Codeの堕天使
青い睡蓮
謎の少女、彗廉
2011年8月8日。アメリカ領グアム島日本総領事館。現地時間午後9時13分。海洋性亜熱帯気候のために日没後の真夜中でも空気がムンムンとして蒸し暑い。それでも陸から海に向かって靡く陸風は心地よい温度で肌を通り過ぎた。街路樹の熱帯の樹がゆらゆらと木の葉を揺らす。と同時に辺りに轟音を響かせながら着陸体制に入る旅客機が翼の先端に赤色と緑色のライトを点滅させて、暗闇の中空港の滑走路に降りていった。
その領事館の正面玄関から出てきた日本人外交官の女性。ポニーテールでサングラスを掛け、首にスカーフを巻いてコツコツとヒールの足がコンクリートの地面に当たる音が刻みよく響く。すると突然、街灯の灯っていない漆黒の空虚から黒のパーカのフードを深く被り両手をブカブカのパンツのポケットに突っ込んで速歩きでこっちに向かってくる人がいた。
如何にも怪しい人だが、彼女はチラッとその人の姿を確認した後、気にもとめずその人の横を通り過ぎようとした途端、一瞬鈍い音がした後、彼女は背中に激痛を覚え路面にうつ伏せに倒れてしまった。勢いで彼女のサングラスが耳から外れて地面に落ちる。その瞳は透き通ったまさにグアムの海のエメラルドブルーだった。その人はそれを確認した瞬間に手に持っていた血糊の着いた鋭利な刃物と革手袋をそこに投げ捨て闇の中に姿を消した。
薄いねずみ色のコンクリートタイル上に紅の血が広がっていく。丁度茜色の街灯の真下であった。陸風が吹くとその整った前髪はふらりと揺らめいた。
彼女は闇の中に消えかかっているその男の姿を見た瞬間、はっとした。そして彼女は瞬きもせず重力に従って瞳から溢れ出した透明な涙が頬を伝う。
「ご……めん、ね?」
彼女は残った精一杯の力を振り絞ってそう空気に呟いた後、瞼は閉ざされ、紅の血と一緒に透明な涙が地面に流れた。その時、彼女の所持していたバックの中身のスマートフォンの着信音が彼女の鼓膜を静かに振動させた。
そのそらは、彼女の瞳の色のようにエメラルドグリーンに仄かにその壮大な
2023年9月2日。高校生の浮かれた夏休みという楽園の季節はもはや終盤というものの、8月という葉月の季節が幕を閉じた途端、早々に長月の秋雨の冷めた纏まったの雨はまるで高校生の陽気な気分を台無しにするかのような存在である。
秋雨の作る白く淡い靄は遠くのビジネス街周辺の超高層ビル群やその屋上のヘリポートの点滅する赤色灯、東京タワーのくすんだ赤色のシルエットが僅かに、朧気に不気味な東京の雰囲気を醸し出していた。六本木の都道319号線の4車線道路にはロゴの記載されたトラック、タクシー、乗用車が一定のリズムでワイパーを動かし、道路の脇に溜まった水溜りをタイヤで蹴散らして水飛沫を上げていた。
傘を指して行き交う歩行者がちらほら本通りにいる中、とある16歳の高校2年生の男子が本通りに隣接する雑居ビルの非常階段の麓のエアコンの送風機の側で、ヨロヨロと覚束ない足取りで雑に腰を下ろした。彼は傘もささず、滲んだ雨で若干くすんで白色のパーカーのフードに摘んで深く被った。
非常階段の曇天の雲の明るい隙間からポタポタと水滴が落ちて、彼のそのフードに添えた手の甲に滴る。もう片方の手は何かでパーカーごと引き裂かれ鮮血が雨水と混じって流れる右肩をぐっと押さえている。その負傷した右肩から流れ堕ちた血の雫が更に地面に溜まった水面に流れて、まるで絵の具が水に溶けたように侵食した。彼の左肩は雨粒で乱反射した白い光の道路側、傷ついた右肩がある方は倒れて散乱したゴミ箱のゴミで乱雑と化し、暗黒の空虚となっていた。
彼の頬に、紺碧の雨水と紅い血が混じった液体が伝う。途端に冷たい感覚が頬を刺激する。彼はパーカーのポケットからスマホを取り出し、誰かからの連絡を見るとフッと微笑み、僅かに口角を上げた。
彼は不意に、微かに視点を上に動かした。雨水が彼の瞳に侵入し視界が次第に
淡く明るい浅緑の髪色をしたロングヘア。おくれ毛は薄緑のシリコンのような柔らかい板になっている。睡蓮のような蒼い瞳にスコープの目盛りのついた十字マークの水色の発光線が写っている右の瞳。どことなく顔や腕などは痩せ細り、肌の所々がツギハギのように、戦闘機の外板が張られているように直線的な線が入っていた。そして右手は手首から先が色とりどりの配線、油圧シリンダー、制御棒、歯車などが入り組んで透けて見える半透明な膜で覆われていた。その機械的なサイボーグを彷彿とさせる雰囲気は異様だった。彼は自分と同じくらいの年齢に見える彼女の動向を探っていると、彼女は屈んで彼の瞳を覗き込み様子をうかがいながら1つも瞬きせずに彼のパーカーの右ポケットから財布を引き抜くと、傘もささずにそそくさとその場を立ち去った。
突然の出来事に彼は驚くかと思われたが、彼は道路の方にゆっくりと顔を向け目線の先にある淡い靄で途切れたその先の空間を眺めながら、一人で僅かに微笑み、段々と意識が遠のいていってしまった――
彼は朧気に瞼を開けた。その瞬間、一気に暖かい茜色の照明の光が瞼の間から差し込んできた。反射的に彼は右腕を上げて目元を隠そうとすると右肩に激痛が走った。
「痛っ……やり過ぎたか……」
あまりの激痛に眠気が嘘みたいに何処かへぶっ飛ぶと、彼はこの状況に違和感を覚えた。ここは彼のアパートの一室である。蒼然としていた雨粒の集合体の靄のあのどんよりした空気から逸脱し、その雨粒の地面に打ち付ける音はベランダの窓の外から聞こえてきた。そして彼の右肩は包帯でパーカーの上から止血され応急処置が施されていた。ソファの隣のテーブルの上には血糊の着いた彼の財布がポツンと佇んでいた。
彼は自分の寝ていた、濡れたソファと自分にかけられていた毛布をじっと見て疑問符を頭に浮かべていると、廊下の方から「起きましたか」と単調なアンドロイドのような女性の声が聞こえた。その方向を見ると、そこには先程彼の財布を盗んだ犯人がいたのである。右の瞳の十字の水色の発光線や金属板のツギハギのような肌というような機械的な印象とは裏腹に、色白な肌に端正な顔立ち、整った容姿、薔薇色の瞳は今さっき起こった出来事関係なしに魅了させられた。とはいえ、彼女のロングヘアの髪はボサボサであり、服も綻びて至るところ破れていたので、彼は目線を逸らしながら彼女に対して提案した。
「その……なんだ?話は後で聞くから、とりあえず風呂に入ってきたらどうだ?風邪引いてもらっても困るからな。着替えとかなら男物だが用意しておくから」
「……いいんでしょうか」
「大丈夫だ。あ、それでも……下着だけは勘弁だけどどうにかしてくれ」
彼は俯き頬を赤く染まらせて言う。彼女は彼のその言葉を聞いて少し黙り込んだ後「分かりました」と棒読みで返事をした。
「あ、風呂場は……」「分かります」
彼女は彼が風呂場の場所を言う途中で遮って見事に風呂場の方のドアを開けて入っていった。彼はドアの閉まった音がした後も唖然としてドアの方を黙って少しばかり見つめた。その後、ドアの奥から衣擦れの音がしたと思うと彼はソファに飛び込んで微かに自らの温もりの残った毛布に巻き付いてまた肩の痛みをズキズキと感じた。
間もなく風呂場の引き戸の音がしてシャワーの水飛沫の音が聞こえ始めたと思うと、彼は何かを思って雨水に濡れたズボンの右ポケットからあるものを取り出し、適当に自分の白い長袖Tシャツと長袖ジャージのズボンをクローゼットから持ち出して脱衣所に向かった。彼はそーっとドアを開けてその3点セットをドラム式洗濯機の上に整えておいておくとサッサと脱衣所から逃走した。脱衣所のドアをバタン、と閉めると彼はそれにもたれかかって血の染まった左手を額に添えて俯いてしまった。
