第壱幕 大悪魔、降誕す-上-

◇同刻/同地/阿ノ玖多羅あのくたら皆無かいな単騎少佐


「【阿闍世アジヤータシヤトルの愚・しやによらいが説きし十三の観法・観無量の尊き光・オン・アミリタ・テイ・ゼイ・カラ・ウン――光明こうみよう】」皆無の真言密教術によって、暗闇にまれていた屋敷が余すところなく照らされる。皆無は悪霊デーモンのヱーテル核をつかみ、それを口に放り込む。(またはえ、か。味はせぇへん……けど、気持ちわりいな)


 蠅は元七大魔王セブンスサタンが一柱『暴食の鐘是不々ベルゼブブ』の隠喩メタフアーであり、蠅を模する悪魔悪霊は多い。

 臍の下、丹田の辺りにじわりとした熱を感じる。これは、自身のヱーテル総量も成長したかもしれない。中佐位を狙えるようになるのはいつの日か。

 皆無は陸軍の少佐だが、正確には『単騎少佐』という。皆無の戦力は単騎にして通常の陸軍少佐級が率いる歩兵一個連隊――おおむね千人から三千人――に匹敵する。


「……帰ろ」皆無は入念に尻をはたく。何しろあの、埃まみれ、虫の死骸まみれのソファに座らされたのだ。気持ち悪いったらなかった。えた臭いが鼻を突く。

 虫たちが逃げ惑う屋敷の中を出口へと進んでいくと、少女真里亜マリアなきがらが見えてきた。先ほど暗闇の中でつまずいて、本気の悲鳴を上げてしまったことを皆無は恥じる。

 遺体の前で十字を切ってから手を合わせる。皆無は悪魔祓師ヱクソシストだが、真言密教を学んだ密教僧でもある。西洋妖魔相手には基督キリスト教の術式を介した攻撃しか通用しないが、その他の補助術には、日本の霊脈と相性の良い真言密教術を好んで使う。


「【烏枢沙摩明王うすさまみようおうよ・烈火で不浄をめよ・オン・クロダノウ・ウンジャク――浄火じようか】」


 腐敗し、うじむしばまれていた少女の遺体を炎が包み込む。遺体が燃え尽き、自然鎮火したことを見届けてから、皆無は玄関のドアを開けた。


(あの悪霊デーモン、ドアすり抜けて出てくるんやもん……ビビったわ)


 南の海から坂を駆け上ってきた冷たい海陸風が、屋敷の上のかざどりを激しく回転させている。こうをくすぐるのは、わずかな潮の匂い。


「「「少佐殿ッ!」」」外に出るなり、三人の、二十はたち前後の男女が駆けよってきた。みな一様に、包帯まみれの手ひどいを負っている。


「「「よくぞご無事で!」」」


ほう、あんな雑魚相手に苦戦するわけないやろ」


「少佐殿? 顔が真っ青であります!」女性尉官――伊ノ上いのうえ少尉が、いち早く皆無の異変に気付く。「どうかしたのでありますか!?」


 男性尉官二人が相手ならばはぐらかすか黙殺する皆無だが、母親のいない皆無のために甲斐かいがいしく衣食住の世話をして呉れるこの少尉には、頭が上がらない。


「知り合い、やった」皆無は左手を撫ぜる。絞り出した声は、みっともなく震えていた。


「……胸は、必要でありましょうか?」伊ノ上少尉が両腕を広げてみせる。


「……わつぱ扱いすんなや」口では拒絶するものの、皆無は抵抗せずに抱き締められる。身長一四〇サンチしかない皆無は、伊ノ上少尉の豊満な胸に鼻先を埋める形となる。


「大人ぶってみせても、少佐殿はまだまだ子供でありますな!」「少佐殿と一緒にまちを歩くのはいつの日になりましょうや」男二人が軽口をたたく。


「アンタたちっ、少佐殿にそういうのはまだ早いって何度言ったら――」


「お前こそ、その乳房で少佐殿をたぶらかしといてよぅ言うで」「せやせや!」


「戦闘詳報書き方ァ!」莫迦ぶかたちの掛け合いを遮るように、皆無が声を張り上げる。

 三人が即座に整列し、伊ノ上少尉が懐から手帳と鉛筆を取り出す。


「――始め。あの悪霊デーモン、憑り殺した被害者女性の感情アストラル体まで取り込んでもぅたみたいで、自分のことを被害者女性自身やと思い込んどったで」


「えっ、少佐殿、あの悪霊デーモンの言ぅてることが分かったんですか!? キエェェェエエ! みたいな奇声ばっかだったやないですか」一番背の高い青年尉官の問いかけに、

「えぇぇ……当たり前やろ」皆無がためいきをつく。「【文殊もんじゆけいがん】を常時耳目に展開させとけば、念波を介して意図は読み取れると思うんやけど」


「【文殊慧眼もんじゆけいがん】を、耳に使う……?」


 珍紛漢紛ちんぷんかんぷんといった青年尉官の様子に、皆無は再び溜息をつく。高度な索敵術式で常時全身を覆う――そのような芸当を、皆無は物心ついたころから当然のようにやってきた。それが己のずば抜けた才能と、父のちやな教育方針のたまものであることを自覚していない。


「貴官は僕の授業を真面目に聞いとらんかったんかな?」


「そ、そんなことは……ッ!」青年尉官が脂汗を流しながら直立不動の姿勢を取る。


「じゃ、悪魔悪霊の分類について解説してみぃ」


「はっ! 悪魔悪霊は脅威度で分類され、上から甲種・乙種・丙種・丁種悪魔デビル、甲種・乙種・丙種・丁種悪霊デーモンの八種であります! また、悪魔デビル悪霊デーモンの分類方法は対象が受肉マテリアラヰズしているかいやかであります!」


「うん」皆無はうなずいてみせる。「受肉マテリアラヰズしていない悪霊デーモンは、人形や絵画といった物品や、動物、心の弱った人間に憑りつかん限りは現世たる物質アツシヤー界に干渉でけへん」


 だが上位悪霊デーモンともなると、先ほどのニセ真里亜のように可視化し、数々の怪異を引き起こしたり、人間のヱーテル体をい散らかして死に至らしめることすらできるようになる。


