第一章 その時、猫は竜に勘違いした

 ――五月中旬、深夜。

 イギリス・ロンドンシティにある、とある邸内。

「撃て! 撃て撃てェ!!」

 高価な装飾品で彩られたその場所で、鳴り止まぬ銃声と共に、数十人の男達の間で殺気の籠もった叫びが飛び交った。

「誰だ!? アイツをこの屋敷に入れたのは?」

「知るかよ! 気付いたらいつの間にか侵入られてたんだ!」

「外で見張ってた奴らはどうした! 一体何やってんだアイツら!」

「もうとっくに死んでやがんよ! チクショウ……。よりによって、何でアイツがウチに……」

 悲鳴に近い会話を繰り広げながら、男達は邸内を走り続けるその少年に向けて、発砲を繰り返す。

 が、放たれた弾は一発も肌を掠る事なく、周囲の窓ガラスや棚、手摺り、ツボなどの装飾品を破壊していくだけだった。

「クソッ、当たんねェ……――ガッ!?」

「おっ、おいっ!? どうし……――ダッ!?」

 突如、拳銃を構えた二人の男が、言葉を途切れさすと共に床に倒れる。

 近くの者達が、横になった仲間の姿を一瞥すると、赤黒い風穴の開けられたこめかみ部分からゆっくりと赤い水が顔を覗かせ、床に拡がっていくのが目に入った。

(23、24……)

「おいっ! ロケランでも何でもいい! 何かアイツに対抗出来るモン持ってこい!」

「ハ……、ハイッ!」

 荒れ狂う銃声の中で、短機関銃を持ったリーダーらしき一人の男が指示を出した。

 それに従い、三人の男達が逃げる様にその場を離れ、言われたとおり武器を調達しようと動き出した……。その時、

「…………」

「なっ!? テメェ……、いつの間に……!」

 戦場と化したロビーを出ようとした男達の前に、音も無く一人の少年が立ちはだかった。

 シワの無い真っ黒なスーツに包まれたその姿は、夜空をそのまま投影した様な暗い影に覆われている事もあり、近くで目にするまで捉える事が出来ない。

 しかし、窓から漏れる月光に当てられ、両手から鈍く光る銀色の刃が、これから一体何が行われるのかを詳らかにした。

「やっ……、殺っちまえ!!」

 首筋を伝う冷や汗が服に染み込み、固唾を呑み込むや否や、男達は目の前に立つ少年に向けて拳銃を構える。

 ほぼ同時に発砲音が響くと、放たれた三発の銃弾は瞬時に壁にめり込んだ。

「やっ、殺ったか……?」

 真ん中に立つ一人の男が、額にダラダラと汗を掻きながら、両隣の仲間に震え声で尋ねる。

 暗くて姿がよく見えない……。さっきまで目に映っていた銀色の光は、一体どこに行ってしまったのか。

 と、そんな疑問を抱いた、次の瞬間。

 バタッと、男の両隣から何かが地面に倒れたかの様な音がした。

 鼻腔を貫く血臭。靴越しに伝わる、足元に拡がっていく生暖かな液体の感触。そして……、

「う、うあ……、うああ……」

 焼ける様に熱い首。

 まるで超高温のバーナーで、そこだけを炙られているみたいだった。

 呼吸が苦しくて堪らない。

 今すぐ酸素を取り入れたいところだが、喉奥から溢れ出る熱水が邪魔をしてくるせいで、上手く出来ない。

 気が動転し、男の口はガクガクと震えてしまう。

(38、39……。そして――)

 その後ろで、血の滴るナイフを握りながら、黒尽くめの少年は一歩ずつ前へと進んでいく。

 いつの間に背後へ移動したのだろう。どうやって銃弾を躱したのだろう。目の前に並ぶ他の男達が、そういった疑念を抱いたまま銃を構える中。

 吐血し、首筋から噴水の如く血飛沫を上げながら、背中の男はゆっくりと地面に体を預けた。

(――これで、40か)

 刃に付着した血を払い、目の前に並ぶ残った標的ターゲット達を見て、少年は静かにため息を吐く。

「野郎……、よくも!」

 仲間を殺られる一部始終を見て、戦慄の走る男達。

 次々と恐怖に駆られていき、絶えない発砲が繰り出される。

 しかし、それでも無数の銃弾は、少年の体を穿つ事が出来なかった。

 何故なら、既に少年は、そこに居なかったのだから。

 銃というものは、動く標的ターゲットに当てるのが途轍もなく難しい。

 扱いも知らぬ素人ならば、止まっているものですら当てるのは至難の業。

 そもそもな話、壁などで跳ね返ってくる弾を除いて、銃口の先に居なければ、当たる事などまずないのだ。

 なので、とりあえず動き回ってさえいれば、そう簡単に当たりはしない。

 それも、相手の発砲が遅れるくらい速く、速く動いてしまえば……、

「チクショウ、当たんねぇ……!」

 銃など、音が煩いだけのガラクタだ。

「クソッ! ちょこまかと逃げ回りやがって!」

 少年を目で追う事が出来ない事実に、リーダーらしき男が怒号した。

 一方、敵の銃弾を常に足で躱し続けていた少年は、途轍もないスピードで、尚も邸内のロビー全てを走り回る。

 比喩などではない。その全ての意味するところは地面だけに留まらず、テーブルや棚といった家財道具、銃弾のめり込んだボロボロになった壁。更には……、

「――なっ、嘘……だろ……?」

「一体、どうやってあそこに立ってるんだ……?」


 空中さえも足場とし、飛んできた銃弾を次々と回避していった。


 そのあまりに不可思議な光景に、男達は仰天し、目を見開かせる。

 輝かしい満月を背景に、空中で静止する黒スーツの少年。

 見てみると、その少年の足元には、何やら細い線の様なものが、天井部分を覆い尽くさんばかりに張り巡らされていた。

(ありゃあ、ワイヤーか……?)

 天井を見上げ、リーダーらしき男は更に疑念を抱いてしまう。

 一体どこからあんなものを? 一体いつからあんなものを?

 次々と浮かび上がっていく疑念、疑問。

 その答え、いや、答えと呼べるものかは定かでないが、男の脳に一つの結論の様なものが新たに浮かび上がった。

 銃弾をも躱す敏捷性。

 悉くを足場とし、獲物を撹乱させる狡猾性。

 そして、獲物が油断を見せたその一瞬、確実に命を狩り取る残虐性。

 満月を背にし、血の被ったナイフを両手に、漆黒の闇に染まった瞳で静かに獲物を見据えるその黒い姿――

「――あれが、黒猫ブラックキャット……」

「1、2、3、4……――」

 部屋の明かりと、背に控える月の輝きを利用し、少年は残りの数を目測で捉える。

「――7、8、9……か」

 数え終わったその瞬間、下で憤慨する男達を見下ろしながら、少年は呆れる様にため息を吐いた。

「依頼の内容では、四十人で構成された一味と聞いていたが……。まだこれだけ残っていたとはな……」

 また不備か……。再び少年の口から漏れたため息は、一度目よりも更に深く、長いものだった。

 仕事を依頼するのなら、最低限正確な情報を寄越してほしい。

 特に、『殺し』という危険を伴う仕事を要請するのなら……。

「降りてこいオラァ!!」

「高え所から見下してんじゃねぇぞゴラァ!!」

「煩いな……」

 下の方から、チューチューチューチューと喧しい喚き声が聞こえてくる。

 もうとっとと終わらせてしまおう。

 この後、依頼達成の報告に加え、今回は不備に関する事後処理が待っているのだし。

 ゆっくりしている暇は無い。

 そう思い至るなり、殺し屋『黒猫ブラックキャット』――黒木猫丸は、再度両手のナイフを強く握ると。

 身を屈め、猫の如く、下の獲物に今にも飛び掛かりそうな体勢になりながら、

「鼠共が……、一匹残らず喰い尽くしてやろう」

 力いっぱい、束になったワイヤーを蹴り出した――


   ◇


 ――舞台は大きく移動し、北海道・札幌市。

 朝日が空を照らすと同時に多くの者が起床し、登校や出勤へと動く中。

「お帰りなさいませ、猫丸様」

「ああ……」

(眠い……。時差惚けでもしたか?)

 この男だけが、家路に向かっていた。


 血の付いていないスーツに身を包み、大きめのスーツケースを隣に置きながら、猫丸は走る車の中でうたた寝をしていた。

「往くぞコマコマ! 私に付いてこい!」

「ま、待ってくださいよ紅音!」

 窓の向こうで、次々と擦れ違っていく人物は、大人から子供に至るまで、全員が自分と違う世界に生きる人間だ。

 自分が関わる事など万に一つもあり得ないし、猫丸自身も、彼らと同じ世界に生きようとは思っていなかった。

 今日もいつもの様に、通行人AからZの人達が、自分と逆方向に進んでいく。

 それが彼にとっての当たり前の日常。

 平常で、何の異常もありはしない、通常の朝。

「到着いたしました、猫丸様」

「――……ん? ああ、済まない。寝てしまっていたようだ」

 目が覚めると、車は既に停車しており、視線の先には見慣れた屋敷が立っていた。

 外観だけなら、どこかの富豪の所有物としか思われない様な建物だが、中にはその想像を遥かに超えたものが待ち構えている。

 しかし、それも猫丸にとっては、ただの平常運転に過ぎない。

 何故なら、これこそが彼の家であり、帰る場所なのだから……。

「「「「お帰りなさいませ、猫丸様!!!!」」」」

 ドアが開かれたその瞬間、道を開ける様に並ぶ執事服姿の男達が、揃えられた声と共に出迎えてきた。

 それに対し猫丸は、「ああ」とただ一言応えると、

「ケースに入っている服の洗濯を頼む。汚れの落ちそうにないヤツは、そっちで勝手に棄てといてくれ」

「承知しました」

「空いてる者は武器の回収に向かってくれ。場所は通信係から聞くように」

「承知しました」

 いつもの如く、家の執事達にテキパキと指示を送っていった。

 それを受け取ると、ある者は車からスーツケースを取り出すなり、中に入っている赤黒く染色されたカピカピのスーツを抱えながら走り去り。

 またある者は数人のグループを瞬時に結成し、揃ってその場を後にした。

「豹真は居るか?」

「ハッ、ここに」

 廊下を歩く猫丸の後ろで、他の男達と同じ様に執事服を身に纏い、サングラスを掛けた寡黙そうな男が、まるで最初からそこに居たかの様に応える。

 猫丸自身も、それが当たり前かのように対応して、

「親父は何処に?」

「自室の方で、猫丸様の帰りをお待ちになられております」

「そうか」と、一言で返すや否や、豹真という名の男と共に、長い廊下を迷う事なく歩き続けた。

 しばらくすると、目の前に一つの扉が現れる。

「私はここで。何かあれば、すぐにお呼びください」

 そう言って、豹真は扉の側に移動し、一本の柱の様に立ち尽くす。

 その言葉に応答するや否や、猫丸はノックをすると、その向こうから一人の男の声が聞こえてきた。

「ネコか?」

「ああ、今帰った」

「うっし。んじゃ、とっとと入れ」

 声の主から入室の許可をもらうなり、猫丸は静かにその扉を押していくと。広々とした一室でただ一人。顔面に無数の傷が刻まれた中年期を丁度超えたぐらいの男性が、座布団の上で退屈そうに胡座をかいていた。

