AIは犯人を追い詰めることができるのか? 3:犯人を追い詰めろ(後編)

 ついにここまでやって来た。

 甲斐の尻尾はもはや手を伸ばせば届くところにある。


 お馴染みの新里述のメモリへの追記内容は以下の通りだ。


○メモリ(追記分のみ)

阿部の自宅の浴室以外から阿部の血液は検出されなかった。

甲斐は四か月ほど前に石膏とシリコンを購入していた。

赤池は甲斐が湯船の縁の形をした凶器を作成したと考えている。

阿部は赤い万年筆を特注し、部下にプレゼントしていた。

赤い万年筆の価格は十万円。

甲斐は阿部殺害の証拠が残されていると思われるバッグを処分しようとした。


 新里述は甲斐を追い詰める一手を打つことができるだろうか?



 甲斐の弁護士の榎本(えのもと)はショートカットの切れ者の女性だ。その眼は、今や義憤に燃えているように赤池には映った。

「結局、バッグからは誰の血痕も検出されませんでした。つまり、あなたがたは謂れのない疑いで依頼人の社会的信用を損なうような捜査を行ったということです」

 とある警察署の一室では、赤池と古屋、生方、そして榎本と甲斐が向かい合っていた。

 甲斐を罠にハメるような形で入手した彼のバッグの中からは、赤池が期待していたような阿部の血液は一切検出されなかった。甲斐を任意同行させて事情聴取を行おうとした赤池の失態だった。

「それは大変申し訳ありませんでした。ですが、我々としましては、甲斐さんが阿部さんの死に何らかの関わりを持っていると考えていまして──」

 榎本は溜息をついた。

「例の阿部武弘さんの事故死に関する疑義については、確認させて頂きました」

 赤池は苦笑いする。

「では、お分かりかと思いますけど、甲斐さんは阿部さんに対して──」

「事故でないことを証明できたとしても、依頼人が犯人であることの証明にはなりません。それ以前に、事故死への疑義も状況証拠のみで決め手にかけていると言わざるを得ません。洗濯物カゴの中身に関しても、阿部さんが酩酊状態だったためにそうした可能性は依然として否定できません。脱衣所のバスマットも、浴室のドアも、湯船の水も、阿部さんの倒れていた向きも、全てあなた方が依頼人を犯人だと決めつけたことでこじつけられているように見えますけどね」

「いや、そんなことは……」

 古屋が声を震わせるものの、反論の余地がないことも事実だった。榎本は生方を一瞥する。

「そこの科捜研の方も阿部さんの頭部の傷と死亡現場となった浴室の湯船の縁が一致していると分析されていますね。それが阿部さんが事故で亡くなった何よりの証拠ではないですか?」

 生方は下唇を噛んで黙ったままだ。赤池は考え込んでいた。そして、意を決して口を開く。

「甲斐さんは四か月ほど前に石膏とシリコンを購入しています。その材料があれば、阿部さんの自宅の湯船の縁の型を取り、同じ形状の鈍器を作成することもできます」

 甲斐は赤池を睨みつけたが、無言を貫いた。その代わりに榎本が呆れたような笑いを漏らした。

「それこそ根拠のない推定です。依頼人が阿部さんの自宅の浴室で湯船の縁の型を取ったという根拠を示せないのであれば、不当な疑いだと言えます」

「では、伺いたい」赤池は食い下がる。「甲斐さんは何のために石膏とシリコンを購入したのでしょうか?」

 榎本は隣の甲斐の方を向いて、赤池たちに聞こえないような声で短いやり取りを交わした。そして、甲斐に代わって返答した。

「趣味で石膏像を作ろうとして購入しました。ですが、うまくいかず、処分してしまいました」

 赤池たちは顔を見合わせる。赤池は脂汗の浮いた額を撫でつけて、鉛のように重い溜息を漏らした。


 赤池たちは榎本と甲斐を会議室に残し、逃げるように廊下に出た。

「どうするんですか……。万事休すですよ……」

 絶望に満ちた古屋の声が震えている。

「すがりつくな。俺も今必死で考えてるんだ」

 顔色の悪い赤池を見て、生方は込み上げてきた笑いを噛み殺していた。

「証拠を示さないと、最悪訴えられるかもしれん……」

 期待していた三つの証拠はいずれも確認することができず、それを確認しようとも甲斐の家の捜索令状を発行させようにも、現時点で裁判所を説得できる状況にはなかった。八方塞がりであった。

