時刻は午後の20時半を少し過ぎたころ。

 夜と言える時間だけれど、この時間に恐怖を覚えることはない。

 僕がより恐怖を感じるのは、もっと夜闇が深くなり町の明かりの少なる頃だ。

 それと言うのも、ノリヒトの虐待の所為だ。




 一度、ノリヒトの虐待から逃れようと、深夜の時間に家を空けていたことがあった。

 いつも朝帰りをするノリヒトにとっては、僕がいない事なんてどうでもいいこと。

 だから、僕は安心して家を空けることができた。

 深夜の時間に家を空けて暗闇深い中、外を歩いていたときの高揚感は言葉にできない。

 煩わしいことからの解放感。

 誰の人目にもつかない時間。

 僕の悪口を言う者のいない時間。

 そのとき、確かに僕は自由を感じていた。


 でも、そんな偽りの自由は長く持たなかった。

 あのときは本当に運が悪かった。

 警察の職務質問に捕まったのだ。

 深夜の中、警察なんているわけないと思っていたのに、簡単に僕は捕まってしまった。

 そこからは誰もが想像できるだろう。


 警察は僕を警察署に連れていき、保護者であるノリヒトに連絡を取ったのだ。

 最悪だった。

 虐待から逃げたかっただけなのに、逆に自分から虐待される理由を作ったようなものだった。

 その先は思い出したくもない。

 不機嫌なノリヒトに、初めて性的な虐待で使われ、何発も殴られた。

 酒瓶で殴られ、首を絞められ、同性であり息子の立場である自分に性的虐待をする。

 その日は朝を迎えても眠れることはなかった。

 深夜から朝まで虐待されたのだから、当然だった。

 ノリヒトは時刻がすでに朝だと気付いたとき、僕に火のついた煙草を押し付け、寝る為か自分の部屋に戻っていった。

 それ以来、僕は深夜の時間帯が怖くなった。

 ひたすら、自分の布団にくるまり、存在感を少しでも消すために息を潜める。

 僕にとって本当に休める時間は存在しなかった。




 夜の時間の学校は、初めて深夜に外に出たとき感じた自由な印象を受ける。

 おそらくは誰もいない時間。

 校舎に入っても喧騒を感じず、自分一人だけが世界にいるような気分になった。

 いつもと違う校舎の雰囲気に、わずかな戸惑いを感じる。

 そう。

 いつもなら、この校舎で僕という存在がいないもののように扱われるからだろう。

 いまはその逆。

 僕という存在しかいない。

 自由を感じるとともに、若干の寂しさを感じている。

 いろんな感情を飲み込んで、僕は屋上を目指すことにした。

 

 明かりのない校舎内を、屋上目指して進んでいく。

 階段を踏み外さないように、着実に歩を進めていく。

 一歩一歩進んでいる中、僕の中で溢れる感情は何だろう。

 喜び? 怒り? 哀しみ? 楽しさ?

 どれも違う。

 言葉に表しようのない感情の中で、僕が確かに感じているのは安堵だと思う。

 ようやく、この苦しい現実から解放されるという安心が確かにあった。


 一階の階段から登っていき、もうそろそろ四階に到着する。

 四階に到着して、僕は大きく息を吐き出す。

 四階からの階段を上れば、屋上だ。

 もうすぐ。

 もうすぐ僕の苦しい人生が終わらせられる。

 そんな期待のような感情と自分の人生は何だったのだろうという虚しさを感じながら、階段へと足を踏み出した。

 瞬間。


 キーーーーーーッ


 黒板に爪を立てて引っ搔いたときのような音が響いた。

 不快感の強い音。

 そして、誰もいないはずなのにはっきりと聞こえた音への不安感。

 夜という時間帯への恐怖。

 時間にして5秒ほどだろうか。

 不気味な音ははっきりと響いていた。

 そして、ぱったりと音は止み、先ほどの音は気のせいだったのではと思えるほどの静寂が訪れた。

 

 急に響いた音への恐怖で、いつの間にか上がっていた息を整える。

 とにかくゆったりと大きな深呼吸をする。

 数回の深呼吸で落ち着いた僕は、またも階段を上ろうとする。

 その瞬間、またもあの音が響いた。

 

 キーーーーーーッ


 自然と足は止まってしまう。

 階段から少し離れると、またも静寂があたりを包む。

 どうやら、僕が階段を上ろうとすると音が響くらしい。

 そもそも近くには誰もいないし、人がいるなら声をかけてくるだろう。

 すると、この仕業は幽霊か、と考える。

 僕は屋上の幽霊が怖がらせてきているだけだろうと考えなおし、階段を上ろうとする。

 そして、響く不快な音。

 今度はそれを無視するように心がけ、階段を上っていく。

 不快な音に悩まされながらも、屋上に出られる扉の前に到着した。

 大きく息を吐いて、僕は扉を開けた。

 

