Vacancy

増田朋美

Vacancy

もう今年も少しで終わろうとしているのに、暑いと思われる日々が、続いている。全く今年は、寒いという言葉は皆無なのではないかと思われるくらい暖かい日が続いているのだった。なんとかしなければと叫ぶ人もいるのだが、大概のひとは、それに従うことができないで、いつもと同じ生活を続けているしかないのであった。

その日、杉ちゃんとジョチさんは沼津市内で行われている展覧会を拝見するため、沼津市にあるコミュニティセンターにでかけた。その日は、運転手の小薗さんが家の事情で休んでいたため、二人は駅員に助けてもらいながら、電車で出かけることにした。沼津駅で、駅員に電車に乗せてもらって、順調に片浜駅、原駅、東田子の浦駅、と、停車していき、吉原駅近くまで来たときのこと。ガタンと音がして、電車が突然停まった。

「ただいま、線路内に異物を発見いたしましたため、撤去作業をしております。申し訳ありませんが、しばらくお待ち下さい。」

車掌の間延びしたアナウンスで、線路になにか変なものがあったのかということがわかった。そうなったら、我慢して待つしかない。周りの客も、とりあえず待っていた。

ところが、電車の異物撤去は、予想以上に時間が、かかってしまって次第に客はイライラし始めた。流石に杉ちゃんが、イノシシでも、線路に入ったかなあ?というと、隣の席に座っていた女性が突然ぎゃーっという叫び声をあげて、怖い、もう帰れないと叫びだした。彼女は、持っていたカバンにヘルプマークをつけていたから、そういう事情のある女性なのだろう。 

「あのお客様、他のお客様から苦情が出てますので、、、。」

年若い車掌が声をかけても、彼女の表情は変わらないし、車掌が話している言葉が通じているのかも不詳であった。おそらく、こういう女性を車掌は一度も見たことがないようだ。それはそうだ。こういう女性が、電車に乗るなんて、めったに無いだろうし。それもたった一人で。

「車掌さん、こういうときは餅は餅屋です。専門家を呼びましょう。」

ジョチさんが、車掌さんにそう声をかけた。

「そうですか。では、ドクターコールしましょうか?」

車掌さんがそう言うと、

「いえ、それをしても、無駄だと思いますから、僕の知り合いに医者がいます。彼に来てもらいましょう。大丈夫です。怪しいものではありませんから、安心してください。」

ジョチさんはそう言って、スマートフォンを出して電話をかけ始めた。私また入院するの?なんて言っている彼女に、杉ちゃんは、お前さんの持っている恐怖を薬で和らげてあげるだけだといって、彼女をなだめていた。

「今、連絡が付きました。影浦先生、こちらに来てくれるそうです。吉原駅に停車したら、彼女をすぐに降ろしてあげてください。よろしくおねがいします。」

と、ジョチさんは車掌さんに言った。

「大丈夫だ。お前さんを無理やり入院させるとか、そういう事をする人じゃないから、安心してね。」

杉ちゃんはにこやかに笑って、彼女に話した。そうこうしているうちに、一台のタクシーが線路脇に到着した。白い十徳羽織に、茶色の袴を履いた、一昔前なら医師とすぐわかる影浦千代吉が、それを降りた。ジョチさんは、彼女の手をとって彼女を電車から降ろした。

「はじめまして。精神科医の影浦千代吉です。パニックになっている方がいらっしゃるそうで、こさせていただきました。まずはじめに、あなたのお名前を仰っていただけますか?」

影浦は彼女に声をかける。

「は、ははい。長島実花と言います。」

と、彼女は、小さな声で言った。影浦は彼女のヘルプマークに書いてある名前と住所を見て、

「長島実花さんですね。ご住所は、富士宮市小泉。連絡先は、、、。」

というと、実花さんは、なんでこんなにと言って泣き出してしまった。

「大丈夫です。すぐにご家族に連絡を取ることはしません。大丈夫です。まずは、落ち着きましょう。これを飲んでいただけますでしょうか?」

影浦は、大粒の安定剤を彼女に見せた。

「私、この人が一緒に来てくれるなら飲みます。」

といって、杉ちゃんを彼女は顎で示した。

「わかりました。じゃあ、彼にも来ていただきます。それではお三人さん揃って行きましょう。僕が、大型のタクシーをとります。」

影浦がそう言うと、タクシーの運転手は理解してくれたようで、すぐに電話で連絡を取り始めた。タクシーの運転手もそういう人に理解ある人だったらしい。その間に、ジョチさんは車掌さんと協力して、杉ちゃんを電車から降ろした。その間にも、電車と衝突した落下物を処理する作業が続いていた。なんでも、大きなものだったらしい。そして、彼女は、やっと影浦や杉ちゃんたちを信じてくれたらしく、薬を渡された水で飲んでくれた。