「あれ、ゾンビみたいな顔してなにしてるんですか?」

 唐突に声を掛けられて、茫然自失の赤池が振り向くと、冷めた目をした西山がそこに立っていた。

「に、西山くん?!」赤池は素っ頓狂な声を上げてしまった。「今日まで休みじゃなかったっけ?!」

「デスクにポケットWi-Fi忘れてたんで取りに来たんです。モバイルの通信制限でイライラしてるんで、辛気臭い顔を見せないで下さい」

 生方が警戒心を剥き出しにして後ずさりする。赤池は泣きそうな顔で西山に駆け寄った。

「西山く~ん! 助けてくれえ!」

「うわっ、なんですか。近寄らないで下さい、気持ち悪いから」

 古屋も希望を視線に込めて西山を見つめた。

「今、マズい状況なんです。赤池さんの勇み足のせいで……」

 赤池が心外そうに古屋を一瞥した。

「君も俺の考えに賛成してただろ」

 西山は舌打ちをした。

「まずは黙って下さい。古屋は私のデスクからポケットWi-Fi持って来い」

 古屋がうなずいて刑事部屋に飛んで行った。その背中を見送って、西山は深い溜息をついた。

「で、何があったんですか?」

「西山く~ん!」

「ええい、抱きつこうとするな、役立たず!」


 しばらくして、甲斐と榎本が待つ会議室に西山が赤池たちを引き連れてやって来た。榎本は援軍として姿を現した西山に目をやって、口の端を歪めた。

「示談交渉に来られたんですか?」

 西山は甲斐の向かい側の席に陣取って鼻で笑った。


※新里述による記述※

※「スローペース」ではなく、通常の新里述


 西山は甲斐の向かい側の席に陣取って鼻で笑った。

「いいや」

「では、何をお望みですか? まさかとは思いますけど、こちらの不手際でも指摘する気じゃないでしょうね?」

「いや、あんたらの手際は見事なもんだったよ。あの爺さんが余計なことをしない限りは、あんたがやったこともばれなかったはずだ。ただ……、この一件には俺も一枚噛ませてもらいたいと思ってさ。だから、ここに来たんだよ。まあ、あんたの返事次第だけどな」

「どういうことでしょうか?」

「つまり、こういうことだ――」

 西山はスーツの内ポケットに手を入れた。そして、何かを取り出してテーブルの上に置いた。

 それは拳銃だった。

「これを、どうするつもりですか? 銃刀法違反ですよ」


※私による記述※


 ここは完全なフリー演技だ。

 だから、新里述には厳しい注文だったかもしれない。

 西山はいきなりどうしたんだろうか? ものすごくやんちゃな野郎に成り下がってしまっているではないか。

 登場シーンが少なく、セリフ生成の材料が少ないことが原因だ。

 キャラクターブックに最低限の説明を書き入れておこう。


 また、AIには「脚注/オーサーズ・ノート」という項目もある。

 これは現在の状況などを記録できるというものだ。

 ここにも少し情報を入れておこう。


「脚注/オーサーズ・ノート」はキャラクターブックの情報を読み込むため、甲斐と榎本のキャラクターブックも入力しておく必要があるだろう。


●キャラクターブック

○西山

[西山:女性。優秀な刑事。]


○榎本

[榎本:女性。甲斐の弁護士。]


○甲斐

[甲斐:男性。阿部殺害の容疑をかけられている。]


○脚注/オーサーズ・ノート

西山が甲斐を追い詰めて阿部殺害の証拠を引き出そうとしている。

榎本は甲斐を弁護するために西山と対立する。

基本的には甲斐は発言をしない。


「脚注/オーサーズ・ノート」の最後の一行は、場合によっては削除したり復活させたりすることがあるかもしれない。


 おそらく、弁護士の前に拳銃を置いて迫った西山は「事情聴取で拳銃を取り出した刑事」としてニュースのネタにされるだろう。

 そうならないために、少しアシストをしてやらねばならない。



(前略)


