第二章 その時、猫は竜の首を狙った

 初めての高校生活、二日目。

 時刻は午前8時30分。朝のホームルーム前。

 教室の窓から差し込んでくる暖かな陽光。外から時折聞こえてくる小鳥達の合唱。

 そして同じ空間で過ごす同級生達が、スマホを弄り、友人同士で会話に興じたりと、各々で限られた時間を優雅に過ごす中。

「ハアァ~~~~~~…………」

 その端で一人ポツリと着席していた猫丸は、人知れぬ悩みに頭を抱えながら、重く、深く、長いため息を吐いていた。

「親父め……、一体どういうつもりだ?」

 その場に居ない父に向け、猫丸は小さく愚痴を零す。

 昨晩、潜入先の彩鳳高校で標的ターゲット紅竜レッドドラゴンを発見した事。紅竜レッドドラゴンは女性で、しかも自分と同じクラスの生徒だった事。紅竜レッドドラゴンの両腕には途轍もない兵器が内蔵されている事を、猫丸は寅彦に嬉々として報告した。

 しかし、何故か寅彦からは『フーン、そーなんだー』という、中身がスカスカな如何にも興味ゼロの反応が返ってきた。

『なさげ』とかもうそういうレベルのモノではない。確信的と言ってもいい程に、完全にゼロの反応だった。

 まるで、最初からそこに紅竜レッドドラゴンが居ないと分かっていたかのように……。

「せっかく値千金の情報を掴んできたというのに……。何だこの、この上ない徒労感は?」

 しかも腹立たしい事に、『んなどうでもいい事より、初めての高校はどうだった?』『楽しかったか?』『友達は出来たか?』『可愛い娘は居たか?』など、こっちが心底どうでもいいと思うような事を次々と質問攻めしてきたのだ。

『楽しかったか?』と訊かれても、こっちはそちらの寄越した仕事に全力を注がなければならないのだから、楽しんでいる余裕など無い。

 寅彦もそれが分かっている筈なのに、何故あんな事を訊いてきたのか。

「ふざけやがって……。楽しむとか、そんな事の為に高校に来たんじゃないんだぞ」

 頬杖をつき、このやるせない気持ちを何処か遠くに解き放つように、窓の外を眺めていた――その時だった。

「ああ、忌まわしき太陽が今日もまた昇ってしまった……」

 扉の開閉音と共に、悩みの種が教室に現れる。

 突然の大声に、思わずビクッとしてしまう猫丸とクラスメイト達。先程まで賑やかだった教室が一瞬にして静寂に包まれる。

(来たか……)

 流れるように視線を外から音源の方へ移すと、そこにはやはり彼女が居た。

(竜姫紅音……いや、紅竜レッドドラゴン!)

「く、黒木君!? 早っ、もう来て……――ハッ! コ、コホン! まさか先に辿り着いていたとは。その猟豹の如き迅速さ、敬服に値するぞブラックキャットよ!」

「褒めてもらえるのは光栄だが、いい加減その名で呼ぶのは止めろ。ここは俺達の居た世界とは違うんだぞ」

 眼が合うなり、紅音はゆっくりと猫丸の許へと近付いていく。

 早速期待以上の返答がきた事に、再び体の内から込み上がる悦びを感じると。

「フッ、相も変わらず素っ気ない奴め。しかし、それでこそ我が同志、晦冥を震撼せし処刑人というもの……」

「また訳の分からん事を……」

(あ 殺したい……)

 目線を逸らし、紅く染まった頬が緩むのを必死に抑えようとする紅音と、苛立ちが募る毎に眼光が鋭くなる猫丸。

 その何とも異様でありながらも謎の一体感が発生している光景に、周囲の者らが困惑を顕にしていく中。

「クスッ。早速動いてますね、紅音」

 優しさと慈愛に満ち溢れた穏やかな声と共に、扉を開けて現れた一人の少女が二人の間に入っていく。

「まったくもう、勝手に一人で走り出さないでくださいよ」

「あっ、ごめ……じゃなかった。済まなかったなコマコマ」

(この女、確か昨日も紅竜レッドドラゴンと一緒に居た……)