その頃、彼女はシャワーヘッドを浴室の壁に掛けたままじっと微塵も動かず立ち尽くして頭の上から浴びていた。葡萄色に変色した右の瞳は水が入っても開いたままで、特にシャンプーを泡立てる様子も無く、シャワーヘッドを持とうともしないのである。鏡に映る彼女の白い裸の左肩には奇妙な機械的字体で『0724』と焼印のように横向きで記されている。彼女の右手に付着した彼の血糊がシャワーのお湯に溶けて排水口に流れていく。それをふと見かけた彼女は鼓膜に軽い衝撃波のような鼓動と僅かな痛みを感じた。瞳孔を小さくして、その瞳の色を葡萄色から紫のグラデーションを経て薔薇色の輝いた瞳に数秒間変化した後、右手の紅の血の色が消え失せるに連れ、また次第に群青に変貌していった。
ドア越しに響く浴室からのシャワーの単調な水飛沫の音に違和感を感じながら玲斗は落ち着きを取り戻し、中華の食欲そそられる匂いを醸しながらチャーハンを作っていた。チャーハンとは言っても本格的に中華鍋を使っているわけでもなく、冷凍庫にあった気まぐれ冷凍チャーハンをIHコンロの上においたフライパンの鉄板の上で転がしているだけである。
数分後調理し終えて2人分のチャーハンを2つの皿に盛り付けていると早くも浴室の引き戸が開く音がした。着る際の衣擦れが聞こえたと思うと些か頬を赤らめてチャーハンを盛り付けた皿を両手に持ってリビングのソファの隣のテーブルに置くと丁度その時脱衣所のドアの開く音が聞こえた。
彼はちらっとその方向を見ると、そこには自分の男物のダボッとした服を着て、水っ気を含んだ艶のある色白な肌を魅せる彼女の姿があった。瞳の色は薔薇色でキラキラしている。
彼女の掌の中にはついさっき玲斗が洗濯機の上に置いた3点セットうちの1つである、右ポケットに入っていた彼の血糊の着いたハンカチがギュッと握られていた。
「あー……お腹でも減ったろうと思うからさ、粗末なものだけど食べたらどうだ。別に遠慮はしなくていいから」
「……いいのでしょうか、本当に。こんな私に何故世話を焼くんでしょう?」
まあまあその話は今はいいからさ、と玲斗は彼女をソファに座らせ、彼はその対角線上にあるイス型クッションにドスンと座ってチャーハンの盛られた2つの皿をそのテーブルの上に置いた。
「それでも最終的に僕の肩の怪我の応急処置をしてくれただろう。それに君は、どうやら血を見るとあんな蒼かった瞳が赤色に
「そうですか……」
そう言って彼女は目の前でモクモクと湯気をたてて昇る食欲のそそられる香りに誘われ、ガツガツ木のスプーンを皿に当てながらチャーハンを掬って食べ始めた。スプーンを油で潤った彼女の唇に付けてチャーハンを口に運ぶに連れ、彼女は目を輝かせてどんどんチャーハンの減るスピードが加速していく。遂には玲斗のチャーハンが半分も減っていないうちにペロリと平らげてしまった。
「あー……もしかして足りなかったか?僕のやついるか?」
「……いいのですか?」
「ああ。別に今お腹すいてなかったからさ、うんと食べていいから」
そう彼が自分のスプーンを取り除いて彼女の方に置くと彼女は遠慮なくバクバク食い始めた。
ものの数十秒後で残り半分だったチャーハンの皿が空っぽになると、彼女は物惜しみそうにすっからかんになった皿を見つめた。彼はそんな彼女の様子をじっと観察していると、ふと彼女の唇の端からビヨーンと涎が垂れてきた。釣り合っていない彼女の容姿と現状に彼は思わず吹き出してしまった。
「すまない。思わず笑ってしまった」
「……何故笑ったんでしょう?」
そう彼女が真面目な顔で呟いた途端、ポタンとその涎が床まで細長く伸びて丸い透明なドームが落ちた。水のように広がらずにその場に留まっている。玲斗は彼女の発言を聞いて、黙り込む。沈黙が二人の間を流れた後、暫くして彼は口を開いた。
「少し訊いてもいいか。君は何故財布を盗んだのか。その君の身体は何故サイボークみたいなのか。自分の口で言ってほしい。別に、言いたくなければいいんだが。……あ、名前を訊いてなかったな」
彼は彼女の名前を訊いていないことを今始めて気がついたかのようにその台詞を言った。
「確かにそうですね。私の名前は……Lily……ではなく、
彼女はそう名乗り、彼に真剣な眼差しを向けながら、自分の生い立ちについて少しずつ語り始めた。
彗廉は所在地不明のとある極秘研究施設で産まれた。彼女の父親は日本やアメリカなどいわゆる西側諸国の先進国の共同研究の主任研究者であったためなのかは不明だが、彼女は産まれる前からその研究の実験体になることが決定していた。その研究とは、半人間半機械の生命機動兵器、俗に言う”サイボーグ”とも呼ばれる兵器開発である。彼女は兵器運用の為に遺伝子組み換えが行われ、抜本的人体改造、脳の半コンピューター化、機械の埋め込み、最適アルゴリズムの導入などが取り図られた。
そのため、彗廉は成長期の殆どを研究施設で過ごした。同世代の友達も、仲間も、密かに恋心を抱いた大切な人もない。ただあるのは無慈悲な研究者の大人と、儚き青春を送るはずだったサイボーグだけである。彼女は巨大権力から与えられた任務を遂行するすごろくの駒としての宿命を追う他なかった存在であったのだ。
しかしその研究施設に事件が起こる。2015年某日。秘密テロ組織によりその研究施設が襲撃される。勿論その研究施設は国家レベルの超極秘プロジェクトであったがために、アメリカの民間軍事会社など錚々たる組織による警備体制だったが、その襲撃により研究施設は壊滅状態。詳細は闇に包まれたままだが、そのテロリストの裏には西側諸国と敵対する東側諸国、はたまた宇宙人がいたのでは、とその界隈では噂された。
その時に多くの研究資料と彼女を含む実験体はテロリストに回収される。
その後数年間に渡り彼女は世界各地のテロ活動に参加したり紛争に参加したりスパイとして潜入したりと、銃を片手に人を
だが突如としてそれは終わった。
「そのとき、真っ暗な全面コンクリートの部屋に送られました。逃げられないように耳に毒針付きのイヤホンもありました。両腕両足4つともがっちりと鎖付きの金具で固定されて全く動けませんでした。電流も流れる仕様でした」
彼女は空っぽになったその皿を見つめ、着ている長袖Tシャツの襟袖をぐっと掴んだ。彼はその彼女の様子をチラッと片目で見ながら黙って彼女の話を聞いている。
「暫くして私は目を覚ますと、その部屋に男の研究員らしき人が現れました。なんだろう、なにするのかな。そう思いました。何か、いつもとは違うことをするんだな、そうその人の脳電波から感じました。突然、血のべっとり着いた掌を見せられました。途端に鼓膜にドン、と衝撃波のようなものを感じ、少し痛みました。その男はそっと私に近づくと四つん這いでヘタれている私のカラダを触り始めました。こんな私でも嫌だと思いました。でも……これが戦闘のできなくなった私の宿命、役割。そう考えました」
「……拒否しなかったのか?」
「嫌でしたけど、拒否できる環境ではなかったので」
「……そうか。話し続けて」
「はい。それで、次第にエスカレートしました。遂に胸を触ろうとしたときに、突如施設で警告音が鳴り始めました。その男は私のカラダを触るのを止めて慌ててその部屋を出ていきました。なんだろうと思いました。すると突然、何かが破壊されたような鈍い音が響きました」
「戦車か?」