もう一台のワゴンタイプのタクシーが到着すると、杉ちゃんと、ジョチさん、そして影浦と長島実花さんは、ワンボックスタイプのタクシーに乗り込んだ。運転手に、よろしくお願いしますと言って、とりあえず、影浦医院に行ってもらうことにした。影浦医院は、吉原から近く、数十分で着いた。

とりあえず、影浦医院の診察室に入って、実花さんは、静かに寝てもらうように、まずはじめに処置室へ連れて行って、横になってもらった。もう落ち着いていたらしく、すぐに指示に従ってくれた。

「じゃあ、まずはじめに、お茶を飲んでくれるかな?これで飲んで見てくれ。」

杉ちゃんが、お茶の入った湯呑を、彼女に渡した。彼女は、ハイと言ってお茶を飲んでくれた。

「良かった。お話は通じているみたいだねえ。で、お前さんはどうして、電車の中でパニックになったのかな?なにか、行けないことでもあったのか?」

杉ちゃんがそうきくと、

「はい。そうですね。よくわからないんですけど、感情がすごく湧き上がってきて、苦しかったんです。」

と、彼女は答えた。当事者に聞いても得られる答えはこういうことだろう。それを責めてもいけないのである。

「で、お前さんは、何があったんだよ。なんで、そんなふうに、感情が湧いてきて、困ってしまったんだ?電車が止まったからか?それとも、なにか別のことか?」

杉ちゃんがまた聞いた。もし、混乱している人に話しかけなければならないときは、本人に答えを考えさせるのではなくて、本人に選択肢を与えると良いのである。そうすれば彼女だって、あまり苦しまずに済む。

「ええ、電車が突然止まって。」

と、彼女は言った。

「わかりました。あの電車が止まったのは、鹿に衝突したからだそうです。最近多いですね。この間も、御殿場線で同じ様な事故がありました。まあ、仕方なかったとはいえ、あなたのような方は、さぞかしびっくりしたでしょうね。」

ジョチさんが、スマートフォンをしまいながら、そういう事を言った。

「そうだったんですか。ごめんなさい。私パニックになって、もうどうしようもなかったんです。ごめんなさい。それでは私、確実に入院になりますよね?」

女性は、申し訳なさそうに言った。

「いいえ、そんな事はありませんよ。ちゃんと答えが出ましたし、薬もしっかり飲んでいただけましたから、入院にはなりません。その程度のことで、入院させていたら、病院がいくらあっても足りませんよ。」

影浦が優しくそういう事を言った。

「今、ご家族にも連絡しておきました。まもなく迎えに来てくれるそうです。大丈夫ですよ。あなたがしたことは、例えば急に心臓が苦しくなったのとおんなじだと考えれば良いんです。転んで足を折ったのと同じとも言えるでしょう。最も、そのとおりだと考えてくれる方が少ないのが問題ではあるのですけど。」

「そうですね。誰でも自分はOK、あなたもOKと考えてくれれば、少し、あなたの様な病気の方も減ってくれるんじゃないでしょうかね。特に、若い女性に増えているのですが、自信がなくて、他人に尽くそうとしているために、病気になってしまう方が多いのですよ。本当はそういう優しい感性がある女性を、もっと大事にしてほしいと思うんですけどね。まあ、国家的な弱点というか、そういうことですよね。」

ジョチさんが、政治に関わる人間らしくそういう事を言った。

「あの、すみません、実花の母親ですが。」

と、影浦医院の外で声がした。影浦は、急いで椅子から立ち上がり、お母さんに挨拶に言った。

「お母さん、また叱るのでしょうか?」

実花さんは、申し訳無さそうであった。

「大丈夫です。お母さんには、叱らないように影浦先生が言ってくれると思います。というか、足を骨折した人を誰が叱るでしょうか?それと同じだと影浦先生も言ってましたよね。同じだと思って、受け入れるしか無いと思いますよ。あなたもそうじゃないかな。」