 西山は甲斐の向かい側の席に陣取って鼻で笑った。

「甲斐さん、あなた、阿部さんに産業スパイだと疑われていたようですね」

 甲斐が顔をしかめるが、榎本が間に割って入る。

「あくまで亡くなった阿部さんの想像に過ぎません」

 西山はニコリとした。しかし、その目は笑っていない。

「ですが、阿部さんにスパイだと疑われたことで、あなたは


※新里述による記述※

※「スローペース」ではなく、通常の新里述


「ですが、阿部さんにスパイだと疑われたことで、あなたは仕事を失ったんですよね?」

「それは……そうですね。でも、私も彼には随分と迷惑をかけられました。彼がいなくなって清々しましたよ。それに、彼は私のことを女だからと見くびっていました。私は彼のことが嫌いでした。そんな人間と一緒に働くなんて無理ですよ」


※私による記述※


 いきなり甲斐が喋ってしまった。それも勝手に無職になってしまった。

 新里述は、弁護士が依頼人と警察との間に立って話をするという役割を知らないのかもしれない。

「脚注/オーサーズ・ノート」の最後の一行を修正しよう。


○脚注/オーサーズ・ノート(修正部分のみ)

榎本が甲斐の代わりに西山と会話する。


 おまけにもう少しだけアシストを追加しよう。



(前略)


「ですが、阿部さんにスパイだと疑われたことで、あなたは阿部さんを


※新里述による記述※

※「スローペース」ではなく、通常の新里述


「ですが、阿部さんにスパイだと疑われたことで、あなたは阿部さんを恨んでいたんじゃありませんか?」

 榎本は首を横に振った。

「私は、警察が犯人を突き止める手助けをするだけです。それは私の仕事ではありません」

「……そうですか」

 西山は目を細めた。


※私による記述※


「脚注/オーサーズ・ノート」はうまく機能したのかもしれないが、榎本は何を言っているのだ?

 それに、榎本が教科書の日本語訳みたいな喋り方になってしまっているではないか。西山に睨みつけられて緊張してしまったのだろうか?


 では、犯人を追い詰めるのに適任かもしれないクリエを呼んでみよう。


※クリエによる記述※


「ですが、阿部さんにスパイだと疑われたことで、あなたは阿部さんを恨んでいたかもしれませんね?」

 榎本は眉を上げた。そして、ゆっくりと口角を上げていった。

「えぇ、そうですね。確かに私は彼を恨んでいました。だからこそ彼の死にざまは私好みになりましたよ。まぁ、私の手柄ではありませんけど」


※私による記述※


 まずい。榎本が殺人犯になってしまった。それもとびっきりのサイコパスだ。

 依頼人の無罪を勝ち取ろうとする、ある意味で究極の弁護士だ。

 読みようによっては、甲斐の指示で榎本が阿部を殺した、みたいなすごい展開でもある。

 さすが自由な発想を持ったクリエだ。


 …いや、そうではないのだ。

 このままだと新里述は誰かれ構わずサイコパスしてしまう恐れがある。

 念のために、西山と榎本のキャラクターブックに、追記しておこう。


●キャラクターブック(追記分のみ)

○西山

西山:善良な人間。


○榎本

榎本:善良な人間。


 では、もう一度だけ新里述に登場してもらおう。


※新里述による記述※

※「スローペース」ではなく、通常の新里述


「ですが、阿部さんにスパイだと疑われたことで、あなたは阿部さんを恨んでいた可能性がありますよね?」

「それは……」

「証拠ならありますよ。あの晩、何があったのか、詳しく聞かせてください。私は事実を知りたいんです」


※私による記述※


「証拠がある」と言っておきながら「事実を知りたい」と詰め寄る西山はきっと情緒不安定だ。


 本来、ここで彼女はちょっとした心理戦を持ちかけているのだ。その心理戦は新里述にはまだ理解できないかもしれない。


 続きを見ていこう。

 文章量が増えるたびに、新里述がやりとりの予測能力を高めていくだろう。



(前略)