「分かりません。でも何かの爆発音のように聞こえました。凄い轟音で、建物自体が大きく揺れました。それで次第に意識が遠のいて……そこからの記憶は全くありません。……気づけば、東京湾で浮いていました」
「……は?」
「ですから、気がついたら東京湾のど真ん中で浮いていたのです。そうしたら私はとある貨物船に救助されました。日付は2023年8月20日でした。あのときから丁度1ヶ月経過していました」
「1ヶ月間の記憶はないのか?」
「1ヶ月間の実行されたプログラムはその時既に紛失していました」
それで彗廉は貨物船が東京港品川埠頭に入港したときに隙をついて脱出し、万引きなどを繰り返していきながらえ、今日このときにこの六本木に居たという。
「……うん。今後の計画は考えていたのか?」
「そんなこと全くわからなかったですが、インターネットのSNS上の情報に若者の集う場所がある?らしいのでとりあえずそこへ行こうかと思っています。なんとかなるかもしれないので」
「まさか、あそこか?新宿の……」
彼女は彼の疑問の言葉にそうです、と応えた。そうか、と玲斗も返答するとスプーンに少し残っっていたチャーハンの米粒を一粒残らず食べた。
新宿区歌舞伎町の某ビルの周辺には”地雷系”とも称される独特なファッションを身に纏った、中高生の若者が集っている。性暴力や飛び降り自殺、傷害致死事件など犯罪の絶えない治安の悪い地域だと報道されているのがこの頃である。数年前に裏流行語として世間で話題になった。
「何故そんなところに行くんだ」
「私のような生き場を亡くした人たちが目的を求める、自己承認欲求するために集う、私にとって必要なところだと思ったからです。私にとっても、彼らにとっても
「
彼はそう呟くと、何も残っていない2つの皿を台所のシンクに持っていってサッサと適当に洗っていると、彼は彼女に対してこう提案した。
「あー……もし良かったら何だが。もう高校生なんだからさ、バイトなりなんなり働くこともできるし、無戸籍だったら作ることもできるだろ。だからそういうのができるまでの間、このアパートで暮らしても僕は気にしないが」
「私があそこに行かせないようにしているのでしょうか」
「そういう意味もないわけじゃないが……もっと真っ当な生き方がある。
「どちらでもいい……分かりました」
彼女は少し考え込んでそう返事をすると、その薄緑の長い髪を靡かせクルッと振り返って玲斗の寝室に足を運んだ。
「お、おい。そっちは僕の部屋だが」
「私は寝ます」
彗廉は一度も彼の方向を向かずに端的にそう断言するとガチャン、と部屋のドアが思いっ切り閉まる音がした。
「まだ3時なんだがな……まあ、いいか」
フッ、と玲斗はあのときとは違い、心の中から滲み出てくるような微笑みを浮かべ、リビングのイス型クッションに座ると彼は残り僅かなな高校の夏休みの数学の宿題に取り掛かった。
午後7時30分頃。丁度彼が夏休み終盤まで滞納していた数学の宿題をやり終えると溜息を付いた。すると彼の寝室のドアが開く物音がした。そっちの方に目線を向けると、ダボダボな男物のTシャツはだけて際どいところの色白な肌が見え隠れしているのが一瞬視界に入って彼はまた視線を背けてしまった。
「ちょ、おい。眼のやり場に困るから服くらい整えろよ。これでも一応男だぞ」
「すみません。異性との同居は体験したことがなかったもので。いえ、これは同棲かもしれませんね」
「何真面目に返してんだ」
そう彼が若干突っ込んでいるのを綺麗に無視して受け流し、彗廉はその服を整えた。そろそろ夕食の時間だな、と彼は言うと台所の棚からカップラーメンを取り出してビニールの膜を破り捨て蓋を半分開けると、電気ケトルで2人分のお湯を沸かし始めた。
「まさかとは思いますが、いつもこういう食事ばっかりなんですか。流石に身体に悪いのでは」
「お。それは解るんだな」
「私作れるんで、冷蔵庫の中身適当に繕って何か料理しますよ。そういうのもやってましたからね。自信あります」
「なら、遠慮なく作ってもらおうか。早速借りを返すことになるな。でももったいないし、カップラーメンも食べるがな」
「そうですね」
彗廉はそう返事すると、そのダボッとした服の上から淡い茜色のエプロンを装って冷蔵庫の中の物を漁ると、野菜や豚肉の余っていた切れ端や最近使っていないカレーのルー、その他諸々をフライパンの上で調理し始めた。
玲斗はキッチンでのその慣れた彼女の手付きを見てぎょっとすると、電気ケトルで沸かしたお湯をカップラーメンの容器にドパドパ入れて、3分クッキングよりも短い時間で完成したインスタントラーメンの麺を啜り始めた。
「ところで、私が寝る前あなたは『過去の自分と重ねてしまったんだよ』と言いましたが、それはどういう意味なんでしょうか。これから一緒に住むわけですし、教えてくれてもいいのでは」
彗廉は菜箸を使って鍋の中のものをゴロゴロ炒めながらそう言った。
「……言ったな。そんなことも」
彼は一息置いて麺を啜っていたその箸を容器の上にそっと置くと、独り言のようにボソボソと語り始めた。
2011年8月8日。玲斗の5歳の誕生日の2日前。彼の母でありグアム島日本総領事館の外交官であった
そんな中迎えた岡山の小学校の入学式。彼は元気真っ盛りで大事な時期だというのにもう既に意気消沈としており、何をするにもやる気が持てない男の子になってしまった。
しかし、この入学式という新しい環境になった日、彼の心を救う救世主が現れる。保育園からの知り合い、
『ねえねえ!ここ見てよ。
『……そうだね。見えてる』
そう玲斗は教卓からはみ出して丸見えになっている教科書を指さしながら笑顔を浮かべる奏帆に、彼は頬の筋肉が緩んで微笑んだ。2人は入学して初めての授業から、一番前の教卓の側で隣同士だったのだ。
「それでも年頃っていうもんがあるだろ。学年が上がって異性とはクラスの皆が意識するようになる。保育園の頃より交流は減ったけど、それでも僕と奏帆は比較的学校で話すほうだったよ。同級生からは仲良し夫婦、なんてチヤホヤされたけどな。ま、僕は悪い気はしなかったけど。あんなふうに僕の心を癒やしてくれたんだ。ホント感謝してる、今でも」
そう彼は言い終わると彼は激しくなっていく雨粒の地面を撃ちつける音を聞いて、そのクッションから立ち上がるとベランダのガラス戸を開けて曇天の真っ暗な空を見上げた。突如、一瞬閃光が辺りで輝いたと思うと数秒後に雷鳴がどんよりとした重い空気を響かせた。ベランダの床に溜まった雨水が排水口に流れ堕ちていく。
「……こんなんだったな。あの日も」
2018年8月10日。この日も遠くで雷が光り輝いて鳴り響く激しい雨だった。ぼたぼたと雨傘に滴る雨粒の撃ち鳴らすその音はその重たい空間の空気を振動させた。閑静な山の中の住宅街の、舗装されて数年経つアスファルトのバラストの角が目立ち始めたその隙間に雨水が側溝に向かって流れる。そこを何かの入ったバックを肩に掛ける小学6年生の奏帆の運動靴が水飛沫を走らせた。
その横を自動車が通り過ぎて歩道に汚れた雨水を蹴散らす。
『きゃっ……もーう、この後玲斗んちで誕生日パーティーなのに。これじゃ直行できないよぉ……てか、玲斗にもらった誕プレのハンカチがもうびっちょびちょ。使って2週間くらいで……』
玲斗にもらったハンカチをポケットから取り出すと、ぐしょりとずぶ濡れになっている。
彼女はずぶ濡れになったフリル付きのスカートの端を持って揺らした。そのたびにスカートに含んだ水滴が滴り落ちる。その後、彼女は少し頬を赤らめて、カーブミラーに写る放課後の薄暗い景色の中に佇む自分を視界に収めると『ま、いっか』とほんの数秒で開き直った。
