プロローグ ①

 二度目の夏が来た。

 何から数えて二度目なのかって?そりゃあ、青春が始まってから、と浮かれ気味に自問自答してみる。

 要するに高校二年生の夏休みがやってきた。今日は夏休み初日の七月二十五日だ。

 今年から大学生の兄貴は私なんかよりもずっと長い夏休みなのが不満だし、夏休みの宿題が多いのが不安だし、母親に半ば強制された塾の夏期講習で二週間も潰れるのが不服だけど。

 それでも、夏休みなのだ。

 午前中まるまる寝て過ごしても良し、朝日が登るまでゲームしても良し、友達と遠出して遊びに行くのも良し。


「最高かよ、夏休み」

 我慢出来ずに思わず叫んでしまう。母は私のそんな奇行を見慣れているのか、無視してドラマから目を離さないし、ソファでスマホを弄っている兄貴はドン引きした様な顔で憐んでいた。

「ナズナ、近所迷惑だから叫ぶなよ」

「兄貴こそ、夏休みなんだから大学生らしく夜通し友達と遊んでればいーじゃん。毎日毎日居間でダラダラしてないで、さっさと彼女の一人でもつくりなさいよ」

 何一人で大人ぶって注意なんかしてるのさ。

 私の思わぬ反撃に機嫌を損ねたのか、兄貴は舌打ちをして私の言葉を無視する作戦に出た。

 だが、それは悪手のようである。

「そうよ和樹。アンタ、そろそろ一人くらい彼女を母さんに紹介しなさいな」

 息子を心配する母親らしいもっともな言葉を投げかけている様に見えるが、実は私達兄妹の母親は、三度の飯よりゴシップが好きなのである。週刊誌は欠かさず立ち読みするし、昼間のワイドショーは飽きないのかと思うほど毎日熱心に見ている。

 私は内心ほくそ笑んでいた。夏休み初日の夜から無粋なことを言われたのだ、些細な復讐に成功した私は、友人の智香と明日の予定について電話でもしようかと二階に向かうところで、うざったそうにしている兄貴の反応に飽きた母が私に矛先を向けてきた。

「ナズナ、アンタもよ。女子高生なんだから、彼氏の一人くらい直ぐ出来るでしょ?私なんか、お父さんと会うまでは彼氏がいなかった時期なんて無かったくらいなんだから」

 本当かよ。

 私は心の中で突っ込んでみる。仮に本当だったとしても、今は見る影もないでっぷりとした二重顎を揺らして自慢げに語る母に当時惚れていた方々はさぞがっかりするだろうな。

「ま、私は彼氏よりも友達と遊ぶ方が楽しいから」

「出来ないだけだろ、言い訳すんなよ」

「うっせーバカ兄貴」

 居間の扉を荒々しく閉じて抗議しつつ、自室へ戻る。


 私達家族は、口が悪い。

 なんだかんだ仲良くやっているので、こんなのはただ戯れているだけなのだが、一度、智香ともかが泊まりに来た時は、父を含めてこんな調子なので引き攣った笑い顔を見せていた。

 もし何も知らない宇宙人が私達家族の会話を見たら、地球人はなんて野蛮な民族なのだろうと勘違いすること間違いなしだ。そんなことになったら、我が各務かがみ家の所為で、宇宙人が地球人を滅ぼすことになるかもしれない。

 勇敢なアメリカ軍人が宇宙船に突っ込んでハッピーエンドを迎える映画を観ながらそんな下らないことを考えていると、電話口から智香の寝息が聞こえてきたので通話を切る。

 タブレットで同じ映画を見ながら電話をするなんていうことをしてみたはいいが、互いに映画に集中してしまい、殆どが通話の意味をなさなかった。

 私は苦笑しつつ、タブレットを机の上に置くと、ベッドの上に倒れ込んだ。

 すっかり日付が変わっている。

 この時間なら母は寝ているだろうし、帰ってこないところを見ると父は飲み歩いているのだろうか。

 隣の部屋から僅かに声が聞こえる。となると、兄貴はボイスチャットでもしながらオンラインゲームでもしているのだろう。

 私は寝巻きのジャージからジーパンに履き替えると、足音を立てないように階下へと降りる。

 何を隠そう、深夜の散歩が趣味なのだ。夜更けに家を出ること自体、母にバレたら怒られるし、兄貴はきっと告げ口でもするのだろう。

 だから、こっそりと勝手口から忍び出る。

 夜の空気は好きだった。自転車に乗って十数分も漕がないと駅前の繁華街には着かない程の住宅街のど真ん中なので、当然喧騒らしい喧騒は聞こえない。

 時折りマフラーでも改造してるのか、アホ程煩いエンジン音を鳴らしているバイクの音が国道方面から虚しく響くのみだ。

 静寂は気持ちがいい。自他ともに認める騒々しい人間の代表格だが、それでも私以外誰も知らない私の一面として、そういう静寂さや寂寞さを好む私がいる。

 スニーカーなのに、家々の壁に私の靴音が反射するのが好きだ。

 思い切り息を吸い込んで、昼間には感じることのできない、街中の自然な匂いを嗅ぐのが好きだ。

 街灯に照らされたアスファルトの地面に広がる私の影を見るのが好きだ。

 手頃に体験できる異世界といった感じなのだろうか。別に今の生活や環境に不満があるという訳ではないが、それでも時々、誰も私のことなど知りもしない国に行きたいと思うことはある。

 知らず知らずのうちに私が抱えてきた荷物を下ろす様な、そんなことをしてみたいのだ。

 十七年しか生きていない小娘さえ、たまにそんなことを思うのだ、何十年間も責任と責務に苛まれた世の中のサラリーマン達は、どれだけの荷物を背負っているのだろうか。

 夜の空気は、普段なら考えもしないそんなことにすら思考の穂先を誘導する。


 私の家から数分歩いた所に、小さな公園がある。遊具なんていう気の利いたものはブランコ位しかない本当に小さな公園だ。

 途中の自動販売機で冷たい炭酸ジュースを買ったし、その公園で腰を下ろすかと思い足を向ける。

 スマホを見ると午前一時を回っていた。当然、その公園には、誰もいないだろうと思っていた。

 しかしそこには、一人の女性が立っていた。


 ——一目惚れというものをしたことがあるだろうか、と問われると私は胸を張って無いと答えることができる。

 そもそも一目惚れなんてものは、ただの面食いってだけの話だし、外見が好みのタイプだったという事実を無理矢理それっぽく脚色した単語でしかない。

 少なくとも私はそう思っていた。

 だが、人が人に惚れるというのは、そういう理屈だけじゃないらしい。

 なんというか、パズルのピースが嵌まるような小気味良さというか、或いは最初からそういう風に出来ている設計図通りに組み立てているような当たり前がそこには存在している。一目惚れとはそういうことなのだろう。

 好きになるということに理由は介在しないのだ、と私は思い知った。

 一切の疑問の余地すら無く、前奏を聞いただけで好きなタイプの曲だと理解出来てしまうような感覚で。


 ——不意に、唐突に、にわかに。

 ——突如として、卒爾そつじとして、忽然として。

 私は恋をしてしまった。


 公園の中で、月明かりに照らされながら、しん、と佇む彼女のことを。

 一目見て好きだと思ってしまった。


 二度目の夏は、同性に恋をして始まった。

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