2. その日から何かがおかしい (氷見都江美の事情)

 男なんて。


 それが私の口癖だった。


 原因はあの男。

 酒におぼれ、ギャンブルにはまり、母と私に暴力を振るうクズ中のクズ。


 もちろん男の全てがそうではないことなんか分かっていた。

 それでも私にとって男の代表はそいつであり、同世代の男子を見てもそいつと同じところばかりに注目してしまい、やっぱり男はクズだと思ってしまっていた。


 それがどれだけ歪んでいるのかも分かっていた。

 でも考え方を変えることなんて出来なかった。

 男を見るだけで不快になり、苛立ち、そして怖かった。


 あの男のように理不尽な暴力を振るってくるのではないかと怖かった。

 だから男に対して苛烈に対応しなければ怖くて心が持たなかった。

 自己防衛のために男を敵視し続けた。


 その結果、氷帝だの氷の女王だのと呼ばれるようになってしまったのだけれど、それで男が寄って来ないのならばと受け入れることにした。

 それらの評価に『美しい』という意味がこめられていることがちょっと嬉しかったっていうのもある。

 絹のような滑らかな肌は私の自慢なのだ。


 だが学校でどれだけ立場が良くなろうとも家は地獄のままだ。

 母はどれだけ暴力を受けてもあの男からの依存から抜け出そうとしない。

 私を守ってはくれるものの、あの男との関係を切ろうとしない。


 中学三年生の頃、ついにあの男は私に牙を剥こうとした。


「良い女に育ってきたじゃねーか。そろそろ相手してもらおうか。たっぷり稼げそうだぜ」


 私を犯し、体を売って金を稼がせようと考えていたのだ。

 中学生の間はダメだと母が男を説得してくれたけれど、それは私を想ってなのか男を取られたくなかったからなのか。


 高校生になると母は私を寮に逃がしてくれた。

 助かったと安堵したと同時に、女子寮なのに寮父がいるだなんてありえない状況にまた恐怖した。


 でも恐怖する必要なんて無かったんだって、後で分かった。

 それどころかその寮父さんは壊れかけていた私の心を救ってくれた。


「きゃあっ! 触らないで!」


 男と徹底的に距離を取っていたのにぶつかってしまったあの日。

 私はその男子を強く殴り、罵倒の言葉を浴びせてしまった。

 そしてその行為を強引に正当化しようとしてしまった。


 まさに理不尽な暴力。

 あの男と同じじゃないか。


「俺のダチに何してくれてんだ!」

「きゃっ!」


 春日さんに怒られた後、私はそのことに気付き絶望した。

 自分はやはりあの男の娘なんだと強く思わされてしまったから。


 絶望の淵から救ってくれたのは寮生の禅優寺さん。


「本気で悪いと思っているなら本気で謝れば良いだけだよ」


 凹んでいる私に道を示してくれた。


 最初はこのアドバイスを聞いても納得出来なかった。

 だってあの男も都合が悪くなると謝ってうやむやにしようとしていたから。

 謝罪に意味が無いと思っていたから。


 でも『本気で』というところが重要だって気付いた。

 自分が心から悪いと思って謝罪するのと、事態を収めるためだけに心にも無い言葉で謝罪するのとでは意味が全く違うのだ。


 反省している。

 それは間違いない。

 ここで男からも自分の弱さからも逃げてしまったならば、私が『まとも』になるチャンスは二度と訪れない。


 だから私は男への恐怖を必死に抑えて、殴ってしまった彼に謝りに行った。


 愕然とした。

 だってその男子は私を見て怯えていたんだもの。

 毎日のように鏡に映っていた表情と同じものがそこにあった。


 私はあの男と同じように暴力により恐怖を与えてしまったのだ。

 それが辛くて悲しくて悔しくて消えてしまいたくなった。


 でもその男子は決して逃げなかった。

 それどころか私を庇ってくれるような発言をしてくれた。


 太っていて気持ち悪い?

 男なんて暴力的でしかない?

 自分と同じ臆病者?


 何を馬鹿なことを思っていたのだろうか。

 この人は自分がどれだけ怖くて辛くても相手を想える素敵な人ではないか。

 自分とは全く違う、強い人だ。


 私の男性に対する価値観を最初に変えてくれたのは、春日さんの友人だった。


 その日はもう夢現の中にいるような不思議な感覚で、その後に何があったのか覚えていない。

 ただ気付いたら寮の入り口にいた。

 そのまま部屋に戻り男性に対する考え方と向き合おうかと思ったその日、後ろから声をかけられた。


「よう、やっと見つけたぜ」


 母は私の居場所をひた隠しにしていたようだけれど、どうやらこの男は自力で私を見つけたようだ。


「おら、来いよ」

「いや!」


 せっかくこの男から逃げられたのに。

 せっかく男性に対する認識が変わろうとしていたのに。


 全てがぶち壊しになってしまう。


 これがこれまで男性を憎んで蔑ろにしてきた罰だっていうの?