辺りは、すっかりあの雨水の醸し出す独特な匂いが漂っている。苦いような甘いような、酸っぱいような、
雨粒の集合体が淡い白い靄を作り、数十メートル先はモノクロの風景と化していた。
傘の覆う範囲からはみ出た紅のランドセルの
彼女は思いっきり駆けて県道の2車線道路の脇の路地に曲がる。次第に彼女の足取りはスキップに変わり、傘の上で停止していた雨粒がパラパラ地面に落下する。
雨音は激しさを増す。地面に叩きつけるその音は、ダン、ダン、と打楽器の鈍い振動音が連続したようだった。
突然に、彼女の目線の前方に、淡い靄の混沌とした空虚の中歩く男がいた。黒いパーカーを羽織ってフードを深く被り、両手をパーカーの両ポケットにしまい込んでこちらに向かって歩いていた。
奏帆はその男の姿を眼に留めた。朧気に見えるその姿は異空間に佇む誰かで、彼女の傘が内と外とで現実世界と彼の異空間を隔てているようだった。彼女は呆然としていた。スキップしていた足を止め、じっと彼を見つめていた。
数十秒後。奏帆は複雑な水飛沫の音を立てて地面に仰向きに倒れた。彼女の片手から開きっぱなしの傘が前方に転がり落ち、背負っていたランドセルがバシャン、と無造作に水溜りに落ちた。路面のアスファルトの上の雨水の層に、彼女の紅の血が絵の具のように滲んで溶けていった。段々と意識が遠のくとともに見る見るうちに彼女の服が血で染まっていく。
『玲斗……ごめ……ん、ね?で、も、もう――』
奏帆は通り魔に刺殺された。
「馬鹿だろ、僕。僕の周りの女性は全員不幸に陥るジンクスがあるんだよ。ホント……何にもできない僕が情けない。未来は決定論のように全て決まっている宿命であるかのように、僕を嘲笑うんだ」
玲斗はベランダの軒先から片手を突き出して天高くから降り注いでくる大きい雨粒の衝撃を感じていた。
「慌てて奏帆のいる病院に突っ走ったよ。既に亡くなってた。僕のせいだ、僕のせいだ、僕のせいだ……そう自分を強く責め立てていたし、今でも……な」
彼は今年の夏のお盆休みには、奏帆と彼の母のお墓のある岡山に帰った。玲斗が小学6年生まで生まれ育った土地だった懐かしの地に帰るのだった。
2023年8月14日。東京駅で新大阪駅行きの新幹線のぞみ号に乗車し、東海道新幹線の品川駅、新横浜駅、名古屋駅、京都駅、新大阪駅に停車。乗り換えで新幹線ひかり号博多駅行きに乗車、山陽新幹線の新神戸駅、西明石駅、姫路駅、相生駅を通って、目的地である岡山駅で下車した。
玲斗は大きめのリュックサックを背負い、キャリーバックを引き摺って「ポーン」という電子音とともに新幹線の扉から出ると、新幹線のホームは地方に帰省する家族連れなどでギュウギュウ詰めだった。なんとか下りエスカレーターに乗り込んで新幹線中央改札口を通って改札を出ると、彼は近くのパン屋で適当に昼ごはんを済ませ、在来線中央改札口に入ってホームに降り、未だに山吹色の在来線の電車に乗ると一時間余りでとある岡山市街郊外にある駅に到着した。
彼なりにここ数年は都合がつかず久しぶりにここの地に帰ってきた。もう、彼の記憶の中にかつて小学校のクラスで一緒になった同級生の名前はうろ覚えで既に顔と名前は一致できなかったし、岡山に帰っても旧友とばったり会う確率など殆ど皆無に近いため顔立ちも皆変わっているだろうと彼は想像した。
時はもうじきに黄昏のときになり、昼でも夜でもない空間が現れる。茜とも呼ばれる暁の空は微妙に葡萄色にグラデーションして西の太陽を覆っていた。東の空は漆黒とは言えない群青の紺色に染められ、遥か彼方の宇宙を感じさせる。
『おい……おい、玲斗!聞こえてんのかっ』と、玲斗の背中の方で誰かが怒声混じりに名前を呼ぶ声が聞こえてきた。玲斗はゆっくり声の源の方へ視線を送ると、駆け寄ってきたせいか息切れしてその場に屈む彼――
『何故いる?こんなところに』
玲斗は少し怪訝そうに声を荒らげて彼に対して言い放った。
『おいおい久しぶりにあってそれかよ。ま、たまたま通りかかっただけだよ。バイトの帰りさ』
『……違うだろ。目の悪い眼鏡なお前が数十メートル先から僕を咄嗟に認識できるはずないだろ。コンタクトは怖い怖いってしたがらなかったしな。僕が来るっていう情報、嗅ぎつけたな』
『うっ……流石、勘が鋭いぜ。そうだ。瑞沢さん家に聞いたよ。お前が久しぶりに帰って来るってな』
『……はあ、いつも言わないでくれってお願いしてんだけどな』
『あの家族なりにお前のこと心配してんだろ』
玲斗は何処か泊まるところ決めてんのか、と訊かれ、決めてないと答えると凌志は家に泊まりなよ、一人暮らしだからさと軽いノリでそう提案した。
駅前のバス停で残り少ない時刻表の分を見て、数十分経つとバスが騒がしいエンジン音と空気がプシューッと抜けるような音が鳴って扉が開く。2人はそのバスに揺られとあるバス停に到着し数分歩いたところで彼の家に着いた。
『このアパートだ』
凌志がそう言うとショルダーバックのポケットから某アニメキャラクターのキーホルダーの付いた鍵をドアノブの真ん中の鍵穴に差して回すとガチャリ、と金属音を立てて錆びた金属の擦れた嫌な音を発して開いた。
『ボロいな、このアパート』
『おいおいお客が愚痴かよ。ま、東京の六本木に住む奴にはそりゃそうしか見えないよなぁ〜』
『いや、別に東京にもボロアパートはあるから』
そう他愛のない話を交わしながら靴を玄関で脱いで部屋に入ると、如何にも一人暮らしの男が住んでいるような典型的な部屋の状態だった。リビングの至るところに服が散乱し高校の課題らしきプリントが無造作に置かれていた。そしてついでにポスターやぬいぐるみ、バッジやプラモデルなど如何にもアニメグッズらしきものが散々溢れかえっていた。
『いかにも女っ気が感じられない部屋だな』
『いいだろ別に。俺は一生二次元と付き合うんだ!アニメよ、永遠あれ!』
『……お前もだいぶ変わったな。この部屋見て思ったが、前よりもっとオタクになってるよ』
『いや〜そんなオタクを極めてるとか褒められて、困るな〜』
『褒めたつもりないぞ』
玲斗はそう、微笑しながら冗談めかしく冷淡に言った。
その後、玲斗は適当に風呂を借りて凌志と共にリビングでインスタントラーメンを食い、凌志お薦めのビデオゲームに玲斗は無理やり付き合わされ、ボードゲームで玲斗が凌志に圧勝した後、意気消沈した凌志はふと、玲斗にあることを質問した。
『ところでさ、今まで訊いたことなかったけどさ、玲斗って……何で東京に行ったんだ?』
玲斗はその言葉を無視するかのように全く気にもせずにズボンのポケットからスマホを取り出していじり始めた。
『なあ、どうなんだ?高校なら岡山にもいくらでもあっただろ?』
相変わらず凌志の質問の無視を突き通す彼を見る。
『……忘れるためか』
『違う』
玲斗は凌志のその言葉が発せられたその瞬間に完全に否定した。
『じゃあ何故だ。岡山でお前の連絡先を知っているのは奏帆の母だけ。幼馴染の俺でさえ知らない。なんせ中学に上がる時、同級生に何も言わずに東京に引っ越しやがった。墓参りで岡山に来るときも小学校の奴らには何にも言わずにこっそり盆に来て。そんなに小学校の頃のあれが忘れたいか』
一瞬凌志の声の激しさが増した。
『……だとしたら絶対に墓参りなんて来ないだろ』
『じゃあ何故なんだよ……俺にくらい、教えてもいいんじゃないか……皆、あの時はお前と同じように瑞沢のこと悲しんでたから』