「いやー悪かったな、ネコ。急に帰ってくるよう呼び出しちまって」

「全くだ。おかげで向こうで洗濯する暇がなかったぞ。もし、血を落とし切れなかった場合は、また新しいものを買ってもらうからな」

「ハイハイ分かった分かった、そうしとくよ」

 目の前に用意されていた座布団に腰を下ろすなり、猫丸は男の真似をする様に胡座をかく。

 その一方で、ため息混じりに告げてくる息子の言葉に、猫丸の養父、黒木寅彦は笑いながら返した。

 十一年前に猫丸を拾い、以来義理の父としてだけでなく、一人の殺しの師として様々なスキルを彼の体と頭に教え込んできたこの男。

 引退の身である現在は後進育成や斡旋業に勤しんでいるものの、現役時代は近接において右に出る者は居ないと評される程、業界でも指折りの実力者である。

「まあ、今では髪と一緒にすっかり牙も抜け落ちてんだけど……」

「なんか言ったか? ネコ」

「いいや何も。それで? 重要な話ってのは一体何なんだ?」

「ああ、それなんだが――」

 誤魔化すように猫丸が尋ねると、寅彦は一度ゴホンと咳払いを挟んだ。

 やけに神妙な面持ちだ。いつになく真剣である事が伝わってくる。

 わざわざ後に控えてる仕事を家の者に任せてまで帰ってきたのだ。相当な仕事に違いない。

(要人暗殺か? それともどっかの組織の壊滅か?)

 誰であろうと何処であろうと、寅彦直々の仕事であれば喜んで引き受けよう。

 そんな心構えの息子に、寅彦はその内容を伝える。

「遂にあの――『紅竜レッドドラゴン』の所在が判明した」

「!!!!」

 驚愕する猫丸。その衝撃的なニュースに目を見張り、体を前のめりにして食い付きを顕にする。

紅竜レッドドラゴンの……!? それは本当か、親父!」

「ああ、お前も彼奴の噂くらいは知ってるな?」

「勿論……」

 静かに頷くと、予想以上の獲物が飛び込んできた事実を受け入れるように口に溜まった唾を呑んだ。

紅竜レッドドラゴン……。最強と謳われる殺し屋の居場所が、遂に……!)


 その存在は、世界中のどの殺し屋よりも広く知られ、そして恐れられていた。

 性別、年齢、得物、殺した人数。何もかもが一切不明で、未知を形に表した様な殺し屋。

 分かっているのは、その存在を目の当たりにした者は、敵味方関係なく、悉く消されてきたということ。

 そんな中。偶然その仕事振りを目撃し、何とか逃げてきたという者達が現れた。

 いずれも瀕死の重傷を負いながら、彼らは口を揃えて語る。

 ――アレは、文字通り次元の違う存在だ。

 その一言を最期に、目撃者達は何者かに背後から撃たれ、例外なく事切れた。

 この遺言から、裏社会に生きる多くの者達が推察に動いた。

 その殺し屋は、この世のモノとは思えない程の強さを持っているのではないか。そうではなく、例外的な頭脳を所有しているのではないか。本当にそんな奴が居るのか。他にも証言をする者は居ないのか。

 止まることなく、膨れ上がり続ける伝説。それに伴い、未だ高騰を続ける莫大な懸賞金。

 その存在の不透明さ。そして、言葉では言い表す事の出来ない強さから付いた異名。それこそが……――、

 ――『紅竜レッドドラゴン


「しかし、今まで碌な手掛かりも無かった者の所在を、一体どうやって……」

「フフン、長い事この業界に居るとな、まあ色々と耳に入ってくんのよ」

 腕を組むなり鼻に掛けて語り出す寅彦と、偉大な養父を前にしキラキラとした尊敬の眼差しを向ける猫丸。

「だが分かっているのは場所だけ。顔とかそういった詳しい事までは、まだこちらも掴めちゃいない」

「成程……。して、その場所とは?」

 猫丸が問い掛けると、寅彦は懐から一枚のパンフレットを取り出す。

 そして、それが答えだと言わんばかりに手渡して。

「彩鳳高校。俺のダチ……つっても、とっくに足を洗ってるが。そいつが校長をやっている学校だ。お前にはそこに生徒として潜入してもらい、調査――果ては暗殺まで行なってもらいたい」

「学校……」

 手元にあるパンフレットの表紙に印刷された白い建物を見た後、猫丸はそのページを一枚一枚捲っていく。

 記載された写真や紹介文に目を通していく毎に、本当にこんな所にあの伝説の殺し屋が居るのだろうかという疑問と、それとは別にある一つの想いが胸を衝いた。

 一生関わる事は無いだろうと思っていた表社会――それも学校という極めて特殊かつ決して自分とは相容れない環境に、まさか自分が足を踏み入れる時が来ようとは。

 動揺しつつも、冷静さを取り戻すように猫丸はそのパンフレットを一度閉じて。

「了解した。すぐに豹真達を呼んで、準備に取り掛かるとしよう」

「待てネコ!」

 寅彦が突然、立ち上がろうとする猫丸を呼び止めた。

「その必要は無ェ。既に転入の手続き、制服や教材等の用意といった諸々の準備は済ませてある」

「そうだったのか? 用意がいいな、なら……」

「そしてもう一つ! 重要な事だ」

 すぐさま行動に移ろうとする猫丸を再び呼び止めると、寅彦は一度「こっちにこい」と手招きして。

「実はこの話、まだお前以外には伝えちゃいねェ。というか、伝える予定も無ェ」

「……? 何故だ?」

「こいつは極秘任務ミッションだ。相手は伝説にして最強の殺し屋。ウチのモン総出で現場に駆り出せば、甚大な被害が出るのは必至。それに情報をくれたダチからも、『隠密で』と頼まれている」

「隠密……か」

「潜入先は学校。つまり表側の領域だ。一般人である生徒や教員共に悟られる訳にゃあいかねェ。それにイレギュラーを防ぐ意味でも、豹真達や他の殺し屋共に情報は流せねェ」

「豹真達にも、か。成程……、理解した」

「いい子だ」

 仲間に対して非情とも取れるが、外部への情報の漏洩を危惧した上での判断だ。

 幼少期から長年共に過ごしてきた豹真達の事を想うと心苦しいが、それはきっと寅彦も同じだろう。

 ならば何も言わず、その意に従うのが自分の役目である。

「執行は明日。さっきも言ったが、必要なモンは全て揃えてある。豹真達には俺からうま~く言っといてやるから、お前はもう休め」

「ああ、そうさせてもらう」

 父から最後の指示を受け取ると、猫丸は潜入先のパンフレットを懐に仕舞い、そのまま部屋を後にする。

 再び自室で一人だけになる寅彦。扉の向こうに消え、静かに歩き去っていく息子を見送るその父親の顔は、何故か不敵な笑みを浮かべていた。


   ◇


 ――淡く、鴇色に染められた桜の花びらが、一枚一枚、ゆらりと風に運ばれる。

 五月になって、桜が本領を発揮するのは、北海道ではよくある事例だ。

 長過ぎる冬が春の一部を飲み込んだせいで、限られた時間でしか咲く事を許されない。

 そんな、満開にもなれない花木達に今、猫丸は囲まれていた。

「ここか……」

 目の前に白い、大きな建物が聳え立っている。

 窓ガラスが五つ縦に並んでいる事から察するに、ここは五階建てなのだろう。

 塀を超え、周囲に並ぶマンションと比べると高さはそれ程でもない。だがこの建築物は面白い事に、その高いとも低いとも言えない高さを補う為か、途轍もなく長い棒が十字型に交差している様に造られている。

 上空から見ると、その巨大な姿はまるで大空を羽ばたく白い鳳。

 ここが学校。ここが父、寅彦が通えと言っていた、彩鳳高校。

 なるほど、これなら大人数で居たとしても、中に収容出来そうだ。

(本当に……ここにあの紅竜レッドドラゴンが?)