 見覚えのある少女が紅音と親し気に話している。

 キラリと輝く丸い眼鏡に、季節外れの雪を思わせるような色白の肌。

 余裕で背中を覆い尽くす程はあろう長い髪は、丁寧な三つ編みに纏められ、左肩から前へと垂らされている。

 そして、きちんとボタンの留められた制服の下には、明らかに同世代のそれよりも発育の目立った、神々しい双丘が。

「黒木さん、おはようございます」

「あ、ああ、おはよう。えっと……」

「あっ、すみません。自己紹介がまだでしたね」

 突然話し掛けられ、どう返答すればよいか困る猫丸。

 それに気付き、思い出したとばかりに少女は両手を叩いた後、

「咬狛九十九です。紅音からは、よくコマコマというあだ名で呼ばれています。どうぞよろしくお願いします」

 右手を前に差し出し、微笑みながら自身の名を告げた。

 目の前に出されたその右手に、猫丸は一度視線を移した後。

 その数秒後、真似するように今度は自分の右手を前に出し、

「黒木猫丸だ。こちらこそ、よろしく頼む」

 互いの掌を重ね、優しく握り合った。

「むうー……」

 二人の固い握手を前に、膨れっ面の少女が一人。

「ちょいちょい」と誘うように紅音が九十九の左袖を引っ張ると、そのまま猫丸から引き剥がすように自身の許へと運んでいく。

「どうしましたか、紅音?」

「コマコマよ、貴様……抜け駆けとはズルいぞ」

「ぬ、抜け駆け?」

 突然謎の言い掛かりをつけられ、首を傾げてしまう九十九。

 不満気な表情を見せる紅音は、尚も小声で続けて。

「私が昨日告げた事をもう忘れたというのか?」

「黒木さんともっと仲良くなりたい、ですよね?」

「うっ! そ、その通り……。だからその、私より先に睦み合おうとするのは……」

「ただ自己紹介しただけですよ?」

「でも! 黒……じゃなくて、ブラックキャットと盟友の誓いを結んでいたではないか!」

(盟友の誓い……?)

 謂れのない文句をぶつけられ、九十九は頭を悩ませる。

 暫く考えた後、ポンッと軽く手を叩いて。

「ああ、握手の事ですね。紅音ってば、ひょっとして妬いてるんですか?」

「ば、馬鹿な事を言うな! この世の頂点に君臨し、闇の世界を生きるこの私が嫉妬などするものか!」

 ドキッとするや否や、紅音は顔を真っ赤にしたまま声を荒らげて否定する。

 どうやら図星だったようで、九十九は「ふ~~~ん」とニヤニヤとした顔を浮かべ、親友にそれを気付かれぬよう手で口元を隠しながら反応を面白がった。

(何をコソコソと話してるんだ?)

 突然一人置き去りにされ、自分の事について話していると知らない猫丸が二人の遣り取りに聞き耳を立てようと試みる。

 すると、紅音はすぐさま猫丸の方へと振り向き、早い足取りで接近していった。

 突如近寄ってきた紅音に、猫丸は咄嗟に身構えると。

「――なんだその手は……?」

「なに、他意はない。いいから貴殿も手を差し出すのだ!」

 唐突に出された右手と要求に疑問を抱いた。

(きっと握手をしたいのだろう)そう気付いた九十九は、後ろから紅音の背中を見守る。

 事実、その通りであった。

 気持ちを言葉に表せないが、紅音の要求は確かに猫丸との握手。彼女で言うところの『盟友の誓い』であった。が……、


(他意はないだと? そんな筈があるか。コイツの事だ、必ず何か企みがあるに違いない!)


