第九話 優しい夜の果て②

 これは、優しいたった一夜の夢。

 望む限りに夢は続いて、私にだけ優しい夢を見せてくれる。

 彼女にとっても、やさしい物語だったはずだ。私達の夢は、恙無く現れたようにも思えて、それでもやはりどこかで、大切な何かを奪っていた。

 それは過去だったり、気持ちだったり、過程だったり。

 つまりは、そういうことで、終わらせなければいけないというのは、一つの正しさの筈だ。



 こんなに多くの人前で歌うのは初めての経験だった。とはいえ、想像よりは大分人は少ない。ざっと見回した感じで、二十人前後だろうか。

 ライブというからにはもっと多くに観客がいるとも思ったのだけど、殆ど素人に近い私達のライブなんてものは、そのくらいの人数が妥当なのかもしれない。

 不思議と緊張はしなかった。漠然とただ歌うだけなら、多分酷く震え上がっていたのだろうけど、私には一つのはっきりとした目的があった。

 それが多少なりとも緊張を緩和させていて、練習通りに一曲目を終わらせることができた。

 那月も智香も約束通り見に来てくれている。

 那月はライブハウスの壁の花になりかけていたが、それでも真剣に演奏を聴いてくれているのが分かるし、智香の方も最前列で私にじっと視線を向けている。

「あー、えーっと、一曲目は『雨に混じる』でした!」

 MCはドラムの畑中が担当しているらしい。篠宮に聞いたところによると、演奏中は目立たないからこういう所だけでも目立ちたいという畑中の我儘でそうなったそうだけど。


 それから二曲三曲と続けて演奏を続けていく。相変わらずギターのネックの上を滑る指は、私の指じゃ無いように自然と踊る。

 それだけが、男——ナズオの、この世界における存在証明のような気がして、誇らしかった。

 例えこの世界がどんなものだとしても、この世界の私は、確かに存在する。

 泡沫のような世界の中で、しっかりと、根付いていた。

 もし叶うのなら、そんな男の私とも話してみたかったな。

 半ば確信していたのだ。

 この世界が元からあるものなのか、それとも望まれたから存在し始めたのかは分からないけど、私と那月と智香の三人がここに居て、私がそれを歌って仕舞えば、この夢は終わりを告げる。

 これは、誰の夜の果てだ。

「じゃあ、最後の曲です。聴いてください——『優しい夜の果て』」


 実直過ぎるほどに、素直すぎる程に。

 現実を生きることの辛さと哀しさを謳う。

 複雑に絡み合った糸のように見えても、それは決して悪いことではない。

 それは、物事をややこしくしているのではなくて、誰かが誰かを想って支えた感情の糸だ。

 それこそが、生きる意味なのかもしれない。単純な物事程、理想的に映るかもしれないけど、そこには機械的な冷たさしかない。

 複雑さとは、その厚みが生み出す暖かさに価値があるのだろう。

 だから帰りたいんだ。

 私の気持ちは、この世界に居場所はない。同時に誰かの夢も、誰かの理想も、この世界には無い。

 この世界にあるのは、この世界の住人にしか価値を見出せない。

 だから帰ろう。

 もう、優しい夜は、終わりにしよう。


 そんな意味を込めた歌詞を、私の拙い言葉で表現した。

 果たして智香に、那月に、伝わったのだろうか。


 息が荒い。

 歌うこと以外に、ギターをかき鳴らすこと以外に、膨大なエネルギーを使ったみたいだった。

 汗が垂れる。疎らな歓声が聞こえる。

 お調子者の男子が指笛を鳴らして、畑中の名前を叫んだ。それに応えるように、畑中は最後の——そして、何の変哲もなくて面白みのない——挨拶をマイク越しに叫ぶと、照明が消える。

 振り返って、バンドのメンバーの顔を見ようとした。

 だけど、篠宮以外の姿は無くて、その篠宮も男子の篠宮では無く、篠宮晴美の姿でそこにいた。

「や、久しぶり」

「……晴美」

「謎は解けた?」

 ——晴美の問いかけに、私は言葉を詰まらせた。正直言って、何も分かっていないからだ。

 分かっている事は、私がこの世界に来る直前に、「男に生まれて来れば良かった」と途方の無い望みを抱いたことくらいだ。

「そうだよ、ここはナズナの世界。同時に、那月の世界でもあるし、智香の世界でもあるんだ」

「晴美は?」

「……私は、何も望まなかった、って言えばいいのかな。強いて言うなら、ナズナと那月と智香と私。四人で過ごした時間が楽しくて、ずっと高校生が続けばいいのにって思ったくらいかな」

「晴美らしい」

 四人の中でも、いつも明るくて輪の中心だった晴美を思い出して少し笑う。

「そのずっと高校生が続けばいい、なんて望んだせいで、今の私は高校生を五回くらいやり直してるけどね」

「私達四人が、何かを望んだから、こんな歪な世界ができたってこと?」

「というよりも、私達四人が、高校生活に何かを忘れたまま、心残りをしたまま、卒業してしまったから、だよ。ちゃんと卒業できていなかったのに、卒業してしまったから」

 神様とか奇跡とかオカルトとか呪いとか。呼び方は何だっていいけど、私達は結果的にそれぞれの望みが叶えられた一つの世界に来てしまっていた。

「この世界の那月も、じゃあ、本物の那月ってことなんだ」

「当然。ナズナも那月も智香も、皆この世界にやって来ただけの異邦人だ」

 だから、もう元の世界に戻らないと。

 晴美は言うなり、目を閉じた。

「私はずっと続く高校生に嫌気がさして、この世界を否定した。そして、ナズナも。那月も智香も多分、元の世界に戻ろうと思ってる」

「……そうだね、分かってくれたのかな」

 夢から醒めていく様な感覚だ。

 浅い思考が引き上げれていく様な浮遊感と、無垢な白い光の中に飛び込んでいく様な高揚感が、脳内に走る。


 起きたら全てを忘れているのだろうか。

 それとも、断片的に覚えていたりするんだろうか。

 だけど何故だか。

 全て完璧に覚えていることだけは、絶対に無いのだと、理由もなく言い切れるような確信だけは強く残っていた。

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