愛 巡る

千田紗羅

思い出は思いもよらぬ形で。

 妻が息を引き取った。私は、年末で仕事が忙しい時期だったせいで、病院からの連絡に気づかず、妻の最期に立ち会うことができなかった。若くして妻は両親を病気で亡くし、私たちの間に子どもはいない。妻は一人寂しく病院のベッドで息を引き取ったのだ。

私は午後一番に仕事を早退し、事故でも起こしそうなほどのスピードで病院へと向かった。

病院へ着くと受付前に一人の看護師がいた。最期のときその場にいたという看護師が、

「山城様、この度はお悔やみ申し上げます。それと奥様は最期を迎えるとき、ありがとうと旦那様へおっしゃっておりました」

と、伝えに来た。

「妻は今どこに」

 私はせかすように看護師へ尋ねた。

「まだ病室―」

看護師からの返答を聞き切らずに、私は病室へ向かって勢いよく走りだしていた。親切に対応してくれた看護師へ、ありがとうございますの一言すらいえないくらい心に余裕なんてものはなかった。

病室についた私は、頭にかぶさった白い布をめくり、顔を確認する。私は嗚咽した。言葉にならない悲痛な叫びが込みあがる。

「ごめん、ごめん美奈」

 寂しい思いを最期にさせてしまった。氷のように冷たくなった美奈を抱きしめる。悲しみに暮れ、あふれ出る涙でぼやけた視界に一通の手紙が映った。

「山城慎二さんへ」

 表には私の名前が記してあった。見慣れた可愛らしい丸文字。私は深い一息をつき、手紙を読み始めた。


これをあなたが読んでいるときには、もうわたしは死んでいるんだね。不思議な気分だよ。もうすぐ死んでしまうかもしれないのに、すごく落ち着いた気分。あなたと過ごした人生を振り返っていたら残された時間なんてあっという間に過ぎ去ったよ。会社が忙しいのに早く帰れた日とか、休日は必ずお見舞いに来てくれてありがとう。あなたと出会って、結婚して、一緒に過ごしたことは、私にとって人生で一番の幸せでした。ありがとう。

そうそう、手紙と一緒に入ってる地図はね、わたしの宝物があるの。宝物と一緒に旅立ちたいから、わたしの棺に一緒に入れて。

最後に、こっちであったらたくさん思い出話しようね。土産話も楽しみにしてるね。いつでもわたしはあなたのそばにいるから。――愛してる。

 

まるで美奈が隣で話しかけているような錯覚を私は起こした。

「目、開けてくれよ」

手紙を読み終わった私は、美奈の手を握り、ベッドへ頭をうずめた。目の前で冷たくなっている美奈がいつものように笑いかけてくるのではないか。死んだなんて嘘なんじゃないか。私の頭の中は美奈との思い出で溢れかえっていた。


 葬式や各所への連絡をしていたら、美奈が旅立った日からもう数週間もの時間が経過していた。

「はい、十二時の予約でお願いします」

 私は岩手県のバラ園のある旅館に予約を入れた。

私は一つ美奈に謝らなければいけないことがある。あの手紙と一緒に入っていた地図通り指定の場所へ向かい、印のあった美奈の部屋の机の引き出しからアルミ製のカンカンを見つけた。中身は現像された写真。二人でいろいろなところへ旅行に行ったときのものや、何気ない生活風景様々だ。その中でも一際大事に保管されていた写真があった。それは、岩手県のバラ園で、バランスを崩して噴水へ落ちたときの一枚。どの写真よりも私たちは笑顔に満ちていた。

私は棺に写真を入れなかったのだ。美奈との思い出の形が燃えてしまうのは、寂しかったからだ。

「行ってきます」

 私は美奈のいなくなった一人の、物静かな家へいつも通り挨拶をした。予約の時間に間に合うように、東京駅始発の新幹線で新花巻駅へ向かう。


「新花巻、新花巻です。お降りの際は足元にお気をつけください―」

 車内のアナウンスが流れ、降車の準備をする。夏の岩手は感嘆のため息が出るほどの彩り豊かな自然が広がっていた。

「こんにちは」

 レンタカー屋のおじいさんに挨拶をした。

「おお! こんにちは」

 おじいさんは、溌剌な挨拶を返してくれた。

「車を借りたいのですけれど」

「車ね、軽でいいかい?」

「大丈夫です」

「ほい、んだば五千円の会計だ」

「五千円ちょうどです」

「毎度な!そうだ、あんちゃんりんご好きかい?」

 おじいさんの突然の問いに一瞬思考が止まった後に、好きなほうですねと一言。

「ならこれうちで育てたりんごなんだ。遠くからわざわざ岩手に来てくれたからな。良かったら持っていきな!」

 ありがとうございましたと笑顔で伝えて車を走らせる。感じのいいおじちゃんだった。

「田舎は人が温かいな」

 岩手の人の温かみをしみじみと感じていたらあっという間に旅館についた。

「よくおいでくださいました、案内を務めています橋本でございます。山城様、まず先にチェックインをしていただき、その後お部屋のほうへご案内いたします」

「わかりました」

 私はチェックインを済ませ、橋本さんに部屋へ案内をされる。

「何かご不明な点がございましたらフロントへご連絡をお願いいたします。それではごゆっくりと当旅館をご堪能ください」

 橋本さんの案内が終わり、部屋に荷物を置いた私はすぐに隣接しているバラ園へ向かう。

「やっぱりきれいだな」

 美奈と来た時と変わらない美しさ。私は写真を撮った。美奈の撮った写真と同じ角度で。変わったことは、私の隣に美奈がいないことだけだ。

 しばらくしてバラ園を後にした。部屋へ戻る途中、通路にずらりと並べられた敷地関連の写真たちをゆっくりと眺めながら歩いた。

「え……」

 多くの写真がある中の、一枚の写真が目に飛び込んできた。私は驚いて立ち止まる。

「なんでこの写真が」

 それは紛れもないあの写真だった。偶然後ろを通りかかった橋本さんに、

「すみません、この写真どこで」

 動揺で言葉がうまく出てこない。

「いい写真ですよね、二十年前くらいに来た夫婦の写真なんだけどね。この温泉では春夏秋冬、敷地内で撮影された写真を募集しているんですよ。この写真は、従業者全員が気にいっているくらい人気の写真なんですよ」

 笑顔で橋本さんは答えてくれた。

「そうなんですね、ありがとうございます。呼び止めてしまってすみませんでした」

「いいんですよ、良かったら他の写真も観ていってください」

 軽くお辞儀をして、その場を橋本さんが去っていった。私はじっくりと他の写真も眺めながら部屋へ戻った。


 次の日。お昼まで温泉とご飯を堪能してから東京へ戻った。「ただいま」と言い、靴もそろえないまま、私はすぐに仏壇へ向かった。

「岩手のあの旅館にな、美奈の撮った写真が飾ってあったよ。旅館の従業員さんたちも美奈の写真大絶賛でさ」

 私は誇らしげに、まるで小学生のような無邪気さで夜更けまで話した。

「思い出の場所も、行ったこともない場所も、美奈のところに行くまでにたくさん巡るよ。そっちに行ったらたくさん話すためにね」

手を合わせ私はいつもの日常へ戻る。美奈の遺影は、少し微笑んだように見えた。

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