 悲しい事に、その願いは猫丸相手に届かなかった。

 猫丸にとって、紅音とは最も警戒すべき危険人物であり、過去に対峙してきた者の中でも最強かつ最悪の標的ターゲット

 加えて、猫丸の前に差し出された包帯だらけの右手は、彼から見て最も注意しなければならない対象。

 むしろ、猫丸がその右手を取らない理由が数多あるのに対し、手を取る理由などこれっぽっちも無かった。

「断る……と言ったら?」

 いつでも武器を取り出せるよう、厳戒態勢を取る猫丸。

「フッ、答えるまでもなかろう?」

 一方で、問い掛けを受けるなり、薄笑いを浮かべて返す紅音。

 しかし、その内心では……。

(あ、あれっ? なんで? なんで手を出してくれないの!? 私、何か変な事したかなぁ……?)

(やはり何か狙いが! ダメだ、この手を取れば間違いなく俺の身に何かが降りかかる!しかし、取らないなら取らないでこの女が一体何を仕出かすか……)

 まさか拒否されるとは思わず、紅音は大きなショックを受けてしまっていた。

 同時に、どちらの選択を取っても破滅しか待っていない事を悟り、猫丸も迷いを重ねてしまう。

 その掛け合いを最後、進展する様子が全く見えなくなった二人を見兼ね、紅音の背後で待機していた九十九が動こうと……。

「あの、お二人共ー、どうかしまし――」

「おーしお前らー、席に着けー」

 ……した矢先、学校のチャイムが無慈悲に鳴り響き、担任の教師が現れると共に朝のホームルームの開始を伝えた。

 結局、紅音の『盟友の誓いを結びたい』という願いはお預けという形で終わった。


   ◇


 朝のホームルームが終了し、教科書の用意や授業前のトイレなど、クラスメイト達それぞれが一限に向けて準備をしていく中。

 大きく口を開け「ふあ~~~」と波打つような欠伸をする紅音に、前の座席に座る九十九が訊ねる。

「眠たそうですね、紅音」

「む? ああ、実は昨夜、異界の者らと会合をしていてな。半刻程交信を続けていたが故に、どうにも我が眠りを犠牲にする他なく……」

「あ~、成程」

(また深夜アニメのリアタイ視聴ですか。別に配信サイトで後から幾らでも観られるのに)

 涙を拭うように眼を擦りながら答える紅音に、眼鏡少女は「まったく」とため息交じりに呟く。

 その頃、近くでその遣り取りを耳にしていた猫丸は、

(会合? 交信? まさかコイツ、外部と何かしらの連絡を取っているとでもいうのか? まさか、あの紅竜レッドドラゴンにも仲間が……!?)

 またしても紅音の言葉を深読みし、勘違いを深めてしまっていた。


 一限開始のチャイムが校内に響き渡り、それと同時に教科担任がやってくる。

 教室に入ってきたのは、猫丸達の担任でもある女性の教師だった。

 授業が開始し、教師の板書と同時に生徒が一斉にノートをとり始める。

(フリだけでもしておくか)

 猫丸も一緒に教科書とノートを開くが、その視線の先は黒板ではなく、左隣のクラスメイトに向けられていた。

(奴の席が左側にあった事だけは幸運だったな)

 この時間は勉強ではなく監視。すぐ横に座る標的ターゲットの動きを観察する為の1時間だ。

「ふあ~~~……――ハッ! いけないいけない、危うく堕ちるところだった」

(今日は一段とアホ面だな。やはり昨夜の会合とやらが影響しているのか……)

 少しでも眠気を覚まそうと頬を叩く紅音を、猫丸は横目で見続ける。

 その視界には、標的ターゲットの顔と一緒に白い包帯で覆われた右腕が映っていた。

(俺は紅竜ヤツの両腕に、あんな途轍もない兵器が眠っているとは知らなかった。だがそれでも、紅竜レッドドラゴンの存在と伝説は知っていた)

 この裏社会で、一体どれだけの人間があの両腕の正体を認識しているのだろう。

 猫丸はあの両腕に秘められているモノを知った時、それこそが紅竜レッドドラゴンを最強たらしめているのだと思った。

 だが、その存在を知る前から自分は奴の掌の上で踊らされ、出逢って早々に奴の恐ろしさを思い知らされた。

 もしかすると、あの両腕にある兵器の有無にかかわらず、紅竜レッドドラゴンは最強と呼ばれるようになったのではないか。

(実際、俺自身奴に出逢うまであんな超兵器を所有しているとは知らなかった)

