偽装カップルの本心⑥
「好きだよ」
すらりと口にできたことに、我ながら驚いた。
しかし、誰よりも仰天していたのは一稀だ。兄ちゃんは微笑ましい顔になっているし、京夏も聞き入れの体勢ができていた。
もっとも予期していなかったのが一稀だろう。ぽかんと大口を開けて、俺を見上げている。間抜けな面すらも可愛いと思えたら、それはもう正直な言葉になるしかない。
「分かった」
「ちょ、ちょっと待って、待って……薫」
「なんだよ」
あっさり頷いた京夏は、ただの意地だったのだろうと今になれば分かる。一方で、納得に納得できていないのが一稀だ。泡を食って、俺へ突っかかってくる。胸板に縋りついてくる勢いは苦々しい。
「だって、」
「嘘は言ってないだろ?」
「っ」
ぱくぱくと金魚のように口を開閉させる。頬は薔薇のように色付いていったが、それは羞恥なのか焦りなのか怒りなのか。何なのかさっぱり分からない。とにかく、動乱していることだけは鮮明に伝わってきた。
「一稀、落ち着けよ」
そんなことを言われても、とても。
と訴えかけるのがよく分かる。両肩に手を置いて、ぐっと押さえつけることで物理的に落ち着かせた。一稀はそれでも突っかかってくる身体の勢いを止めきれないようだ。踵を浮かせたり爪先を鳴らしたりと、忙しない行動をしている。
「悪かったって、他の人に言って」
「そういうことじゃなくて……!」
「二人だけの秘密だったのにな」
愕然とした一稀の頭を撫でて、その場を濁した。
このまま一稀に詰められると、せっかく納得した京夏の疑念を蒸し返す羽目になってしまう。そんなことはごめんだ。気持ちを正直に伝える以上に、京夏を説得する術など持っていない。兄ちゃんに補助してもらったって、そう効果的なものはないだろう。
「そういうわけだから、もういいか?」
「疑ってごめんね、野上さん」
一稀からは気持ちを聞いていない。京夏はまだ攻め込もうと思えば、責められる部分がある。だが、それには気がついていないようだ。
爪が甘いのが京夏クオリティだった。その手落ちはこっちには都合がいいが、一稀のほうがよっぽど手落ちで話にはならない。返事もできやしないのだから、重症だ。
「もういいよ。ダブルデートも終わりでいいか。あれがいるかもしれないし、一稀を送ってく」
「俺たちも帰るから、一緒でいいだろ?」
兄ちゃんがごく自然な成り行きとして加わってくる。俺と一稀の関係には口出しをしない不干渉さに感謝を捧げておいた。兄ちゃんがこの調子なら、京夏が手落ちに気がつくことはないだろう。
「……二人にさせてくれ」
親族に彼女との二人を求めるのは、こっぱずかしい。しかし、今は躊躇している場合ではなかった。
はっきりと告げると、兄ちゃんは隠さないからかいの笑みを浮かべる。いたたまれなさは天元突破だが、どうにか捻じ伏せた。一稀との時間を取るほうが肝要だ。
そうして了承を受け取った俺たちは、ダブルデートから解放された。京夏も兄ちゃんに影響されたのか。にやにやしながら去って行った。
納得はしてくれたのだろう。そこは安堵できるが、手のひらを返したようにからかわれる確率が上がりそうだった。杞憂ではなく、確かな忌避感だ。それを抱かせるほどの笑顔であった。それに対して胸が痛まないことだけが、報酬だったかもしれない。
去って行った二人を見送って、一稀と二人きりになる。その瞬間、一稀は強い眼差しを寄越した。
「どういうつもり?」
「ああ言うしかなかっただろ」
「正直に言ってって言ったじゃん。西城さんに嘘つかなくてよかったんだよ」
語るにつれて、鋭かった視線が揺らいで泣きそうな顔になる。
「……嘘を言ったつもりはないよ」
一稀は茫然自失として、俺の胸に手をついた姿勢で固まった。勘の良い頭が高速で回っているのだろう。それでも回答は出ないようで、石化してしまったまま動かない。
