転生聖女様は異世界渡りをなさらない
かける
転生聖女様は異世界渡りをなさらない
――運命とは、時に無神経だ。
溜息をひとつ、肺の奥から吐き出して、
秋の宵口。制服のシャツ一枚では肌寒かったろう。学校指定の白いカーディガンを、デザイン制に目をつぶって羽織ってきた朝方の己の判断を讃えつつ、聖はもう一度溜息をついた。ちらりとその切れ長な瞳で、隣のブランコに座る、すらりと背の高い男を見やる。
どう贔屓目に見ても、黒い、甲冑姿だ。マントもついている。基準が分からないので断言はできないが、たぶん全身鎧に包まれて――というほどではないから、軽装なのだろう。だが、腰にはご丁寧に大きな剣まで携えられている。目立つ。ひどく悪目立ちする。
「え~と・・・・・・つまり? あ、お名前もう一度いいですか?」
「エイル・ジャネド・フェズリステル・フォン・ベレディレーナル・アグト・イファグディエ」
「やっぱくそ長い。エイルさんでいいですか?」
「無礼な感じに本音がちらりしてるが・・・・・・まあ、構わない」
明らかに空間に異質な出で立ちの男は、低く涼やかないい声音で答えた。とんちんかんなかっこうのくせに、あまり表情の色が出ない静謐な顔は端正に整っていて、ひとつに結わえた長い黒髪も綺麗なものだ。
「もうなんかどう対応したらいいか分かんないで、やりやすいようにやらせてもらうんだけど・・・・・・つまり、あんたが言うには、俺がそちらの世界の聖女の生まれ変わりで、そちらの世界が《厄災》の危機にさらされているので、迎えにきた、と・・・・・・そういう話でよろしい?」
「いまの会話に、先に名前を聞いた意味、あったか?」
「うっるさいな! いま大事なの絶対そこじゃないだろ」
淡々と斜めな方向から切りこまれた問いに、聖は苛立ちを隠さず舌打ちした。
「もう意味分かんない。なんでこんな理解しがたい状況なのかも分かんないし、そもそもなんでこんな不審者につきあちゃってるのかも分かんない」
「お前、俺もやりたくてこんなことしてるわけじゃないんだから、苛立つ言いがかりはやめてもらおうか。誰が不審者だ、誰が。こっちでは普通の出で立ちだ」
顔を覆って膝に埋める聖に、やや不愉快に歪んだ声が冷たく降る。
「こっちではいきなり人に剣をつきつける甲冑野郎は、普通じゃないんだよ」
ほんの十数分前のことだ。高校からの帰路についていた聖の前に、唐突にエイルが姿を見せたのだ。本当に唐突に、としか言いようがない。目の前の空間だけぐにゃりと歪んで回転した。そこからぬっと彼が姿を現し、そしてひどく不服げに顔を顰めたかと思ったら――やおら聖に剣先を突きつけ、言ったのだ。『・・・・・・お前が聖女の生まれ変わりか。仕方がない。俺についてくるか、引きずられていくか、どっちか選べ』、と。
「もうあんなの、目の前で出てくる瞬間見てなけりゃ、速攻警察に駆け込んでたよ。いっそ見てなけりゃ良かったよ。そしたら憚りなく不審者通報できたのに」
「お前状況を受け入れているのか、拒否しているのか、どっちなんだ?」
「頭が理解しかけてしまっているのを心が拒否してる。そもそも、なに? 聖女の生まれ変わりって。俺、男なんだけど」
「その点に関しては俺も心底、面倒で厄介で願い下げたいので間違いであればよかったな、と非常に落胆している」
「俺はなにも悪くないのに、ひどい言われよう」
エイルが落とした長い嘆息に、聖は正直な愚痴をこぼした。
そもそも、彼と公園で仲良くブランコに腰掛けて語らっているのに、驚く人がひとりも現れない今の状態がおかしいのだ。だが、どうも公園の外行く人には、エイルの姿ははっきりと見えていないらしい。この世界に訪れたばかりでまだ馴染んでいないから、と彼は言っていた。聖以外の人の目には、彼はなんとなく黒っぽい服を着ている普通の服装の人間に見えているそうなのだ。
とはいえ、時間がたてば、はっきりと姿かたちがこの世の人々にも認識されだすという。そうすると、もれなく甲冑を着こんで剣を持った、銃刀法違反の不審者だ。
そのため、長い話になるから家に連れていけと彼には剣で脅され命じられたのだが、そこは拒んで、この公園で腰を落ち着けるに至ったのである。聖としては、いきなり凶器で脅してくる怪しい男を、ほいほいと家にあげたくはない。
ならばどうしてそんな男を相手に、己は逃げ出しもせずに暢気に腰を落ち着けて、耳を疑う話を真面目に聞いてやっているのかというのもはなはだ疑問なのだが――そこは不思議と、なぜか彼を受け入れられてしまったのだ。
「おたくの話していることが、まあ・・・・・・信じがたいんだけど本当のことなんだとして、俺、そちらに行かないといけませんかね? それ日帰り温泉旅行感覚で帰ってこられるもの?」
「基本的に、容易く行き来が出来るものではないからな・・・・・・二度とこの地は踏めない覚悟でついてこい」
「そういわれて誰が行くかよ」
宥めすかす気遣いも、騙し連れ行く気概も皆無の面倒げな回答に、聖は乱雑に吐き捨てた。
「どう考えても、そちら、紙より軽いって扱いされてる人命の層が公然、平然といる時代だよね? 衛生状況、確実にこっちより劣悪だよね? 倫理観と環境的に無理」
