第二話 もしも願いが叶うのなら ②
「姉ちゃん、そろそろ起きないと、学校間に合わんよ」
妹の声がする。懐かしい声だ。少し昔の、まだ幼い頃の妹の声だ。
「ん……起きるよ」
のそのそ布団から這い出た私は、ノロノロとした動きで階下に降りる。冷たい水で顔を洗うと、徐々に意識がハッキリとしてくる。
何かとんでもなく長い夢を見ていた気がする。不思議だ。私はまだ中学生なのに、高校三年間をまるまる経験したような、それどころか、大学にまで進学していたような。
「葉月、アンタ今日雑巾持ってくんでしょ?姉ちゃんがわざわざ昨晩作ってやったんだから、忘れるんじゃないよ」
「あ、そうだった。ありがとー姉ちゃん」
朝から元気一杯な妹だ。
私はゆっくりと登校することにしよう。
食卓に乗ってるバターロールを牛乳で流し込みながら、朝のニュース番組を見ていると、十月八日という表示が右上にある。
何でもない日の筈なのだが、何故か何かある気がする。リビングのカレンダーに目をやるが、何も書き込まれてはいない。
「確か……なんでだっけ、爺ちゃんの命日だったような気が」
いや、死んでないか。
ううん、変な夢を見たせいか、妙な気分だ。毎日いる家なのにやたら懐かしく感じるし、そうでなくても、自分の視界というものがやけに低く感じてしまうような違和感がある。
今度はレーズンパンを食べよう、と手を伸ばしたところで、仕事に向かっているはずの父が大慌てで戻ってきた。
「葉月は?」
「もう学校行ったよ」
母さんは騒々しく戻ってきた父を見て、何があったのかと問う。
「親父が死んだって連絡があった。那月、お前も今日は学校休みなさい。母さんは葉月の小学校に電話を」
——なんとなく、驚きはなかった。
勿論、爺ちゃんが死んだことは悲しかったが、それ以上にそれが当たり前のような気がしていた。
あの夢は、もしかして夢では無かったのだろうか。
そんな現実離れした想像に応えるように、記憶が逆流する。一年半の記憶、那月の隣で過ごした日月。
考えと記憶の整理がついたのは、通夜の最中、親族達が故人の思い出を肴に酒を傾けている時間帯だった。
つまり、丸二日を要した。
私は、多分、過去に戻って来たんだ思う。祖父が死んで、一人になった祖母を案じた父が転勤希望を会社に出して、二年後の夏に私達一家は引っ越すことになる。
不思議な感覚に慣れなかった。何故なら中学生としての私の記憶の連続性はしっかりとしているのに、一方で別の知識としてこの先私が体験することを知っているのだから。
だからといって、未来の自分の記憶に対して、客観性は無かった。どちらも自分自身が体験してきたものとして記憶されている。
だから、ナズナのことを好きだと気付いたのが昨日のことのように思えるし、同時に妹に頼まれて雑巾を作ったのもついこないだのことに思えるのだ。
「那月、疲れたなら寝てても良いんだぞ」
時刻は深夜二時を回っている。宗派こそ知らないが、祖父の通夜では一晩中蝋燭が消えないように見張らないといけないらしい。
考えを整理していた私は、その火の見張り番をしていた父に眠いのだと勘違いされた。
「ねえ父さん、婆ちゃん、これからどうするの?」
「そうだなぁ…。一人になっちゃうしなぁ。母さんに相談するけど、父さんは引っ越して婆ちゃんの面倒を見たいって思ってる」
「ならさぁ、引っ越す訳じゃん?来年から高校生だし、途中で転校するのも嫌だからさ、こっちの高校を受験しても良い?」
「そうか?お前が良いなら別に構わないけど……でも、直ぐに引っ越すってわけにはいかないぞ?」
「父さん達が来るまでは、婆ちゃんと二人暮らしするからさ、ね、それがいいと思うんだけど」
どうせ、直ぐに引っ越すことになるのだ。編入試験なんていう面倒くさい事をしたくないし、それに一年生の四月から通えば、その分早くナズナに会える。本来出会った二年の夏休みよりは随分と早くなってしまうけど。
過去に戻った理由とか原因とかは最早どうでもよくなっていた。
早くナズナに会いたい。
会って、今度こそ気持ちを伝えたい。
その気持ちだけが私を突き動かしていた。
四月。
予定通り父達は翌年の夏に引っ越すことになったが、私は一足先にナズナと過ごした街にやってきていた。感覚的には半年振りだが、思わず涙ぐんでしまうほど懐かしい。
ようやくナズナに会える。そういう想いが、柄にも無く私を緊張させた。
教室のドアを開ける。一年の頃のナズナの席は知らないけど、ナズナから聞いた話のクラスと同じ教室なので、どこかに彼女はいるはずだ。
普通新入生は自分の席がどこなのか確認するのだろうけど、私は真っ先に彼女の姿を探した。半年のブランクはあれど、教室内にいる生徒の名前は大体顔を見れば思い出せたが、一人だけ見覚えのない生徒がいる。ただ、それだけで、ナズナの姿は無かった。
もしかしたら、タイムパラドクス——だっけ?——なんかそんな感じのやつで、少しだけ変わってしまったのかもしれない。
私はそんな事を思いながら、クラス中を眺めるが、彼女らしい人は見当たらない。
もしかしたら別のクラス、いや別の学校になってしまったのか。
だとすると、少々面倒だ。
だが、今の私はそれくらいの障害じゃ、諦める気はない。彼女の家だって知っている。その気になればいくらでも会えるはずだ。
同じクラスにならなかったのは残念だけど、せっかく過去に戻れたのだ、これ以上の贅沢は流石に我儘過ぎるだろう。
そう思っていた。
「じゃあ、次、各務ナズナ」
懐かしい名前が聞こえて、視線を向ける。今は新しいクラスのオリエンテーションの時間で、一人一人が自己紹介をしていっている。
名前を呼ばれて立ったのは、私の記憶にはいない、見知らぬ男子だった。
「各務ナズナっていいます。趣味はギターと映画鑑賞とサッカー観戦。特技はええっと、特には無いです」
疎らな拍手が上がり、間髪を入れずに次の生徒が自己紹介を始める。
私は過去に来たわけでは無かった。
私の体験した未来は、本当にただの夢だったのかもしれない。
そんな疑念が渦巻く。
今この場所が過去だとしても、パラレルワールドだとしても。
この世界に、私の愛したナズナはもういないのだと、思い知らされてしまった。
もしも願いが叶うのなら、神様。
私のたった一度の恋をもう一度。
それが叶わないというのなら、せめて。その恋の残滓を粉々にして、初めから無かったことにしてくれないでしょうか。
叶わぬ恋に焦がれる程、辛いことはないでしょうから。
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