 翌朝を迎え、執事達に登校を見送られ、標的ターゲットが潜んでいると言われる現場を眼前にしつつも、未だ半信半疑でいる猫丸。

 しかし、いつものスーツ姿とは違う、制服と呼ばれるその装束がほんの僅かだけ迷いを払拭させる。

 ワイシャツの上から紺を基調としたブレザーが羽織られ、ベルトで締め付けられたスラックスが、猫丸の腰から下を隙間なく、完璧に包み隠している。

 最後に首元から赤い単色のネクタイが垂れ下げられれば、その姿格好は、正しく歳相応の学生そのものだ。

 が、それはあくまで見掛けだけ。その裏地にはナイフをはじめとするいくつもの凶器が隠されており、両手にはワイヤーを使用する際に掌を切らぬよう指抜きのグローブが嵌められ、静かに獲物を狩る準備が施されていた。

(――! 人が増えてきたな……)

 静止したまま、無言でその建物を眺めている猫丸の横を、次々と同じ制服を身に纏った者達が通り過ぎていく。

 中にはスラックスではなく太腿に掛かる程度の短いスカートを着用し、ネクタイの代わりに、同じ色をしたリボンを首から下げている者も居たが、彼らにはある一つの共通点が存在していた。

 全員、目の前を行く少年少女全てが、猫丸と同年代の人間だったのである。

「百、二百……。いや、もっとか」

 学校は疎か、幼稚園や保育園にも通った事のない猫丸にとって、これ程の人数の、自分と同じ歳の位の人達が一堂に会するというのは、とても想像の出来ないものだった。

 一人も寄り道する事なく、同じ入り口へと足を運んでいく。

 どうやら、あそこが玄関らしい。

 猫丸は彼らの真似をする様に足を進めると、目の前で何度も開閉されていたガラスドアに手を掛け、それをゆっくりと押していった――


 ――履き慣れない上靴に足を入れ、カバンの持ち手を右手に握りながら、猫丸はとある場所に向かっていく。

「そう緊張しなくても大丈夫だぞ。皆優しくて、いい子達ばかりだからな」

 ずっと無言でいるのを不思議がられたか、隣を歩く、勝ち気そうな女性に声を掛けられた。

 歳はそれ程離れていない様に見えるが、身に纏っている服装が明らかに違っている。

 自分と同じ制服ではなく、仕事先でもよく見掛けられた、黒のスーツ姿。

 彼女は、自分が担任を務めているという二年三組の教室に猫丸を案内すると、扉の前で立ち止まる。

「それじゃあ、私は先に中に入るから。黒木さんも、私が呼んだら入ってくれ」

 その要求に対し、猫丸は「ハイ」と返事をすると、女性は頷くなり、扉を開けて、その中へと歩いていった。

 何やら向こうからガタガタと物音が聞こえてくるが、その後何事もなかったかの様に、つい先程まで目の前に居た女性の話し声が。

「早速だが、今日は皆に重大なお知らせだ。なんと! このクラスに転入生がやって来たぞ!」

 その瞬間、今度はザワザワとした雑音が、耳に飛び込んできた。

 多数の視線が壁を介し、こちらに向けられているのが感じ取れる。

「んじゃ、今から紹介するから。入ってきて、黒木さん」

 先程と同様に、猫丸は「ハイ」と返事をすると、扉に手を添え、ガラガラという音と共に入室した。

 四十はあろう集団の視線が、まるでリンチを掛ける様に、猫丸に集まっていく。

 別にどうという事はない。今までにもこういった経験は幾つもあった。

 付け加えると、過去にその視線を向けてきた者達は例外なく、その手に得物を握らせていた。

 それと比較すれば、あんな手ぶらで、暢気に椅子に座っている無防備な連中の視線など、大して気にする程じゃない。

 常人離れかつ常識離れした理由により、転校生にしては珍しく、一切の緊張を見せない猫丸。

 一方、そんな不思議な少年を見て、教室に居る生徒達の反応は……。

「なんだ、男じゃん」

「何で手袋なんか履いてんだ? しかも指抜きの……」

「ねえ、ちょっとアリじゃない?」

「え? う、うん……。そーだねー……」

 各々が思い思いに感想を並べていた。

 まるでこちらを品定めでもするような声や視線に、猫丸は若干不愉快に感じつつ。

(そういえば、親父からは生徒達を巻き込まないよう言われてたな。それなら……)

 教卓の横で足を止めると、悠然と構え、目の前に並ぶクラスメイト達に向け。自分の正体を隠し、かつ自然に周囲に安全を呼び掛けるように……。


「黒木猫丸だ。先に警告しておくが、死にたくない者は俺に近付くな。以上」


 堂々と自己紹介をした。それも、本名で。

 偽名を名乗ろうかとも一瞬考えたが、あの父がまさかの本名で届け出を出していた事を思い出し、すぐに選択肢から除外した。

 自分より圧倒的に長く業界に居るくせに、そんなミスをやらかすとは。

 極秘で動いているのだから、そういった事は気を付けてほしい。

 寅彦の失態に、猫丸が呆れたようにため息を吐いていた――その頃。

 教室の空気は突如として一転し、何やら異様なモノへと変貌を遂げていた。

「ほ~~~~。んじゃ、黒木さんはそこの空いてる席に座って」

 何故か眼を輝かせている担任教師が指を差すそこは、一番奥に位置する、誰も座っていない窓際から二番目の席。

 日差しがよく当たり、とても暖かそうな場所だ。

「分かりました」

 指示に従い、猫丸はゆっくりと足を進める。

 通り過ぎていった者達が次々と方向転換を始め、尚も視線を飛ばしてくるが、一切気にはしなかった。

「近付くなって……なんだアイツ?」

「なあ、まさか二人目って事は……」

「おいおい、そりゃ勘弁だぞ。ただでさえ一人でも厄介だってのに……」

 何やらヒソヒソと話しているようだが、耳を貸す程のものでもないだろう。

 そんな事より、今はとっとと着席して、今後どうするべきかを考えなければ。

(まずは誰が紅竜レッドドラゴンなのか突き止めなくてはな)

 それが出来なければ何も始まらない。だが大体の当たりは付けられる。

 裏社会における恐怖の象徴ともいえる殺し屋が、学生だという線は限りなく薄い。女という線も切り離していいだろう。

 となると、可能性が高いのは男性の教師か……。

 いや待て。標的ターゲットを捜索するのはいいが、自分の正体がバレるのを一番に気を付けなくては。

 初めての環境に身を置くのだ。いつも通り冷静に動きさえすれば、トラブルが起こる事は無いだろう。

 まずは今日一日、この環境に溶け込む事から始めるんだ。

 頭をフルに回転させ、自分の置かれた状況を整理すると同時、目的達成までのプロセスを組み立てていく猫丸。

 ようやく自分の席に到着し、カバンを机の横にあるフックに引っ掛け、椅子に手を伸ばそうとした。その時――


「――フッフッフ……、よもやこんな所で邂逅を果たすとは……」


 突然、薄気味悪い奇妙な笑い声がボソッと聞こえ、猫丸はその方に体を向けた。

 すると、隣の席に座っている少女が、眼を閉じ、腕を組みながら、不敵な笑みを浮かべているのが分かった。



(何だ、この女は?)

 その様を一言で表すなら、妖しさが服を着ている様な少女だった。

 椅子に座っていてもよく分かる、小柄で華奢な体格。

 歳に似合わず、幼さが全面に浮き出た顔立ちに、ニヤケ口からひょっこりと顔を覗かせる小さな八重歯。

 セミロングの黒髪に、左右で短くすくい取るようにまとめられたツイン。そこに更なるアクセントを加えるように付けられた、煌めく十字架のヘアアクセサリー。

(怪我でもしているのか? やけに念入りに巻かれているが……)

 少女の右腕を見て、猫丸は一瞬気になった。

 袖口から見える白い包帯が、少女の腕から掌にかけ、覆い尽くさんばかりに巻き付けられているからである。

 これではペンを握るのも難しいだろう。そう思っていた矢先の事。

 バンッ! と、その心配を真っ向から否定する様に、少女は両手で机を叩きながら立ち上がった。

 その勢いで、椅子は脚を引き摺りながら倒れてしまう。……が、少女はそれを一切気にも留めず、左右にそれぞれ漆黒と真紅を宿した瞳で見据えながら、


「我が名は竜姫紅音! 待っていたぞ! 私と同じ、闇を生きる者よ!」


 左腕を真っ直ぐ伸ばし、自身の名を叫ぶと共に、その細い人差し指で猫丸をビシッと指してきた。



 静寂の教室。猫丸と、突然名乗りを上げてきた謎の少女・竜姫紅音を除く三十八人の生徒達は、目の前で起こった出来事に言葉を失った。

 それと同時、その三十八人全員の頭の中に、ある思いが一致する。

((((また始まった……))))

 見ているこっちが恥ずかしい。

 湧き上がる様な共感性羞恥が全身に襲い掛かり、居た堪れない気持ちでいっぱいになる。

「ハッハッハ! 相変わらず元気がいいな~、竜姫は」

 口を満開させ、大きく声に出して笑い上げている担任教師。

 何を笑ってるんだ。この状況を見て、何とも思わないのか。この人には羞恥心というものがないのか。頭がイッちゃっているのでは等々、教師を見る生徒達の頭の中にそれぞれの疑問が浮かんでいく中。

(さっきから何を言ってるんだ? この女は……)

