第一話 神様はいつも思い違いをする ①
落ち着け私。
そうそう、深呼吸深呼吸。
うん、歯磨き粉のいい匂いがする。
——ではなくて、何故こんなことになっているのか。少し考えてみよう。
一番最初に考えられるのは夢だ。夢にしては意識はハッキリとしているし、夢ならではの支離滅裂さは股間以外には今のところ感じられない。
しかし、そういうところから目を背けると、一番現実的なのが夢だという可能性だ。
夢が現実的という矛盾した表現に、少し自分で吹き出しそうになる。
うん。ないな。
王道に自分の頬をビンタしてもよかったが、それをする必要もないくらいに、私の五感が夢ではないと訴えてくる。
そうなってくると、認めたくはないがこれは現実である。
まさか昨日寝る前に何故男に生まれなかったのかと思いながら寝入ってしまったからなのだろうか。いや、あまりにも非現実的過ぎるか。
とはいえ、私の股の間にぶら下がっているものは、私にとってはファンタジーすぎる。
よし、今からこの股間の物はファンタジーボーイと名付けよう。
そんな意味不明なテンションになりつつ、私は男になった理由は私一人では解明できないと判断して諦めた。
もはやこの状況の原因に蓋然性の多寡を問うことすら無意味なのだろう。
兎に角、家族に報告せねば。私の知らない流行り病の可能性だって少しはある筈だ。
洗面所から勢い良く出ると、母親が朝ご飯の準備をしていた。
「夏休みなのに、アンタ随分早起きだね」
「は?何言ってるのさ、春休みでしょ?それよりも母さん、私のファンタジーが」
「アンタこそ寝ぼけてるんじゃないの?夏休みでしょうよ。大体何よ、ファンタジーって」
呆れたように母は言う。夏休み?いやまさか。昨日卒業式だったはずだ。
スマホを確認すると、七月二十五日とある。つまり、夏だ。
「それよりナズナ、洗濯物早く出しなさいよ?昨日着替えもせずに寝たじゃないの」
「え、あ、うん」
自室に戻り、私は落ち着いて少し考えてみる。
状況の再確認だ。
部屋にある姿見を見ると、以前の私の面影はあるが、明らかに骨格からして男になっている。私が男になったのはファンタジーボーイだけではなく身体全体のようだ。
先程母と話して分かったが、声質も男子にしては少し高い程度の男の声だった。
「……うん。成る程」
朝っぱらの寝起きの頭だというのに、随分ハードな状況だ。それだけはわかる。
続けて部屋を見る。
間取りや家具の配置は私の部屋だが、布団の色が青かったり、机の上の小物がアメコミ映画のフィギュアになっていたりと、少し変化している。
「突然私が男になったんじゃなくて、私が男の世界に来たって感じなのかな、もしかして」
呟いて、思わず自画自賛してしまう。
意外に頭が冴えてるじゃないか、私。そう考えるとしっくり来る。
ま、それが分かったところで何の解決にもならないんだけどさ。
「しかし、夏休み、か」
うん?夏休み?
そうだ、今私がいるのは夏だ。問題はどの夏なのかだ。
順当に考えるのならば、大学一年の夏休みなのだろうか。しかし、壁に高校の男子制服が掛かっているということは、卒業式から半年ほど遡った、高校三年生の夏休みということなのだろうか。
スマホを再び覗き込む。カレンダーアプリを起動させると、私の予想はどちらも外れていた。
高校二年生の夏休みだった。
図らずとも二度目の夏がやってきたのだった。
スマホの検索履歴を私以外の人間に見られるとマズいことになるだろうなぁ。
扇風機の前で充電ケーブルに繋げたままのスマホから顔を上げると、夕方になっていた。
「いきなり 男になる」、「タイムスリップ 性転換」、「女性 戻る方法」——。
こんな感じの検索を一日中続けて見て分かったことは、どうやら私の身に起きているこの状況は一般的なものではないらしい。
いや、分かってたんだけどさ。現代っ子よろしく、調べ事はスマホで済ませてしまう私ではあったが、少なくとも私のこの状況を何とかする解決策はスマホの中にはないらしい。
諦めて、階下のリビングに降りると兄貴と父親が庭に出て何かを準備している。
「おう、ナズナ、今日晩飯焼肉だから。準備手伝えよ」
私が女性だった頃は、外に出て七輪で焼肉をすることは無かった。
中学の時に散々家族でキャンプ行くのを嫌がったからなぁ……。父は私がアウトドア嫌いだと思い込んで遠慮でもしてたのだろうか。
だとすると兄貴と二人で楽しそうに七輪の炭に火をつけている父を見ると、少し申し訳なく感じる。
というのもアウトドアが嫌いなのではなく、寝袋で寝るのが嫌いなだけなのだから。
「うん、分かった。それで、私は何をすればいいの?」
「……ナズナ、今日お前ずっと部屋に篭ってたけどさ、なんか具合でも悪いのか?」
私が話し始めた途端、兄貴は怪訝そうな表情で私を見た。
「いや別に…顔色でも悪い?」
「自分のことを”私”なんて言ってなかったろ」
確かに、男子で私って言う人見たことないかも。大人だったらよく見かけるけど。
「あー、間違えたわ。で、俺はなにをすればいい?」