 もし、『クリムゾンインフェルノ』とやらと『スーパーノヴァ』無しで最強という看板を背負うようになったのなら、今狙っている伝説の壁は自分や他の殺し屋が想像するよりも遥かに厚く、高いモノへと昇華するだろう。

(そうなると、もう絶望的だな……)

 この二日間、嫌な想像ばかりしてしまう。

 最悪を想定するのが殺し屋の仕事であり常識だが、そればかりだと気が滅入ってしょうがない。

 家の者にはまた苦労を掛ける事になるが、この仕事が終わったら暫く休みでも貰おうか。

「紅音、ちゃんと起きてますか?」

「む、無論だ! この私が睡魔ごときに屈服するとでも?」

(もう見慣れちゃってるんですが……)

「ハイそこー、静かにー」

 始まって僅か五分。早速うとうとしだす紅音に九十九が定期的に意識の確認を図る。

 紅音も声を掛けられる度に瞼を開けるがすぐに眼が虚ろになり、コクコクと頭を揺らしてしまう。

 当然、隣で観察を続ける猫丸も、紅音の挙動の不安定さに気付いており。

 そしてとうとう、

「ん……、んん~…………――スー……」

(ね、寝た!?)

 紅音の意識は限界を迎え、机に突っ伏したまま動かなくなってしまった。

 微かに漏れる寝息が主の眠りを伝える。

(暢気な奴め……。俺に狙われてると分かっていながら、こんなデカデカと隙を晒すとは……)

 その無防備極まりない姿に驚きを通り越し、最早呆れてしまう猫丸。

(待てよ?)

 ここで、猫丸はハッとする。

 標的ターゲットのあまりな不用心さに呆気にとられてしまったが、これは……。

(これは……千載一遇のチャンスなのでは!?)


   ◇


 ずっと緊張を隠せなかった。

 最強の殺し屋と謳われている標的ターゲットが隣に座り、初日の敗北が常に頭を過り、なんとか隙を探ろうとするも、その異常としか思えない言動・立ち居振る舞いがこちらの判断を悉く揺さぶり、いつ動けばいいのか全く正解が見当たらなかった。

 しかし遂に、隙としか思えない瞬間を捉える事が出来た。

(馬鹿め! 俺が何もしてこないと侮ったな!)

 絶好のチャンスを目の前に、思わず頬が緩んでしまう。

 落ち着け、冷静になれ。ここでチャンスを不意にしない為にも、慌てず状況を整理しろ。

 今標的ターゲットは眠りについている。だがここには咬狛九十九をはじめとする三十八人の他の生徒と教師が授業を行っている為、ただ殺せばいいという話ではない。

 彼らに気付かれる事なく、紅竜レッドドラゴンを確実に殺さなくては。

(一旦全員気絶させる手もあるにはあるが、それはあくまでも最終手段……)

 無関係な一般人に危害を加える行為は、原則として禁じられている。

 そう、たとえ相手があの伝説の殺し屋だとしても、そのルールに則るのがプロというものだ。

(さて、どうするか)

 一旦、自分の装備品を確認し、殺せる武器の中で何がこの場で最適かを選択する。

 とりあえず、今制服の下に身に着けているものから挙げてみるとしよう。

 まずはナイフだ。

 最も扱いに長け、これで殺せない者は存在しない。ただしどうしても返り血が目立ってしまい、教室が汚れるのは勿論、この場に居る者達からの注目は避けられない――没。

 次に銃。

 殺傷能力はナイフのそれを遥かに超え、この距離からなら外す事もまず無いだろう。だがそれ故に、弾が紅竜レッドドラゴンを貫通し、奥の窓ガラスにも着弾してしまう恐れがある。加えて、返り血のリスクはおろか、銃声が隣の教室まで響いてしまう可能性も高い――没。

 続いてワイヤー。

 主な使用用途は罠や移動だが、絞殺に用いる事も可能。絞殺……、どう考えても先に挙げた二つより時間が掛かり、他者に気付かれやすく、絞めている間に紅竜レッドドラゴンが目を覚まし、反撃を受ける危険性が高い――没。