「さっき祓った悪霊デーモンのヱーテル総量は千超えで、ほぼ受肉マテリアラヰズ寸前まで至っとった。貴官はあの悪霊デーモンをどう分類する?」


「はっ! 単騎少佐を中核とした一個中隊で当たるべき、乙種悪霊デーモンが妥当かと!」


「へぇ。そんだけ手ひどくやられといて、甲種やないって?」


「はっ! あの屋敷から出てこないという点から、脅威度はやや低いと判断しました!」


「ええやん、合格」皆無の、神戸人らしからぬコテコテな関西弁による評価の言葉に、

「ありがとうございます!」青年尉官が直立不動で返答する。

 生まれも育ちも神戸の十三歳。阿ノ玖多羅皆無の方言は、少し変わっている。

 皆無が飛び級かつ首席で卒業した陸軍士官学校は、講義も教科書も全て独逸ドイツ語。対して、開国当時に日本を助けた対西洋妖魔組織『パリ外国宣教会MEP』の流れを第零師団だいゼロしだん第七旅団は仏蘭西フランス語が主体であり、旧教カトリツクのことは仏蘭西語で学んだ。さらには新教プロテスタントの勉強――これは英語である。そして、皆無が任務上で日々接する商人たちはそれこそ全国・全世界からここ、神戸港に集まってきている。そんな言語の坩堝るつぼで生きてきた皆無の話す日本語は、言語も方言もチャンポンされつつも関西弁寄りの独自言語として完成している。

 皆無はしばし取り澄ました顔で訓示を垂れていたが、やがて「ぷぷっ」と吹き出し、

「貴官らなァ、あの乙種悪霊デーモンから押し込み強盗扱いされとったで。いくら相手が乙種や言うたって、悪魔祓師ヱクソシスト悪霊デーモンに強盗と勘違いされてどないすんねん」


「「「め、面目次第もございませんッ!」」」


「こりゃァ訓練内容見直さなあかんなァ」


「これ以上厳しくなるのはっ」「少佐殿は鬼畜であります!」「鬼畜な少佐殿も素敵!」


 彼ら彼女らの口調にはちやが多分に含まれている。そして皆無もまた、それをとがめない。皆無と三人の莫迦ぶかたちとの関係は、少し変わっている。

 一年半前――十二歳で軍人になった当時、皆無は驚くほど自己評価の低い子供だった。

 生まれてこの方、常に唯一絶対の父――日本一の退魔師である阿ノ玖多羅正覚しようがく単騎少将と比較され続けてきた皆無は、従軍したころには、自罰的で承認欲求の塊のような人間になっていた。戦果武勇を焦るあまり、出撃時に用いる戦術は常に無謀かつ無鉄砲で、少しでも失敗すれば己を責めた。遠からず潰れてしまうのは目に見えていた。そこで父・正覚が第零師団だいゼロしだん第七旅団長に対し、皆無の心をやしつつ自信を付けさせるために年若い部下――話し相手とも、遊び相手ともいう――を付けるように意見具申ぐしんしたのだ。

 それが、今から半年前のこと。

 そこから半年間、この尉官三名は己の任務に忠実に、皆無を褒め、おだて、一緒に飯を喰い、見回りと称して神戸元町をブラブラし、天才肌の皆無からの意味不明で苛烈な訓練に耐えた。彼ら三人の粉骨砕身の努力の甲斐あって、皆無は見事に回復した。

 尉官三名の方も満足していた。半年間、幼いながらも本物の実力者たる皆無少佐から手取り足取り術式の神髄を教わることができ、下士官から一足飛びに尉官になることができたのだから。そんな彼らによる三文芝居のおかげで、皆無の陰りが晴れたところに、

「HAHAHA!」活動写真キネマから飛び出してきた道化師のような、芝居掛かった笑い声が降ってきた。「愛する息子よ、部下をイジメるのはそのくらいにしてあげなさい」

 皆無が暗視の真言密教術【ふくろう夜目よめ】をまとった目を屋敷の屋根の上に差し向けてみれば、そこには軍衣を纏った身長一〇〇サンチ足らずの子供が腰掛けていた。


「……これは、阿ノ玖多羅・単騎少将閣下」


 そう。この子供に見えるナニカこそ、日本一の退魔師と誉れ高い阿ノ玖多羅正覚その人である。反抗期のただ中にある皆無にとっては、あまり会いたくない相手でもある。


「よそよそしい呼び方はしてお呉れよ」屋根から飛び降りてきた父が、音もなく着地する。皆無とは全く似ていない顔を思いきり寄せてきて、「いつものようにパパとお呼び」


「う、うっさいわボケ!」皆無は叫ぶ。部下たちの前で、こんなに恥ずかしいことはない。

 続いてこの奇妙な父が、三人の部下の方へ宙を歩きながら近づいていき、「キミたち、いつもウチの息子の面倒を見て呉れてありがとね」ポンポンポン、と一人ずつ肩を叩く。


「痛たっ……って、あれ? 怪我が治っとる?」「本当ホンマや!」「な、なんてこと!」


 三者三様に、肩を回したり飛び跳ねたりして、あれほどひどかった怪我が一瞬のうちに全快したことを驚いているが、皆無からすれば見慣れた光景である。


「見てたよ。あ~んな雑魚相手に大天使弾アークヱンジエルバレツトとは随分じゃあないか」当の父はといえば、驚く尉官たちなんぞには目も呉れず、「アレ一発で家が建つんだよ? まったく、対露軍備で国の台所事情は火の車だというのに……伊藤サンに顔向けできないじゃないか」


 伊藤サン――父がことあるごとに口にするその人物とは、誰あろう伊藤博文いとうひろぶみ元首相である。百年以上の時を生きるこの父は、神戸港が開かれ、明治日本が建ち、この地が兵庫県神戸市と改められ、兵庫の初代県令知事に伊藤博文が就任した当時から、伊藤氏とともにこの港の守護に努めてきた。神戸港を守るけんろうな結界と検疫機構を成すための膨大な予算を出してれたのもまた伊藤氏であり、父は伊藤氏のことを恩人のように思っているらしい。


「阿ノ玖多羅少将閣下ならば、どのようにご対処なさいましたか?」


 皆無が堅苦しく父に尋ねる。反抗期の真っただ中にいる皆無は、昔のように『パパ、パパぁ、あのね、あのね!』と話しかけることに大変な抵抗を覚えるのである。


「…………」だが、父はそっぽを向いたまま、答えない。


「閣下?」「――パパ」「うっ」「――パパ、だよ、皆無」


 にんまりと笑う父。この父は大変に勝手な男で、自分からは好き放題話しかけてくるくせに、こちらから話しかける場合には、『パパ』呼びでないと返事をしない。


「うぐぐ――――……~~~~~~ッ!! だ、ダディ!」何がなんでも『パパ』呼びしたくない皆無が編み出した妥協策、『ダディ』呼びをすると、

「ふむ、私ならどう対処したか、だったね?」上機嫌で父が話し始める。

 背後からは、「ぶっ……くく」「うわぁ」「ダディ呼びもお可愛い」と莫迦ぶかたちの声。


「私なら――」父が右手の二本指を剣のように鋭く立てると、その指先が真っ白に輝き出す。ビリビリと空気が震えるほどの、すさまじいヱーテル量。「コレでひと突きだね」


「えぇぇ……そんなんできるん、多分ダディだけなんやけど」


くうに至った術師なら誰でも可能な次元レヴエルだけどねぇ」父が光を収める。「色不異空しきふいくう空不異色くうふいしき色即是空しきそくぜくう空即是色くうそくぜしき。諸法は幻の如く、ほのおの如く、水中の月の如く、虚空の如く、響の如く、ガンダルヴァの城の如し。空に至りて無を解し、悟りを得れば全てが分かるよ」