「ですが、阿部さんにスパイだと疑われたことで、あなたは阿部さんを殺してしまおうと考えたのではないですか?」

 榎本が机を叩いた。

「想像でものを言わないで下さい!」

 西山は榎本の剣幕に動じずに、ゆっくりと先を続けた。

「甲斐さん、あなたは阿部さんの自宅を訪れた際に湯船の縁の型を取って凶器を作った……」

「だーかーらー」榎本はバカにしたような笑みを浮かべる。「そんな証拠はどこにもないんですよ」

 だが、西山は意に介さない。じっと甲斐に視線を向けたままだ。

「事件当夜、あなたは阿部さんがワインを飲んで眠ってしまったのを見て、用意しておいた凶器で彼を殺害しようとした。その時に気づいたのです。その場で殴ってしまうことで彼の血がどこかに残ってしまうかもしれないということに。だから、阿部さんの自宅からゴミ袋を探し出し、彼の頭に被せて阿部さんを殺害した。その時に阿部さんの服に彼の頭から流れ出た血が付着してしまった。もともと、阿部さんが浴室で事故によって亡くなったことにしたいと考えていたあなたは、床に痕跡が残らないようにゴミ袋を敷いて、その上で阿部さんの服を脱がせた。血のついた服や凶器はゴミ袋の中に入れて持って帰ることにした。阿部さんの遺体を浴室へ運び、彼の衣服を洗濯物カゴに入れた。その際に、阿部さんの新しい服を探して来てカゴの中に入れたんです。そして、あなたは阿部さんの家を出た」

 甲斐は鼻で笑った。

「だから、証拠出してみろって言ってるだろ」

 榎本は慌てて甲斐を制止する。

「私が彼女と話しますので、喋らなくて大丈夫です」

 しかし、甲斐は止まらなかった。

「血のついた阿部さんの服は見つかったんですか? 僕が凶器を作ったという証拠は?」甲斐は赤池を指さした。「そこの刑事が持って行った僕のバッグの中に証拠でもありましたか?」

 榎本はハラハラした様子で甲斐がまくし立てるのを見守っている。西山はニコッと笑った。

「残念ながら、見つかってないですね」

 甲斐は満足したように背もたれに背中を預けた。

「僕は犯人じゃない。今回のことは不幸な事故だったんだ」

 西山はテーブルの上に両肘を載せて甲斐に顔を近づけた。

「事件当夜、あなたが阿部さんの家を出る時に


※新里述による記述※

※「スローペース」ではなく、通常の新里述


「事件当夜、あなたが阿部さんの家を出る時に、阿部さんの身に何か変わったことはなかった?」

「特に何もなかったよ」

「本当に? 何でもいいわ。思い出してみて」

「……あぁ、そうだね。強いて言えば、あの人は僕がワインを持って行った時、すごく機嫌が悪かったんだ。いつもは笑顔で迎えてくれるんだけど、その日は睨まれたよ。それから、僕はこのワインを飲みながら、何かつまめるものを作ってくれって頼まれたんだ。だから、冷蔵庫の中にあったものを使って料理を作ったんだよ。……うん、そうだった。確か、作ったのはチーズと生ハムだよ。でも、ワインのボトルと一緒にテーブルに置いたんだ」


※私による記述※


 二人の口調は置いておいて、冷蔵庫の余り物でチーズと生ハムを作るのは人間業ではない。

 だが、阿部の様子を聞いたのは、妙手だ。

 私の用意した次の展開では、こうなっている。



(前略)


 西山はテーブルの上に両肘を載せて甲斐に顔を近づけた。

「事件当夜、あなたが阿部さんの家を出る時に阿部さんは本当に生きていたんですか?」

 榎本が再びテーブルを叩く。

「いい加減にして下さい。不当な嫌疑です」

 甲斐は余裕綽々の様子で答えた。

「阿部さんは僕を見送ってくれましたよ」

「本当に? どんな会話を?」

「さあ」甲斐は苦笑いする。「覚えてませんけど、明日もよろしくとかそういうことだったと思いますがね」

「本当は会話をしていないんじゃありませんか?」

「しましたよ!」

 今度は甲斐がテーブルを叩く番だ。横の榎本が顔面蒼白で頭を抱えている。西山は首を傾げた。

「阿部さんはワインを飲んでいました。酔い潰れていたのでは?」

「だから、見送ってくれたと言っただろ」

「ひどい酩酊状態だったのでは? 会話もままならないような……」

「しつこいな、あんた……」甲斐も西山と同じようにテーブルに両肘を載せて身を乗り出すようにした。

「阿部さんは酔ってはいましたけど、会話はちゃんとしましたよ。でも、だからと言って浴室で滑らなかったという証拠にはならないだろ」

「阿部さんがそのタイミングでちゃんと会話ができるような状態ではなかったと思いますがね」

「なにを根拠に!」

 吐き捨てるように言って、甲斐は椅子に深く腰掛けた。西山はタブレットを取り出して、一枚の写真を表示させた。阿部の書斎で見つかった新品の万年筆を撮影したものだ。

「この万年筆は


※新里述による記述※

※「スローペース」ではなく、通常の新里述


「この万年筆は一本だけですよね。つまり、阿部さんの持っていたものということです。先程、鑑識課員が確認したところ、キャップの先端部分に血痕が付着しているそうです。傷口の大きさと一致しているようですね。これが凶器に使われた万年筆である可能性が極めて高いと思われます」