 鞄には何が入っていたか。

 毒薬。

 即効性のモノから遅効性のモノ、錠剤から粉末状のモノまで幅広く揃えており、服用させればその時点でこの仕事は達成される。服用……、どうやって? いずれも口に入れさせなければいけないモノ。それをどうやって二の腕という防壁に囲われ、顔と机が接着している紅竜レッドドラゴンの口に運べばいい? そもそも反応が現れた瞬間に目が覚め、咄嗟に左右どちらかの腕が解放されればゲームオーバーだ――没。

 あとは手榴弾やプラスチック爆弾。

 ……――論外。

(クソッ! ダメだ、完全に手詰まりじゃないか!)

 一向に解決策が見付からず、思い付く限りの手段を封じられ、猫丸は人知れず絶望してしまう。

 ただ殺すだけなら問題ない。問題なのは、教室という空間的制約と授業という時間的制約だ。

 この二つが大きな障害となり、猫丸の行く手を悉く阻んでいた。

 否、それだけではない。

 紅竜レッドドラゴンという規格外の存在そのものが、選択肢を更に狭めていったのだ。

 教室・授業という特殊な条件を巧みに利用し、そこに脅威溢れる自身の存在感を掛ける事でこちらの動きを完璧に封じるとは……。

(成程……。流石は紅竜レッドドラゴンと言うべきか)

 またしても自分は敗北してしまうのか……。

 目の前に眠った獲物が転がっているというのに、手を出す事すら叶わない現状に猫丸は打ち拉がれていた――その時。

(ん? 手を……出す?)

 一瞬、猫丸の中で何かが閃いた。

 これまでに潰されていった選択肢を踏まえた上で、新しい道を切り開く。

(手……いや、手刀!)

 手刀。

 父であり師でもある寅彦によって鍛えられ、銃弾の飛び交う幾多の戦場を渡る事で磨かれていったその肉体は、常人のそれを遥かに凌駕するモノへと仕上がっていた。

 その肉体から放たれる手刀は、容易に鉄骨を屈曲させる程。

 更に、紅音は今両腕を枕のようにし、その上に頭を置いた状態で眠っている。

 つまり、首ががら空きなのだ。

 頸神経を砕く事で、その人間は失神し即座に死に至る。

 首を刎ねる訳じゃないのだから当然出血はせず、一撃かつ一瞬で終わらせてしまえば周囲に気付かれる事もない。

(コレだ!!)

 自分の右手を見た後、猫丸は紅音の方を一瞥する。

 そこには、裏社会中にその名を轟かせている殺し屋とはとても思えないような、幼気で可愛らしい寝顔があった。

 改めて見ると、本当にコレがあの紅竜レッドドラゴンなのか疑わしくなってしまう。

(いや、何を考えてるんだ俺は。昨日の事をもう忘れたのか!)

 惑うな。惑わされるな。隣に座るのはどこにでも居るような普通の少女ではなく、その気になれば地球すら粉々に出来てしまう最強の殺し屋!

 ここで躊躇えば、この先この女を殺す事など不可能!

「ん~~……」

 すぐ横から唸り声が聞こえてくる。

 眠りが浅い証拠だろう。モタモタしていられない。

 こんな女の細首程度、一瞬で砕き折ってやる。

 全身の力を右手に集中させ、手の甲に血管が浮き彫りとなる。

 周囲を見渡し、教師がチョークを片手に黒板と向かい合い、クラスメイト全員がその背中、もしくはノートとにらめっこしている姿を確認する。

 タイミングは今しかない。

 猫丸はゆっくりと椅子から尻を離し、音を立てず紅音に接近を試みる。

 その滑らかなうなじに、刃の潰れた死神の鎌がゆっくりと迫る。

「フフ……フフフフ」

 楽しい夢でも見ているのか、紅音の寝顔は次第に笑顔へと変わっていった。

 それに対し、殺気の込められた瞳でその姿を見据える猫丸は、冷静に、冷徹に、そして冷酷に。

 鋼の如き硬度を持つ、その肉の刃を静かに振り翳すと、

(これで終わりだ、紅竜レッドドラゴン。お前はここで永遠に眠れ!!)