彼はなんとか荒らげていた声と心を落ち着かせ、真剣な表情で彼の眼に問いかけた。そのような凌志の様子を見て玲斗はスマホの画面を閉じて手に持ったまま数秒間瞼を閉じる。そして
『やっぱり言えない。ゴメン』
と玲斗は返答した。その言葉は何処か申し訳無さそうだった。
『そうか……分かった。それだけ教えられないような大事なことなんだな。だったらお前、それができるまで全うしろよ、何が何でも。お前飽き癖あるからな』
凌志は真剣な眼差しで、最後は冗談混じりに、それでも決意を伺うように彼に言った。
『……この目的を「飽きる」とは言いたくもないがな』
『おお。その意気込みだったら一生飽きると言うか、諦めなさそうだな』
『何を偉そうに』
その最後の一言が妙に壺にはまった凌志と玲斗はフッ、と鼻笑いした後相互作用でどっと笑いだしてしまった。
翌朝8月15日。玲斗は凌志の家のリビングの床で、毛布一枚で雑魚寝したその夜が過ぎ、身支度をしてから彼の家を出た。
『……また、何年後かに』
『そう言わずに、また来年来いよ』
『それはほぼ無理かな。受験もあるし』
『おい。それじゃあ次会うのは同窓会か?』
『はは。そうかもな。……じゃあ、その時まで』
『ああ。また』
そう玲斗は凌志に別れの言葉を告げ、アパートの玄関の二階廊下を行って階段を下る。靴底がその階段一段一段の金属板を擦ってその音が響く。何段か階段を下って地面に降りた時、夏風がこの空間に
『あー‼てかまた連絡先交換してないじゃないかよ。おい玲斗戻ってこーい!』
数十メートル行ったところで凌志に呼ぶ声が聞こえた彼は若干綻んだ後に、一度も振り返らずバス停に向かって歩いていった。
数十分くらいして彼は奏帆の住んでいた家に到着した。田んぼはコンクリートが敷き詰められ家が立ったり前まで無かったところにコンビニができたりとこの街の景色も変わっていたが、この家の周りの空間だけはあの時と何ら変わりが無いように空気がずんと固まっていた。
『ま、そりゃお盆だからな、今』
彼はそう独り言を呟いた。
彼がその家の玄関のチャイムを押すとすぐさま奏帆になんとなく似た母親が出迎えた。これから実家に行くということで行きの車に同伴させてもらった。車内には奏帆の妹である美帆や父親もいた。
彼の乗るミニバンタイプの日産セレナは幾分か走行して、今は岡山の一級河川である吉井川の河川敷の道を北上している。真夏の光り輝く太陽が川の水が靡いてキラキラ反射している。ミニバンのハイブリッドの、モーターとエンジンの吸引機のような音とともに、ザーッという川の水の流れる自然の囁きが聞こえてくる。車の窓をボタンでスライドさせて開けると爽やかな涼しい風に交え、若々しい青々とした木の葉の香りが漂ってくる。
細い道路の真隣には単線の鉄道のレールと電線が続いている。すると向こうの方から2両編成の電車がガタゴト刻む轟音を響かせながら通過していった。
『玲斗くん。今年も来てもらって悪いね。きっと奏帆も、君の母さんも喜ぶだろうね』
奏帆の父親がハンドルを握りながら後部座席に座る彼に、バックミラー越しに話しかける。
『いえ、これくらい当然です』
彼は外の景色をぼーっと見つめながら返答する。隣に座席に座る中学3年生の美帆が寝ていると車が段差でガタッと揺れ、彼の肩に彼女の頭が乗りかかった。彼は俄に驚いて横目で彼女の方を見たかと思うと、間近の寝息を聞きながらまた窓の外を眺めた。
道路の脇の道路標識には錆びてところどころボロボロで茶色くなった『50』の速度制限標識がすれすれで通り過ぎる。この対向車が絶対に通れないような狭い道路で時速50キロメートルは速すぎないか、と彼は思った。
1時間と少し、岡山市街を抜けてとある田舎町に入った。奏帆の父方の実家らしい。そして玲斗の母親の実家があった場所でもあるが、その両親、彼の祖父母に当たる2人は既に他界していた。玲斗の父親は公安警察の任務で忙しく、今年も僅かな親戚が来るのみで、代わりに奏帆の家族に玲斗の母親の墓の手入れをしてもらっているまである。
彼は一人、奏帆の父親の実家から歩いて幾らかすると閑静な住宅街を抜けたところに墓地がある。墓地の奥には池もあり周りの土手には真っ赤な彼岸花も咲いていた。彼は墓地に一歩足を踏み入れた。
奏帆と玲斗の母である澪里が眠っている墓は隣同士で、綺麗に手入れされ光沢を帯びていた。そして新鮮な夏野菜のナスやキュウリに竹串を四肢のように刺して作った精霊馬や精霊牛が仲良く飾られてあった。
彼は最初に母の墓の前に立った。両手をそっと合わせ黙祷した。幾らかした後、次に奏帆の眠る墓の前に立った。俯いて暫くした後また同じように黙祷した。するとその途端に、風が吹き池の水面が僅かに波打った後、チリン、と静かな風鈴の音が響いた。
『――ねえ、何してるの』
声が聞こえた。懐かしみのあるハツラツとしたあの優しい声が何処からか彼の鼓膜に流れてきた。彼はハッとして後ろを振り向くと、麦わら帽子に白いワンピースを着た彼と同じくらいの年齢の奏帆――ではなく、美帆であった。奏帆の声も、容姿も、顔も、確かこんなんだったかな、と彼は思った。
『あんな微妙な雰囲気の家に居ても気まずいだけですから、着替えてやってきたんです。この方が大人らしくていいですよね……あれ、どうしたんですか?じっと見て』
『あー、いや……別になにもないよ』
『本当にそうですか?まあいいです。……あ、私、お供物持ってきました。姉さんが昔よく食べてた羊羹です』
そう美穂は墓を前にして言うと、そっと羊羹を置いた。少し彼女は姉の墓の前で手を合わせると
『澪里さんの方にもおはぎを持ってきました』
と言って彼の母の方にもつぶあんで作ったおはぎを添えた。
『ところで、玲斗くんはいつもお墓参りの時一人で行きますよね。何でですか?』
『……2人だけで伝えたいことがある、と言えば理由になるかな』
『その内容を訊くのは愚問、ですかね』
『はっきり何かを伝えたいということではないけど……2人でないと打ち明けれないことだってあると思うし』
『そうなんですね。私が姉さんに伝えたいのは……こんな人と暮らせれて幸せだったねって言いたいいです。ちょっと、羨ましいです』
『それを言うならこっちもだよ。奏帆に僕は救われたからな』
『……じゃあ、次は私が玲斗くんを救う出番ということですかね』
急な美帆の発言に彼は、えっと彼女の顔を見ると真夏の眩しい日光に照らされ頬を赤らめて微笑んでいた。赤い彼岸花とともに。
『あー、冗談ですって……。さ、早く帰りましょっ』
この後毎年恒例行事と化している美帆からの猛烈な連絡先交換しろしろアプローチをさらりと
「カレー風味の野菜炒めができました」
彗廉が2つの皿に盛り付け、エプロンの後ろの結び目を手早く解くと、ソファにぐったりと寝転ぶ彼の元へと運んだ。
「ああ、ありがとう……普通にうまそうな感じだな」
カレー粉は万人にうける万能の調味料とはよく言われるが、それらを考慮してもあのサイボーグたる雰囲気を醸し出す彼女が作ったものとは思えないほどうまそうなものだった。
「う、うまい。うまいわ……料理上手だな。人様の手料理を食べるのは久しぶりだったな」
食欲そそられるカレーの香ばしい匂いが玲斗の箸の進む速度を速くしていく。
「そんなに美味しいですか」
彼女もどんどん口に料理を運ぶ彼を見て、自分も箸を持って食べ始めた。
(今気づいたけど、彗廉、すごい姿勢がいいな。サイボーグだからってのもあるだろうけど……それに、指先が綺麗……女子だからか?)