西山は甲斐に顔を向けた。

「それに、阿部さんが亡くなった状況からして、阿部さんはお風呂の中で頭を強打したと考えられています。浴室で転倒した際、浴槽の縁に後頭部をぶつけてしまった可能性があるわけですよ。浴室の床に阿部さんの髪の毛が落ちていました。浴室には脱衣所からしか入れないようになっています。脱衣所には甲斐さんの足跡がありました。浴室のドアが開いた状態でしたので、脱衣所からも浴室に入れてしまいます。甲斐さんは脱衣所で足を滑らせて、阿部さんが倒れている浴室の中に入り込んでしまったのではありませんか?」


※私による記述※


 万年筆で殴ると湯船の縁で頭を打ったのと同じ効果があるらしい。

 これは世紀の発見だ。

 甲斐が滑って阿部を運び入れた浴室に……なんだかロード・ランナーを食べようとするワイリー・コヨーテみたいな構図だ。悪いことは成功しない。


 例によって、ここでも新里述に甲斐を追い詰めさせるために少しずつ記述を増やしていこう。



(前略)


「この万年筆は阿部さんが一週間前に特注で作らせたものです。阿部さんはこれを仕事を共にした同僚にプレゼントしていました。しかし、あなたは


※新里述による記述※

※「スローペース」ではなく、通常の新里述


「この万年筆は阿部さんが一週間前に特注で作らせたものです。阿部さんはこれを仕事を共にした同僚にプレゼントしていました。しかし、あなたは左手首に腕時計をしている。阿部さんの万年筆には、左手首用の蓋がない。阿部さんは左利きです。左手でペンを持つ人が、わざわざ蓋のない万年筆を買うとは考えにくい。つまり、これは同僚の方への贈り物だったと考えられます。そして、阿部さんはこの万年筆を大事にしまっておくのではなく、書斎の机の上に出しっぱなしにして、仕事の時に使っていた。これがどういうことか分かりますよね。阿部さんは自宅では酒を飲まない人だということですよ。飲酒運転はできませんから。そうなると、入浴後に万年筆のインクが乾くのを待つ必要はありません。万年筆を持って浴室に行き、服を脱いで、そのまま湯船に浸かったはずです。阿部さんは、服を着たまま湯船に入るのが好きではなかったようですね。その証拠があなたの左腕についている腕時計です。あなたはいつも腕時計をしていらっしゃいます。阿部さんは腕時計をしませんでした。そう考えると、やはり、この万年筆は同僚の方に贈られたものだったと推測することができます」


※私による記述※


 私はこれを読んで頭がおかしくなりそうだった。

 ずっと気になっているのだが、なぜ新里述は服を着たまま風呂に入るというのが普通だと思っているのか?

 確かに、日本では古来、浴衣というのは、それを着たまま湯に浸かるのが通例だった。まさかとは思うが、そのことを現代社会の慣習よりも優先して採用しているとでもいうのか? AIなのに数百年前の風習に囚われているのか?

 好きなおもちゃを湯船に持ち込むのは、子どもの頃ならよくあることだ。しかし、大の大人がお気に入りの万年筆を持ったまま湯船に入るのは想像ができない。万年筆がダメになるではないか。


 ここは論理性と創造性を持つ鳥間のセカンドオピニオンを導入してみよう。

 何かが変わるかもしれない。


※鳥間による記述※


「この万年筆は阿部さんが一週間前に特注で作らせたものです。阿部さんはこれを仕事を共にした同僚にプレゼントしていました。しかし、あなたは違いますよね。これはあなたのものではありませんか?」

 甲斐は万年筆の写真を見て鼻で笑った。

「そうです。それは僕のものです。それがどうしたというんです?」


※私による記述※


 これは惜しいところをかすめた。

 少し加筆して、再び鳥間に登場してもらおう。

 これは新里述の全人格を総動員した総力戦だ。



(前略)


