第32話 ダンス
ソフィアはすっかり食が細くなった。ほとんど残すこともなくデザートまでたどり着いていたのが嘘のように、半分くらいしか食べることが出来なくなってしまったのだ。
明らかに様子がおかしいソフィアに、心配そうな視線が集まった。エルネストがソフィアを案じているのは言うまでもないが、今日は珍しくルーカスもいた。
といってもルーカスは食事をともにしているわけではなく、普段はシトリーが一人で行っている配膳を行っていた。
様子がおかしいソフィアに万が一がないよう、エルネストの命でそばにくっついているため、配膳をする余裕がないのだ。雇い入れた侍女たちにソフィアの様子を見せるのも良くないと判断したエルネストが命じた結果だった。
「……あまり食欲がないようだけれど」
同席しているエルネストが気づかわしげな視線でソフィアを見た。
ソフィアの食事量が減り、物憂げな表情をするようになったのはスカーレットとのお茶会を終えた後だ。それはつまり、実家から籍を抜かれた、と知らされた後であり、父に縁を切られたことで傷ついている、というのがエルネストの予想だった。
しかし、実際は違う。
(……なんでそんなに優しくしてくださるんですか、私なんかに)
ソフィアはエルネストへの想いを自覚し、それだけで胸がいっぱいになっていた。
吸い込まれてしまいそうな黒曜石の瞳。
まっすぐに、しかし甘く染みわたるような声。
エルネストが前にいるだけで食べ物の味も分からなくなってしまうような状態だった。
重症である。
(私は、ただの『練習相手』なのに……)
「ソフィア。何か食べたいものはないかい? どんなものでも良い。少しでも食べられそうなら用意させる」
「大丈夫です。何か気分転換を――」
「それなら、ダンスはどうだ?」
エルネストの提案に、思わず固まる。
「ダンス。だれと、だれがです?」
「ソフィアと、俺が」
「えっ、あっ……」
純粋な気遣いであることがわかる表情に、ソフィアは眩しさすら感じてしまうほどだった。
自分が、エルネストと踊る。
想像するだけで顔から火が出そうだった。
「気持ちが晴れないときは思いっきり運動したり、音楽を聴くのが良い。楽団を用意させたり観劇にいくのも悪くはないが、折角だからルーカスとシトリーに演奏してもらって踊ろう」
「二人は演奏もできるの?」
意外な人選に驚けば、シトリーが珍しく悔しそうな表情を浮かべた。
「ええ……私はピアノが得意ですし、ルーカスはヴァイオリンが上手です」
「シトリーは楽器の腕前でルーカスに敵わないから、ちょっと拗ねている」
「拗ねてなどいません」
いつもの仕返しとばかりにエルネストにからかわれ、シトリーの眉間にしわが寄った。ついでと言わんばかりにルーカスへと厳しい視線を向けるが、ルーカスからしてみれば酷いとばっちりである。
「さて、そんなわけで器楽隊は準備万端だ」
言葉とともに立ち上がり、ソフィアの前でひざまずき、芝居がかった口調で手を伸ばした。
「私めと一曲、踊っていただけませんか、姫君」
「はいっ」
ぽぅ、と熱に浮かされたような幸せに包まれながらも、ソフィアは頷く。
屋敷の角、日当たりの良いところに作られたサロンに移動した面々。ルーカスがヴァイオリンを構え、シトリーはピアノの屋根を開けて準備運動代わりに曲を弾き始めた。
暗譜しているのかサラリと弾いたそれは思わず聞き惚れる、と言っても良いレベルのものだ。
(ルーカスはこれより上手なの……?)