「すっかりこちらの世界のぬるま湯に浸かりきった軟弱な発想だな」
「人権と公衆衛生の整備は尊い人類の進歩だよ、尊重しろ」
「尊重しろと言うなら・・・・・・お前が来ないというならそれは致し方ないが、その判断のために赤子、幼子含めた世界ひとつ分の尊い命が、汚泥にまみれた苦しみのうちに消えていくという重責を背負って、こちらの世界の恵まれた生を謳歌しろ」
「遠慮なく罪悪感に訴えてきやがるな、この騎士」
平淡に突き刺してくる低音に、聖は露骨に舌打ちして柳眉を顰めた。
「でもまあ、物語の世界のことのようで現実味がないっていうか。人間、わりと残酷なもんで、己の目の前に危機がないと、同じ世界ですら、どこかで悲劇があっても、平然と自分の日常を送れちゃうっていうか」
「人権意識はどこへいった?」
隣の甲冑からの至極もっともな短い切り返しに、聖はただ笑みを向けると、そのまま聞かなかったことにして先を続けた。
「ま、そこはいったん置いておいて。やっぱ間違いってことはないわけ? 聖女っていうんなら、女性だったんでしょ? さっきも言ったけど、俺は心身ともに男なんだよね。人違いでは?」
どうにも薄そうな希望に彼がかけてみれば、エイルは初めてあからさまに嫌そうな表情らしい表情をはっきり見せて、またため息をついた。
「まあ、記憶もまるでないようなので、信じられないというのも仕方があるまい。そういう時のために、お前の前世の概要を映像で確認できる魔道具を持参してある。ひとまず、娯楽のひとつだと思って見てみろ」
「なにそのダイジェスト前世。楽しめない」
乗り気でない聖の発言はすっきりと無視して、エイルはどこから取り出したのか、綺麗な掌大の硝子玉を、無造作に地面に投げつけた。
割れた硝子片は、そのまま形を残さず霧散して、淡く煙となって立ち昇る。その中に揺らぎが生じたかと思ったら、それはそのまま姿を結んで、立体的な像を成した。
「・・・・・・すっごいんだけど、これ、絶対目立つ。やめて」
「問題ない。俺と同じで、根っからのこの世の人間にはちゃんと見えない」
「・・・・・・そうですか」
つまり、見えてしまうということは、人違いではないことの答えでもあるような気もしたが、そこは思い至らなかったことにして、聖はぶすくれた表情のまま、動き出した映像に目をやった。
「え? 可愛い、この子。正直好み」
「お前だ、お前」
白く裾びく柔らかな服を纏った、たおやかな雰囲気の少女だった。年の頃はおそらく、いまの聖と同じぐらい。ふわりと甘く垂れた淡い空色の双眸は大きく輝き、聖と違い癖のある長い金色の髪が楚々と風と花に戯れている。額に小さく、抽象的な花のような赤い文様があるのが目を引いた。白い肌と華奢な体躯。可憐な面差しは、触れれば溶けて消えそうな淡雪のようで、庇護欲をくすぐってくる。
「ちなみに、俺たちの世界において、額の印に加え、金の髪と青い瞳は、聖女の証だ」
「俺の出生時、両親の間で揉めに揉めて離婚騒動とDNA鑑定騒ぎにまでなった髪と目の色が、こんなところ由来だと誰が思ったでしょうか」
「他人事ながら聞くが・・・・・・それ、解決したのか?」
「いまは円満バカップル夫婦です。ご心配なく。いや・・・・・・逆にどうかと思ってる」
「そうか・・・・・・」
端正ながらも映像の彼女には似通わない面差しを渋く寄せた聖に、エイルは短く初めての寄り添いを見せた。
「というか、だいぶ初手から引っかかってて流してたんだけど、なんとなくこっちの世界独特そうな物事のニュアンス伝わってるのなんなの? そもそも言語どうなってんの? なんでこんな自然に会話してるの? 君の異世界人説に疑義が生じる」
「ここまでこっちの世界で起こり得ぬことを見ておきながら往生際が悪いな、お前」
鋭い双眸が呆れた色合いを引いて、横目に聖を見やる。
「言語については、実際は俺もお前も己の世界のものを話しているが、互いには通じて聞こえる。この世の事物についての知識は、正直ゼロだが、お前が口にした内容についてはその瞬間ぼんやりとながら、そのあたりの知識やニュアンスとやらが理解出来る」
「なんで?」
「・・・・・・それが答えだ」
なぜか苛立たしげに、エイルの億劫そうな指先は、いつのまにか映像に現われ出てきた男を指し示した。
優しい顔立ちの青年だった。深い宵色の瞳に理知的な穏やかな光を湛え、短く切り添えられた襟足も爽やかに、凛と背筋を伸ばして聖女の元へと歩み寄ってくる。その温和な微笑みに言に出ずとも溢れ出ている色があって、ひと目でふたりがどういう関係なのか知れた。
はにかみ、見つめ合い、なんとも面映ゆい空気の漂い出した光景を他人事で眺めながら、聖は所在なさげに軽く爪先で地を蹴った。キイっとブランコが、乾いた音でまた軋む。
「・・・・・・イチャイチャしてんじゃん」
「俺だ」
「なんつった?」
「正確に言うと、前世の俺だ」
聖はもう一度、おざなりに眺めていた映像の男を見つめ直した。白銀の鎧、深い海の色を織り込んだマント。そして、隣のブランコのあたりで見覚えのある、腰元に携えるにはやや大ぶりな剣。