 猫丸この男だけが、別の事に疑問を抱いていた。

 出会ってすぐ、意味の分からない事を叫びながら、自分の名を語ってきた謎の少女。

 その無理矢理な距離の詰め方により、猫丸は早速、目の前のクラスメイトに苦手意識を抱いてしまう。

「む? どうした、そんな面妖な生き物を目の当たりにした様な顔をして」

 振り返ってから何も発さず、ずっと固まったままの猫丸に、紅音は首を傾げる。

 その直後、ポンッと急に手を叩くなり、まるで自己完結する様に、うんうんと何度も頷いて。

「ああ成程、私の気迫と覇気溢れる自己紹介に、圧倒されてしまったのだな。フッ、私とした事が……」

 その時、猫丸の肚の中で、ムカッとする感情が煮え始めた。

 理由は分からないが、何やらこの少女に下に見られた様な気がする。

 何だろう、今すぐこのニヤけ面をぶん殴ってやりたい。

 そんな思いが、体の中で沸々と湧いていくと。

「さっきから訳の分からない事をベラベラと……。お前は俺をおちょくってるのか?」

 自然と、猫丸の口から声が発せられた。

 何故だろう、この女には反発してやらないと気が済まない……。こっちが黙ったまま、一方的に口を開かれるのが、不思議と苛立ってしょうがない。

 こんな気持ちになるのは、生まれて初めての事だった。

 ようやく猫丸が返答してくれた事に、紅音の方もパッと顔を明るくさせる。

「おちょくってなどいない。ただ私は、自分の力を押し殺せない事に対し、猛省しているだけ……」

「その発言が、俺をおちょくってると言ってるんだ」

「フッ、私もまだまだだな……。出会って間もない相手に、我が深淵の一端を見せ付けてしまうなんて」

「いちいち人をイラつかせる奴だな。お前のその煩い口を、力尽くで閉ざしてやってもいいんだぞ?」

 やや雰囲気は良くないものの、会話? が弾み、教室の端という狭い空間の中で、猫丸と紅音、二人だけの世界が構築されていく。

 一方で、それを傍から見物しているクラスメイト達は、互いの目を見合わせながら、困惑してしまう。

「なあ、何かまた竜姫が自分のゾーンに入っているぞ……」

「でも、あっちの転入生の方は、何だかまともな感じがするな。やや喧嘩腰だけど、竜姫の意味不明な言動にも、普通に動揺しちゃってるし」

「もしかしてアイツ、自己紹介はああだったけど、実は結構良識的なタイプなんじゃ……」

 第一印象と一変し、彼らの頭の中で、猫丸の評価が少しずつ上がっていく。

 そんな事は露知らず、猫丸は目の前の少女に青筋を立て、仄かに殺気を顕にしていると。

「そう怒るな。私は嬉しいのだ。私と同じ、陽の当たる事のない、漆黒に覆われた世界の住人に逢えた事に……」

「また意味の分からない事を……。俺がお前と同じ世界の住人だと?」

 少女の言葉に、思わず問い掛けてしまう猫丸。

 そんな彼に、紅音はコクリと頷いて、


「そう、私も貴様と同じだ――ブラックキャット」


 その鋭い双眸を合わせながら、そう告げた。

「ブラックキャット……?」

「名前略しただけじゃねーの? 単純に。ほら、あの転入生の名前、黒木猫丸って言ってたし」

 教室に居る生徒の誰かが、いち早く紅音の発言の意味を理解し、周囲の人間に伝えていく。

 事実、その者の言ってた事は正しかった。

 紅音が言ったのは、ただの猫丸の名前の略し言葉。

 それ以上でもそれ以下でもない。ただの縮小化された、あだ名だった。

 しかし……、

(今、何て言った……? 『黒猫ブラックキャット』と言ったか……?)

 二人の世界の外側に居た、赤の他人であるクラスメイト達が、次第に気付いていく中、

(この女……。何故、何故……!)

 この男だけが、略称を告げられた当人である、この男だけが……――、


(何故!! 俺のコードネームを知っている!?!?)


 ただ一人、気付いていなかった。

 体中に電流が走った様な衝撃を受け、足の指先から髪の毛先まで全てが硬直し、動かなくなってしまう猫丸。

 目を見開き、表情は固くなり、背中の冷や汗が滝の様に止まらなくなった。

 猫丸をあだ名で呼ぶのは、父を含め、限られた親しい仲でしか存在しなかった。

 呼ばれていたあだ名も、『ネコ』というたった一つしか存在せず、それ以外の呼び名で呼称される事は、人生で一度たりとて無かったのである。

 また、彼のもう一つの呼び名である『黒猫ブラックキャット』も、積み重ねてきた実績により元々所持していたコードネームが『色』を冠し、殺し屋業界に留まらず裏社会全域に広まったモノ。

 したがって、

(まさか……いや、間違いない……この女――)

 彼をその名で呼ぶ者は、

(――俺と同じ世界の人間だ!!)

 それ以外にあり得ない。そう、あり得ない事だった……。

(まさか、一番危惧していた事が、早速暴かれてしまうだなんて……!)

 想定外の急展開に、焦りを隠せずにいる猫丸。

 動揺、焦燥、混乱、困惑。ありとあらゆる精神攻撃が一斉に襲い掛かり、猫丸の思考と判断を鈍らせる。

「お前……一体何者だ!?」

 自然と手が腰に隠されたナイフに添えられ、今にも殺しに掛かりそうな猫丸は、思わず、対面する少女に正体を訊いた。

 たった一人だけ違うテンションに、周囲のクラスメイト達は再びドヨドヨとし始める。

「お、おい……、何か『何者だ』とか訊いちゃってるんだけど……」

「嘘だろ……。せっかくまともな奴がやって来たと思っていたのに……」

 落胆するクラスメイト達。しかしその一方で、ここにまたしてもただ一人、他の者達とは違った反応を見せる者が。

「何者だ……か。フッフッフ、そうだな。折角だ、貴様には明かしてやるとしよう」

 先程までとは一変した、猫丸の驚き様に感化され、紅音も段々とテンションが上がってくる。

 一度は言われてみたかったセリフ「一体何者だ」。それは、彼女の持つ琴線に濃厚なまでに触れ、紅音の勢いは増すばかりであった。

 それが、二人の運命の歯車を大きく狂わせるとも知らず……。

「諦聴せよ! そしてその名を脳に刻み、畏敬をもってひれ伏すがいい!」

 鋭い眼光で猫丸を射すくめ、紅音はブレザーをマントの如く翻す。

 埃混じりの風の中、彼女は顔を隠すように右手を添えると、その五指から覗かれる双眸で真っ直ぐに眼前に立つ同志の姿を捉えたまま、


「我はレッドドラゴン!! 生きとし生ける者の絶対的頂点にして、世界の寵愛を一身に受けし超越者なり!」


 高らかに、そう叫んだ。

 再び静寂が教室を包み込む。

(あー……恥ずかしい……)

 呆れたようにため息を吐く者。無関心を貫こうと視線を向けない者。朝から元気がある事を関心に思う者など、一つの空間内で各々が様々な反応を示していく中。

 その名乗りに最も過敏な反応を示したのは、


レッド……ドラゴン…………!?!?」




 事実、猫丸であった。

 全身から止め処ない冷や汗が噴き出る。思わず瞬きを忘れてしまう程に眼はかっぴらかれ、体中の毛が逆立つのがよく分かった。

「そんな……、まさかお前が……あの伝説の……?」

「フッ、そう。私があの! 伝説の! レッドドラゴンだ。やれやれ、やはり貴様の耳にもこの名は轟いていたか」

 震え声での猫丸の問いに、紅音は腕を組みながら自慢げに答える。

 衝撃的事実を前に、猫丸の思考はショートする目前まで迫っていた。

 一体誰が予想出来ただろう。まさかこんなにも早く、標的ターゲットと鉢合わせる事になるだなんて。

 しかも、向こうからこちらに接触し、あまつさえ正体まで明かしてくるなど誰が予想出来ただろう。

(ど、どうする……? この女、ここで殺すか!?)

 もしここが自分達二人以外居ない空間なら真っ先に武器を取り出し、戦闘態勢に入りたいところだが、生憎ここは教室。三十八人の生徒と一人の教師の目がある。

 武器は勿論、素手による攻撃すらここでは封じられてしまう。

 せめて、野次馬の目さえ無ければとも考えたが、紅音が注目を浴びるような名乗りを上げてしまった為、それも叶いそうにない。

(戦わずしてこちらの思考・行動に制限を掛け、短時間で戦場を支配、掌握してしまうとは。これが最強の殺し屋……)

「おーい、お二人さーん。仲良くやってるとこ悪いけど、そろそろホームルーム終わらせないといけないから。その辺で切り上げてくんなーい?」

「……ハッ!」

 担任の呼び声に、一瞬冷静さを取り戻した猫丸。

 急にドッと、体の力が抜けていった気がした。

「フッ、どうやら、続きはお預けと言ったところか」

「…………」

 満足げな表情を見せ、ふっ飛ばしてしまった椅子をいつの間にか元に戻してくれていた隣の女子生徒にお礼を言うと、紅音はゆっくりと着席する。

 それに合わせ、猫丸も自分の椅子を引きながら、そこに腰を下ろした。

 ようやく場が落ち着いたのを確認すると、担任教師は目の前に並ぶ、計四十人の生徒達に話を始めた。

「えー、早速色々と面白い事になってた訳だが、黒木もここに来たばっかりだし、分からない事も多いだろう。その時は、皆が優しく声を掛け、助けてあげるようにな――!」

 終わりを告げるチャイムが鳴るまで、話を続ける担任教師。

 各々がその言葉に対し、複雑な心境を抱えていく中。

(どうする……? まさかこんな形で標的ターゲットと出くわすとは思ってもみなかった。今すぐ殺すべきか? いや、人の目がある以上、迂闊に動く訳には……。しかし先手を打たれているのだし、ここは迅速に対応して……。いいやでも――!)

 猫丸は今も尚、隣に座る紅音の処理に頭を悩ませていた。

 こうして、猫丸という殺し屋兼高校生の、一人の少女へ向けた勘違いの連鎖が、幕を開けた。


   ◇


 ――一限目。

 チャイムの音が鳴り響くと同時、猫丸にとって人生初めての授業が開始された。

 最初の授業は英語。担当の教師が全員に教科書を開くよう指示すると、あちこちからページを捲る音が聞こえてくる。

「はい、では前回に引き続き、仮定法の勉強を行っていきます。まずおさらいですが……――」

 教卓に位置し、教科書に記述されている内容を読みながら、教師が黒板にその要点を書いていく中。

(クソッ、まさか最初から躓く事になるだなんて……。それもこれも、全部この女のせいだ……!)