 突如として父の輪郭がぐにゃりとゆがみ、大柄な梟の姿へと変じる。


「悟りを得て即身成仏すれば、ヱーテル体を自在に操ることができる」


 梟が皆無の頭頂部に留まる。そのくちばしから出てくるのは、いつも通りの父の声。

 この父がように小柄なのは、十三年前に神戸港に襲来したという魔王『毘比白ベヒヰモス』に、その半身――に相当するヱーテル体――を食い千切られたからだという。


鈎爪かぎづめが痛いねん、ボケぇ!」皆無が梟につかみかかろうとするが、梟はするりと逃げ、屋敷の屋根の上で人の姿に戻る。


「それにしても、神威かむい中将閣下からお預かりしている大切な部下たちにおおをさせるなんて。指導不足なんじゃないかい、我が息子よ?」


 その言葉には、三人の莫迦ぶかが顔色を悪くする。ただでさえ皆無のしごきは凄まじいのだ。


「まったく、そんなんじゃ伊藤サンに顔向けができないだろう?」


「またかいな」「また、とは?」「伊藤閣下のお話」「あれぇ、言ったっけ?」


 父が真顔で首をかしげる。


「相変わらず物忘れがひどいんやから」皆無は得意げに微笑ほほえむ。この父はとてつもなく物忘れが多い。そんな父を支えているときだけが、唯一父に勝てる貴重な時間なのだ。


「兎角、早く空を理解し、ヱーテル総量を伸ばしなさい。今どのくらいだったかな?」


 ヱーテル――妖力、巫力ふりよく、神通力、魔力などとも呼ばれる超常能力の源。一般人で一、霊視が可能な者で十、港での退魔検疫業務に当たる下士官で数十、悪霊デーモンを祓うことのできる尉官・准士官で数百。数千単位もあれば一騎当千のエリート扱いだが、


「…………い、一万ちょい、やけど」答えにくそうに皆無が言うと、

「ひっっっく!?」父が大笑いをする。「十二聖人の座を狙うなら、せめて百万はないと」


 白目をいて、今にも卒倒しそうなのは三名の莫迦ぶかたちである。化け物だと思っていた自分たちの師を百倍以上も上回る化け物が、少なくともあと十二人いるというのだ。


「……ん? 十二聖人? 十三やなかったっけ?」


「はぁ? 何を言っているんだか。ちなみに私のヱーテル総量は、二千三万と少しだよ」


「……修練はしとる。けど、手っ取り早く強くなれる方法があるんなら、教えて欲しい」


「ならばまずは得物に名前を付けなさい。名は体を表す。最も簡単で、それでいて奥深い手段だよ」父が身に着けている装備品――南部式や十字架、ストールといった数々の品が独りでに宙を舞い始め、「この子は小梅こうめチャン。この子はおはるチャン、この子は――」


 皆無は知っている。変人たる父が通算百八人の妻をめとり、その死に際に妻たちの魂を持ち物にひようさせてきたことを。夜な夜なその魂を呼び起こし、語り合っていることを。


 皆無は卒倒寸前である。「……名前名前言うんやったら、僕の名前の由来教えてぇや」


「ん? ん~、確か……お前は神無月の生まれだったろう? でも、一流の悪魔祓師ヱクソシストに育て上げるつもりの子の名前が『神無』ではあんまりだと思って、一文字変えたんだよ。ついでに『皆』によって『無』を強調し、お前が空に至れるようにとの祈りを込めたのさ」


 何度も聞いたことがある説明である。が、『確か』という不穏な言葉が付いている。


「はぁ~ッ! 忘れっぽいダディに期待した僕が悪かっ――」皆無は軽口を飲み込む。父が、ごっそりと表情が抜け落ちた顔を外国人居留地方面――海岸線へと向けていたからだ。


「極大ヱーテル反応。場所は居留地の九番地南の海岸線。は、ははは、驚いたな……甲種悪魔デビル――魔王サタンだ」いつもひようひようとした姿しか見せない父が、額に脂汗を浮かべている。「皆無、行けるな? ――いや、これは上官命令だ。行け」


 魔王サタン。十三年前に神戸を襲い、父がその半身を引き換えに撃退せしめた毘比白ベヒヰモスと同格。


「――わ、分かった」皆無は、震えそうになる声を必死に抑える。


「私は鎮台ちんだいで人を集めてから行く。五分でいい――死ぬ気で持ちこたえろ」


 言うやいやや、父の姿が消える。父が使える奇跡の一つ、【わたり】である。


「お前らは神戸鎮台へ移動し、指示を仰げ!」皆無は部下三名に命令する。


「「「はっ!」」」身の程を理解している部下たちは、皆無の命令に素直に従う。


「【偉大なる軍神スカンダの剣・ニュートンのりん・オン・イダテイ・タモコテイタ・ソワカ――てん】ッ!」ヒンドゥー教の神、仏教の神に、果ては英吉利イギリスの学者まで混ぜた、人々の関心や歓心――感情アストラル体を介して集められるヱーテルを有効活用する術式により、皆無の体は重力から解放され、望むがまま夜空を舞う。

 異人館通りに立ち並ぶ邸宅の屋根や、張り巡らされた電柱・電線の上を凄まじい速度で走りながら、「【色不異空しきふいくう空不異色くうふいしき色即是空しきそくぜくう空即是色くうそくぜしき――虚空庫こくうこ】」中空に手を突っ込み、そこから自身の身長を超す長大な小銃を取り出す。

 試製参拾伍さんじゆうご年式村田自動小銃改。希少なヒヒイロカネを少量混ぜた鉄鋼で造った量産性度外視の銃で、使用者が一定のヱーテルを施条ライフリングに流し込んでいる間は連射可能かつ無類の射程と命中率を誇るという、退魔師用に特化した自動小銃である。

 ヴウゥゥゥゥウウウウウウウウウゥゥゥウウウウゥゥゥゥゥゥゥ…………

 手回しサイレンの音が、そこかしこで鳴り始める。家屋から血相を変えた人々がまろび出てきて、対妖魔防護結界の十字独鈷杵とつこしよを地面に突き立てている。

 皆無ははしる。今はただひたすら、甲種悪魔デビルが発生したという地点へと。



 居留地の南端、海岸通りへ出た。いつの間にか風はみ、海はいでいる。

 皆無は空を仰ぎ見る。――そこに、一人の天使がいた。深紅のドレスを纏った天使が。

 白鳥のような翼を背負った少女が、退魔結界の内側――神戸港・外国人居留地の海岸線近くで羽ばたいている。少女の背後では、この港を外界の西洋妖魔からまもる巨大な十字架が、鉄桟橋の上でこうこうと輝いている。天使が海岸線に着地し、探照灯で照らし出された。