ジョチさんは、急いで言った。

「だったら、私、結局また叱られますよね。」

「いえ、そうしないためにも、新しいことを始めましょうと、日野原重明先生も言っています。もう年だから恥ずかしいとか、今更始めてもなんて思わなくてもいいです。あなたがなぜ、病気になった原因はわかりませんが、それに対処するには、結局は新しいことを始めて、新たな世界に入るしか無いと思います。結局、人間にできることはそれしか無いんですよ。生物は後ろへ進めないという歌詞もありますからね。そのとおりに、動くしか、できないんですよ。だから、あなたも、なにか新しい世界に入ってくれるといいですね。」

ジョチさんは、そういう彼女に、そう言葉かけた。

「ありがとうございます。多分、私が言うことなんて信用してもらえないと思うけど、でも、何かできるようにがんばります。」

彼女は申し訳無さそうに言った。

「だから、できるようにとか、いつか必ずとか、そういう事言うから困るんだ。そうじゃなくて、どうせ、お前さんは今のままでいても、何もできなくて困るだけだろう。そうじゃなくて、今すぐ新しい事を始めるの。それに、引きこもりだったお前さんがなにかをしたいって口にしてくれたら、親御さんも喜んでくれるんじゃないかな?」

と、杉ちゃんがでかい声で言った。

「逆にそれをしなければ、何も変われないで惨めな人生しか送れないということだ。やっぱり、自分の意思で、自分で人生変えなくちゃね。それは、全部のことを変えるということをしなくていいんだよ。ほんの一部だけ変えるだけでいいんだ。ちょっとだけ、気分を変えて、行くだけの居場所があればそれでいい。それで、お前さんはかなり救われると思うよ。それを、忘れないでね。」

「実花、何をしているの。ご迷惑をかけないで、帰るわよ。」

お母さんが実花さんを迎えに処置室へやってきた。ジョチさんが、それでは行きましょうと言って、実花さんの手を取った。実花さんは、にこやかにハイと言って、お母さんの方へ歩いて行った。

「ありがとうございました。本当にご迷惑をかけて申し訳ありません。」

「もし、可能でしたら、精神科系の大病院に一度行ってみても良いと思います。そこであれば、適切な医療を受けることができると思います。」

影浦がそう言うと、お母さんははい、ありがとうございますと言って、二人は、一緒に自宅へ帰って行った。もうその時には、日が落ちていて、真っ暗になっていた。

それから数日後。杉ちゃんとジョチさんは、製鉄所の利用者の女性が、少し体調が悪いと言うことで、小薗さんの運転で、近くにある、精神科の大病院に行った。そこは富士市内でも有数の病院で、頭がおかしくなったら、大渕へ行けと言われるほど有名なところだった。とはいっても、患者さんがあまりに多いので、一時間は待たされることは覚悟していた。そうなることは知っていたので、杉ちゃんたちは、彼女を連れて、病院にあるカフェスペースでお茶を飲んでいた。

すると、診察室から、ガラッと引き度が開いて、

「ありがとうございました。じゃあ、また来てください。」

という、医師の声と一緒に、お母さんに連れられて、長島実花さんが現れた。

「実花さんじゃないですか。どうしたんですか。ああ、あの影浦先生が言われたとおり、こちらに来られたんですか?」

とジョチさんが言うと、

「あ。こないだ、電車の中でお会いしましたよね。確か、お名前は、」

と、実花さんはにこやかに言った。

「ええと、僕は影山杉三であだ名は杉ちゃんだ。こっちは、僕の大親友の曾我正輝さん。あだ名はジョチさんと呼ばれている。」

杉ちゃんがそう言うと、

「そうですか。なんだか似合わないあだ名ですね。もっと堂々としても良いと思ったのに。」

実花さんはそういった。ということは、古代文明とか、パックスタタリカのことについて、少し知っているのだろう。ちなみに、ジョチというのは、ジンギスカンの長男につけられた名前で、意味は部外者という意味である。

