5. 逃げろって言ってんだろ!
ベッドの上に横になり考える。
別に俺は氷見のことが嫌いだったわけではない。
憎悪されているかのように睨まれ、嫌悪感を全く隠そうともせず、俺の存在を否定したいようにも見えた。
だがそれも彼女が置かれた家庭環境を想像すれば納得出来る反応であるし、女子寮の管理人が同世代の男だなんてありえない状況に不信感を抱くのは当然のことだからだ。
だから俺が怒る相手は彼女ではなく、管理人を押し付けたクソ姉貴だけだった。
むしろ嘘の被害を主張するなどの強引な手段で俺を陥れようとしてもおかしくなかったのだが、そうしなかったところに逆に好感を持てていた。
女子には非常に優しいとの噂も聞いていたので根は悪く無いのだろうとも思っていた。
だが今回の事件はその良い印象を台無しにするものだった。
どれだけの事情があろうとも決してやってはならないことを彼女はやってしまったからだ。
「はぁ、どうしよ」
友達が貶められたことで激怒してしまったが、これからも氷見との関係は続くことになる。
果たして彼女はこれからも夕飯を食べに来るのだろうか。
もし来なかったのならば栗林さんと禅優寺さんはどうするのだろうか。
栗林さんは一人でも気にせず食べに来るような気がするが……
「それとも追い出されるのかね」
俺に怒られたことで男嫌いが悪化した彼女が、より狂ってしまい犯罪行為に手を染めてまでも俺や他の男子に逆ギレ復讐しようとしても全く変では無い。
そこまででなくとも、何らかの面倒な出来事が起きそうだ。
「憂鬱だ」
女子寮の管理人が決まった直後のような、言いようのない不安が俺の胸に渦巻いていた。
なんてどんよりした気分で翌日を迎えたわけだが、予想外に何も無かった。
朝起きて、家事をして、学校に行って、普通に授業を受けて放課後になった。
氷見は何もしかけてこず、騒介もケロっとしていて元気に俺の弁当をせがみ、いつも通りの一日だった。
だがまだ油断は出来ない。
問題は寮に戻ってからの夕飯タイムだ。
そこで彼女の今後の態度が判明するだろう。
そう思いながら重い足取りで寮に向かって歩いていたら、不穏な会話が聞こえて来た。
「オラ、こっちこい!」
「いや、放して! 放せ!」
寮の入り口に見知らぬ男がいる!
絡まれているのは氷見か。
腕を掴まれて抵抗している。
つーか隣に交番があるのに良くあんなことが出来るな。
騒ぎを聞きつけたお巡りさんがすぐに出て……来ないぞ。
あれ、何でだ?
慌てて交番を覗いた。
『パトロール中』
つかえねええええええええ!
肝心な時に居ないとか最悪だ!
それとも奴はそのタイミングを見計らって来たのか?
しかもこんな時に限って周りに誰も歩いていないし。
今は俺がなんとかするしかないのか。
「何してるんですか!」
「あぁ?」
俺は慌てて二人の間に強引に割って入った。
「チッ、関係ねー奴はすっこんでろ!」
「関係あります。私はここの管理人をしてますので、あなたのような不審人物が寮生に絡んでいるのを見過ごせません」
「管理人だぁ? 馬鹿じゃねーの。てめぇみたいなガキが管理人なんかやれるわけねーだろうが」
「私もそう思いますが、残念ながら本当なんです。契約書もあります」
男はいかにも不審者風の見た目だった。
年は四十代くらいだろうか。
背が高くガタイが良いが、髪がボサボサ無精ひげが目立ち着ている服も皺だらけ。
酔っているかのようにフラフラとしており、不機嫌そうな顔を隠そうともしない。
「ごちゃごちゃうるせーんだよ! 俺は娘に会いに来ただけだ。そこを退け!」
娘ということは、この人物が件の氷見の父親か。
なるほどね。
こんなヤバそうな奴が父親ならそりゃあ男嫌いにもなるか。
「ご家族であろうとも、ここは女子寮ですので男性を中に入れることは出来ません」
「だからうるせーって言ってんだろ!」
「ぐはっ!」
うおおおお、突然腹パンしてきやがった。
しかも全く手加減してないだろこいつ。
や、やべえ。
くっそ痛いけど、それよりもまともに対応していたら命が危ないかもしれん。
まずは氷見をどうにかしないと。
「に、逃げて下さい」
相手が父親だからなのか、氷見はまだ俺達の近くに居て事の成り行きを見守っていたようだ。
いつもの力強い態度は鳴りを潜め、オロオロとしているのが滑稽に感じる。
「ふん、さっさと退け」
「通しま……せん」
「チッ、もっと殴られたいのか!」
「ぐはっ!」
腹パンばかりしやがって、このクソ野郎が。
ああもうなんで俺がこんな目に会わなきゃならねーんだよ。
クソ姉貴のせいで散々な高校生活だよ。
こんだけ騒いでいるのに誰も助けに来てくれないのが超腹立つ。
交番に誰も居ないのも超腹立つ。
そして相変わらず逃げようとしないで戸惑っているだけの氷見が超腹立つ。
お前がいるから俺がここから離れられねーんだろうが!