「【オン・アラハシャノウ――文殊もんじゆけいがん】。あぁぁ……」己の死を悟り、皆無は絶望する。

 ――ヱーテル総量、およそ五億単位。

 あの、日本一とうたわしめる父をして、十数倍のヱーテル総量。勝てるわけがなかった。

 この国を滅ぼしたらしめる最悪の魔王サタンが神戸港に降り立ち、直後、膝から崩れ落ちた。

 皆無は震えながらも村田銃を構え、懐から虎の子の熾天使弾セラフイムバレツトの弾倉を取り出す。



「――に」



 皆無が熾天使弾セラフイムバレツトそうてんすると同時、少女が言葉を発した。それは、あらがいがたいほど魅力的でわくてきな声だった。鈴の鳴るような、聴く者を夢中にさせる、声。言語は仏蘭西フランス語。


「そなたらと敵対する意思はない――人の子らよ」


 少女が、顔を上げた。燃えるような、意志力の塊のような真っ赤な瞳が皆無をく。少女の、ぞっとするほどの美しさに、皆無は呼吸を忘れた。

 少女の翼がドロリと溶け、手の平に載りそうなほどに小さな、翼を生やした馬に変じる。


「よい、聖霊セアル。今は休め」優しげに、配下――受肉マテリアラヰズ状態を維持できぬ悪魔デーモンを見下ろしていた少女が、再び皆無を見据え、「頼む、人の子よ。見逃しては呉れぬか」

 少女の声が、大英帝国イギリスシンに売りさばく麻薬アヘンの如く、脳内へ侵食してくる。皆無は鳥肌が止まらない。この美しき少女の言うとおりにしてやりたい……そう思えてくる。

 皆無は少女を観察する……そうしてようやく、皆無は少女の惨状に気付いた。少女がまとっている真っ赤なドレスのその赤が血によるものであることに。白磁のように白い肌は傷だらけで、長くウェーブがかった金髪ブロンドも血で汚れていることに。

 そして――――……少女が、両腕を、失って、いることに。


「お、お前は一体――」


 皆無が銃口を下げた瞬間、少女の影から一人の異形が飛び出してきた! 長大な両手剣ツヴアイハンダーを片腕で振り上げ、皆無に斬りかかってくる。


「なッ――予の影に潜んでいただとッ!?」驚く少女と、

「くッ!」とつに村田銃を振り上げ、銃剣でもつて敵の振り下ろしを受け流す皆無。

 火花が散り、ヱーテルで強化されているはずの銃剣があっさりと砕け散る。

 皆無は強化された脚で背後へ跳躍し、【文殊もんじゆけいがん】を纏ったままの目で以て敵をる。

 ――ヱーテル総量、およそ五百万単位。ふくろうの頭に、天使の如く光り輝く裸身と翼を持った大悪魔グランドデビルだ。ヱーテル総量五億の少女に比べれば大したことのない量にも思えるが、それでも神戸を、日本を滅ぼすに足る脅威度を持つ甲種悪魔デビルである。大悪魔グランドデビルは得物――二メートルは超えるであろう大剣を地面にめり込ませており、すぐには行動できそうにない。

 一方、少女の姿を取ったヱーテル五億の魔王サタンの方は、動く気配を見せない。


(なら、先に対処すべきは梟頭ッ!)退き様にそこまで状況を整理した皆無は、着地と同時に梟頭の大悪魔グランドデビルに向けて村田の銃口を向け――「なッ!?」

 ――ることはできなかった。大悪魔グランドデビルが大剣を片手で軽々と持ち上げ、その翼を動かしたからだ。敵の体が前に向かって飛び、皆無が稼いだ数メートルの距離が、一瞬でゼロになる。剣が、先ほどの数倍の速度で振り下ろされる! 皆無は為す術もない。


「ぁぐッ――」右腕を、斬り飛ばされた。皆無は壮絶な義務感と覚悟で以て悲鳴をみ込み、残った左手で拳銃嚢から南部式を取り出す。「――【斯く在り給ふAMEN】ッ!!」

 敵の頭部に、立て続けに三発撃ち込んだ。敵が衝撃でる。が、それだけだ。南部式に装填されているのは対西洋妖魔実包の中でも最弱の天使弾ヱンジエルバレツト。効果は薄いだろう。だから皆無は、日本が誇る最高最強の対悪魔デビル実包たる熾天使弾セラフイムバレツトを使うことにした。

 皆無は、明後日の方向に飛んでいきつつある己の右腕が、その手指がしっかりと村田銃を保持していることを目視する。切断された直後の腕と肩の間にはいまだ、アストラル体のざんが存在している。皆無はその残滓にありったけのヱーテルを流し込んで受肉マテリアラヰズさせ、

「くぅッ――」激痛とともに、引っ張った。

 果たして右腕と肩の間にあったアストラル体がロープのようにピンッと張り、一瞬遅れて腕が村田銃ごとに引き寄せられる。が、見れば大悪魔グランドデビルは早々に体勢を立て直しつつある。皆無が村田銃を手繰り寄せ、構え、発砲するまでに要する数秒もの時間を、敵がおとなしく待って呉れるとは到底思えない。だから皆無は、南部式を撃った――村田銃に向かって。

 驚嘆すべき集中力と狙撃力で以て放たれた銃弾は、村田銃の銃床を弾き、村田の体を勢いよく反転させる。その銃口が、大悪魔グランドデビルの頭部に向いた瞬間に、


「――【斯く在り給ふAMEN】ッ!!」皆無は、けして手放すまいと念じ続けた右腕の感覚を信じ、肩と腕をつなアストラル体の残滓に――その先にある人差し指の感覚に、力を込めた。

 ――瞬間、夜の神戸に昼が訪れた。

 太陽かと見まごうばかりの光を纏った銃弾が、巨大な火の玉となって敵を撃つ!


(やった!)爆炎に目と肺を焼かれないように顔を背けながら、皆無は勝利を確信する。自分が――否、国家が持ち得る最大最強の一撃を見舞ったのである。(次は――…え?)