「何してるんですか!」


 絶望していた私がその声にどれだけ救われたか。


 キツイ態度で接し続け、私の体を狙っているのではと疑い続け、友人に酷い事をして怒らせた。


 弱みを握って寮から追い出そうと画策していたことにも気付いていたはず。


 あなたの部屋に一人で訪れれば手を出してくると思った。

 それなのにあなたは私に無関心で、それどころかあなたが清潔で綺麗好きな人だと思い知らされた。


 洗濯を依頼すれば私の衣服に邪な想いを抱くと考えて徹夜して洗濯ルームを監視していた。

 それなのにあなたは丁寧に洗濯をしてくれた。

 あなたが干してくれた洗濯物を着ると快適で幸せな気分になった。


 寮のお風呂に入りたいと言えば脱衣所にカメラを仕掛けたり乱入して来ると思った。

 それなのにあなたはそんな気配が無いどころか風呂に関する作業に関わらないように念入りに気を使ってくれていた。


 私に対する好感度なんて地を這うような状況だったはず。

 全ては自業自得。

 私のピンチを見て『ざまぁみろ』なんて思ってスルーしてもおかしくない。


 でも、彼は私を助けてくれた。

 命をかけて守ってくれた。

 それがあまりにも信じられなくて、嬉しさや申し訳なさや驚きや自己嫌悪などの様々な感情が湧き上がって心の中がぐちゃぐちゃになってしまっていた。


「に、逃げて下さい」


 春日さんは男に殴られても逃げずに私を心配してくれた。

 でも私はあまりの恐怖で動けなくなっていた。


「逃げろって言ってんだろ!」

「きゃあ!」


 彼はそんな私を強引に投げ飛ばすようにして寮の中に入れて逃がそうとしてくれた。

 とても乱暴なのに、それが全く嫌では無かった。


 ああ、でもこのままじゃ春日さんが危ない。

 あの男は家でも見たことが無い程に危険な据わった目をしている。

 何をしでかすか分からない。


「お引き取り……下さい……」


 それでも決して春日さんは逃げようとしない。

 その背中があまりにも頼もしかった。


 これが男性の本当の意味での強さなのかと思った。

 暴力では無く強さ。


 今まで私が考えていた男性のイメージなんて、まやかしだったのだ。




 その日から何かがおかしい。


 最初は助けて貰った男性に恋をするだなんてありきたりの話なのかと思っていた。


 実際、春日さんの顔を見ると気恥ずかしくなった。

 成長してまともな姿になった自分を見てもらい、見直してもらいたいと強く思うようになった。

 普通に会話するだけで幸せな気分になる。


 でも何かが違う。

 何かが物足りない。


 そう思って目を閉じると、脳裏に浮かぶのは決まって同じ二つの光景だった。


『俺のダチに何してくれてんだ!』

『逃げろって言ってんだろ!』


 春日さんの激しい言葉を思い出すと動悸が止まらない。


「ああ、もっと、もっと言って!」


 はっ、私は今何を?


 不思議なことに春日さんが怒った様子を想像すると、下腹部がむずむずして体が火照って来ちゃうのよね。

 はぁ、はぁ、もっとこの気持ちを味わいたい。


 どうすれば良いのかしら。

 今は春日さんに良いところを見せようと丁寧な対応をしているけれど、それだと距離は一向に縮まらないし怒って貰えないわよね。

 でも怒らせることはしたくない。


 理想はそう、ツッコミ。

 激しいツッコミよ!


 でもボケなんてどうすれば良いの?

 そういうのに詳しくないのに。


 そうだ、春日さんにとってあり得ない行動をすれば突っ込んで貰えるのではないかしら。

 例えば誘惑するとか。


 ありえないほど露骨に誘惑すれば『止めなさい!』とか『何やってんだよ!』と突っ込んでくれるかもしれない。

 それとも驚くだけで冷静に窘められてしまうかしら。

 いいえ、ラフに接して誘惑し続けることで距離が近づいてフランクに突っ込んでくれるはずよ。


 不安なのは本気にされちゃうことだけど……春日さんなら……いいかな。


 よし決めた。

 春日さんを誘惑して激しく突っ込んでもらう作戦の開始よ!




 脳内の栗林さんが『卑猥ですぅ』って叫んでいるのだけれど何故かしら?

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