 猫丸は、授業に全く集中出来ていなかった。

 唐突な出来事に困惑し、頭を抱えたまま眉間に力いっぱい皺を寄せてしまう。

 一応指示されたページは開いているものの、教科書の隣にあるノートには一切手が加えられておらず、見事なまでに真っ白な状態。

 右手に握られているペンも、文字を書く為の通常品ではなく、事前に筆箱に仕込んでいた暗殺用のシークレットナイフであった。

(一見、平然と授業を受けている様だが……。ついさっき、俺の正体を暴いた挙げ句、自分の正体まで明かしてきた奴だ。心の奥底で、何かしらまた企んでいるに違いない……)

 自分の隣の席に座る少女を何度も一瞥しながら、頭の中で幾度となく思考を繰り返す猫丸。

 その表情はどんどんと強張っていき、知らず知らず、近寄り難い雰囲気を醸し出してしまっていた。

「おい、あの転入生めっちゃ怖い顔してんぞ……」

「ヤベーよアレ……。今にも人殺しそうな雰囲気じゃん……」

(私か? 私の授業がつまらないせいか? 私の授業がいけなかったのか!?)

 教師を含め、教室に居るほぼ全員が、猫丸の体から溢れ出る威圧感に押され、冷や汗で背中をベッタリと濡らす。

 その様な事態に気付かぬまま、猫丸は自身をこんな状態に貶めた元凶、紅音の動きを監視し続けた。


 ホームルーム終了後、紅音を自身の標的ターゲットである最強の殺し屋『紅竜レッドドラゴン』と知った猫丸は、自ら紅音の調査を行っていた。

 家の者に増援を依頼する選択肢もあったが、寅彦から極秘で動くよう言われている以上、安易に頼る訳にはいかない。

 そもそも、自分が抜けた穴を埋める為、家は今総出の大忙し状態なのだ。

 たとえ事情を隠すにしても、流石に無理を言って人数をこちらに割いてもらうのは、猫丸にとって非常に申し訳ない事だった。

(俺一人で乗り切るしかないか……)

 こうなってしまった以上、もう迂闊には動けない。慎重に事を運ばなければ、痛い目を見るのは自分だ。

 もし戦闘に発展したとしても、今ある武器で対応出来るかどうかは正直疑問だ。

 相手がどれ程の力量の持ち主なのか不明である以上、まずは情報収集に専念せねば。

 今自分が為すべき事を頭の中で整理し、猫丸はいつ紅音が動き出してもいいように構えながら、その様子を観察する。

 そして遂に、紅音に動きが――!

「『Sana started talking as if she had used to live in New York.』――ではこの英文を、誰かに訳してもらいましょうかね。ええとでは……」

「ハイ!」

 黒板に書かれた英文を読んだ後、誰かにそれを和文に直してもらおうと教師が振り返ったその時。元気のいい声と共に、紅音が天井に向けてその右手を真っ直ぐに伸ばす。

 当然、猫丸もその姿を見逃さなかった。

「あー……ハイ。じゃあ竜姫さん、お願いします」

「フッ、さあ皆の者! 刮目して聞くがいい!」

「紅音紅音、聞くだけなら刮目する必要は無いのでは?」

 困惑の反応を見せる教師と自信満々に宣言する紅音、冷静にツッコミを入れる隣の眼鏡を掛けた少女。

(何だ、ただの和訳か……。まあ、これくらい問題ないか)

 張り詰めていた緊張感から解放され、猫丸は一度安堵する。そして、教師が黒板に書いた英文を見るや否や、瞬時に解答を頭に思い浮かべた。

 全世界が仕事場となる以上、殺し屋にとって、公用語として利用される事の多い英語の修得は必須。

 当然、難なく答えられるだろうと思っていた猫丸は、紅音の和訳に耳を傾けると。

「『サナ! よくも私達を裏切ったな!』『おや? どうしましたかキャサリン、凄い剣幕ですよ?』『とぼけるな! アンもロバートも、貴様を仲間だと信じていた! 勿論私だって……』『生憎ですが、私は一度たりとも貴方達を仲間と思った事はありません』『き、貴様ァァァァァ!!!!』――」

「あの、もういいですよ竜姫さん……」

 まるでサスペンスドラマのワンシーンのように熱く叫ぶ紅音に、教師が慌ててストップを掛けた。

「むう……、まだ途中だったのだが」

 不満気に口を尖らせながら着席する紅音。

 そのあまりの間違いっぷりに、自分が思い浮かべていた解答と似ても似つかぬ解答に、隣に座る猫丸は思わず唖然としてしまった。

 勿論、その反応を見せたのは猫丸だけではない。

 紅音を除く全てのクラスメイト達と、その紅音に和訳を命じた教師までもが何も言えぬまま一斉に頭を抱えてしまう。

 凍り付く空気の中。授業を進める為、教師は切り替えるように一つ咳払いした後。

「えーっと、じゃあその隣の……。黒木さん、代わりにこの和訳をお願いします」

「えー、『サナはまるで昔ニューヨークに住んでいたかのように話し始めた。』」

 指名を受けた猫丸が立ち上がるや否や淡々と正解を返した事で、その波乱で珍妙な掛け合いは幕引きを迎えた。

「ありがとうございます……。着席してください」

(ふ、普通に終わったな……)

(あ、ああ……。まあ、それで全然いいんだけどさ)

 てっきりもう一波乱起こるかと思えば、意外な結果に終わった事に生徒達の口から安堵の吐息が放たれる。

 猫丸がそのクラスの空気に、なんとなく違和感を覚えていると、隣の調査対象から話し掛けられた。

「フッ、中々やるな、ブラックキャット」

「これくらい当然だ。それより何だ、さっきのふざけた解答は。あんな滅茶苦茶な和訳、とても聞くに堪えなかったぞ」

「フッ、アレをただの解答と勘違いするとは……。貴様もまだまだだな」

「何だと……?」

 急に下に見るような発言をしてきた為、猫丸は苛立ちを顕にする。

「なに、貴様のような迷い猫に、私なりにメッセージを伝えたまでだ」

「メッセージ?」

 不敵な笑みを浮かべる紅音。その表情、その言葉に猫丸は何とも言えぬ怪しさを感じると、先程紅音が和訳した内容をノートに起こし、更に英文にも直してみる。

 当然、そこには何の意味も記されていない。無駄足だったかと、猫丸は改めて教科書に目を遣る。

 すると、ある共通点が存在していた事に気が付いた。

(……! Sana、Catherine、Anne、Robert……。全部この教科書の登場人物!)

 ただ適当に連ねた名前ではないと分かるなり、猫丸は急いで教科書の内容に目を通していく。

 ザッと読んでいくと、主人公のサナが日本からニューヨークの高校へと転入し、キャサリンやアンといった友人を作り、そこから沢山のコミュニティを築いていくという話がこの教科書で描かれている事が分かった。

 先程猫丸が和訳した内容も、早く色んな人と仲良くなりたいと思ったサナという少女がクラスメイトに親近感を持ってもらおうと、自己紹介で見栄を張ってしまうというワンシーンだ。

 決して紅音の和訳のような、殺伐とした話ではない。

 更にページを捲っていくと、次々と新しい人物が教科書にその名を連ねていった。

 Edward、Drake、Yosuke、Cameron、Aaron、Toka……。

 登場人物はこれで最後。しかし、これだけでは紅竜レッドドラゴンの言うメッセージが一体何なのか分からない。

 きっとまだ何か法則がある筈。

(奴が俺に伝えたというメッセージ。おそらく何か暗号のような形にして……)

 意味など無いのかもしれない。しかしそれでも、猫丸は考える事を止めなかった。

(登場順にそれぞれの頭文字を並べてみるか?)

 そう思い至るなり、猫丸は早速一人ずつ試してみると。

(S……C……A……R……――)

 そこに記されていたのは、


『SCAREDY CAT(臆病者)』


 猫丸に対する、最大級の侮辱であった。

「なっ……!?」

 思わず驚きの反応を洩らす猫丸。自然とペンを握る手にも力が入り、バキッという激しい音が教室中に響いた。

(この女、俺を臆病者だと!? 舐めた口を……!)

 挑発されたと思い込み、猫丸はどんどん顔を顰める。

 苛立ちが抑えられず遂には殺気がだだ洩れとなってしまい、教室の空気をまた一度凍り付かせた。



 ――二限目。

 ジャージに着替えた猫丸は、クラスの仲間達と共に、体育館へとやって来た。

 広々とした空間を分ける様に、巨大なネットが間を仕切っている。

 どうやら、今度の授業は男女別々に執り行われるらしい。

「おっしゃナイッシュー!」

「戻れ戻れお前ら!」

 同じ服装をしたクラスの男子達が五人のチームに分かれ、互いにボールを取り合っている。

 全身をフルに使い、何度も地面にボールを叩きつけて跳ねさせたまま敵陣に突っ込むと、相手チームが守護するリング目掛け、そのボールを放り投げた。

(これがバスケットボールか……。初めて観たな)

 壁に背を預け、端の方で観戦しながら、猫丸は競技の仕組みを学習する。

 ある程度理解すると、今度はネットの向こうで行われている競技に目を遣った。

「はーい、パスパス!」

「アタック来るよー! 構えて!」

 掛け声に合わせ、一チーム六人の少女達が、同じく一個のボールを扱い、点数争いをしている。

 こちらと大きく違うのは、自陣と敵陣との間に仕切りがある事か。

 宙に打ち上がったボールが叩かれ、向かいの陣地に物凄い速さで送られる。

 すると、一人の少女が両腕を巧みに使ってそのボールの勢いを上手く殺し、高く打ち上げたボールを、今度は別の少女が同じ様に敵陣に叩き付けた。

(アレがバレーボール……。成程、反射神経と体の使い方を鍛えるには、中々いいスポーツだな)