「・・・・・・はぁ? 剣と髪色ぐらいしか同じところないじゃん。この爽やかで誠実そうな熱意と正義感溢れる感じの好青年が? 顔つきも違えば性質も真逆って感じなんだけど。この清廉潔白さどこ置いてきた?」
「そんなものすべて過去に捨て置いた。性別まで置いてきたお前にだけは言われたくない」
「いや、置いてきたわけじゃないし。どっちかというと別の持ってきただけだし。てか、待った。そこも存分に引っかかるんだけど、もっと見ないふりしたいところがある。 え? もしかしなくても前世の君と俺って、そういう・・・・・・?」
「なぜ見なかったふりを決め込み続けなかった?」
仲睦まじげな様子に恐る恐る隣に視線を流せば、またとない不快げな低音が唸った。
「この《厄災》を払ったら、結婚しようと約して、清い付き合いを結んでいたようだな。誠に遺憾ながら」
「衝撃、かつ最悪の事実。ごめん、俺にとって君はタイプじゃない」
「安心しろ、俺もだ。前世の関係は切って捨てて振り返るな」
「気が合うじゃん、それでいこう」
互いに一度も視線も顔も合わせないまま、先ほどが初対面とは思えない息の合った調子で、ふたりは勢いよく約束しあった。
「とはいえ、それがなんで君と言葉が通じたりすることの答えなわけ? 心が通じ合ってるからとかは言わないでね?」
「たとえ理由がそうだとしても、前世ならいざ知らず、いまは絶対に違うから効果が表れるわけがないだろう。お前が真面目に確認せずにしゃべり散らかしていたせいで見逃しただろうが、恋人であったというおぞましい事実とは別に、特別な関係が結ばれていた。それが、いまなお続いているからだ」
「おぞましい言われた。それはそれでなんか釈然としないな。俺は、もてる」
「知るか」
華奢とはいかないまでも、ほっそりとした体躯にそった澄んだ輪郭。夕暮れ時の物憂げな翳りが映える秀麗な顔立ちも、軽やかで柔和な雰囲気にかすか近寄りがたい鋭さを添える切れ長な目元も、確かに好むものが多い造形なのだろう。
だが、得意げに胸を張った聖に、エイルは取り付く島もなく冷たく言い捨てた。
「この腰にある聖剣に選ばれた者が、聖女の力を受けることで《厄災》すら払える力を得られる。聖女と聖騎士――などと呼ばれているが、それは聖剣を介した絆で結ばれる。それが、互いの距離を零にする。言葉を理解させ、異なる世界も渡らせる、といった、俺たちの世の魔法ですら為し難い業を可能にする」
「いらなかったなぁ・・・・・・その絆と力」
ご大層かつ稀有な力なのだろうが、聖には不要なことこの上ない。ぼやいて、また気だるげにブランコを漕げば、蹴りつけた爪先になにかが当たって転がり出てきた。ビニール制の指人形だ。幼児向け番組のヒーローキャラクターである。ブランコの下に落ちていたらしい。
それがころころ転がっていくのを、なんとなく足先で押さえとどめ、聖はその幼い頃に見覚えのある人形を拾い上げた。
(・・・・・・過去っていうのは、この程度でいいよなぁ・・・・・・)
生まれる前まで手を広げられると、正直、背負いきれないし、背負いたくもない。
いささかうんざりとした心地で見やった、遠い過去の己は、なにやら悲しそうな表情でたたずんでいた。池か湖か、透明に近い澄み渡る水面が背後に広がっているが、周囲に目をやれば洞穴の中のようにも思える。先ほどからずっとそうだが、ところどころ、この過去の情景は判然としない映像が混じる。
『私たちの力では、ともに命を賭そうと、《厄災》を弱め、束の間封じることしか為せません』
鈴の鳴るような儚く柔らかな声音が、切なげに告げる。このどこからともなく耳元に響く声も、エイルの言葉を借りるならば、根っからのこの世のものには聞こえはしないのだろう。
『けれど、弱め、封じることが出来れば、次に必ず私たちに機が生じます。《厄災》がその災禍の力を取り戻す前に、今度こそ――次の私たちの手で払うのです』
細く白い、花のつぼみのように可憐な指先が、己が前に膝を折る騎士の頬を愛しげにそっと包み込む。無言で、口惜しげに無念を噛み締め顔を歪める青年へ、彼女は微笑み、額を寄せた。
『――必ず、生まれ変わります。あなたと共に。だからどうか、次は・・・・・・次こそは、あなたと――・・・・・・』
涙に変わりそうで紡ぎきれなかった言葉ごと抱きしめるように、黒い鎧を纏う
『はい。次こそ、ともに《厄災》を退けましょう。その先を――ともに、迎えましょう』
穏やかに、しかし力強く誓う声音は、静かに聖女の細い腕をとった。真っ直ぐに、愛おしげに、互いを溶かし焦がしそうな視線が見つめ合って絡み合う。
『必ず、探し出します。あなたを。例え、この世の再果てにいようとも――』
そう、映像の中で騎士が恭しく白い手の甲に唇を寄せたのに重ねて、横から真反対の冷淡な声音が実に億劫そうに、無遠慮な響きで突き刺さってきた。
「で、世の最果てどころか、別の世界にいるとかどれだけ難易度上げるつもりだ、この聖女様とやらは? 熱意なく探すこっちの身にもなれ。適当にその辺にいろ」
「君、前世の爪の垢煎じて飲ませたろか?」
せっかく自分事ではないならいい場面であったのに、なにやらすべてが台無しだ。