 光と炎と煙が晴れた夜のとうで、皆無はほうける。己の胸に、大剣が刺さっていたからだ。

 大悪魔グランドデビルは頭部を陥没させ、血を噴き出させていたが、それだけだった。みるみるうちに内から肉が盛り上がり、骨ができ、黒い毛皮で覆われていく。再生していく。


「あ、あ、嗚呼ああぁ……」皆無の声に血と泡が混ざる。

 敵の持つ剣が、その切っ先が皆無の左胸に入り込み、ぞっ、ぞっ、ぞっ……と、差し込まれていく。皆無の小さな心臓を、ゆっくりと、丁寧に刺し貫いていく。そうして最後に、


「死…に……た…く――――……ごふッ」


 その刃が、皆無のろつこつを砕きながら、ひねり上げられた。

 明治三十六年十一月一日、阿ノ玖多羅皆無は死んだ。



◇数分前/外国人居留地・路地裏/帝国陸軍第零師団だいゼロしだん第七旅団所属のとある単騎中佐


 闇よりもなおくらいそのおおかみは、気が付けばそこにいた。


「え?」しようかい行動中だった中佐は慌てて、路地の陰から現れた狼――黒い霧を身に纏った体高三メートルもの怪物を注視する。「【オン・アラハシャノウ――文殊慧眼もんじゆけいがん】ッ!」


 ヱーテル総量、約一万単位。丙種悪魔デビル――悪鬼オーガ巨鬼トロルと同等の、集団で現れた場合に神戸を壊滅させ得る脅威と認定する。これほどの悪魔デビルの出現を神戸が、自分が検知できなかったのは何故なぜなのか。――否、今は対象を祓うのが先だ。


「十二時方向! 鶴翼の陣!」


 中佐の号令とともに、同行中だった尉官四名が陣を組む。狼の悪魔デビルに対して、大将役となる中佐を最奥に置き、左右前方に翼のように展開しながら、前列が十字独鈷杵を掲げる。第七旅団の『小隊』における操典どおりの動きである。


「ヱーテル総量、一万! 丙種悪魔デビルだ! 全員防御!」


 村田銃を構えようとしていた中列二人が、十字独鈷杵とつこしよに持ち変える。と同時、敵が動いた。前列右の少尉に襲い掛かってくる! 狼が、少尉が展開する光り輝く壁――独鈷杵によって日本の地脈からヱーテルを吸い上げ、それを十字架によって対西洋妖魔防護壁に変換することで発生する【小十字結界アンチマテリアルバリア】に突進し、

「――ぎゃッ!?」少尉の悲鳴。

 結界が、どす黒いヱーテルを纏った狼の突進によって、あっさりとたたられた。牛鬼ミノタウロスの猛進を、悪鬼オーガの拳をも軽々と受け切るはずの、第七旅団が誇る最強の盾が、である。

 狼が少尉の脚にらいつき、肉を引きちぎる。が、

「【御身の手のうちに・くにと・力と・栄えあり・永遠に尽きることなく――】」中佐の方も、準備が整っていた。村田銃で狼の頭部に照準を合わせ、「【AMENアーメン】ッ!」


 光り輝く弾丸が、敵の頭部に吸い込まれる。狼が大きく跳ね飛ばされる。が、それだけだった。丙種悪魔デビルを楽々と祓い切れるはずの威力を持った実包・主天使弾ドミニオンズバレツトを以てしても、狼に傷ひとつ与えることができない。中佐は戦慄する。


「対象を乙種と再認定!」紋章竜ワヰバーン神災狼フエンリル鷲獅子グリフオン等の伝説の魔獣と同程度と認定する。

 前列左の少尉が、負傷したもう一人の少尉を抱え上げて後退する。

 神戸港の各家屋を守る結界は、先ほど少尉が展開し、あっさりと破られたものと同程度の強度しかない――いや、港そのものを外海から守る【神戸港結界こうべこうけつかい】と、第七旅団による厳重な検疫があれば、それでも十分過ぎるほどの強度を誇るはずなのだ。

 だが、現にこうして、この黒い狼は【小十字結界アンチマテリアルバリア】を破砕せしめた。つまり、

(今、ここでコイツを祓い切らなければ、神戸が滅ぶ!)だから中佐は、覚悟を決めた。己の寿命ヱーテルささげる覚悟を。「【二面二臂のアグニ・十二天の一・炎の化身たる火天よ】」


 村田の銃口の先に、火天が描かれたまんの幻影が立ち現われる。中尉二人が結界と軍刀サーベルで以て命懸けのけんせいを行う中、中佐は集中とともに次なる詠唱を行う。


「【神に似たる者・大天使聖ミカヱルよ・清き炎でしき魔を祓いたまえ】」


 生命樹セフイロトの幻影が展開され、中央の『テイフアレト』――大天使ミカヱルが守護を務める太陽の象徴と、曼荼羅の火天と、銃口が合一する。日本の霊脈から吸い上げたヱーテルを旧教カトリツクと習合させるために『パリ外国宣教会MEP』が開発した術式、『生命樹セフイロト曼荼羅』である。


「【――AMENアーメン】ッ!!」引き金を引く。

 銃口から放たれるのは、光り輝く巨大なやり。数年分の寿命ヱーテルを込めた一撃が悪魔デビルの頭部を穿うがち、爆炎を巻き起こす。【神使火撃ミカヱル・シヨツト】。日本の悪魔祓師ヱクソシストが扱う、最大威力の対西洋妖魔術式である。佐官でも扱える者の少ない、最終奥義。

 狼は頭部を失い、倒れ伏す。残った体も、どす黒いヱーテルの粒子になって宙に溶けた。


「――討伐完了だ! お前たち、よく耐えた!」中佐がねぎらうと、部下たちが汗を拭いながら笑い掛けてくる。胸をで下ろした中佐は、「……………………え?」


 いつの間にか、自分が地面に倒れ伏していることに、気が付いた。右足に、力が入らない。腕で身を起こしつつ振り返ると、はらったはずの狼が、右足のかかとに喰らいついていた。


「あ、嗚呼ぁ……中佐殿」


 震える声に中尉の方を見てみれば、中尉は明後日の方向を見ながら震えている。一体、何を見ているのか。第七旅団が誇る最終奥義を以てしても祓えないこの悪魔デビルの他に、見るべきものがあるのか。中佐は中尉の視線の先――海岸通りに続く大通りを見る。

 そこに、ソレが立っていた。梟の頭に、光り輝く裸身と天使のごとき翼を持った異形が。


「ゴァァアアアァァアアアアアアアッ!!」その異形が、長大な剣を振り上げてほうこうした。


「あぁ、嗚呼ぁ……」中佐は、明確に絶望する。自身が生きながらにして狼に喰われつつあることなど、問題にならないほどの絶望。

 中佐の視界に収まる影という影から、無数の狼――乙種悪魔デビルが立ち現われる。

 にわかに、辺り一面がけんそうと悲鳴であふれる。この路地だけではないのだ。まさしく神戸のありとあらゆる場所に、この狼が現れたのだ。


(嗚呼……俺は今日、ここで死ぬ。最期に妻と娘にえなかったのは残念だが)それも仕方ない。まさしくこういう場面で命を捨てるために、自分は高い身分と給金を与えられているのだから。(一分、一秒でも多く時間を稼ごう。閣下が来てくださるまでの時間を。一匹でも多く道連れにしてッ!)

