第五話 私の恋に名前をつけるなら ①
お互いの吐息や衣摺れの聞こえそうなほどに静かな室内で、テレビの電源が入っていないことを証明する赤い小さな光が否応なく目立つほどに暗い室内で。
私の胸元には智香が抱きついて来ている感触だけが、存在していた。
元々彼女より背の低かった私が、男になって見下ろしている視線にはまだ慣れないけど、それでもあの頃と全く変わらないままの姿の智香が私に抱きついて来ていることに対して、嫌悪感というものはなく、あるのは罪悪感のみだった。
それは、誰に対して感じた罪悪感なのだろうか。
「ナズナ、おはよ」
黒い髪を揺らして、智香が待ち合わせ場所の峰沼駅にやってきた。長袖のコットンシャツを着た智香は夏らしく胸元を開けて涼しげな印象たが、引っ込み思案な彼女らしくないとも感じた。
こういうのも、やはり友人と恋人の前では変わるものなのだろう。
「おう。じゃあ行くか」
「おう、ってなに?」
どうやら私の口調が面白かったらしく、智香はクスクスと笑う。
しまった、男口調を意識しすぎたか、と私は少し反省した。
とはいえ、普段ナズオがどのように智香と接していたのか分からないので、こちらとしてはビクビクしながら様子を伺うしか打つ手は無い。
じゃあ、と智香は手を差し出す。手をに繋ぎたいということなのだろうかと彼女の差し出した手を繋ぐと、不満気に私を見た。
「なんか今日のナズナ、変だね」
言いながら、智香は指を絡ませた。いわゆる恋人繋ぎというやつで、私がそうしなかったのが不満だったようだ。
ここまで積極的な性格だったのだろうか。友人である私には見せたことのない積極性は、多分恋人の前だけなのだろう。
そういう一面があることに、私は驚きつつも、不安になった。
恋人にだけしか見せない一面というのは、それだけその恋人への想いは本気な様な気がしたからだ。
それだけの本気の想いに対して、私はどれだけ傷つけずに彼女を諦めさせられるのだろうか。
美術館の特別展は、観るものを惑わす現代アートだった。
果たして芸術なのか?
なんていう疑問は野暮そのもので、むしろそういう疑問を投げかけること自体を目的としている展示物もあるから、観ている方は余計混乱する。
とはいえ、素人のこういう展示の楽しみ方は、やはりそういう議論にもならない問い掛けを互いに交わすことであって。
やっぱり私と智香では現代アートを理解することは難しく、あれこれ感想を述べていくうちに、展示作品を見てタイトルを予想するクイズ大会が始まっていた。
「えーっと、『希望』?」
光沢のあるアルミの板と、その上に乗っている球体を見て、何となく私はタイトルを希望だと予想した。
「絶対違うよ。そうだなぁ……『鏡の中の世界』とか?」
どれどれ…、と二人でタイトルが記載してあるパネルを覗き見る。
——アルミの上の球。
それを見た瞬間、二人して火がついたように笑い転げてしまう。美術館なので、声を抑えなくてはならない状況がさらに笑いを加速させる。
「こんなの絶対分かんないよ……ふ、ふふっ……」
「く、はははっ……そ、そのまんまじゃん……あー、お腹痛い」
——あれ?