「この万年筆は阿部さんが一週間前に特注で作らせたものです。阿部さんはこれを仕事を共にした同僚にプレゼントしていました。しかし、あなたは阿部さんから万年筆を贈られていない。これがここにあるということは、阿部さんがあなたに


※鳥間による記述※


「この万年筆は阿部さんが一週間前に特注で作らせたものです。阿部さんはこれを仕事を共にした同僚にプレゼントしていました。しかし、あなたは阿部さんから万年筆を贈られていない。これがここにあるということは、阿部さんがあなたに渡すはずだった万年筆がどこかにあるはずです。それがなければ、あなたが犯人ではないということになります。これはどう説明しますか?」


※私による記述※


 あるっ!

 どこかじゃない、目の前にある!

 ゴルフのOKパットの距離でカップを外すようなものだ。

 はたまた、サッカーのゴール前一メートルで打ったシュートを外すようなものだ。


 なぜ目の前のゴールに素直に飛び込まないのだ?

 信じられないくらい結論までエスコートをしたつもりだぞ。



(前略)


「この万年筆は阿部さんが一週間前に特注で作らせたものです。阿部さんはこれを仕事を共にした同僚にプレゼントしていました。しかし、あなたは阿部さんから万年筆を贈られていない。これがここにあるということは、阿部さんがあなたにプレゼントしようとしていたから。そして、同時に、あなたが阿部さんの家を出る時には阿部さんが亡くなっていたことを示唆するものです」

「はあ? なに言ってんだ!」

 甲斐が吠え、榎本も反駁の姿勢だ。

「ちょっと待って下さい。なぜその万年筆が依頼人の──」

「甲斐さんは阿部さんに招かれて阿部さんのもとを訪れました。阿部さんの目的が


※新里述による記述※

※「スローペース」ではなく、通常の新里述


「甲斐さんは阿部さんに招かれて阿部さんのもとを訪れました。阿部さんの目的が甲斐さんの会社や仕事について探りを入れることだったとしたら、阿部さんが甲斐さんに贈り物をするはずがないんです。つまり、阿部さんは甲斐さんが家を訪れた時点ですでに死んでいたということです」


※私による記述※


 阿部が産業スパイみたいになっているではないか。

 甲斐が阿部の自宅を訪れた時にすでに阿部が死んでいたのなら、甲斐は死体のある部屋で食事をとったことになる。

 なんというサイコパス。

 新里述はサイコパスを生み出すのが好きなのだろうか?


 次こそは甲斐を追い詰める一手を放ってくれ。



(前略)


「甲斐さんは阿部さんに招かれて阿部さんのもとを訪れました。阿部さんの目的が万年筆を甲斐さんに渡すことだったのは明白です。しかし、それが阿部さんの書斎にあったということは、彼がこれを渡せなかったという何よりの事実を示します」

「だから、それが何なんだよ」

「あなたを招いた目的を果たさないまま、阿部さんは亡くなったんですよ。あなたは阿部さんの家を出る際に、阿部さんとごく普通に会話をしたと言いましたね。では、なぜ阿部さんはあなたに万年筆を渡さなかったんでしょうか?」

「知らないよ、そんなこと。忘れてたんだろ」


※新里述による記述※

※「スローペース」ではなく、通常の新里述


「そうですか。それならそれでいいんです。ただ、阿部さんはあなたに万年筆を渡すためにあなたの訪問を待っていました。そして、おそらく、待ちぼうけを食わされたのでしょう。甲斐さん、あなたが万年筆を忘れずに持っていれば、阿部さんは亡くなることはなかったはずですよ。これは、つまり、そういうことです。甲斐さん、あなたが阿部さんを殺したんです」

「……ああ、そうだ。オレが殺した。これで満足か!?」

「はい。ありがとうございます。おかげさまで真実を突き止めることができました」


※私による記述※


 物凄い力技で結論をぶち込んでくるではないか。

 どこにも刑事と犯人のやり合いが記されていないのが残念だ。

 甲斐も榎本ももう少し粘ってほしい。



「(中略)~。なぜ阿部さんはあなたに万年筆を渡さなかったんでしょうか?」

「知らないよ、そんなこと。忘れてたんだろ」

「これを渡すためにあなたを呼んだのに? これに十万円弱もかかったというのに? さっきあなたに念を押して確認しました。あなたが阿部さんの家を出る時、彼はひどい酩酊状態で会話もままならなかったのでは、と。しかし、あなたはそうではないと言った」