 中佐が壮絶な覚悟を固め、自身を喰らう狼に向けて銃口を向けた――まさにそのとき、

「HAHAHA!」場違いなほどに陽気な笑い声が、夜空を引き裂いた。

 同時、空から光り輝く弾丸が降り注いできて、中佐に喰らいついていた狼を、部下たちを喰い殺さんとしていた悪魔デビルたちを貫く! 敵一体につき、一発。いっそ滑稽なほどの丁寧さでもつて降ってきた弾丸は、狼たちを祓い、黒いヱーテルの残滓へと変えてゆく。


(来てれた!)中佐は天を見上げる。身長一〇〇サンチ足らずの子供が、何十丁もの村田銃を周囲にはべらせながら、宙を舞っている。(阿ノ玖多羅少将閣下。日本の守り神が!)



◇数瞬前/外国人居留地・上空/帝国陸軍第零師団だいゼロしだん直属単騎少将・阿ノ玖多羅正覚


 神戸鎮台ちんだいからありったけの佐官を引き連れてきた正覚は、【わたり】の秘術で以て居留地上空に現れる。当然、佐官たちも宙に投げ出される形となるが、その程度のことで慌てるようなぜいじやくな将校はいない。

 正覚は無詠唱の【文殊もんじゆけいがん】で以て神戸一円を探査し、神戸を荒らす敵性妖魔――無数の狼たちの位置を割り出す。正覚の周りに数十丁の村田銃が立ち現われ、


「――【AMENアーメン】ッ!」


 独りでに引き金が引かれ、数十個の光の矢が一斉に放たれる。一発一発が無詠唱の【神使火撃ミカヱル・シヨツト】をまとった弾丸が、狼たちをほふっていく。何度も何度も引き金が引かれ、弾が尽きれば新たな弾倉が虚空から現れ、独りでにそうてんされ、また射撃が開始される。

 ――ものの数秒で、きようかんの地獄だったはずの神戸港が沈静化した。

 連れてきた佐官たちの中には治癒術式を得意とする者も多い。彼ら彼女らが全力を尽くせば、死者数零でこの戦局を乗り切ることも不可能ではないだろう。だが、

(私が感じたヱーテル反応は――脅威は、こんな雑魚どもじゃない)

 正覚は今一度、より入念に周囲を探査する。そして、

「皆無ッ!!」はるか眼下――海岸通りのその先で、心臓をちやちやに破壊され、今まさに死にひんしている息子の存在に、気付いた。「【オン・バロダヤ・ソワカ――氷肌ひようき】ッ!」


 水天の真言密教術で以て、息子の全身を氷漬けにする。今にも倒れ伏そうとしていた息子の体が、そのままの姿で凍りつく。ひとまず息子の死は免れた。が、あれほど徹底的に破壊された心臓を再生させるには、さしもの自分であっても皆無に直接触れる必要がある。


「けど、そうは問屋が卸して呉れそうにない、か」正覚は大通りに降り立つ。彼の視線の先には、ふくろうの頭と光り輝く裸身、そして天使の翼を持った異形――大悪魔グランドデビルの姿がある。「愛する息子をめつ刺しにして呉れたのは、お前かな?」


 尋ねながら、正覚は状況を整理する。――敵の数は、三。

 一つ、自分が最も警戒していた、ヱーテル総量五億超えの大魔王グランドサタン。少女の姿を取る甲種悪魔デビルは現状、皆無を含めたこの場の人間たちに対して敵対行動を取ろうとしていない。如何いかなる事情があるのかは不明だが、神戸滅亡を危惧していた己にとり、これはぎようこう

 一つ、大魔王グランドサタンの従者とおぼしき、受肉マテリアラヰズ状態を維持できぬ悪霊デーモン。今は捨て置く。

 最後の一つが、梟頭の大悪魔グランドデビルだ。狼たちも、この悪魔デビルけんぞくと思われる。

 その大悪魔グランドデビルが、印章シジルが描かれた右手の平をこちらに向け、詠唱を始める。が、


「遅い」敵の行動を待ってやる義理などない。彼我の距離は数十メートル。正覚は【てん】を纏った脚で以て、その距離を一秒のうちに零にする。手にはすでに、虚空から取り出した村田銃が――熾天使弾セラフイムバレツトが装填済の一丁が握られている。猫のような動きで敵の懐に潜り込んだ正覚は、銃剣で敵の胸を突き刺して体を持ち上げ、「【AMEN《アーメン》】ッ!」


 無詠唱の【神使火撃ミカヱル・シヨツト】で以て、敵を夜空へ打ち上げた。わざわざ敵を空へ追いやったのは、こうでもせねば己の銃撃で居留地を更地にしかねないからだ。土手っ腹に大穴を開けられた敵悪魔デビルがもがいているが、さらなる【神使火撃ミカヱル・シヨツト】で滅多打ちにする。

 空が真っ赤に燃え上がり、爆風が各家屋を覆う結界を焦がす。熾天使弾セラフイムバレツトによる【神使火撃ミカヱル・シヨツト】。およそこの国で考えられる、最高峰の一撃。たとえ相手が竜種であろうとも、かすっただけでグズグズに溶かしてしまうほどの威力だ。

 計八発の熾天使弾セラフイムバレツトを撃ち切り、さらなる熾天使弾セラフイムバレツトの弾倉を装填しながら、正覚は【文殊もんじゆけいがん】を纏った瞳で敵悪魔デビルを見上げる。敵は剣を失い、左腕を溶かされ、両足を消し飛ばされながらもなお、生きている。ゆっくりとだが、損傷部位が再生しつつある。


(あの堅さは間違いなく大悪魔グランドデビル何処どこぞの国の登録済ネームドかな? だが、それにしては――)


 弱い、と正覚は感じる。堅いことは堅いし、無数のおおかみを召喚・使役する能力は脅威そのものだ。が、それにしては、正覚に対して防戦一方である。魔術による反撃もない。

 正覚は次なる【神使火撃ミカヱル・シヨツト】を撃ち込む。敵は空中で身をよじり、左肩で以て受ける。


何故なぜ、魔術で受けずに肉で受ける? それにあの動き、まるで右手を守っているような――)印章シジルが描かれた敵の右手。戦闘開始時点から続いている、敵の詠唱。(まさかッ!?)