「まあ、その事は特に言及する必要はありません。あれからどうですか?お体のほうは。体調を崩してしまった事は、ありませんか?」

ジョチさんがそうきくと、

「ええ、近くにあったクリニックから、こちらの方へ通わせていただくことになりました。お陰様で薬の調性もしてもらって、今は落ち着いて生活できています。」

と、実花さんは答えた。

「そうなんだね。なにか新しい事を始めようという気持ちにはならなかったの?なにか、はじめてほしいなと思ったんだけど?」

杉ちゃんがそう言うと、実花さんは、小さくなってしまった。

「そういうことですか。本当は、なにか始めてほしかったんですけどね。」

ジョチさんがそう言うと、

「本当は何をしたらいいのか、わからないんです。私に何ができるかもわからないし。好きなものや、やりたいこともなかったし。学校で友達もいたわけじゃないので。」

と、実花さんは言った。それを見ていた製鉄所の利用者が、

「好きなこととか、楽しい事とか、子供の頃、覚えてないの?」

と実花さんに聞いた。

「ええ。何も覚えてないんです。だって、子供の頃は、いい学校に行けば、やりたいことは何でもできるからって、部活も入らせて貰えなかったし。なんにも覚えてないんです。やりたいことやるよりも、家族を喜ばせて、いい点数取る方が先だって、学校の先生もずっと言ってました。」

実花さんは、細い声で言った。

「そうなのか、なんかそれだけでは寂しいなあ。例えば高校のときは、野球漬けだったとか、そういう楽しかった記憶は何もないの?」

杉ちゃんがそう言うと、

「ありません。私はただ、家族が喜んでくれるのを見るのが嬉しくて、勉強しかしませんでした。それが一番正しい生き方だって、学校の先生も仰っていました。」

と、実花さんは答えた。

「それに、いい学校に行けば、やれることはやれるからって。」

「うーんそうだね。それは、たしかにそうなんだけどねえ。だけど、自分のやりたいことがつかめなかったんなら、その人生は無意味ということになるよ。やりたいことも何も無いでは、なんにも存在している意味がないでしょ。そうじゃなくて、学生の頃っていうのは、部活に打ち込みすぎて、成績は最悪っていう学生のほうが多いんだよ。」

杉ちゃんが、実花さんに言った。

「でも、彼女の気持ちがわからないわけでもないな。親はテストの点数が良ければ喜ぶし、それなりに期待をするし、私は馬鹿だったから、放置されっぱなしだったけど、彼女が、親を喜ばせようと一生懸命やって、結局何もできないで終わっちゃったっていう空虚感は、あたしもよく分かるわよ。まあねえ、学生の時は、それで当たり前に見えちゃうけど、本当はね、自分のやりたいことにやりすぎるくらいやったほうが、若い時なのよね。あなたも、それで、躓いちゃったのね。」

と、製鉄所の利用者が、先輩格のようなことをいい始めた。そういう事はやっぱり、経験した人でなければわからないだろう。同じことを経験した人の話くらい、悲しみを和らげてくれるものは無いのである。

「もし、やりたいこと見つからないんだったら、何でもいいわ。学校の授業でやってた音楽でも美術でもやってみるといいわよ。あたしは、そこからやりたいことを見つけた。今は、そういうことが学べるカルチャーセンターとかもあるから。大丈夫。焦らないでゆっくり探してね。」

「お前さんは今日はいいこと言うな。」

杉ちゃんが、その利用者の顔を見てにこやかに言った。

「まあねえ、あたしも、やりたいことも何もなくて社会に出てしまって、結局病気になっちゃったけど、ホント人間って、やれることが無いとだめだとつくづく思ったわ。やっぱり机の上で書いてるだけのことじゃ、何も身につかないわね。ただ試験の点数取ればそれでいいなんていう生活は、大間違いよね。もっと早くそれに気がつけばよかった。あたしもさ、時々、不安がドッと押し寄せてくることがあってね。こうして、病院に通っているんだけど、それは、あたしが、悪い方へ行かないようにするための道具だと思ってるのよ。病気になれて良かったなんて事は言えないけど、でもあたしは、それでちゃんとやりたいことやろうって気持ちになれたのは間違いないわよ。」

利用者は、自信はなさげだったけど、でも、彼女を励ますように言った。こういう言葉を言えるのも、利用者ならではだろう。そうやって一度躓いているから、本当のことが、見えてくるのである。本当の事を知らないで、おとなになってしまうから、しっかりとした理由もわからないし、ただやらせるだけ、期待するだけのおとなになってしまうのである。

「わかりました。あたしも、なにかやれることを、探してみます。」

と、実花さんは、決断したように言った。

「何も焦らないでいいんですよ。静かにゆっくり探してください。」

ジョチさんは、彼女を励ました。実花さんは、ありがとうございます、と言って、お会計を済ませるために、別の待合所へ行った。彼女の背中を見て、杉ちゃんたちは、なんだか本当に空虚な人だなと思ったのだった。実花さんに、もう少し、自分だけの色を持つことができたらどんなにいいだろう。





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Vacancy 増田朋美 @masubuchi4996

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