 甲斐が顔色を変えて、返す言葉を失ってしまった。榎本が必死に応戦する。

「阿部さんが万年筆を渡さなかっただけで、依頼人が彼を殺したことにはなりません」

「ならないでしょうが、甲斐さんに渡すために用意したものを阿部さんが渡さなかった理由はなんですか?」

 甲斐が狼狽しながら思い出したように口を開く。

「ああ……、思い出した。食事の途中で喧嘩になって……。僕はそれで家を出たんでした」

 榎本が万策尽きたという感じで額を押さえた。

「阿部さんの死には不可解な点が多い。最後に会っていたあなたが阿部さんと口論をしていたのなら、あなたが阿部さんの死に関与していた可能性は無視できないほど大きなものになります」

「いや、違う!」甲斐は慌てて首を振った。「記憶違いだ! 阿部さんが渡すのを忘れただけなんだ!」

「阿部さんはあなたを産業スパイだと疑っていました。しかし、それが間違いだと感じて、せめてもの償いとして、そして和解の印としてこの万年筆を贈ろうとしていたのだと思います」

「いや、違う。殺したのは僕じゃない……!」

 西山は鋭く目を細めた。榎本が小さく「ああ……」と嘆息した。

「『殺したのは』? では、誰が殺したんですか? 阿部さんが死亡したと思われる時間帯のマンションの防犯カメラには、あなた以外の出入りは映っていません」

 甲斐は頭を掻き毟って、テーブルを拳で叩いた。



 最後まで新里述は犯人を追い詰めるというポイントを外し続けた。

 犯人の逃げ場を少しずつ削っていき、最終的に追い込むというのは弁論術のスキルだ。弁護士などの司法の世界に生きる人間には必須の能力と言っていい。それだけに、高度な戦略が必要だ。

 今回は少し複雑な結果を要求しすぎてしまったのかもしれない。


 これは失敗ではない。

 この積み重ねが事件を解決するAIを生み出すことに繋がるのだ。



 戦いは終わった。

 しかし、西山は鋭い眼光を甲斐へ向けたままだ。

「産業スパイだと疑われて阿部さんを殺害したということは、あなたは福薗製薬の情報を手に入れようとしていたのではないですか?」

 甲斐はびくりと体を震わせた。西山は甲斐の隣の榎本に涼やかな視線を送った。

「あの福薗製薬と争うのは骨が折れそうですね」

「冗談じゃないわ!」

 榎本はそう吐き捨てて会議室を出て行ってしまった。それを見送って、西山は甲斐に顔を寄せた。

「あなたが手に入れようとした情報は何?」

 甲斐は怯えたように首を振った。

「僕は喋らない……! 絶対に喋らない!」

「言いなさい!」

 ずっと見守っていた赤池が、怒号を発する西山を止めに入る。

「西山くん、それ以上はもうやめろ」

 珍しく感情を露わにした西山の脳裏に、妹の舞奈(まいな)と交わした昨日の会話が蘇る。


 墓参りを終えて、西山は舞奈と実家のあった場所へ向かった。

 もうそこには別の家が建っている。

「この辺りは全然来ないから、もはや違う街だね」

 舞奈が寂しそうに呟いた。西山もうなずく。

「この辺りで昔は遊び回ってたのにね」

「お父さんってさ」舞奈が探りを入れるような声で言った。「探偵だったんだよね?」

「そうだけど、あの頃はあんたも物心ついてたでしょ?」

「いや……、なんとなく、本当にそうだったのかなって思っててさ。この前、お父さんの遺品を入れてる段ボール箱の中をちょろちょろって見てたんだよね」

「またあんたは勝手に……」

 姉妹二人暮らしの家だ。西山は呆れたが、強く咎めることなどしなかった。お互いの間に隠さなければならない秘密などないからだ。

「お父さん、最後は福薗製薬に関わることを調べてたんでしょ? 気にならない? 大企業じゃん」

 西山は自分に似て好奇心の強そうな舞奈の瞳を一瞥した。

「あんたは首を突っ込まなくていいのよ」

 歩き出す西山の背中で、舞奈は奥歯を噛んだ。

「気になるじゃん。だって、お父さんを殺した犯人は捕まってないんだから……」

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