我ながら一人称を間違えるって何だよ、と思いながら苦しい言い訳をしてみる。兄貴は、以前の私の兄貴と大差ないらしい。不思議に思っただけで、特に追求もせず淡々としている。
「椅子とテーブル用意してくれ。物置にキャンプ道具置いてあるだろ、あそこに入ってるから」
「うん、分かった」
指示通り物置に向かう。
兄妹と兄弟では、やはり色々変わるらしい。物置の中も、私が昔買ってもらったフラフープやピンクのキックボードが無くなり、代わりにグローブやバット、サッカーボールなんかが鎮座していた。
家族の前で男のフリをするのはしんどいが、流石に、女だったけど男になって、更についでに過去にタイムスリップした——なんて言おうものなら、頭の病院に直行コースに違いない。
少し溜息をついてから、折り畳みのアウトドア用テーブルを持ち上げる。
おお、この身体なら結構軽く感じるな。
ちょっとした男の体のメリットを感じつつ、まぁ、なるようにしかならないか、と思考を放棄することにした。
美味しく焼き肉を頂いた後、リビングでテレビを眺めていると、ふと気付く。
そういえば、元に戻る解決策を探そうとしていたけど、その必要は果たしてあるのだろうか。
確かに、何となく元の状態に戻ることが正しいとは思っていたし、そうしなきゃならないという使命感みたいのがあった。
だが、こうなる状況になる前。つまり、私の股間にファンタジーボーイが生えてくる前、ああいや、そういう事じゃなくて、男になる前。
私は芹川那月に告白する事なく高校生を終えてしまったのだ。後悔すると分かっていたはずなのに、震えた唇が彼女に想いを告げることはなかった。そして、何もかもが終わったのだ。
摩訶不思議な現象とはいえ今は二年前に戻ったのだ。つまりやり直すことができる。
あれだけ望んでいた、異性の身体だ。私は正々堂々と、芹川那月に想いを伝えることができるのではないだろうか。
そう考えると俄然として、前向きな思考が戻ってくる。
そうだ、何も元に戻る必要はないじゃないか。
那月に今度こそ、私は想いを伝える。
神様はそのチャンスをくれたに違いない。
「最高かよ、この状況」
思わず叫んでしまった。
男の私でも奇行は当たり前だったらしい。母は一瞥してからテレビに視線を戻したし、兄貴はドン引きしたような表情でこっちを見ていた。ちなみに父親は座椅子の上でイビキをかいている。
しかし、私にとってそれどころではない。
早速メッセージアプリを立ち上げて那月に猛アタックを仕掛けようとしたところで、連絡先一覧の中に彼女の名前がないことに気づく。
あれ?もしかしてこの世界の私はまだ那月に出会えていない?それとも、連絡先を交換するほど仲良くないのだろうか。
いやいや、例え男の私であろうと那月に惚れない訳がない。まさかビビって連絡先も交換していないのか?
何やってんだよ、そこはグイグイいくべきだろうよ私。
と、もう一人の私に対して叱咤激励をしてみるが、よく考えると、まさにこれから数時間後、あの小さな公園で私は彼女に一目惚れするのだ。
濡れ衣を着せてしまった男の私に軽く謝罪しつつ、私は急いで自室に戻る。
「ええと、確か那月は」
男性アイドルや若い俳優よりも、スポーツマンが好きだった筈だ。以前の世界の知識を使えば、那月の好みに合わせた彼女の理想の男性像を自分自身を使って再現できる。
いや、そこまで詳細には知らないんだけどさ。
取り敢えず服装や髪型はこれから何とかするとして、部屋の中にある服を全て引っ張り出して、何を着ていこうか考えてみることにする。
「おお…この世界の私、無難過ぎかよ」
全部が全部とは言わないが、無難な服が多すぎて、ダサいという訳では無いが特別お洒落という訳でもない。
というよりも殆どあの某ファストファッション店のものじゃない?大体の服、見覚えしかないんだけど。
ドンと呼ばれてそうなファッションデザイナーのオッサンばりに批評したが、女性の頃の私も無難な服ばかり買っていたことを思い出す。
なんというか、男でもやはり私は私みたいだ。
「まぁ、取り敢えず清潔感があればいいか」
とはいえ、変に尖った服装を好んでなくてよかったとも言える。チェーンがジャラジャラしてるホスト風ファッションとか、そういう着る人を選ぶような服装は、少なくとも私には似合わないだろう。
不細工という訳でもないが、イケメンでもない何とも半端な顔立ちだから、そういう意味では無難な格好がよく似合う。
私の好みの顔では無いけど、いやまぁ、うん、多分世の中の女性のほとんども好みの顔じゃないだろう。
まぁ、一目惚れはしないけど、別に嫌いでは無いよ、って感じの顔だ。
思いながら少し凹む。何処か他人の身体のような気分であったというのに、だんだんとこの顔と身体が今や自分そのものなのだという実感が湧いてくる。
いやいや、要するに中身で勝負しろという神様の思し召しだろう!
なんて、無理矢理奮起してから、私は家を飛び出した。
目指すはあの小さな公園である。
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