「いやまあ、俺もこれ見てても、微塵も身に覚えも記憶も沸いて出てこないんだけどね? にしたって、情緒ってもんがない? ほんと、俺が言うのもなんだけどさ、来世って当てになんないわ。今生を悔いなく生きようって強く思った」
「同意見だ。だいたい、今生で手一杯なのに、過去の自分まで背負えるか。俺は必ず、来世に遺恨を残さず終える」
淡白な声音ながら滲み出る今生の強い決意に、前世の誓いの誠実さが、無力にも塵に等しく散っていく。そこで魔道具の映像は、まるで映し出すやる気を削がれたかのようにかき消えた。
「あ、これで終わり? いい長編映画の宣伝ムービーって感じだったわ。なんかポップコーン食べたくなった」
ぱんぱんぱんと、おざなりな拍手をしながら、身も蓋もない感想を述べて聖は隣の甲冑に尋ねる。
「そういう、ぽんっとお菓子が出る魔法とか持ってないの?」
「そんなことが可能ならば、食料を巡って争うことも、支配が生まれることもないだろうよ。近くの店に行けば必ず食べ物にありつけるという、こちらの世の方が、俺たちの世界には魔法だな。己が環境をありがたく思って、欲しければ自力で買ってこい」
「やだ、ますますこの気楽な世界を手放して、そっちに行きたくない。買いにここを立ち去ったら、戻るとは思うなよ」
先ほど拾ったまま手にしていた指人形をなんとはなしに指にはめ、さよならバイバイとばかりに聖はその指を振り動かした。
心底呆れた眼差しでそれを眺めながら、盛大なため息が重たくこぼれる。
「戻らなかろうがどうしようが、追いかけさせてもらう」
「乗り気じゃないわりに随分しつこいな、君」
熱意がまったく感じられないにもかかわらず、言葉だけで終わらせるつもりがないのも伝わってくる。間違いなく、追ってくるのだろう。そもそも、彼は世界を跨いで聖女の生まれ変わりを探しにきたのだ。こんなにも、やる気なく。そこがどうにも不可解だった。
「はなっから、かつての運命の恋人を探し出そうとしてきたわけでもなさそうだし、世界を救う気概みたいなのも絶対ないし・・・・・・なんで俺を見つけにこっちまで来たの?」
「別に俺もやる気はないが、俺たちの世界に救いの手が必要なのは事実だ。それを担えるのがいまのところ俺だけだと任されてしまったのを、断り切れるほど薄情でもなければ、嫌だの一点で我を通しきれるような事態でもなかっただけだ。だからわざわざ聖女の生まれ変わりを探しもした。気乗りしないのと、役目を果たさないのとは、俺の中ではまた別の話であっただけだな」
「根は真面目か?」
わずか、ほんのわずかばかり、前世の誠実さの名残が、欠片程度に引っかかりでもしていたのだろうか。意外な返答に、聖はつい耳を疑った。
「あとは・・・・・・こちらはどうせ中流貴族の三男坊。たいした相続も出世も見込めないし期待もないのだから、気楽に学術院の門でも叩いて、学者としてなるべく人に関わらず、ひとり活字に浸って長い余生を悠々自適に過ごす算段を立てていたところを、前世の記憶が蘇ると同時に聖剣に見いだされ、聖騎士だなんだと祭り上げられ、将来計画のすべてを台無しにされた。だから、お前だけにいい思いをさせない」
「すっごい私怨きた。しかも俺、ほぼほぼ無関係なやつ」
世を救う役目について語った時より、確固たる強い口調に、聖は平淡に返しながらも端々に非難の色をほのめかした。だが、褒められない逆恨みに等しい理由に、そうこなくては、と、どこか待ち望んでいた安心感もある。
この短時間で彼のなにを知り得たわけでもないのに、この黒の騎士はそう在ってくれた方がしっくりくる気がするのだ。その妙に疼きだした愛着を蹴り飛ばして、聖は気のない調子で続けた。
「いや、ほんと、人違いで終わらせてくれないかな? さっきのダイジェスト前世見ても、微塵もなにも思い当たらないし。出来れば関わりたくないし」
「人違いで済むなら俺もそれで済ませたいが、残念ながらお前よりは前世を知っていて、聖女と聖騎士の間の関係にも感覚的な部分で理解がある。だから、非常に、誠に遺憾ながら、俺の別にあってほしくもなかった聖騎士としての感覚が、お前が生まれ変わりであることに間違いはないと告げている」
「ここまで嫌そうに言われることってある?」
己も別に歓迎している身ではないので言えたことではないのだが、仮にも前世の恋人との再会だ。物語に描き出すような運命の出会いを前に、いっそあっぱれなほど嫌悪が前面に表出しすぎている。
「それに、お前が認めようと認めまいと、事実はそうなんだ。俺が先に辿り着いてやったことを幸運に思え」
「は?」
頼んでもいない迎えにやってきておいて、ずいぶん上からの偉そうな言い様だ。聖は不快げに眉を寄せた。だが、それに分かっていないなとばかりに深いため息で応えて、エイルは億劫げに聖を横目に睨む。
「いいか? 聖騎士が死んでも聖女さえいれば、聖剣はすぐ次を選ぶ。代わりはいる。だが、聖女はそうはいかない。次代が生まれ、育つまで待たなければならない。お前は早い方だが二十年待たれた。聖女の空白を埋めるには時間がかかる。聖女がいなければ、聖剣はただのやや良く切れるだけのでかい剣だ。聖騎士だけでは真の力は発揮できない。だから、俺たちを邪魔だと思うものはまず――聖女の命から狙う」