「【偉大なる不和侯爵庵弩羅栖のゴーサー・マーキイ・フオン・名において命じるツヴイツハーツ・アンドラス・ブシ】」敵悪魔デビルが、右手の平をこちらに向ける。描かれた印章シジルが、まばゆい輝きを放つ。「【悪魔大印章よゴーサー・シーゲル・フオン・デモン――顕現せよアインザツツ】」


 敵が、詠唱を完成させた。途端、敵の右手から漆黒の霧があふれ出す。霧が敵の姿を覆い、失われたはずの手足をみるみるうちに再生せしめる。


大印章グランドシジル!?)正覚は、ろうばいする。(悪魔大印章グランドシジル・オブ・デビルと言ったか、コイツは、今!?)


 悪魔大印章グランドシジル・オブ・デビル所羅門ソロモン王が使役したとわれる七十二柱の大悪魔グランドデビルと、その上位種たる七大魔王セブンスサタン――歴史に名だたる悪魔家に代々伝わるとされる究極の魔法陣。大印章グランドシジルから放たれる強力無比の魔術は、世界の物理法則、霊的法則を容易にげ、更には、

大印章グランドシジルみ込まれた空間では、大印章グランドシジルの主が望まぬ術式は全て無力化される!)正覚は敵悪魔デビル――いや所羅門七十二柱ソロモンズ・デビルが一柱、不和侯爵庵弩羅栖アンドラスへ向けて射撃する。巨大な光の槍はしかし、黒い霧に触れた途端、単なる銀の銃弾に戻る。熾天使弾セラフイムバレツトに込められた膨大な祈りが、正覚が纏わせた【神使火撃ミカヱル・シヨツト】の神力が、無力化されてしまったのだ。ただの銃弾では、敵にかすり傷ひとつ負わせられない。(くそったれ! やつの狙いはこれだったか!)


 正覚は遮二無二弾丸を撃ち込むが、霧は一向に衰えを見せない。

 今や庵弩羅栖アンドラスは全身を完全に再生せしめ、天使の翼で以て悠々と降り立つ。庵弩羅栖アンドラスが右手を天に掲げると、放出される霧が更に勢いを増し、街道を照らす弧光アーク灯の光を、第七旅団員たちが展開する探照灯の輝きを奪っていく。

 が、神戸とて、【神戸港結界こうべこうけつかい】とてやられっぱなしではなかった。第壱波止場の鉄桟橋にそびえ立つ巨大な十字架が輝きを増し、霧を押し返そうとする。


「ゴァァアアアァァアアアアアアアッ!!」いきなり、正覚の後方でたけび。

 慌てて振り返れば、目の前にいたはずの庵弩羅栖アンドラスが南方向、海岸通りにいる。


(【わたり】が使えるのか!? いや――)庵弩羅栖アンドラスの姿が地面に潜った、かと思えばさらに南の波止場へと姿を現す。(奴は、影の中を移動するのか!)


神戸港結界こうべこうけつかい】の大十字架を目前にし、庵弩羅栖アンドラスが右手を振り上げる。途端、周囲の霧が寄り合わさり、巨大な漆黒の腕となって大十字架につかみかかろうとする。佐官たちのうち、結界術にけた者たちの祈りによって大十字架がますます輝き、両者の力がきつこうする。


「【収納空間アーテヰーク・カストウン】」庵弩羅栖アンドラスが、動いた。虚空から棒のような何かをずるりと引き抜く。


(あれは……腕?)正覚の目には、それは義手か何かのように映る。

 庵弩羅栖アンドラスが海岸に向かって走り出し、その義手を大十字架目掛けてやりのように投げた。その義手は眩いヱーテル光を帯びながら大十字架を穿うがち、大穴を開ける。

 ――大十字架が光を失った。永らく神戸港を西洋妖魔たちの手から護っていた【神戸港結界こうべこうけつかい】が、崩れ去った瞬間だった。途端、霧の量が爆発的に増える。黒い霧は各家屋を守る結界の光を奪い、ついには空に輝く星々をすら覆い隠す。

 視界が霧に覆われる寸前、正覚は見た。皆無を氷漬けにしていた己の術式が霧にまれて無力化され、皆無がゆっくりと倒れ伏そうとしているところを。そんな皆無のもとに、少女の姿をした大魔王グランドサタンが歩み寄るところを。


「皆無――ッ!」正覚の声もまた、霧に呑まれてしまう。(拙い拙い拙いッ! 早く治療せねば、皆無が死んでしまうッ!)


 不老不死の身となった己と違い、人間は心臓なしでは数分と生きられない。皆無の心臓を再生させるためには術式が必要だが、そのためにはまず、この霧を晴らさねばならない。

 村田銃を捨てた正覚は、両脚にヱーテルを込め、庵弩羅栖アンドラスのヱーテル反応を頼りにとつかんする。両の手の平にありったけのヱーテルを乗せ、庵弩羅栖アンドラスの背中へ両の掌底をたたき込む――が、その手は空を切った。果たして庵弩羅栖アンドラスは己の数十メートル後方におり、そして何故か庵弩羅栖アンドラスと己以外は誰もいない。海も、空も、街並みもない、黒一色の世界。


(ここは――…大印章世界グランドシジル・オブ・ワールド!? 引きずり込まれたか!)正覚の焦燥に拍車が掛かる。

 ふと、周囲に無数の気配。濃い霧の中から、漆黒よりもなおくらい狼が飛び掛かってきた!



◇同刻/同地/阿ノ玖多羅皆無単騎少佐

 心音が、聴こえない。己の心音が、聴こえないのだ。何度【文殊慧眼もんじゆけいがん】を使っても。


「…………すまぬ、な」


 耳元で、ひどく心地の良い声が聴こえた。どうやら自分は、先ほど天から現れた少女の悪魔デビルに、抱き留められているらしい……腕もないというのに。


の不明の所為せいで、そなたを巻き込んだ。時にそなた、まだ、死にたくはないな?」


 ……当たり前だ。当たり前だ! 自分はまだ何も成していない! 偉大過ぎる父には届かぬまでも、ひとかどの悪魔祓師ヱクソシストとなって活躍し、国家の役に立たなければ!

