第31話 一夜明けて
(どうしよう……)
エルネストの屋敷。自分に割り当てられた部屋で目を覚ましたソフィアは、軽い頭痛とともに頭を抱えた。どうやら丸一日眠ってしまっていたらしく、朝の日差しが窓から射しこんでいた。
頭痛そのものは大したことない。
問題なのは眠りにつく前の朧気な記憶だ。
(女王陛下の前で泣き出して、エルネスト様に甘えるだけ甘えて)
『その上、
「トト……!」
いつの間にか考えていたことが口から出ていたらしい。
サイドボードにちんまりと丸まっていたトトに思い出したくない事実を告げられた。
(大失態だわ……)
はぁ、と溜息を吐いたところでやってしまった事実は消えない。
「……もし嫌われたらどうしよう」
本気で悩み始めたソフィアにトトのジト目が突き刺さった。
『ソフィア……寝る前のこと覚えてないの?』
「覚えてるから悩んでるんじゃない!」
『覚えてるなら何で嫌われる心配なんて出来るのよ……』
「えっ」
認識の
女王やエルネストの態度は
「いくら練習って言っても、陛下の前で泣きわめくような人を婚約者には置いていけないわよね……」
『あのねぇ……ハァ。まぁ良いけど』
「何よ。言いたいことあるならちゃんと言ってよ」
『契約してくれるなら、ね』
「またそれ? もう!」
ソフィアが怒ったところで、ドアがノックされた。
現れたのはシトリーを引き連れたエルネストだ。思わずタオルケットを引っ張って顔を隠してしまうソフィアだが、その程度でエルネストを止めることなどできない。
ベッド脇に腰掛けて、シトリーの持ってきた水差しとコップを手に取る。
「ソフィア。具合は大丈夫か?」
「……はい」
「義母上がすまなかった。紅茶に入れた酒が強すぎたらしい。酒精が入った時は水を取ると楽になる。ほら」
水の注がれたコップを差し出されてしまえばそれを断ることも出来ず、ソフィアはおずおずと顔を出した。
受けとって口をつければ、冷たい感覚が身に染みていくようだった。
(ああ……美味しい)
ほっと一息ついたところでエルネストに視線を向ければ、黒曜石のような瞳とばっちり目が合ってしまった。思わず呼吸が止まる。
もやが掛かっていた記憶が鮮明に浮かび上がる。
『どこにもいかない』
優しく、そして力強く抱きしめてくれた時の体温が身体に残っているようだった。
かぁっと頬が熱くなるのが分かる。
『君を離したりしない』
ずっと欲しかった言葉だ。
求め続け、しかし強請ることができず、誰にも貰えなかった言葉。
エルネストはその言葉通り、自分の眼前にいてくれた。
「大丈夫かい?」
「……はい」
絞り出すように応えるが、脳裏にあるのはエルネストの言葉だけだ。優し気な笑み。力強く、そして包むような温もり。全てを受け止めてくれるような眼差し。
(ああ……私、エルネスト様のことが好きなんだ)
自分の気持ちが形になると、そのまますとんと胸の中に落ちた。
「ソフィア?」
気づかわし気に覗き込まれると、急に恥ずかしさがこみあげてきた。先ほどまで感じていた、昨日の失態に対する気まずさではない。
寝起きの姿を見られるのが恥ずかしかった。
寝ぐせはついていないだろうか。
顔にシーツや枕の跡がついてしまっていないだろうか。
昨日は湯あみをした記憶がないけれど、変な匂いはしないだろうか。
それどころか今までの言動を全て思い返して、エルネストに変な奴って思われていたり、或いは嫌われたりしていないだろうかと不安がこみ上げてくる。
益体もない思い付きがぐるぐると脳内を駆け巡っていた。
「ソフィア、どこか具合が悪いのか?」
「ち、違います」
「なら、よく顔を見せてくれないか」
ストレートにお願いされるも、羞恥心に負けて再びタオルケットに身を隠してしまう。
「ソフィア。何か気になることが――」
「若様、だから申し上げたじゃないですか。うら若き乙女の寝室に入るのは、感心できることではありません」
ましてやソフィア様はお疲れでようやく目を覚ましたばかりなのです、と付け加えたシトリーに、エルネストはばつが悪そうな顔をした。
「さぁ、ソフィア様にお支度する時間を下さいませ。着替えを覗きたいのでなければ、また後でお越しください。覗きたいというならば騎士団に通報しますが」
結局、エルネストは碌にソフィアと会話することもできずにシトリーの
***
実のところ、ソフィアが起きる前から何度も確認に行こうとしてシトリーに
曰く、乙女の寝顔を見に行くのは趣味が悪い、と。
言われてしまえばそのとおりでしかないので我慢するしかなかったが、代わりに目を覚ましてすぐに駆けつけることにした。
体調が心配だからと押し切ってシトリーを呆れさせたが、それでも明確に断らせるだけの理由はなかった。
シトリーからソフィアとスカーレットのやり取りを聞いたエルネストはすぐにでもソフィアを抱きしめてやりたい気分だった。
エルネストは実母を亡くした後、義母の愛を受けて育った。
それですら堪えきれない孤独に苛まれたことは一度や二度ではなかったというのに、ソフィアは生きている家族からすら愛情を注がれたことがないのだ。
慟哭のようなソフィアの叫びは、家族が生きているからこそ期待し、それを裏切られ続けた結果だろう。
(どれほど苦しかったことか)
昨日。
酒が入って酔っていたとはいえ、彼女はぼろぼろと涙を流していた。
自分の存在を自ら否定するように叫び、エルネストにしがみ付く姿はいっそエルネストが痛みを感じるほどであった。
幸せになって欲しいし、幸せにしてあげたい。
エルネストが持っている権力と柵。表裏一体のそれはソフィアに対してプラスになるのだろうか。
本人が名乗り出ないので追及するつもりはなかったが、彼女は精霊の御子でもある。
何をどうすればソフィアのためになるのか、エルネストは考えあぐねていた。
彼女に新たな身分を用意するのは難しいことではない。
平民となった彼女を養子縁組し、自身と結婚するのに問題のない家格に持ち上げる計画もすでに進んでいた。後はソフィア本人の同意を残すのみとなっていたが、未だにそれを口に出せずにいた。
『私っ、捨てられちゃったんです! お父様に……!』
彼女は温もりを求め、しかし家族に捨てられた。
どれほどの悲しみだったろうか。
どれほどの絶望だったろうか。
『いっつもメアリばっかりで! ずっと! ずっとずっと我慢してたのに! お姉ちゃんだからって! それが当たり前だって言われて!』
耳朶に残る慟哭が、養子縁組の話を言葉にすることを阻んでいた。
深く傷ついたソフィアの心が癒えない状態で提案すれば、ふたたび彼女の心をえぐることになるのではないか。
その考えがエルネストを止めていた。
『褒めてほしかったのに! 私を見て欲しかったのに! 一生懸命頑張ったのに!』
思い出す度に、抱きしめたくなる。
ここに自分がいると、一生をかけて幸せにすると伝えたかった。
(……もう少しソフィアが落ち着いてからだな)
エルネストは頭痛に悩まされていた時よりもさらに深く、眉間にしわを刻んだ。
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