幕間 もう一人のアンナは憂う
彼女の母は、とある伯爵家で乳母を務めていた。
ちょうど彼女が生まれた頃に伯爵家で子が生まれたからだ。
男兄弟しかいないところに生まれた女児は、それはもう大層可愛がられた。
上にも下にも置かない扱いというのは、きっとああいうことなのだろうと
いくら兄妹の仲が良くたって男ばかりと遊ばせるわけにはいかないと、乳姉妹でもあるアンナがその末娘であるユージェニーの傍に置かれたのは、流れでいえば真っ当な話であった。
伯爵家はみな良心的な人ばかりで、ユージェニーに対してもただ甘やかすばかりではなかった。
幼いうちは、アンナも平等に接してもらっていたし、伯爵家の人々のことは大好きだった。
歳を重ねるごとに身分の差を理解し、ユージェニーとは姉妹のようでありながら主従の絆を深めていった。
彼女たちは、幸せだった。
平凡な日々を、平穏な時間を、
だがそれが変化を迎えることとなる。
ユージェニーに、王家から婚約の打診が届いたのだ。
王家に嫁ぐに身分の序列としては低い方から数えた方がいい伯爵家であったことから、てんやわんやの大騒動になったことは想像に難くない。
それでも、理由は誰もが簡単に想像できた。
王家の男児が生まれにくい現状、そして男児が多く生まれている伯爵家の末娘とくればわからない方が不思議なくらいであった。
幸いにもそういった理由の婚約であっても、王子とユージェニーは見合いの席から意気投合して仲睦まじいカップルとなった。
そして輿入れにアンナもついていくこととなったのである。
アンナは、見て来た。
王となった夫に愛されながらも、求められるのは王子を生む
長女が生まれた時、幸せだとユージェニーは笑っていた。
次女が生まれた時も、彼女はまだ笑っていた。
だが、焦りがそこに見えていたように思う。
三人目が生まれた時も、王もユージェニーも喜んだ。
しかしその笑顔に陰りがあるのを、アンナは見逃さなかった。
『王子が生まれたらきっと喜ばしいことだが、王妃様はもう三人もお子を設けてくださった。いずれも優秀な王女たちだからこの国の未来は明るいな!』
そう人々が喜ぶ声は、ユージェニーに何故か届かない。
アンナは、どうしていいかわからなかった。
ユージェニーは何かに取り憑かれたように、男児を産まなければと気負った。
王は特に何も言わなかった。そう、何も。
そうして、双子の男女が生まれた。
とても可愛らしい赤ん坊たちに、アンナは見惚れたものだった。
(それなのに、どうしてなの……ユージェニー)
可愛い私の娘。
上の三人の娘にはそう語りかけていたユージェニーの姿はもう、どこにもなかった。
王子だけを見て、王女は侍女に預け。
そんなぞんざいな扱いをすれば、他の侍女たちがどう受け止めるのかわかりそうなものなのに。
次第に、末の姫ヘレナの悪評が城内を回り始めた。
国王夫妻はそれに眉を顰め、末姫を叱るばかりだった。
王子を、その腕に抱きながら見下ろすようにヘレナを叱るその姿は、酷く滑稽に思えた。
アンナは何度か進言した。
近しい侍女として、必要なことだと考えたからだ。
王に話しかけるには許されない立場だが、乳姉妹であり、専属侍女であったアンナだからこそ王妃に意見を言うことも許された。
「じゃあ、アンナがあの子を見てやってちょうだい。他の侍女たちは下がらせるから、あなたがあの子をしっかり躾けてやってくれる?」
信じられない発言だった。
王女の我が儘が過ぎるから侍女を減らすと聞いた時に『事実確認をすべきだ』と述べたアンナに返された言葉はそれだったのだ。
実際行ってみれば、王女ヘレナはただの子供だった。
クローゼットの中身は少女の好みではなく、教育者たちの態度は悪かった。
訴えは正当なものだったのだ。
ヘレナの傍につく際に、熟練の執事を一人連れて行っていいと言われたので信頼できる相手を選んだ。
彼もまた、ヘレナの状況を見て呆然としていた。
「……ユージェニー、本当にあなたは、何も見えていなかったのかしら」
辞職し、田舎へと帰る道中でぽつりとアンナは呟いた。
その声に応えるものは、誰もいなかった。
かつて朗らかに将来の家族について語ったユージェニーを、アンナは覚えている。
好きな人と結婚し、子供は何人いてもいい。
晴れた日にはピクニックに連れて行ってやりたいし、たくさん笑いかけてやりたいし、絵本を読んであげたい。
男の子でも女の子でも構わない。
元気で、笑顔いっぱいに育ってほしい。
(ねえユージェニー。……あなた、ヘレナ様の笑顔を一度も見たことがないって、気づいているかしら)
アンナは遠くに見える城を見上げ、目を細める。
なんでも語り合えたあの日が、懐かしかった。
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