 過激的応酬を目にし、表社会にも面白いものがあるなと感心する猫丸。

 そんな彼の視線の先で、ようやく目的の彼女が動き出した。

「紅音! 行きましたよ!」

「うむ! 任せろ!」

 掛け声に合わせ、紅音は大きく手を伸ばす。

 丁度彼女の真上には、味方のレシーブによって打ち上げられた、ボールがあった。

「フハハハハハハハハハハ! さあ、天から舞い降りし黄珠よ! その身を預け、我が手元に還るがいい!」

 声を張り上げながら、宙にあるボールに向けて手を掲げ続ける紅音。

 彼女の望み通り、ボールは重力に逆らう事なく、そのまま紅音の元へと落ちていって……。

「――キャウン!!」

 そのまま、彼女の両手を素通りし、額に勢い良く直撃した。

 赤くなった額を手で押さえ、痛みに悶絶する紅音と、その様子をただただ無言で見据えるクラスメイト達。

「ううっ……、いっ、痛い。この私に傷を付けるとは、流石は神の寵愛を受けし黄珠よ……」

「オーバーハンドパスは、ただ手を上に向ければいいってものじゃないですよ、紅音。ちゃんと両手の親指と人差し指で三角形を作って、しっかりボールを受け止めないと」

「むーん……」

 眼鏡少女に起こしてもらいながら、紅音は難しそうに首を捻る。

 その様子を静かに眺めていた猫丸は、

紅竜レッドドラゴン、なんだその動きは……。見苦しいにも程があるぞ)

 まさかの姿に疑念を、不審感を抱いていた。

 あの伝説とも謳われている殺し屋が何たる様か。

 反応も動きも、明らかに周囲の一般人達のそれを下回っている。

 最強と称される程なのだから欠点など何一つなく、球技に関してもてっきり腕に自信のあるものだと思っていたが。

「危機察知能力もまるで感じられん。眉唾だったか……?」

「転入生! 出番だぞー、早く来い」

 呼び声が聞こえ、その方を見てみると。既に味方と、相手チームが向かい合ったまま並んでいる。

 呼んできたのは、彼らの間に立つ審判役の体育教師の男だ。

 呼び声に応じ、猫丸は彼らのもとに走っていく。

 試合前の一礼を終え、それぞれが配置に付き始めると、すぐに開始の笛の音が鳴った。

 ボールを巡り、一斉に走り出す敵味方達。

 それに対し、猫丸は棒の様に立ち尽くしていると。

「転入生! 頼む!」

 敵に囲まれていた味方から、持っていたボールを渡された。

 受け取ったボールを、とりあえず先程のクラスメイトの見よう見まねで地面に叩きつけてみるが、戻ってくるボールに動きを制限され、上手くその場から離れられない。

「意外と難しいな……」

 人生で初めてやる球技。触れた事すらない大きさのボールに苦戦していると、敵チームの二人が正面からやってくる。

「うっしゃ行くぞ、陽太!」

「おう! 覚悟しろよ中二病野郎!」

「!?」

 走り出す二人の男子生徒。

 襲い掛かってくるその姿に猫丸は驚き、咄嗟に後退りしたその直後。

 一瞬の内に中央突破し、すれ違いざまにワイヤーでその二人組を拘束した。

「「!?!?」」

「――あっ。しまった、つい……」

 跳ね上がったボールが床に着地すると共に、二人組の体が勢いのままに倒れる。

「ちょっ、なんだコレ!?」

「なんか変なモンが巻き付いて……。ちくしょう、全っ然動けねェ!」

 もがく二人を背に、反射的にワイヤーを取り出してしまった事をひっそりと反省する猫丸。

 周りの者は何が起こったのかよく分からなかったようなので一旦素知らぬ顔で通す事にし、再びボールを確保すると。

(こうなったら、もう直接ゴールを決めるしかないな)

 また誰かがボールを取りに来たら、反射的に得物を取り出してしまいそうだ。

 仕事の為目立たないようにする以上、このままドリブルで行くのは得策ではない。

 かといって、この距離からこんな大きなボールを投げてみたところで、確実にゴールに入るとも限らない。

(――そうだ。リングに入れるだけなら、別に投げる必要もないじゃないか!)

 思い付くと同時、猫丸はバウンドを中断すると、ボールを片手に持ったまま両脚に力を込め始める。

 突然止まった猫丸を見て、残りの敵チームのメンバーが接近を試みようとした――次の瞬間。

 猫丸は跳躍し、ゴール目掛け弧を描くように宙を舞った。

 距離にしておよそ5m。高さは3mを優に超え、目標地点よりも高い所からそのボールをリングの間に叩きつけ。

 ガコンッ! という力強い音が体育館中に響き渡り、ボールと共に猫丸は着地する。

「よし、これで得点……――ん?」

 振り返ると、多くの者が自分を注視している事に気が付いた。

 それは味方や敵に留まらず、審判役の体育教師、観戦していた男子生徒にネットを介して観ていた女子生徒達。

 その人間離れしたパフォーマンスに多くの者が呆然とし、目を奪われていた。

 そして当然、その中には彼女も含まれていて……。

「……うわぁ、カッコイイ……!」

 その紅と黒の眼をキラキラと輝かせながら、感嘆の声を洩らす紅音。



 ハッとした後、「いけないいけない」と思いながらモードを切り替えるように咳払いし。

「コ、コホン! やるなブラックキャットよ! それでこそ、我が同志というもの!!」

 ネットの遠く向こうから、再び余計な事を口から放つ女の声が猫丸の耳に届いた。

「こうしては居れんな。どれ、私も能力の一部も見せてやろう」

 両手で抱えたボールを宙に放ると紅音は走り出し、勢いよく跳躍する。

 一方で、声に反応した猫丸はふと紅音の方に目を遣り、「まだ何か叫んでるな」と呆れたようにしていると、

「獄炎よ! 我が手に宿り、一切の敵を灰燼に帰せ! 灼炎紅竜砲ドラゴンブラスター!!」

「!?!?!?!?」

 紅音の放ったサーブが敵陣ではなく、猫丸目掛け飛んできた!

 突然の出来事アクシデントに驚愕する猫丸。

 次の瞬間、放たれたボールは猫丸より数m手前で破裂し、バラバラになった残骸が静かに床へ散っていった。

(この女、まさか堂々と奇襲を仕掛けてくるとは……!)

 右手で仕込み銃を構えたまま、猫丸は紅音の奇行っぷりに衝撃を受ける。

 ボールが突如として破裂したのは、猫丸がその銃で迎撃したからであった。もっとも、男女間はネットカーテンで仕切られていた為、その必要は無かったのだが。

 攻撃が来たと勘違いしてしまい、すっかりその事を忘れてしまったのだ。

 またしても後手に回ってしまった。

 幸いな事に、猫丸を除く体育館に居る者全ての視線はボールだったに集中し、銃声がボールの破裂音と重なる事で、上手い具合に周囲から隠す事に成功している。

「ふえっ!? ボ、ボールがいきなり……。――フ、フフッ。成程、我が能力ちからに器が耐え切れなかった、という事か……!」

「やはり侮れん。早急に手を打たなくては……」

「ねぇ、なんかここの壁変な傷付いてんだけど……」

「ホントだ。なんだろう、なんか金属の塊みたいなのが嵌まってるみたい」


   ◇


 ――時は進み、三、四限目の終了後。

「往くぞコマコマ!」

「ハイハイ、急ぎましょう急ぎましょう」

 昼休みを知らせるチャイムに合わせ、隣に座る友人の手を握ったまま、紅音は突風の如く教室を飛び出した。

 それと同時、クラスの者達が続々と机の上に弁当箱を並べ、親しい者同士で机をくっつけるなど、各々のやり方で昼食を摂っていく中。

(……よし、行くか)

 猫丸も席を立ち、颯爽とその場を後にした。

 目的地は決まっていない。だが、目標とする人物は決まっている。

 教室を出てすぐ、視界の奥にその少女の姿を確認すると、向こうに気取られないよう一定の距離を空けながら、猫丸はその後を追い続けた。

 やがて、向こうが階段を上っていくのを目にすると、一切の足音を立てぬまま、尚も追跡する。

「紅音は本当に、あの場所が好きですね」

「ええ、この閉鎖された監獄の中で、あの場に吹く風だけが私に翼を授けるから……」

「ハイハイ、屋上は風が気持ちいいですからね」

 上の方から、目標とその連れの話し声が聞こえてくる。

 耳を澄まし、何とか正確に会話の内容を盗み聞こうと試みるも、途中現れたドアの開閉音の様なものにより、それは阻まれてしまった。

 数秒前まで、こちらに響いていた筈の二人の声が、途端に聞こえなくなる。

 猫丸は急いで階段を駆け上がると、案の定、そこにはつい先程開かれた形跡のあるドアが。

(この先か)

 ドアノブに手を掛け、細心の注意を払いながら、猫丸はそっとその戸を押した――その時。

 涼しい春風に肌を撫でられ、空から射す白光に眼を眩まされながら、その視界に映り込んできたのは……、


「フハハハハハ! 空よ! 風よ! 我が威光に崇めひれ伏し、畏怖を抱いて慄くがいい!!」


 綿雲の泳ぐ大空に向かって腕を拡げながら、腹の底から笑い叫んでいる、標的ターゲットの姿だった。

 空に向かいながら、一体何をはしゃいでいるのか。何を吠えているのか。何を高笑いしているのか。

 不可思議極まりないあまり、猫丸は思わずポカンとしたまま静止していた。

(ハッ! ボヤボヤするな。勘付かれる前に、さっさと隠れるんだ!)

 音を立てぬよう、そっとドアを閉めるや否や、猫丸は急いで物陰に身を潜めた。

 運良く、猫丸が追っていた二人の少女は入り口と逆方向を向いており、隠れた場所も、彼女達の死角に上手く位置している。

 気取られる事のないよう、猫丸は細心の注意を払いながら、耳を澄まし、じっくりと目を凝らして、二人が何を話しているのか、標的ターゲットが何を考えているのかを観察する。

 傍から見ると、その様はまるで二人の少女に付き纏っているだけの、ただのストーカーにしか映らないだろう。

 気配を絶ち、まじまじと女子高生の背中を目に記憶させる格好は、正に慣れているとしか思えない様な上級者だ。

 そんな上級者に、全身で風を感じている紅音は一切気付かぬまま、

「コマコマもどう? 一緒にこの解放感を味わって……」

「私は遠慮しておきます。自分の一生に、拭い切れない黒歴史が刻まれそうなので」

 真っ向から友人に誘いを断られたことを残念に思い、「そう? 気持ちいいのになあ」と小さく呟く。

 その後、二人は協力して床にシートを拡げるや否や、白昼に澄み渡る青空の下で、共に弁当を囲んだ。

 一見すると、それはどこにでもある様な、普通の食事風景。

 何の変哲もおかしさもない、普通の女子高生が送る時間であった。

(動きはない……。食事中は流石に大人しくなるものなのか?)