「共犯者として、嫌いではないだろ」
「……へりくつ、じゃん」
へろへろと脱力したように拙い音が鳴る。それから、一稀はその場に座り込んでしまった。本当に驚かせてしまったようだ。
「大丈夫か?」
言いながら、腰を屈めて顔を覗き込む。俯いていた顔が持ち上がって、一稀は威勢を取り戻した。
「馬鹿!」
昼食時に言った甘酸っぱいものとは、響きがまるで違う喝破だ。そして、ぽかぽかと胸板を叩かれてしまう。その力は言葉に比べるとずっと弱い。戯れのようなそれを掴まえて、そっと立ち上がった。
「分かったから、移動しよう。こんなところで座り込まないでくれ」
引き上げると、一稀は不満を隠さないままに立ち上がってくる。そのまま手を繋いで、モール内にあるベンチに腰を下ろした。
本当はもう少し隔離された空間にいられるほうがいいが、連れ出すまで一稀が我慢してくれるかは怪しい。言いたいことが山のようにありそうなことは、ひしひしと感じる。そして、その証左であるかのように、腰を落ち着けるや否や口を開いた。
「よかったの? 西城さんを大事にしてたんじゃないの?」
好き、と言わないことに意味はあるのだろうか。意識などしてくれているのであれば、少しは心が浮き足立つ。
「いいんだよ、それは。もう」
「……強がりじゃないよね?」
「一稀は心配し過ぎ。忘れられてるって言っただろ? そう何度も確認しなくても大丈夫だって」
「でも、だって、忘れられるようにってほどだったんでしょ」
「そんな場合じゃなくなったからな」
「ごめん」
「謝って欲しいわけじゃないし、気にしなくていい。すっきりしてるから」
自分でも意外だ。
たとえ、一稀のことであろうとも、京夏を前にして好きと口にすることがこうも簡単に行えるようになるとは不思議な気持ちがする。ずっと不思議であったけれど、こうしてぶち当たってみるとどこまでも奇っ怪だ。
いつの間に、一稀にこれほど心を預けるようになっていたのだろうか。
「……失恋相手だよね?」
「傷心が延々に続くわけじゃないだろ?」
「……彼女、役に立った?」
そのためだ、と伝えてある。そのことを思い出したのだろう。
一稀がそろそろと首を傾げた。堂々と告げないのは、やっぱり心配が拭えないのだろう。どこまでも優しい。そんな一稀にどれだけ救われてきたことか。当人が気付いていないことが、より一層心根の優しさを際立たせる。こちらまでも優しい気持ちにさせるほどだ。
俺は身体の後ろに手をついて、背を反らした。吹き抜けになっている天井は遠い。店内の照明は家電よりも眩しくて、きらめいている。爽快な景色が、心境を現しているかのようだった。
「一稀がいなきゃ、こうなってなかった」
「それなら、よかった」
「ああ」
万感篭もった相槌に、一稀は納得しつつも困惑を隠しきれてはいない。
感情の整理がついたことには、納得してくれたのだろう。だが、それで好きだと明言することには納得できていない。それを推察することはできた。
これくらいであれば、読むことができるようになったことが誇らしい。だが、分かったところで、まともな対応策は浮かびやしなかった。
喧騒のただ中にあって、静かな時間が流れる。決して、情緒のある状態とは言えない。しかし、その緩やかな空気の中に沈み込むのは、悪い気分ではなかった。むしろ、気を抜いて呼吸ができる。ただ、これは物事が回収されるまでの束の間の休息でしかなかった。
一稀はほうと息を吐き出したかと思うと、同じくらい音を立てて息を吸い込んだ。
「私も、好きよ」
どくんと跳ねた心臓は、そのまま肋骨を折って飛び出していきそうだった。呼吸ができない。身体の芯から熱が滾って肌を焼く。その熱がどこに放出されるか分からなくて、動けない。
俺が周章狼狽している姿を見て、一稀は調子を取り戻したのか。不敵な笑みで俺を見つめた。