 机という断頭台に置かれた首に向かって、力いっぱいその刃を振り下ろした――その時だった。


「ブラック……キャットォ……」

「!!!!」


 小さな口から囁かれる、一つの名前。

 空気を切り裂くその右手は、勢い余ってあわや紅音の首を刎ね飛ばすところで静止した。


 もし、隣で美少女が眠っていて、突然自分の名前を囁いてきたらどうなるだろう。

 一般的な年頃の少年ならば、思わずドキッとしてしまい、顔を赤らめてしまうのかもしれない。

 きっとそれが正常というものだ。

 しかし、猫丸は違った。

 その顔色は一般のそれとは正に対極。

 文字通り血の気が引いた猫丸の顔は、今にも死に倒れてしまう程に真っっっ青なモノへと変わっていた。

 ドキッとするまでは良かった。そこまでは同じだった。

 だが意味が決定的に違っていた。

 純情な青少年が抱くようなトキメキを意味するドキッではなく、恐怖や命の危機を意味するドキッ。

 寝言とはいえ、突然名前を呼ばれた事に、彼の頭の中で大きなパニックが起こっていた。

(まさか……気付かれたのか!?)

 否、そうではない。

 紅音の囁きはただの寝言であり、彼女は未だ微睡みの中に居る。

 無論猫丸も分かっている。今のはただの寝言であり、もう一度手刀を決めようとすれば、今度こそ必ずその命を狩り獲れる。

 理解はしているのだ。それでも、あの刹那の一言が頭を過り、「もしかしたら」という不安を築き、膨張させる。

「ンフフフフ、そうだ……共にこの世界を滅しようではないか……」

(何を狼狽えている……。早く! 早く腕を振り上げろ!)

 依然として楽しそうな寝顔で寝言を呟く紅音と、体が硬直し、完全にそこから動けなくなってしまう猫丸。

 教室の隅で何とも言えぬ膠着状態が続く中、

「ん? どうした黒木、急に竜姫と密着しちゃって」

「……ハッ! あっいえ、その……」

 離席に気付いた教師が、一人固まっていた猫丸に尋ねた。

 いつの間にか、クラス中の視線も自分に集まっている。

 なんとか誤魔化そうと、額の汗を拭い、心臓の鼓動が収まるのを待ってから、

「た、竜姫が居眠りしていたので、起こしてあげようと思い……!」

 落ち着いて取り繕った言い訳を述べる。

「おーい竜姫ー、いい加減起きろー」

「んがっ!? ――あ、あれ、私は今、魔と人が織り成す大乱の世に居た筈……」

「一体どんな夢見てたんだお前は?」

 教師からの呼び声でようやく目覚めるや否や、紅音は咄嗟に夢の中での出来事を物語った。

 朦朧とする意識の中、口元のよだれを急いで拭き取る紅音。

 猫丸も標的ターゲットが目を覚ました為、即時に席へと戻る。

(クソッ、また俺は……)

 誰にも気付かれぬまま事無きを得たのは良かったが、昨日に引き続き暗殺が失敗に終わってしまった事を人知れず嘆く猫丸。

 すると、

「まだまだだな……」

 起き上がった直後、紅音が眼を擦りながらため息交じりにそう呟く。

(まさかこの私が睡魔に敗れるなんて……。まだまだ自制心が足りないようね)

 それは、授業中に眠ってしまった自分への叱責。

 愚かな自分に向けての戒めの一言。

 それを聞いた猫丸は、

(まだまだ……? まさか、わざわざ隙を晒してやったというのに、無駄で終わらせてしまう俺に『まだまだ』と言いたいのかこの女は……!)

 何も出来ぬまま臆した猫丸への失望と解釈し、更に勘違いを悪化させていた。

(クソッ! クソッ! クソッ!! これだけ譲歩されておきながら、傷一つ負わせられないなど……。殺し屋失格だ!)

(次からは気を付けないと。それにしても、さっきは良い夢だったな~)

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