普通に智香と遊ぶのを楽しんでどうするのさ。
一頻り笑い終えた後、冷静になってみると、二人でただ遊びに来ただけになっていた。
デートなのだから正しい姿なのだろうけど、私の目的は違う。
穏便に恋人という関係を解消させる。
それが目的であったはずだ。
うーむ。さてどう切り出したものか。
美術館を出て、適当にファミレスで食事をとりながら私は改めて考えてみる。
目の前の智香はニコニコと笑顔でハンバーグを食べている。この身体になってから私は不思議とガッツリとした物を食べたくなっているので、メンチカツハンバーグセットなんていうカロリーお化けと格闘していた。
「午後はどこ行こうか?」
「んー。どうしよかなぁ」
財布をチラリと見る。
夏休み序盤に使い切るわけにもいかないしなぁ。ちなみにナズオは倹約家とは程遠い性格らしく、貯金はほとんど無かった。
財布に突っ込んであったレシートを見ると、短期バイトの給料まるまるを新しいアンプに充てた形跡があった。
要するにナズオは金が足りなくなったら短期バイトで日銭を稼ぐ生活をしていたようである。
「じゃあさ、ウチに来る?」
私が考えあぐねていたのを感じ取ったのか、智香はそんな提案をする。
確かに智香の家だったらお金も掛からないし、何より智香の部屋も懐かしい。
「いいね。じゃあ午後は智香の家でゆっくりしようかな」
男女の付き合いといえど、智香との家での過ごし方は、友人の頃と変わりなかった。
映画を見たり、お互いスマホを弄りながら思い出したように会話してみたり、お菓子をつまみながら雑談に興じてみたり。
どうやら智香とナズオは、想像していたよりもずっと健全な付き合いみたいだ。健全というよりも、カップルの過ごし方ってこんなだったか、と疑問を呈するくらいだ。
私に恋人がいたことはないので、こればかりは想像の域を出ないのだけど。
智香はどう思ってるのだろうか。
ボードゲームカフェに行きたい、と言い出した智香が近所のボードゲームカフェについて調べている姿を横目で盗み見てみる。
機嫌は悪くなさそうだ。彼女が男子ウケする容姿の持ち主だとは知っていたけど、身体が男になってからは、その魅力を直に叩きつけられているような感覚だ。
なんというか、おっとりした垂れ目と肩甲骨の辺りまで伸びた黒い髪が艶っぽいと感じてしまう。
私の視線に気付くと、何をいう訳でもなく、微笑み返した。
それもまた、彼女の色香のように思えて、身体が硬直する。
「どうしたの?」
「あー……いや、その。ボードゲームカフェってさ、近くにあるの?」
「近くは無いけど、二駅の隣の久瀬大橋駅にあるみたい」
そういや、晴美の家もその駅の近くだったっけな。
そんなことを考えていると、智香は顔を近づけた。
「ねぇ、ナズナ。夕飯はどうする?」
「え?夕飯?家帰って食べようかなって、思ってたけど」
そろそろ六時近い。気を見て帰宅しようかななんて考えていたところだけど。
「え?いつもウチで食べていくのに?」
どうやらナズオは智香の親も公認らしい。まぁ、幼馴染だし私も彼女の両親とは何回も会っているのだから、ナズナもそれなりに面識があるのだろう。
それなら、と、私は夕飯をいただくことにした。
スマホの着信音で目が覚めた。
どうやら夕飯の後も智香の部屋で過ごしていたのだが、いつの間にか眠っていたようである。
部屋は暗く、私に気を遣って智香が電気を消してくれたのだろうか。
画面を見ると、那月の名前が表示されていた。慌ててスマホを手に取ろうとすると、暗闇の中で私の手が誰かに掴まれる。
「智香……?」
「ねぇ、今日のナズナ、変だよ」
どうやら智香も私の横で寝ていたようで、スマホに手を伸ばした私の腕には、力が込められていた。
「何が…‥?」
「だって今日、一度もキス、してくれなかった。それに、抱いてもくれない。ねぇ、私のこと、好きじゃなくなったの……?」
「そんなことは……」
本当は、肯定するのが本来の目的なのだろうけど。
悲痛な声と、暗闇の中でも容易く想像できる彼女の悲し気な瞳が、自然と私の言葉を誘導する。
着信音はまだ響いていた。私は立ち上がってスマホを手に取ろうとすると、智香は私の胸のあたりに抱きついて、顔を押し付けるように力強く私を拘束した。
「智香……」
着信音は、鳴り止んだ。
罪悪感だけが、私の心の中で響き続けていた。
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