2. 夏風邪は長引くぞ

「けほっ、けほっ、ごめんなさい」

「気にしないでください。それよりもちゃんと休むことです」

「うん。けほっ」


 どうやら氷見は夏風邪をひいてしまったらしい。

 実家を出た時は少し咳が出る程度だったのだが、寮まで歩いて来る途中に一気に悪化。

 体調が悪いのに炎天下の中を歩いていたからか、寮に着いた時には高熱が出てしまった。


 即座に病院行きを命じて、戻ってきたら部屋に缶詰め。

 今は俺が夕飯を持って様子を見に来ているといった状況だ。


「食欲はありますか?」

「少しだけ」

「そうですか、それならお粥を作って来たので少しだけ食べましょう」

「ありがとう」


 お粥が入った小さな土鍋の蓋を開け、レンゲで掬ってふぅふぅと息を吹きかけ冷まし、氷見の口元へと持って行く。


「…………」

「どうしました?」


 だが氷見は差し出されたお粥を見つめるだけで口を開けようとしない。


「あぁ、私が息を吹きかけたのは嫌ですよね。気が利かなくて申し訳ありません」


 むしろ喜ぶかなと思ってやってあげたのだが失敗だったか。


「ううん、そうじゃないの。凄い嬉しい」

「それならやっぱり食欲が無いのでしょうか」

「その、そうじゃなくて玲央の息に混じって唾液も飛んでるかもと思うとぐへへげほっげほっ!」


 病気の時くらい少しは自重しろよ。


「はい、口を開けて下さい」

「え、まって、あん、無理矢理入れられちゃう」

「妙な事を言わないで良く噛んで食べて下さい」


 栗林が『卑猥ですぅ』って脳内で叫んでるんだが、あいつ下ネタの時は必ず脳内に出て来るんだよな。

 それで良いのか。


「美味しい……」

「それは良かったです」


 お粥なんて誰が作っても同じ、なんてことはない。

 病人でも抵抗感無く食べられるような適度な味付けにするには結構コツがいる。

 どうやら氷見の口に合ったようで良かった良かった。


「まさかこんなに看病してくれるなんて思わなかった」

「そりゃあ病人相手に無下にしませんよ」

「それは寮父だから?」

「寮父だからです」


 もちろん寮父とか関係なく、知り合いが病気で倒れたら心配するのが当然だ。

 そんなこと言ったら妙な勘違いをされそうだから絶対に言わないが。


「ごちそうさまでした」

「お粗末さまでした」


 食欲があまり無さそうな雰囲気だったのだが、全部食べ切ったな。

 それだけ元気があるなら大丈夫か。


「後は薬を飲んで寝てください」

「うん……」

「他に何かして欲しいことはありますか?」

「体を拭いて欲しい」

「禅優寺さんを呼んできます」

「ケチ」


 ボケの内容はいつも通りなんだが、反応が少し子供っぽくて微笑ましい。

 こっちの方が氷見の素の姿なのかもしれないな。


「どうしますか? 本当に禅優寺さんを呼びましょうか?」

「ううん、このままで良い」


 そう言って氷見は横になった。


「眠るまで手を握って欲しい」

「分かりました」

「え?」


 俺は氷見の右手を優しく握ってあげた。


「今日は玲央が優しい」

「私は元々優しいんですよ」

「くすくす、そうね。けほっけほっ」


 う~ん、咳風邪っぽいな。

 うつらないように俺もマスクをつけた方が良さそうだ。


「いつもこのくらい優しくしてくれれば良いのに」

「氷見さんがもう少し慎みを持ってくれれば考えますね」

「くすくす」

「冗談では無いのですが……」

 