おもむろに、エイルは腰かけていたブランコから立ち上がった。ブランコの軋む金属音に甲冑の擦れる音が重なる。背後から差しかかる西日に、長く黒い影が、地面に不安げに浮き上がった。
「遅かれ早かれ、お前はこっちの世界の事情に巻き込まれる運命だった。異世界渡りをするのは容易くはなく、為し難い業だ。だが、聖騎士と聖女でなくとも、まったく不可能というわけでもない。特に、生身の人間は行き来が難しいが、魔法、及びそれにともなう呪、召喚獣、魔物の類ならば、人より世界の狭間を越えやすい」
冴え冴えとした冷たさ宿る双眸が眼前の空間を鋭く見据えて、姿勢を低く構えた。黒い手甲に覆われた腕が、腰の剣の柄にかかる。
「来たぞ、《厄災》が。俺たちの――敵だ」
「うっそでしょ?」
叫んで聖がブランコから飛び降りた。そのがしゃりと耳障りに響いた鎖の響きとともに、空間がまた彼の目の前でぐにゃりと歪んで回転した。
瞬間。現れ出た黒く大きな塊が波を打つに似てしなって、風を切る音が身を裂くように耳元に叩きつけられた。あ、死んだ、と本能のようなもので頭上に覆いかぶさってきた影を聖は見上げる。そこへ――。
割り入った剣が、勢いよくその黒い塊を空へと弾き返した。
「・・・・・・まずいな。走れ! 逃げるぞ!」
「はあ? ちょ、戦ってくれるんじゃないの?」
叫んで早々に剣を収め、退却を決めだしたエイルを、慌てて聖は追いかける。
「あれはいまの俺では手に負えない」
「どういうことだよ! なんかさっき偉そうに幸運に思えとか言ってなかった?」
「無駄口叩いてる暇があったらもっと速く走れ!」
甲冑を着こんでいるとは思えない速度で先を行く背中が叱咤するのに、舌打ちする。
「陸上部エースの意地を見せてやるよ!」
やけくそに咆えて、聖は加速した。だが、エイルに追いつく前に、か黒い影が彼を覆って頭上から差しかかる。走りながら肩越しに振り返って、聖は驚愕した。
「は?」
たまたま近くにそびえる十階はあるマンションと並ぶ、真っ黒な巨躯が唸り声をあげてそこに出現していた。人の形をしているようだが、太い腕が四本胴から非対称に伸び、頭部は鬼か獣か判然としないが、角のようなものがひしめいている。どろどろと黒い液状のものが脈を打って形をなしているため、生き物と呼べる有様はしていなかった。
「なにあれ~!」
聖の絶叫をかき消す轟音とともに不揃いな巨大な腕が二本、振り下ろされた。風圧すら臓腑を潰すようにのしかかってくるのに聖が息を詰めると同時に、脇から伸びた甲冑の手に腰を引っ掴まれた。
エイルはそのまま彼を雑に肩に担ぎあげ、地を蹴って跳躍する。それはおよそ聖の想定する以上に高く、鮮やかに跳ね上がり、聖の視界に空高くから臨む、夕焼けに染まる黄金色の街並みが眩く広がった。
「たっか!」
感嘆の声を思わず聖がもらした。それに重なって、エイルに抱きあげられてかいくぐった巨大な腕の一撃が、先まで聖がいた一帯に叩きつけられる。
感嘆は一瞬にして悲痛な叫び声に塗り変わった。
「甚大な被害! まずい! 完全にこの世界の許容を越える異常事態なんだけど!」
「・・・・・・お前、案外余裕のある怖がり方だな?」
離れた民家の屋上に降り立つと、感心混じりの呆れ顔でエイルは肩口で騒ぎ立てる男を見やり、適当に傍らに放り出した。いて、っと抗議の声が上がった気がしたが、聞こえなかったことにする。
「安心しろ。まだ、被害は出ない」
切りつけるような眼差しが眺めるやる先で、ゆるゆると巨大な腕が持ち上げられる。その一撃を見舞われた一帯が、どんな悲惨な状況になっているか、と、聖もそちらに薄目をやった――が。
「・・・・・・無傷じゃん」
彼が騒々しく喚きたてながら走っていた時と寸分変わらない、整然とした街並みがそこには残っていた。舗装された道路。並び立つ、都心の住宅街独特のどこか似た作りの家々やマンション。
「なんだ、図体だけの見掛け倒しか」
「まだ、な」
安堵の吐息を落とした聖の上に、無情な声が冷たく注ぐ。
「俺と同じように、こちらの世界に来たばかりの時点では、まだ存在が馴染んでいない。だから、たぶんいま奴はこの世界の住人には大きな黒雲ぐらいに見えているし、その攻撃も影響を及ぼさない。だが、馴染めば話は別だ。それにお前は、奴の姿がしっかり見えているだろ。すでにお前にとって奴は同質の存在感を得ている。あの拳を食らえば、死ぬぞ」
「偉そうに解説してないで、早くあれなんとかしろよ、聖騎士様!」
平然と時間の問題だとのたまう男の涼しい横顔に、聖は噛みつきながら巨大な化け物を指し示した。
「俺としても面倒事はさっさと片付けたいので、なんとかしたいのは山々だが・・・・・・なんとも出来ん」
「なに言ってやがりやがるんですか、この騎士野郎は」
胸ぐらへ掴みかかる勢いで食ってかかる聖に、動じた様もなく、エイルは顔色ひとつ変えずに、淡々と理由を諭した。