「どうかしましたか?」
「え?あ、あー……何もないよ。大丈夫」
「そうですか……」
彼女はそう言ってまた箸を持って自分の作った野菜炒めを食べ始める。それっきり何も会話は生まれず、微妙な空気が流れる。ふと玲斗は食べる手を休めて彗廉に向かって話しかけた。
「あー……なんだ、僕の家さ、女物のもの一切無いからさ、明日買いに行かないか?」
「はい。分かりました。行きます」
即答して、彗廉が口の中で咀嚼しながら、彼の眼を見つめる。リスのように頬袋を膨らませている。幾分か妙に見つめ合った後、彼は仄かに頬を赤く染まらせてガブガブと残った野菜炒めを貪り始めた。
「そんなに美味しかったなら、良かったです」
彼女はそんな彼の様子を物ともせず、淡々と話す。
「う、うまいよ。うまいんだけど……」(無自覚であーゆーことされるのは駄目だろ……)
「体温の急激な上昇が感知されました。どうかされました?今さっきので風邪を引かれました?」
「あー違う違う。大丈夫だから気にすんな。心配無用だ」
「本当ですか」
そう言って彼女はいつの間にか食べ終えた自分の皿と彼の皿を重ねて台所にスタスタ持っていって、蛇口から水飛沫の音がし始めた。
「皿は僕が洗うのに」
「いいんです。住まわしてもらうので、これくらいは私としての義務です」
「……そうか。僕は風呂入ってくるから、終わったらゆっくりしときな」
はい、と彼女が返事したのを聞いて、彼は服を持って浴室に入っていった。
玲斗は湯船に浸かって浴室を出て着替えた後、寝室とはまた違う別の部屋にいた。扉を開けてすぐ右には大きな一人用の机、その上にはデスクトップパソコンのサーバーボックス、方眼の上に様々な幾何学的図形の書かれた工作マット、電源装置、モニター、タブレット端末、キーボード、マウスなどの電子機器。その他カッターナイフやデザインナイフ、多用途ルーター、ドライバー、ペンチ、ニッパー、ヒーターなどの多種多様な工具も散乱している。机の隣には家庭用3Dプリンターが置かれてある。ここは彼のDIY部屋なのである。
彼は椅子に座りBluetoothのマウスをカチカチ指で操作しながら、モニターをじっと見つめていた。そこに映されているのは設計ソフトの3Dcadの画面。3気筒星型エンジンに可動のエレベーター、ラダー、エルロン、フラップに収納可能な降着装置が構成された零式艦上戦闘機52型丙、略してゼロ戦のラジコンの設計図である。ラジエターや排気管、バッテリー、ガソリンタンク、ESC、サーボモーターも機体内に内蔵されている。
「なにしてるんですか」
画面をボーッとなんとなく見ていたために、突如視界にめり込んできた彼の顔を覗き込む彗廉の薔薇色の瞳が見えて彼は腰を抜かした。至近距離で彼女がじーっと見つめてくる。女子特有のいい匂いが鼻腔の奥を擽って彼は思わず目をそらす。
「ちょっ……顔が近い、近い。なんだなんだ、なんか用でもあるか?」
「いえ。なんにもありませんが。この部屋が気になったので来てみただけです。それにしても凄いですね。見たことない工作機械がたくさんあります」
「見たことないのか?」
「いくらでも物を破壊する場面を見たことはありますが、物を作り上げる場面は滅多に見られませんでしたよ」
「そう、なんだな……」
「これは見た感じ電気的に熱で溶かした合成樹脂をノズルで積層させるようなものでしょうか」
「3Dプリンターだな。3Dcadで設計したものを制作できるやつ。結構高かったんだから」
「工作が趣味なのですか」
「そうだな。小さい頃から色々。ほら、部屋中に飾ってあるだろ」
彼はそう言って机上の棚に飾られてある物を指差す。AK-102がモデルのエアガン、オフロード仕様のバギーラジコン、緻密に再現された日産ハコスカGT-Rの模型、改造したノートパソコンなど歴代の製作物が並べられていたり、無造作に床に放置されていたりしていた。
「本当にモノづくりが好きなんですね。将来はエンジニアにでもなるんですか」
「まあ、そうなるかもしれないし、そうならないかもしれない。決まったわけじゃないんだ」
「他にも候補があるというわけですか」
「うん。そう言えばそうなるな」
「いいですね。私は一つしか道は与えられなかったので」
彗廉は壁に掛けられて飾られているAK-102のエアガンを手に持ってサッと照準を構える。マガジンには特別な形状をした流線型のカーボン製弾丸が何発か詰め込まれており、安全装置を外せば何時でも発射可能。
「凄いですね。本物とさほど変わりがありません。ピカティニーレールも寸法が一緒なので、本物のスコープも入りそうですね」
「AK-102、扱ったことあるのか」
「ありますよ。狙撃銃として。8倍スコープを付けて」
「8倍……流石に光学機器は高度すぎて自分で作ったことないな」
「作れないのですか」
「作ったことないから分からんが、それでも難しいことは解る。構造が一筋縄でいかないんだよな。物理で光の分野習ったら分からんでもないかもしれんが。そしたらドットサイトくらいは作れるかもしれん」
「手が器用で頭がいいんですね。高校生、すごいです」
「いや、こんなことやってるの学年で僕くらいのヤバいやつだと思うが」
「そうなんですか」
今度はずいっと前のめりになってゼロ戦の設計図が写るモニターを見ている。いかにも興味津々そうに見入っていて瞬きは一秒たりともしていない。
彼は少し得意げそうなのを隠しながら、マウスを動かしてゼロ戦の見る角度や大きさを変化させ同じように美しい機体を眺める。手元には数冊のゼロ戦の資料。鉛筆で書かれた数字のメモが至るところに残されていた。そしてその中のある雑誌の機銃の紹介ページを見ると、こんなメモが記されていた。
『翼内装備の機銃、検討中』
翌朝。今日は玲斗が彗廉の日用品や服を買いに行こうと計画している日である。流石に下着が彗廉の自物一着しかない生活はどちらにとっても居心地悪い生活だろう。
(いつも彗廉が下着ありか下着なしか考えてたら変な感じになるからな……)
そんなことを頭の中で妄想をして、駄目だ駄目だと妄想を取っ払った。
午前7時程。彼はまだ寝ている彗廉を見計らってこっそり家を出ると、家のあるアパートから数分歩いたところにある自分専用のガレージに来ていた。そこにはカスタムされたスズキのスイフトというコンパクトタイプのスポーツカーとホンダのVFR800Xや400Xというスポーツバイクが格納されている。家の自室には入り切らない大型工作機械や特殊工具、材料などもある。
玲斗は家から持参してきたホンダ400Xの鍵をかけると、軽快な音とともにシリンダーの中で気化したガソリンが爆発しクランクが回転する音がし始める。ババババババとガレージの中でエンジン音が反響する。彼はそれを聞いてヘルメットを被ってバイクに跨ると、開けておいたガレージのシャッターからアクセルを掛け道路に出ると、リモコンでシャッターを閉じ、アパートの方向へ駆け出していった。
アパートの駐輪場にバイクを停めると彼はエンジンを切って鍵を掛け、階段を上がって自分の家の玄関の鍵を開けて中に入った。家の中はカーテンが閉められていて薄暗い雰囲気でしんと静まり返っていた。恐らく彗廉はまだ起きていないと彼は感じた。
数十分後。彗廉はカーテンの隙間から漏れ出る朝日の眩い光に起こされ、瞼を開けた。瞳の色は透き通った群青色である。仰向けのまんま、はだけた男物のダボッとした服をそのままに、その間から白い肌の起伏の陰影を写しながら、薄暗い天井を見つめていた。
ふと彼女は寝ていたベットの隣に置いてあった棚を見ると、そこにはランプの土台に挟まれて垂れている血糊の着いたあのハンカチがあった。それを目にした彼女は瞳の色を群青色から葡萄色を経て真っ赤な薔薇色に变化させた。
「……っ?!」
と同時にまた彼女はドクン、という心臓の突如の動悸を感じた。
「おーい、彗廉、起きたかー」
廊下に続く扉の奥から、玲斗の呼ぶ声が聞こえてきた。彼女は服を整えて髪をクシでぱっぱと雑にとき、既に玲斗が選んでいた衣装に着替えた。今日は急遽洗濯機を回して速攻乾かしたので下着は準備万端である。彼女は今着ていた服を全部脱いで 一度産まれたまんまの姿になると、下着を履いて彼の男物の服を着た。
「着替えたら朝食用意したから、適当に食べてな。食べたら出掛ける準備しとけよ」
今度は遠くの方から彼女に対して張った声でそう呼びかけられた。彗廉はそっちの方を見てベットの淵に座っていたところから立つと、玲斗の寝室から出てリビングに向かった。
リビングに出ると玲斗が既に出掛ける準備万端で衣装もそれなりにできている中、イス型クッションに座ってノートパソコンをカタカタ、キーボードを打ちながらいじっていた。口には適当に焼いた食パンがかじられている。
「それが名ばかりの朝食ですか」
「名ふぁかりとは何だ。へっきとしたたん子高校生の朝飯だぞ」