 授業時とは一変し、特に目立った行動を見せてこない紅音に、猫丸は思わず意外な印象を受けてしまう。

(いや、油断するな。これまでも奴は俺の一瞬の気の緩みを見逃さずに突いてきたじゃないか!)

 そうだ、奴はこの数時間の間に幾度となく猫丸じぶんが油断するように仕向け、罠に嵌めてきた。

 一限目は滅茶苦茶な和訳に紛れてこちらを挑発し、二限目は一見注意散漫と取れる行動を見せ付けつつ、油断したこちらに奇襲を仕掛けてきた。

 三、四限目も同様な遣り口でこちらを罠に嵌め、すっかり手玉に取られてしまっている。

 これが戦闘なら、既に猫丸は9――いや10回は優に殺されていたであろう。

(しかし、未だこうして俺が生かされているのは何故だ?)

 何か猫丸じぶんが殺される事で、不都合が生じる理由でもあるのだろうか?

 急に転校生が居なくなる事で周囲に不審に思われるから?

 それなら他の生徒や教師達の記憶を消去すればどうとでもなる。猫丸が奴ならそうする。

 それとも単に一般人である生徒達に、殺しの光景を見せたくなかったから?

 いや、なら朝のホームルーム時に猫丸の前で堂々と正体を告げている時点で、その仮説は破綻している。

 猫丸が殺し屋・黒猫ブラックキャットであると最初から分かっていたのであれば、わざわざ明かす事無く機を窺って仕留めた方が合理的だ。

 それに正体を明かした時点でこちらは標的ターゲットを認識出来てしまうのだし、手荒な手段を取る危険性も充分あり得るのだから、猫丸に殺しのチャンスを与えている時点でその線は考えられない。

 紅音の行動が、紅竜レッドドラゴンの狙いが全く読めない……。

 頭を悩ませ、答えの生まれない考察をひたすらに繰り返す猫丸。

 しばらく経過し、悩みに悩みぬいた結果――彼の頭の中で、一つの結論に至った。

「まあ、奴の目的が結局何であろうと、俺の目的は変わらん。このまま野放しにしておけば、俺の仕事の障害となるのは必至。ただでさえ朝の時に、周囲に俺の正体をバラそうと企み、実行に移した奴だからな。このまま生かしておく理由も無い」

 そうして、猫丸は左右の手にナイフと銃をそれぞれ握ったまま、紅音の動きを尚も監視する。

 隙を見せた瞬間、確実にその命を狩るつもりで。

 この短い時間で、何度も人の注目を浴びる様な奴だ。急に居なくなれば、間違いなく騒ぎが起こるだろう。

 しかし、このままずっと生かし続け、共に高校生活を過ごす羽目になるのはもっと危険だ。

 いつまた余計な事を喋り、余計な情報が周囲に漏らされるか、分かったもんじゃない。予測さえも出来ない。

 近くに居る眼鏡の少女には悪いが、眠らせた後、あの女についての記憶を消してもらうよう手配しよう。

 長期戦は不利。時間はあると思うな。

 殺らねば、殺らなければ。

 今……、ここで――!

 猫丸は意を決し、遂に問答無用で手に掛ける事だけを考えた。

 薄暗い物陰で、銀色の光が鈍く輝く。

 視線の先に居る、食事を楽しみながら交わされる少女達の会話を聞き逃す事のないよう、猫丸は目と耳に集中を込めた。

 その一方で、

「――そうだ紅音、前々から言いたかった事があるのですが……」

「……? 言いたかった事?」

 太陽の反射光により、眼鏡が眩しいくらいに白く輝いている少女が、思い出したかの様に新しい話題を切り出した。

 紙パックに刺さったストローから口を離すなり、その口から放たれた言葉に、真向かいに座る紅音は首を傾げる。

「今日……というより、いつもですか。紅音は体育の時にも、必ずその包帯を巻いていますよね?」

 どうやら、紅音の右腕に巻かれた包帯についての話の様だ。

 その質問に、紅音は元気良く頷くと。

「うん、もちろん! それがどうかした?」

 肌の上から覆われている白い部分を撫でながら、質問を返した。

 それに対し、眼鏡少女は何の感情も示さない様な真顔で、

「それ、外したらどうなんです?」

「何を馬鹿なことを!?」

 サラッと言われた一言に、紅音は信じられないとばかりに驚愕した。

 カチャンと音を立てた一膳の箸が、シートの敷かれた床の上で仲良くコロコロと転がっている。

 このままでは汚れてしまうと思い、眼鏡少女はすかさずそれを拾ってやる一方、紅音は先程の友人の言葉に未だ固まったまま、徐々にそのエンジンを掛け……。

「コマコマよ、突然何をかすかと思えば……。包帯コレを外せだと? 私は一瞬、闘神トールの雷撃に打たれたかと思ったぞ!」

「だって、そうじゃないですか。紅音は特に怪我をしてる訳でもないですし、どう考えたって不必要ですよ?」

 淡々と告げ続ける眼鏡少女。

(確かに、今日一日ずっと包帯を身に着けていたな……。あの腕で、普通にスポーツにも興じていたし)

 少女の発言に、遠くから見ている猫丸も同調する。

 彼女の言った通り、紅音の右腕に巻かれている包帯は、包帯としての役割を全く果たしていなかった。

 むしろ、腕が縛られるだけで、窮屈以外の何物でもないだろう。

 それなのに何故、彼女は包帯を纏っているのか。

 そんな疑問が、猫丸の頭にふと浮かび上がる中。

「不必要などではないぞ! コマコマよ、私が何の意味もなく、腕に包帯を巻き付けている訳がないだろう!」

「と、言いますと?」

 そんな疑問に答える様に、


「この腕にはな! 私の中に眠る、強大な能力ちからが封印されているのだ!!」


 紅音は、遠くの猫丸の耳にもハッキリ聞こえる声量で、堂々と返答した。



   ◇


「「強大な……能力ちから?」」

 猫丸と眼鏡少女が、揃えて口から同じ疑問を漏らす。

 無論、猫丸の声は向こう側に届いておらず、今から首を取ろうとする相手の言葉に反応し、体も動かないでいた。

(強大な能力ちからだと? やはりあの腕に何か隠していたか!)

 好機。遂に念願となる、あの紅竜レッドドラゴンの得物が明らかとなる事に、猫丸は今日初めての歓喜を見せた。

 場合によっては仕事の難易度が跳ね上がるとはいえ、『あの伝説の殺し屋が一体どのような攻撃手段を持っているのか』この情報一つで今後幾つもの計画を立てられるし、それが対処可能なモノなら万々歳だ。

 千載一遇のチャンス! 何としても、その正体を確認せねば。

 その意図を偶然汲み取ったかの様に、同じく紅音の発言に反応していた眼鏡少女が、質問を投げ掛ける。

「一応尋ねますけど、強大な能力ちからって、一体何なんです?」

「フッ、よくぞ訊いてくれたな。まず、この左腕に秘められし能力ちからだが……――」

「右腕の方を訊いていたのですが……。まあいいです」

 呆れる様にため息を漏らす眼鏡少女。それとは逆に、ゴクリと固唾を呑み込む猫丸。

 正反対の面持ちで二人が構える中、紅音はニヤニヤと不気味な笑みを浮かべたまま、左腕に付けられた漆黒のブレスレットを指でなぞって、

「――この封印が解かれた瞬間、私を中心に、半径500メートルの地帯が炎に包まれ、紅蓮の地獄と化すのだ!! その名も、『燃ゆる真紅の炎熱地獄クリムゾンインフェルノ』!!」

 と、何とも荒唐無稽なことを言い出した。

 それを聞いた瞬間、眼鏡少女は「ああ、成程……」と呟いて。

(また新しい設定か……)

 やれやれとばかりに、また一つため息を吐いた。

 まるで、いつもの事の様に……。

 その頃、猫丸は……、

(何……だと……)

 額にじっとりと脂汗を掻きながら、石像の様に硬直していた。

 ギョッとし、大きく見開かれた右の瞳が、その動揺っぷりを物語る。

(半径500メートルが、一瞬で炎に包まれる? あの腕輪が外されただけで? そんな話は聞いた事もない。聞いた事もないぞ……!)

 未知の告白に心を揺さぶられ、猫丸は咄嗟に頭を物凄い勢いで回転させる。

 それが嘘だと、紅音自身が創り上げた、ただの妄想だとも知らず……。

 その頃、自分達を見張っている者がそんな状態に陥っていようとは露知らず、己の妄想に浸っている紅音に、眼鏡少女は……。

「左の方は分かりました。でもやっぱり、包帯は危ないですよ。走っている時に解けて、うっかり踏んだりすれば転んじゃいますよ? 体育の時だけでも、外してスッキリさせた方が……」

「右はダメだ!!」

 突然、眼鏡少女の提案を、紅音が焦る様に否定した。

 急な大声に、猫丸と眼鏡少女はビックリしてしまうと、険しい表情をした紅音が右腕を強く掴み。

「右は更に恐ろしい……。この右腕が解き放たれた時、左とは比べ物にならないくらいの甚大な被害が出てしまう……!」

 声を低くし、まるで本当に危ないかの様に語り出した。

「はあ……。で、どれくらい危険なんです?」

 最早何度目か分からない質問を、眼鏡少女は投げ掛ける。

 その問いに、紅音は一瞬無言になり、「えーっと……」と呟いたまま熟考した後。

「……地球が消し飛ぶくらい…………かな?」

 段々と声を小さくし、最後の方は、近くにいないとほぼ聞き取れないくらいの声量で答えた。

(後付け感……)

 ついさっき思い付いたんだなと察知し、眼鏡少女は尚も呆れながら、「そうですか」と適当にあしらう。



 同じ頃――、

「ハァ……ハァ……ハァ……」

 壁に凭れ掛かり、床に尻もちを付いていた猫丸は、全身から汗を噴き出しながら、荒い呼吸を繰り返していた。

 武器を落とし、その手で胸を強く押さえる。

(今……何て言った? あの女、今……何て言っていた?)

