだカッパを袋に詰めていると、頭上から声をかけられた。ハッと顔を上げると、目が覚めるようなエメラルドグリーンのドレスを身にまとった女が立っていた。スカートは足首まで伸び、うぐいす色の靴下と濃いグリーンのパンプスが覗いている。貴族と一般人の中間をいくような、そんな風貌のこの女。この図書館で時々顔を合わせる常連だ。いつも、男とは反対方向の道からやって来る。ドレスのはしっこを濡らしながら、やはり緑色の傘をさしていた。歳は20代だと思われる。口調のせいでわかりにくいが、表情や肌に幼さとも取れる若さがほとばしっていた。

「どうも、今日のドレスも決まってますね」

 立ち上がりながら笑顔をつくる。女は緑色のピアスを揺らしながら首を傾げた。

「ドレス?これはワンピースよ。ドレスなんて図書館に着てくるわけないじゃない」

 改めて女の恰好を見る。そうか、いくら袖が膨らんでいて裾にレースがくっついていようと、これはドレスとは呼ばないのか。

「最近、来ていなかったわよね。風邪でもひいていたの?」

 カッパをしまい終えたら、次は傘をたたまねば。

「いいえ、梅雨の時期は毎年引きこもることにしているんです。しかし今日は、どうしても本が読みたくて」

「ふふ、誰だって雨の日は用なく出かけたりしないけれど、読書は立派な用事ですものね」

 いたずらっぽく笑う女に、男もにっこり笑い返した。

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