「逃げろって言ってんだろ!」
「きゃあ!」
俺は氷見の腕を掴み、強引に寮の中に放り込んだ。
投げ出されるような形で尻もちついていたが知ったこっちゃない。
邪魔なんだよ。
「逃がすわけねーだろうが。ようやく見つけたんだ、約束通り俺に奉仕しろ!」
「何を言って」
「オラ退け!」
「ぐぅっ!」
マジかよ、こいつ全力で顔面殴って来やがった。
腕で防御しなかったら、死んでたかもしれないぞ。
「オラ!オラ!オラ!オラ!」
ちょっ、痛っ、マジでやべぇ。
でもここで退いたらこんな危ない奴を寮に入れることになってしまう。
そうしたら氷見だけじゃなくて禅優寺さんも栗林さんも危ない。
早く、早く誰か来てくれ。
「や、やめて……」
そんなとこでへたり込んだまま怯えてないで、さっさと逃げて助けを求めてくれよ!
ああもうどいつもこいつもつかえねぇ!
「ふん、さっさと退いていれば痛い目を見ずに済んだものの」
スタミナは全く無いのかな。
俺を連打した男は息を切らせている。
だがたった数発でも成人男性の本気の攻撃を受けた俺の体は限界だ。
顔面に直撃は喰らってないはずだが、視界が少しフラフラする。
両腕は激しく痛いし、腹パンのせいで吐き気も酷い。
折れてなきゃ良いなぁ。
「お引き取り……下さい……」
「あぁ?」
男は強引に俺をどかして寮の中に入ろうとするが、残った力を振り絞って必死に耐えた。
場所がここじゃなければ、そして後ろに氷見がいなければさっさと逃げたのに。
寮生たちが危険に晒されてなければ最初から立ち向かわなかったのに。
どうしてこうなった。
「そうか……分かったよ」
「!?」
マジ……かよ……
こいつナイフ取り出しやがった。
やべぇやべぇやべぇやべぇやべぇやべぇやべぇやべぇ。
こ、殺される。
こんなところで白昼堂々とナイフ振りかざすか!?
無理無理、流石にもう無理。
氷見を引き摺ってでも逃げて部屋に飛び込んで鍵を閉めるしかない。
間違いなく追いつかれるけど、もうそれに賭けるしか助かる方法が無い。
「死ねやああああああああ!」
あ、ダメ、足に力が入らない。
走る事すら出来そうに無い。
嫌だ、死にたくない。
死にたくない!
これもすべて、あのクソ姉貴のせいだああああああああ!
「せいっ!」
「ぐあ!」
何が起きたのか。
ナイフを構えて大きく振り被った男は、その手を抑えて痛みに顔を歪めていた。
「キエエエエエエエエ! セイッ! セイッ! セイッ! セイッ!」
「ぐあ! やめ! やめろおおおお!」
ああ、そうか。
そういうことだったのか。
武田さんが助けに来てくれたんだ。
「この! この! このぉ! よくも春日さんを!」
大丈夫かな。
ナイフを持った相手だからひたすら殴っても正当防衛になると思うけれど、竹刀でそんなに殴ったら道場のお師匠さんに人を殴るための道具では無いとかなんとか怒られないかな。
ハハ、こんな状況で何心配してるんだろ。
「どうしました!?」
この声は婦警さんかな。
遅いよ、遅すぎるよ。
危うく殺されるところだったじゃないか。
全く、みんな頼りにならないんだから、俺が、しっかり、しない、と。
「春日さん、大丈夫か!?」
「武田さん……ありがとう……ございました」
「そんなことより、怪我は? 痛む所は?」
「ハハ、痛すぎて……どこが酷いか……分からないかな」
痛みも酷いが、視界がぐらぐら揺れているのが気持ち悪くて辛い。
婦警さんが男を取り押さえているのも、武田さんが傍で声を掛けてくれているのも夢現な感じだ。
「どうして……どうして……!」
この声は氷見かな。
全く、お前がさっさと逃げて部屋に閉じこもってくれれば俺も逃げられたのに。
ほんと余計な事しかしないのな。
まぁでも今日のことは怖くて動けなかったとでも解釈しておくよ。
俺だって超怖かったしな。
今は氷見のことをどうこう考えるよりやるべきことがある。
「武田さん……今日の作業……終わってますか?」
「え?」
「洗濯物、お風呂、掃除……」
「終わってるが今それを聞くのか!?」
そりゃあ聞くでしょう。
本来であれば業務の引継ぎの時間なんだから。
「そう……ですか……」
「ちょ、ちょっとどこに行こうとしてる!?」
「夕飯……作ら……ないと……」
「はあ!? 何言ってるんだ! 病院に行かないと!」
「でも……寮の……サービスだから……お金……貰ってるし……」
寮生たちにとって俺の都合なんてしったこっちゃない。
寮費としてお金をちゃんと払っていて、その対価の一つに食事サービスがある以上、絶対にそれを提供出来るようにしなければならない。
だから病院になんて行っている暇なんてないのだ。
「分かった。今日は代わりに私がやるから春日さんは病院に行くこと」
「え?」
「大丈夫、夫ならそうしなさいって言ってくれるさ。だから春日さんは安心して休みな」
「そう……ですが……それじゃあ……よろしく……お願いします」
正直、限界だったから助かる。
俺は寮のことも氷見のこともここしばらくのことも全て忘れて、糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
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