 体を特に動かした訳でもないのに、その様子は酷く疲れている様だった。

 ……違う。疲れているのではない。焦っているのだ。

 内側から爆発する様に、猫丸の中で筆舌に尽くし難い程の焦りが、猛烈な勢いで押し寄せる。

 要因はただ一つ。

 それは、彼が俗世から長く遠く離れていたが故の、

(いや、俺は聞き逃さなかった。聞き逃さなかったぞ。あの女……――)

 文字通り、己の無知が運んできた、


(――右腕が解き放たれた時、地球が消し飛ぶと! 確かに言っていた!!)


 ただの、勘違いである。

 額から溢れる汗が肌を伝い、屋上の床に小さな水溜まりを作り上げる。

 衝撃の事実を知ってしまったせいか、拳に力が伝わらない。

(待てっ……! よく考えろ、俺! 腕が解放されたぐらいで、そんな事が有り得るのか?)

 一瞬、猫丸の思考が正常に戻った。

 そうだ。どう考えても有り得ない。有り得る筈がない。

(左腕に関してならまだ分かる。人体に兵器を埋め込んだり、サイボーグ手術を施したりするのは、裏の世界では珍しくもない事だ)

 実際、その様な改造を繰り返し、殺し屋としての稼業を行ってきた者を、猫丸は目撃した事があった。

 だが、腕が顕になっただけで、地球が滅びるという兵器を。そんな、核すらも優に超えてしまうような超兵器が開発された話など聞いた事も……――

(――いや待て。あった。確かそんな噂を聞いた事がある!)

 それは、一人の殺し屋の手によって創造された。

 殺しの他に研究職を生業とするその男は、人智を超えた兵器を幾つも開発し、その中には紅音が話した内容と同様のものが存在していた。

(そうだ。確かあのマッドの発明品の中に……)

 なんとか思い出そうと、猫丸が必死に記憶を探っている頃。紅音達の間でも続きの遣り取りが行われていた。

「それで? その右腕に秘められた能力ちからとやらの名前は何なんです?」

「な、名前……? えー……っと……――」

(奴の右腕に眠っているといわれるモノ……。地球をも破壊してしまう程の、絶大なる威力が秘められているという超兵器……。確か名は――)

 即興でその名を付けようとする紅音と、即時にその名を思い出そうとする猫丸。

 それは何の因果か。はたまた運命の悪戯とでも言うべきか。

 出逢いから生まれた、細く今にも切れてしまいそうな一本の糸。

 それは数時間掛けて幾重にも重なり合い、絡まり、紡がれていき。

 そして今この瞬間を以て、強靭かつ決して解かれる事のないような……、


「終焉のスーパーノヴァ

「スーパーノヴァ」


 一本の紐として完成されてしまった。

「なっ……、そんなっ……バカな…………」

 それは偶然以外の何ものでもなかった。

 聞こえてきたその名称に愕然とする猫丸。衝撃的過ぎるあまり、自身の口角が無意識に吊り上がる。

 緊張が震えに、震えが顔に移った事により、表情を保てなくなったからだ。

「まさか本当に、本当にあの女が……!」



 ――一方その頃、黒木邸では。

「寅彦様、あの……確認してもよろしいでしょうか?」

「んー? なんだ?」

 猫丸が担当する予定だった依頼を解決すべく、総動員で家の者が動き回る中。自室で一人、威厳も覇気も全て脱ぎ捨て、暢気に横になりながらテレビを観ていた寅彦に豹真が尋ねる。

「その、本当に紅竜レッドドラゴンは彩鳳高校に居るのですか?」

 それは、本来であれば豹真の口から出る筈のない質問。猫丸自身も父から直接口外を禁じられた極秘情報。当然、猫丸も昨日からこの件については誰にも口にしていない。

 すると、寅彦はその問い掛けに対し、


「あ? 居る訳ねェだろんなモン」


 即答で否定した。それも鼻をほじりながら。

「だってこうでもしねェと見れねェだろ? ネコが高校生活を送ってる様子をよ」

「それはそうですが……、まさか本当に実行するとは。どうして急にこんな事を?」

「いやな? 少し前に学園ラブコメモノのアニメを五つ程一気観してな。思いの外面白かったんで、アイツがそういう甘酸っぱい青春を送ってるところも、折角だし観てみてーなーと」

 ケラケラと笑って返答する寅彦に、豹真はハアーッと深いため息を吐く。

 そう、全ては寅彦の策略である。

「その我が儘に我々執事や若手の者も付き合わされているのですが……」

「いいじゃねェかよ別に。お前は見たくねェのかよ、豹真? ネコが彼女連れて一緒に歩いてる姿とかさ」

「見たいに決まってるじゃないですか。むしろ帰ってきた後、徹底的にイジリ倒してやりたいくらいです」

 サラッと下衆な事を告げる豹真。そう、彼らも共犯であった。

 猫丸は『紅竜レッドドラゴンが彩鳳高校に居る』という極秘情報を寅彦のみと共有し、他の者には伝えられていない――と思い込んでいた。

 しかし実際は、猫丸のみが誤情報を伝えられ、それ以外の者達が共謀し、寅彦の我が儘に全面的に協力していたのである。

 寅彦の真意・悪意に、猫丸は気付いていなかったのだ。

「でも大丈夫でしょうか? その、万が一ですよ。万が一、紅竜レッドドラゴンを自称する者が居て、それを本物だと勘違いしてしまったりとか……」

「ぷっハハハハハハ! 豹真! おん前面白ェ冗談言うようになったな! んな奴居る訳ねェだろ! 有り得ねェって!」

 豹真が一抹の不安を零すも、寅彦は豪快な笑い声を上げながら一蹴する。

 その勢いに釣られ、豹真も馬鹿馬鹿しい事を訊いてしまったと思い。

「そ、そうですよね。流石に飛躍し過ぎてますもんね」

「そうそう。それよりお前もどうよ一緒に? これ俺のオススメなんだけどさ、ヤベーぞ。ヒロインマジ超カワ」

「アニメ観てる暇なんかありませんよ。こっちは貴方の我が儘のせいで忙しいんですから」

 そう、居る筈がない。偶々最強の殺し屋の名を自称し、勘違いで猫丸に標的ターゲットとして狙われる者など、居る筈がないのだ――



「――間違いない……! あの女こそが紅竜レッドドラゴン。伝説と謳われし最強の殺し屋!!」

 豹真の不安はこれ以上ないくらいにドンピシャで嵌まっていた。

(成程な。奴が最強と言われている理由がよく分かった)

 周辺を巨大な炎で包み込む左腕と、地球をも破壊する右腕。

 それこそが彼奴を最強たらしめる所以。

「これが異次元との戦いか……」

 見当違いも甚だしい考察。

 無論、紅音は最強の殺し屋などではない。

 その実態は少し頭がファンタジーに染まっているだけの、どこにでも居る普通の女子高生である。

 しかしそれでも、猫丸はその真実に気付かない。

 ただの偶然と妄言が結び付いただけで、何の正しさも持たない推察が彼の判断能力を蝕んだ。

 落としたナイフをもう一度握ろうとするが、敵の強大さのスケールを前に全く力が入らなくなっていた。

「臆病者……か。確かにそうかもしれないな」

 一限目のメッセージが脳内に蘇り、自身の現状に当て嵌まっている事を痛感する。

 もしかすると、紅竜ヤツ猫丸じぶんがこうなることが視えていたのだろう。

 今の猫丸には、紅音を殺すイメージが全く浮かばなくなっていた。

 戦わずして力の差を見せ付けられてしまった今、敵ながら天晴れと敬服するしかなかった。

 これまで常時頭を働かせていたのが廻ってきたか。猫丸は疲弊し、力無いまま広く真っ青な天を仰ぐ。

 同じ頃、終始猫丸の存在に気付かなかった紅音は、眼鏡少女と共にシートを畳み、空の弁当箱を手に持って、

「さてと、お腹も膨れましたし、午後も張り切っていきましょう」

「エネルギー充填率120パーセント! 今私の中で満ちたやる気が業火となり、激しく燃え盛っているぞ!」

「ハイハイ、燃え尽きちゃって、授業中寝ないようにしてくださいね」

 笑顔で元気一杯に叫びながら、そのまま屋上を後にした。

 一人残された猫丸。疲労はそのまま重しとなり、鉛の様な体でゆっくりと立ち上がる。

 半ば放心状態の様子であったが、その面持ちはすっかり気の抜けたものかと問われれば、違っていた。

「ククク……」

 笑っている。

 肩を震わせ、三日月の様に口の両端を吊り上げながら、逸る気持ちを抑える様に、猫丸は小さく笑っていた。

「まさか俺が、こうも容易く敵に踊らされる時が来るとはな。なるほど、確かにコレは危険だ。危険だが――面白い。面白いぞ、竜姫紅音! いや、紅竜レッドドラゴン!!」

 標的ターゲットが居なくなったと分かるなり、その名を堂々と叫び上げる。

 猫丸の戦意はまだ消失していなかったのだ。

 初めて自分が、心の底から負けたと思える人間。

 長らく隠し続けていた姿をようやく現してきた、高く聳え立つ巨大な目標。

 ようやく逢えた最強の姿を思い返し、猫丸は恐怖と興奮の入り混じった感情を胸に仕舞った。

 そして、そこには居ない筈の好敵手に向かって、獲物を前にした猫の様に睨み付けると、


「その首、必ずこの黒猫ブラックキャットが喰らってやろう」

 固く結ばれた意思の中で、そう宣言した。


 あらぬ激動から繰り広げられし、猫と竜の物語。

 この二人を繋ぐ救いようのない勘違いは、まだ始まったばかり――

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