ピアノに耳を傾けているソフィアだが、他の侍女が用意したハイヒールに履き替えている。エルネストはソフィアよりも頭一つ分大きいため、高めのヒールを履かないとバランスが取れないのだ。
「大丈夫か?」
「はい。授業でかなり頑張りましたので」
幼い頃に学んで以降はほとんど踊る機会がなかったものの、一時期は起きてから寝るまでずっとヒールで過ごしていたこともあり、基本的に不安はない。
「準備はよろしいですか?」
「ああ、頼む」
シトリーが弾き始めたのはややゆったりとした曲調のワルツだ。ソフィアがどのくらい踊れるかが分からないため、難易度が低そうなものを選んだのだろう。
二人で見つめ合う。
エルネストはすでに準備万端、優しげな笑みを浮かべてソフィアへと手を差し伸べた。明るい曲調ながらもゆったりした雰囲気に合わせてステップを踏む。
いつもよりもずっと近くにエルネストの顔が見えてソフィアの鼓動が早まった。
「大丈夫、落ち着いて」
動揺が伝わったのか、エルネストの動きがリードするような力強いものに変わる。そのまま身を任せ、エルネストに合わせるだけでタイミングが整った。
(すごい……楽しい)
不思議な高揚感に包まれながら二人でステップを踏む。
突然、ピアノのメロディに合わせてヴァイオリンが跳ねるような動きで入ってきた。軽快なヴァイオリンはピアノを引っ張るようなアップテンポだ。
ソフィアもエルネストもそれに合わせてステップを変化させる。
動揺さえしなければソフィアとてきちんと踊れるだけの練習は重ねてきている。
ましてや目の前にいるエルネストはソフィアが教わってきた教師陣よりもダンスが上手だった。リードするような動きに合わせるだけでもきちんと形になるし、ソフィアが浮足立ってしまってもきちんと形になるようフォローをしてくれた。
どれほど踊っただろうか。
気付けば曲は終わっていた。
ソフィアは弾む呼吸に上気した頬でエルネストを見つめていた。
エルネストは余裕しゃくしゃくといった態度ではあるが、楽しそうに微笑むソフィアを見て微笑んでいる。
「流石だね。ダンスも上手だった」
「いえ、エルネスト様にリードしてもらえたからです!」
「そう言ってもらえると頑張った甲斐があったな。本番は帯剣することになるが、この分なら問題はないだろうな」
「剣、ですか? パーティーに?」
「ああ。騎士団長は礼服も騎士団仕様で、儀礼用の剣がつくんだ」
「見てみたいです」
花のように表情をほころばせたソフィアに、エルネストがいっそう優しそうな視線を送った。
ソフィアを支えていたエルネストの指が、ソフィアの頬に触れる。指先、触れられたところにエルネストの体温が伝わる。
そっと撫でられるに任せたソフィアはゆっくりと目を閉じた。
そしてそのまま――、
「どうして貴方はそうやってすぐ自分勝手に
静寂を破ったのはシトリーだ。怒り心頭といった表情でルーカスを睨みつけている。
「お嬢様がどのくらい踊れるのかもわからない上に、体調的にも万全じゃないんですよ!?」
「踊れたんだから良いだろ。っていうか体調不良を忘れるためにはちょっと激しいくらいの方が良いんだよ」
「結果論です!」
珍しく声を荒げているシトリーを見て、ハッと我に返る。
ソフィアの顔が見る見る内に赤く染まり、エルネストもばつが悪そうに指をソフィアから離した。
「そんなに怒るなよ。ほら、エルもお嬢も良い雰囲気だったのに」
「そういう発言が
二人ともがソフィアたちの振舞いに気付いていた。
暗にそう告げられてソフィアは耳まで真っ赤になってしまった。ダンスによるものとは違う熱に、身体が熱くなっていた。
「ソフィア、疲れたか?」
「い、いえ! 大丈夫です!」
「それは良かった。とりあえず、飲み物を飲んで一息つこう」
侍女に飲み物の指示を出すエルネストは、いつも通りのようすだ。
頬に残るエルネストの熱を感じ、ソフィアはなぞるように自らの指で頬を撫でた。
(あのままシトリーが静かにしてたら……)
どうなっていただろうか。
もしも、を考え始めたソフィアはほっとしながらも、どこか残念に思った。ちくりとした胸の痛みには気付かないふりをした。
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