食パンを口に咥えてもなお器用に唇と舌を動かして発音する。若干呂律は回ってない。
「栄養価は最悪ですがね。スープにでも作りましょうか」
「いいや、大丈夫だ。適当に食べて今すぐにでも家を出発するからな」
「そんな時間ないんでしょうか」
「別にタイムスケジュールがギシギシではないがな。ここでちゃんとした朝食を作られたら今日も家でダラダラしそうだからな」
「そうですか」
玲斗はショルダーバックにスマホやノートパソコン、接続ケーブル、財布などをつっこんで準備し終わると彗廉を連れて家を出た。
「今日は何で行くんですか。六本木駅まで歩いていくのでしょうか」
「いや、今日はバイクで直行渋谷まで行く。バイクの免許もあるよ。普通二輪免許だけどな」
彼はこっそりガレージから運転して持ってきた400Xのエンジンを始動させた。排気量400ccの水冷DOHC直列2気筒エンジンの軽快な音が響く。彼は慣れているようにバイクに跨ると「さあ後ろに乗って」と彼女に言った。彼女も返事をして玲斗に渡されたヘルメットを被ると、玲斗の跨る後ろに後部座席に座った。落ちないようにそっと彼の腰に手を回して抱きつく。
(ヤバい。忘れてたけど、翌々考えたら後ろに年相応の女子を乗せたことなんてないぞ。胸の感触が……まずいまずい。運転に集中できなくなって事故る。煩悩退散、煩悩退散……)
彼は一旦深呼吸して落ち着いてから、ヘルメットのシールドを下ろすとギアをニュートラルから一速に上げ、徐々にアクセルを回して加速し道路に侵入して走行し始めた。デジタルメーターパネルを見れば、残量ガスは満タン、ギアはクラッチ操作で二速にギアチェンジする。
「手慣れてますね」
「そ、そうか……?普通じゃないかな?」
「いえ。免許取りたて高校2年生の初心者ドライバーではない熟練の手腕を感じます」
「何だよそれ。これでも女子乗せるの初めてだから緊張してるんだよ」
玲斗は目の前の交差点の赤信号を待ちながら呟いた。その後、フッと若干口角が緩んだがすぐさまキリッとなって、青信号に点灯した瞬間バイクを走り出させた。
首都高3号線の高架下の都道を西に進んでいく。このまま直進していけば渋谷駅前の中心街である。朝の通勤ラッシュの時間ということもあり通行量は多い。タクシーや乗用車、バス、トラックなどが道路を行き交いしていて、東京の大都会の街の大動脈は鼓動していた。
かの有名な渋谷駅前のスクランブル交差点。彼らのバイクは横断歩道の前で赤信号に引っ掛かり信号待ちしていた。目の前で歩行者側の信号機が一斉に青になり、大量の歩行者が大きな横断歩道の縞々を渡り始める。ニュースなどで上空からの映像は見た経験はn回目だが、直接この群衆が交差点のど真ん中で入り乱れる壮大なヒトの圧を目の当たりにしたのは初めてだな、と彼は感じた。
「人、こんなに多いんですね。流石、日本の首都ですね」
「まあな。休日だし、遊びに来る奴らも多いんだろ」
近くの地下駐輪場にバイクを停めると、とりあえず階段で地上に上がってスクランブル交差点の前の駅広場に着いた。待ち合わせの定番のスポットと化している渋谷駅前には、視線を下に向けながらスマホを片手でいじっている若者ばかりがハチ公の前で突っ立っていた。
「なになにあの子。髪緑で、なんかすっごい可愛いんですけど」
「一人かな……いや、隣のやつとカレカノか?」
「渋谷に超絶美女出現。服ちょっと地味だが」
玲斗が彗廉の隣でどこに行こうか迷ってスマホを見ていると、彗廉の方をチラチラ横目で見ながらコソコソ話している者がいる。彗廉は目立たないよう彼が帽子を持ってくるように言っていたのだが、溢れ出てくる彼女の美貌は隠しきれなかったようだ。ありとあらゆる種類の視線が彼女に集中するのがわかる。
(ここまで彼女の見物人がいるとは予想外だな……)
そんなことを玲斗は思っていると、彗廉の見物人のうち同じ年頃なイケてる女子2人が彗廉に接近してきた。何事か、と彼は注視しているとその2人はこう彼女に対してお願いした。
「すみませんー。写真撮ってもいいですか?あ、それとついでにSNSにアップしてもいいですかね?」
そういう二人組を見て、玲斗は驚きを隠せず目を見開いて彼女の方を凝視してしまった。ある程度彼女の顔を隠せると思って渡したキャップだが異彩を放つ緑の髪の毛にシリコンの板のおくれ毛は完全にコスプレのようである。それでも服は彼のチョイスだからダサいので大丈夫だと過信していた彼だったが、それは間違いだったようだ。まるで棚からぼたもちのように突如街中に出現した芸能人の扱いである。
「私……でしょうか?」
「え?うん、勿論。あ、彼氏さんの許可も取ったほうがいいのかな……あ、そこの彼氏さん。彼女さんの写真撮ってもいいですかね?!」
既に彗廉の許可は取っているという前提が何故かできている。しかも恋人関係と誤解されている始末である。
「え?か、彼氏?あ、ああー……」
彗廉は元スパイ活動をしていたサイボーグである。写真で身バレすると大変なことになる可能性があるのを吟味して止めてもらおうとしたが、一足遅く、早速彗廉と自撮り写真をスマホで撮影していたのだ。
(やべ、撮られてもうた……)
SNSに挙げられると本当にまずいことになりかねないのでそれだけは絶対に制そうと彼女たちに声をかけようとしたが、何故かパーカーのフードを被る玲斗と一緒に撮られた彗廉と彼女たちの自撮り写真が一瞬でアップされてしまった。
(じょ、女子高生のスマホスキル、恐るべし……じゃなくて)
とはいえ、一度インターネット上に挙がったものを取り消すことなど現実的に無理である。そうこう頭の中で考えていると彗星の如くその2人組は颯爽と何処か行ってしまった。
「やってもうた……」
「何がですか?」
「いや、写真。彗廉は元スパイでサイボーグなんだし、しかも今は実質逃げている身だろ。写真がインターネット上に流出して身元が特定でもされたら……」
「そんなに深く考えなくてもいいのではないでしょうか。なんせ私は元々コードエラーで廃棄処分が決定していた身です。そんな私を追ってくる者など誰もいません」
そう言って彼女は僅かに俯きながらキャップを深く被った。
「いや、そうか……?東京湾に浮くまでの空白の時間、どう考えてもおかしいだろ。何か裏があると思ったほうが自然だろ」
「それはそうですが……何かあれば、私は強いので、自分の身は自分で守りますよ。それより予定、あるのでしょうから早く行きましょう」
「……そうだな」
少し沈黙が彼の中で疾走ってからそう彼は呟くと、調べていた近くの大手アパレルブランドの店舗に行くことにした。
彼はハチ公のあの像の前から移動しようとしていたのだが、彗廉は謎にハチ公の前から離れようとせずポーッと何処か一点を見つめている。何だろう、と思って彼は彼女の視線の先を辿ってみると、そこには手を繋いで他愛のない話を躱しながら仲良く歩く、ほのぼのした恋人同士の男女がいた。
「……どうした?」
「いえ……恋人ってああいう人たちのことを言うのかなと」
「あ、あー……まあ確かにそうだが」
「手って繋いだほうがいいのでしょうか……」
彼女の頬が紅葉の葉っぱみたいに赤くなる。顔はやはり無表情だが、何処かモジモジしているようにも見える。
「なんだ。今さっきの人の言葉、気にしてるのか」
「い、いえ。別に私は……」
「恋人ってのはな、お互いのことが好きで交際している同士なんだよ。大体どっちかが好きだって告白してOKだったら付き合う。ただ単に男女が一緒にいても恋人とは言わないんだよ」
「では、何をもって『交際』や『付き合う』ことをすると皆言ってるのですか。好きでも告白していなかったら恋人同士ではないのですか。告白したとして『交際』したら何をするのでしょうか」
「恋人の定義って何なんでしょうか」
玲斗は彼女からの質問に口を塞ぎ込んでしまった。
彼は考えた。
恋人の定義。最初は告白するのが普遍的だが、自然と成り行きでなった恋人もいるだろう。付き合ったからと言ったってイチャイチャすること自体が主目的だとも言えない。色々なことを考えているうちに恋人の定義とはなにか、簡単な問いのようで、ゲシュタルト崩壊のように迷宮入りしていくようだった。
「恋人、か……分かってる風に言ったけど、やっぱり経験ない僕には分からん。何だろうな、恋人って」
「なんなんでしょうね。ホント……」
結局『恋人の定義』という命題の適当解は迷宮入りして2人の間の空間は沈黙に向かってしまった。それでもまだ彼女は微妙にモジモジしている。
「すみません。手、繋いで行ってみません?」
その沈黙を破って最初に彼女が発した一言はこれだった。
「え、あ?急にどした?」
「いえ、なんとなくです。急でもありません」
「あ、なんとなく、すか……分かったよ。はい」
彼はそう言って彗廉の前に手を差し伸べる。そっと彼女のほっそりとした綺麗な指が触れると、ほんのり暖かいものを感じる。そして触れた後に互いの掌と掌を繋ぎあった。機械的な手のツギハギの繋目の凹凸や手のシワ、温もりが掌中に伝わる。
