第四話 夢の飛沫のような君へ ①

 睡魔の誘う、その柔らかい腕に触れる直前の纏まりの無い思考は、案外本質をついている様な気がする。

 突拍子も無い考えと現実離れしたアイデアが、睡魔によって麻痺した脳内から、じわり、と滲み出るかのように現れる。

 普段ならそれは、私の意識と一緒に睡魔が連れ去っていくが、瞼が自然と落ち始めてから突如として浮かんだアイデアは私の眠気をすっかりとどこかへ追いやってしまった。

 そう言えば、晴美の姿をこの世界で見かけていない。

 ナズナのことで頭がいっぱいになっていたが、思えば女性の筈のナズナが、性格や趣味嗜好の何もかもが彼女と異なっている男になっていた事以外は、恐ろしい程に夢に見た未来の世界とほぼ同一なのだ。

 だというのに、私やナズナ、智香と一緒にいつも行動していた筈の晴美の姿をこの世界でまだ見かけていない。

 注意深くこの世界を観察すれば、もしかしたら他にも異なる部分があるのだろうか。




 スマホを片手に雑居ビルのエントランスに入る。雀荘やらスナックやらが入っているビルだが、施錠されることなく二十四時間エレベーターを使えることは事前に知っていた。

 ええと……確か。

 スマホでオカルトサイトのページをもう一度見直す。エレベーターで乗ったり降りたりすれば、異世界に行けるらしいけれど、手順が複雑すぎる。

 大体、ホラー映画とかは好きだけど怖い目には会いたくないしなぁ。

 深夜十二時に知らない雑居ビルのエレベーターに乗るだけでも少し怖いというのに、もしこの異世界が私の想像する元の世界とは別で、グロテスクホラーにでも出てくるような世界だったら怖くて耐えられない。

 ナズナに会いたい一心で、こんなオカルトな手段に頼ろうと思ったけど……。

 と、少しエントランスで躊躇していると、エレベーターが動き出したのを見て慌てて身を隠す。

 別に隠れる必要はないんだけど、何となく怪しげなビルなので少し警戒してしまった。

 降りて来たのは、男の方のナズナだった。

 こんな時間にこんなビルで何しているのだろう。彼はキョロキョロと辺りを伺った後、スマホで何かを調べたりしたが、嘆息してからすぐに去っていく。

 何の店に入っていたのだろうか。エレベーター横のフロアガイドを眺めてみる。

 まさか雀荘?

 まさか男のナズナがここまでフシダラな生活を送っているとは。

(やっぱり……あのナズナとは違う)

 もしかしたら、男なだけで中身はナズナと変わらないのかもしれないという、微かな希望で去年それとなく話したことがあるが、性格も趣味嗜好も何もかもが異なっていた。

 ナズナはロックなんて聴かないし、サッカーを見るために夜更かしもしない。下品な下ネタでゲラゲラ笑わないし、勉強だって文系の方が得意だったのに男の方のナズナは理系だった。

 勝手に期待して勝手に失望してしまっているのは、少しだけ彼に悪い気がしてるけど。


 それでも一昨日、ナズナと初めて会った日に、ナズナと初めて会ったあの公園で彼に会ったのは偶然だったのだろうか。

 もしかしたら、日付の変わるタイミングで彼女がひょっこり姿を現すんじゃないだろうかと期待して待っていたのだが、それよりも少し早い時間に現れたのは男の方のナズナで。

(そういえば、あの時の彼は。何だか少しだけ、変だったな)

 なんか変なナンパみたいなこと言ってきたし。それもナズナとの違いをまざまざと見せつけられているようで、少し機嫌が悪かった。

 結局、十二時になっても本物の、少なくとも私にとって本物のナズナは現れなかった。


 それにしても、なんでナズナだけが変わってしまったんだろう。

(もしかしたら、私への罰、なのかな)

 ナズナのことを好きなのに、その気持ちを見て見ぬ振りをして。その癖、会えなくなってからもう一度、なんて願ってしまったから。

 この世界と、あの半ば夢のような世界の因果関係なんて知らない。

 だけどもし、この世界が本物で夢見た世界が偽物だとしても。私はあの世界こそが、私にとっては本物なのだ。


 だから——。

 少し怖いけど、エレベーターのボタンを押す。オカルトサイトによれば、エレベーターの四階だとか二階だとか、順序通りにエレベーターを動かして、最後に止まった階で何かが入り込んできた気配があったら異世界への移動が成功するのだという。

 しかし、結局オカルトはオカルトの域を出ず。

 あれだけ怖いと思っていたのに、拍子抜けする程何も起きなかった。

(何、してるんだろ。私…)

 ナズナに会いたい。

 また一度、あの見ている方も釣られて笑ってしまうような笑顔を私に向けて欲しい。

 聞いているだけで、思わずこちらも元気になるようなあの可愛らしい声で、名前を呼んで欲しい。


「私を置いていかないでよ。私を、一人にしないでよ……ナズナ」


 何度君を想って泣いたのだろう。

 コンビニのトイレで泣き腫らした目を鏡越しに見ると、そんな自嘲が溢れる。

 だからと言って、この世界で新しい希望を見つけて生きていこうなんて、思えもしない。

 当たり前だ。

 例えあれが夢だとして、ナズナへの恋がその飛沫しぶきに過ぎなかったとしても。

 私は恋をしてしまったのだ。愛してしまったのだ。

 だから、まだ。

 諦めきれない。


(次の手掛かりは——この世界でまだ姿を見ていない、晴美、かな)


 ——ナズナ、君はこんな私を馬鹿だと笑うのかな。それとも、少しは同情してくれるかな。

 私は、君のいない世界で君を探す。

 それは、まるで神のいない世界で神を探す、神学者にも似ているのかもしれない。

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