 扉をくぐった先に開けた景色は印象的なものだった。

 ただ、暗闇が広がっているという訳ではなく、暗い空に確かに輝く星々が広がっていた。

 ここまで意識的に夜空を眺めたことのない自分には、確かに感じるものがあった。

 視界いっぱいに広がる夜空。

 暗い中にもしっかりと光を届けてくれる星。

 気が抜いたら吸い込まれそうに感じるほどだった。

 そんな風に夜空に夢中になっていると。


「やぁ、早かったね」


 昼間にいつも話しかけてきていた声が聞こえてくる。

 返事を返そうと声の方へ意識を向けると、昼間よりもはっきりとわかる存在感を放つ幽霊がいた。

 昼間ではぼんやりとしていた印象なのに、いまは若干の印象が強まったように感じる。

 具体的には、身長は僕と同じくらいの一六五センチぐらい。

 目元まで伸ばした前髪に、病的に感じるほどの不安になる細い体。

 少し強まった雰囲気でもそこまでの情報しか感じられなかったが、でも昼間の靄のような幽霊とは違い、存在がはっきりとしていた。


「う、うん。あんまり家にいたくなくてね。早めに来ちゃったよ」


 幽霊の雰囲気に若干、驚きながらも返事を返した。

 幽霊は苦笑しているような雰囲気で言う。


「そうかい。家でも安心できないなんて、可哀そうに……。っと、君はもうこの夜空をしっかりと見たかい?」


 急な質問。

 どういう意図があっての質問かは分からないけど、無視をするつもりはない。


「うん、少しは見たかな。初めて意識して夜空を見たかもしれないよ。かなり綺麗な景色だよね」


 僕の答えに、幽霊は頷く。


「そうだよね。僕も生前はあまり意識して夜空は見たことなかったかな」

「……」


 言葉をこぼす幽霊。

 そこにどんな感情が伴っているかは分からないけど、幽霊の圧力が一瞬増したように感じた。

 たぶんだけど、幽霊にとって良くないことを思い出したのだと思う。

 なんて声をかけていいのかわからず、無言になってしまう。

 

「ちょっとした僕の話なんだけどね。僕は生前いじめられていたんだ」


 独り言のように、言葉をこぼす。


「僕は人付き合いがとことん下手だった。言葉につまって、どもるのは当たり前。人前では緊張してかすれた声しか出ないことだってあった。それがいけなかったんだろうね」


 静かに語る幽霊の存在感が増していくように感じる。

 ここに確かに幽霊がいるのだという感覚に捉われる。


「ちょっとヤンチャな学生からはいじめやすい相手だったんだ。イジメの始まりはあまりにも稚拙すぎて覚えていないけど、どんどんイジメは悪化していったよ。暴力、カツアゲ、無視。思いつく簡単なイジメでも、僕の心は確かに疲弊したよ」

 

 イジメの様子を確かに覚えているんだろう。

 幽霊は怒りを抑えるかのように語っている。


「親も真面目一辺倒でね。僕が学校を休むことを酷く嫌がった。そして、心が疲弊しきった僕は気付いたらここに、屋上にいたよ。そのときに僕も眺めたんだ。この夜空を」


 怒りに身体を震わせていた幽霊の姿は気付いたら止まっていた。

 幽霊は夜空を眺めているようで、僕もつられて夜空を見る。


「ここから見る景色はあのときから変わらない。ひたすらに広くて、吸い込まれそうなほど暗くて、でも確かに星は輝いていて……。心が疲弊していた僕でも感動するほどの衝撃を、ここから見る夜空は与えてくれたよ。君も何か感じていたら嬉しいかな」


 そこで言葉を止めた幽霊。

 そして、ゆっくりと僕の方へ顔を向けた幽霊は言う。

 

「生きているうちに見られる最後の景色だ。あと10分ほどで21時を過ぎる。飽きるまで、満足するまで最後の景色を楽しんでくれ」


 僕は幽霊の言葉に従うように、夜空を見上げた。

 せっかく誰もいないのだからと、気を抜いた僕は、屋上で寝転んで夜空を見た。

 誰もいない。

 喧騒もない。

 ただ、僕は夜空を見上げた。


 


 時刻は21時を過ぎた。

 屋上の端へと歩を進める。

 上空は暗く、星々の明かりを頼りに端へ。

 屋上から見る地面は遠く、吸い込まれそうに感じるほどだ。

 でも、地面に輝く星はない。

 僕の行き先に星は必要ない。

 ここで僕の生は終わってしまうのだから、当然だ。


 でも。

 

 死んだ先が少しでもいいものであって欲しいと願う。

 そんな望みを抱いた僕は、空を眺めるように仰向けになるように落ちていった。


 僕が最後に見た夜空は確かに綺麗だった。

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