「あったかいですね、手」
「そうだな……」
この変な雰囲気に飲まれてまともに話が続かない。スクランブル交差点を渡り、しばらく歩いていると時は一瞬にして過ぎ去りいつの間にか目的の大手アパレルショップに到着した。
彼が繋いでいる互いの手の外すタイミングをなくし、どうしようもなくなっていると、突然衣服の陳列の影からやけにニコニコしている女性が現れた。予想するに彼女はこの店舗の店員のようである。オシャレな服を着こなしているベテラン風の店員の雰囲気を醸し出している。
「あらあら〜そこのカップルさーん?どんな服をお探しでしょう?……ん?」
その店員さんは彗廉を一回見ると、ジロジロ彼女の色々なところを見始めた。薔薇色の澄んだ瞳に十字の照準線が入った右目。シリコン製半透明おくれ毛にツギハギのような白い透き通ったような肌。スラッとした体型に男物の服。ボサボサした髪。
「ふふーん?ちょーっと彼氏さん、耳貸して?」
「は?はあ……」
彼はその発言に懐疑しながらもその店員さんに耳を傾ける。そして小さな声で囁く。
「この子、私がすこーしプロデュースしてもいい?絶対可愛くさせるから。というより、元が超絶いいから一手間加えただけですごく良くなると思うし。それに……」
「……それに?」
「彼女さん、君の服着てるでしょ?そういう趣味ならそれはそれでいいけど……ね?」
「なっ……いや、違っ違いますよ。いや、違わなくも……って、趣味ではないですよっ」
「なーに、そんな慌てちゃってぇ……ま、なんでもいいから少し借りるね〜勿論、責任持ってお返しするからさー……」
そう言うとすぐさまその店員さんは彼女の手を強引に引っ張って何か彗廉に話しかけながら消えてしまった。
(ま、僕の壊滅的なセンスよりは絶対いいはずだから、任せようか……流石に高級ブランドとか着けてこないよな。それくらい解るよな、あの人)
そんなことを考えながら玲斗はオシャレな服を着てポーズを決めているマネキンの前一瞬見て怪訝そうにした後、そいつに背を向けながらスマホをいじり始めた。
(大丈夫、だよな)
マネキンの前でスマホをいじり始めて丸1時間。チラチラ腕時計を見ながら辺りを伺っていると、エスカレーターの方から2人の人影が現れたかと思うと、やけにニヤニヤしている興奮状態の店員さんとその手に繋がれている彗廉らしき人物がいた。らしきが示す通り、彗廉は圧倒的に見違えていた。
それは如何にも紅葉月の秋をを彷彿とさせる暖色系を基調としたコーデで、ジーンズ生地の膝丈くらいのスカートと鉄紺色のブラトップに、正方形の黒色のボダンが装飾された淡い茜色のカーディガンを羽織っている。そして靴もボロボロだった彼女の靴から新調して大人な洒落たスニーカーも履いて、何故かよくわからないが自然なメイクも施されている。彼に服のセンスなど皆無のようだが、それでも彼女に絶妙にマッチしているのは一目瞭然だった。しかし髪の毛はボサボサのままである。
「あ、見たらそりゃぁなんとなく解ると思うけど此処の店以外にもいろんなもん買っといたからねぇ。ここは私の腕見せといたからさーだから代金は私のツケだからーいっやーホント勉強になったよねーだってこんな素材がいいの滅多にいないし、久しぶりに興奮したよー」
「え、いやお金は流石に申し訳ないと言うか……」
「いいの、いいの。私の贅沢な趣味だから。それにさっ……」その店員さんは何かを言い掛けて、彼の耳元に擦り寄ってから
「一応、勝負下着も買っといたからね」と小さな声で囁くと、彼は眼を瞑って俄に顔を赤らめてしまった。
「いや、そういう関係じゃないですから……」
「えーそうなん?でもでも、私が何訊いても何も返してくれないのに、君のことだけは……」
「僕のことだけは?……」
「やっぱりナシなし!さっさ、早く髪切りに行きなさいね〜君の好みに合わせて」
「なっ……」囁かれ、そういうことか、とその店員さんの意図に気づいて言葉を詰まらせていると、その様子をみた店員さんはオッホッホッホッと高笑いしてまた何処かへと向かっていった。上機嫌で笑い声を店内に響かせるも他の店員は全く気にしていない。あの人は常習犯か、と自由人なあの店員さんに呆気にとられていると、同じく隣で固まっている彗廉がそっと彼の肩にそっと手を載せて
「あ、あの……玲斗さん?次は何処に行く予定でしょうか……」
とボソボソ小声で言った。
「……ん?今、僕の名前呼んだ?」
「今始めて呼びました」
「あ、そうすか」
「で、何処に行くんでしょう?」
「そう、だな……あの人が髪の毛だけ残して逃走したから、美容院でも行くか」
「あなたの好みに合わせる、ということでしょうか」
「いや、何ちゃっかりあの人の言いなりになっているんだよ」
「別に言いなりではありません。自分で考えた結果です」
「は、はっはー……?」
適当にスマホで検索した近くの美容院に歩いていくと、ものの数分で到着した。英語の筆記体で書かれた店の名前付きのガラス張りの正面に古びたオークの扉があるのに加え、モダンな雰囲気を醸し出す、もっぱら彼のような人が行くようなところではないお洒落な美容院である。彼女がその重たそうな扉を開け、鈴がなった瞬間、そこにいた美容師さんは珍しそうに目を丸くしたがすぐに彼女を案内した。あなたも一緒にカットしましょうか、と美容師さんに伺われた玲斗だったが「いや、今日は大丈夫です」と丁重に断っておいた。
彗廉がよそよそしそうに案内された席に座る。
彼はあの人にあんなことを言われ、試してみたくなってしまったのか美容師さんに「三編みが似合うセミロングヘアで」と彼女の許諾なしに勝手に注文してしまった。
「……やはり好みに合わせてるではないですか」
「し、仕方ないだろ。あの人にそうしろって言われたんだから」
「合ってるのではないですか。私の予想」
彼女がそう愚痴をこぼしながらも、何もわからない彼女は結局そのままカットを開始されてしまった。
「このシリコンのようなおくれ毛はそのままでいいのでしょうか」
「あ、はい。そのままで大丈夫です」
彗廉の代わりに玲斗がその美容師さんの質問に答える。
「それにしてもホントに珍しいですね、緑の地毛なんて。今までで一度も見たことありませんよ」
「で、ですよね……」(それを言ったら照準線のような十字の瞳とシリコン製のおくれ毛も珍しいどころじゃないと思うがな……ま、そこは流石に触れられまい)
「凄いですね〜このカラコン。スナイパーのような十字線!カッコいいです!」
(ふ、触れた……‼)
「いえ。違いますよ」
「サイボーグのようでホント似合ってますよ!これからコスプレでもするんですかっ?」
(グイグイ来るよ。無視してるし。空気読めよ……渋谷は変な人ばっかりなのか?)
「コスプレ……コスプレですか?」
「はい!してないんですか?」
「……今度してみます」
「絶対してください!あ、もしコスプレしたら写真撮ってSNSにあげてくださいよ」
「SNS、ですか?」
「そうですよ」
「あー……彼女、スマホ持ってないからそもそもSNSできないんですよ」
「えー!今どきすごいレアじゃない?よく彼氏さんと出会えたね……」
「あ、あはは……そうですね」
また恋人関係だと勘違いされ、面倒臭くなってその美容師さんの言葉を棒読みで受け流していると、ふと彗廉がぼそっと何かをこう囁いたのだった。
「……そうですね。奇跡とでも言えるのでしょうか」
その彼女の『奇跡』という言葉が妙に引っ掛かって、玲斗の脳内で響いては消え失せていった。
美容師さんのハサミを捌く軽快な音がなってから幾らかして、彗廉の髪が切り終わった。爽やかなふわっとしたセミロングヘアに左耳の後ろに掛けられている三編みが印象的なヘアスタイルである。
「ど、どうでしょうか……?」
彗廉が毛先を気にして指でクルクルいじっている。ボサボサヘアも桁違いだったものの、やはり本気でコーディネートすると玲斗のタイプにドンピシャで、表参道を歩いているようなイケてる女子高生に変貌した。ブランド物の紙袋を両手に掲げてそこにいたらもうそれである。
「あ、あー……すごく、いいと思う」
「玲斗さんのお好みに合いましたか」
「え?あ、あー勿論だ。もちろん」
「そうですか……」
互いの間に数秒間の沈黙が流れる。
「あ、あーそうだ。もう昼時だし、昼ごはんでも何処かで食べてから次のところに行こうか」
沈黙を打破しようと玲斗がそう提案する。
「はい。そうしましょう」
淡々と返事をする彼女。
(くっ……こっちは心が破壊される寸前っていうのに冷静で居よって……)
心のなかでそう叫ぶ彼。心中ではそう悔しがりながらも顔には現さずにスマホを出して検索し始めた。
Codeの堕天使 青い睡蓮 @B-pound_Lily
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