「あれは俺の世界でも非常に厄介な《厄災》が生み出す魔物の類で、出現すれば街ひとつ瞬きの間に滅びてしまう。だが、それすら仕方のない範囲と見なされる。倒すには武器の類だけでは不可能だ。特殊な魔法を修めた使い手の補助がいる」
「君、その魔法使えないわけ?」
「言ったように、特殊な魔法だ。誰もが使いこなせるわけではないうえ、俺の生来の魔法の特性は身体能力を高めることと攻撃魔法にしか向かなかったようでな。そんなものは修めてない」
あの軽々と空に舞い上がる跳躍や、追いつけない速度の脚力は、魔法というこの世では横紙破りな業のためだったらしい。妙にそこには納得しつつ、無理と言い切る開き直りぶりにはまったく納得が出来ずに、聖は言いつのった。
「君が持ってるの、仮にも聖剣なんでしょ? 《厄災》払う力があるんでしょ? そいつでなんとか出来ないの?」
「聖剣は、聖女の力を授からないとただの切れ味のいいでかい剣だと説明しただろうが。攻撃をいなす程度の役には立つが、こいつを振るったところで、奴にはたいした傷も与えられないだろうな。打つ手なしだ」
「無能!」
「黙れ」
柳眉を吊り上げ罵倒する聖に、忌々しげにエイルは吐き捨てた。
どすんと地響きのような音が空気を震わせる。巨大な体を揺すって、聖たちの所在を見出した魔物が歩み出したのだ。
「いや待った、待った。聖女の力を授かればいいわけでしょ? とりあえず今は細かいことは抜きにして、俺が聖女なわけでしょ? 俺がその力ってやつを君に授ければよくない? どうやるんだよ、早く教えろ」
焦りながら頭を抱えつつ、聖は泰然自若と澄まして構えている苛立つ顔へまくしたてた。とたんに、あからさまにエイルの表情が不快げに歪む。
「・・・・・・なんだよ、その顔」
「――・・・・・・口づけ・・・・・・」
「ごめん、聞こえなかった気持ちになった。もう一回いい?」
張り付けた最高に優美な微笑みで、聖はいやに明るく優しく再度問い直した。
「『聖女が聖騎士に慈愛の口づけを送りし時、聖なる剣はその絆に報いて真の力をその前に示さん』・・・・・・ということになっている」
自暴自棄気味に抑揚なく紡がれた言葉が、迫りくる地響きと咆哮の中、いやに明瞭に、静かに落ちていった。
一呼吸、微笑みとともに飲み込んで、いっきに聖は不満をぶちまけた。
「そのくそみたいなシステム誰が最初に作ったんだよ! ランダム選抜されたふたりが運よく恋仲になるとは限らないだろ! どう考えても設定ミス! どこの恋愛ふわふわ思考がひねり出しやがったわけ?」
「俺が知るか! だから言いたくもなかったし、打つ手はないと告げたはずだ! お前が聖女なのが間違いであればいいと俺が何度言ったと思ってる!」
つられるように声を荒げて、不愉快極まりないとばかりにエイルも咆える。出会い頭から不服さを隠しもしていなかったのは、そういった事情もあったらしい。
そこへ、身体を跳ね上げんばかりに大地ごとふたりが立っている家が揺れ、太い腕が横薙ぎに風音をあげて迫ってきた。
話はいったんここまでだとばかりに、忌々しげに再び聖を担ぎあげ、エイルが道路へと飛び降りる。落下しざま、屋根を拝借していた家の中から、強風か、地震か、と騒ぐ声が聞こえてきた。
これはまずいとの思いが聖に過る。こちらの世界の事象として受け止められていても異常事態ではあるし、じきにその認知を偽るベールすらはがれてしまう。
逃げるふたりの上に、今度は太い脚が無遠慮に踏み下ろされる。エイルが飛び退りそれを
舌打ち混じりにエイルは肩の聖をひとまずは安全そうなあたりへ投げ捨てると、剣を抜き放った。腕の一撃を受け止め、弾き返すように流した――瞬間。
その腕が溶けて飛び散って、降り注いだ汚泥のような影の塊が、どろどろとした人型を成して、ふたりをぐるりと取り囲む。
「・・・・・・うっわぁ・・・・・・これちょっと、かなりまずいんじゃないの?」
「うるさい。死にたくなければ、ひとまず俺の側から離れて動き回るな」
「自分で放り出しといてこの言い様だよ」
いそいそとかすかな安全を求めてエイルの側へと這い寄ってきた聖へ、労りの欠片もなく、エイルは実に冷淡だ。だがそれにも、もはや慣れた様で聖はぼやいた。
「本体の攻撃に、加えてこの数は捌ききれない。囲みの一点を破って、さらに逃げる。後で抱えてやるから、最初はエースの意地とやらで付いてこい」
「君のチート脚力の前にはナメクジみたいなもんですけどね」
「行くぞ」
投げやりな自虐を取り合わないで、エイルは剣を構え直して地を蹴った。たなびく一括りの長い黒い髪を追って、聖も立ち上げり、走り出す。
唸る風の動きさえ感じ取れるように。靴の裏ごしのアスファルトの感触すら分かるように。全神経を走るというただ一点に傾けて駆け抜ける。
宣言違わずエイルが瞬く間に斬り伏せ、黒い影が消えたところから囲いの外へと飛び出し、さらに速度を上げていく。心臓が爆ぜて跳ね、呼吸が上がって苦しくなるも、追ってくる黒い人型の影たちも、魔物の腕も振り払えない。
「エイル! もう無理! 諦めて! 俺も諦めるから! 唇を差し出せ! もうこれ絶対逃げ続けるの無理だから!」
「断る」
なんとか隣を並走する聖の息せき切った降参の提案を、にべなくエイルは切って捨てた。