 男児として生まれたからには大成し、国家繁栄と独立維持の礎とならねばならない――このごろの多くの若者と同様、皆無もそのような単純明快な大志ambitiousを抱いていた。


「よかろう」果たして皆無の意志が伝わったのか、少女がわらった。「そなたに第二の心臓を呉れてやろう。その代わり――あはァッ、すまぬなァ人の子よ――死よりも恐ろしい、地獄への旅路に付き合ってもらうぞ」


 少女が皆無の体を、真っ赤な血で染まった肩でとんっと小突く。皆無の体がわずかにのけ反り、皆無はその悪魔的なまでに整った、凄惨なまでに美しい少女の顔を間近で見上げる形となる。その顔がぐんぐん近づいてきて――

 少女の唇が、皆無の口を塞いだ。

 口付け。甘くドロリとした何かが喉に流れ込んでくる。胸が焼けるように熱くなり、頭が割れそうなほどに痛み、視界が真っ赤に染まる。


「……う、うごぉぁぁあああああああ!!」己の喉から吐き出される、獣のごとほうこう

 全身の血が沸き立つ。腕が、胸が、腹が、脚が内側から蠢きながら隆起し、体の奥底から別の何かに作り替えられるおぞましい感覚。斬り飛ばされたはずの右腕が独りでに戻ってきて、皆無の肩に収まる。真っ赤に染まる視界の中で、皆無はその腕を眺める。何ダ、コレハ? コノ、人ナラザル形ヲシタ悍マシイ手ハ、腕ハ、体ハ――――……

 そこから先の記憶はない。



◇同刻/同地/阿ノ玖多羅正覚単騎少将


 術式による索敵が行えない今、正覚はその数・位置をヱーテル反応と肌の感覚だけで何とか把握する。四方八方から飛び掛かってくる巨大な狼たちを、正覚は素の体術とヱーテルによる筋力の補強のみでこれを潰し、打ち払い、さばき、ける。庵弩羅栖アンドラスは狼たちの影から現れては、正覚に必殺の刃を打ち込んでくる。が、正覚は影の中を移動するヱーテル反応を捉え続け、これを紙一重でかわす。

 ……そんな風にして一分近くが経過した。いくら頭部を潰しても、狼の数は一向に減らない。死した狼が闇に呑まれ、新たな狼となって襲い掛かってくるからだ。


(糞っ、糞っ、糞ったれ! 早く戻らねば皆無が死んでしまう!!)


 その焦りがあだとなったのか、一匹の狼が正覚の右腕にらいついた。


「しまっ――」


 その狼の影から現れた庵弩羅栖アンドラスに、右腕を肩からスッパリと斬り落とされる。腕というのは、重い。バランスを崩して倒れた正覚は、とっさに変化の術で右腕を回復させようとするが、この空間がそれを許さない。正覚の手足に、次々と狼たちが群がってくる。

 ――そのとき、闇の世界の一点に光のひびが入った。

 ひびはすぐに世界全体に広がり、まるでガラス窓が砕け散るようにして、闇ががれ落ちていった。現れたのは、外の世界だ。探照灯や街角の弧光アーク灯がこうこうと辺りを照らし出している。光に当たった狼たちが、のた打ち回りながら黒い霧となって消えていく。

 そして、最初に光のひびが入ったその場所に、拳を突き出した小柄な異形がいる。


「ゥガァアァアァアアアァァアァアアアァアアアアアアアアアアアアアア!!」


 その異形――皆無と同じくらいの背丈で、山羊やぎの角と、真っ黒で毛深い手足と、鋭くまがまがしい両手の長い爪と、隆々たる胸筋と、さそりのような尾と、真っ赤に燃え上がる瞳を持ち、悪鬼の形相で犬歯をき出しにした悪魔デビルが、空に向かって咆哮する。


「あはァッ、素晴らしいぞ人の子よ!」異形の隣に立つ、両腕のない少女の悪魔デビルが嗤っている。「大印章世界グランシジル・レ・モンドを拳ひとつで叩き割るとは! 素晴らしい拾いものじゃァ!」


「か、皆無……?」正覚はぼうぜんとなりながら、その異形に語り掛ける。

 十三年も育ててきたのだ。姿と声がどれだけ変わろうとも、分からないはずがない。だが当の異形――変わり果てた皆無は正覚には目も呉れず、ふくろう頭に向かって身構えている。


「よし、け我が子よ」少女が嗤う。「そやつ――不和侯爵庵弩羅栖アンドラスを滅ぼすのじゃ!!」


 正覚が見守る中、不和侯爵庵弩羅栖アンドラスと、大悪魔グランドデビル・皆無の戦いが始まる。



◆同刻/同地/腕のない甲種悪魔デビルの使い魔 大悪魔グランドデビル・阿ノ玖多羅皆無


 彼我の距離は十メートルほど。皆無は四足獣のように体を深く沈み込ませる。今の皆無に、冷静な思考というものはない。殺せ殺せ殺せ、敵を殺せ! 我が主の望むままに――狂気と狂乱の中、ただそれだけを己に命じて動く。

 不和侯爵庵弩羅栖アンドラスがこちらへ右の手の平を向ける。手から闇が現れて皆無と少女の悪魔を取り囲み、闇からおおかみの群れがい出てくる。


「ガァァアアアゴォォオオオオッ!!」皆無は咆哮とともに、手近な狼へと、その鋭い爪を振り下ろす。

 狼はまるで豆腐か何かのように軽々と切り裂かれ、皆無の【悪魔の吐息デビラ・ブレス】とともに吐き出されたごうで、ヱーテルごとちりとなって消える。

 同じようにして全ての狼を屠り散らすと、肝心の、庵弩羅栖アンドラスの姿が見えない。


「照らせ、いとしき我が子よ」ふと、耳元で愛してまない主の声。

 皆無が両腕を天に掲げると、上空に七つの太陽が生成される。神戸港のあらゆる影が照らし出され、皆無は視界の端――海岸通り近くの裏路地に、潜むべき影を失って戸惑う庵弩羅栖アンドラスの姿を見つける。皆無は獣のように両手両足で疾走し、今まさに背中の翼で飛び立とうとしていた庵弩羅栖アンドラスの足をつかむ。が、庵弩羅栖アンドラスが自身の足を切り落とし、ふらふらと空へ逃げてゆく。

 翼。翼があれば空が飛べるのだ――皆無は背中から翼を受肉マテリアラヰズさせようとするが、ヱーテルが足らず、生まれたてのヒヨコのようなものしか生成できない。それで無理やり飛ぼうとするものだから、無様に転げてのた打ち回る。


「ふふふ、い奴じゃ」愛らしい声に顔を上げると、愛しい愛しい主――少女の悪魔デビルが皆無を見下ろしていた。皆無があおけになると、主が皆無の口にその狂おしいほどに麗しい唇を寄せてきて、「さらなる力を注いでやるから、今度はくやるのじゃぞ?」


 また、口移しで暴力的な量のヱーテルを注ぎ込まれる。

 果たして皆無は蝙蝠こうもりの翼を巨大化させたような、実に悪魔的な翼の受肉マテリアラヰズに成功する。そして、その翼をたった一度羽ばたかせたときにはもう、視界の先で豆粒ほどになっていたはずの、庵弩羅栖アンドラスの首をへし折っていた。不和侯爵庵弩羅栖アンドラスが――世界に百といない甲種悪魔デビルの一柱が今、滅んだ。その肉体が黒い霧となって闇に溶けていく。


「よくやった、愛しき我が子よ」海岸線に戻ると、麗しの主がたたずんでいた。主が、その凄惨なまでに整った顔を扇情的に歪ませて、「予を、連れていってたもれ」

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