 改善の可能性無し、と。


 ふと、握っている氷見の右手に少しだけ力が込められた。


「ねぇ、お願いがあるの」

「何でしょうか」

「あの旅行の時……」


 来たか、と思った。

 最後の最後で氷見を選んだあの話について聞きたいことがあるのだろうと。


 だが氷見の『お願い』は俺が想像していた物とは全然違っていた。


「あの旅行の時のように、普通に接して欲しいの」

「え?」

「あの時、とても楽しくて、とても嬉しくて、とても幸せだった」


 マジかよ。

 あの時、俺はお前をぐるぐる回してグロッキーにさせたんだが。


「玲央が立場とか色々と気にしていることは分かってる。分かってるけど、壁があるのは寂しいよ」

「…………」


 寂しい、か。

 それが氷見の本音だったわけか。


 分かってはいたさ。

 俺と寮生たちとの距離を一定の間隔に保つために、そして男女の仲でのトラブルを起こさないようにするために、俺は徹底して彼女たちと『寮父と寮生という関係』であろうとしていた。


 だがその目論見が破れて寮生たちから少なからずの想いを寄せられ、しかもその気持ちを俺が知ってしまったこの現状で、それでも突き放そうとするものなら彼女たちの心が痛むのは当然の事だろう。


 もちろんそれは彼女たちがどれほど言っても自らの生活態度などを正してくれないことが大きな理由でもあるので、自業自得ではある。

 俺から距離を縮めるのは間違っていると心から思う。


 だが……


「はぁ~……俺ってやっぱり甘いのかなぁ」

「今更気付いたの?」

「マジかよ、氷見もそう思うのか」

「そこは都江美とか、えみちゃんって呼ぶのよ」

「調子に乗るな」

「くすくす、けほっけほっ」


 彼女たちに対してフランクに接することの危険性は多々あるけれど、一番怖いのは心の距離が近づくことで絆される可能性があるかもしれないということだ。


 だが良く良く考えると、どれだけ彼女たちを親身に感じることになったとしても、恋心を抱くことだけは無いだろう。

 彼女たちに姉貴の影がちらつく以上は間違いない。

 そしてそのことは彼女たちも確実に知っているはずだし、俺は何度もそのことを伝えるつもりだ。


「辛いのは氷見たちだぞ」

「それでも良いよ」

「そっか」


 どれだけ仲が良くなっても想ってもらえない。

 フランクな態度になるということは、彼女たちにとっての思わせぶりな態度も増えるということだ。

 それなのに想いが通じていないというのはきっととても辛いに違いない。


 だがその覚悟が彼女たちにあるというのなら。


 彼女たちを俺好みに変える、か。

 なんて傲慢で浅ましい考え方なんだ。


 でもこんな美少女が彼女になるというのなら、考えても良いのかもしれない。

 彼女たちを完全に拒絶するのではなく、変えるように努力する方針を。


 まったく、あのクソ姉貴みたいにならないで欲しいなんて簡単なことが何故出来ないのか。


「もう一つ、お願いが……」


 ご飯を食べてお腹が満たされ、そして薬が効いて来たのかな。

 氷見はもう眠そうだ。


「デート……した……い……」


 そんな爆弾発言を残して氷見は眠りに落ちた。


 デートなんて出来るわけ無いだろうが。

 自分が学校でどう思われているか知っているくせに。

 もしデートしている姿なんて見られたら大騒ぎだ。

 相手の男は何者だ、なんて興味を持った奴が現れて、俺がレオーネ桜梅に住んでいることまでバレる可能性だってある。


 このお願いだけは叶えられないな。


 それにどうにかして誰にもバレずにデートを終えたとしても、残りの二人が黙ってない。

 自分たちもデートしたいと強く主張してくるのは間違いない。

 メンタルをガリガリに削って来るデートを三回もやるなんて絶対に嫌だ。


『女装するですぅ』


 黙れ。

 マジ黙れ。


「すぅ……すぅ……」


 氷見は寝入ったか。

 そろそろ右手を離して退散しよう。

 寝入っている女性の部屋に長居するのはデリカシーが無いからな。


 そう思ってゆっくりと手を離そうとした時のこと。


「おかあ……さん……」


 何かを求めるようなうわ言と共に、俺の右手は再度しっかりと握られたのであった。

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