「それぐらいなら死を選ぶ」
「今生悔いなく生きるってのに賛同してたのどこの誰だよ! 軽い! 命が軽い! いや逆に唇が重すぎんのか? ともかく、君の唇の貞操と命なら命を取れよ!」
無駄な方向に覚悟を決めきった回答に、聖は苛立ちそのままに喚きたてた。
「そこをなんとか回避して、上手く力を授ける方法を考えろ。聖女様だろ」
「そっちの世界のシステム不備を全力で俺に押し付けてくんなよ!」
容易く投げて寄越される無理難題に、ぎりりと歯噛みして、聖は自分と違いいまだ涼しく走る横顔を睨みつけた。
その襟首を唐突に引っ掴んで、エイルが後ろへと飛びすさる。いままさに踏み込もうとしていた場所へ、漆黒の拳がのめりこんだ。
道路に、ひび割れが走る。
かすか飛び散ったアスファルトの欠片が、切れ長の青の瞳へ、きらきらと西陽を受けながら映りこむ。こちらの世界への影響が、もう――出始めている。
そのまま後ろに転がり込んだ聖と、彼を庇うように立ったエイルをまた影たちが取り囲んだ。
ここまで来たらキスのひとつやふたつ、もうただの身体接触で流してしまえよと、苛立ち混じりに聖はマントを靡かせた黒い背中を睨み上げた。
と、太ももの部分にふいに違和感を覚えて、ポッケトへと手をやる。先ほど拾った、正義の味方の指人形だった。意識していなかったが、公園でのどたばたの流れで、どうやらここに潜り込ませて持ってきてしまっていたらしい。
指人形らしい二頭身のずんぐりフォルムと、幼児受けしそうな穏やかな顔立ち。わずかそのまんまるの瞳と見つめ合ってしまい、はたと聖は過っていったくだらない発想に賭けて起き上がった。
「エイル!」
鬱陶しげに振り向いた冷たく整った顔に向けて、勢いのままに駆け寄る。
「《ボクのキスをあげるよ!》」
やけくそに叫んで、聖は指にはめた人形を殴りつけんばかりの威力でエイルの唇へ押し当てた。
苛立ちに顔を顰めて、エイルが力いっぱい突きつけられた指人形の腕ごとはたき落とす。
「お前は馬鹿か? こんな程度で条件を達成出来るなら苦労はいらない、だろ、うが・・・・・・」
エイルの手の中の剣が、眩い光を放った。
「この聖剣、ちょろい。
「この程度で口づけ判定をくだす甘ったるい残念な根性、叩き直してやろうか、この恥ずかしい剣・・・・・・」
己を見下ろすふたりからの散々な貶められようにも、当然堪えた風もなく、剣は白銀の輝きであたりを薙ぎ払った。
黒い甲冑に合わせてあつらえたように鈍い黒に沈んでいた刀身が、冴え冴えと夜空を切り裂く月明かりのごとき白銀に塗り変わる。同時にちりりと額に走った小さな痛みと違和感に、聖がそこに指をやれば、どことなく肌と違う感触があった。
「なんか出てきちゃった気がする・・・・・・」
「吹き出物のように言うな。前世のお前と同じような額になってる。聖女の印だ。本当にやはり間違いようなく、お前が生まれ変わりだな・・・・・・遺憾」
「嫌そうな溜息~。同じ気持ちだよ、この騎士野郎」
聖の額に現われた赤い印を一瞥したのち、心底の落胆で吐き出された吐息に、にこりと笑顔で聖も棘を返してやった。
「まあ、ともかく、それでお前も自分の身ぐらい自分で守れるだろ」
そうエイルは姿を改めた剣を構え直す。先ほどの光の渦にあてられたのか、一時停まっていた影と魔物がゆるゆると動き出していた。
「早々に守護の責任を放棄してきやがったな?」
すでに背中しか向いていない騎士へ言いやって、聖は眉を寄せる。
「自分で守るって言ったって、どうやっ、て」
視界に差した影を聖は振り仰ぐ。黒い人影が腕を刃のように象って斬りかかってきていた。危機感なのか恐怖なのか、喉からこぼれ出た言葉にもならない言葉で叫んで、聖は咄嗟に頭を守るように腕をその上で交差させる――とたんに。
その腕が白銀の光を纏い、象られた丸い光の盾が影の刃を弾き返した。
「手からなんか光が出たー!」
「やかましい! 黙って戦え」
驚愕に震える聖の絶叫に、つれなく返して、エイルは己の目の前に迫る影たちをいとも容易く斬り払っていく。
「俺がお前の話すこちらの世界の事物のニュアンスとやらを感覚的に理解し得るように、お前も分かるはずだ。どう動けば思い通りになるか。理解したら、適当にここを切り抜けて、安全な場所にでも逃げろ」
「雑な指示寄越しやがって! 後で覚えてろよ!」
次の影の攻撃を生み出した光の盾でいなして払い、その脇から来た別のもう一体へ蹴りを叩き込みながら、聖は苦言を呈した。だが確かに、エイルの言うとおり驚くほど身体が動く。
(なるほど? これがあいつが言ってた、ぼんやりと理解出来るってやつか)
突然操れるようになった魔法らしき守護の光も、軽やかに跳ねられる脚も、力強く揮える拳も、いましがた得たばかりなものなのに、どう扱えばいいのかが漠然と分かってしまう。そして、昔から馴染んだもののように使いこなせるのにも、不思議な心地はあまりしなかった。
(――分かる、な)
エイルの持つあちらの世界の知識が漠然と掴める。あの巨大な魔物は、斬りつけても斬りつけても、弱点となる一点を壊さなければ、あのタールのようなものが無尽蔵に湧き出て身体を構成し続け、倒せない。おまけに、こぼれ落ちた黒色の欠片は、いまでさえ数多いる人型の影を生み、増やしていく。
