第一話 神様はいつも思い違いをする ②

 スニーカーの靴音よりも心臓の音の方が遥かに煩い。

 意味もなく走る。心臓の音が心地良かった。

 しかしまだ時刻は九時を少し過ぎた程度だ。確か初めて那月に会ったのは、日付を跨いだ辺りの筈だから、急いでも無意味ではある。

 だけど、那月が現れる時間まで家にいるというのは、想像しただけで落ち着かない。

 一刻も早く、那月に会いたかった。

 あのエクボの浮き出る笑い顔とか、照れた時のまぶたを少しだけ閉じる癖とか、人見知りなのに意外と寂しがり屋なところとか。

 彼女の全てをもう一度、この眼で見たかった。

 ユニセックスな格好を好むクセに誰よりも少女趣味な那月を、運動は苦手なのに負けず嫌いだから直ぐに体育でムキになる那月を、寒いのが苦手だという割に雪が降るとやたらテンションの上がる那月を。

 今度こそ、私が——。


 夏真っ盛りのこの時期に走るもんじゃなかった。汗でTシャツが肌に張り付いてしまっている。その不快感と湿度の高い外気に、私は走るのを止め、公園手前のコンビニで冷たい水を買った。

 水を一気に飲むと、すぐに汗は引いた。体温調節機能は、女子より男子の方がしっかり機能しやすいと保健体育で習った気がするが、どうもそうらしい。

 公園が見えてきた。

 人影がある。見覚えのある人影だ。いや、見覚えのあるなんてものじゃない。

 那月が、あの日と同じように、そこに佇んでいた。

 何故こんなに早く、だとか、そういう疑問は彼女を見た瞬間吹っ飛んだ。

 とにかく、早くあのハスキーな声を聞きたい。

 その一心で、那月に近づく。

「あれ?各務君?」

 おや?

 那月は私の姿を見て、当たり前のように私の名字を呼んだ。

 以前はナズナと呼んだくれたのに、なんか寂しいなぁ——じゃなくて、なんで既に私の名前を知っているんだ?

「えと、なんで俺の名前を?」

「だって同じクラスじゃない。覚えてないの?芹川だよ」

「え?だって、転校は」

 そう言うと、那月は訝しむように、私を見る。そして少し不機嫌そうに言った。

「転校?する予定もないわよ。だって、去年の四月にこっちに来たばかりだし」

 んん?

 やっぱりおかしいぞ。

 この世界だと、那月は一年近く早くこっちに来ているのか。

 いやまぁ、私が男になっていることよりはずっとおかしくはないけどさ。

「あ、いや、別の人と勘違いしてた。それで、那月は何をしてたの?」

「那月?別にいいけど、各務君って女子を下の名前で呼ぶタイプだったっけ?」

 更に不機嫌になっていく那月。

 うわぁ、やってしまった。

 確かにあまり仲良くない男子から急に下の名前で呼び捨てにされたら不信感しかないだろう。私だってそうだもん。

 これじゃあ、那月と恋人になるどころか、以前よりもずっと遠い存在になってしまう。

 やばいやばい。

 どうしたものかと、頭を動かす。兎に角、弁解だ。そうするしかない。

「え、あ、ごめん。従姉妹いとこが同じ名前でさ。つい」

 ええい、なんとでもなれ。

 と言わんばかりの勢いで嘘をついてしまう。ごめん従姉妹よ、君は今、那月の中で那月という名前になってしまった。

 まぁ、どうせ正月くらいしか会わないし、許してくれよ。

 ぼやけた顔しか思い出せない、同い年のギャルっぽい従姉妹に謝罪と弁明をしつつ、スマホを取り出す。

「そういえばさ、俺芹川の連絡先、訊いてないよな」

「なんか今日の君、少し変だね。まぁ、同じクラスだしね、知っていたほうがいいか」

 と、那月もスマホを取り出して、チャットアプリのIDを表示させる。私はそれを読み込むと、芹川那月の文字が画面上に現れた。

 彼女のアカウントの写真は、私とテーマパークに遊びに行った時のものだったが、今は家族旅行か何かの写真になっている。

 それが少し寂しかった。


「それで、そんなに変かな?」

 那月は男の私をどういう風に見ていたのだろう。

 少なくとも、初対面ではないというのなら、それを知る必要がある。

 いきなり告白して勝ち目のある関係なのか、それとも何かしら疎まれてたりしやしないか。

 昨日までの男の私よ、那月に変なこと思われてたらぶん殴るからな。

 そんな届かない脅しをかけてもみるが、虚しく心の中で響くのみだ。

「うーん。そんなに積極的なイメージ、ないかも」

「普段の俺ってどんな感じ?」

「え、何その記憶喪失になったみたいな質問。そんなこと急に訊かれても答えようないよ。そんなに親しくないじゃん、私達。まぁ、印象だけで言うなら、騒がしい男子の中心って感じかなぁ」

「えーっと、お調子者ってこと?」

 なんて地位をクラス内で確立してるんだよ、男版私。いや確かに、女子の私だって、今思えばお調子者的ポジションだったかもしれないけどさ。そこまで似なくてもいいじゃないの。

「いや、別にそこまでは言ってないけどさ」

「それで、こんな夜に何してんの?散歩?」

「まぁ、そんなところ。各務君こそ、何してるの。あ、もしかしてこれからデートとか?」

 なんか、那月の中で男の私は相当低いランクにいるような気がする。気のせいだよね?

 大丈夫大丈夫。よし、取り敢えず良い話の流れになってるし、ジャブ的にデートに誘ってみよう。

「そうそう。どう?これからデートしない?」

「浮気はダメだよ。君、京崎さんと付き合ってるんでしょ?」


 ——え?マジで?

 京崎って、智香のことだよね?

 嘘でしょ?

 確かに小学校からの友人だし、那月を除けば一番の友達だ。だからといって、付き合うなんてことあるの?

 ちょっと何してるの、男の私。何智香に手を出してんのさ。もし会う機会があったら説教モンだよこの失態は。

 しかしそれにしたって、状況がかなりまずい。

 付き合うどころか、もう既に私に彼女がいるなんて。


 私はどう返答したものかとしどろもどろになっていると、那月は更に私をどん底に突き落とす一言を容赦無く告げた。


「——それに私、好きな人がいるから」


 ああ、神様。

 きっと貴方は私のことが嫌いなんでしょうね。でも安心して、私もアンタのことなんか、たった今大嫌いになったからさ。


 こうして、私の一目惚れへの再戦は。

 どう見たって勝ち目の無さそうな状況から始まった。

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