第六話 存在理由をもう一度 ①

 他人との会話に苦手意識を感じるような性格ではないけれど、それでも自己紹介というのが苦手だった。

 他人に自分がどういう人物なのか知って貰おうとも思わないし、そもそもとして、自分がどういう人物なのか私自身分かってないのだから紹介のしようがない。

 自分という個は、他人との違いによってようやく明確になる。だからこそ、何の面白味の無い人生を歩んできた私は、十把一絡げの大多数の普遍と何もかもが同じで、それが私の個を曖昧なものにしていた。

 普通。

 そのこと自体に私は悪感情を持っていなかったが、同時に私はなんてつまらない人間なのだろうかと思った。

 だけど、そんな面白味のない私は、ナズナと出会って大きく変わる。

 夏休み明けの転入初日の際の自己紹介は、不思議とすんなりと終えられた。

 多分その時の私は、初めて私の私たる所以を見つけられていたのだと思う。

 無意識のうちに、自分でも知らず知らずのうちに。

 その時にはもう、ナズナのことが好きだったんだろう。



 黒壇の帳が、柔らかくて温い光に切り裂かれていくのを見ていた。

 熱帯夜すらも超えて、少し肌寒い朝の五時半。恐怖で眠れないという経験は、幼い頃にホラー映画を見て以来だろうか。

 家から駅の反対方向に少し歩くと、高台がある。急勾配の坂道の先、その高台の一番上には公園があって、そこから一望できる眺めは中々の景色だった。

 ナズナと出会って直ぐの頃、彼女に街を案内して貰った時に教えてもらった場所だ。

 花火大会の日なんかは、少し遠いけどここが一番綺麗に見えるとも言っていた。

 だが、朝靄の晴れないこの時間は、花火の代わりに早起きの人々の息遣いのようなものが、花開いていくのが見える。

 街の時間が少しずつ動き出していく。

 それを見ると、この世界に確かに人は生きていると感じられて、少しだけ気持ちが紛れていく。

「……芹川さん?」

 男の声が私を呼んだ。

 私の嫌いな声だった。


「各務君、こんな朝早くから何してるの?」

 ナズナはジャージ姿だ。手にはスポーツドリンクが握られている。

 見ればランニングか何かをしていると分かるけれど、元々のナズナはそんなことをしなかったから、思わず訊く。

「最近運動不足だからさ。そういや、昨日の電話は何だったんだ?」

「……かけ間違えたの。ごめんね」

 ナズナは額に玉になった汗をタオルで拭いながら、私の座っているベンチに当たり前のように腰を下ろした。

 手にあるスポーツドリンクを勢いよく喉に通すと、気持ちよさそうに目を細めている。

「……ん?」

 私の視線に気づいたナズナは、少し照れたような、くすぐったそうな笑みを浮かべる。

「最近、何かあったの?」

「えっ!?えと……何で?」

 ナズナは私の言葉に、質問した私自身が驚く程に過剰な反応を返した。

 家が近い為、彼と過去何回か学校以外の場所ですれ違うことはあっても、何となく会釈する程度の間柄だった筈なのに、最近はこうして話しかけて来るのが不思議だった。

 流石にそれは本人には訊けないから、当たり障りなく答えることにする。

「んー、最近私に話しかけてくれるのが多いから、かな」

「ええと……迷惑だった?」

「別にそういうことじゃないけど、京崎さんに変な勘違いされないようにしてよね」

 元がつくとはいえ、智香は私にとっても仲の良い友人の一人だ。この世界では、女性のナズナがいないため、仲良くなるきっかけを逃してしまったけど、彼女を悲しむようなことは避けたい。

 この世界のナズナが誰と付き合おうと私には関係ないけど、それが智香ならば話は別だ。

「あ、えーっと、そうだな。気をつけるよ」

「……あ、そうだ、久瀬大橋駅って知ってる?」

 会話のついでに、私は昨日見た、駅のない久瀬大橋駅前を思い出して訊いてみる。

 この世界にはそんな駅は存在しないので、恐らく知らないと回答されるだろう。

 当然そんなことは想定している。

 この世界の住人は、あの駅のない駅前の風景をどう捉えているのだろうか。その程度の疑問を解消するだけの質問だった。

 だが、返ってきた返事は、私の想像を遥かに超えていた。

「えと……二つ隣の?知ってるも何も、来週、久瀬大橋駅前にあるボードゲームカフェに行く予定だけど」

 知っているはずなんでない。

 昨日私は実際に駅なんか無いことをこの目で見たのだ。不自然な空き地の上を通る高架線。その前に広がるロータリー。駅前のランドマークの噴水や繁華街を彩る雑居ビルの群れはそのままだというのに、何も無いその場所を。

「で、その久瀬大橋駅がどうしたの?」

「……い、いや。今度行く用事があるんだけど、知らなくてさ。そうか、二駅隣なんだね。結構近いんだ」

 慌てて誤魔化すが、ナズナは訝しむようにこちらを見る。

「あ。そうだ。芹川さん、俺がバンドやってるって知ってたっけ?」

「……詳しくは知らないけど、教室にギターを持ってきてたよね。あと、畑中君と組んでるんだっけ?」

 何回かクラスメイトをライブに誘っているのを見たところがある。私はそれも、気に入らなかった。ナズナはそんなことしていなかった。

 多分、それは私の酷く醜い部分だ。

 女性の方のナズナだって、もしかしたらギターを弾いていた可能性だってあったかもしれないが、それでもバンドを組んでいるナズナは私の知るナズナとの乖離が酷くて、思わず私は心の中で彼を罵ってしまった。

「そうなんだよ。でさ、夏休みの最終日にライブがあるんだけど、観に来ない?」

「あ、ノルマが厳しいの?」

 若手のバンドマンを題材にした映画でそんなシーンを見たことがある。その映画も、ナズナと観たんだっけ。

「あーいや、そういう訳じゃないんだけどさ。ほら、人の集まりが悪くて。お金はいいよ。もし来てくれるんなら、今度チケット渡すね」

「……えっと。じゃあ、都合がつけば、行こうかな」

 素直に彼の誘いに応じたのは、これまで女性の方のナズナと比べては彼を心の中で憎々しく思っていた詫びの代わりかもしれない。

 今でも、目の前に彼がいると、私の知るナズナがこの世界に居ないという事実を突きつけられているようで、お腹がキューっとなるし、どこか誰もいない場所に行って叫びたくなるような衝動に駆られる。

 でも、それでも。

 もし彼が私の知るナズナと、性別の違うだけの同一人物だというのなら。

 優しく接してあげたいという気持ちは、今の私にだって少し位はある筈なのだ。


「観に来てくれるの、楽しみにしてるよ」


 笑った時の顔は、少しだけ。

 ほんの少しだけ、私の好きなナズナの笑顔に似ている気がした。

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