弱点はあの頭部にあるいくつもの角のうちのどれかだ。この魔物を仕留めるには、襲いくる影を払い退け、巨躯の振るう手足の暴風のごとき攻撃を避けて、的確に角のうちから一本を見い出し、斬り捨てなければならない。
手練れであっても、ひとりで相手取るには少々手間がかかる。そのうえ、いまは時間がない。あの魔物の存在が、完全にこちらの世界に馴染み切ってしまう前に終わらせなければならない。
エイルの背面を狙って襲いかかってきた影の群れを、彼が振り向き斬り捨てるより早く、飛び込んだ拳で殴り倒し、蹴り捨てて、聖はその隣に降り立った。
「さっさと片付けないと俺の世界がまずいんで、逃げるより助力させてもらうから、あのでかいのとっとと倒してもらえる?」
「・・・・・・お前、いまちょっと調子に乗ってるだろ?」
「ちょっとね~」
低い声の冷静な指摘に歌うように返して、聖はまだ数のいる影たちを見渡した。
「でも、その方がいいだろ?」
「ああ、助かる」
言うと同時にエイルが駆け出した。眼前の人型を白銀の剣で次々と一太刀に斬り捨てる。そこに振りかぶられて来た大きな拳を、聖の蹴りが弾き飛ばして軌道を変えた。狙い逸らされて空振りした拳が落ちた弾みの風圧も物ともせずに、エイルは真っ直ぐに走り抜ける。その後ろから、影たちの追撃が迫りきた。だがそれも、あっという間もなく光の盾に防がれ、叩き伏せられる。
エイルは振り向きもしない。聖も彼の動きを目で追いもしない。感謝の一言の投げかけもなければ、合図の声かけもない。
背中合わせ――。
それでも次に相手がどう動くか、自分がどう動くべきかだけが、息するよりも当たり前に、まざまざと、思考が溶け合うように理解出来る。
(なんだか、どうにも――・・・・・・)
前世だと見せつけられた映像がふいに過る。いつもかの聖女と騎士は、互いを真っ直ぐ見つめ合っていた。だが、過去のように見つめ合う愛おしさを紡ぎあうより、背中を合わせあう頼もしさを預けあう方が、いまの彼らにはひどくしっくりと、馴染んでくる。
(残念ながら・・・・・・悪くはないね)
青い瞳を不承不承ながらも柔らかく緩め、目の前の人型を殴り飛ばし、続く左側からの影の太刀を光の盾で防ぐ。その相手を蹴りつけざま、聖は生み出した盾を空へと滑らせた。
咆哮の中、影の群れを切って捨てて跳躍したエイルの元へとそれは空を舞う。
あと一歩、踏み込み足りなかった高さ。それを補う空中の足場として、エイルは聖の投げつけた光の盾をさらに蹴りつけ、高く魔物の頭上へと躍り出た。
剣が眩く光を放つ。無数に蠢き、ひしめいて生える太い角を、エイルは選び出すのも面倒だとばかりに、その剣の光の一閃ですべて薙ぎ払った。
断末魔の轟音が、空をひび割れさせて鳴り響く。
巨躯がどろりと溶けて崩れ落ち、消えていく。それに呼応するように、地上の人型たちも砂塵となって見る間に形を失くし、散っていった。
戻った安穏とした街並みに、華やかな夕焼け色が穏やかに降り注ぐ。ただひとつ、この世に馴染まない光景が残っているとすれば、それは聖が見上げた先。すぐそばの家の屋根の上。そこに降りたった、黒衣の騎士ぐらいのものだろう。
「で、どうするんだ?」
「なにが?」
ひと騒動を治めた後は思えない、淡白な調子が屋根の上から投げかけられる。その相変わらずさに苦笑しながら聖は返した。
「俺についてくるか、引きずられていくか、どっちを選ぶかだ。ここまでやっておいて、いまさら人違いの言い逃れもないだろ」
「あ~・・・・・・それね」
思い出してしまったとばかりに、聖は気だるげに頭をかいた。ひとまずポケットに押し戻していた指人形をもう一度取り出し、代弁させるように動かしてみる。
「とりあえず、保留で」
「・・・・・・世界の危機だ。いったん聞き入れてやるが、悠長なことを言ってないで早く決めろ」
呆れかえった、だが、撥ねつけるわけではない答えが降ってきて、聖は笑った。夕暮れの秋風が、どこかの世界では尊き聖女の印たる金糸の髪に戯れかけて、平穏な世を吹き過ぎる。
「そっちが危機で滅びる前に、俺の日常が崩壊したよ。そこはどうしてくれんの」
「残念な運命だったと諦めろ」
「無責任~」
言葉のわりに、その声はどこか楽しげな響きをはらんでいた。
――運命とは、時に無神経だ。
問題だけを投げ渡して、放置する。だからこの先をどう象るかは、過去も未来もなく、いまの彼らがどうにか足掻いて、決めていくしかないのだろう。
「・・・・・・とりあえず、俺ん
「――厄介になってやろう」
「んな態度でいると、うちに来てもすぐに叩きだすよ?」
戯れの苛立ちを歌うような口調に混ぜて、飛び降りてきたエイルと並び、聖はいつもの家路を辿り始めた。
聖女が聖騎士とともに《厄災》を払うのかどうかは、遠い異世界の物語だ――いまは、まだ。
転生聖女様は異世界渡りをなさらない かける @kakerururu
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