ふっと音を立てて笑い、肩へと頭を預けてくる。彼女然とした行動で、香りや肉体の柔らかさがもたらされた。その衝撃で、ようやく身動ぎができる。ぎぎぎと鈍い音を立てながら、そばにある一稀の顔を見た。
こちらを向いている顔は、穏やかで、綺麗だ。俺は観念して顔を逸らし、片手で顔を覆った。
「……勘弁しろよ」
「自分がしたんでしょ」
「悪かったよ、心臓に悪い」
「そうだよ! 本当にビックリしたんだから」
ぷりぷりと怒る声が、耳元で聞こえる。狼狽や緊張などはすっかり忘れ去ったらしい。怒り声ではあるもののいつも通りの明るい音で安心した。怒られているというのに、何とも悠長なことだろう。
「聞いてるの? 薫」
肩口というか首筋というか頬骨の辺りというか。その辺りにぐいぐいと頭突きを食らわせてくる。無視し続けることもできず、顔を覆う手を退けて、一稀のほうを見た。
俺がそちらを向くと思っていなかったのだろう。俺の身体に懐いていた一稀との距離は、今までで一番近い。唇がくっつかなかったのは、むしろ事故だった。お互いに息をつめて、そのまま止まる。
「……ビックリするだろ」
妙な引力に引き寄せられて、動くことができなかった。下手に動いてしまうと触れ合わずにはいられないのではないかという危機感が、動きを抑制する。
「先に驚かしたのは薫でしょ」
一稀も同じように思っているのか。それとも、意固地になっているのか。離れていくこともなく、至近距離で声を潜めて交わし合った。
「近いよ」
「一稀がじゃれついてくるからだろ」
「薫がこっちを向いたからでしょ」
相手に罪をなすりつけあう。その間も離れていかない。
イルカショーで近付いていたときと同じだ。他のすべての物音が遠のいて、一稀のことしか目に入らない。周囲から注目されているだろうことは思考の隅にあったが、それでも優先順位は変わらなかった。
「離れればいいだろ?」
「好きなんだから、いいでしょ」
「そういう意味じゃないだろ」
「薫だって」
多分これは、意地にもなっている。勢いというのは恐ろしい。
寄ってくる一稀の頬に手を添わせる。脈拍が届いてしまうのではないか。それくらいに、身体の内側がうるさい。それでも気持ちは凪いでいる。そんな奇妙な体感があった。
「……どこまで考えてるんだ」
「薫に任せるって言ったでしょ」
「見せつける必要ないぞ?」
「薫の部屋でだってそうだったでしょ?」
そばに触れ合う体温が、あのときを想起させる。静かに共有した気持ちと抱擁は、心地良かった。あの不思議な時間が、蘇ってくる。
「いいのか?」
一稀は何も言わない。俺を見る琥珀は、潤んだ光をたたえていた。俺はそこへと近付く。そうして、顔を傾けた。
「好きだよ、一稀」
抱きしめてから、耳元へ吹き込んで離れる。ぐわっと真っ赤になった一稀がおかしくなって、喉を鳴らして笑った。ずっと握られっぱなしだった主導権を奪い返せたような爽快感がある。そうして余裕をぶちかましていたのがよくなかったのだろう。
「ねぇ、薫?」
と声をかけられた。
それは、いつか、どこまで平気かと言ったときと同じ呼びかけだ。
そして、俺が答えるよりも先に、衝撃が頬にぶつかってくる。一稀の唇がリップ音を鳴らして離れていった。柔らかくて甘い。その余熱に指先で触れる。
一稀は強気で不敵。満開の笑顔を浮かべてこちらを見ていた。
「好きだよ、薫」
ちっとも躊躇のない。快活な声が凛と響く。
その真意にこだわるつもりはない。俺たちは共犯で、同じ気持ちを持っている。その事実だけが分かっていれば、それでいい。
その中で、一稀が憂いなく笑っていられるのならば、それだけで良かった。
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